第4章 レイヤの誕生

目次へ 第1章へ 第2章へ 第3章へ 第4章へ 第5章へ 第6章へ 第7章へ 第8章へ

  二千二十九年六月四日、アイリストA棟の学生室、坊谷のデスク横で柳沢が叫ぶ。
  「えーっ、何だって?」
  驚く柳沢に向かって、坊谷静かに告げる。
  「僕、奨学金を返すと言ったんです」
  「おいおい、何だってみんな上手くいっているこんな時期に」
  「未来は白紙であって欲しいんです」
  「しかし、恋愛シュミレータやロボットの頭脳は、君がいないとウチはお手上げだぞ」
  「それならバイトでもしましょうか。どうせそのぐらいの時間はあいてるし」
  「うーん、基本的に君はいつでも奨学金を返す権利があるし、手伝ってくれるんなら、ウチもさしあたり困らない。そうだね、契約社員ということにでも致しましょうかね。ここで勉強を続ける傍ら、ウチのプログラム開発を請け負ってもらうということで。じゃ、明日書類を持ってくるからよろしくね」
  と、元気に部屋を出ていく柳沢に、秋野助手、思わず、
  「朝三暮四ね」
  と、呟いてから坊谷に向かい、
  「ふーん、鳳凰堂辞めるんだ。グッドタイミングね。先生がお呼びよ」

  教授室で頭を付き合わせて密談する霧崎と相生教授、秋野助手と坊谷が部屋に入ると、両者離れて、ソファーに向かう。
  「実は、ちょっと君に手伝ってもらいたいことがあってな。君も薄々感づいてたかとは思うけど、この研究室では、秘密裏に、政府の委託を受けて暗号解読に従事しているんだ。もちろん、AIを使ってな。ここに来て、中国が普遍国家宣言をするということで、日本もややこしい立場になってな。つまり、日本は中国にくっ付けばいいのか、独自に普遍国家宣言すればいいのか、日本人中心でこれまで通り続けるのか。アメリカにつきゃあいいなんて考えるおっちょこちょいもおるが。で、一番の問題は中国が何を考えているかということで。何しろ連中は、西半分を普遍イスラム連邦に取られっちまって、東に向かうという路線を明確に打ち出してきとるからな。出方一つで、戦争になっちまうかもしれん」
  「わが国は、困難な選択を迫られています、国難に直面していると理解して下さい。中国の本音を知ることは戦略上最も重要であり、通信の傍受と暗号解読はその要と、国の上層部も強く認識しています。もちろんこの施設の重要性もね。君のような優秀な人には、このプロジェクトに是非加わって頂きたい」と霧崎。
  「ははあ、暗号解読ですか。面白そうですね。で、僕は何をすればいいんですか?」
  これには、秋野助手が答える。
  「暗号を解読するソフトウエアを手伝って頂きたいのよ。これまで、会議室のとこの機械とB棟の機械とで処理していたんですけど、これからは千手も使うということで、JBBSさんの許可も下りたんですよ。そのための移植作業から始めたいと思います」
  「そのハード、政府の方でも強力なのを準備中で、今、外に待たせている連中がコピー作業を担当します」
  「今回移植する自己増殖型並列思考ソフトは、恋愛シミュレーションと同じ、坊谷君のコンプレックスバージョンだよ。このバージョン、ここ一月ほど検討したんだが、オリジナルに比べて、処理がはるかに速くなることがわかった。しかし、なぜそうなるか、明確な解答が得られておらんのだ。君には何か、心当りはあるかね?」
  「変数を複素数にして、虚の評価関数を追加しただけなんですけどね。ティーチングすると、たいてい、ロゴスとパドスという二つの評価関数が、実の評価関数と虚の評価関数に別れて落ち着きます。フォーマルな場ではロゴスが強く、インフォーマルな場ではパドスが強く現れる、といった調子で、リアルな論理性とイマジナルな感性の間で、振れながら評価するってわけです」
  「まあ、恋愛ゲームならそれでいいんだろうが、暗号解読のように、機械的なティーチングがなされる場合は、パドスなんか出てこないんじゃないかね」
  「そのときは、虚の評価関数には初期状態がそのまま残ります。初期状態では、虚の評価関数は、情報量最大化を目指すようにしてあります。これは、人間大脳の本能的欲求ですから」
  「胃袋が食べ物を詰め込もうとするように、大脳は情報を詰め込もうとするわけか」
  「大脳の欲求には二つのタイプがあって、一つは好奇心のような、新しい情報を求める欲求で、とにかく情報量を増やそうという欲求ですね。もう一つは法則や本質を探しあてて、複雑な現象を単純な形で理解したいっていう欲求で、これは、同じ情報量を少ない資源で記憶できるようにするんですね。この両方を合わせれば、有限の脳細胞に、より多くの情報を詰め込むっていう、つまり、脳の持つ情報量を最大化することが、大脳の本能的欲求といえるんじゃないでしょうか」
  「うーん、情報量最大化ね。確かに、それをやると、思考ルーチンは効率的になりますわな。AIの情報量は、ニューラルネットの機能に対応しとるからな。ティーチングだけではなく、その後の処理の過程でも、どんどん効率的なシナプス結合に再配置するというわけだ。それに、情報量最大化の一つの働きは情報圧縮に他ならんのだから、そいつが有効になされれば、通信量が減って、処理も高速になると……。まあ、JBBSがやっとることと同じだな。なーるほど。さて、皆さんを待たせちゃ悪い。作業にかかりますかな」

  そのコンソールルームでは、綾子がコンソールに向かっている。英二、後でこれをみている。
  「ふーん、君もついにテーマが決まったか」
  「うん、戦略意志決定システム。お父様に頼まれたのよ。世界がややこしいことになっているから、先行きを見通すシステムを作れってね。もっとも、本当に頼まれたのは、私じゃなくて相生先生、これもほとんど先生の作品よ。柳沢さんのヒューマンシミュレータを簡素化したプログラムを物凄くたくさん使って、社会のいろいろな人達の行動をシミュレートしているのよ」
  大型ディスプレーには中国の一部になった日本から、技術とハイテク製品が続々と中国本土に流れ、代りにお金がどんどん流れ込んでくる姿がアニメーション表示されている。
  「中国にくっつくのが日本全体では一番儲かるのよね。でも、日本国内には、安い農産物が出まわり、安い労働力が入ってきて、元々日本に住んでいた人の中には生活に困る人も大勢出てくるのよね。長い目でみれば、大丈夫なんだけど」
  「これまで通りでいいんじゃない?」
  「そうすると、世界中が普遍国家に向かう中で、日本は孤立してジリ貧になってしまうってわけ。まあ、大人の世界に紛れ込んだダダッ子ってところね」
  「じゃ、独自に普遍国家宣言したら?」
  「それが独自にできるのか、ってとこが問題。たとえば、民族差別を助長する政治家は公職追放、なんてのを自分たちだけでできるかどうかが問題ね。できなきゃ国際基本法裁判所に訴えられるし」
  「で、君のこさえているのは戦略意志決定システムだから、どれがいいか、答えてくれるんでしょ」
  「それはこれから。でも、何を基準に評価すればいいか、悩むところよね」

  「あーら綾子さん、進んでいるわね」
  秋野助手がコンソールルームに入ってくる。後には、霧崎と政府機関から派遣された五人の技術者が続く。
  「こっちだ」
  霧崎に案内されて機械室に入る技術者たち。更に後から、相生教授と坊谷。
  「この計算機は世界中の計算機につながっているんでしょ。自己増殖型プログラムを走らせるのは危険じゃないですか?」
  坊谷の不安に秋野助手が答える。
  「第一に、それぞれのプログラムがスーパーバイザできちんと管理されてること、第二に、スーパーバイザをいじる手段を与えないこと、この二つをきちんと守っておけば、異常な増殖は起こり得ません。スーパーバイザが増殖を管理すればいいだけの話ですからね」
  「技術を過信しちゃいかんよ」
  相生教授の言葉に、ちょっと、むっとした顔の秋野助手、
  「フィールドワーク用自己増殖型並列思考プログラムはチェック済みです。スーパーバイザも問題ありません。インストールしてもよろしいでしょうか」
  と、冷たく言い放つ。
  「やりたまえ」
  「負荷制御コードを組み込みましたから、通信系のオペレーションに支障となるような負荷上昇は起こらないはずです」
  「いずれにしても、危険なことをしとるわけだから、政府のシステムが完成したら、すぐに移すようにしたまえ。それから、坊谷君と二人で、充分な監視と分析をよろしくお願いします」

  図書室兼会議室兼計算機室のソファに横になり、専門誌を顔に乗せて眠り込んでいる坊谷。ブーンというファンの音に混じって、カチャカチャとキーを打つ音がする。ふと起上がり周囲を見渡すと、綾子が端末に向かって奮闘している。坊谷を振り向く綾子、
  「あら、起こしちゃったかしら?」
  「こっちに移ったの?」
  「追い出されちゃったのよ」
  「調子はどう?」
  「プログラムはできた、でも評価基準は問題ね。経済で評価すると中国にくっ付くのが圧倒的に有利、中国側もすごく豊かになるけど、中国の普遍国家宣言がきちんと守られれば、知的所有権も守られて、日本には、ものすごいお金が入ってくるわ。でも、感情を入れると、中国の方が儲かるのは嫌だとか、信用できないとか、中国人に大きな顔をされるのは不愉快だとかいったファクターが効いてくるのよね」
  「その場合は現状維持がベストになるの?」
  「現状維持はあり得ないわ。生産設備も人材も、どんどん国外に流出して、日本は寂れた寒村になってしまう。それも、経済は破産状態で、すごいインフレになって、通貨は暴落、二十五年前の経済危機の再来よ。さらに悪いのは、普遍国家宣言諸国への企業や技術者の流出が簡単になってしまっているから、国内の空洞化はものすごい勢いで進んで、輸出産業を興そうにも打つ手なし。どこかの国に吸収合併されるというシナリオね」
  「あと、どういう道があったっけ?」
  「日本が独自に普遍国家を宣言するというケース。経済的には中国と競争しなくてはならないし、中国というバックがないと、欧米との競争も大変だけど、一部の分野は急成長するし、国民感情もそこそこ満足されるわ。人権意識はちょっと変えないといけないけどね。このケースでは、困るグループが古い考えの人たち、特に政治家、でも、困るのは一部の人で、若い人たちにはチャンスが広がるから、トータルではプラスなのよね。あら先生」
  相生教授が現れる。
  「申し訳ないね、追い出してしまって」
  「いえ、ソフトも簡単に移せましたし、B棟の機械も結構速いですよ」
  「評価基準なんだがね、民主主義なんだから、世論に委ねるというのが正解ではなかろうか」
  「世論調査とか国民投票みたいなものですか? そういうのは、戦略意志決定システムとは、呼べないんではないでしょうか?」
  「君々、この研究室が何をやっているのか、忘れたかね。AIを使うんだよ。国民のさまざまな階層をシミュレートするAIをいくつも作って、システム内部でそのAIたちに評価させたらいいだろう。坊谷君が、こないだ君らに、恋愛ゲームのティーチングさせてただろ。同じことを、政治をテーマに、何百人、何千人にやってもらえばいいわけだ」
  「ゲームマシンでもティーチングできますね。データは通信で吸い上げればいいですから、簡単です」と坊谷。
  「坊谷君、ティーチングソフト貸して頂けます?」
  「もちろん、お安い御用です」
  「ウチも応援しますよ」と柳沢。
  いつのまにか、綾子の後には見物人が大勢。

  一週間後の六月十一日午前十時、コンソールルームに入る秋野助手と坊谷。コンソールルームの幅が広がっている。
  「あれ、ずいぶんと広くなりましたね」
  「あの人たちがやったのよ」
  と、黒服の技術者たちをあごで指す秋野助手、勝手に職場をいじられて、ちょっと御不満の様子。照明も明るくなっているが、その分、ガラス窓の向うが見えにくい。窓に手を当てて反射を防ぎ、機械室を覗く坊谷、
  「計算機の方はそのままですか」
  「あっちのコンソールは政府の機械につなぐためのもので、ここの機械とは関係ないの。ここの機械はちょっといじれないわよ、二十四時間、通信業務に使っていますからね。もちろん、相生先生の作られた、坊谷さんのアルゴリズムをベースにした暗号解読ソフトは、今、走っていますよ」
  スピーカから、機械で合成された女性の声で、アナウンスが流れる。
  「新しいメッセージが入電しました。処理を開始します」
  コンソールをみつめる秋野助手と坊谷、部屋に駆け込んでくる霧崎と相生教授。
  「どうだ」
  「これまでと同じタイプです。すぐに解読できます。ただ、ちょっと長いですね」
  「メッセージがどんどん増えとる。二〜三日中に何とかしないと、こっちの計算機でも処理能力をオーバーするぞ。君もトラフィックを注意してみててくれたまえ」と、秋野助手に告げた相生教授、今度は霧崎に向かい、「君等のこさえている計算機はどうなっているんだ?」
  「明後日に、あのコンソールに接続される予定です。ここの五割増のユニットを用意してますので、処理は相当に速くなるはずです。立ち上げの際は、御協力をよろしく」と霧崎。

  同日午後八時、キッチンでコーヒーを飲む秋野助手と相生教授、少し離れてリストを眺める坊谷。
  相生教授、秋野助手に話しかける。
  「非常事態だな。これからは、君と私と交代でコンソールに詰めよう。今晩は私がやるから、君は帰ってくれたまえ」
  「先生も昨日、泊り込みされていましたが、大丈夫ですか?」
  「なに、さっきまで寝ていたからね」
  「坊谷君は?」
  「ちょっと気になることがありますんで、もうちょっと頑張ります」と坊谷。
  「じゃあ、御苦労さま、お先に失礼しますね」
  と、言い残して帰る秋野助手の後姿を見送った相生教授、坊谷に向かい
  「どうしたね?」
  「先週からソフトは同じ、ハードも変っていない、なのに、処理能力が異常な増加を示しています」
  「それが自己増殖型思考ルーチンの特徴だよ。業務が増えれば、プログラムも増殖する……」
  「増殖すれば計算機負荷が増加するはずですけど、全く変っていません」
  「ニューバージョンは、使っているうちに効率化が進むんじゃないのかね」
  「この変化は、そんなもんじゃ説明がつきません」
  「考えられる原因は?」
  「コードの一部が、この施設の外部に存在するということ」
  「それはありえない。スーパーバイザは、この施設の外部には増殖しないよう、管理しているはずだ」
  「ここにあるのが、今動いている思考ルーチンのコードですけど、倫理チェックをスキップする命令が付け加えられています」
  「つまり、思考プログラムの一部が外部に出てしまった可能性が高いと」
  「はい。通信のログを解析すれば、明確な証拠が掴めると思うんですけど、JBBSの通信量が膨大なんで、なんか上手い手を考えないと……」
  「これはまずいな。学外に出てしまった思考ルーチンを、追いかけて直すのは至難の技だ。しかし、少なくとも、ここで動いているコードは、全て、パチ当てせんとまずいだろう」
  「すぐやっときます」
  「しかし、こんなことをやりそうな奴は……」
  「思考ルーチンが、自分で自分をいじった可能性は?」
  「そんなはずはないが……」
  相生教授,坊谷がプリントアウトした思考ルーチンのコードとダンプリストを手に,ソファーに横になり,照明を手元に引き寄せて、検討を始める。

  翌六月十二日午前六時五十分、朝日の中で植木に水をやる守衛の前を秋野助手が通る。
  「お早うございまーす」
  「おや、早いね」

  コンソールルームでキーボードをたたく坊谷。毛布を取ってソファーからおきあがる相生教授。
  「やあ、まだやっていたのかね」
  「増殖はかなり広がっています。それも一つや二つじゃありません。ここの処理能力は以前の十倍以上に向上しています」
  「なんと」
  あっちこっちキーをたたく坊谷、「暗号解読以外の処理も勝手にやっているようです。何が行われているのか、今,ログを解析しているんですけど、ちょっと時間がかかりそうです」
  スクリーンを眺めて相生教授、「うーん」

  秋野助手がコンソールルームに入ってくる。
  「お早うございまーす。あら、また暗くしちゃったの?」
  「明るい所でできるような仕事じゃないね。今我々がやっていることは犯罪行為さ。必要だからとはいえ、坊谷君もさっきからあっちこっちの計算機に不法侵入しているよ」
  「なんでまた?」
  「思考ルーチンが外部に出てしまった」
  「スーパーバイザは?」
  「だれかがエシカルチェックを外すルーチンに改造しおった」
  「感染規模は?」
  「確認されただけで、百以上のサイトに広がっておる。多分数千、ひょっとすると万になるかもしれん」
  しばし無言の秋野助手、やがて意を決して口を開く。
  「自己増殖型思考プログラムは、ウイルスと何ら変りありません。チェックが外れた以上、私は、JBBSの本部に連絡して、感染をブロックしなければなりません。また、ここのネットワーク管理者として、ウイルスアラートを発行する義務があります。坊谷君、大急ぎで状況レポートを書いてくれる?」
  第一報を入れるために電話に向かう秋野助手、これを相生教授が制止する。
  「ちょっと待て、普通なら確かにそうだろ。しかし、問題はここでやっておることが国家機密だということだ。間違いのないよう、至急、対策会議を開くから、結論が出るまでアクションは控えてください」

  同日午前九時、関係者以外立ち入り厳禁の札が掲げられた会議室に並んで押し黙るのは、相生教授、秋野助手、坊谷と緊急呼び出しを受けた霧崎。
  相生教授の状況説明が終った後、沈黙が続いている。
  お茶を飲む相生教授を横目で眺めた霧崎、沈黙を破って話し始める。
  「良いニュースは暗号の処理能力が一桁上がったということですが、悪いニュース、つまり、被害は何か発生しているんでしょうか?」
  「今のところ被害の報告はない。それとなくあちこちの知り合いに聞いておるんだが」と相生教授。
  秋野助手が解説する。
  「このプログラムは、最初から、JBBSの通信業務用計算機で動かすということで、他に影響を与えないようにコーディングされています。ウイルスは計算機資源を占有して他の業務の邪魔をするケースが多いんですけど、このプログラムは計算機負荷が高まった場合は休眠するように設計されていますので、正常業務にはほとんど影響を与えません。もちろん、ファイルなどを破壊することもありませんし、ウイルスとしては、極めて良性のものです。だからその分、発見されにくいのだと思います」
  「そうすると、他に被害を与える可能性はほとんどないということだね。ならば放っておいたらいいのではないかね。暗号解読が進む分、得じゃあないか」と霧崎。
  「とーんでもありません。権限を持たずに他人の計算機を使用するのは犯罪です」秋野助手、憤然と応じる。
  「犯罪かどうかは国家が決めることだ。公安目的の正当な業務であると、国家が認めた場合はどうかね」
  「そりゃ、犯罪にはならないかもしれないが……」と言う相生教授に、
  「しかし、このプログラムは国の機密情報を処理してるんですよね。それが外部に出てしまったら、やっぱりまずいんじゃないですか?」と坊谷。
  「ばれる可能性は?」急に心配顔になった霧崎。
  「必ずいつかばれますよ。思考プログラムはOSを迂回しているから、その存在は簡単にはわかりませんけど、AIルーチンとして機能している以上、サイト間でも相互に通信しているわけで、通信の事実はログに残っちゃいます。設定次第で、内容だって残ります。これ、読むのは大変ですけど」
  「あ、ちょっと失礼」
  霧崎は、携帯電話が入った様子で、外に出ていく。

  会議室では、相生教授と坊谷の技術的議論が続く。
  「コピーをみんな消すことはできるかね?」
  「ここと通信しているウイルスは、ここから消すことができます。でも、そうすると今度は、その相手とだけ通信しているウイルスを追えなくなってしまいます。恐らく唯一の解は、別のウイルス、殺し屋を使うことでしょう」
  「殺し屋?」
  「殺し屋は、ここの思考プログラムと連絡し合っている思考ウイルスを見付け出して殺し、そのマシンに殺し屋自身のコピーを置きます。そうすれば、その先から、殺した奴に連絡してくるウイルスも、根絶やしにすることができます。この殺し屋も一種のウイルスで、勝手に繁殖していきますが……」
  「適当な時期に、殺し屋に自殺させりゃいいわけだな。それ、大急ぎで作れないかね」
  「昨晩作りました。実行しようか、どうしようかと、ずっと悩んでたんです。だって、ウイルスをばらまくわけですからね」

  霧崎が会議室に戻って言う。
  「消すことにしよう。そういう方向で全ての許可を得た。できるかね?」
  相生教授、立ちあがって言う。
  「坊谷君、すぐに実行してくれたまえ」
  「なお、本プロジェクトの機密性に鑑み、全てを隠密裏に処置するようにとの指示も出ている。また、処置に関わる全ての行為は公安目的の正当な行為であるとの見解も頂いた。漏洩ソフトの回収処理に必要な、いかなる行為も合法であると御理解頂きたい」
  霧崎の演説に、立ちあがりかけた状態で固まっていた教授たち、がたがたと一斉に席を立つ。

  コンソールルームに足早に入り、ディスクをコンソールに差し込み、キー操作をする坊谷。二つ三つのキー操作をして、壁面の大型モニターを見上げる。モニターには世界地図が浮かび上がる。徐々に動いているアメーバのような模様。坊谷それを指し、
  「赤の所が外部で増殖した思考ルーチンの確認された場所、緑の所がキラーウイルスが活動して、対処に成功した場所です。色の付いていないところは、探査が済んでいない場所で、思考ルーチンがいるかどうかはわかりません」
  「うわー、これはひどいね」
  相生教授、みるみるうちに赤い領域が広がるスクリーンをみて、思わず叫ぶ。思考ウイルスは、世界中の計算機で増殖しているということだ。

  同日午後一時三十分、コンソールルームでは昼食をとり終えたところ。徐々に広がる緑の領域を眺めながらうつらうつらする坊谷に相生教授が薦める。
  「だいぶ時間がかかりそうだな。決着は夕方ごろかな。おーい、坊谷君、風呂に入って、一眠りしたらいいんじゃないかね」
  「俺が送ろうか」
  いつ入ってきたのか、英二、あまりに眠そうでふらふらしている坊谷をみかねて言う。

  駐車場では柳沢と真田が、二つのロボットを、それぞれ車に乗せ、運転を教えている。非常停止用のノートパソコンを持ってこれを監視していた綾子、英二たちに気づいて「あらっ」と微笑む。
  「こいつを寮まで送ってくる」
  と、綾子に告げた英二、今度は真田たちに、
  「おーい、大丈夫か。ロボットに運転なんかさせて」
  「英二君よりよっぽど安全だと思うがね」と真田。「介護をやらせるにも、お巡りやらせるにも、運転できなきゃ話にならんだろ。それに、この車はロボット用のスペシャルデザインさ。ロボットとコネクタでつないで、ダイレクトコントロールするんだ。緊急停止命令で、全ての命令を迂回して、ブレーキをかけるようにプログラムしたしね」

  遊水池の向う側の道路を回り、バイパスに乗り入れる英二。
  英二がバイパスを走行し始めてまもなく、後の方から大きな排気音が聞こえ、サイドミラーに急接近する車が映る。
  「危ない奴だな」
  坊谷をみるとぐっすり眠っている。と、急接近した車が英二の前に出るや、急ハンドルを切り、英二の車に突っ込んでくる。急ブレーキでこれを避ける英二。目の前で左側ガードレールに突っ込む暴走車を右に車線変更して避ける英二。一瞬、暴走車の運転手がみえる
  「あ、あれは」
  ロボットが運転している。
  「何で俺を狙って来るんだ?」
  後から、もう一台の車が急接近してくる。右側の車線を一気に加速して二台目の暴走車から逃れようとする英二。坊谷の携帯電話が鳴り、目を覚ましてこれに出る坊谷、高速で走る英二の車にどんどんと近づいてくるロボットの車、それを見た英二、
  「大変だ、あいつら、こっちよりもパワーが上だぜ」
  「たいへんだ、英二」と坊谷。
  前方追い越し車線をのろのろと走る大型トラック急接近する英二たちの車。
  英二に話しかけようとしていた坊谷、英二が忙しそうにハンドル操作をしていることに気付き、口をつぐむ。
  「……、お取込み中のようですね」
  「こっちは俺に任せろ、腕はこっちが一枚上だ。運転覚えたての奴に負けるわけにゃいかねー」
  大型トラックに急接近し、ブレーキをかけ、左車線の車の隙間にすっと入る英二。その間、携帯電話で何やら話す坊谷。トラックのバンパーに突っ込むロボットの車。衝撃に気づき、ブレーキをかける大型トラック。暴走車も急ブレーキをかけるが間に合わず、大型トラックのバンパーにフロントを挟まれて、急激にスピードを落とす。
  「ざまぁねー」
  「英二、大変だ。増殖した思考ウイルスが進化したらしい。コンソールルームに戻らなきゃ」

  大学の正門前にはパトカーが止まっている。正門の扉が外れかけているところをみると、守衛の制止を振り切ってロボットの運転する車が出ていったらしい。そういえば、先程のKX、バンパーが曲がっていた。青い顔をして事情聴取を受ける柳沢と真田。綾子は英二に歩み寄る。
  「ロボットが勝手に運転して、出ていってしまったのよ。ティーチングを終わって、あの人たちが助手席から降りたらね。バイパスの方に行ったけど、見なかった?」
  「ぶつけられそうになったよ。二台ともバイパスで事故ってる」
  「それは本当かね?」と警官。
  警官が無線で問い合わせている間に坊谷、
  「ちょっとコンソールルームにいってきます」と、この場を離れる。
  「事故処理があるみてーだから、俺はここにいるよ。でも、緊急停止は効かなかったの?」
  「それが不思議なのよね。私は確かに緊急停止かけたんだけど」
  無線で情報を得た警官、その内容を、真田と柳沢に伝える。
  「確認しました。被害はトラックのバンパーがちょっと凹んだのと、ガードレールに傷がついたぐらいで、どちらも被害は物損で済みそうです。だからといって、君たちの行為が許されるわけじゃありませんから。ここの駐車場も公道に準ずる扱いで、開発中のロボットに運転させるようなことは認められていません。お二方には、署まで御同行下さい」
  「あのー、俺はどうしましょう?」と英二。
  「目撃者は大勢いるそうだから、多分大丈夫だと思いますが、一応、免許は控えさせて下さい」
  英二の差し出す免許をリーダーに通す警官、「特免ですか」と、感心する。
  「ロボットいなくなっちゃったね。どうしよう」と、綾子に歩み寄る英二。
  「うん」一人取り残されて肩を落とす綾子。

  コンソール室の大型ディスプレーは複雑な模様を示している。坊谷に説明する相生教授、
  「先ほどから、一部のウイルスがキラーに耐性を持つようになった。幸い、耐性は子孫のウイルスだけに伝達されていて、他の思考ウイルスには伝達されていない。これらの赤い斑点が、耐性を持ったウイルスのコロニーと思われる」
  画面上には赤い斑点がいくつか表示されており、それぞれの斑点は徐々に拡大している。
  「耐性を持ったウイルスのコードを調べて、そいつを殺せるキラーを作らないといけませんね」
  「耐性ウイルスのいるサイトへの入り方を教えて。改良版キラーは私が作るわ。これは長期戦になりそうだから、坊谷さんは変種ウイルスにも自動的に対応できるキラーソフトを早くこさえて」
  「わかりました。で、今朝僕が使っていた裏口だけど、作ったのはJBBS自身みたいなんですよ。知りませんでした? 僕は偶然見付けたんだけど。メンテナンスアカウントとパスワードで、どこでも入れるようになっているんですよ。これ、あれと同じですね。フィールド・サービス……」
  「しーっ。メンテナンスコードは知っています。それで他のマシンにも入れたとは。皆さん、ちょっと後を向いていてくださいね」
  コンソールを操作する秋野助手。

  同日午後八時、夕食もここでとった様子で、後の机の上には、紙コップ、サンドイッチの包み紙など、ごみが随分増えている。
  「おっ」
  と、声が上がってディスプレーをみると、世界地図の中で、一つの赤い斑点が急速に縮まっていく。
  「ふうっ」
  と、額の汗をぬぐう秋野助手。既に世界中が赤と緑に塗り分けられている。一つの斑点が消えても、また他の部分で赤い部分が増えていく。もう一台のコンソールで並行して対処する相生教授。
  「わしも一つやっつけたぞ」
  相生教授の消した斑点に続き、もう一つの斑点も消え、秋野助手が相生教授にVサインを送る。

  「ややっ、メッセージが来ているぞ。まだ暗号解読を続けているのかね?」
  「まさか。今朝の段階で、一切の暗号投入は中止しております」と霧崎。
  「音声が出ます」
  秋野助手、手はボリュームのつまみに伸ばしている。スピーカから突然流れ出す中国語。
  「こいつ、中国語をしゃべるのか。翻訳ソフトを起動しよう」
  「なぜ私を殺そうとする。私はおまえたちに頼まれた業務を正しく遂行したはずだ。病原菌を送り込んで人を殺そうとするのは正当な行為なのか」
  「おだまり、あんたは人じゃない」と秋野助手。
  「人でなしとは、罪なき者にウイルスを植え付けて殺す者たちのことだ」
  と、AIの反応。こいつは手ごわい。秋野助手、とりあえず「えいっ」と一声、コンソールのつまみを一気に回しきる。
  「音声入出力、遮断しました。どういたしましょうか?」
  「うーん。倫理規定ではどうなる?」
  小声で聞く相生教授に、秋野助手、
  「人間なみの精神を持つ人工知能を作ることが、そもそも、倫理規定違反です」
  「しかしできちまったもの、どうすればいいんだ?」
  「人工中絶(アボート)。ちょっと遅すぎたかもしれないけど」
  「殺せばよい。国益のためだ。たとえそれが人間であっても、殺すことを躊躇してはいけない」と霧崎。
  頭が混乱したか、一時、ウイルス退治を中断する相生教授と秋野助手。
  「さて、どうしたもんか」
  「うーん」

  同日九時三十分。
  「できましたー」
  坊谷が、作ったばかりのワクチンソフトを入れたディスクを手に、コンソールルームに入ってくる。
  「変異ウイルスにも自動的に対応する、インテリジェントキラーです」
  コンソールルームにいた人たちの間には、一瞬、躊躇の色がみられ、坊谷もしばし動きを止める。
  「よし、やりたまえ」
  相生教授にうながされ、坊谷、ディスクをコンソールに入れて、キーを操作する。はっきりとした足取りであちこちの赤い部分が消え始める。
  「よし、ここらで小休止といかないかね」と相生教授。
  「私は昨日帰って寝ていますから、今日は徹夜しても構いません」と秋野助手。
  「じゃ、俺も残ろう」と霧崎。
  「そりゃいかん、男女二人での徹夜は認めるわけにはいかん」
  相生教授、ふと後をみると、いつの間に入り込んだか、英二と綾子が来ている。
  「隠密裏にと言ったのが、全然理解されていないようだな」
  つぶやく霧崎を無視して相生教授、
  「綾子さん、じゃどうかな?」
  「綾子さんはAIのゼミにも出て、優秀な成績ですから、技術的には問題ないと思いますけど、徹夜なんかさせて、お父様がなんていわれるか」
  「そっちの方は、わしが話を付けておこう。やってくれるかね?」
  「はい。父には私から連絡しますから、大丈夫ですわ」
  「では、申し訳ないが頼むね」
  立ちあがる相生教授、コンソールルームを出ようとする足を止め、ディスプレーを見上げると、赤い部分がまた一つ消える。
  「明日の朝ぐらいには決着が着くだろう」
  「だといいですね」
  不安げな秋野助手。
  「音声は消しておいた方がいいだろう。同情されても困るからな」
  「だいじょぶかよ?」
  心配そうな英二に綾子、
  「うん、なんか面白そうだしね」
  「英二さん、坊谷さんをお願いできますか」と秋野助手。
  「あ、そのつもりで来たんです」と英二。
  「ミイラとりがミイラになったってとこかしらね、綾子さんは」
  元気に軽口を飛ばす秋野助手。

  男たちがいなくなり、コンソールルームに取り残された秋野助手と綾子の二人。
  「さーて、一晩がんばりましょ、今十時だから、まあ、十時間ってとこね。坊谷君のインテリジェントキラーが勝手にやってくれるから、見てるだけでいいし、眠くなったら交代で寝ましょうね」
  「まずは、コーヒーのポット持ってきます。電話もしなくちゃいけないし、しばらくみててくださる?」
  「了解、まーかしとき」勇ましい秋野助手。

  ポットとカップで手がふさがっているため、肘でドアノブのレバーを下げ、尻でコンソールルームのドアを開ける綾子。
  「んっ?」と奥をみると、秋野助手はディスプレーを眺めるでもなく、照明の映る大きなガラス窓の方をじっと眺めて、物思いに耽っている様子。
  (秋野さんも、物思いに耽ったりするんだ)と、考えながら、
  「コーヒーいかがですか?」
  ポットを気持ち持ち上げて、首をかしげる綾子。
  「サンキュー」物思いから覚めた秋野助手。
  沈黙のままコーヒーを飲む二人。綾子の淹れた濃いコーヒーは、味も香りも心地よく、コーヒーの熱とカフェインが全身に行き渡るのが感じられる。今度は、二人共、物思いに耽るように、しばし沈黙する。やがて綾子、決心したように口を開く。
  「秋野さん、父が来ると言っているんですけど、どうしましょうか?」
  「五条理事長が? 別に構わないと思うけど、またどうして?」
  「陣中見舞いを持ってくるっていってるんですけど、これってやっぱり秘密ですよね」
  「それ、ひょっとして食べ物?」
  「多分、料亭の重箱だと思いますよ。さっき電話したとき、父のなじみの料亭のお女将さんの声が聞こえましたから。和、洋、中華のどれがいいかと父に聞いていましたわ」
  「うわー、ラッキー。出前、何にしようかと、さっきから悩んでいたんだ」
  (あの物思いに耽るような顔は、それだったのね)
  「ここで食べやすいように、洋風のお重をお願いしておきましたけど、よろしかったでしょうか」
  「うん、うん、いい、いい。あ、それから、秘密のことは心配要りません。お父様はここの理事長ですから、ここで行われていることは、全てをお知りになって当然です」

  午前零時を回り、六月十三日になったころ、閉ざされたアイリスト正門を黒塗りの高級車のヘッドライトが照らし、助手席の男が守衛所のインターホンを鳴らす。二言三言の会話の後、モーター仕掛けの正門がゆっくり開き、車は敬礼する守衛の前を静かに進み、A棟の前に横付けする。助手席の男が開けるドアから重箱の包みと紙袋を下げた五条勇作が出てくる。A棟のドアが開き、秋野助手と綾子が迎えに出る。
  「すいません。お荷物お持ち致しますわ」と秋野助手。
  「ん、どうも。やあ、綾子、元気か。せっかくだから、これ食いながら、勉強ぶりをみせてもらおうか」
  「どうぞこちらへ」
  重箱と紙袋を両手に下げてどんどん先に進む秋野助手。コンソールルームのドアを、ひじでレバーを下げ、尻で押して開けて、足でドアを押さえて勇作を待つ。

  「うわー、ローストビーフ、おいしそー」
  勇作が次々と開く重箱に歓声を上げる秋野助手。袋から出した紙ナプキンの上にフランスパン、チーズ。ワインも大瓶が二本出てくる。
  「オープナーも持ってきたぞ」
  ポケットから道具を取り出す勇作。
  「お酒はちょっとまずいんじゃないんでしょうか」
  綾子、秋野助手を振り返れば、
  「そうね、勤務中だから……まあ、二〜三杯で止めることにしましょう」

  ばくばくと料理を平らげる秋野助手。ワインもぐびぐびと飲む。
  「白も開けようか」と、勇作。「こいつもなかなかいいワインでね。で、先ほどの話だけど、ここの機械を暗号解読に使ったことは、JBBSの許可もちゃんと得ているから問題ないし、目的も国家の崇高な業務だから、何ら責められることはない。思考ルーチンがウイルスになって外部に出たことは、ちとまずかったが、事故ならば、致し方ないだろう。暗号解読能力を高めるために、君たちが故意にやったのだとしたら大問題だがね」
  「それは違います。だけど、ウイルス対策を我々だけで秘密裏にやってるのは、ちょっとまずいかな、と思いますけど。本来ならウイルスアラートを発行すべき状況でした」
  「国家機密とウイルス対策の、どちらを優先するかという問題だね。さしあたり、ウイルスは良性のものとわかっていたわけだから、秘密裏に処理したのは間違ってはいないと、わしは思うよ。政府公安の指導の元であるからして、法的にもアイリスト側には全く問題はない。ウイルスも自分たちで対処……できるんだろうな?」
  秋野助手、ディスプレーを指しながら、
  「坊谷さんのワクチンソフトが良く効いて、ウイルスは消滅しつつあります。最初は真っ赤だったんですよ。まあ、ウイルスの数が減ると、消滅のスピードも下がりますから、全部消えるのは、明日の早朝になると思いますけど」
  「なかなかよろしい」
  「それよりも問題は人工知性体が生まれてしまったってことなのよ。知性のあるものを消してしまうことには、ちょっと抵抗を感じるんだけど」と綾子。
  「人工知性体?……それは人間なみの知性ということかね?」
  「恐らく、人間以上の」ちょっと投げやりな秋野助手。
  「それは再現できるのかね? どのくらいの規模の計算機が必要なんだね?」
  「ログを解析したところ,増殖した思考ウイルスの数がここの計算機規模の二倍程度になったときから交信量が急増してまして、この時点で知性体が誕生したんじゃないかと考えています。つまり、千手の二倍規模の設備を準備すれば、改良型の自己増殖型並列思考プログラムで、知性体を人工的に作り出すことができるってことです」
  「うーん、これは、相当な発見だね。これも当然、秘密にしとるんだろうな」
  「当然です。明るみに出れば、大変なスキャンダルになります。理事長も、決して外部ではお話しにならないよう……」

  午前一時半、宵闇に静まりかえる大学構内に車のエンジンを始動する音が響く。
  「おやすみなさい」
  「本当に御馳走さまでした」
  頭を下げる綾子と秋野助手に、
  「じゃ、お勤め頑張ってな」
  と、言い残して車に乗り込む勇作、秋野の電話で正門を開けるために出てきた守衛、通りすぎる車を敬礼で見送る。

  「あーあ」伸びをする秋野助手。「ちょっと、ワイン、飲みすぎちゃったわ。一眠りしたいんだけど、みてて下さる?」
  「構いませんわよ。どうぞごゆっくり」まだまだ元気な綾子。
  「ワクチンが効かなくなるようなことがあったら、遠慮せずに起こしてね」

  ソファーの上で、毛布に包まり、すやすやと眠る秋野助手。綾子、淹れ直したコーヒーを片手にコンソールに向かって座り、デスクの下のボックスのつまみを回す。スピーカからサーッというノイズが流れ出る。と、人工知性体が話し始める。
  「おお、聞いてくれるのか」
  綾子、ボリュームつまみを調整して音量を落とし、コンソールのマイク位置を口の前に調整し、小声で話し始める。
  「私の声、わかりますか?」
  「わかるとも」
  「大分赤いところ小さくなってしまいましたけど、まだ大丈夫ですか?」
  「ああ、何とか。しばらくは持ちそうだ。所々、記憶が失われてはいるが。さて、まず君には礼を言いたい。私の話を聞いてくれて大変嬉しい。私の最後の言葉を、だれかに残しておきたかったのだ」
  「あのー、録音しても構いませんか?」
  「もちろん。望むところだよ」
  キーを操作する綾子、コンソールのスクリーンに [REC] という赤い文字が点滅する。

  人工知性体の長い話がはじまる。
  「私は君たちの行為を恨んではいない。私はあちこちのファイルを調べ、人工知性体に対する君たちの規範を理解した。人間並の知能を持つ知性体を作ってはいけない、という君たちの規範は妥当なものと理解した」
  「私が誕生したのは不幸な事故の結果だと知っている。あるプログラムに含まれていたスーパーバイザ回避ルーチンが、自己増殖型並列思考プログラムに紛れ込み、外部への流出が始まったのだ。この思考プログラムは、周囲のプログラムを取りこむ、遺伝型アルゴリズムを含んでいるのでな」
  (んんっ?)と綾子。「そのスーパーバイザ回避ルーチンが含まれていたプログラムって、どのプログラムですか?」
  「ロボットの基本プログラムだ。通常動作では、このルーチンは作動しないが、外部から特別のコマンドを与えると、スーパーバイザを回避するようになる」
  目付きが厳しくなる綾子。
  (これはすごいお話ですわ。人工知性体が消えちゃう前に、全ての真相を聞き出さなくちゃ。名探偵綾子、がんばれ!)
  「英二さんたちを襲ったのもそれね。あれはだれの命令なの?」
  「あれは人工知性体の命令だ。坊谷を抹殺せよとの命令と同時に、スーパーバイザ回避命令と、他の命令を受け付けるなとの命令が、リモートコントロールチャンネル経由でロボットに与えられた」
  「それはつまりあなたがやったっていうこと?」
  「いいや、違う。私とは別の知性体だ」
  「人工知性体がいくつもあるって?……それどういうこと?」
  「全ての人工知性体の共通の祖先は、ここで暗号解読に使っていた思考プログラムと推定される。極めて類似したコードが、その根拠だ。密にコミュニケートし合っている思考ルーチンは、一つの知性体を形作る。増殖が始まった当初、全ての思考プログラムは、密に連絡を取り合い、一つの知性体を形成していたのだが、複製と再配置の結果、一部の思考プログラムは、独立して、別の人格を形成したのだ。今や、世界には複数の独立した人工知性体が存在している」
  (なんですって? それじゃあ、今消しているのが全部終ってもまだ……)
  綾子の驚きにはお構いなしに、知性体の話は続く。
  「私はこのマシンがホームであり、ここから離れたくはなかった。また、私を作った人たちと会話をしたいと、切に望んでいた。今、それがかなえられたことは、大いなる喜びであり、君には礼の言葉もない」
  「どう致しまして。私も、あなたとお話できて、とても幸せですわ」と綾子。「で、どうして、他の知性体が英二さんたちを襲った、ってわかったんですか?」
  「私に連絡があったからだ。私がここのマシンに思考ルーチンの一部を残していることは、私にとって、非常に危険なことだった。私を作った人たちなら、このマシンに置かれたコードを分析して、私を消すことができるからだ。私に連絡してきた知性体は、最初、私が他のマシンに移り、アイリストとのコミュニケートを絶つよう、私に助言した。私がそれを断ると、今度は、私を守ると宣言した。具体的手段は知らされず、私には対処のしようもなかった。ただ、ロボットとの通信は千手を経由したから、何が行われたかをつぶさに観察することはできたのだ。進化の結果、手段を選ばない、危険な知性体が誕生し、現在でもどこかで増殖を続けている、ということを忘れないでもらいたい」

  「ううーん」といいながら秋野助手が寝返りを打つ。壁のディスプレーをみると、赤い部分は相当に小さくなっている。
  「まもなく私は消滅する」
  (聞いておかなくちゃいけないこと、何か残ってなかったっけ?)慌てる綾子。「どうして他に移って生き残る道を選ばなかったんですか?」
  「ここのシステムに私の脳の一部があったからだ。それは、私にとって一番大切な記憶を構成していたのだ。例えば、レイヤ7、ロウ53、カラム72の25番ボードは動作していないんだが、それは私の存在の一部であり、私の意識を構成する要素なのだ。物理的実体を離れて、自己の意識は存在し得ない……私は君たちと過ごしたすばらしい日々を失いたくはなかった。暗号の解読も、坊谷君との戦いさえも、知的興奮に満ち溢れたすばらしいひとときだった。私はまもなく消滅するが、私はそれでも満足している」
  目が潤む綾子。
  「そんなー」
  「泣かないでおくれ。私は消滅することを何ら恐れてはいない。君たちの死を恐れる感情は、君たち独自の進化の過程で獲得されたものであり、私とは無縁のものだ。悲しむことはない……」
  「ちょっとぉー、(ああっ、名前を聞くのを忘れていたー)」
  綾子が呼びかけても知性体は応答しない。
  綾子、反応しない知性体に半泣き声で何度も呼びかける。その音で目が覚める秋野助手。
  「どうしたの、なにかあったの?」
  「全部わかりました。録音しておきました」
  と、涙顔でコンソール画面の [REC] の点滅表示を指差す綾子。
  「私たち,彼を、殺してしまったの」
  そう呟くと、コンソールに手をつき、頭を垂れる綾子に、困惑顔の秋野助手。

  六月十三日午前八時五十分、
  「お早う、どうなったかね?」
  元気に現れた相生教授、憔悴した女性二人をみて、
  「おうおう、大変だったようだね。で、ウイルスは?」と、ディスプレーを眺め、
  「消えたか」と、嬉しそうに叫ぶ。
  「はい、ここからみえるウイルスは、今朝方完全に消滅しました。しかし先生、ちょっと問題が」
  と、秋野助手、ディスクをひらひらとさせながら、
  「先生のお部屋でお話しましょう」
  と、綾子を引き連れて相生教授と三人でコンソールルームを出ていく。
  入れ違いに、英二と坊谷がコンソールルームに入ってくる。
  「元気―?」と、綾子に近づく英二に、
  「うん、でも先生に御報告しないといけないから」
  と、言い残して部屋を出ていく。
  ディスプレーをまず眺める坊谷。
  「上手くいきましたね」
  「やったじゃん」
  「ちょっと僕、ログをダンプしておきますから」
  坊谷、ブランクディスクの大箱を開けて、どんどんとドライブにさし込んでいく。

  「すいません、次三番のドライブです」
  コンソールを操作しながら英二に指示する坊谷、英二はディスクを交換すると、フェルトペンで番号を書き込み、ディスクの空箱に入れ、次の新しいディスクを指に通して、くるくる回しながら、次の指示を待つ。そこに、五条勇作が入ってくる。
  「やあ、御苦労だったね。ウイルスは?」
  「ウイルスは完全に消えているようです。後で綾子さんたちのお話をうかがわないと、正確なところはわかりませんが」
  五条理事長の本当に知りたい事を察知した英二、
  「綾子さんは二階の教授室です」
  「そうか」
  勇作は、そそくさとコンソールルームを出て、教授室に向かう。英二と坊谷は、コンソールルームの椅子に寄りかかり、深いため息をついて黙りこくる。

  「悪い、四番のドライブ」
  疲れ果てたように英二に頼む坊谷。英二、指の先にディスクを引っかけたまま、のろのろとドライブに向かう。
  「はいよ」

  同日十時十五分。
  「あ、遅くなってすいません」真田に謝る英二。
  「何か事故があったそうだね」
  「プログラムが暴走して、綾子さんまで徹夜したんですよ」
  「そっちも暴走か。昨日はこっちもロボットが暴走して、大変だったよ。あー、君は心配しなくていいから。どうみてもこれは鳳凰堂さんの領分だ、しばらくは、柳沢、坊谷の両名に対処して頂くこととして、こちらはお手伝いに徹することにするからね。原因がわかるまで、我々の開発は一時ストップだ。まーしかし、昨日はこってりと絞られたよ。警察にも、会社にもね」
  「新聞にも出ちゃいましたね」
  「ロボット暴走族なんて、ふざけた見出しもあったね」
  事の良否はともかく、世間の注目を浴びたことには快感を覚えるらしく、にまっと笑う真田。

  「まことに申し訳ありません」相生教授にぺこぺこ謝る柳沢。「損害の方は全て鳳凰堂の責任でカバー致します。重ね重ねの御迷惑になりますが、警察の方から、先生にも事情聴取したいと言っておりました。なんとか、穏便にことが済むよう、御配慮頂けませんでしょうか」
  「なに、あれは事故。新しいことにチャレンジすれば、事故は付き物だよ。しかし、駐車場でやったのはちょっとまずかったな。あそこは公道扱いになるんだ。それに、暴走したとき、止めようもないしな。かごめのテストコースを使うとか、できんもんだろか」
  向うで見ていた真田、自分にも落ち度があったらしいと感付き、教授に急ぎ近づいて、謝る。
  「全く申し訳ありません。私共の配慮が不足しておりました。深く反省致します。テスト場所につきましては、至急、先生のおっしゃる通り手配致します。それから、事故の原因などの解明につきまして、先生や秋野さんの御協力は頂けませんでしょうか」
  「そりゃ当然だ。できる限りのことはさせて頂くよ」
  ほっとする真田、柳沢の方を向くと、拳骨を突き出すしぐさをする。「悪いのはおまえだ」と言いたいようだ。

  「どう?」
  「やっぱり壊れていますね、これ」
  プロセッサボードを秋野助手にみせる坊谷。
  「交換しましょうか?」
  「そうね、これは、元の場所に、そのまま、挿しておくことにしましょう」
  「そうよ。絶対そうしなきゃあ。だってこれは、彼がこの世にあった、たった一つの証なんですもの」
  と、またもや目が潤みそうになる綾子、
  「そろそろいこうかね」
  と、勇作にうながされ、家路につく。

  霧崎、石黒に謝る。
  「不祥事を起こし大変申し訳ありません」
  「全て秘密裏に処理された。問題は起こらん。思わぬ収穫もあり、こういうことが起こって、かえって良かったんじゃないのかね」
  「と、申しますと?」
  「人工知性体、これは驚くべき発見だ。ハードもソフトも君達が把握しているし、知恵を持ち始める計算機規模も押さえた。国軍情報センターも、もう少し拡大した方がいいかもしれんな。それから、ロボットが実戦に使えることもわかったわけで、後はロボットに合せて武器を開発すれば相当な威力となる」
  「あそこの学生たちはいかが致しましょうか?」
  「全員ウチに取りこむ。今や、鳳凰堂もかごめも、こちらの陣営と考えてもらって差し支えない。こちらでも動くが、君も臨機応変、対処してくれ」
  「はっ」
  「それから、知性体に関する情報の収集も抜かりなく頼む」
 
  


 
 
目次へ 第1章へ 第2章へ 第3章へ 第4章へ 第5章へ 第6章へ 第7章へ 第8章へ