観測問題を解決するための修正自然主義の提案

1 本研究の背景

1.1 この研究をはじめた背景

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このような場でのご報告は初めてですので、本論に入ります前に、私の研究の背景について、簡単にご説明いたします.

私はインターネット上のコミュニケーションについて研究してまいりました.具体的には、電子掲示板における文化の対立について研究を行い、普遍性志向と仲間社会志向の対立という興味ある現象を見出しております.

この過程で、電子掲示板で生じている現象が、ヒトの脳の内部で生じている現象に類似していることに気づきました.

電子掲示板といいますものは、インターネットからアクセスできる公開の場所に、誰でもメッセージを書き込める場所、すなわち電子掲示板を設け、誰でもがこれを読める、というシステムです.書き込まれたメッセージに対して、読者が反応して新たなメッセージを書き込むことでコミュニケーションが進行いたします.

これはちょうど、ニューロンがインパルスを受けて発火し、シナプスで接続されたニューロンに新たなインパルスを送出する、という過程と類似しています.電子掲示板の参加者がニューロンに、インターネットがニューラルネットワークに、メッセージがインパルスに相当いたします.

そして、これらの過程の結果、電子掲示板の参加者の間に、知識、価値観の共有がなされます.これは、フッサールのいう、間主観性上の客観に相当し、ニューラルネットワークが生み出す個人の認識や理解、すなわち主観に対応することは大変に興味深い現象です.

ネット上でのこのような現象は「集合知」と呼ばれ昨今騒がれておりますWeb2.0の一つの要素となっているのですが、同様な現象は、ネット以外の、社会全般で生じているのではないか、と私は考えております.すなわち、コミュニケーションによる客観の形成、言葉を換えれば、人間社会が精神的機能をもつ可能性を考えているわけです.

1.2 人間社会の持つ精神的機能

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社会の精神的機能、すなわち個々の人間よりも上位の精神的機能を社会がもつ可能性を検討いたしましょう.これに類似した現象として、蟻や蜂などの昆虫の群れが個体よりはるかに高い知能を示すことが知られております.これは「群知能」と呼ばれ、人工知能への応用が研究されております.

群知能との対比で人間社会の持つ精神的機能について考えますと、第一に、ヒト個体間のコミュニケーションが昆虫に比べてはるかに複雑であること、さまざまな組織などのヒトの集団には集団独自の知的活動が認められること、などから、その精神的機能が高度に発達したものであると推察されます.

学術の世界では、学会や研究機関、研究室などの組織があり、学問の進歩には多くの研究者が関わっているという事実がありますし、教育制度は群知能の構成要素として個体を育成しているものとみなすこともできます.

さらには、出版、放送、通信などの、社会に備わっているさまざまなコミュニケーション機能も、ヒトの群知能の形成に関わっております.

人間社会は高度に組織化された知的主体であり、人間社会の精神機能は、学問上の定説や社会制度、常識、文化、共有された価値観などを生み出しております.これらはフッサールのいう、間主観性によって構成された客観、に他なりません.

1.3 主観と客観の関係

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本論では以下、客観という言葉をフッサール流の、共有された主観、すなわち間主観性という意味合いで用いることにいたします.

これまでのお話をまとめますと、「個体の精神的機能は主観を生み出し、社会の精神的機能は客観を生み出す」ということになります.ヒト個体の脳にありますニューラルネットワークが主観を生み出し、これをコミュニケーションチャンネルで接続した「ブレインネットワーク」とでも称すべき「社会」が客観を生み出す、というわけです.

さらに、社会の重層性を考えますと、社会の一部にとっての客観が、その外部から見ますと、部分社会の主観となるといった、ある種のフラクタル性も考えられ、これが文化的対立の背後にあるのではないか、と私は考えております.

科学は、人類全体という範囲での普遍性を目指しますので、その成果は人類全体に共有されるでしょう.しかし、アインシュタインとボーアらの対立をみますとき、その背景には思想的相違があったように思われます.

これまでの私のご説明したことからこの対立を考えますと、理論は「現実の物理過程の完全な叙述」であるべきとしたアインシュタインの主張は退けられてしかるべきであり、廣松渉が示唆されましたような、「神の視座から共同主観的な視座へ」と科学の視座を移す必要があるのではないか、と思われます.

このような視座の変更により、アインシュタインとボーアらの対立点でありました量子力学の観測問題も解決できるのではないか、と思われます.

本日はこの点につきましてご報告させていただきます.

2 間主観的視座からみた科学

2.1 実在とは

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素朴な実在論であります「自然主義的態度」は、実在は人と無関係にそれ自体で存在するものである、といたします.ここで、「客観的に」という形容詞が入る場合が多いのですが、客観を間主観性の上に位置づける以上、ヒトと無関係な実在に「客観」という言葉を使うことはできません.

科学が対象とする「概念」は、ヒトの精神的働きによって生み出されるものであり、ヒト個体の脳の中、あるいはこれを結び合わせた社会の精神的機能の内部に存在するものであり、ヒトと無縁の外界に「概念」をおくことはできません.

外界の実在は、カントらが述べておりますように、ヒトが概念を生み出す原因として機能いたします.

そこで、自然主義的実在論を「実在とは人と無関係にそれ自体で存在するものであり、人が概念を見出す原因である」という形に修正したいと思います. 人は、たとえば「りんご」という概念を見出す原因である外界の実在を「りんご」と呼んでおり、「りんごが実在する」という言い方は間違ってはおりません.ただし、このように、概念と結び付けられた実在は、人による認識が条件であり、人と切り離された実在には概念は付随しない、ということを忘れてはいけません.

このような修正自然主義的実在論は、外界の実在から概念を切り離し共有された主観の中に位置づけるものであり、間主観的視座における実在論である、ということができると思います.

2.2 例:手帳に書かれた予定

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修正自然主義的実在論の一つの例として、重要な予定を手帳に書くという行為について考えてみたいと思います.

人が手帳に何かを書くのは忘れないためでして、その予定が記憶から失われても、手帳を見れば思い出すからに他なりません.すなわち、人は手帳やそれに記述された事柄が、人の意識とは独立に存在していることを確信しております.

物理的には、手帳に書かれた文字は、セルロース上にカーボンが付着した存在であり、予定そのものが実在するわけではありません.それを見た人がそこに文字を読み取り、予定を見出します.手帳に書かれた予定、すなわち、セルロース上のカーボンのパターンは、人が予定を見出す原因として実在します.

ところで、 セルロースやカーボンといった概念も、人の精神内部の存在です.これを「混沌」といってみたところで、混沌もまた人間精神内部の概念です.結局のところ、外界の実在につきましては、人が概念を生み出す原因である、としか言いようがありません.
 
3 量子論について

3.1 修正自然主義による量子力学の解釈

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間主観的視座に科学を据え直すときアインシュタインの量子論批判は妥当性を欠くということを前に述べましたが、修正自然主義的実在論から、量子論を考えてみることにいたしましょう.

まず、「物理学とは、われわれとは無関係に確固とした法則に従って進行するあの客観的世界を研究することである」とするアインシュタインの主張は、科学を間主観性上に位置づける以上受け入れることはできません.

一方、「理論物理学の数学的記号は、実在のものではなく、可能なものだけを描写するものである」とするボーアの主張も、多少後退しすぎであるように私には思われます.

すなわち、間主観性上に物理学を構成するのであれば、認識不能な要素は物理学の範囲外であり、量子力学が観測可能な量のみを扱うことも当然であるといえます.そればかりか、修正自然主義的実在論によれば、量子力学の構成要素も実在するといえます.

すなわち、これらの量子力学上の事物は、人が認識する以前から存在したはずであり、人と関わりなく存在するとする実在の第一の要件を満足しております.

また、人は外界の実在の中に量子論を見出しており、概念を見出す原因であるとする、実在の第二の要件も満足しております.

3.2 量子論と古典論の本質的な違いはあるのか

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間主観的視座からは、量子論と古典論の間に本質的な違いは認められません.

量子力学は古典論と異なり、非決定論であり、確率のみを与える、といわれておりますが、間主観的視座、すなわち、人の認識するレベルでは、古典論にも非決定論的要素が多分に含まれています.

ファインマンは、ダムの放流口から飛び散る水滴の軌跡を予想することは実際的立場からは不可能であると書いていますが、これは間主観的立場においても同等です.また、熱力学の第二法則も確率的現象であり、化学反応は統計的に進行しているということもできます.

量子論は、その結果が実際に装置を構成する場合などに有用な理論であるが故に広く受け入れられているという側面は確かにあります.しかし、ボーアやハイゼンベルグの論文を読む限り、量子論が扱っているのは検証可能なもの、計測可能なものに限定される一方で、役に立つか否かは量子論の範囲を決める要因とはなっておりません.

すなわち、知り得ないことを科学全般の枠外とする、という原理で科学全般を制約することができるならば、量子論は古典論と同等であるといえます.

4 知り得ないことは語り得ない

4.1 科学の基本原理:知り得ないことは語り得ない

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科学的言説は、概念を用いた外界の叙述、すなわち人間精神による実在の叙述ですから、科学的に何かを言うためには人による認識が不可欠となります.

また、共有された主観であります間主観性の上に科学を構成するなら、知りえないこと、すなわち主観の関与し得ないことを科学は語ることができません.

したがって、このような立場をとる以上、「知り得ないことは語り得ない」という制約を科学の基本原理とすべきである、といえます.

これは、古いアーケードゲームの状況を考えてみれば容易にご理解いただけると思います.

テーブルの上にボールが置かれたとき、人はそこにボールがあることを認識いたします.これにシルクハットが被されても、ボールが動く理由がないことから、中央のシルクハットの下にボールがあることを推測することができます.

次に、人が判別不能な状態でシルクハットが入れ替えられますと、人はどのシルクハットの下にボールがあるか、もはやわからなくなります.すなわち、特定のシルクハットの下にボールがあるかないかを語ることは、科学的言説であるとはいえません.科学的に言えることは、確率1/3でそれぞれのシルクハットの下にボールがある、ということだけです.

4.2 神の視座と間主観的視座の相違

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神の視座に立てば、宇宙のすべてを知りえることから、意味のある命題は真か偽のいずれかとなります.

一方、間主観的視座からは、知識の総体である科学は宇宙の一部をカバーするだけであり、その外部は知識の欠如、ということになります.この境界を定めるのが「知り得ないことは語り得ない」とする原理であり、領域の内部で命題は真か偽のいずれかとなるのに対し、領域外に関する命題は、間主観的視座からは「不明」であるとしかいえません.

「知りえないことは語り得ない」とする原理は、ヴィトゲンシュタインが論理哲学論考の中でテーゼ7として掲げました「語りえないことについては沈黙しなければならない」に類似しております.これは、倫理や美など、ヴィトゲンシュタインの論理世界の外部の事柄については、論理では語り得ない、ということを主張するもので、ヴィトゲンシュタインの論理の領域を定めたものです.

科学におきましても、それが宇宙の全てをカバーするものではない以上、その領域を明確にしておく必要があるでしょう.「知り得ないことは語り得ない」という原理は、その領域を定めるものである、ということができます. 

4.3 知りえないこと

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知りえないこととして、さまざまなケースがありますが、間主観的視座の元では、いずれの場合も、知りえない以上、科学はこれを語り得ません.

まず、原理的に知りえないことといたしまして、量子力学的不確定性があります.これは、粒子が波動性を示すことから生じる制約です.

つぎに、ゲームのルールによる制約として、シュレディンガーの猫の生死、積まれた麻雀牌などがあります.シュレディンガーの猫の実験において、箱の中の猫の状態を「生死が重なり合った状態である」とするコペンハーゲン解釈は、「生死いずれの状態もとりえる確率的な状態である」と解釈すれば、間主観的視座からの解釈と一致します.いずれにせよ、猫の状態は、箱の内部を観察すれば確定しますので、裏を返せばなんであるかを知り得る麻雀牌と同様、ルール上の制約によって知りえない状況となっている、と解釈すべきでしょう.

技術的制約の例としては、ダイスの目や天気予報をあげることができます.これらは、原理的には予測可能であるものの、現実的には計測の困難さや計算の複雑さによって、結果を知りえない状況となっています.

また、全ての材料が与えられていながら、単に気づかれていないが故に知りえない、という状況もありえます.これは、ミステリー小説における「読者への挑戦」に類似した状況であり、本来は知りえても不思議がないところですが、現に誰も気づいていない以上、それは知りえないことの範疇に属します.

知りえない、という状況は固定されたものではありません.気づかれないが故に知りえないことは、誰かが気づくことで知りえることとなります.また、時間の経過によって、かつては知りえなかったことが知りえる状態へと転化することは、日常的にごく一般に生じています.

4.4 波束の収縮と三角くじ

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知り得ないことを科学の枠外とすれば、波束の収縮も容易に理解されます.

波束の収縮とは、ある点から放射された波動関数は球面状にひろがっていくのですが、いずれかの点で観測されることで、波動関数は一点の粒子に収縮し、他の部分での存在確率は瞬時にゼロになる、という現象です.遠く離れた領域の波動関数まで一瞬にしてゼロになることから、理解しにくい現象である、とされております.

このような現象は、あたりが一つしかない三角くじを配るという状況を考えれば容易に理解されます.あるところであたりが出れば、他のくじは全て外れであることが確定します.

このような説明は、EPRパラドックスに対する説明の一つとして提示されていますが、知り得ないことを同等に扱うことで、同等とみなすことができます.

5 間主観的視座の上に構成された科学が信頼に足る理由

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最後に、間主観的視座の上に構成された科学が信頼に足る理由について簡単に述べておきましょう.

アインシュタインが「物理学とは、われわれとは無関係に確固とした法則に従って進行するあの客観的世界を研究することである」というとき、それは、移ろいゆき、誤りもしがちな人間精神の上に位置づけられた科学というようなあやふやなものではなく、確固たる実在の上に科学を位置づけたいという願いによるものと、わたしは想像しております.しかし、所詮科学は人が考えたものにすぎず、人と無縁のところに科学を位置づけることは土台無理な願いです.

一方、間主観的な視座の上に科学を構成する場合も、いくつかの条件が満足されることで、それは信頼に足るものとなります.

第一に、人は概念を共有しております.研究者が十分な専門知識を持ち、自由な議論が行われるのであれば、概念の共有は可能であると思われます.

第二に、人は同一の外界に生き、外界の実在を共有しております.このことは、物理法則が誰にとっても同じように成り立つことから逆に確認されます.

第三に、これは必須の条件ではないのですが、身体の同等性があげられます.特に、可視光の波長帯域や可聴周波数が類似していることは、科学的概念の共有を容易にしているものと思われます.

6 まとめ

以上、本日の講演をまとめますと、次のようになります.

間主観的視座に立てば、科学は人類の知識の総体の一部である、といえます.

この視座の元で、実在とは、人と無関係にそれ自体で存在するものであり、人が概念を見出す原因として機能いたします.また、人による認識を前提として 、人にある概念を見出す原因をその概念に対応する事物が実在するとする、自然主義的存在論を受け入れます.これらの条件付の存在論を、本論では「修正自然主義」と呼んでおります.

科学的言説が可能となるためには、人による認識が不可欠であることから、「知り得ないことは語り得ない」という原理を科学の基本原理とするべきです.「知りえるか否か」は知識の総体としての科学の外枠を設定します.この枠外の命題は、「不明」という状態をとります.

間主観性敵視座に基づく科学も、人が概念を共有していること、人は外界を共有していることから、十分な信頼性が確保されているものとみなすことができます.前者は、研究者の十分な専門知識と自由な議論が前提となりますが、現在の科学の分野ではこのような条件は成立しているものと思われます.

その他、人の身体の類似性も主観の共有を容易にしているものと思われます.

【参考文献】
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リチャード・P・ファインマン, 他, 砂川重信訳「ファインマン物理学V量子力学」 (1979.03)
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