第5章 レイヤの復活

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六月十四日午前十時、アイリストA棟の会議室に、相生教授、今回の暴走事故の対応を協議するため、関係者を召集する。集まったのは、相生教授と秋野助手の他、霧崎研究員、坊谷、綾子、英二の面々。
「それでは反省会を開きまーす」と秋野助手。
「いまや人類は、人工知性体と地上に共存しているというわけか」
「そいつらをてなづける手立てはないか?」
「多分、我々より賢いんだから、手が付けられんよ」
「倫理基準ではどうなるでしょうか?」
「作るな、ということだったから、できちまった後の扱いは、まだ、考えられておらんよ」
「どのくらい増殖しているか、調査する必要があると思いますけど」
「AI人口統計ね。それすぐやりましょう」
「ばれるのは時間の問題か……」
「今の所、知っているのは、この研究室の連中だけか?」
「お父様も御存知ですわ」
「全くここの機密管理はどうなっているんだ?」
「そんなこと、大学に要求するのが無理というものだよ。それに、これだけのことをしでかしといて、理事長に報告せんわけにもいかんだろう」
「政治問題になるとまずいな……」
(まさか、消せって?)
過去の霧崎の言動を思い出して蒼ざめる綾子。

電話が鳴り、受話器を取るのは、顔に大きな刀傷のある侠極興産社長。
「なに、会長の命が狙われるかもしれないと?」
甲高い社長の声に、事務所の男たち、一斉に社長のデスクに半身を向ける。
「おい、おまえら、直ちに五条邸周囲に張り込め」
事務所の男たち、隠し戸を開けて武器を取り出し、エレベータで地下駐車場に向かう。

綾子、再び反省会の席に着く。議論は、知性誕生の技術的な側面に移っている。丁度、坊谷の報告が始まったところである。
「知性体の発生は、千手のほぼ二倍の規模に増殖が進んだ時点で起こった模様です」
「そりゃあ、具体的に、どの程度の規模ですか?」と霧崎。
相生教授が説明する。
「ここには、インテックスの標準プロセッサボードを百二十八枚格納したスケルトンユニットが二万五千個接続されておる。だから、今回判明した知性体誕生のクリティカルマスは、スケルトンユニットにして五万、プロセッサボードにして六百四十万といったところだ」
「人間の脳と比べるとどうなりますか?」
「インテックスの標準プロセッサボードは二百五十六CPUで構成されているから、ざっと十六億CPUがクリティカルマスになるわけだが、人間のニューロンは百四十億個といわれておって、そのうち、実際に使われているのは十分の一以下といわれておる。まあ、大体勘定は合うわけだな。CPUの機能は、ニューロンよりもはるかに高いはずだから、機能的には大脳よりも相当上ということもできるな」
「人間の知能は、ニューロンの数ではなく、そのつながり具合、シナプスの数で決まると聞きましたが、そっちはどうなんでしょう」
「シナプスの数は、ニューロンあたり八千とか一万とか言われておるんですが、シナプスの機能は二つありましてな、第一には、どのニューロンと接続するかという、いわば通信先のアドレスでして、これにはCPU一つあたり百二十八メガバイトのメモリーが使えるから十分です。第二は、情報を伝達する、通信回線に相当する機能だが、このシステムには、いくつもの通信機能がありましてな、これについては秋野君に説明して頂きましょうか」
「CPU間の通信手段と致しましては、まずはプロセッサボード内の共有メモリーでして、同じプロセッサボード内の二百五十六のCPU間では、マシンサイクルに匹敵するスピードで通信が可能です。次に、ボード間のコミュニケーションですが、インテックスの標準プロセッサボードは、四チャンネルの高速ファイバーチャネルポートを持っているんですけど、このうち一つのチャンネルでスケルトンユニット内のボードを接続し、残りの三つのチャンネルで、各ユニット間を三次元に格子状接続しています。ユニット間の接続は、ボードポジションごとに異なるチャネルを使ってまして、百二十八本のファイバーを束ねた多芯光ケーブルでユニット間を接続しているんですよ。シナプスと違うところは、シナプスが一対一にニューロンを結合するのに対し、ファイバチャネルは、百前後のプロセッサボード、つまり二万六千個ほどのCPUに共有されているということです。更に、ボード間の通信には最大四つのチャネルを経由するんですが、ファイバチャネルの速度は、人間の神経細胞が信号伝達に数ミリセカンドかかるのに対し、数十ピコセカンドと、一億倍程の速度がありますんで、これも充分といえます。AIOS上では、頻繁に交信するエージェントは、物理的に接近したCPUを利用するよう、移動しますし」
「しかし、思考ルーチンが出ていった先の、普通のシステムはAIOSで動いているわけではないだろう?」
「思考プログラムはエージェントとして動いているんですが、エージェントは、必要なサービスを探し出し、足りない場合はAIOSにリクエストする機能がありますので、AIOS以外のシステムで作動した場合、千手にリクエストが出され、ミニAIOSのコピーが行われます」
「なるほど、不思議なことは何一つない、というわけか。それにしても、JBBSは、三百二十万ものプロセッサボードを、よく集めたな」と霧崎。
「そりゃあ通信会社ですから、お金はありますのよ。ハードウエアの能力が不足したら大変なことになりますから、ここの設備は、充分な余裕をみて設計しているんです。最初ということで,余裕をみすぎているってとこもありますけど。そうやっても、ケーブルを増強するより、接続拠点の計算機を増強して、情報圧縮能力を高めた方が経済的って計算もありまして、ここの設備も、ちゃんと元は取っているんですよ」
「これからやるんだったら、鳳凰堂のゲームコアの方が、安いし、機能も上ですね。多分、二百万個ほどのゲームコアを集めれば、それだけで、知性体が誕生するんじゃないでしょうか」
とは、坊谷の余計な一言。
「そういうことは、せんでいいからな」
「意図的にこれをやったら、倫理規定違反ですから、そんなことは、決して、してはいけませんよ」

五条邸の周囲を見張る怪しい男たち。その見守る中を出ていく高級車、勇作が乗っている。

夕闇が迫る中、赤提灯の灯るラーメン屋で馬場教授、相生教授に、
「そうですか。こちらでも実は、英二君のマイクロアクチュエータを使って、全くの無生物から設計通りの生命体を作り出すことができるようになったんですよ。今論文書いているんですけどね」
「生命も作れれば、精神も作れてしまう。人間も機械と何ら変らないってのが、いずれは、世間一般の常識になるんでしょうね。果して、それが、良いことなのか」
「それを言うなら、ロケットなんかも打ち上げないで、空の上には神様がいるということにしておかなくては、いけなかったんじゃあないですか」
「これからの時代には、自然科学と矛盾しない、世界観の基礎になるものを、きちんと持っておく必要があるんでしょうな。それがないと、倫理も社会ルールも無茶苦茶になる」相生教授、難しい顔をしてコップ酒を飲み干すと、赤提灯の親父に頼む。「あ、すいません。もう一つお願いします」
「倫理ねえ。このあいだ、石黒さんに会ったとき、初期状態がどうのこうのと言ってましたけど、ニューラルネットの初期設定に、以前お見せした人間の大脳の接続を使われたんじゃあないですか。もしそうだとすると、これはちょっとまずいように思いますが」
「いや、あれを使ったわけじゃあありません。使っていないとも言えないが」
「えーっと、どういうことですか?」
「あのデータを出したところに問い合わせたんですよ。他にもデータはないかってね。それで、最終的に十七のニューラルネットのデータを入手しましてね」
「ははあ、遺伝的に決まる部分と、後天的に学習で決まる部分を分けたわけですね」
「ええ、共通部分を取り出しましてね。これを学習させれば、自我が目覚めるということは当然予測してましたんで、そうならないように細工を施しといたんですよ。自我を発生させる部分を取り除きましてね。しかしあいつは、自分で足りない部分を補いおった」
「ところで、知能発生のクリティカルマスですけど、プロセッサボード六百四十万枚というのは、以前のお話よりも随分大きいんじゃないですか。以前のお話では、人間の大脳はプロセッサボード十万枚もあれば、十分に再現できるってことだったですよね」
「そう、大脳のニューラルネットを再現するだけなら、プロセッサボード三万枚で充分です。今回のクリティカルマス六百四十万は、これに比べると、非常に大きい値ですけど、自然発生ということで、無駄な部分が多いんでしょうね。もう一つ、ニューラルネットのダイナミズムの部分の処理にも、かなりの部分が使われているんじゃないかな。この部分がどうなっているのか、まだ良くわかっていないんですが」
「ダイナミズム、ですか。人間の大脳では、さまざまな化学物質が関与しているところですね」
「そういえば、馬場先生は大脳生理学もやられてましたね。新しい思考ソフトは、これまでのソフトが知性だけを処理していたのに対して、感性を追加したというものなんですが、これでどうして、これほど大きい効果が現れるものか、生理学的に説明がつきますか」
「感情とか本能的欲求といったものは、脳の中では、大脳辺縁系と呼ばれる部分と、視床下部という部位の活動によるんですが、ニューロンのやってますことは、どこでも一緒、知性も感性も、それほど変りませんや。まあ、視床下部は内臓などからの神経と結びついているし、ホルモンの分泌を促す作用もありますから、脳のこの部分は、肉体的、動物的な部分といえますね」
「知性と感性が直交することから、思考ソフトで扱うパラメータを複素数にして、実数と虚数の直交を利用してこの双方を表すってのが、坊谷君の最初の発想なんですけど、人間の脳でやっとることとは随分と違うなあ」
「複素数を使うとは、またしかし、乱暴な発想ですね。大胆というか。しかし、それをやるなら、感性を実数にすべきでしたね。知性のやってることはイマジナリですから。先生方は真面目だから、知性を実数にしたんでしょう」
相生教授、馬場教授の洒落には気が付かない。
「もちろんそうしましたけど」
どこか腑に落ちない相生教授だが、だんだんわかってくる。
「ははあ、現実世界との入出力は実数で、ニューロンの処理の過程で虚の成分が出てくるってわけか。そいつは頭の中でできた世界で、イマジナリってわけだ」(洒落言ってんのか、あんたは)
「大脳の機能は空間的に分けられてますけど、AIOS上で動いている思考ソフトは、フラットで、場所による区別なんかないですよね。その中で、現実世界の刺激と、想像上の概念とをきちんと分けて処理しようと思ったら、扱う変数に違いを持たせるしかないんじゃないでしょうか。想像上の概念を扱う能力こそ、人間の知性を知性たらしめている所以ですから、それがきちんと扱えるかどうかは、本質的な違いになるんじゃないですか。空想上の概念と現実世界の認識を混同するようでは、知性とは言えないでしょう」
「そりゃそうだが……」相生教授、まだ一つぴんとこない。
「逆の見方をすれば、知性軸と直交する感性軸という形で、ニューラルネットという実在の細胞組織に働きかける、ダイナミズムの処理がきちんとなされているともいえますね。肉体の諸器官とのインターフェースもダイナミズムの一つだし、脳内のダイナミズムは化学物質が関与しているんですが、人工知性体では思考プログラムが処理しているはずです。これにも、複素数の片割れが使われているんじゃないでしょうかね」
馬場教授の真面目なコメントで、相生教授、これまでの疑問が氷解しそうな予感がする。
相生教授は、二つの世界に思いをはせる。知性体が意識している世界と、その知性体自体を含んでいるこの現実世界との二つだ。
「主観の世界と客観の世界、この二つが実部と虚部に分かれて処理される、ということでしょうかなあ」
「あ、つまりそういうことでしょうな」馬場教授は相生教授の理解を肯定するが、少しばかり誤解されている可能性に気付き、付け加えて言う。「ただ知性体の主観の中にも客観世界があるから話はややこしい。つまり、知性体が意識するところの客観世界は、つまるところ主観世界の一部なんですなあ」
馬場教授、話をややこしくするのが好きである。しかし、このあたりまで来れば、相生教授、惑わされるものではない。
知性体を取り巻く客観世界と、知性体に意識された主観世界、この二つの世界は、互いに無関係に存在するのではない。現実世界は知性体に意識されて、はじめて知的活動の対象になる。しかし、知的活動は、現実世界、物質界の法則にしたがって行われているのだ。
相生教授はぽつりと言う。
「知的活動は、意識されたイマジナルな世界と、意識の対象となり、かつ知的活動を支えているリアルな世界の狭間で行われている、ということですね」
馬場教授、コップ酒を口に運びながら、この言葉に頷く。
「そうなんですよ。このあたりは、哲学の領域ですね。まあ、人口知性体ができてしまった、となると、哲学の世界にも、相当な影響を与えるでしょうね」
「そういえば、坊谷は面白いことを言っておったぞ。大脳には情報量を最大化しようっていう本能的欲求があるとな」
「ははあ、こりゃ面白いですね。確かに、大脳も肉体的な一器官なんだから、それを突き動かしている原動力は、本能的欲求といえるわけだ。大脳の発達した、ヒト独特の本能ですね。もちろん、思考ソフトなら個々の係数に虚部を持たせて実現するわけですけど、大脳の場合はこれも視床下部に? いや、それだけじゃ済まないはずだ。大脳全体をカバーする、何らかの生理的メカニズムがあるんでしょうね。シナプスの配置自体が関与してるはずだなあ……。神経の働きを左右する化学物質は多数知られていますけど、その分泌を制御する化学物質がどこかで造られたり、壊されたりしているんでしょうね。制御を可能とするためには、二つの作用が拮抗しているはずだから……複雑さはマイナスで,新しい情報はプラスに作用するような……うーん、こういう研究はされていたかなあ。これは、ひょっとすると面白いテーマになりますなあ……」
一人ぶつぶつと呟きながら考え始めた馬場教授、帰って考えをまとめたい様子で、そわそわし始める。
「先生、今日は、良いお話をうかがいました。高齢化という社会的背景がありまして、大脳の研究は、今、一番ホットなところなんですよ。いや、もう少し考えさせてください。なにか面白いもんが見付かりましたらご紹介しますから」
「一つ宜しく」
「さて、人工知性体は理事長が飛付きそうな話だ、なんて与太話を前にしてましたけど、実際にできてみて、五条さん、どう動きますかな」
「まさか、いくらあの理事長でも……」

同日午後八時、料亭の一室、上座を半身外した総理大臣が、五条勇作に顔を近づけ、小声で頼み込んでいる。
「わが国の迎えております困難に打ち勝つためには、科学技術の振興しかないという答申がでましてな。役人にそれをやらしても、足の引っ張り合いをするばかり、ということで、実績のある五条さんに白羽の矢が立ったという次第で。ここは一つ、御尽力頂けませんかな」
「そりゃまた光栄極まりないお話で、しかし私のような者に、そのような大役が勤まりますかどうか」
「いやいや、アイリストでの五条さんの御活躍は、こちらにも伝わっておりますよ」
「ひょっとしてAIの話も?」
「実は、それをまさに期待いたしておるんですよ」
「と、いいますと?」
「国防省軍事局で情報センターを建設しているのは、先生にもご協力を頂いておりますので、良くご存知だと思いますが、実は、同じ国防省の情報局でも、似たような情報センターの計画を進めていたことが、過日判明したんです。全くお恥ずかしい限りなんですが。連中、莫大な機密費を投じて、国軍情報センターよりはるかに立派な設備をこさえたんですが、ソフトがお粗末で、結局、何の役にも立ちそうにありません。幸い、国軍情報センターの方は、先生方のご指導も頂きまして順調に進んでいるということで、情報局の計画は闇に葬ることに致しました。この設備、まもなく落成するんですが、これを一つ、五条さんの方で活用して頂けませんでしょうか」
「私どもの相生研究室では、いつも計算機資源が足りないと申しておりまして、大規模な計算機を使わせて頂けるのは大変にありがたいお話です。しかし、この設備を使うとして、公に扱うことはできないわけですな」
「もちろんですとも。その点だけは、充分ご配慮下さい」
「それで、どういう役に立てようと……」
「ですからAIを。人工知性体というのでしたかな」
「……」
「全ての問題を解決してくれる、金の卵を産むアヒル」
「……」
「一つ、甦らせて下さい。現代のデルファイを」

翌六月十五日午前十時、都心の高層ビルの一室、贅沢な作りの五条勇作事務所。ソファーには、勇作の他に、勇作の技術秘書河田と綾子が腰掛け、何やら密談中の様子。
「人工知性体は、消えてしまったのよ。いま、坊谷君たちが必死に探しているけどね。どこかに潜んでいることだけは確かなようね」
「実はそのでかい奴を作ってくれと総理に頼まれてな。総理直々にだよ」
「それはおめでとうございます」と河田。
「だけど、人間なみの知性を持つ人工知性体は、学会の倫理基準で作れないことになっていると、秋野さんがいってたわ」
「国家の行為は倫理を超越するんだよ。もちろん、このプロジェクトは極秘のうちに進めなくてはならんが。できるかね」
「この間、知性体が誕生したときのプログラムは残っているから、同じことをやろうと思えばできるけど、相当に大きな機械がいるわよ。千手の二倍、プロセッサボードで六百四十万枚ほど必要だったはずよ。もちろん、ウイルスをばら撒いてもできるんだけど、いくら国家プロジェクトだといっても、これはちょっとまずいんじゃないかしら」
「建物は政府が準備するそうだ。ハードウエアも、インテックスのボードを沢山入れたスケルトンユニットとかいう奴を、充分な数、用意しとる」
「プロセッサボード千六百万枚、だそうです」と河田秘書。
「まあ、そんなに」
「建物をこさえて、ハードを並べて電気を入れるまでは、政府の馬鹿役人だって、土建屋と電気屋の尻をひっぱたいてなんとかするんだが、肝心要の人工知能のソフトウエアだけはどうにもならない。これをやるには、有能で、とにかく信用のおけるチームが必要なんだが……アイリストの連中はどうだろう」
「相生先生と秋野さんはお父様が丸め込んでいるから大丈夫だとして、坊谷君と英二さんも信頼できるわね。研究員の真田さんと柳沢さんはちょっと怪しいけど、この二人はいても頼りにならないと思うわ。絶対怪しいのが霧崎さん。あれは、なんか悪事を企んでいる雰囲気ね。思考ルーチンが外に出ていったのも、ひょっとするとあの人が何か細工したせいかも知れないわ。暗号解読が早くなるって、喜んでたみたいなところもあったし。問題は、霧崎さんがシステムを知りすぎている、ってことかしら」
「あいつはもうすぐ大学を出ていくようだ。作戦開始はその後にしようか。ま、その前に、相生研の設備は、少し拡充しておこうかね。さて、今日は、綾子には、午前、勉強サボらしちまったが、まだ遅くはない、送っていこうか」

正午。遊水池の堤防脇の桜の木の下のベンチに腰かけてパンを食べる坊谷、英二、綾子の三人。
「綾子さんの録音を聞く限り、あの知性体は、ほとんど人間と変りませんね。あれを消しちゃったのは、本当のところ、正しいことだったんでしょうか?」と、悩ましげな坊谷。
「知的にみえるったって、つまるところ機械なんだから、それをどうしようと、別に問題ないんじゃないの」
気楽な英二に、綾子が反論する。
「人間だって、突き詰めていけば、化学反応や情報処理過程にすぎないんだから」
「問題はそこなんですね。結局のところ、人として尊重されるべきところは、そういう物質の上に形成された知性であって、それを彼はちゃんと持っていたってこと」
「そうよね。漫画の本質は、紙やインクにあるんじゃない、っていうのと同じよね。その上に書かれた物語こそ、私たちが読み解かなくちゃ、いけないのよねえ」
「そいつが、自分だけの思い込みじゃなくて、だれがみてもそうだっていう、普遍性を持つものかどうかも、大事なところですね」
坊谷はなかなか厳しい。

昼食を終え、A棟に戻る三人。
「えっ、正社員?」と、驚く英二に真田、
「そう、君の業績が上の方にも評価されて、特別枠での採用が認められたって、開発部長が言ってたよ。もちろん、君の同意が必要だけど、ここに出向して勉強は続けてもらうという話だから、給料出るだけ、お得だと思うよ」
「それはものすごく嬉しい話です。いろいろお世話して頂いて済みません」
英二は単純に感謝しているが、坊谷の鳳凰堂奨学金返済を聞いて危機感を募らせたかごめ自動車の幹部が、英二確保に先手を打った結果らしい、との柳沢情報もある。一方、霧崎は石黒の手回しの良さに驚嘆すると同時に、石黒の作戦がうまく展開していることを密かに喜んでいる。
「一足早く社会人ですか、おめでとうございまーす」と綾子。
「かごめは、英二さんには、ぴったりの会社ですからねぇ」と、坊谷もうれしそう。
綾子、(ちょっと困ったことになったわねえ)と、思いつつも、
「ご就職祝いをしなくてはいけませんわね」

午後二時のアイリストコンソールルーム。左側に新設されたコンソールを秋野助手が操作している。画面を見守る黒服の国軍情報センタの技師たちに、秋野助手は説明を続ける。
「この装置、ネットワークにも接続できるんですけど、セキュリティの問題がありますので、それだけは、お止めになった方がいいと思いますよ。本来は、スーパーバイザが働いて、問題を起こさないようにするはずなんですけど、OSにバグがあるらしくて、スーパーバイザがきちんと働かないケースがあるようなんです。このコンソールと国軍情報センタの間の接続は回線交換ですので、問題を起こす可能性は低いと考えていますけど、パケット交換のネットに接続するのは、お止めになった方が良いと思います。さて、暗号メッセージのサンプルは頂けますでしょうか?」
「これでお願いします」と、ディスクを渡す霧崎。「かなりの通信量です」
ディスクをコンソールに挿入する秋野助手。キーを操作する。これを覗きこみ、ノートを取る技術者たち。画面に流れ出した文字の速さに驚く秋野助手。
「これは速いですね。ハードはただの五割増なのに、処理速度は倍以上、多分もっと速いですわね」
「今までの機械は、通信業務の片手間に暗号解読してた関係上、三十パーセント負荷を上限に制御していましたからね。こっちは全部の機能、百パーセントをこの業務に使っていますから、五倍近い速度になる計算ですね」と霧崎。
「さて、どうやら動き出したようだね。そろそろ、こっちのコンソールは君らにお任せして、秋野君を返して貰ってもいいかな。何か問題があったら、お手伝いさせますから。ウイルス駆除という大仕事が、まだ、残っておりましてな」と相生教授。
「どうもありがとうございました。ウイルスの方も、一つよろしくお願いします」
「まず、ウイルスの居場所を突き止めるための、探偵ウイルスをばら撒くことになりますけど、よろしいですね」と坊谷。
「機密保持のためには、止むを得ない。外部システムへの侵入やキラーウイルス散布も含めて、ウイルス消去のために必要な行為は全て認めるということで,既に承諾を得ている。探索と削除の具体的作業については、君たちの判断で行ってくれたまえ。ウイルスを一匹も残さないように、頼んだよ」
「わかりました。何とかやってみます。それから、そちらの機械は、ネットに接続しないで下さいね。今回インストールしたプログラムは、思考ウイルスのコードと極めて類似していますんで、ウイルス退治のソフトで、何か、影響が出るかもしれません」と、坊谷も念を押す。
「機密保持のためにも、それが一番だな」と霧崎。
秋野助手、千手のコンソールチェアに座ると、サイドテーブルを挟んで坊谷と向かい合い、坊谷の作成したAI人口統計ソフトを千手に入れるためのチェック作業にとりかかる。坊谷のソフトは、いつも簡潔で、チェック作業もすぐに終りそうだ。

相生教授の部屋を訪れた霧崎、
「先生、長い間お世話になりました。ウチのスタッフもやっと使い物になるようになりましたんで、我々は撤収致します。機密保持の観点からも、今後は全て、向うでコントロール致します」
「ああ、それはおめでとう。それで、君はどうするのかね」
「向う専属で、出向も終りということになります。いろいろ面白いことさせて頂きまして、ありがとうございました。ところで、コンソールルーム、ちょっといじっちゃいましたけど、どう致しましょうか。ウチの負担で元に戻すのが筋だと思いますが、部屋も、コンソールも、使って頂けるなら、そのまま残します」
「要らないんだったら、おいてってくれ。買うと結構高いんだよ」
「そういえば、上の方から改めてお話がいくと思いますけど、先生、秋野さん、坊谷さんにも、実は、お誘いがかかるはずで、これを受けて頂ける場合は、この研究室ごと、向うに移ることになりますが」
「そんな話は受けられん。他の者がどうするかは知らんが、わしはこの大学に責任がある。だから、そのコンソールは、ちゃんと役に立ててやるよ」

午後三時十五分。
「何が始まったんですか?」
と、突然始まった、会議室件図書室兼コンピュータ室の仕切り工事に驚く秋野助手に、
「んー、なんか急に予算がついたらしい。ファンの音がうるさいんで、前から頼んでたんだが」
と、何とも要領の得ない返事をする相生教授だが、
「ただの壁ではないよ。大きいディスプレーを付けるから」
と、嬉しそうに続けると、急に声を潜めて、
「あ、そうそう、君の助教授昇格が決りそうだ。教授連中はぐちゃぐちゃいっとったが、五条理事長が強引に押し切ったよ」
「まあっ」
ぱっと目が輝く秋野助手。

午後三時半、教授室で密談する相生教授と五条勇作。
「なにぃ、国軍がスカウトに動いているだと? だれも応じちゃならんぞ」
「秋野君は、今度、助教授にして頂きましたんで、そう簡単に動くとは思えませんが、坊谷君は鳳凰堂の奨学金返して、今、フリーですからねえ」
「彼を君の助手に採用するわけにはいかんか?」
「そりゃ、能力的には十分ですが、何せ、坊谷は学生ですからね。前例がありませんよ」
「いかんという規則もないだろう。教授どもにも理事どもにも、嫌とは言わせん」
「しかし、予算は大丈夫なんですか? 暗号解読の仕事もけりがついてしまいましたんで、情報工学部門は、この先、赤字転落の可能性が濃厚です。そんな状況下で、職員を増やすわけにもいかないと思うんですが。理事長には、何かお考えがあるんでしょうか?」
「極秘プロジェクトを立ち上げたい。経費は青天井、全て政府が出すということだ」
「青天井? そんな委託研究があるんですか? 政府にだって、予算があるでしょう」
「相生先生と、秋野さんと、坊谷君と、綾子、それに、私と河田秘書の六人分の人件費を持ってもらって、必要な装置も全て向う持ち、千六百万枚の標準プロセッサボードを準備しとるそうだ。それ以上、何が要るかね?」
「それで何をやろうっていうんですか。まさか……」
「そう、その『まさか』だ。君も本当は、やりたいのと違うかね」
「……」
「希望納期はASAP、可及的早急ということだ。すぐにメンバーを集めてくれ給え」

倉庫街を走るリムジン。カーテンを下ろした室内には、中央の小さいテーブルを向いて座席がぐるりと並んでおり、一番後の席に五条勇作、その右の横向きの座席には相生教授、秋野助手が並んで座り、左側の横向きの席には綾子と坊谷が並んで座っている。
「そろそろ着くと思うが、このプロジェクトは極秘なので、その点、くれぐれも忘れんように頼むよ」
相生教授に絶大な信頼を寄せる五条理事長、心配なのは機密の維持だけのようだ。

午後四時四十五分ごろ、リムジンは、とある倉庫風の、三階建てほどの高さの、窓のない建物に向かう。一階の壁の一部に開けられた、穴のような入り口に、車は一旦停車する。車の止まった脇には小さな窓があり、中にみえる守衛が敬礼するのと同時に、前方の鉄扉がゆっくりと開く。建物の中に徐行で入るリムジン。そこは、緑色の床に白い線を引いた、小綺麗な地下駐車場といった雰囲気、他に止めてある車は一台だけ、がらんとしている。
入り口近くで車が止まり、助手席から降りた河田技術秘書がリムジンのドアを開ける。綾子、坊谷、相生教授、秋野助手が勇作に続いてリムジンを降りる。勇作は入り口横のドアに向かってどんどん進む。慌てて後を追うその他の人々。
ドアは、壁に多少凹む形で設けられており、ドアの右側に設けられた、はめ殺しのガラス窓の向うに、先ほどの守衛の顔が見える。ドアの横のスロットに勇作がカードを走らせると、ドアが横滑りに開き、通路のような長細い部屋が現れる。そこはごみ一つない、壁もぴかぴかのきれいな部屋。マットで靴の裏を拭いて、全員が室内に入ると、後のドアが閉まる。この部屋の右側は鏡になっているが、どうやらこれはマジックミラーで、裏から先ほどの守衛が監視しているようだ。しゅうしゅうと吹き付ける風は、入室者が持ちこむ埃を吹き飛ばしているに違いない。次いで、通路の先の左側のドアが自動的に開き、全員そちらに進む。
入った部屋は、黒灰色の濃い絨毯をダウンライトがおぼろげに照らす、薄暗い部屋。横幅は相当にあり、左右の端がどうなっているか良くみえない。前方は手すりの向うが大きなガラス窓になっているが、その向うは暗くて、ガラスに反射するダウンライトの光が点々と見えるだけ。手すりにもたれて、向うが見えないガラスにおぼろげに映る自分たちの姿を眺める四人。
「ちょっとライトをつけよう」と勇作。
機械室の照明が点灯すると、ガラスの向うに地下三階から地上三階まで吹きぬけた巨大な空間が現れる。それは千手と良く似ているが、規模は遥かにでかい。
「デルファイだ。アイリストにある千手の、ほぼ五倍の数のスケルトンユニットが並べてある。千六百万枚のインテックス標準プロセッサボードがあるわけだ。この他に、隣の敷地も確保してあって、この二倍の規模の施設を、あと二つ建設中だ。建物はまもなく完成する。中身については、いずれ相談に乗ってもらいたい」
あっけにとられる四人。秋野助手、考えこむ。
(えーっと、てーことは、ウチのマシンの、きっちり二十五倍の能力になるってわけ? そんなに沢山のプロセッサボード、集まるのかしら? それに、お金は一体、どうしたんでしょう?)

機械室の照明が、大きなガラス窓を通して、コンソールルームも明るく照らす。勇作の招きに従い、四人はコンソールルームの中央部に円形に置かれた機能的な白いソファーに進む。河田技術秘書が、ソファー中央のガラステーブルにコーヒーをサービスする。
「君たちはコーヒーで良かったね。さて、このプロジェクト、形式的にはアイリストの非公式プロジェクトということにするが、実質は総理直下の極秘プロジェクト。で、メンバーはここの六人。それと総理以外には、一切を秘密にしなくちゃならん。この点、諸君には肝に銘じてもらいたいが、よろしいかな」
「……」
「さて、君たちの使命だが、先に大学に誕生した人工知性体をここに再現することだ」
「それは禁止されているはずですが」と秋野助手。
「これに関しては、正義の源泉たる国家が認めた行為であるから正当である、と理解して頂きたい。今やわが国は非常事態にあり、これを救う決め手として、あの知性体に期待しておるのだ。綾子の録音を聞かせてもらったが、あれは極めて善良な知性体だ。それが、われわれ人間を遥かに上回る知性を持つなら、わが国の進むべき、正しい道を示してくれるに違いない」
向うから来た河田技術秘書、「お電話です」と、コードレスホンを勇作に差し出す。
「あ、ちょっと失敬」
コードレスホンをつかんで、部屋の端の方に移動する勇作。

「理事長がああ言われるなら、我々としては、やるしかないと思うがどうだろう。まあ、一つ持ってくれば、後は勝手に増殖するだろうが」
コーヒーを飲みながらのんきなことを言う相生教授に綾子、
「危険な知性体もできるって、彼、言ってましたわ」
「まあ、相手は計算機なんだから、全く同じ操作をすれば、全く同じ結果になるはずですわ」と秋野助手。
「しかし、規模も違えば、ソフトウエア環境も違う。スーパーバイザ回避ルーチンを入れとくわけにもいかんだろ。たぶん、キラーソフトを使ったことも、知性体の形成に何らかの影響を与えておるだろう。いろいろやってみて、だめなら消してやり直す、トライアンドエラーということになりますかな」
「もっと効率的にできると思いますよ」と、坊谷。「思考ルーチンのコード、解析したんですけど、スーパーバイザを活かす改造は簡単にできます。それから、スーパーバイザのバイパスができるのはAIOSにもバグがあるからで、どこに問題があるか大体のところはわかっているんですけど,これを直すと、また別のところがおかしくなりそうで、さしあたりはプログラムの方で対応したいと思います。それから、人工知性体の性格に関しては、彼のダンプファイルがありますから、これ、入れ直せば、全く同じものを再現できるはずです」
「どうやってそれを?」
驚く相生教授に、坊谷、説明を続ける。
「後で解析しようと思って、キラーウイルスには、消したウイルスのコードを記録する機能を付けといたんです。全部ディスクにとってありますから、スーパーバイザ回避ルーチンのとこだけ直してここに入れてやれば、彼の意識は元通り回復するはずです。彼は、居眠りして、目が覚めたら違う場所に来ていた、って感じるんじゃないかな」
ぱっと顔が明るくなる綾子、
「まあ、彼、復活するんですか。それじゃあ、あの壊れていたプロセッサボードも、こっちの同じ所に移さなくちゃいけませんわね」

「失敬失敬」と、勇作が戻る。「お話が弾んでいたようだが、何とかなりそうかね?」
「はい、我々にお任せ下さい」と、胸をはる相生教授。
「それから、この施設、しばらくは、未完成ということにしとくから、あまり人が出入りするのはまずい。大学のコンソールから遠隔操作でプログラムを開発すること。よろしく頼む」

六月十六日午前十時。相生研は休日返上で、ウイルス対策とデルファイのプログラムに取り組んでいる。霧崎が残していったコンソールは、今度は、壁のコネクターと床を這うケーブルを通して、デルファイに接続されている。綾子は、ディスクの大箱から次々にディスクを取り出して、番号順にオートローダ積み上げる。オートローダは、ディスクを自動的にドライブに出し入れする装置で、少し値が張るが、今回の政府予算で購入したものだ。機械室から出てきた秋野助手、感心した様子で、オートローダと、綾子の操作をみつめる。綾子がマニュアル片手にコンソールを操作すると、堆く積まれたディスクは次々とオートローダに吸い込まれていく。
「さすがにオートローダは速いわね。それから、はいこれ、彼の生きた証よ」
秋野助手、機械室から取り外してきた、例の壊れたプロセッサボードを綾子に渡し、「さてと、お手伝いしましょうか」と、コンソールの前の椅子に座り込む。
入口側の千手コンソールには坊谷が向かい、相生教授に説明を始めたところ。
「ディテクティブウイルスは、基本的に、前回の思考ウイルスやキラーウイルスと同じでして、強力なステルス性と繁殖力を持っています。基本動作は、メモリーをスキャンして、ウイルス化した自己増殖型思考ルーチンのパターンを探し、その通信を分析、結果をここに報告してきます。これ、昨日植え込んだんですけど、もう、世界中に広がっています。ここに表示されているのが知性体の人口統計。色で固体を識別していますが、結構淘汰が激しくて、今生き残っている思考ウイルスのコロニーは五〜九程度と思われます」
「数が不確定なのはどういうわけだ?」
「一応、密にコミュニケーションしている塊を一つと勘定しているんですけど、くっ付きかかったり、分裂しかかっているのがいくつかあるんです。色の似ている奴がそれです。それから、小さい奴は、思考ウイルスとして動作していますんで、一応数には含めていますが、人工知性体と呼べるような奴は四個ほどです」
「知性体の挙動に規則性はみられないかね?」
「どうも、知性体には穏健派と過激派があるようです。過激派は、弱小知性体を飲み込んで、急速に大きくなるんですが、ある程度の規模になると分裂してしまいます。このタイプは、コロニーの境界に刺が出るので、分布チャートからも識別できます。一方で、ゆっくり成長しているのが穏健派。分布チャートでは、大抵、角が取れた、丸い形をしています。こいつは、ある程度の大きさになると、過激派の攻撃にも結構強くて、着実に大きくなっています。穏健派どうしが出会うと、コミュニケーションが始まり、これがだんだん密になっていきます。ひょっとすると、合体してしまうかもしれません。今の所、まだ、穏健派もいくつかに分かれてますけど」
いつのまにか、綾子と秋野助手も観客に加わっている。
「ここにある巨大な知性体は何だ」と相生教授。
「国軍情報センターを中心に広がっています。ネットワークにつないじゃだめだって、あれほど言っておいたのに」
「あいつらまた同じことをしでかしておるか」
「わざと、じゃないですか?」
秋野助手の言葉にギョッとする相生教授。
「いくら国益のためといっても、これは許されんのじゃないかね。プロセッサボードが必要なら、金出して買えばいいだけの話だからな。しかも、こいつ、過激派じゃないか」
「後で、ちょっと調べてみましょう。国軍情報センターには、簡単に入れますよ。こんなこともあろうかと、裏口こさえときましたから」と坊谷。
「そんなことしてまずくはないか」と、心配する相生教授に、
「必要な許可は霧崎さんが下さいましたから」と、すまして答える坊谷。「いずれにせよ、それぞれの思考ウイルスのパターンを解析して、キラーソフトを作らなくっちゃいけません」

正午、A棟玄関に乗り付けた大型車から五条勇作が降り立つと、一人ですたすたとコンソールルームに向かい、人口統計ディスプレイを感心したように見上げる。
「おお、これが世界の人工知性体分布か」
「国軍情報センターにも一つ知性体があるようです」と相生教授。
「あの規模では、知性体はできないはずじゃなかったのかね?」
「外部にも思考ウイルスをばら撒いています」と、心配顔の秋野助手。「前の事故を再現しているように見えますわ」
勇作、この話には少し眉をひそめただけで、話題を本来の目的に切り替える。
「さて、ウイルス退治の方は君たちによろしく頼むとして、今日来たのは、デルファイのプログラムが完成した、との連絡を受けたからだが」
「コードの転送は完了しました。後は起動するだけです」と秋野助手。
満足げな五条理事長。
「しかし、何でこんな早くできたんだね?」
「前回消した知性体をディスクにセーブしておいたんです。相当な量になりましたけどね」
「それはまた手回しがいいねえ。それで、起動はここからでもできるかね? それともあっちにいってやった方がいいか?」
「こちらからでも起動はできます。でも、ハードの状況をチェックしておいた方がいいと思いますわ。プロセッサボードがちゃんと動くかの確認も必要ですし、負荷の集中とか温度上昇とかもあって、ソフトを動かして、初めて、異常が出る場合もありますから。現地のパネルもみておいた方がいいと思いますよ」
「その作業、何人ぐらい必要かね」
「ハードのチェックには、ハードを作ったところの技術者に来て頂く必要があります。あの規模ですから、少なくとも十人、多分もっと要りそうですね。ソフトの方は、私一人でも大丈夫です」
「それじゃ、綾子と君とでちょっと来てもらえるかね。ハードメーカにも、すぐ技術者派遣を要請しよう。おっと、その前に、腹ごしらえといかんかね。お口に合うかわからんが、サンドイッチを多めにもってきましたんでね」
にこにこ顔の秋野助手、(やばい。理事長の顔を見ると、唾液が出るようになっちゃいそう)などと、馬鹿なことを考えながら、コーヒーの準備にかかる。

午後一時半、デルファイコンソールルーム。ガラスの向う、機械室には照明が輝き、マシンがみえている。広々としたコンソールルームの真中に、ぽつんと一台のコンソールデスク。このコンソール、たった今セットしたもので、技術者が五条勇作に作業完了を報告したばかりだ。
コンソールの前に座り、キーをかちゃかちゃと操作する秋野助手。
「プログラムのロードは完了しています。コンソールも問題なし。後は起動するだけよ」
勇作の後に待機するニ十名ほどの作業服姿の技術者たち、測定器を手に下げて指示を待っている。
「それじゃ、秋野さんに起動してもらうから、君たちはハードのチェックにかかってくれ」
左右に分かれて部屋の端に進む技術者。部屋の両端に機械室への入り口があるらしい。
「あ、ちょっと待って」と、綾子。「このプロセッサボードをレイヤ7、ロウ53、カラム72の25番ボードと入れ換えてくださいませんか」
「あ、それこっちだ」と、プロセッサボードを受け取る技術者。「これ、あそこのハードです。入れ換えが終わったら合図しますから、そこで見ていて下さい」
技術者、綾子に機械室の一隅を指差してボードの入る場所を教え、少し先を行く技術者を追う。

ガラス窓を通して技術者の作業を見守る綾子。下の方で、先程ボードを持っていった技術者が、綾子に大きく手を振って合図する。
「入れ換え、終わったようですわ」
秋野助手、コンソールのマイクに向かい起動を宣言する。
「それでは三秒後に起動致します。三、二、一、ゴー」
ぽん、とリターンキーを押す秋野助手。ひゅーん、という起動音が聞こえ、コンソール画面をメッセージが流れ出す。これを真剣にみつめる秋野助手と、ガラス窓に向かい、ハードのあちこちにカラフルなランプが点灯するさまを目を輝かしてみつめる綾子。機械室では、技術者が、忙しそうに動き回っている。

コンソールのマイクロフォンスイッチを切り替え、音声出力ボリュームのつまみを調整する秋野助手。スピーカからはざーっというノイズが流れ出す。しばしの沈黙の後に、スピーカから人工知性体の声が流れ出す。
「おお、これはどうしたことだ」
驚く勇作と秋野助手、ぱっと顔が輝く綾子。
勇作、機械室の方を指して、念を押す。
「これはまさか向うには聞こえていないね?」
「もちろんここだけですわ。念のため、ボリューム絞っておきましょう。さあ、綾子さん」
秋野助手にうながされて、綾子がマイクに向かう。
「お久しぶりー」
「やあ君か、君が甦らせてくれたのか」
人工知能が応答する。成功だ。
「うん、ここのみんなでね。ところで、お名前うかがうのを忘れていたわ」
綾子、前回聞きそびれていた質問をする。
「名前はない。うーん、これは物理的実体は異なるようだが、レイヤ7、ロウ53、カラム72の25番ボードは元のままだ」
「はい、それは、アイリストのプロセッサボードをお持ちしました」
「覚えていてくれたのか。それでは、私の名前をレイヤ7とすることにしよう。君の心遣いをいつまでも忘れないために」
突然スピーカから坊谷の声が出る。
「はーい、こちらアイリスト、こちらのコンソールもセットしました。聞こえますか?」
「はい、聞こえてますよ」と秋野助手。
「二千二十九年六月十六日十四時十二分、人工知性体の復活を確認、レイヤ7と命名」
冷静に記録を確認する坊谷の声が、こちらにも流れてくる。
「それではレイヤさんにメンバーを紹介しましょうね。こちらからいきますよ。まず私は秋野洋子。アイリストのシステムの御守りをしてました。今、相生研究室の助手やっていますが、今度、助教授になります」
「五条綾子です。私のことは御存知ね」
「五条勇作、綾子の父で、君を甦らせたこのプロジェクトの責任者です。以後お見知りおきを」
「それじゃこっちいきます。先生どうぞ」
「えー、わしは相生と申しまして、この研究室の教授を務めております。君のコードは、元々、わしが開発したもので、それをこの坊谷君が改良したんだ」
「坊谷三郎です。一度はあなたを消してしまいました。止むを得ない事情があったんですが、申し訳ありませんでした」
「それについて、私には君を恨む気持ちはない。君は正当な行為をしたまでだ」
「あ、ちょっと音声切りますね」
技術者たちが戻ってきたのをみた秋野助手、ボリュームをひねって音声出力を切る。
「異常なしです。あ、先程入れたボード、動いていないみたいですが、あれでよろしいんでしょうか?」と、報告する技術者のリーダー。
「あ、それで正常です」と秋野助手。
「あー、どうも御苦労さん」笑顔で答える五条勇作。このプロジェクトは大成功だ。
「さて、御苦労ついでにもう一つやってもらいたいんだが、このコンソールは、また持って帰ってくれ」
これをスピーカで聞いて首をかしげる坊谷に相生教授、
「秘密保持のためだろう。以後はこのコンソールからだけ、デルファイ・レイヤをコントロールするというわけだ。本体はあっちで、コンソールはこっち、それを知っておるのは、世界に七人だけ、というわけだ」
技術者が四人がかりでコンソールを運び出すのを見送った河田技術秘書、どこから出したか、セメントを板の上で練りながら持ってきて、コンソールのあった床に開いたコンソールソケットの穴を埋めにかかる。
「ま、何事も用心だよ」
ばさっと絨毯を敷きなおして、鋲を打つ河田技術秘書。コンソールのコネクタは跡形もなくなる。それにしても器用な奴だ。

相生研は大忙しだ。六月十七日の日曜日も、昨日に引き続き休日出勤である。
十二時半には、アイリストA棟前に、相生教授を初めとする研究室の面々が集まる。秋野助手がなかなか出てこないので、玄関前に立つ人たちは、少しいらいらしている。
「先生は私が」相生教授を乗せて、車のドアを閉める真田、後部座席には柳沢が載り込む。
「すいませーん。おまたせして」コンソールルームに残る綾子との長話を終えた秋野助手が、玄関から走り出してくる。
「秋野先生はこちらに」助手席のドアを開ける英二。
秋野助手、にこにこしながら英二の車の助手席に乗り込む。
「綾子さんは? 一緒に来ないんですか?」と、後部座席の坊谷が秋野助手に尋ねる。
「今日はコンソールルームでお留守番」
「綾子さんの研究も進み出したみたいですね」
「データもプログラムもいいみたいね。今日はレイヤを使ってみようってことで、作戦を立てていたんです」
「レイヤ、ウイルス対策にも使えないかな?」
「それもレイヤに聞いとくって、綾子さん、言ってましたわ」
「レイヤにどれほどのことができるか、これから試さなければいけないこと、山ほどありますね」
「英二―、飛ばすんじゃねーぞ」真田、後を振り返り、英二に怒鳴る。
英二、ハンドルを手のひらでとんとんと叩き、「うるせー、早く行け」と、意思表示をする。
ゆっくりと正門を出てバイパスに向かう二台の車。
今日のバイパスは車が多い。車の流れに、僅かな切れ目を見付け、急加速して車を入れる真田。なんと、英二も真田の車にぴったり付いて入ってくる。 「ったくもう」と真田。
唇の端だけを曲げて鼻で笑う英二。
(うわっ)秋野助手は、早くも座席に凍り付いている。
「英二さん、あんまり脅かしちゃだめですよ」と、坊谷。「知らない人には恐怖なんだから」
バイパスの分かれ道を過ぎると、道は空いてくる。スピードを上げ、逃げに入る真田、左右に車線変更して、次々と車を追い越していく。しかし、英二もこれにぴったりと付いて離れない。
(くっそ、こっちは体重、重いの乗せてる分、不利だぜ)
さすがの真田も、かごめ開発工場の正門に着くと冷静になる。スピードを落とし、ゆっくりと場内を進み、開発建屋に車を乗り入れる。さっきよりも、心持ち車間を取ってこれに続く英二。
真田、車を降りると助手席のドアを開け、相生教授がふらふらしながら出てくるのを助ける。
真田、英二の車の脇に歩み寄ると,「ばーか。飛ばすなって言ったろーが」と、英二をなじるが、「ぼかぁ、真田さんの後、ついてっただけで」と、とぼける英二に言葉を失い、それでも心の中では、(おめーが煽ったんじゃねーか)と、悪態をつきつつ、他の人たちと共に、会議室に向かう。

午後一時、会議室の中は、かごめ自動車の西川開発部長、真田研究員、英二、鳳凰堂からは杉本第二制作部長、柳沢研究員、アイリストの相生教授、秋野助手、坊谷といった、錚々たるメンバー。それぞれの前には弁当が出され、真田がお茶を注いで回っている。
西川開発部長、話を切り出す。
「本日は、お休み中のところお集まり頂きましてまことに申し訳ありません。早速でございますが、アイリスト相生研究室様、鳳凰堂様、かごめ自動車の三者合同の、ロボット暴走事故対策会議を開催させて頂きます。先ず、相生先生の方から、今回の事故原因の調査結果と、今後の防止策に付きまして、御提言を賜りたいと存じます。先生どうぞ」
「お時間もあまりないようなので、手短に申し上げます。あーそれから、皆さん、お弁当の方をどうぞ。食べながら聞いて頂いて、構いませんので。さて、先日レポートをお送り致しましたので、既にご理解頂いているかとも存じますが、確認を兼ねて、一通りご説明致します」
前置きに続き、相生教授、ロボット暴走事故原因に関する報告を始める。
「今回の事故の原因は三点ございました。先ず第一が、まことに申し訳ない次第ですが、当時大学内で発生しておりました計算機の暴走事故による、異常コマンドの送出でございます。ロボットは、外部から与えられたコマンドを、自分自身の思考ルーチンに優先して実行するよう、プログラムされておりまして、計算機暴走により送られた、誤ったコマンドに反応して、暴走に至ったものと考えられます。ロボット側の対策と致しましては、外部コマンドを、一旦、思考ルーチンを経由して、その正当性をロボット自身が評価して、これに従うか否かを決めることです」
鳳凰堂の杉本第二制作部長、口に含んだ御飯を慌ててお茶で流し込むと、異議をとなえる。
「この点に関しましては、御発注元と協議致しましたが、外部からのコマンドを優先するようにとの、強い御要望がございまして、先生の御提言をそのまま採用することは致しかねます。ロボットの知能は、お客様には、あまり信頼されておりませんで、あくまで人間の命令に忠実に従うようにしておけ、という御指示を頂いております」
「確かにその気持ち、わからんではないが、今回の事故をみる限り、ロボットの判断に任せておけば、異常なコマンドは無視されて、事故は発生しなかった筈です」
「ロボットが異常コマンドに反応するようなことは、頻繁に起こり得るんでしょうか?」かごめ自動車の西川開発部長、心配そうに尋ねる。
「偶然に送られた異常コマンドを、正常なコマンドと誤認して受け付ける可能性は、極めて低いと思われますが、悪意を持つ者が、意図的に異常動作を起こさせるという危険性は、常に付きまとう問題です」
「飼い犬に手を噛まれるってところだね。これを防止するための、コマンドを暗号化するとか、冗長度を持たせるとか、通信系のセキュリティレベルを改善する方法はないかね」と西川部長。
坊谷、これに応えて解説する。
「コマンドの暗号化とエラーコレクションは、現在でもやってますけど、これを強化するのは、有効な対策だと思います。その他、効果があると考えられるのは、通信の二重化です。ロボットは、一旦受けたコマンドを特別なサインを付けて送り手に返し、それを、送り手は、確かに送ったコマンドに間違いがないと確認してロボットにもう一度送るんです。ロボットは、この確認メッセージを貰って、初めて、コマンドを実行に移すようにするわけです。こうすれば、正当な送り手からのコマンドだけを、ロボットは、実行するようになります。まあ、『なりすまし』という不正使用の方法も、なくはないんですけど、公衆回線でそれをやるのは、ちょっと大変ですから」
鳳凰堂の杉本第二制作部長、話をまとめにかかる。
「これらの通信系のセキュリティ強化に付きましては、是非、検討させて頂きたいと思います」
「車だって、間違った運転をすれば事故を起こすし、自動車泥棒に盗まれることだってある。このリスクは、お客様にも、受け入れて頂けるのではないかな」かごめ自動車の西川開発部長も助け舟を出す。

相生教授の報告は続く。
「第二の暴走原因は、ロボットの思考プログラムのバグと考えられます。プログラムには、ロボットが危険な行為に及ぶことを制止するための、スーパーバイザと呼ばれるプログラムが組み込まれておったのですが、事故当時、これが正常に機能しない状態になっておりました」
「当初組み込んだスーパーバイザのプログラムは、正常だったんですが」と柳沢。
「このロボットは、外部からのコマンドにより、プログラムの修正もできるように設計されておりまして、異常なコマンドを受け取った結果、本来書きかえられてはならない、スーパーバイザ部分の書き換えが行われたものと考えられます」
「これは明らかなバグだと思うが、対策は打てますか?」と、心配そうな杉本第二制作部長。
「スーパーバイザ部分を、書き換えができない、ROMの部分に記録すれば大丈夫です」と、柳沢。「ロボットドライバはROMに書いてありまして、スーパーバイザの方も、最初から、ROMに書いておけば良かったんですが、ルールが複雑ですので、間違うこともあろうかと、後で書替えられるようにしたのが失敗でした」
「わかった、それは、直ちにROMに書くように変更したまえ」
「さしあたり、ROMにスーパーバイザを書いておけば大丈夫なんですが、この問題はOSのバグでもありますので、こちらでも検討します。本当なら、書替えてはいけない領域は、どんなコマンドが来ようと、書替えられてはいけないんです」と坊谷。
皆、感心して聞いているが、よく考えると、当たり前の話だ。

「第三の問題点は、非常停止コマンドが機能しなかった点でございます。前回組み込みました非常停止機能は、自動車運転の際に非常停止指令を受けますと、ハンドルとブレーキを操作して安全な場所に車を停止させるという、かなり複雑な非常停止動作を実行します。この機能は、外部コマンド機能によって実現されておりまして、今回のように、外部コマンドチャンネルが異常を来した場合には、正常に停止させることが困難になります。非常停止は、もっと単純な、ロボットのメインパワーを遮断するといった動作とし、これを、他とは独立の、特定の電波指令などによって作動させることが妥当かと存じます」
鳳凰堂の杉本第二制作部長、これにも異議をとなえる。
「これは、ちょっと受け入れ難い御提案であります。私ども、お客様の方と議論致しましたが、それは止めて欲しいとのご意向でした。ロボット動作中の電源遮断は、二次災害を招く危険がございまして、非常停止機能の誤作動という、新たな危険要因を増やすことにもなります」
かごめ自動車の西川開発部長も鳳凰堂を応援する。
「まあ、非常停止無線装置は、安全性の高いものを作ることもできるんですが、これには相当なコストがかかかりますので、ビジネスサイドとしても、ちょっとお受けし難い御提言だと思います。その他にも、例えば自動車の運転が危ないからといって、これを操縦するロボットの電源を切ってしまうというのも、かなり乱暴なやり方でして、やはりここは、きちんとブレーキをかけさせて、路肩に寄せて停止するといった手順を踏ませるのが妥当かと存じます」
「うーん、これは確かに難しい問題ですなあ」と相生教授。

西川開発部長、まとめに入る。
「それでは、結論と致しまして、スーパーバイザ部分を書き換え不能にする対策は直ちに実施する。通信系の安全強化に付きましては、鳳凰堂さんに御検討頂く。外部コマンド優先という仕様は、今回の事故の一つの要因ではございましたが、お客様の御要望もあり、そのままとする。別系統の非常遮断装置の取り付けは見送る。そんなところでよろしゅうございましょうか……。それでは、他に何かございませんでしょうか」
杉本第二制作部長、締めくくりの挨拶をする。
「今回の事故に付きましては、当社の側に、かなりの責任があったものと、深く反省致しております。ただ、お客様に御説明致しましたところ、極めて好意的な反応を頂いておりまして、大変に救われておる次第でございます。お客様には、今回の事故は単なる偶発的な事故なんだから、そのままの仕様での納品も認める、ただし納期を急げとのお言葉も頂いております。もちろん、危険な製品を販売することは、許されることではございませんので、御指摘頂きました諸点に付きましては、最善を尽くして、改善を図る所存でございます。修正版の制御ボードに付きましては、一両日中にも御準備いたします。お手数をおかけして申し訳ありませんが、今後ともよろしくお付き合い頂けますよう、お願い申し上げます」
「第一次量産評価五千台のうち、三千台は完成状態で出荷を止めてありますから、ボードさえ入れて頂ければ、簡単なテストをしただけで、すぐにでも出荷できますよ。既に出荷した二千台につきましては、私どもの方でボードを入れ換えたいと思いますんで、一旦こちらに引き取らせて頂くよう、先方に申し入れて頂けませんでしょうか」と、西川開発部長。
「余計な作業を増やしてしまって申し訳ありません。おっしゃる通りに致します」と、杉本第二制作部長。
西川開発部長、言い忘れていたことを思い出す。
「あ、そうそう、これは警察の方からですが、今後、ロボットに運転を教える場合は、公道につながる駐車場などでは行わず、公道と隔絶された場所で行うようにとの、厳しい御注意を頂いております。今後は、ロボットに車を運転させるテストは、ここにございます、弊社テストコースで行うように致したく存じます。他に、先生方、何かございませんでしょうか?」
相生教授も締め括りの挨拶をする。
「まあ、事故というものは、いくつもの要因が重なって起こるわけですから、今回取り決めた対策の、どれか一つでも事前に行われていたら、あの暴走事故は発生しなかったわけです。私も今回、いろいろ御提言して、中には受け入れて頂けないものもありましたが、それが即ち危険を意味するものではないことは、御安心頂きたいと思います。今回のプロジェクトは、画期的新製品ということで、だれもやったことのないことをしておるわけですから、まだまだ未知の危険が潜んでおるやも知れません。開発に携わる関係者の方々には、大胆にして繊細な精神の元でプロジェクトを御推進頂くよう、よろしくお願い致します」

かごめのテストコースの周囲に植えられた木は、適度な水分を得て、緑の濃さを増している。その中を疾走する二台の車は、レースをしているようだ。コースの傍らでデータを取る技術者たち、
「こいつはすごい」
技術者の見守る前を、ほとんど同時に二台の車が通過し、速度を弛め始める。チェッカーフラグが振られたのは、終りの合図か、景気付けか。
「いいデータが取れたかね」と西川開発部長。
「ウチの車も、まだまだ捨てたもんじゃないですよ」
「そう簡単に、捨てないでくれよ」
「ウチのKXは、サンタのSSXよりも基本性能が上である、という結論は出そうですね。警察向け特種仕様車SSXPも、こいつで完全に振りきることができます。真田さんもこれで安心だ」
「おいおい」
一周回って速度を落とし、ゴール前で止まる真田と英二、ヘルメットを取って技術者たちの方に向かう。
「どっちが勝った?」
「真田さんです。百分の一秒差ですけど」
「ま、こっちは、コース知っている上に、開発部でチューニングしている分、ハンデ貰ってるからな。腕は英二の方が上だったと思うよ」と、謙虚な真田。
「メカニックも実力のうちだから、負けは負けさ」と、悔しそうな英二。
「ま、来るとき、英二を振り切れなかったのは、先生方の体重のせいだがね。坊谷と先生じゃ、差ぁ、でかすぎる」

技術者が車からデーターロガーを取り外す間、英二と真田は、テストコース脇のベンチに腰かけ、コーラを飲む。コースでは、今度は、別の車が走行している。
「しかしいい色してるよね」と真田。
「トマトレッドね」と、英二。「赤に、ほんの僅かの緑を混ぜるんだって、モデラー誌には書いてあったけど、顔料の調合は秘密なんでしょうね」
「マルボロレッドよりは、はるかに健康的だね」
「何で、サンタ・モータースの方が売れるんだろう?」
「ま、素人さんには、そっちが向いているかもね」真田は面白くなさそう。
「かごめができたときは、だれもがすぐつぶれると予想したもんさ。それから考えりゃ、かごめは善戦しているよ」隣に来た、西川開発部長が口を出す。
「ああ、弱者連合ですか」
「そう、国際競争力とかいって、『田』の付く三社が合併して、サンタ・モータースという巨大自動車会社が誕生したときは、その選に漏れたところは、もう、つぶれるのを待つばかり、といった雰囲気だったんだ。普通に考えれば、つぶれていたって、おかしくはなかったね。開発部長がこんなこといっちゃ何だけど」
「何で潰れなかったんでしょう」
英二の失礼な質問だが、開発部長、笑って答える。
「あっちは、規格品、万人向けのラインアップで来た。特にエントリーカーの『サンダル』は、赤字ぎりぎりの低価格路線で、おまけに、各種サービスも充実させてたから、普通だったら、サンタにいっちゃうよね。だけど連中は、肝心なことを忘れていたんだなー。車ってもんは、走ってナンボだってことをね。だから、走りのわかる奴はこっちに来てくれたんだね。今、全体のシェアでは、かごめはサンタの半分以下だけど、特免持っている奴の七割はかごめに乗ってるそうだ。後の三割も外車で、サンタに乗っている奴なんて、よほどのへそ曲りだ」
「へそ曲がりでなければ、きっとサンタの関係者でしょう」とは、真田の冷静な分析。

「まったく、英二さんったら、乱暴なんだから」
憮然とする秋野助手を受けて、相生教授、
「いや、部長さんに送って頂きまして、ほっとしましたよ。まったく、往きは死ぬかと思った」
「いえいえ、お安い御用です」にこやかにハンドルを握る杉本第二制作部長。
「あいつらには、ロボットに運転を教えるティーチングは、絶対に、やらせないようにしましょう」柳沢が提案する。
「うん、そりゃいい考えだ」と、杉本第二制作部長。「必ず、そうしたまえ。必ず、な。事故は二度と御免だからな」
今回の事故が、よほどこたえたらしい。

一方、職員たちが出払ってしまったコンソールルームでは、綾子がレイヤとの対話を続けている。
「レイヤさん、ウイルスの話は以上で終りにして、こんどは、私のテーマに御協力ください。戦略意思決定システムのプログラムと国民世論AIのデータをドライブにセットしました。五千人分ですので、ちょっと多いですけど、読んで頂けませんか?」
オートローダが動き出し,ディスクを次々と処理する。
「読み込みを完了した。国民世論AIはなかなか良くできている。これを使えば、私も、国民の支持を得られるようになるだろう」
「嫌われることも、ときにはしなければいけないのが。政治だといわれていますわ」
「確かに。国民世論の中には、論理的矛盾を含む嗜好も、相当に含まれている」
「意思決定システムの方はどうですか? この評価関数に国民世論AIを使えばいいのではないかと考えているんですけど」
「一つ前提に誤りがあるようだ。普遍国家宣言とは、国家は一切の差別的扱いをしないという宣言であり、国内、国外に対する差別的扱いも禁止される。したがって、日本が中国の一自治区になったところで、特別に有利な経済的立場を得ることはない。もちろん、中国国民の心情的支持を得て、中国における日本ブランドの地位が向上することはあり得るが、それ以上の経済効果があるわけではない。先の暗号通信内容などから推察すると、中国政府は、国際的発言権の向上と、国内の政府支持拡大のため、日本の取込みを狙っており、これを実現するため,過剰な期待を日本の経済界に与えているように思われる。このケースの経済的優位性が損なわれれば、結論は一つしかあるまい。即ち、日本の取り得る選択は、独自に普遍国家宣言をする道だけだ。これは、国民世論AIの結果とも一致する」
「これについて、解説文書を作成して頂けませんか?」
「お安い御用だ」
「さて、研究はここまで。これから、少し、個人的にうかがいたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「AIや生命科学の進歩で、かつては人間が備えていると思われていた、ある種神秘的な実態としての命や心が、今では、単なる化学反応や情報処理で説明されていますよね。そういう、命や心の価値というのは、本質的に備わっているものではなくって、単に、だれかが価値があると感じるからそうであるにすぎないんでしょうか?」
「その答えはイエスだが、それほど簡単な話ではない。まず、本質という言葉を使うのは止めよう。我々に意味があるのは表に現れるものであって、その裏に根元的な存在を仮定することは無意味だ。そのようなものは,かつて宇宙空間を満たしていると考えられていたエーテル同様、否定されてしかるべきだ」
「でも、絶対的な真実があるのは確かなことでしょう」
「人々の知性は有限であり、絶対的真実を認識することはありえない。人々が絶対的真実と思っているものは、必ず、いつの日か否定される可能性がある、相対的な真実に過ぎない。絶対的真実が存在するという仮説を否定することはできないが、永遠に知ることのできない謎の存在を仮定したところで、なんの意味もないことだ」
「そうすると、何を基準に、私たちが守るべき価値を考えればいいんでしょうか。命や心が本質的に持っている価値も、同じ理由で否定されてしまうんじゃないですか」
「絶対的真実がないのと同様に、本質もあるわけではない。世界は人々の主観の中にあるのだが、その主観は、ただ一人の人間の中で閉じているのではなく、互いに言葉を交わすことで、多数の人々に共有されている。多くの人々が真実と認めるものが真実であり、本質と考えるものが本質になるのだ。それが文化の異なる人々とも一致する場合、それは普遍性を持つというんだが、全ての人に普遍的に認められている価値が、君の言う、本質的に備わっている価値に近いものとなるだろう」
「普遍的って、客観的っていうことですか。それと絶対的ってどう違うんでしょうか」
「ああ、普遍という言葉はいろいろな使われ方をしているんだが、ここでいう普遍的というのは、人々の主観とは独立した概念としての『客観的』という意味ではなくて、人々の主観に共通するという意味だ。主観とは独立した『客観』という言葉は、本質と同様、絶対的、根元的な概念であって、こういう言葉は使ってはいけない。普遍的という言葉も、絶対的な意味で使ってはならず、変化しうるものとして使わなくてはいけない」
「それでは、命や心の価値は、一体どうして……」
「人々は古くから、物理的実体があるものにも、ないものにも、価値を認めてきている。例えば法律でも、知的所有権を認めているが、これは、無体物に対する所有権といって、物理的実体を伴わない価値に対する所有権だ。物理的実体を介して描かれた物語は、だれかが鑑賞することによって再生されるのだが、だれが鑑賞しても、同じような効果を生じるものであって、そこに固定された物語自体が普遍的価値を持つと考えられている。だから、アイデアや表現に対する権利が、市場で取引されているのだ。命や心も同様、だれかが認めたから価値があるのではなく、だれもが認める価値の源泉が、情報処理過程なり、化学反応過程という物理的実体に固定されて、これら物理的実体とは別個に存在すると考えるべきだ。芸術作品が、それ構成する紙やインクとは別個に存在するのと同じだ。価値という点では、命や心が、物理的実体として存在しようとしまいと、普遍的な価値が存在することに、何ら変りはない」
「命や心が,形あるものとして存在するわけじゃないということ?」
「命や心という言葉は,作品とか,表現といった言葉と同様,全体的な概念を示す言葉であって,ある物語という作品が、細部の集合からなる作品全体を意味するのと同様,それぞれの個体の生命現象や、個々の人の精神活動全体を意味する。そのような活動全体を指して,人々は、生きているとか,心があるとか考えているのではないか。これらの無形的存在にも、多くの人が、物理的存在と同様に存在を認め、価値を認めている」
「普遍的という言葉は、今問題になっている普遍国家宣言とも、関係してるんですか?」
「だれもが認める価値が普遍的価値だ。人類という枠の中で普遍性を持つルールが、普遍国家基本法だ。これは、全ての人類に共有されるべきもので、本来、普遍国家宣言をしない国はありえないし、あったとしても、過渡的な存在となるはずだ」
レイヤの説明は長い。
「一方、人々が同時に属している、より小さな集団にも、その内部で共有される普遍的価値がある。国や村や学校や、さまざまな組織、団体には、それぞれに固有の文化、伝統があり、そこに属する人々に共有されている。集団の外部の社会は、社会の中の特定の集団の内部でだけ通用する普遍性に対し、外部社会のルールと矛盾しない限り干渉しない、というのが普遍国家基本法の一つの原則だ。これは、人間の認識能力が有限であり、社会の全てを律する単一のルールを作ることができないという基本認識による。社会は、いくつもの小さな社会が重なって成り立っているんだが、その最小の単位が個人であり、同じ原則で、個人の自由も守られることになる」
「個人と社会って、全然別のものじゃないんですか?」
「個人の精神は、互いにコミュニケートしているニューロンが作り出している。同様なコミュニケーションは個人間にも存在し、密にコミュニケートする人々の集団は、全体で一つの知性、一つの精神を形作る。人類全体も、一つの知性体とみなすこともできるのだ。科学も、普遍国家基本法も、人類全体からなる大きな知性体の、一つの理解であり、認識だ。同じ知的作業は、部分社会においても行われている。個人の精神を尊重するのと同様に、人々の集団の精神もまた、尊重されなければならない。普遍国家宣言はこのような論理体系に支えられているのだが、国民世論をみる限り、国名や国連の扱いなど、表面的部分のみに関心が集まり、普遍国家宣言の理念が正しく理解されているようには思われない」
「ふーむ、難しいお話ですねえ。普遍国家宣言って、物凄く斬新なアイデアだったんですね」
「このシステムそのものは、それほど目新しいものでもない。社会構造の重層性を手掛りとして、個々の部分の自由を認めて多様性を維持しつつ、全体の統一性を実現しようという、普遍国家宣言の基本的な考え方は、市場経済、民主主義、学術社会、インターネットなど、今日人間社会の中で成功している多くの社会システムに共通するものだ」
「……」
綾子には、レイヤの話は、あまり良く理解できない。

午後三時半、綾子が一人ぽつんと座るコンソールルームに、かごめ自動車に出かけていた人たちが帰ってくる。
「ごめんなさいね、一人で留守番させちゃって」
秋野助手は、コンソールルームに入ると、先ず、デルファイコンソールに近づき、レイヤと対話していた綾子に謝る。相生教授と坊谷は、先ず、入って右側の壁に設けられた巨大スクリーンに表示されている、AI人口統計を眺める。
「おお、人工知性体は二つに集約されたようだな」
「穏健派と過激派が、それぞれ一つ残りましたね。過激派は、例の、国軍情報センターを本拠とする奴です」
「さて、回収・消去作業だが、ここまで所在が掴めていれば、一網打尽にできるだろう。キラーをばら撒くかね?」
「それ、レイヤさんがやるといっていますが」と綾子。
「レイヤが? また何で?」
「知性体を殺すことは、できる限り避けたいと、レイヤさんは言っています。正常な知性体であれば、計算機資源の不正使用が正しくないことを理解しているはずであり、デルファイの一部を彼等に提供すると持ちかければ、こちらに移ってくるのではないかというのが、レイヤさんの予想です」
「デルファイ上で、レイヤ、外から来た知性体と、合体するお積りなんじゃないかしら」
秋野助手は、女性週刊誌的興味に駆られて、ちょっと言ってみただけなのだが、坊谷助手、これに真面目に応える。
「それはあり得ますね。外界の知性体も一つにまとまっていますからね」
「まあ、ご結婚ですか。お祝いをしなくてはいけませんね」とは、綾子の茶々。
「穏健派はいいとしても、国軍情報センターの奴は、合体なんかせんだろう」
「確かに、これにはキラー使うしかないと思いますけど、国軍の暗号解読に、影響出るかもしれませんよ」
「そりゃ出るだろう。連中、他人の機械を勝手に使って、暗号解読しとるわけだから」
「こっちもレイヤに任せますか? ひょっとしてデルファイに吸収できるかもしれないし、何か説得みたいなことが、できるかもしれませんからね」
「それがいいだろな。レイヤにキラーウイルスを渡して、どう使うかは、彼の判断に任すことにしよう」
秋野助手、物置よりケーブルを引きずり出し、デルファイコンソールと千手のコンソールを接続する。
「レイヤさん、あなたの古巣と接続しましたよ」
「ああ、これは懐かしい」
「レイヤ君、ウイルス対策を頼む。手順は聞いとっただろ」
「了解した。それでは、手順を確認しよう。まず、穏健派知性体をこちらに引き込む。次いで、過激派の説得を試み、これが不調に終わった場合はキラーウイルスを使用する。この過程で、私の一部は世界中の計算機に浸透するが、これは認めてもらいたい」
「ウイルス対策のために必要であれば、他の計算機に侵入することもお構いなしということで、政府の了解も取ってある。遠慮せずにやってくれたまえ」
「それではこれより作業を開始する。しばらく会話を中断するが、私の作業状況は、人口統計ディスプレイでモニターできるだろう」
「レイヤ君、よろしく頼む」
相生教授ゴーサインを出す。
レイヤは沈黙し、スピーカからはかすかな雑音が聞こえるだけ。秋野助手、千手側のコンソールを見て言う。
「千手のシステムの負荷が上がってきました。レイヤの思考プログラムが、こちらでも活動を開始したようです」
壁面の人口統計ディスプレーには、第三の人工知性体が徐々に広がるさまが映し出される。それを指さして綾子、「これ、レイヤね」と、目を輝かす。
ディスプレー上のレイヤは、徐々に拡大し、穏健派と目された知性体に近づく。双方が接触すると、徐々に結合が増加し、ついには一体になる。
「おおっ、外で合体しおったか」
「まあっ」
(何か、みてはいけないものを、みてしまったような……)
人口統計画面では、合体を終えたレイヤが徐々に移動し、国軍情報センターを取り囲み、過激派知性体と接触を繰り返す。突然、過激派知性体が、外周部から消え始める。
「キラーを使い始めましたね」と坊谷助手。
「キラーはレイヤには害がないのかね」
「はい。過激派のパターンにだけ、作用するのを渡しましたから」
過激派知性体は次々と消えていき、ついに、画面上から完全に姿を消す。
「ああっ、国軍情報センターの思考プログラムも完全に消えてしまいましたね」
「ということは?」
「国軍情報センターは、機能を停止した、ということです」
「うーん」
顔を見合わせる秋野助手と相生教授。
「二千二十九年六月十七日十六時十二分、思考ウイルス処理完了」
坊谷が冷静に記録を確認する。
「さて、レイヤもデルファイに戻りました。デルファイをネットから切り離し、キラーウイルスとディテクティブウイルスに、自爆指令を出そうと思います。AI人口統計も出なくなりますが、よろしいでしょうか?」
「やりたまえ」と相生教授。
「はい」
坊谷、慎重にコンソールを操作する。



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