エミちゃんの事件帖#3


恋は四季咲き






目次


第1章 一介のハッカー?
第2章 証拠隠滅?
第3章 ストーカー?
第4章 詐欺師のアジト?
第5章 保冷車?
第6章 ボーンコレクター?
第7章 発覚?
第8章 連続殺人事件?
第9章 シテ?
第10章 第三のハッカー?
第11章 清く正しく?
第12章 大団円?

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第一章   一介のハッカー

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 午前十時、桜が原給食センターの忙しさはピークに達している。
 作業場の一角で、女性パートタイマーがダンボール箱を次々と開けてビニール袋を取りだし、袋の中の冷凍ミックスベジタブルを、湯のぐらぐらと煮え立つ大鍋にぶち込んでいる。
 パートタイマーたちの作業する横で、作業服姿の初老の男が、空になったダンボール箱を、潰さずに、箱の形をしたまま高く重ねて、紐で器用に結えている。
 男は、まるで太い棒のようになったダンボール箱を両手に持つと、奥の階段を上がって行く。
 男が入ったのは、階段を上がったところにある事務所、その部屋の中央にある会議机の上には、輪ゴムで止められた一万円札の束が多数置かれ、数人の男がそれを取り囲んで、現金集計作業に取り組んでいる。
 五人の男は、輪ゴムを外して札を扇のように広げ、素早く枚数を数える。一束百枚の一万円札だ。数え終わると、再び輪ゴムを掛けて、次の男に渡す。
 五人の男から札束を渡された男は、二十束ずつの五つの山に札束を積み、ビニール袋にきっちり入れて、封をすると、ダンボール箱に詰める。この男は、帳面に何やら記入してから、ダンボール箱を次の男に渡す。
 最後の男は、ダンボール箱の蓋をガムテープで固定し、箱を壁際に積み上げる。
 やがて、会議机の上の札束の山は、ほとんどなくなる。
 帳面をつけていた男は、残った端数の束を数え、ビニール袋に入れて金庫に納める。そして、壁際に積み上げたダンボール箱の数を数え、携帯電話に向かう。
 「終りました。六十三箱、残四十」
 窓の外に、トラックがバックする警報音が聞こえる。二階会議室の外に横付けされたのは保冷車だ。
 男は窓を開け、保冷車を見下ろす。
 保冷車が停車したのは、L字型に曲がった駐車場の奥で、向かい側は、人の背丈よりも高いレンガ塀に隔てられて、二階建ての民家が近接しており、保冷車の後部は外から見られる心配はない。
 男は、細長い梯子のような形をしたローラースライダーを窓と保冷車の荷台の間に渡し、その上にダンボール箱を次々と滑らせる。
 積み込み作業は十分もしないうちに完了する。
 運転手は、荷台の扉を閉じ、保冷車を出発させる。責任者風の男は、その保冷車の後姿に、小さく敬礼を送る。
 「六十三箱か」
 レンガ塀の向こう側、隣家の二階で、目を細めてこの光景を眺めていた一人の老人がそう呟くと、手帳に数字を書き付ける。

 

 ぶり返した残暑もそろそろ終わると天気予報は伝えているが、まだまだ暑い日が続きそうな、九月二日の午後のことだ。
 秋葉原電気街を貫く中央通りを、焼けるようなアスファルトを踏みながら早足で歩いているのは、H大学情報工学科三年次の柳原だ。
 枯草色のぼさぼさ頭に、化粧っ気のないつるんとした顔、白いTシャツとつなぎのジーパンにズックを履いたその姿は、電気街にたむろする、こまっしゃくれた少年のようもみえるが、柳原は、正真正銘、現役の女子大生だ。
 しかし、柳原に、女子大生の華やかさは微塵もない。
 工学部というのは、元々、実験、演習、レポートが多い上に、万年の金欠状態にある柳原はアルバイトに追われ、遊ぶどころか、休む間もない。
 もっとも、計算機の好きな柳原は、授業も好きだし、アルバイトも好きだ。生来、贅沢というものを知らないから、金のない生活も苦にならず、好きなことをして人生を送っていられるのは、幸せなことだとさえ思っている。バイト先で頼りにされるのも、嬉しい話である。
 しかし、一日が二十四時間しかないことから、少々困った問題も起こる。
 バイト先で頼まれた仕事をきちんとこなそうとすれば、大学の授業やレポートがおろそかになる。
 卒業研究を始めるためには、定められた数の単位を習得する必要があるのだが、あまりバイトに精を出しすぎると、単位が足りないことになる危険性が高い。
 そんな不安を抱えつつも、柳原は、秋葉原の裏通りの、とある古ぼけたビルの狭い階段を上る。階段を上がったところには、頑丈そうな鉄の防火扉がある。その向う側は、柳原のバイト先、株式会社山の上システムサービス、通称「山の上」の本社兼営業所だ。
 山の上の事務所の入り口の扉は、硬いスプリングでいつも閉じられている。柳原は、筋力を振り絞ってドアを開け、事務所に顔を覗かせる。
 それを見た営業担当の木島が、待ち構えていたように言う。
 「いやっ、柳原さん来ましたね。オーハローンさんの納品、技術の連中が朝から作業しているんだけど、私も、そろそろ、ご挨拶に行こうかと思いましてね。一緒に付き合ってもらえないかなー?」
 「もちろん、そのつもりで来ました」柳原は、お調子者の木島のペースに乗らず、冷静に応える。「そういう、お約束でしたからね」
 オーハローンのシステムは、柳原が構成を提案したもので、客先での各種設定も、柳原が行うことになっている。
 山の上システムサービスは、計算機システムを販売する小さな会社だ。この会社でアルバイトをする柳原の仕事は、計算機システムのデザインとソフトウエア作製だ。
 山の上は、企業などから計算機システムの引き合いを受けると、その目的に合わせて、適切な計算機や周辺機器を選び、ネットワーク構成を立案して、見積り金額と共に客先に提案する。
 柳原の仕事の一つは、顧客と話し合って、そのシステム構成を決めることだ。
 この提案が客先に受け入れられ、めでたく発注がなれば,山の上は,ハードウエア一式を準備し、ネットワークの配線工事をして計算機を接続し,ソフトウエア一式をインストールして、各種文書と共に、客先に引き渡す。
 客先の求めるシステムが標準的なものである場合は、簡単な設定を行なうだけで引渡しが完了する。しかし、多くの場合、それぞれのシステムに合わせたソフトウエアを作り直す必要がある。
 柳原のもう一つの業務は、その、特注ソフトウエアを作ることだ。
 今日納品しているオーハローンのシステムは、仕様が明確でないままに受注している。厳密に言えば、このような商売のやり方は、後々のトラブルの元であり好ましいものではないのだが、山の上では、それほど珍しいケースではない。
 計算機の知識が乏しい中小の顧客は、明確な仕様書など、作ることができない。だから、柳原のような、システムに詳しい人間が、顧客の要望を聞きながらシステム構成を決定する。
 機能の詳細が決まっていなくても、ハードウエアの構成が決まれば、見積もりは可能だ。ソフトの部分は、粗々の見積もりで費用を上乗せしておく。
 今回のオーハローンのソフト開発は、五人日で見積もっている。
 ソフトウエアのバイト代は、一式幾らの出来高払いだ。だから、オーハローンのソフト製作が何日掛ろうとも、柳原には、五日分のバイト代が支給される。
 柳原は、このソフト、今日一日で仕上げる心積もりだ。
 目論見通りことが進めば、美味しいバイトになる。
 しかし、仕様が明確でないままに進めるシステムの納入は、時として、問題を起こす場合がある。システムが動き出してから、客先の担当者が、「これは求めていたものとは違う」と言い出すケースもあるのだ。
 もちろん、客先とは納得ずくで仕様を決めているのだが、顧客の声は天の声、少々無茶な顧客の主張であっても、たいていは山の上が泣くことになり、そのしわ寄せを、柳原たちが被ることになる。
 柳原は、一抹の不安を胸に、木島の運転する営業車の助手席に乗り込み、オーハローンに向かう。

 オーハローンの本社ビルは、都下桜が原の、国道に面して建てられている。だから、はじめてオーハローンを訪れたときも、それを見つけ出すことはそれほど難しくはない。しかし、このビルの国道側は、一階の全てがコンビニエンスストアになっており、オーハローンの事務所に入るには、国道の一本裏の道路に面している玄関に回らなくてはならない。ビルとビルとの間には、人一人が通れる狭い道があるのだが、車で玄関まで行こうとすれば、一方通行の関係から、狭い路地をぐるりと回って行くことになる。
 木島は、国道脇に一旦車を停め、道路地図を開いて、しばし、ぶつぶつと呟くが、やがて、柳原に道路地図を渡して言う。
 「柳原さん、道案内して頂けませんかね。このあたり、一通が複雑で、いつも迷うんですよ。目の前にビルが見えているのに、そこに辿り付けないことが、しょっちゅうなんです。要は、このビルの裏っ方に行ければ良いんですけどね」
 柳原の見たところ、地図はそれほど複雑ではない。柳原は、現在位置とルートを木島に確認すると、「大丈夫でしょう」という。なんのことはない、「左手法」と呼ばれる迷路探索アルゴリズムを、実地に行うだけのことだ。
 桜が原は、都心に近い、ハイグレードな住宅地というイメージがある。しかしこのあたりは、国道側にこそビルが立ち並んでいるが、一歩裏道に入ると、そこは古びた工場や安アパートが立ち並ぶ侘しい一帯だ。朝鮮戦争から高度成長に至る一時期、この辺り一面に広がっていた畑が次々と潰され、小規模な工場がいくつも造られたのだ。
 この一帯が工場団地として開発された当時の貧しい経済事情を物語るように、道路と工場との境界に打たれた杭は傾き、安直に舗装された路面も相当に傷んでいる。木島は、柳原の指示に従い、舗装の穴を避けながら、ゆっくりと車を進める。
 オーハローン本社の入る大葉ビルは、大きいことは大きいが、古い、薄汚れたビルである。ビルの入り口前に辿りついた木島は、一旦車を停めて助手席の柳原を下ろすと、交通の邪魔にならないように、ビルの壁すれすれに車を停め直す。
 大葉ビルの中央部には、大きな開口部があり、その中にライトバンが停車しているのが見える。ライトバンの向うに大きな棚が並んでいるところをみると、このビル一〜二階のこちら側は、倉庫か、配送センターになっている様子だ。
 木島は、網入りのガラス戸を押し開けて、ビルに入る。そこはビルの端に近い部分で、入ったところに受付があり、一人の老人が応対に当たっている。木島はその老人と二言三言話すと、老人の差し出す紙に何かを書いた後、柳原を伴って、階段を上り始める。横には古ぼけたエレベータもあったのだが、柳原が昇りのボタンを押したにもかかわらず、階数表示は五階で止まったままだ。
 山の上が計算機システムを納入したのは、三階の営業フロアーだ。三階くらいなら、エレベータを待つよりも、階段を上ってしまった方が速い。冷房の効きが悪いビルの階段を、柳原と木島は汗を拭きながら上る。
 営業オフィスの室内は喧騒に包まれている。
 百人近い営業係が、それぞれ、低いパーティションで仕切られた小振りのデスクに陣取り、電話を掛け捲っている。
 それぞれのデスクには、真新しいパソコンが置かれている。これが、山の上が本日納めたシステムだ。
 ここに納品されたパソコンは、安さ第一で選ばれたものだが、モニターだけは奮発して、十五インチの液晶ディスプレーを入れている。狭いデスクスペースを節約するためだろう、キーボードも小型のものが入っている。
 「端末百台」木島は得意そうに言う。「値切られましたけどね」
 オフィスの壁側の一画、コピーマシンの隣に、サーバマシンが置いてある。接続は既に完了した様子で、コンソールの前に陣取った技術の藤原が、テストプログラムを走らせて、それぞれの端末との通信状況をチェックしている。藤原は、柳原の顔をみて言う。
 「まもなく終りますんで、柳原さんはちょっとお待ち下さい」
 柳原は、隅のパイプ椅子に腰を下ろし、自分が書いた仕様書をチェックする。
 ここに納めるシステムは単純なものだ。CD‐ROMの形で提供されるいくつもの住所録を一旦ハードディスクに入れ直し、これを大勢の販売員たちのデスクに置かれた端末画面に表示し、販売員が電話番号をマウスでクリックすると、自動的に電話が掛るというものだ。
 電話を掛けると、住所録の先頭にマークが入る。成約した客先と、脈ありの客先に対しては、販売員がチェックボックスにマークを入れ、キーボードからメモを打ち込む。これらの情報は、住所録のデータと共に、専用のファイルにセーブされる。後々のトラブル防止のために、通話内容を圧縮記録した音声ファイルも保存される。
 このシステムは、また、販売員の業務管理も兼ねている。
 販売員が電話した回数、通話時間、販売数量と、有望顧客獲得数などの成績データは、日別、販売員別に集計され、表計算ソフトのデータとなる。柳原の業務範囲はそこまでで、その先のデータの加工は客先でやることとなっている。
 ほとんどのソフトウエアは、出来合いのものが転用できる。端末となるパソコンに組み込むソフトは、山の上から出荷する前にインストールが終わっている。
 柳原が最も心配しているのは、CD-ROMの住所録をハードディスクに転送する部分で、CD-ROM住所録のフォーマットが一定ではないという点だ。おまけにCD-ROM住所録の数も『半端ではない』と言われている。
 柳原は、事前に住所録を収めたCD‐ROMのサンプルをいくつか借り受け、それぞれのフォーマットを解析済みだ。柳原は、事前に、CD-ROMのフォーマットを自動的に解析し、標準フォーマットに変換するソフトを準備した。しかし、ここに置かれている住所録CD‐ROMの数とフォーマットの形式によっては、柳原の見積もった作業時間を大幅にオーバーする可能性もないとはいえない。
 柳原が仕様書をチェックしていると、営業の木島が、オーハローンのシステム担当という男を紹介する。大川と名乗るその男は、頭をスポーツ刈にした浅黒い顔の、痩せた長身の男で、目付きが悪い。
 大川は、柳原の全身を値踏みするように眺めてから、柳原に尋ねる。
 「何か、お入り用の物でもありますか?」
 「住所録のCD‐ROMって、どこにあるんでしょうか? 何枚ぐらいあります?」柳原は、いちばん気になっていた点を尋ねる。
 大川は、柳原をコピー機の先に案内して、棚を指差す。
 「ここに置いてあるのが全てです。ご自由に使ってください」
 「三百枚くらい、ありますかね?」
 柳原は不安げに尋ねる。見積もりは、二百五十枚の住所録CD‐ROMの変換までを含んでおり、それ以上は顧客側の作業という条件で行ったが、数量がオーバーした場合に、無料奉仕を要求される可能性も多分にある。その分は、柳原の持ち出しだ。 
 「いやあ、二百かそこらでしょう。ま、二枚組のもありますから、CDの枚数でいったら、もう少しありますけど、いくらなんでも三百はないでしょうね」
 柳原は、頭の中で計算する。
 (えーと、三百として、一枚が二分として、六百分、十時間か。作業用のパソコン三台をフルに使えば三時間ちょっと、ま、良いところかなあ)
 柳原は藤原に、作業用パソコンの状態を確認する。システムと共に送られた作業用パソコンは、部屋の隅の折畳式会議テーブルの上に並べられ、既に、サーバに接続されている。
 「そっち、作業、終りましたから、ご自由にお使い下さい」技術の藤原が柳原に言う。「コンソールの方は、もう少し使いますけど」
 柳原は、藤原に礼を言うと、販売員が多数詰めた大きなフロア―の一隅、作業用パソコンの前に陣取り、パソコン三台を使って、住所録の転送作業を始めることにする。とりあえず、住所録のCD‐ROMを作業用パソコンの脇に積み上げ、片端からパソコンのROMドライブで読み込ませる。
 柳原特製の自動変換プログラムは、まちまちの形式でROMに収められた住所録を、自動的に解析し、標準フォーマットに変更して、ハードディスクに格納する。
 三台のパソコンのモニター画面には、変換された住所録が表示され、柳原は、その監視と、CD‐ROMの交換で休む間もない。作業用パソコンは普段柳原が使っているノートパソコンよりも相当に高機能で、組み込まれたドライブの性能が良いためか、CPUが速いためか、住所録変換に要する時間は、柳原の予想より相当に短い。
 柳原が作業を進める傍らで、ハードウエアをインストールした技術者たちは各種テストを忙しそうに行なっている。
 午後三時頃、ハードウエアのチェックが全て終了する。木島は、山の上から来た技術者全員に缶ジュースをサービスし、労をねぎらう。
 ジュースのご相伴に与って休憩を取った柳原に、木島が言う。
 「柳原さん、悪いんだけど、お客さんに呼び出し食らっちゃってさ。彼等と一緒に秋葉に引き上げるから、あとは電車で帰ってきてくれないかな。ここ、国道を渡ると、すぐのところに地下鉄の駅があるんですよ。教育のほう、一人で、できるよね」
 「良いですよ」一本のジュースで気を良くした柳原は鷹揚に言う。「でも、こっちの仕事、まだ掛りそうですから、今日は直帰にします」

 営業の木島が技術者たちと引き上げたあとには、柳原一人が残される。
 フロア―には何十人もの販売員の声が飛び交っている。柳原の仕事が完了していない現在、販売員は、コピーされた名簿を頼りに電話を掛け捲っている。
 最初のうちは、販売員の声は、渾然一体となり、ワーンという唸り声にしか聞こえない。しかし、耳が慣れてくるに従って、近くの販売員の話す言葉が聞き分けられるようになる。柳原は、自分の作業になれてくると、手を機械的に動かしながら、いつしか意識は販売員たちの会話内容に向かう。
 午後五時を過ぎて、全ての作業を終えた頃には、柳原は、このフロア―で行われている業務の仕組みを完全に理解している。

 ここで行なっているのは、不動産共同投資証券という一種の有価証券の、電話による勧誘販売だ。
 投資するのはアパートで、床面積十二坪の2DK八戸からなるアパートを六十坪足らずの小さな土地に建てたものだ。
 郊外であれば、比較的交通の便の良いところでも、アパート一軒が、土地代込みで、六千万円前後で建つという。
 家賃を月八万とすると、八戸トータルで毎月六十四万円のキャッシュが入ってくる。これから管理、税金、償却などに掛る諸費用を差し引いた利益が配当として投資家に還元されるのだが、その額は、年間六百万円ほどになる予定だという。
 銀行の利息がパーセント以下の時代に、六千万の投資で年六百万、つまり年利十パーセントの利回りは、悪くない投資話であろう。
 不動産共同投資証券の特徴は、基本的には、アパートを建てて人に貸すという不動産投資であるが、アパート一軒を一人で建てるのではなく、多数のアパートを、多数の投資家が、共同で建てるという形をとる。
 建設するアパートの数がまとまることで、設計・建設に掛る費用は安く上がり、棟数が多ければ、管理に関る諸費用も一軒あたりではずいぶんと安く上がるというのが、一つの売り文句だ。
 もう一つの売り文句は、多数の物件を管理すると、効率的な立地計画が可能となり、アパートを求める人に適切な物件を紹介できるため、空室率も低いということだ。
 更に、日単位、週単位、月単位の、短期貸しというシステムも取り入れて、アパートの遊ぶ時間を極力少なくするという。
 2DKの部屋が、一日五千円、一週間で三万円、一月で十万円で借りられるというのは、ビジネスホテルの宿泊料金から考えれば、たしかに安い部類だろう。
 柳原が感心したのは、この方式では、火災保険に入る必要もない、という点だ。つまり、多数のアパートに分散投資すれば、火災によって一軒のアパートが失われても、その被害は、個々の投資家にとっては、微々たるものだというわけだ。だから、保険に入る必要はなく、保険会社が取るはずの利益も、投資家に還元されるという。これも、なかなか賢いシステムだと、柳原は思う。
 販売員の説明によれば、今、不動産は値下がりが激しいが、そろそろ底であるという。国が発行している国債の残高から考えて、政府はいずれインフレ政策を取らざるを得ないという。インフレになれば家賃も上がるから配当も増えるし、土地も値上がりするので、証券は、あっという間に何倍にも価値を増すという。
 この辺の話になると、流石に人の良い柳原でも、本当かなあと、疑問を感じる。
 柳原がもっと疑問を感じるのは、その電話の応対ぶりだ。
 販売員の電話は、ほとんどの場合、話し始めて数秒後には切られてしまう。有り体に言って、販売員に電話を掛けられた相手にとっては、この電話、迷惑以外のなにものでもないのだろう。相手の迷惑がわかっているはずの販売員達は、相手が切ろうとしている電話をなんとか続けさせようと、必死に粘っている。
 ときどき、長々と説明していた販売員が突然怒り出すことがある。最初にその場面に出会った柳原は、何事が起こったのかと、驚いて販売員を見た。しかし、立ち会っていたオーはローンの担当者が「これも演技」と耳打ちして、柳原を安心させる。
 客が販売員をからかったり、嘘をついたりしたのをチャンスと捉え、一転高圧的な対応に切りかえるというのが、販売テクニックの一つらしい。
 何しろ販売員は名簿を持っているのだから、客の住所も勤め先もわかっている。一方の客は、販売員が何者で、どこにいるのかも全然わからない。
 販売員を怒らせた客は、これまで、低姿勢の応対を続けていた販売員が、実は、相当に有利な立場にあったことに、その時はじめて気付き、一瞬、慌てる。その隙を販売員は見逃さない。柳原が見たところ、このやり方で、証券の販売話がまとまるケースがかなりあるようだ。
 その他、終始一貫して、にこやかに応対している場合もある。これは、販売員の説明を、客も素直に受けとって、商談がうまくまとまった場合らしい。
 柳原の、たった半日の作業の間でも、一人の販売員が数件の商談をまとめたようだ。投資の最低単位も一千万円で、それも、一人の客が何口も投資しているようだ。つまり、販売員一人が毎日一億円以上の証券を売っている計算だ。
 数十人の販売員がみな同じような成績だとすると、このフロアー全体で、毎日、百億円ほどの売上があるということになる。そうすると、この投資会社は毎日百軒以上のアパートを建設しているはずで、その規模の大きさに柳原は驚く。

 まだ明るいうちに柳原の作業は終る。
 事務所にあった全ての住所録は、統一されたフォーマットでサーバマシンのハードディスクに転送され、販売支援プログラムも順調に動いている。大川には、住所録CDの変換方法も説明済みだ。
 柳原は、販売員の数人づつを組にして、取り扱いの説明を行なう。販売員達はシステムの使い方をすぐに飲み込み、説明の終ったグループから実際に使い始める。
 柳原は、トラブルや販売員達の質問に応えるため、説明が終ったあともしばらくの間は、販売員達の様子を見ながらデスクの間を歩き回る。幸いなことに、トラブルも、使用上の問題もなく、販売員達の口から聞こえるのは、賞賛の声ばかりだ。オーハローンのシステムを担当する大川も、この結果には満足そうだ。
 「作業はすべて終りました。異常もないようですんで、そろそろ引き上げます」
 柳原が大川にそう言うと、大川は柳原を上司(ボス)の小野寺に引き合わせたいと言う。「大変、異例なことですが」と言う大川の口調では、上司、小野寺へのお目通りがかなうことは、柳原にとって、すばらしく名誉なことであるようだ。
 小野寺に面会した柳原は、一瞬、びびる。小野寺の頬には、大きな傷跡が走っている。傷跡は、右耳の脇から、斜めに頬を横切って、唇の脇で止まっている。
 (刀傷? 今時、こんな傷跡があるって、やくざの人かしら)柳原は不安になる。
 「どうもご苦労さんでした」顔に似合わず温和な声で、小野寺は柳原をねぎらう。「柳原さんは、なかなか、仕事のできる方だとうかがいまして、もうひと仕事お願いしようと思いましてね。日当は、今回のお仕事の三割増にしますけど、引き受けて頂けませんかな」
 柳原、この会社、危ないところじゃなかろうかとの印象が強く、でき得ることなら、早々に立ち去りたいところであるが、日当の三割増は魅力的だ。
 「仕事にもよりますけど」柳原は、腰が引けながらも、まず、探りを入れてみる。「あまりハードなのはちょっと……」
 「いやいや、私、この顔で誤解されるんですよ」小野寺は、柳原の心中を見透かしたかのように言う。「交通事故に遭いまして……、フロントガラスですっぱり切りましてね。田舎でやったもんで、ろくな医者もおらず、こんな跡が残ってしまったんですよ」
 柳原が心配しているのは、小野寺の顔だけではない。思い起こして見れば、会社全体の雰囲気が、なにか、危なそうな気配を漂わせている。大川にしたところで、無害な一般市民のようには思われない。それらを総合すれば、小野寺の顔の傷は喧嘩の傷だというのが真実であろう。
 柳原は、相手を怒らせないように、逃げを打つ。
 「いえ、お顔のことは別に良いんですけど、学校もありますんで、仕事の中身の方がちょっと……」
 「あ、それでしたら、それほど複雑なものじゃございません」小野寺は言う。「ウチにも、情報ネットをこさえて頂きたいんです」
 「はあ、アパートの管理とか、投資家の管理とか、そういうものですか? それでしたら、相当な規模になると思いますけど」柳原は、腰が引けている。
 「投資に関る業務は、ウチでは扱っておりません。ウチが請負っているのは、投資証券の販売だけです」小野寺は不器用に笑みを浮かべて言う。「柳原さんにやって頂きたいのは、社内のメイルシステムと、インターネットへの接続、それに、不正アクセスを防ぐ防御用計算機の設定とかでして」
 「ファイヤウォールですね。そういうことでしたか。それなら簡単です」
 「当社のメイルは、現在、社外のプロバイダを使っておるんですが、こういうやり方は、なんでも、セキュリティに問題があると、顧問弁護士に指摘されまして、これを一つ、安全なシステムにして頂きたいと考えておるんですよ」
 そんなことならと、柳原は小野寺の依頼に応じることにする。標準的なローカルエリアネットワークなら、柳原の作業はほとんど発生しない。
 柳原は、小野寺の命を受けた大川と具体的なシステムを打ち合わせ、発注品目と、おおよその作業日程を決める。
 大川は、山の上へのシステム一式の発注を了承した。柳原がこれを山の上に持ちかえれば、山の上から柳原に、多少のリベートが支払われるはずである。
 山の上は、オーハローンにハードのみを納品し、設定は、柳原がオーハローンからダイレクトに請負うことにした。柳原は、山の上からのバイト代がもらえない代わりに、オーハローンから三割増のバイト代を受け取れるわけだ。柳原は、この手のシステムを、あちこちの会社に、何度も納めている。だから、設定作業は勝手知ったるもので、大きな問題は発生するはずがないことをよく知っている。この仕事、柳原にとっては、美味しい仕事だし、山の上にとっても悪くない話であろう。
 オーハローンが少々怪しい会社でも、このような、皆がハッピーになれる話を断る筋合いはない。

 九月八日、オーハローンからシステムの準備が整ったとの連絡を受け、柳原は、再び大葉ビルに乗り込む。
 山の上と電話会社の技術者は、既に作業を行なっており、柳原が顔を出したときには、ハードウエアの準備はほぼ完了している。柳原は、なれた手つきでソフトウエアを調整する。ネットワークの接続と設定は半日もしないうちに終わる。柳原は、サービスで、見栄えの良いホームページを作製する。
 夕刻には、オーハローンはめでたくインターネットに接続される。オーハローンの業務内容を紹介するホームページも、世界中からアクセス可能だ。社内の至るところに置かれていたパソコンは、今やメイルの送受信もインターネットへの接続も可能になる。
 外部からの不正アクセスを防ぐファイヤーウォールも完璧だ。しかし、柳原は抜け目なく、自分のための秘密の裏口を紛れ込ませておく。
 仕事が終った柳原は、再び、小野寺に呼び出される。
 「いやあ、柳原さんには、本当に良い仕事をして頂きまして、感激しとります。電話帳のシステムも、実にうまく動いてまして、効率が十パーセント単位で上がったとの報告を受けています。これが本当なら、一日数億の売上増ですよ。まあ、ウチらの口銭はそれほどじゃあないんですがね」
 「それはおめでとうございます」柳原は、一応、クライアントにおべんちゃらを言っておく。
 「それでですねえ、柳原さんの腕を見込んで、お願いというか、ちょっと考えて頂きたいことがありまして」
 「なんでしょうか? 私、学校とかもありますんで、あまりバイトばっかり、やっていられないんですけど」
 「いえね、実はウチの関連会社で、以前からQ2やらテレクラやらのビジネスを展開しておるんですが、最近、売上が伸び悩んでおりまして、ネットワークを使って事業拡張ができないものかと、いろいろと議論をしておるんです。最近、ワン切りとか、出会い系とか、いろいろ新しいビジネスが成長しているという話を聞きましてね。一つこうしたものにも進出しようじゃないかという話になっておるんですよ」
 「それを御社でやりたいと……」柳原は、呆れ顔で言う。「でも、ワン切りは、もう駄目ですよ。他の人に迷惑が掛るし、電話会社の方でも、いろいろと手を打っているようですから。それに、出会い系サイトの立ち上げも、そんな簡単に片付く仕事じゃありませんから、今の私には、手が出ません」
 「そうですか」小野寺は厳しい顔で言う。「いろいろやっていただきましたが、これっきりにしたいとおっしゃるんですな。お手伝い頂ければ、手当てにもう少し色を付けても良いと考えておるんですがねえ」
 「いえ、もう、いっぱい頂きましたんで、ご心配下さらなくても、大丈夫です」
 小野寺は笑いながら言う。「いやあ、欲のない方だ。無理にはお引止めしません。ご苦労さんでした。また、縁があったら、お会いしましょう」

 大原ビルを出て少し歩いてから、柳原は、受け取った封筒の中身を確認する。中には、きっちり六万五千円が入っている。先に行なった住所録データベースを使った販売支援システムは、一週間の作業との見積もりで、五万円で請負った仕事だが、今日の分は、その三割増といわれて請負ったもので、六万五千円は、ちょうどピッタリの計算だ。
 (何億も売上が増えたという割には、けちな奴だなあ)柳原はそう思う反面、(一日五万としても、月二十日働いたら百万円になる。年収にして千二百万かあ。大学出て会社に就職するより、よほど実入りが良いんじゃないかなあ)などと考えている。
 もちろん、この計算には、いろいろと、誤解が混じっている。
 柳原の人件費として、オーハローンは、技術者の人件費を一日五万として、一週間分の作業量であるとの計算に基づいた見積もりをシステム販売会社からもらっている。だから、ソフト開発にオーハローンが支払う総額は、土日を除く五日分で、二十五万円である。
 しかし、柳原に渡るのは、一週間と見積もられたオーハローン向けソフトの構築、全部で五万円だ。これを柳原は一日で終らせるので、柳原の稼ぎは一日五万ということになる。
 この五万と、販売会社の技術者派遣料の五万がたまたま一致したため、柳原も、オーハローンも、一日五万の標準請負価格に、なんの疑問も抱いていないが、もし、オーハローンが、柳原のアルバイト料は一日分で一万円であったと知っていたら、オーハローンが一万三千円しか支払わず、柳原が憤慨するという状況もあり得ただろう。
 前回受け取った五万円は少し使ってしまったけど、それでも柳原の財布には十万円を超える現金が入っている。これは、いつも金欠の柳原にしては、画期的なことである。
 (今日の夕食は、定食屋は止めて、トンカツ定食にしようかな)柳原は、そんなことを考えながら、桜が原の商店街を歩く。

 九月九日の午後、柳原は、大学のキャンパスを歩いている。
 柳原は、不足の著しい履修単位を補充しようと、夏季特別講座の受講を登録している。
 夏季特別講座はそろそろ最終回を迎えるはずで、レポートの課題など、確実に単位を取るために必要欠くべからざる情報が、恐らく今回あたり、提示されるはずだ。
 しかし、久しぶりに登校してみれば、なんと、夏季特別講座は休講だ。いったいどうなっているのかと、見知った顔を探してみるが、夏休み中のキャンバスに学生の姿は疎らで、柳原の役に立ってくれる学生は一人もいない。
 柳原は、昨日のオーハローンが、その後どうなったか気になり、ちょっとのぞいてみるかと、計算機実習室に立ち寄る。流石に夏休み中とあって、普通なら待たなければ使えない端末も、何台か空いている。柳原はその一台の前に陣取ると、教育用計算機にログインする。
 オーハローンの社内システムには、密かに裏口を設けておいた。だから、柳原は簡単にオーハローンのシステムにアクセスできる。
 昨日柳原が設定した管理者用のパスワードは、既に、変更されている。柳原は、大川に、管理者用のパスワードは早めに変更するように言い残しておいた。大川は、柳原の言葉を忠実に実行しているようだ。
 柳原にとって、管理者用のパスワードが変更されることぐらい、計算済みであり、何ら問題はない。柳原が密かに仕掛けた細工は、ダミーのユーザアカウントを設けておいたことと、一つのコマンドを追加でインストールしたことだけだ。追加してインストールしたコマンドは、そのモード指定ビットを、ただ一ビットだけ反転させてある。
 このコマンドは、便利なシステム管理用のコマンドとしてよく知られたコマンドで、フリーソフトとして流通している。これを使うと、メモリーやファイルの中身を調べることが可能であり、また、その内容を部分的に変更することも可能である。
 普通であれば、このコマンドは、読み書きが許可されたファイルに対してだけ有効に働く。しかし、柳原がモード指定ビットを一つ反転したことにより、このコマンドを扱うユーザは、読み書きの許可を受けているかどうか関らず、いかなるファイルも操作することが可能となる。
 ダミーのアカウントを用いてオーハローンに接続した柳原は、まず、いくつかの管理ファイルとシステムのログ(管理状況の記録)ファイルの内容を端末にダウンロードする。次に、ダウンロードした社員名簿を参考にして、幹部社員のメイルホルダーを次々にダンプする。それが終ると、ログファイルの記録をほんの少しだけ書き替えて、すぐに接続を絶つ。この間の接続時間は、わずか五分ほどの短時間だ。柳原は、収集した情報をフロッピーディスクに納めると、それをバックに放り込み、計算機実習室をあとにする。

 (こいつ、悪い奴等だなあ)
 アパートに戻って、オーハローンの幹部のメイルを読みながら、柳原は思う。
 柳原が、オーハローンのネットワークを設定してから、まだ一日しか経過していない。しかしそこでは、既に大量のメイルがやり取りされている。
 それぞれのメイルには、几帳面にも過去のメッセージが順に添付されているため、わずか一日のメッセージを読んだだけでも、これまでの議論の経緯がよく理解できる。
 添付メイルのヘッダ情報から、オーハローンの関係者は、これまで、ウエブ上の無料アカウントを使って、相互にメイルを送り合っていたことがわかる。
 (よく、こんな、危ないことをやっているなあ)柳原は自分がクラックしていることを棚に上げて、オーハローンのセキュリティ意識の甘さを詰る。(こんなの、誰に覗かれるか、わかったもんじゃない。犯罪をやろうっていうなら、ばれないように、もっと気を付けなくちゃ、いけないねえ)
 柳原が見付けた「犯罪」は、実に単純な話だ。
 オーハローンが売り込んでいる「不動産共同投資証券」は、帳簿上は、「且都圏不動産共同投資」なる会社から、オーハローン社が証券の販売を受託した形をとっており、この会社が、アパートの建設から管理までを行ない、投資家に配当することとなっているのだが、この会社は実体のないもので、販売代金は全く投資には回されていない。すなわち、この投資話は、詐欺以外のなにものでもない。
 証券の売上が一日で数十億円という、柳原の先日の見積りは、メイルの情報とも概ね一致する。計算機システムを新規に入れてまで販売しているということは、まさか十日やそこらで販売を終了するようにも思えない。そうだとすれば、被害総額一千億円を超える、巨額の詐欺事件が進行中、というわけだ。
 メイルを読んで、柳原が驚いたことは、オーハローンは警察とも結託しているらしいという点だ。
 オーハローンの要請に応じて、警視庁のデータベースにある個人情報が、オーハローン側に洩れている。その見返りの礼金をいくらにするか、幹部の間で議論が交わされている。
 (この高梨さん、ってのが悪徳警官ね)柳原は考える。(どうやって懲らしめれば良いか……)
 警視庁のデータベースから最も新しく引き出された個人情報は、田中という男に関する情報である。幹部のメイルに添付された個人情報によれば、この男は、傷害事件で何度も警察に逮捕された経歴の持ち主で、札付きのワルであることは一目瞭然だ。恐らくこれでは、ローンは断られたことだろう。
 しばらくメイルを読んでいて、柳原は驚くべきメッセージを目にする。
 柳原自身の個人情報に対しても照会がなされている。
 柳原が驚いて回答を探すと、それはすぐうしろに出て来る。
 「ヤナイバラ メグミ」という氏名での照会に対し、柳原本人の記録一件だけがヒットした旨の回答があり、そのあとに、柳原の個人情報、つまり、柳原の住所、電話番号、運転免許証の種類と番号と同居人の有無が書かれている。最後に「前科なし」と書かれているのにはギョッとさせられるが、もちろん、柳原は、これまで、警察のご厄介になったことはないから、これは正しい回答である。
 (ははーん、こいつら、私の信用調査をしたのか)柳原は納得する。(同居人なし、ってのは余計なことだけど、免許取ったんだから、このくらいは警察が知っていてもおかしくはないわね。前科なしも、実際と合ってるし……)
 この記録自体は、とやかく言うべき筋合いのものでもないが、警察の管理している個人情報がローン会社に流れているというのは、とんでもない話だ。しかも、柳原の住所まで知っている詐欺師と悪徳警官が結託している、という状況は、ちょっと、恐ろしい。
 (この詐欺事件、警察に届けると、私自身が危ないことになるかもしれない)
 柳原は、しばし考え込む。
 やがて、柳原は、警視庁が第三者機関に委託して開設した「匿名情報窓口」に思い当たる。
 このアドレスは、相次ぐ企業犯罪に業を煮やした警視庁が内部告発者用に特別に設けたものであって、メイルは一旦、外部の弁護士で構成される「匿名告発機構」に送られ、発信者を特定する手掛りを削除されたのちに、警視庁に転送される仕組みだ。
 この窓口、警察内部の犯罪も扱っていたはずだ。
 柳原は、匿名アカウントにアクセスし、メイルを打ち込む。

 『我ガ入手セル情報ニヨレバ、おーはろーんニテ
  巨額ノ詐欺事件ガ進行中デアル。マタ、おーは
  ろーんニハ、警察関係者モ協力シテオル模様ナ
  リ。詳シクハ、添付シタめいるヲ参照ノコト。
             一介ノはっかーヨリ』

 柳原は、メイルに、オーハローン幹部のメイルをいくつか添付すると、送信ボタンをクリックする。
 


第二章   証拠隠滅?

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 急に空気が涼しくなった九月二十一日の夕刻である。近藤調査事務所で事務員を務めるエミちゃんは、文房具の買い物から戻って、近藤ビルの狭い階段を上がり切ったところで、おやっと思う。
 外は薄暗くなってきたというのに、事務所の照明が消えたままだ。
 (所長がおられたはずなのに、どうしたのかしら?)
 近藤調査事務所は、地球環境保全に対するささやかな配慮から、晴れた日の日中は照明を点けない。その代り、各自の机に備えられた蛍光灯スタンドを使用することにしている。しかし、夕刻になれば話は別だ。暗さを感じた誰かが、自発的に照明のスイッチを入れるのが常だ。
 これほど薄暗いのに照明がついていないのは、ちょっとおかしい。
 事務所のドアに、鍵は掛っていない。
 鍵が掛っていれば、所長は急用で出かけたとも考えられる。もしそうなら、エミちゃんは、自分の持っているスペアの鍵でドアを開け、所長の帰りを待てば良い。
 真っ暗の中に、所長が一人でいるということは、病気か事故が所長の身に起こり、意識を失って倒れているのかも知れない。もしかすると、強盗が侵入し、所長は行動の自由を失っているのかも知れない。その強盗は、まだ事務所にいて、金目のものを漁っているかも知れない。
 どんどんと悪い予感が募るエミちゃんだったが、ふと、最もありそうな状況に思い当たる。
 (ひょっとして、所長は、居眠りをしているのかも知れない。うん、それが一番ありそう……)
 エミちゃんは、自分の考えがおかしくて、噴き出しそうになるのを堪えながら、ドアのハンドルに手を掛ける。
 その時、事務所の中から物音が聞こえる。エミちゃんは、その音に本能的に反応し、音を立てないように、注意深くドアを開ける。
 わずかに開いた事務所のドアの隙間から室内を覗いたエミちゃんは、見知らぬ男たちの後姿に気付き、驚いてその場に立ちつくす。
 ふたりの恰幅の良い男が、近藤所長を取り囲むように、デスクの前に立っている。
 近藤のデスクに置かれた蛍光灯スタンドが、薄暗い事務所の中で一つだけ灯っている。デスクに座る近藤の顔は、蛍光灯スタンドに照らされて、青白くみえる。
 近藤のデスクの前立ったふたりの男は、デスクに上体を乗り出している。それは、まるで、近藤に圧力をかけているようだ。
 ふたりの男の隙間から、眉をひくひくと動かす近藤の顔が見える。
 エミちゃんは、悲鳴を上げそうな口をしっかりと閉める。
 男たちも、近藤も、エミちゃんには気付いていないようだ。
 そのとき、近藤が口を開き、低い声で言う。
 「馬鹿野郎が」
 「申し訳ありません」近藤の前に立つ男の一人が言う。
 男たちの上半身がデスクに乗り出していたのは、近藤を攻撃するためではなく、どうやら、謝っていたためのようだ。
 (どうやら、危ないことでも、ないみたい)エミちゃんはそう悟る。
 「おまえに言ったんじゃない」近藤の低い声が聞こえる。「大馬鹿は高梨の野郎だ。馬鹿の一つ覚えみたいなこと、いつまでやってりゃあ気が済むんだ」
 「令状は、明日には、下りるはずです」男が言う。「その後の捜査につきましては、近藤さんにもご協力願えないかと」
 「俺は、もう、部外者だ。この話も、俺なんぞにしちゃあ、まずいんじゃないか」
 エミちゃんは、ちょっと不安になる。(この話、立ち聞きなんかして、まずくはないのかしら)
 「今日は、我々、代休でして、公には何も……」
 男がそこまで話したとき、意を決したエミちゃんは、ドアを勢いよく開け、何食わぬ顔で「戻りました」と言う。
 二人の男は口を閉じ、近藤の表情も瞬時にいつもの表情に戻る。
 「もう、暗いですよ。灯り、点けましょうか?」エミちゃんは、意識的に明るい声を出して言う。
 「ああ、頼む」
 近藤は、エミちゃんに応えて言う。その声は、ちょっと、怒っているようだ。
 エミちゃんは、気まずい雰囲気を感じながら、黙って電気を点け、席に戻る。
 と、近藤は、一転、にこやか顔で、二人の男をエミちゃんに紹介する。
 「あー、きみきみ、このふたりは、前の職場でいっしょにやっていた同僚で、鈴木君と高橋君だ。近所まで来たんで顔を出したとさ。コーヒーでも淹れて差し上げて」
 「あ、いや、我々、もう失礼致しますので、お気使いなさらないように」鈴木は立ち上がりかけたエミちゃんを制止してそう言うと、近藤に向かって小声で言う。「今日は、これで失礼致します。先ほどの件、少し考えていただければ助かります」
 「どうも今日はわざわざ、すみませんなあ」近藤はそう言うと、立ち上がって二人をドアのところで見送る。
 エミちゃんは、近藤の声がわざとらしいことを見逃さない。

 近藤は、席で煙草に火を付け、天井を睨み付けて動かない。
 エミちゃんは、黙ってコーヒーを淹れ、近藤の前に置く。
 どうやら秘密らしい会話を立ち聞きしたことが、ちょっと嬉しい反面、罪悪感もあり、近藤に話しかける元気が出ない。
 エミちゃんは、買ってきた文具を整理して棚に入れると、会計ソフトを起動して、溜まっていた伝票の入力に取りかかる。
 事務所には、エミちゃんがキーを叩く音が静かに流れる。
 近藤は、コーヒーを飲むのも忘れて、何事かを考え込んでいる。
 「え、うそ」静かな室内にエミちゃんの声が響く。
 「ん? 何かあったかね?」近藤も、視線を天井から下ろしてエミちゃんに尋ねる。
 「伝票入れ終わって、試算してみたんですけど……」エミちゃんは心配そうに言う。「今月末、キャッシュが回りません」
 「本当だねえ」近藤は、赤い数字が表示されているディスプレーを眺めて言う。「五十万か。ま、どうにかなるだろう」
 「どうにかって、どうするんですか?」
 「俺の給料と事務所の家賃、来月に延ばしゃいい」近藤は気楽に言う。「来月になれば、佐藤君が今やっている調査も入金になるだろう」
 「そりゃあ、佐藤さんの報告書、もうすぐできる筈ですけどぉ……良いんですか? 家賃払わなくても」
 「いいの、お袋、そういうの慣れているから」
 近藤調査事務所の入る近藤ビルは、近藤の実家が経営する近藤商店の持ちビルだ。近藤商店は株式会社の形態をとっているが、実質は近藤の母親が一人で経営する個人商店であり、ルーズな処理もまかり通る。
 「慣れているって、そんなあ」エミちゃんは、あまりにもいい加減な近藤の言葉に驚く。
 「俺たちの前の店子も、家賃十ヶ月分滞納して夜逃げしたんだ」近藤は、こともなげに言う。
 「夜逃げ、ですか。ウチ、人探しもやっているじゃないですか。その、夜逃げした人、捕まえられないんですか?」
 「それ、この事務所を開いて、ウチにきた最初の依頼。調査料はただにする代わりに、家賃の取立てに成功したら、回収分の半額を貰う約束になっている」
 「そんな調査依頼はまずいですよ」エミちゃんは口を尖らせて言う。「そういうときは、調査料は全額、成功報酬という形にして、契約書もきちんと作っておかなくちゃ」
 「どっちでも同じだろう」
 「そうですけどぉ、名目は大事です。事件のファイルも作っていないし、ルーズですねえ」
 「あ、それね。適当に作っておいて。頼まれたときの資料、封筒に入れて、どこかに置いてある。こんど探しておくからね」
 エミちゃんは、新規に依頼された作業の段取りをすばやく考えるが、ふと、思い当たって言う。
 「家賃十ヶ月分、っていったら三百万円じゃないですか。半分で百五十万円。それだけの成功報酬が入ってきたら、キャッシュの不足は一気に解決です。それ、今月中に捕まえましょうよ。家賃もちゃんと払えるし」
 「ま、そいつらの残していった家具を俺たちが使っているから、少しは返してやらにゃならんがね。だけどこれ、迷宮入りだよ。最初は美味しい仕事だとは思ったんだが、そいつがどこに消えたんだか、皆目、見当がつかないんだ。奴等の残していったパソコンも調べたんだが、手掛りになりそうなものは、まるで残っていない。綺麗さっぱり、消して逃げやがった」近藤は、使われていないデスクに置かれたパソコンを指差して言う。
 「あのコンピュータも、それだったんですか」
 このパソコン、エミちゃんが近藤調査事務所に入社してから、使われているのを一度も見たことがなかったのだ。
 「そう、それ、奴等の。だけど、文書もメイルの控も、何も残されていないからね」
 「ちょっと見てもいいですか?」
 「どうぞ。だけど、壊したりすると、なに言われるかわからないから、気を付けて扱ってね」
 エミちゃんは注意深くパソコンの電源を入れ、ファイル一覧表をざっと眺める。
 確かに、文書ディレクトリもメイルホルダも空だし、ユーザのディレクトリも見当たらない。
 「あ、そのパソコン、使えたんですか?」事務所に戻った佐藤調査員が、エミちゃんが操作するパソコンを見て言う。
 「夜逃げ野郎のパソコンだよ」近藤は佐藤に説明する。「ま、無駄だとは思うが、違う目で調べれば、何か見付かるかも知れない」
 「エミちゃんも、時々、鋭いことがありますからねえ」佐藤はそう言ってから、室内に漂う香りに気が付く。「ああ、コーヒー、良い薫りですねえ。まだ残っているかなあ」
 「ありますよ」エミちゃんは、パソコンの調査をさっさと諦め、第一級の笑顔を作ると、佐藤にコーヒーをサービスする。

 エミちゃんは、近藤調査事務所に入社したときから、佐藤に目をつけている。
 五ヶ月前、エミちゃんが近藤調査事務所を就職先に選んだのは、秘書を募集している会社が、この近所にはろくになかったからだ。
 もちろん、近くの駅から十分も電車に乗れば、渋谷、新宿という大ターミナルに出ることもでき、そこには秘書を求める会社もたくさんある。しかし、エミちゃんの両親は、いわゆる盛り場で娘を働かせることに難色を示したのだ。
 企業の規模では、近藤調査事務所は、異様に小さい部類に属する。しかし、エミちゃんの両親は、桜が原で古くから営業している近藤青果店をよく知っており、その跡取息子が八百屋の二階で始めた会社ならと、エミちゃんが秘書学校から持ち帰った求人リストに二重丸を付けたのだ。
 エミちゃんも、探偵事務所というのは、ちょっと興味がある。何しろ、履歴書の自己紹介欄に書いた「趣味、読書」というのは、実は、ミステリーを読むのが好きだという意味であり、小さい時分から、内外の探偵小説を読み漁っていたのだ。
 それに、女性ばかりだった秘書のコースに比べ、就職すれば、異性との出会いの場も増えるだろう、探偵というのは、ひょっとして、映画や小説に出て来るような、魅力溢れる人達なんじゃないかしら、とエミちゃんは漠然とした期待感を抱いて入社したのだった。
 しかし、初出勤して、他の社員を紹介されて驚く。
 何しろ、エミちゃん以外の社員は、社長の近藤と、調査員の佐藤のふたりだけである。
 しかし、エミちゃんがそれほど失望しなかったのは、佐藤が、ちょっと憂いを帯びた、感じの良い独身男だったからである。
 佐藤は、年の頃は二十七八、身長百八十ほどの、すらりとした好男子である。顔も、はっきり言って、良い男だ。気が弱そうなところは玉に傷だが、優しいところは魅力的である。このふたつ、同じコインの裏表といえなくもない。

 エミちゃんのそんな思いを知ってか知らずか、コーヒーを受取った佐藤は、猛然と計算機のキーボードを叩く。
 猛然とという形容詞は、佐藤がキーボードを打つ様を形容するためにあるようなものだ。
 何しろ音が凄まじい。
 エミちゃんが最初にこれを見た時は、何を始めたのかと、びっくりしたものだ。
 しかし、佐藤タイピングのスピードは、それほど速くはない。
 佐藤のタイピングは、一般の人に比べれば多少速いのかも知れないが、専門教育を受けたエミちゃんに比べれば、全然遅い。
 それにもかかわらず凄い音がするのは、佐藤がキーボードを叩く力による。佐藤は、離れたところから加速をつけて、指をキーボードに叩き付けているのだ。
 時折、キーを打つ音が止むのは、佐藤が手帳に書かれた記録を確認するときだ。そんな時、佐藤のもう一方の手は、コーヒーカップに伸びている。
 「収穫はあったかね?」近藤は、一瞬の静寂を捕らえて、視線を天井から佐藤に移して尋ねる。
 「二つ同時に片付きましたよ。浮気の現場は、もー、ばっちり。写真も撮れました。信用調査の方も、三軒から詳しい話が聞けました」
 「お前も、探偵稼業が板に付いてきたなあ」
 「それなんですけどね、これ、打ち終ったら、ちょっとお時間、よろしいでしょうか?」
 「どこかで、一杯やりながら話そうか?」
 「これから、病院、回りますんで、アルコールはちょっと……」
 「どこか、具合でも悪いのか?」
 「親父が今朝、倒れたんですよ。それで、今日から入院しているんですけど、医者が、話をするから来てくれ、って」
 「そう、それは大変だねえ。ご家族呼んで、話をするってことは、ヤバイのかなあ」
 「だいぶ前からヤバイっすよー。脳溢血で、もう三度目ですからねえ、倒れたの。今回は、精密検査をするような話のようですけど、もう歳だから……」
 「そんな大変なら、早く帰ったら? 報告書なんて、別に、急ぐものでもないだろうが」
 「メモ、ろくに取ってないんで、忘れると困ります。病院に言われた時間まで間がありますし、報告書も、もうすぐ終りますから。そのあとで、ちょっとお時間貸してください」
 佐藤の邪魔をしては悪いと思ったか、近藤はそれっきり口をつぐむと、再び、天井を睨み付ける。佐藤は、再び、キーボードを猛然と叩き始める。
 二十分ほどして、佐藤が、にっこりしながら、最後のキーを力強く叩くと、近藤とエミちゃんのパソコンが、同時に、メイルの着信音を奏でる。
 「終りました。今送りました」佐藤が言う。
 全ての報告書は、一旦、メイルでエミちゃんに送ることになっている。佐藤は、そのコピーを近藤にも送っている。
 エミちゃんの仕事は、調査員からメイルで受けた報告書を加工して、可能な限りの見栄えのする厚手の報告書にまとめ、請求書と一緒に依頼主に送ることだ。エミちゃんがその作業に取り掛かろうとすると、近藤が声を掛ける。
 「報告書まとめるの、明日でも良いよ。俺たち、ちょっと密談してるから」近藤はエミちゃんにそういうと、佐藤を応接室に誘う。
 「すみませーん。それじゃ、私、今日はこれで失礼しまーす」
 応接室に向かう近藤の背中に、エミちゃんの声が飛ぶ。近藤は、片手を上げて、エミちゃんに「ご苦労さん」と一言掛けると、佐藤と共に応接室に消える。

 佐藤は、応接室の椅子に座るやいなや、語り始める。
 「実は、親父の病気とも関係するんですけど、跡、継いでくれ、って言われてるんです。警察辞めて、近藤さんに拾ってもらってから、たった一年と三月でこんなこと言うのは、申し訳ないんですけど」
 「そうか。鉄工所だったっけか? 君んとこ」
 「ええ、大して儲かっているわけじゃないんですけど、職人さんを抱えてまして、いろいろ大変なんですよ。開発の話やら、親父の病気のことやらが重なりまして、お袋、すっかり参っちゃって」
 「俺のことなら気にするな。この事務所は、最初から一人でやるつもりだったからな」
 「ほんとうにすいません」
 頭を下げて、帰ろうとする佐藤に、近藤は小声で話す。
 「それから、ここだけの話だけど、さっき、鈴木、高橋の両刑事が来てね、高梨の野郎は、どうやら、年貢の納め時だそうだ」
 「へえ、そりゃ、おめでとうございます。あの、クッキーの缶に封印した奴も、やっと日の目をみますねえ」
 「クッキーの缶? 俺はそんなの知らんぞ」
 「またまた、そんなことを言っちゃって。私が処分するように言われた箱、近藤さんが自分で処分するって言って、持ってっちゃったじゃないですか。あれ、どうしたんですか? まさか、本当に処分したんじゃあ、ないですよね」
 「あれを俺が持っていったのは、お前が本当に処分するか、怪しかったからさ。だから、俺がこの手で、きちんと処分したさ」
 「本当ですか?」
 「そう。公式にはそうだ。だから、君もそういうふうに理解しとって。実際、俺だって現物には二度とお目に掛れない、と思う」

 近藤の言葉に嘘はない。
 近藤は、クッキーの缶に納めた証拠物件一式を、自らの手で処分したのだ。
 自ら、父親に処分を依頼する、という形ではあるが。
 近藤の父親は、若い時分、八百屋家業を始める以前は巡査をしていたから、警察の事情にも詳しい。近藤の周囲に何が起こったか、薄々察知していた、と近藤は確信している。
 クッキー缶に納めた証拠は、今後の捜査の進展いかんでは、高梨と久我山を追い詰める重要な武器となるはずだということも、近藤の父は理解していたと考えて、間違いはあるまい。
 親父の性格からして、クッキーの缶をどこかに隠したはずだ。しかし、近藤は、それが処分されずに残っているのかどうかを知らず、仮に残っていたとしても、どこにあるのかわからない。
 クッキー缶を隠し持っていたはずの近藤の父は、半年前に、心筋梗塞で亡くなってしまったのだ。

 「鈴木さん、高橋さんなら、信用できると思いますけどね」佐藤は、近藤の言葉の真意を量りかねて言う。
 「あのふたりは、人間的には悪い奴じゃないんだけど、所詮は、組織の人間だからな。百パーセント信用しては駄目だ」
 「そんなもんですかねえ。先ほどのお話では、高梨の線も、きちんと追っかけているように聞こえましたけどねえ。それから、今回は、久我山代議士にまで迫れそうですか?」
 「そりゃどうかなあ。今回は、久我山という名前は、全然出ていないからねえ。しかし、高梨だけだって、大スキャンダルだよ。何しろ、今となっちゃあ、高梨は、現職の警視庁幹部職員だからな」
 「そういえば、久我山さん、再開発の話にも噛んでいるんですよ」
 「再開発? なんだいそれは」
 「ウチの工場のあたりをマンションとショッピングセンターの複合施設にするって話が進んでいるんですけど、それを仕切っているのが、久我山代議士のところの秘書さんなんですよ。国の地域活性化資金というのを引き出してくれたのは良いんですけど、他にも、いろいろと変な話があって、そういうのが嫌いな親父は、この話が始まった頃から具合が悪くなって……」
 「変な話って、どんな話だね?」
 「再開発の組合が、金融業者に操られているんだとか、一部の業者と結託しているらしいとか、まあ、半分以上は、根も葉もない噂話なんですけどね」
 「その金融業者って、まさか、オーハローンか?」
 「ああ、そんな名前でしたね。その名前、どこで近藤さんは聞かれたんですか?」
 「例の高梨、今回も、オーハローンとの癒着で尻尾を出したらしい。だから、その再開発事業、良く目を光らせていてほしいな。うまくすると、久我山に辿りつく手掛りになるかもしれない」
 「あ、オーハローンって、大葉組でしたね。わかりました。オーハローンには、目を光らせておきましょう。それにしても、なんで今ごろになって、高梨の嫌疑が浮かび上がってきたんでしょうか?」
 「匿名の告発メイルが警視庁に届いたそうだ。それには、オーハローン幹部がやり取りしたと思われるメイルがいくつか添付されていて、警察の内部情報と、高梨への謝礼をどうするか、といった内容が含まれていたそうだ」
 「メイルは証拠になるんでしょうか? 偽造もできると思いますけど」
 「メイルに書かれていた警察の内部情報は、本物だったそうだ。これは、外部の者には知り得ない。従って、内部情報が漏洩したことは間違いがない。オーハローン幹部のメイルが本物なのか、偽造なのかという点は、オーハローンのシステムを差し押さえれば、判明するだろう。もちろん、この話は極秘だよ」

 近藤調査事務所のある桜が原商店街の先に国道が通っている。国道に面して並ぶビルの一つが、桜が原警察署だ。
 警察署の裏手にある駐車場に、大柄の男が警察官に伴われて姿を現す。その男は、小さな暴走グループの頭を張る男で、本名の田中よりも、『鉄管健ちゃん』の通り名で知られている。その名の由来は、鉄パイプを使った喧嘩の腕前に優れることによる。
 田中は、仮眠を挟んだ、二十時間近くにわたる取調べを終えて、たった今、釈放されたところだ。
 昨日の晩、暴走族同士の小競り合いがあった際、田中は、敵対する暴走族のメンバー三名に鉄パイプを用いて暴行を働いたとして、現行犯逮捕されたのだ。
 しかし、被害者とされた少年三名は、医師による診断の結果、いずれも大した怪我もしていないことがわかり、先に手を出したのが少年たちだったこともあって、田中は無罪放免となったものである。
 田中の右目の下には、名刺大の痣ができており、その中央部は赤紫に腫れあがっている。そのため、だたでさえ細い田中の右目は、ほとんど開いていない。
 昨夜逮捕された時、眼の下の傷みを本人は感じていたものの、外見は多少赤くなっていた程度で、誰も田中が怪我をしたとは思っていなかった。時間と共に、田中の痣が目立つようになったことも、田中がこれほど早く無罪放免になった、一つの理由だろう。
 警察官は田中を一台のバイクの前に案内する。
 「おまえのバイク、これに、間違いないな」警察官は田中が頷くのを確認すると、田中に、預かっていたキーを返す。
 田中は、不貞腐れた顔のまま、「ども」と言って、キーを受け取る。田中が安心したことに、田中が倒しておいたバイクは、あれだけの乱闘の中にありながらも、特に目立った傷は付いていない。
 縁起のよいことに、エンジンも一発で掛る。
 田中は、警察に向かって捨て台詞を吐くように、エンジンを高々と空吹かししてバイクを発進させる。
 別れの言葉でも期待していたのか、田中を案内してきた警察官は、呆然と、田中の後姿を見送る。

 田中の住いは、狭い1DKながらも、鉄筋コンクリート造りのマンションだ。
 田中がここを借りることに決めたとき、彼は、木造でも良いから、家賃の安い、もう少し大きな部屋が良いと考えていた。しかし、他のアパートは、みな、駐車場に雨水が吹き込みそうで、バイクを大事にしている田中には、あまり嬉しくなかったのだ。
 田中が部屋のドアを開けると、暗い室内に、留守録のメッセージがあることを告げる、電話機の赤いランプが点滅しているのが見える。
 メッセージは二件、一つは、今日、田中がバイト先に顔を出さなかったことを詰って、仕事は他に頼むからもう来なくて良い、というメッセージだ。もう一件は、友人からのバイト先を紹介するメッセージで、バイト先の電話番号と担当者の名前が録音されている。田中はメモ用紙に素早く番号と名前をメモすると、早速、その番号に電話を掛ける。
 新しい仕事は、出会い系と思しき有料サイトの立ち上げだという。この仕事、ボリュームもありそうだし、メンテも必要になりそうだ。つまり、おいしそうな仕事だと、田中は直感する。持つべきものは友人だ。
 結局のところ今日、田中は、一つの仕事を失い、別の一つの仕事と、目の下の痣を得たわけだ。
 田中は、依頼主の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って、友人から紹介された大葉興業の担当者と、仕事の段取りを打ち合わせる。口下手の田中にとっては、いつの仕事でも、この段階が、最も難しいところだ。

 翌九月二十一日、田中は、大葉ビルの一室で、有料サイトの立ち上げを行う。このサイトには、社内からの素材提供も行なうという。田中は、サイト運営ソフトをインストールする傍ら、念のため、社内ネットワークシステムのチェックを行なう。大葉興業のシステムはオーハローンと共通だ。オーハローンと大葉興業は、担当部署こそ別の組織になっているが、会社中枢部は重なり合っており、一つの組織に二つの名前があるかのようにみえる。
 田中は、いつもの癖で、システムへの侵入の可能性をチェックする。そして、異常な特権ビットが設定された、フリーソフトの存在に気付く。これを使えば、一般ユーザでも、あらゆるファイル、あらゆる主記憶領域を読み書きすることが可能だ。
 (誰かがこのシステムに侵入したのだろうか?)田中はまずそう考える。しかし、このシステム、稼動してから、まだそれほどの日数は経ていない。
 (システムをインストールした奴が、裏口代わりにセットしておいたんじゃないだろうか)
 田中は、何食わぬ顔で、大葉ローンの社員から、このシステムを構築した技術者の名前『柳原』と連絡先『山の上システムサービス』を聞き出す。
 田中は山の上システムサービスに電話をかけ、柳原を呼び出してもらう。その時、はじめて、柳原が女性であることを知る。
 柳原の話は、要領を得ない。言葉の上では、「あとで戻そうと思ったけど忘れていた」とは言うが、このフリーソフトに特権ビットをセットするのは、仮にインストール作業中の手間を省くためとはいえ、危険極まりない。
 「だって、楽じゃん」柳原はそう言うが、この台詞、柳原が本当にそう思って言っているのか、見付けられてしまった裏口の細工を誤魔化すためにそう言っているのか、田中には判断がつかない。
 いずれにしても、このフリーソフトはシステムの運営には必要のないものであることを確認し、田中は柳原との電話を終える。

 田中の作業は、深夜までかかるが、ほぼ完了する。あとは、いくつかのテストを残すのみだ。
 その時、大葉組幹部の小野寺という男が、青い顔をして、田中の前に姿を見せる。
 「おい、ウチのシステム、ディスクの中身、全部消せるか? あとで戻せるようにしてだが」
 「そりゃわけない。バックアップとって、フォーマットし直せば良い。ちょっと時間、掛りますけど」
 「それで、消したことがバレないようにできるか?」
 「それなら、まずいファイルだけ、テープに吸い上げてから消せば良い」田中は、新しいテープカートリッジを見付けだし、ドライブにセットしながら言う。
 「いや駄目だ、全部消してくれ。非常にヤバイ情報があちこちに入っている」
 「それじゃあ、一回全部消して、OSと、最初にインストールしたプログラム、再インストールしとく。知らない人なら、それでも、そういうものだと、思ってくれるかも知れない」
 「それで良い。急いでやってくれ」

 田中の作業は、窓の外にわずかな明るみが差し始めた早朝に、やっと終る。田中が、ソファーで寝ていた小野寺を起して、この先の段取りを話し合おうとした時、窓の外に、大葉ビル取り囲む多数の警察車輛が目に入る。
 「ヤバイ、来ちまった。こんな時間によくやるな、連中も」小野寺は、そう言うと、田中にバックアップテープを持ってすぐに逃げるように頼む。「おまえはここには来なかった。それで良いな。テープは、絶対に警察に渡すんじゃないぞ。警察の手に渡るぐらいなら焼却してくれ。危なければ、バイクごと燃やしたっていいぞ。その時は、バイクを一台買ってやる。こっちが片付いたら連絡する。それまでは、なんとか、逃げていてくれ」
 田中は、小野寺に促され、バックアップテープを自分の布バックに放り込んで背中に背負い込むと、三階の窓より隣の工場の二階の屋根に飛び移る。
 田中は、猫のように、両手両足を使って屋根の上に着地する。トタンの屋根は、見掛けよりずっと丈夫にできており、心配したほど大きな音はしない。田中は、屋根の上を小走りに、工場の反対側に移動すると、軒にぶるさがって一階の屋根に下り、続いてブロック塀を足がかりに、地上に降りる。
 田中が脱出ルートに使った工場は、二つの道路に面している。大葉ビルの側の道路には、警察車輛が多数停まっていたが、田中が降りた側の道路はだれもおらず、閑散としている。このまま左に行けば、国道に出られる。国道を渡ったところには、地下鉄の駅もあり、もう電車も走っているはずである。
 田中は、どうするべきかを考える。
 ここで左に行って、地下鉄に乗れば、警察官に止められることもなく、まず間違いなく逃げ出すことができる。
 しかし、田中はバイクで大葉ビルまでやって来たのだ。
 大葉ビルにはバイクの駐車場がないため、近くの資材置き場の塀際にバイクは停めてある。
 田中がバイクを止めた場所は、ごみを出すのに使われている場所で、道幅が多少広くなっているのをこれ幸いと、数台の自転車とバイクが停めてあった。だから、田中のバイクは、それほど目立つわけではない。しかし、路上駐車であることに変りはなく、あまり長い期間放置すると、警察に目を付けられる可能性がある。
 田中がバイクを停めた場所は、大葉ビルから少し離れていたから、大葉ビルを取り巻く警官たちの外側になっていそうだ。
 田中は、バイクに乗るのが好きであり、バイクなしの生活に、我慢できそうもない。
 それらの諸条件を綿密に検討し、田中は、右側に歩き始める。この先のT字路を右に曲がると、大葉ビルの前に続く路地に出る。
 路地を出ると、はるか先に数台の警察車輛が停まり、警察官が動き回っている。
 幸いなことに、警察車輛が停まっているのは、田中がバイクを停めた場所よりも向う側である。
 しかし、田中がバイクを停めた資材置き場の横に、通行止めの標識が設置され、警官が何人か立っている。
 田中は彼等を無視してバイクに向かう。
 警察官は田中を呼びとめるが、駐車しておいたバイクを取りに来たのだと田中がいうと、警察官は早くバイクを退かせるように田中に指示する。
 田中は、自分のバイクを引き出すと、ゆっくりとヘルメットを被り、バイクを運転して静かに立ち去る。

 田中は、もしも尾行されたときの用心、という口実を自分に言い聞かせて、都内を走りまわる。
 実際のところは、手入れの現場から証拠物件を持ち出すという冒険で田中の全身の血が滾り、これを落ち着かせるためには、とにかく、空いた道路をバイクで飛ばしたいと感じたからだ。
 田中は警察が大嫌いだ。だから、連中の企てを一つ、叩き潰してやったことが愉快でならない。バイクを飛ばしながら、うおー、と吼えまくりたい心境だ。しかし、証拠物件のバックアップテープを持っている田中は、今、警察に捕まるわけにはいかない。田中は、制限速度十%オーバーの速度を保って、首都高速環状線を疾走する。
 日も完全に上り、交通量が増え出したところで、田中はアパートに帰る。
 アパートの前には、二人の男が田中を待ち構えている。田中を連れてくるように、小野寺に命令されたという。
 バックアップテープを持っている田中は、その命令を妥当なものと判断する。
 バイクを駐車場に入れた田中は、男たちの車に乗り、秘密のアジトに向かう。
 車の中で、田中はぐっすりと寝込む。このため、行く先がどこであったのか、田中には見当も付かない。

 田中が連れ込まれたところは、林の中の、大きな別荘か保養所のような建物である。そこはどうやら大葉組の秘密のアジトの様子で、小野寺と数人のヤバそうな雰囲気の男たちが、オーハローンの情報がなぜ洩れたかについて議論している。
 田中も、質問されるままに、オーハローンの計算機システムに侵入するいくつかの可能性を指摘する。但し、柳原の一件に関しては、敢えて触れずに通す。
 小野寺は、若い男に呼び出されて少しの間席を外すが、すぐに戻ってくる。部屋に戻った小野寺は、テーブルの真中にファックスの束をばさりと投げ出す。
 「匿名告発機構から警視庁に送られたメイルだ。これから、チクった奴の正体は、割れないか?」
 最初の男が読んだファックスの一ページが、次の男に渡される。田中は、昔、同じようにして、現像ができたばかりのキャンプの写真を仲間と回し見したことを想いだし、なんとなくほほえましい光景だなあと感じる。やがて、田中にも、ファックスの最初のページが回ってくる。
 告発メイルのヘッダー情報は全て消去されており、誰が匿名告発を行なったのか、全く知ることはできない。
 告発メイルに添付されたオーハローン幹部のメイルが本物かどうかを田中が尋ねると、小野寺は本物であるという。
 幹部達のメイルのヘッダーは、そのまま残されている。これをみる限り、これらのメイルは、オーハローンの内部に止まっており、外部に出ている形跡はない。
 即ち、メイルの配布先の誰かが、そのコピーを外部に洩らしたか、あるいは、オーハローンのシステムに、何者かが侵入して、幹部のメイルフォルダーからこれらのメイルをコピーしたかの、二通りしか考えられない。
 しかし、裏切った幹部がいたとして、それが誰であるのかはわからないし、侵入者があったとして、それがオーハローン内部で行なわれたものか、外部から侵入されたのかもわからない。
 田中はその場の男たちに問われるままに、自分の考えを述べる。男たちは興味深げに、メイルヘッダーに関する田中の説明に聞き入る。
 クラッカー調査の定石は、システムのログファイルをチェックすることである。田中は、オーハローンで、そのような調査が既に行なわれたかどうか知らない。田中はこの点を尋ねようかとも考えるが、そのような初歩的な質問は、オーハローンのシステム管理者を愚弄する行為であるようにも感じられ、口をつぐむ。
 田中は、メイルを詳細に検討しようと、全文に目を通す。
 田中は、柳原の個人情報を見付け、素早くその内容を暗記する。
 柳原の名前の下に、誰かが赤鉛筆でチェックマークを入れている。
 (柳原、ひょっとして、こいつがやったのかも知れない)田中は、モードビットを反転した怪しいフリーソフトを柳原がセットしていたことを思い出す。(大葉組も目を付けているのかな? もしかすると、柳原、危ないかもしれない)
 田中がどきりとしたことに、自分の個人情報も記載されており、田中の名前の下にも、赤鉛筆でアンダーラインが引いてある。それを見て驚く田中に、小野寺が声を掛ける。
 「おまえのことも調べさせてもらった。計算機をやってもらった連中で、こんなに派手にやっている奴は、おまえぐらいのもんだよ。一暴れしたいなら、俺の組で仕事をする気はないか。計算機の腕もかなり立つようだから、おまえは役に立ちそうだ。おまえの仲間も、一緒に入れてやるぜ」
 「おれ、勝手に走り回るほうだから、集団でなにかするの、駄目なんです」田中は言う。「だけど、警察も嫌いだから、協力はする」
 それを聞いた小野寺は笑い出す。
 「俺たちも警察は嫌いだ。わかった、無理強いはしない。五分の付き合いをしてやろうじゃないか。いま、若いのに送らせる。ちょっと待っていてくれ」
 念のためと、目隠しをされた田中が、「若いの」と呼ばれた男の車に乗ろうとした時、「ちょっと、待ったア」と、ドスの効いた声が掛る。
 目隠しのまま、何事かと心配しながら振り向いた田中の手に、封筒が握らされる。
 「バイト代、忘れるところだったぜ。少々余分に入っているが、口止めと理解してくれ」小野寺が言う。
 田中は、封筒の厚さに驚く。中身が全て一万円札だとすると、百万円の札束が一つ、入っていそうである。
 田中は、これを受け取ることで、将来、面倒な問題に巻き込まれるのではないかと、心配になる。
 「口止め、要らない。どうせ喋る気ないから」
 「おまえは良い奴だよ。おまけに賢い。それが、長生きのコツだ」小野寺は、にやりと笑って言う。「そいつは、挨拶代わりだ。取っておけ。また、仕事を頼みたいが、良いかな?」
 「計算機のことなら、いつでもOK」
 「計算機、使えるようにせんといかんからな。これからは、おまえみたいな、信用のおける奴に頼みたい。女なんぞにやらせたのが、間違いの元だ」
 「システムのインストールは、けっこう、しっかりやっていた。通信も暗号化されてたし。けど、セキュリティ考えたら、ハードの構成は、もっとしっかりしたものにしないと。あれじゃあ、金を、ケチりすぎ……」
 「その話は今度だ。また合おうぜ」小野寺は、話を打ち切り、田中を若いものが回してきた車に乗せる。
 


第三章   ストーカー?

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 九月二十二日の朝、近藤調査事務所に佐藤より電話が掛る。受けたのはエミちゃんだ。
 「親父、昨夜亡くなりまして、今日は忌引き休暇をお願いします。明日からもいろいろあるし、報告書の件もありますんで、事務所には昼過ぎにちょっと顔を出します。昨日のレポート、午前中にまとまるかな?」
 「ええ、それはできますけど、大丈夫なんですか? お葬式とか、予定決まりましたか?」
 「まだです。午前中に手配します」
 エミちゃんは、手伝えることがあれば、なんでも言って欲しいと伝えて電話を切る。
 やがて現れた近藤に、エミちゃんは、佐藤の父親が亡くなったことを伝える。
 近藤は、「あんな報告書、急がなくても良いのに」とエミちゃんに言うが、それが近藤調査事務所での佐藤の最後の仕事になるだろうとの予感もし、早目にけじめを付けたい佐藤の心情に心を巡らせる。
 近藤は佐藤に電話を掛ける。近藤は、悔やみの言葉を述べた後、恐縮する佐藤に、今日と明日は、完全に休めという。結局佐藤は、二日間を丸々忌引き休暇とし、二十四日の午後に事務所に顔を出すこととする。

 佐藤がいないと、近藤調査事務所には、社長の近藤とエミちゃんの二人きりしかいない。
 エミちゃんは朝からワープロを打っている。昨日、佐藤が提出した調査結果を、客先に提出するレポートにまとめているのだ。
 近藤は、難しい顔をして、天井を睨みながら煙草を吸っている。近藤は、朝一番、まだベットにいる時に、鈴木刑事から電話を受けた。その内容に、近藤は腹を立てているのだ。
 鈴木は、今日の早朝に行なわれたオーハローンに対する家宅捜索が空振りに終ったことを近藤に伝えた。それだけでも愉快な話ではないのだが、鈴木は、あろうことか、昨日の話を誰かに洩らしたのが近藤ではないのかと、疑いに満ちた口調で尋ねたのだ。
 近藤はもちろん即座に否定したが、面白くないこと、この上ない。
 勝手に変な話を持ち込んでおいて、「まさか誰かに喋られたんじゃあないでしょうね」などと尋ねるのは、あまりにも無礼というものだ。
 そもそも、警察の情報は、高梨経由でオーハローンに洩れていたはずだ。鈴木たちは、今回の手入れの情報を、どこまで、高梨に秘密にできたのだろうか。近藤がその点を鈴木に問いただすと、鈴木は自信のなさそうな口ぶりで言葉を濁す。
 挙句の果てに、鈴木は、「この件、警察で調べるのは難しいかもしれません。近藤さんのところで調べて頂ければ助かるんですが」と来た。近藤が、「調べても良いですけど、お代は頂けるんでしょうな」ときき返すと、鈴木は「うーん」と唸ったきりだ。
 近藤にしてみれば、過去の因縁もあり、高梨の罪を暴いて警視庁から追放することができれば喜ばしい話だ。近藤がかつて睨んだ、久我山代議士の関与まで暴ければ、欣快の一語に尽きる。
 しかし、近藤の調査会社経営は道楽ではない。わずか二人とはいえ、従業員も抱えているのだ。もちろん、現在抱えている調査で、従業員の給料分くらいは賄える。ビルは、近藤が大株主でもある近藤商店の所有で、本来払うべき家賃も、滞納したところで大きな問題にはならない。しかし、それを除けば、近藤にそれほどの蓄えがあるわけでもなく、無償の調査ができるほどの余裕はない。おまけに、唯一の調査員である佐藤には、家業の跡を継ぐため事務所を辞めると言い出され、当分近藤は、全ての調査業務を、自分一人でこなさなければならない。余計なことをしている暇はないはずだ。

 この日、近藤は事務所を六時で閉める。
 亡くなった佐藤の父の通夜が七時から行なわれると聞いたからだ。
 エミちゃんは、通夜の手伝いをするということで、五時少し前に帰宅している。
 通夜は佐藤の自宅で行なわれる。近藤は、妻の信子と通夜に参列するため、近藤一家の住いでもある近藤ビルを出る。信子は信子で、佐藤の母親とは、古い付き合いなのだ。
 佐藤の自宅は、近藤の事務所から十数分歩いたところにある。
 近藤は車で行きたいところであったが、駐車場がないという話を聞いて、歩いて行くことにした。同じ道を、佐藤は毎日歩いて近藤の事務所まで通っている。この程度の距離を、歩いて行けないとは言えない。
 佐藤の自宅の周囲は、工場が多く、人気(ひとけ)も疎らな一帯である。薄暗くなった空の下、電信柱には街灯が灯されているが、夜になれば、このあたり、女性の一人歩きは危なそうである。
 通夜の会場の周囲は、そこだけ人で満ち溢れている。
 佐藤の実家は、小規模な鉄工所といえども、古くからこの地で操業しており、地元の付き合いも、取引先も多いようだ。
 受け付けの一つにエミちゃんがぽつんと座っている。近藤は、エミちゃんの帰りの足を心配するが、エミちゃんは、あとで両親が迎えにくるという。
 近藤たちは、エミちゃんに香典を渡して記帳を済ませると、祭壇に焼香をし、佐藤と佐藤の母に一礼して、その場を辞す。

 九月二十三日(水)、佐藤家の葬儀に全員出席するため、近藤は、調査事務所を今日一日、臨時休業とした。
 葬儀は、近くの寺で、午前十時より執り行われた。
 エミちゃんは、今日も受付に座っている。
 寺の本堂は、石張りの床にパイプ椅子が置かれ、参列者は靴をはいたまま、椅子に座って読経に頭を垂れている。
 告別式が終り、棺桶が霊柩車に運び込まれる。
 親戚に一人、ビデオ気違いがおり、棺桶を運ぶ人達に注文をつけ、その姿をカメラで追っている。近藤はそれを見て、あまり良い感じがしない。
 佐藤の母は、葬儀社が用意したマイクを使って参列者に短い挨拶を行なうと、近藤に近付いて言う。
 「近藤様と奥様も、一緒に骨を拾ってやって頂けませんか?」
 「そりゃあ構いませんが」
 近藤は、妻、信子の顔色をみるが、信子も焼き場に同行することに異存はないようだ。どのみち今日は、近藤調査事務所も近藤花卉店も臨時休業だ。
 佐藤の母は、近藤たちを一台の大型ハイヤーに案内する。
 車内には先客が一人いる。佐藤の母は、その男を、「坂本先生です、古くからお付き合い頂いている、お医者様です」と紹介する。近藤たちは、その男に軽く頭を下げて、近藤が後部座席に、妻の信子が助手席に乗り込む。
 「佐藤さんとは、どういうご関係で?」坂本医師は近藤に尋ねる。
 「妻が奥様と以前からお付き合い頂いてまして、息子さんは、私どもの事務所で働いているんですよ」
 「ああ、左様ですか。私、ご紹介が遅れましたが、この先で医院をやっております、坂本、と申します」
 「佐藤さんを診られていたんですか?」
 「ええ、佐藤さんとは長い付き合いで」
 「お亡くなりになった原因はなんだったんですか?」
 「硬膜下出血、いわゆる脳溢血ですな。佐藤さんは、以前にも二度、倒れられたことがありまして、お薬を差し上げていました。脳溢血は、後遺症が出ることが多いんですけど、佐藤さんのこれまでの二度の発作では、後遺症は全くみられず、ご家族の方も喜んでおられたんですがね。まあ、もう、お歳だったから、天命というものでしょうなあ」
 「脳溢血って病気は、防げないものなんでしょうか」
 「まあ、高血圧と動脈硬化が原因ですから、カロリーと塩分、コレステロールを控えて、禁煙をして野菜をいっぱい食べて、適度な運動をすれば、発生のリスクを多少なりとも下げることができます。しかし、多かれ少なかれ、お歳を召されれば、やはり、避けることができない場合も多いでしょうなあ。大往生だということで、納得して頂くしかございません」
 「この病気に効く薬というのはあるんですか?」
 「佐藤さんは血圧が高うございましたから、血圧降下剤と、あと、動脈硬化を緩和するお薬を処方しておりました。しかし、これで完治するというようなものではありません。まあ、多少は長生きをして頂けたんでは、と思っておりますがね」
 やがて車列は火葬場に着く。
 ここの窯は、上、中、並の三つのランクがあるようだ。霊柩車が横付けしたのは、その中の、中ランクの窯の前だ。
 寿司でも、鰻でも、松、竹、梅とあれば、迷わず竹を選ぶ近藤は、この選択を好ましいものと感じる。
 「竹か、良い選択だ」近藤がその感想を信子に洩らすと、信子は「あなたの時も、ちゃんと、竹の窯で焼いてあげますから」と、近藤を安心させるように言う。
 最後の別れをして棺を窯に入れ、短い経を唱え終わると、一行は待合の座敷に向かう。そこには寿司の用意がしてある。
 そこに集まった人数は、確かに数が少ない。
 お坊さんの他は、佐藤と、佐藤の母、叔父の夫婦、医者の坂本、そして、近藤夫婦の、七名だ。
 ビデオ気違いの叔父は、カメラを脇において、寿司を食べながら、佐藤の母に、いろいろと質問をしている。
 近藤は、聞くともなく、佐藤の母の話を聞いている。
 以前の二度の発作は、いずれも夕方にテレビを見ている最中に起こったという。その時は、頭痛を訴えた直後に意識を失い、それがなかなか回復しないため、もう駄目かと覚悟を決めたという。この二度の発作の際は、いずれも、急をきいて駆けつけた坂本医師の処置で事無きを得たという。
 三度目の発作は、一昨日の朝、工場に入った直後に起こったもので、この時は、立っている状態で意識を失った様子で、コンクリートの床に仰向けに倒れ、後頭部を強打したようだという。物音を聞き駆け付けた従業員が、これに気付き、妻の映子が坂本医院に電話して急を知らせている。坂本医師が駆けつけて診察をしたが、意識は回復しないものの、呼吸が安定しているということで、ともかく、坂本医院の病室に運び、様子をみようということになった。昼頃、意識が回復し、すっかり元気になったようにみえたが、大事をとって一晩入院し、翌日、近所の大きな病院に移送してCTを撮るという話になったのだが、深夜、容態が急変し、そのまま亡くなったということだ。
 今回、症状の悪化したのは、単なる脳溢血によるものではなく、倒れた時に後頭部を強打したことによる脳内出血が原因かも知れないという。前回の二度の発作が、後遺症も残さずに回復していただけに、倒れた場所が、もう少し地面の柔らかい場所であったらと、佐藤の母はその点を悔やんでいる。
 坂本医師は、動脈硬化も相当に進んでいたこともあり、遅かれ早かれ起きたことだと、佐藤の母をなだめている。
 「お薬は、きちんと飲まれていたんでしょうか?」坂本医師がきく。
 「ええ、血圧も安定しておりました」佐藤の母は答える。
 「それは良うございました」坂本医師は言う。「血圧の薬というものは、飲まなければ、てきめんに、症状が悪化しますんで」
 やがて話題は、工場一帯の再開発の話に移る。
 坂本医師は、再開発に伴って建設されるマンションの一階に診療所を開き、今は大学の医局に勤務している息子夫婦を呼び戻すのだと嬉しそうに言う。診療所の存在は、マンションの価値を高めるということで、開業を条件に、診療所とマンションの一室を格安で手に入れる話が進んでいるという。
 再開発にばら色の未来を描く坂本医師に比べ、佐藤の母、映子は、再開発に困惑気味だ。佐藤の工場も再開発地域に含まれるため、工場を移転するなり、廃業するなりしなければならない。小規模とはいえ、佐藤の工場には従業員もおり、移転するにしても、廃業するにしても、なにかと心労の種は尽きない。
 亡くなった佐藤の父は、再開発そのものには反対でなかったものの、オーハローンの主導で進められていた再開発の手続には、相当に批判的であった様子で、久我山代議士との関係にも思うところがあったようだ。
 「温和な人だったんですけど、再開発の話が始まってから、いろいろと怒りを露わにすることもありまして、そんなことが、夫の寿命を縮めたのかも知れませんね」佐藤の母はそう言って話を締め括る。

 やがて火葬場の職員が座敷に現れ、お骨を拾う準備ができたという。
 一行が窯の前に行くと、そこには既に台車が引き出されており、大きな鉄のバットの上に、骨が並んでいる。
 火葬場の初老の職員は、小柄でよく喋る男である。彼は、小さな骨を探し出して、これが喉仏だと一同に見せ、目鼻の位置を示してそれが仏の顔に見えるでしょうと説明する。
 親戚のビデオ気違いは、喉仏の映像にズームを寄せる。
 その職員は、お歳の割には骨がしっかりしている、などと誉め言葉を並べるが、いまさらこんなことを言われたからどうなるものでもない、と近藤は思う。
 一行が箸を使って骨を骨壷に移す間、焼き場職員は、頭蓋骨の大きい破片を何枚か選んで、喉仏と共に脇に除ける。その作業をしながら、職員は近藤に尋ねる。
 「仏さんは、なんで、お亡くなりになったんでしょうか?」
 「脳溢血と聞いておりますが」
 「発作は一回だけで?」
 「いや、三度目の発作が命取りだと」
 「はあ、左様ですか」
 そう呟いた初老の火葬場職員の口調に、近藤は、『腑に落ちない』という職員の思いを感じ取る。
 「なにか問題でも?」近藤は職員の不審顔の理由を尋ねる。
 「いや、別にたいしたことではありません」
 職員はそう言って、参列者が骨を移し終わった骨壷に喉仏を納め、その上を頭蓋骨で覆い、蓋を閉じて桐箱に納める。

 九月二十四日(木)午後、近藤と佐藤は、エミちゃんの仕上げた報告書の読み合わせをする。いくつか追加の調査が必要だということになり、佐藤は外出の準備を始める。そのとき、事務所のドアをおずおずと開けて、一人の若い女性が入ってくる。
 「あんまりお金、ないんですけど、十万くらいで、仕事お願いできますか?」ぼさぼさ頭のその女性は、自信なさげに、応対に立ったエミちゃんに尋ねる。
 「えーっと、何をお望みでしょうか?」脇から近付いた近藤は、来客の若さに不審を抱きつつも、丁寧な口調で尋ねる。「料金は、仕事の内容によります」
 「最近、変な男に、つきまとわれてるんです。今日もそいつ、私の跡、つけているんです。黒いTシャツを着た長髪の大男で、手首に黒いリストバンドをしてます」
 「ははあ、ストーカーですな。ストーカー調査の費用はピンきりでしてね、ひょっとすると時間が掛るかもしれない。その場合、結構高くつきますよ」
 「たいして掛んないんじゃないですか?」ガラス窓から表を眺めた佐藤が言う。「もう、そこにいますよ」
 「あいつか?」近藤は窓に寄り、佐藤の指差す男が問題のストーカーかどうか、来客に尋ねる。
 「あ、あれです。あれ」ぼさぼさ頭の若い女性は、嬉しそうにそう言う。
 「よしゃ、とっ捕まえよう」近藤はそう言うと、佐藤を引き連れて事務所を出る。
 階段を降りた近藤は、佐藤の少し先を歩く。
 近藤は、男と視線を合わせないように意識して、男の横を通りすぎる。
 近藤が男の後ろに回り込んだとき、佐藤は男の前に無言で立ち、男の顔を見据える。
 男は、一瞬のうちに、状況を理解したようだ。男は、ちらりと後ろを振り返り、近藤が立ちはだかっていることを確認すると、わずかにみせた驚きの表情もすぐに隠して、無言で立ちつづける。
 「話をしたいんだが、事務所に来てくれないか」近藤は男に後ろから言う。「前の男に付いて、歩いてくれ」
 男は無言で頷くと、おとなしく佐藤の後に付いて、近藤ビルに入り、応接室に入る。
 佐藤が見たところ、男は近藤と良い勝負の大男で、一見したところでは、悪役レスラーのような雰囲気を漂わせている。喧嘩をさせれば、相当な力を発揮するだろう。
 しかし、不健康な生活の結果か、筋肉質の近藤に比べて、男の肉体には脂肪が付きすぎている。近藤と一対一の勝負をさせれば、近藤の負けはまずあるまい。

 依頼主の女性は、男と顔を合わせないよう、エミちゃんと事務所で待機している。
 事務所の机にはFM受信機が置かれ、エミちゃんと女性がそのスピーカーに耳を傾けている。
 受信機のダイヤルは、応接室にセットされた無線マイクの周波数に合わせてあるが、今はノイズが聞こえるだけだ。

 近藤は、応接室のソファーに田中を座らせると、おもむろに口を開く。
 「実は我々、ある女性から、男に付きまとわれて困っているという相談を受けましてね、その男というのが、誰あろうあなたでして、ちょっと、お話し合いを致したいんですよ」
 近藤が男に話しかけるが、男は口をつぐんだままだ。近藤は、話を続ける。
 「こういうつきまといをストーカーと言いましてね、これは、法律でも禁止されている行為なんですよ。もし我々の願いを聞いていただいて、こういう行為を止めて頂ければ、私どもも、大いに助かるんですが」
 「おれ、ストーカーじゃ、ないです。柳原、付けてたのは、確か、だけど……」、男は、やっと口を開く。
 「そういうふうに、横恋慕した相手の跡を付けまわすのを、ストーカー行為、って言うんですよ」
 「いや、柳原、別に、俺の趣味じゃないから」
 「あなたの趣味は、どうでも良いんですよ。要は、つきまとい行為を止めて頂きたいと……」
 「いや、俺、柳原をガードしようと」
 「勝手にガードされても、ガードされるほうにしてみれば、迷惑な話でしょう。あなたも、柳原さんから、ガードしてくれと、頼まれたわけじゃあないでしょう?」
 「頼まれてはいない。だけど、あれ、大葉組に狙われている。それを俺が知っているから……」
 「大葉組? どうしてそんなことがわかるんですか?」近藤は、思いもしないところから大葉組の名が出たことに驚いて尋ねる。
 「柳原、大葉組の計算機システムに侵入して、メイルを盗み出して警察に送ったらしい」
 「ちょいと待って下さいよ、それ、オーハローンの話かな?」
 「そう。柳原が密告したかも知れないって、大葉組、疑っている」
 「密告? 彼女が? それは本当ですか? だいたい、あんたがどうしてそれを知っているんですか? あんた、大葉組とどういう関係なんですか?」
 「俺、フリーのプログラマ、田中っていいます。長い話だけど、大葉組と柳原の関係、お話します」

 男はそう前置きをして、オーハローンのシステムで見付けた裏口について説明し、問い合わせの電話に応対した柳原の様子がおかしかったこと、何者かがオーハローンのメイル添付して匿名告発機構に送ったメイルのコピーが、オーハローン手にも渡り、大葉組は密告者を必死で探していることを話す。

 「だから、大葉組、柳原を締め上げる、かもしれない」
 「これは、まずい状況だねえ。ちょっと内部で検討しますんで、あなたはここで待っていてください」
 近藤は田中にそう言って田中が頷くのを確認すると、席を外して柳原の話を聞きに事務所に移る。
 「大丈夫そうですね」佐藤は、近藤と並んで応接を出ると、近藤にそう耳打ちする。
 「そうだな、あいつが暴れたりする心配はなさそうだ」近藤は応える。「こっちは俺だけで対応できるから、君は、報告書の件、片付けてくれないかな」
 忌引き休暇のため停滞していた業務を取り戻そうと、佐藤は、中断されていた追加調査を急ぎ行うべく、事務所を出て行く。

 事務所に入った近藤は、柳原に尋ねる。
 「柳原さん、でしたな。あなたがオーハローンのメイルを匿名告発機構に送ったんですか? あの男は、大葉組が柳原さんを襲うんではないかと心配して、あなたをガードするために跡をつけていたと申し立てているんですが」
 近藤の問いに、しばし無言の柳原だが、やがて口を開き、「しょうがないわねえ」と前置きすると、近藤に全てを語る。

 柳原の話を聞き終わった近藤は、申し訳なさそうに柳原に言う。
 「えー、柳原さんもご存知のように、警察内部にオーハローンの協力者がおりまして、柳原さんが匿名告発機構に送られたメイルは、全て連中の手に渡っておるそうです。オーハローンは、柳原さんを情報漏洩の容疑者の一人と疑っておりまして、田中さんはですね、ストーカーではなくて、柳原さんをガードするために、跡をつけていたということです。オーハローンは、合法的なビジネスの看板を掲げていますが、実体は、暴力団大葉組なんですなあ」
 「それ、薄々わかっていました。だけど、匿名告発機構へのメイルが外部に洩れるなんて、ひどい話ですねえ」
 「全く、困ったもんですなあ。さて、どうしたもんでしょうかねえ」近藤は煙草の煙を高々と吹き上げながら言う。「柳原さんは、多少危ない状況にあるわけですが、ま、いろいろ考える前に、田中さんと和解しておきましょう」
 近藤はそう言うと、柳原を応接室に招き、田中に引き合わせる。
 田中の考えるところでは、柳原はそれほど危険な状況でもない。
 「連中、柳原がメイルを警察に送った証拠を掴んだわけではない」田中は言う。「怪しい奴の一人だけど。いま、いちばん連中が怒っているのは、柳原が構築したシステムがクラックされたってとこ。だけど、この程度のシステムなら、裏口なんかなくてもクラックできる。だいいち、LANだって、安物の無線式だ。そこんとこ、連中に説明して、システム変えさせたら、柳原に対する疑い、ちっとは減るんじゃないかな」
 「田中さんは、しかし、この先も連中と付き合って、大丈夫かな? 我々三人が結託しているのがばれたら、非常に危険だと思うが」
 「バレないって。だいいち、俺、結託なんかしていない」田中は気楽に言う。「だって、ここに来たの、近藤さんにとっ捕まったから。ストーカー止めろと、こんこんと諭されたといえば、たぶん、連中も信用する」
 「そうだなあ。それじゃ一応、誓約書書いといて」
 「誓約書?」
 近藤はエミちゃんに頼み、誓約書のフォームを印刷してもらう。そこには、こう書いてある。
 『誓約書
  私     は、    氏に対してまとわり付く、
  ストーカー行為を働いたことを反省し、以後二度と
  同様な行為を繰り返さないことをここに誓います。』
 田中は、近藤に促されるまま、空欄を埋め、最後の余白に住所氏名と日付を自筆で入れ、拇印を押す。田中は、なんとなく面白くないが、柳原を護るためには致し方ない。
 近藤は、そのコピー二部を封筒に入れて、一部を柳原に、もう一部を田中に渡し、原紙は事務所の金庫に収める。
 田中は、柳原を残したまま、一人で近藤調査事務所をあとにする。

 田中がアパートに近付くと、一台の車が停まり、中の男が田中を手招きして車に乗せる。
 田中が連れ込まれたのは、大葉ビルの一室だ。
 田中が通された小さな部屋には、大葉組幹部の小野寺が待ち構えている。何が起こるのかと身構える田中に、小野寺は言う。
 「なにやってんだ、お前。近藤事務所などに行ったりして」
 「柳原見付けて、跡つけていたら、探偵に捕まった。ストーカー止めろって」
 「なにか喋ったか?」
 「いや、なにも。書類書かされたけど」
 「何を書かされた?」
 小野寺は、田中が差し出した誓約書のコピーを見て、あきれ顔で言う。
 「馬鹿な奴だなあ」
 「馬鹿? 誰が」田中はむっとした顔で問い返す。
 「黙って、話を聞け。お前は、今後、奴等には一切手を出すな。下手なことをすると薮蛇になる。近藤は、執念深い奴だから、気を付けなくてはいけない。あの女もまた厄介なところに逃げ込んだもんだ。しかし、いま、あいつを締め上げにゃならん理由はないんだ。今回の情報洩れは、あの女の落ち度であることには違いないんだが、金で雇った奴の落ち度をそうそう責めてもいられない。実のところ、今回の一件、身内の仕業だと、俺は睨んでいるんだ。まあ、ウチもいろいろあってな。だから、お前の出番はどこにもない。せっかく作ったシステムを消すことになったのは気の毒だと思うし、余計な仕事までさせらて腹が立っているかもしれんが、その分は、きっちり金をやっただろう。五分の付き合いをしてやると言ったが、今回の一件、お前に関しちゃ、片は付いているんだ。お前は、女にも、近藤にも、手を出すんじゃないぞ」
 「わかった。だけど、あれ、相当に喧嘩慣れしている。まともにかかったんじゃ、勝てそうもない」
 「だから、そんなことを考えるな。俺たちも、近藤とはちょいと因縁があるんだ。あいつはしつこい奴でな。お前が今度あの女に付きまとったら、確実に警察沙汰だ。こんな書類まで書かされてな。サツも、ガサ入れが空振りだったもんだから、相当に頭に来ているはずだ。別件で逮捕して、お前を締め上げるぐらいのことは、平気でやるぞ」
 「警察なんて、別にたいしたことない。それに、俺が証拠隠滅したの、警察には、ばれてないはず」
 「警察をなめるんじゃない。お前がウチのシステムを請負ったことは、大勢の人間が知っている。警官ども、計算機のあたりで指紋を採っていたが、おまえの指紋も、あったんじゃないのか。お前の指紋、警察は持っているんだろう。お前の信用調査したときのメイルは連中が持っているし、あの朝だって、お前はおまわりと、なんか喋ってたじゃないか。いつ、お前がサツに目を付けられるか、わかったもんじゃない」
 「そりゃそうだけど……」
 田中は、作業のあとでキーボードを拭き取り、自分の指紋は消したつもりだ。しかし、それが完全であっただろうかと思い返してみると、絶対に大丈夫だと言い切れる自信はない。
 「とにかく、今、問題を起すのは、非常にまずいんだ。余計な暴力沙汰には、俺たちも手を出さないが、お前も絶対に手を出すんじゃないぞ。女にも、近藤にもだ。だいたい、近藤は柔道の達人だ。お前の手に負える相手じゃない。若いほうなら、勝ち目はあるが、それでも、元刑事だ。全くの素人だと思って手を出すと、痛い目に合う。お前さんには、ガサ入れのとき、良い働きをしてもらった。だから、今、お前がしょっ引かれるのは非常に困るんだよ。あいつ等に手を出すと、まず確実にパクられるからな」
 「しかし……」
 「男にゃあ我慢しなきゃならんときがあるんだ。もし、お前が、どうしても近藤に仕返しをするというなら、俺たちが相手になってやる。馬鹿げた話だとは思うが、そんときは、お前をきっちり畳んでやる」
 「わかった。奴等には手を出さない。それで、コンピュータのほうはどうする」
 「そっちは、しばらくは、このままにしておく。また、ガサ入れがないとも限らんからな。復旧の準備ができたら連絡をする。しばらくどこか、旅行にでも行っていろ。金はまだ残っているだろ」
 「無線LANは、止めたほうが良い。傍受されるから」
 「システムを入れかえるぐらいの金はある。絶対にやられないシステムを考えておいてくれないか」
 「絶対はない。どんなに金をかけても、破られる可能性をゼロにはできない」
 小野寺は、ちっ、と舌打ちをする。
 (こんなに素直じゃない奴は、確かに、組織には向かないかも知れない)小野寺は、そんなことを考えながら、手下に田中を送らせる手配をする。

 近藤調査事務所には、空いたデスクがいくつかある。近藤は、その一つを柳原に提供し、ここで仕事をしてもらうことにする。
 仕事といっても、近藤調査事務所の仕事ではない。
 柳原は、山の上のソフト開発の仕事を近藤調査事務所で行うことにしたのだ。
 しかし、黙って引っ込んでいる柳原ではない。
 柳原がオーハローンのシステムに前回仕掛けた裏口は、既に田中に見付かり、潰されてしまった。ゲストアカウントも、しっかりと消されている。
 しかし、オーハローンの動きを押さえておくことは、今後ますます重要になるはずだ。そこで、対大葉組作戦の第一弾として、新たな裏口を作ることを計画する。
 最初に簡単な方法をトライする。
 柳原は、近藤が確保したインターネットアカウントを用いて、匿名のメイルアドレスを手に入れる。柳原はこのアドレスから、送信者を suzuki@stop-net-abuse.or.jpと偽造したメイルを、オーハローンのシステム管理者宛てに出す。
 内容は、こうだ。

 『件名: 貴社ネットへの不正アクセスに関する連絡
  To: オーハローンシステム管理者殿
  
  鈴木@インターネット不正告発委員会と申します。
  
  貴社ネットワークに対する不正アクセスが
  検出されましたのでご連絡します。
  
  詳細情報および
  侵入者のプロファイルに付きましては、
  添付ファイルをご参照下さい。
  添付ファイルは自動解凍ファイルですので、
  このまま実行してください。
  
  # インターネット不正告発委員会は、 #
  # インターネットの正常化を目指した #
  # ボランティア(非営利)組織です。 #
  # 本活動の趣旨にご賛同されない場合、#
  # 本メイルをそのまま削除して下さい。#』

 近藤は、柳原が何をするかと、興味深々でパソコン画面を覗き込む。
 「連中が興味を持ちそうな話だね。それで、添付ファイルには何が入っているんだね?」近藤がきく。「君の個人情報が入っているわけはないと思うが、まさか、赤の他人の情報が入っているんじゃないだろうね。そいつが襲われでもしたら、寝覚めが悪いぞ」
 「ウイルス」柳原はあっさりと応える。
 「コンピュータウイルスか?」近藤は驚いて言う。「連中、ウイルスチェッカーとか使っていないのか?」
 「そういうソフトも納めました。でも、これは私が作った特製ウイルス、どこのウイルスパターンファイルにも、登録されていないんだ。つまり、絶対バレないんですよ」
 「そんなものを送って、ウイルスが広がりでもしたら、どうするんだ。犯罪だぞこれは」
 「よそへは感染しない。オーハローンのシステムに住み付いて、裏口を作るだけよ。だから、よそには迷惑をかけないし、バレる心配もない」
 「しかし、これ実行して、侵入者の情報が出てこなかったら疑われるだろう」
 「『ファイルが壊れています』ってメッセージが出るのよ。よくある話でしょう」柳原は嬉しそうに言う。「で、もしもうまく裏口ができなかったら、もう一回送るの。『前回お送りしたファイルは、壊れてましたので、再送します』とか書いてね」
 「悪い奴だなあ」
 「悪いのは向う。これは、正当防衛よ。私に手を出す奴は、叩きのめしてやる」

 柳原がオーハローンにウイルスを仕込んでいる間、エミちゃんは、柳原が持参したフロッピーディスクのコピーを作り、柳原がダウンロードしたオーハローンの全てのメイルをプリントアウトする。
 近藤は、ゆっくりとメイルを読むため、エミちゃんにコーヒーを頼むと、応接室に移動する。

 外回りをしていた佐藤は、夕方、再び事務所に顔を出す。佐藤は、近藤に報告しようと、応接に入るが、テーブルの上に散乱したアウトプットを見て驚く。
 「これ、何が始まったんですか?」
 「例の、高梨の件、警察に匿名の垂れ込みがあった、っていったろう。さっきのストーカー被害者、その垂れ込んだ奴だったんだ」近藤は、今日の午後の顛末を、かいつまんで話す。「エミちゃんが記録を取っているから、まとまったら、読ませてもらったら良い」
 「オーハローン幹部のメイルってのがこれですか。また凄い量ですねえ」
 「垂れ込んだのはこの一部、だそうだ。全部を読めば、警察の知らない情報が得られるかも知れない」
 佐藤は、近藤が読み終わったメイルの束を受け取り、流し読みをする。
 「ははあ、この調査依頼と回答ってのが、例の、警察情報の漏洩ですね」佐藤は言う。「これ、本物だったんですか?」
 「警察情報は、本物、だそうだ」
 「誰が情報を洩らしているか、わかるんですか?」
 「警察のデータベースには、オーハローンから直接にアクセスしているようだ。誰かがアクセスの方法を連中に教えたんだな」
 「それが高梨さん、ってのは、どうしてわかったんですか?」
 「その、オレンジのポストイットの貼ってあるメイルがそれだ」
 佐藤は、近藤が指し示したメイルを手にとって眺める。
 そのメイルは、いくつものメイルを添付した長いメイルだ。
 いちばん最後に添付されているメイルが、このメイルを送り合うきっかけとなった、最初のメイルだ。
 その要点は、こうだ。
 『高梨さんより軍資金の要請有り。大阪に出張とのこと』
 これに続いて、いくつかのメイルが交わされる。
 『ちびちびと無心されるのはかなわん。データベースの礼も兼ね、保冷車で一箱送るべし』
 『なに馬鹿なことを。その一%、一束で充分。冷やす必要もあるまい』
 『一束では不足。今は勝負の時なれば、どんと行くべし』
 『一箱は多すぎる。逃げられる恐れあり。ちびちび送るのも、犬の鎖と思われたし。今回は三束で如何?』
『貴殿の言い分、一理有り。三束で了解』

 「つまり、高梨より、賄賂の要求があり、その額を相談したってわけですね」佐藤は言う。「一箱とか、一束って、なんでしょうか?」
 「一束は、たぶん、百万だろう。そうだとすると、一箱は一億。ま、断言はできんが、柳原さんの話とも合致する」
 「このメイルがあって、高梨をしょっ引けないんですか? 警察情報は、本物だったんでしょう?」
 「警察情報が本物でも、このメイルが本物である証拠はない」
 「それじゃあ、オーハローンのシステムを押さえたらどうでしょう。メイルも押収できるでしょうし、プリントアウトした奴が、そこらにあるかも知れないし」
 「それ、今朝やったそうだよ。警察も、不意を突こうと、早朝に家宅捜索に入ったんだが、空振りだったそうだ。それで、鈴木刑事は、俺たちが捜査情報をオーハローンに流したんじゃないかと疑っている」
 「何言ってるんでしょう。高梨が洩らしたに、決まっているじゃないですか」
 「普通、そう思うだろ。俺もそれを言ってやったら、連中、考え込んでたよ」
 「こっちの、K代議士に百箱って、これ、久我山に百億の賄賂を贈るって相談ですか? オーハローンは、再開発に絡んで甘い汁を吸おうとしているみたいですけど、百億も賄賂を贈って引き合うんでしょうかね」
 「オーハローンでは、巨額詐欺事件が進行中だとさ。被害総額は一千億以上だと。今、エミちゃんが詳細レポートを作成中だ。なんでも、アパートに投資するという証券を売り出しているんだが、アパートを建てるというのは真っ赤な嘘で、キャッシュは全額、地下組織に流れているようだ」
 「一千億! そりゃまたべらぼうな話ですねえ。しかし、そんな詐欺、ばれるのは時間の問題じゃないですか。たいていは、あとの客から騙し取った金を前の客に返すんだけど、そのうちに金が回らなくなって、警察に駆け込まれるってパターンですよね。そんなことやってたら、オーハローンは潰れてしまいます」
 「連中の巧妙なところは、オーハローンは、詐欺師に客を斡旋しているだけなんだ。客には、オーハローンの名は一切出していない。オーハローンは、『且都圏不動産共同投資』なる会社から、『不動産共同投資証券』の市場開発を依頼された販売を受託したという形をとっているんだね。騙された連中から金を巻き上げるのも、首都圏不動産共同投資の仕事だ。だから、たとえばれたところで、オーハローンは、私達も騙されました、と言えるわけだ」
 「そりゃあ無茶苦茶ですね」
 「おまけに、連中、銀行を買うつもりらしい。これは、確たる証拠はないんだが、あちこちの銀行の品定めが、このメイルにも、ちらほらと現れている。久我山は総理の座を狙っているし、金融畑が専門だ。オーハローンは久我山の後ろ盾を得て、左前になった銀行を政府の援助付きで買おうって作戦だと、俺は睨むね。オーハローンは金融業としての認可も得てるし、老舗の銀行を手に入れれば、完全な合法団体の形ができる。大きな銀行は企業への影響力もあるから、それが暴力団の支配下に入ったら、大変なことになる」

 夕刻、鈴木、高橋の両刑事が近藤調査事務所を訪問する。近藤はエミちゃんに、報告書のコピーとコーヒーを頼むと、ふたりを応接室に案内する。
 「近藤さん、助けてくださいよ」鈴木は開口一番に泣き言を並べる。「ガサ入れ、空振りでした。オーハローンから、上のほうに厳重抗議がありましたよ。普通なら、こういうのは無視するんですが、高梨が調子付いていましてね」
 「あれから、私どもでも、調べてみました」近藤はおもむろに言う。「これは、調査結果ですが、お渡しすることはできません。ここで読むだけにして下さい。また、内容につきましても、警察内部では、一切、お話にならないようにお願いします」
 近藤が二人の前に差し出しのは、『オーハローンに関する調査報告書』と題された分厚いレポートで、柳原と田中から聞き出したことと、柳原のもたらしたメイルの内容を分析した結果がしたためられている。
 ふたりの刑事は、一言も発せず、近藤の報告書に集中する。

 やがて、鈴木が口を開く。
 「これ、本当ですか? 添付のメイルは、匿名告発機構に送られたのと同じメイルも入っていますが、それ以外のメイルもあるようですね」
 「信頼すべき筋からの情報とでも申し上げておきましょうか」近藤は、言葉を選びながら話す。「相手が大葉組ですから、情報提供者の身に危険が及ぶことも考えられます。警視庁内部の情報も、連中に漏れているようですし、ここは、慎重に行動しなくてはなりません」
 「そうですねえ」鈴木も考えながら言う。「そういえば、今朝は失礼しました。どう考えても、ガサ入れの話は高梨から洩れたものに違いありません。不用意にも、手入れの計画を高梨に伝えた者がおりまして」
 「いやあ、気にせんで下さい」近藤は、心にもないことを言う。「それにしても、匿名告発機構から警視庁に送られたメイルが、そっくり大葉組に流れていたというのは、大問題じゃないですか?」
 「全く、困ったもんです。それでですね、この件、本体とは、完全に独立した特別チームを結成して、捜査にあたることになりました。警視庁だって、馬鹿じゃありませんからね、高梨とは、完全に切り離したチームで捜査しようということです。いま、確かなメンバーの人選に入っているところです。高梨に繋がっている者も、庁内には何名かおるようですんで」
 「それで、どういう所から切り込むおつもりですか?」近藤は尋ねる。
 「そうですね、近藤さんには全てお話しましょう。高橋君、君から説明してくれないかね」
 「それじゃあ、整理して、ご説明致しましょう」そう前置きすると、高橋は、手帳を開き、説明を始める。

 「この件、いくつかの事件に分けて考えないといけません」高橋が言う。「まず、高梨が関係していると思われる、警視庁内部情報の漏洩、特に、データベースへの不正アクセスです。これは、内部情報がこんなところにも書かれていることから、不正行為が行われたことに、間違いはありません。これに高梨が関与している可能性は、高いと思われますが、いかんせん、証拠がありません。このメイルぐらい、偽造できますからね」
 「連中のメイルによれば、高梨には三百万の現金が渡っているようですが、この線から、調べることはできませんかね」近藤がきく。
 「貯金でもしてくれれば、わかるんでしょうけど、現金で持たれてしまってはね」鈴木は言う。「家宅捜査をすれば見付かるかもしれませんが、今の段階で、そこまではちょっと。それに、三百万、大阪で使っちまったんじゃないですか? 怪しげな店で使われたら、裏を取ることは難しいでしょう」
 「三百万も、そう簡単に使えるとも、思えませんけどなあ」
 「女、博打……、三百万くらい使うのは、あっという間ですよ」高橋は言う。「そういう連中とは、近藤さんだって、さんざん、お付合いしてきたじゃないですか」
 「いずれ、チームができれば、高梨の身辺を洗います」鈴木は言う。「それまでは、この件は、お預けということに」

 「第二の事件が、巨額詐欺事件ですね」高橋は言う。「これ、被害者が届け出てくれれば良いんですが、被害が発生していない段階では、手を付けること、なかなか難しいんじゃないでしょうか」
 「この『且都圏不動産共同投資』って、実在するんですか?」
 「データベースでみた限りでは存在しない。だから、株式会社というのは、たぶん、嘘だ」
 「誰か、証券を買った人間にコンタクトが取れれば良いんですが」鈴木は言う。「その会社の所在がわかれば、何をやっているか、調べようもありますからね」
 「それ、たぶん、ウチで買いました」突然、エミちゃんが口を挟む。エミちゃんの声は、ちょっと震えている。「三千万。毎月二十五万ずつ、私にお小遣いをくれるって。でも、これって、詐欺なんですか?」
 「いやはや、灯台下暗しだね」近藤が言う。「これ、詐欺の疑いが濃厚だが、まだ、被害者が出ていない。ってことは、連中、払い戻しの要求があれば、ちゃんと応じているんだろう」
 「ウチも、解約したほうが良いですか?」
 「そのほうが良いだろうね」
 「それは、どこかに出向いて購入されたんですか? それとも、ご自宅に来たセールスマンから購入されたんでしょうか?」鈴木がきく。
 エミちゃんは自宅に電話を掛け、この証券が怪しい旨を伝えると共に、詳細を確かめる。
 「電話での売り込みに、購入したいと応えたら、投資会社の担当者が家に来たそうです。母は、こんな危ない証券は、すぐに処分したいと言っています。これから、投資会社に電話するって」
 「尾行しましょう」鈴木は言う。「いつ、そのセールスマンが来るかわかりましたら、教えていただけませんでしょうか」
 電話が鳴り、エミちゃんが出る。
 「投資会社、ちゃんと電話に出たそうですよ。明日の朝、現金を持って来てくれるそうです。本当にこれ、危ないんですか?」
 「これまでの情報をみる限り、詐欺の疑いが濃厚だね」近藤は言う。「これまでの詐欺事件でも、最初のうちは、金を返しているんだ。だから、金が回っている間は、被害者も詐欺だとは気が付かない例が多い」
 「早いうちに金を取り戻せば、被害は防げるんですけどね」鈴木は言う。「でも、たいていの詐欺師は、なんだかんだ言って、なかなか、解約に応じちゃくれんのですよ。お母さんには、意志を強く持って、セールスマンとの応対にあたるよう、良く言い聞かせておいてください」
 「朝の九時に、セールスマンが来るみたいですけど、私、どうしましょう。一緒に応対したほうが良いですか?」
 「君はいつも通り行動したら良い。怪しまれないようにね」
 「尾行は、我々が致します」鈴木は言うと、エミちゃんに尋ねる。「ご自宅の所在をお教え願えませんか?」
 エミちゃんが教える自宅の住所を、ふたりの刑事が手帳に書き込む。
 「鈴木さん、今日、エミを自宅まで送ってやったらどうですか?」近藤がポツリと言う。
 「あ、そりゃ良い考えですね」高橋は言う。「私、少し早目に出て、車を持って来ますよ」
 「良いんですか?」エミちゃんは嬉しそうだ。
 「ついでに、契約された時の状況をお聞かせ頂こう」鈴木は言う。

 「さて、三つ目の事件は、久我山とみられるK代議士への贈賄事件ですが、これは、漠としてますね」高橋は、話を元に戻して言う。「メイルには、久我山の文字は出ておらず、K代議士で通しています。だけど、K代議士の名は再開発の話に絡んで出ておりまして、この再開発に関与している代議士は久我山氏ですから、久我山代議士に百億の裏金が渡った疑いが濃厚です」
 「この再開発って、どんな話なんだね?」近藤は、佐藤に尋ねる。
 「桜が原駅の北口から国道を渡ったところ、古いビルがいくつか建ってまして、その裏側には昔からの工場と畑が広がっているんですけど、その一帯を再開発して、ショッピングセンターと高層住宅にするって話が進んでいるんです。高級ホテルと百貨店も来るという話ですよ」佐藤が話し始める。「その古いビルの一つが大葉ビルでして、オーハローンがその中に入っています。オーハローンは、近隣の不動産を買いあさってまして、ウチの向かいにある給食センターを傘下に収めた他、倒産した鉄工所を借金のかたに取り上げたそうです。国の地域活性化資金が引き出せたのも、オーハローンが久我山代議士を動かしたからだと噂されています。これ、関係者全員の利益になるんですけど、オーハローンが最大の受益者ですね。それから、連中は、再開発の工事を仕切ってまして、裏で手を回して、大葉組の息の掛った建設業者に落札させるような工作が進んでいるようです。業者から裏金を取っているんじゃないかとの、もっぱらの噂ですよ」
 「どうもしかし、確たる証拠が欲しいですねえ」鈴木は言う。「そういうお話だけでは、噂話の域を出ませんから。近藤さんが前に調査されたとき、久我山と大葉組の関係を裏付ける証拠が何かあったんじゃありませんでしたっけ?」
 「あれだけじゃだめだ、という話でしたがね」近藤は面白くなさそうにいう。「いずれにしても、処分することになっちまいましたから、いまさら何を言っても始まりませんや」

 「報告書は、えらく遠大な話にも言及してますけど、これも、雲を掴むような話ですねえ」高橋は言う。「久我山を総理にして、大葉組は日本の金融界を牛耳ると。投資話の詐欺で得た金は、そのための資金になるんじゃなかろうかと。これがもし事実なら、大変な話なんですけど」
 「このメイルが本物であるなら、少なくとも、大葉組は、そのように考えて行動していると考えられます」近藤は指摘する。「そんなことが実現するとは、俄かには信じられませんけどね」
 「このメイルの証拠価値を固めるのが、一つのポイントですね」鈴木刑事は言う。
 「大葉組が、本気で事を起こそうとしているなら、そのための軍資金を、どこかに隠しているはずですな」
 「軍資金……」鈴木が言う。「徳川の埋蔵金みたいな話ですねえ」
 「詐欺行為が継続している限り、連中は、騙し取った金をどこかに運んでいるはずです」近藤は指摘する。「それを押さえることができれば、このとてつもない計画も頓挫するし、詐欺の被害者への補償も可能です。連中が金を使い出す前に検挙して金を押さえる、ってのが、この事件を捜査する上での、一つの重要なポイントでしょうな」
 「金というものは、いきなり出すこともできません」鈴木は言う。「もし、一千億円の金を、銀行買収のために使う考えであれば、その金は、一旦、海外にでも出して、綺麗な金に形を整える必要があるでしょう。いわゆる、マネーロンダリングです」
 「『第二南進丸のBOX1.2K、無事到着。経理担当者の派遣を願う』ってメイルが匿名アカウントから出ていますね」近藤は、黄色いポストイットを貼ったメイルを取り出して言う。「これ、海外のどこかに金を送って、無事に着いたという連絡じゃないでしょうかね。1.2Kは千二百の略だと思いますけど、我々の予想があっていれば、連中一箱一億円を単位に金を数えていますから、千二百億円が、既に、海外に送られたということになるんですが」
 「被害総額一千億って言うのは、低めの見積もりですか?」
 「一日数十億の売上があるようで、いくらなんでも十日以上やっているだろうという、ラフな計算です」近藤はそう言いながら、ふと思いついて、エミちゃんに尋ねる。「君のところで証券を購入したの、いつ頃のことかね」
 「七月の中ごろでしたから、もう、二ヶ月は前です」
 「てーことは、七十日ほど前には、既に、証券販売を開始してたってことだな。するってーと、一日五十億としても、三千五百億って計算だね。もちろん、最近売上が増えているのかも知れないし、もっと以前からやっていたかも知れないから、この見積もりも、それほど正確ではないがね」
 「下手をすると、一兆の大台に達するかもしれませんね」鈴木は言う。「たしかにそのくらいの額になると、連中の荒唐無稽な話も、現実味を帯びてきますねえ」
 「まあ、左前になった銀行は、二足三文で売られていますから、買収資金は問題ないでしょうね。問題は、その先の運転資金と、政治力ってわけだ。経営に関しちゃ、既に金融会社を運営しているから、自信を持っておるんでしょうなあ」
 「普通の銀行を買収して高利貸を始めたら、ものすごく儲かるんじゃないかしら」エミちゃんは、遠くを見つめながら、ぽつりと言う。

 車を取りに行った高橋を待つ間、エミちゃんの淹れたコーヒーを飲みながらしばし雑談に花が咲く。鈴木は、佐藤の父の死を知り、お悔やみを言う。
 「お父さんは、以前は、巡査をされていたんですよね」鈴木が言う。「たしか、奥さんが鉄工所を継ぐことになって、佐藤さんのお父さんも警察を辞めたんだ。機械が得意な人だったから、鉄工所の仕事も性にあっていたでしょう」
 「あの奥さん、バラをやってまして、私の女房とも付き合いがあるんですよ。美人ですから、話の種に、一度お会いになったら良い」
 「お袋を見世物にしないで下さい。しかし、今度は僕が鉄工所を継ぐ羽目になりそうで……」
 「再開発になったら、鉄工所はどうするんだ?」
 「そこが問題なんですよねえ。どこかに土地を探して移転するか、職人さんたちに渡すもの渡して、鉄工所を止めにするか。設備と職人をまとめて引き取ろうか、なんて言ってくれるお客さんもいるんですけど、どうなるんでしょうかねえ。私には、鉄工所のこと、ほとんどわからないし、お袋は、ショッピングセンターの権利を使って、フラワーショップをやりたいなんて言っているんですけど、近藤さんの奥さんと違って、商売には素人ですからねえ」
 「おいおい、他人事みたいな話をしないでくれよ。お前がしっかりしなくちゃ、しょうがないだろう」
 「鉄工所は、ずっと親父一人で切り盛りしてきましたからねえ」佐藤はしんみりと言う。「今にして思えば、あんな年になるまで働かせないで、もっと早く、楽隠居させてやれば良かった」
 「男なんてもんは、いくつになっても、第一線でやりたがるもんだよ」近藤は佐藤を慰めるように言う。「楽をさせてやりたいと思うのは人情だろうが、それで、本人が喜ぶかどうか、怪しいもんだと思うがね。親父さん、仕事をしていて、結構、幸せだったんじゃないかね」
 「そうですねえ。遊ぶということを知らない人間だったから……」
 ビルの外でフォーンが聞こえ、高橋刑事の車が到着する。鈴木刑事とエミちゃんは、事務所を辞して、車に乗り込み、エミちゃんの実家へと向かう。

 「さてと」事務所に戻った近藤は、佐藤と、事務所でパソコンを操作している柳原に言う。「佐藤君は色々忙しいだろうから、帰って良いよ。俺は、柳原さんのガードをしよう」
 「ガードって? あの人、大丈夫だったんじゃないですか?」柳原は不審そうに問い返す。
 「田中氏は問題ない。問題は大葉組」
 「それ、危ないですか? 狙われている感じ、全然しませんけど」
 「ま、大丈夫かも知れない。しかし、危ないかも知れない。何かあったら取り返しが付かないから、安全サイドで作戦を考えよう」
 「安全サイドって?」
 「ま、さしあたり、このビルの三階、一部屋余っているから、当分、そこに泊まらないかね。家賃は要らない。飯もつけるよ」
 「良いんですか?」柳原は嬉しそうだ。「でも、なにも持ってきていないから。寝巻きとか……」
 「これから、君のアパートまで車を出そう。当座の入用なものを持ってきて」
 「どうも済みませんねえ。何から何まで」柳原は頭を下げて言う。「これ、メイルです。夜逃げした人の。下宿代代わり、ってわけでもないけど」
 近藤は柳原の差し出したプリントアウトを読む。そこに書かれた内容は、夜逃げの相談であり、ちょっと見ただけでもいくつかの住所が読み取れる。これがあれば、夜逃げした店子から家賃を回収できそうだ。回収金額の半分は、成功報酬として、近藤調査事務所が取る約束になっている。今の近藤、のどから手が出るほど、キャッシュが欲しい。
 「このメイル、どうしたの? どこからこんなものが出てきたの?」近藤は柳原に尋ねる。
 「これ、消されていたんですけどね、復活したんですよ。ディスクのファイル消すのって、全部消しているんじゃなくて、管理情報のところだけ消してますから、ちょっとしたテクニックで消されたファイルも読めるんです」柳原はこともなげに言う。
 近藤は、柳原から渡された紙を手に、しばし考え込む。近藤調査事務所の経営者の立場に立てば、一銭にもならない大葉組の詐欺事件調査などより、夜逃げ男を捕まえる方がよほど重要な業務であることは間違いがない。
 


第四章   詐欺師のアジト?

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 エミちゃんの家は、近藤調査事務所から車で五分ほど走ったところにある。ここから事務所まで、歩いて通えない距離ではないが、エミちゃんはいつもバスで通勤している。

 九月二十五日朝八時四十分、立派な門構えの脇の通用口が開き、出勤の身支度を固めたエミちゃんが出て来る。それを、離れたところに停めた車から、鈴木、高橋の両刑事が見ている。エミちゃんはそのままバス停に向かい、姿を消す。
 九時少し前、門の前に、白い一台の車が停車する。
 運転席と助手席から、スーツ姿の男が降り立つ。助手席から降りた男は、ジュラルミンのトランクを下げている。
 「あれだね」鈴木が言う。
 高橋は望遠レンズを装着したカメラで数枚、男と車の写真を撮る。
 男たちが門に消えたところで、鈴木は電話を二つ掛ける。
 一つ目は、特別捜査チームへのもので、詐欺師とみられる男が現れたこと、車のナンバーを伝え、所有者の割り出しを依頼する。特別捜査チームは、まだ、人員が揃っておらず、本庁から独立して確保した事務所には、鈴木、高橋の両刑事のほかに、資料調査役の新米女性刑事が一人いるだけだ。
 二つ目の電話の相手は、近藤調査事務所だ。鈴木は、近藤に、途中経過を連絡する約束なのだ。
 車には、盗聴機の電波を受信、録音する装置も置かれている。盗聴機のマイクは、エミちゃんの実家の応接間に置かれ、詐欺師との交渉の様子を記録することになっている。
 「どうも、申し訳ありませんねえ」
 受信機のスピーカーから女性の声が流れる。エミちゃんの母親だ。
 「いえいえ、私ども、お客様のご要望には百パーセントお応えすることに致しておりまして、払い戻しも業務の内でございます」
 「それでですねえ、急に現金が入用になりまして、この証券を換金して頂きたいんです」
 「はい、伺っております。三口ですね。準備致しております。ただ、約款にも記載してございますが、この証券、長期保有を前提に、大変有利な設定になっておりまして、短期でご解約されますと、手数料など、お客様にはかなりの御損になるんでございますが、それでも宜しゅうございましょうか?」
 「三千万が、どのくらいになってしまうものでしょうか?」
 「こちらに計算書をお持ち致しました」
 がさがさという音が聞こえるのは、男が計算書を取り出しているのだろう。
 「二千七百五十……」女性の、溜息混じりの声が聞こえる。「二百五十万のロス、ですか」
 「はい、お客様には大変申し訳ありませんが、契約書にも記載がございますように、不動産投資には各種の初期費用が掛りますので、短期で換金されますと、この部分がお客様のロスになってしまいます。元々この証券は、長期保有で大変御有利な設定となっておりますので、一時的に必要な資金は、ローンを組まれるのがよろしいかと存じます。えー、私ども、お客様のご要望を金融会社にお繋ぎしてキャッシュをご用立てすることも致しております。こちらの証券を担保に入れていただきますと、ローンの年利は十六パーセントになるんですが、証券の利回りが十パーセントありますから、差し引きのご負担は六パーセント、三千万のご融資ですと、年間百八十万円の金利ご負担ということになります。一年程度で返済が可能でしたら、ローンを組まれるのが断然お得です。本日は、いずれのご要望にも対応できるよう、双方の書類を準備させて頂きました。ローンを組まれるのでしたら、こちらの借用書に御署名御捺印下さい。即刻、三千万のキャッシュをお渡し致します。証券を換金されるのでしたら、こちらの払い戻し請求書と受領書に御署名御捺印下さい。額は少なくなりますが、直ちにお支払いを致します」
 「そうですねえ、私、借金というのは好きではございませんのよ。いろいろとして頂いて申し訳ありませんが、解約ということでお願いします」
 「承知いたしました」男は、あっさりと解約の申し出でを受け入れる。
 これが全くの架空投資話であったとしても、詐欺師たちにしてみれば、二百五十万円ほどを騙し取ったことになるわけで、さほど悪い話ではない。
 高橋刑事がVサインを鈴木刑事に見せる。
 その後、現金を数えたり書類を動かしているのだろう、ノイズのような音がスピーカーから流れるが、やがて静かになる。
 門が開いて、ふたりの男が現れる。男たちは白い車に乗り込み、走り出す。その跡を、ふたりの刑事が尾行する。
 白い車は、国道に出て少し走ると、ファミリーレストランの駐車場に入る。鈴木たちも、少し距離をおいて、ファミリーレストランの駐車場に車を停める。
 男たちは店内に入り、席に案内されている。
 高橋は店の外で立ち止まり、近藤に途中経過を報告する。近藤の反応は高橋の予想外のものだ。
 「高橋さん、鈴木さんもおられるんですな。車は一台で尾行されているんですか?」
 「もちろんそうですけど?」
 「私もこれからそちらに参ります。なんか、いやーな予感がするんですよ」
 「いやーな予感、といいますと?」
 「その男たち、なんのために、ファミレスなんかに寄ったんでしょう。まだ、十時前ですよ。コーヒーを飲むためだとは、とても思えないんですよ。誰かに会うか、もう一台の車が用意してあるか……。とにかく、すぐに伺いますから、なんかありましたら、私の携帯に連絡を入れて下さい」
 高橋が電話を終って店内に入ると、鈴木は既に席に案内されている。高橋は、鈴木の向かい側に座ると、顔を鈴木に近づけて、近藤の話を伝える。
 「ま、あの白い車はナンバーを控えてあるからね」鈴木は小声で高橋に言う。「別の車が出てきたら、そっちを追えば良い。もちろん、近藤さんのご協力は歓迎致しますがね」
 「本部の話じゃあ、このナンバー、正規のナンバーだそうですよ」高橋は鈴木に耳打ちする。「盗難届けも出ていません。詐欺師の正体、簡単に割れそうですねえ」
 「いずれにせよ、こいつらの巣がわかれば、一件落着だ」鈴木は言う。「えらく簡単な事件かも知れないな。しかし、まだ、被害届が出ていないから、逮捕はできない」
 「困ったもんですね」
 「いやいや、こんな幼稚な詐欺、遅かれ早かれ、事件になるだろう。今は素直に金を返しているから、誰も詐欺だとは気づかないだけで、いずれ破綻することは間違いない。破綻すりゃあ、続々と被害届けが出るだろうが、そのときには、即刻、検挙だ。待ってましたとばかりにね。俺たちにしてみりゃ、美味しい事件だね。それに、こいつらをたたけば、高梨との関係が出てくるかも知れない。近藤さんの情報は、貴重なものだったね」

 鈴木たちは、コーヒーを飲みながら、それとなく男たちを監視する。男たちは、何かを小声で話しながら、窓の外を見ている。
 やがて、男たちの顔に変化が現れる。鈴木が外を見るが、目立った変化は、駐車場に一台の保冷車が入って来たことぐらいだ。
 男たちはレシートを掴んで席を立ち、支払いをする。
 鈴木たちは、男たちの清算が終るのをじっと待ち、席を立つ。
 鈴木の支払いが済むまで、高橋は入口のガラスを通して男たちの行動を監視する。
 男たちは、まず、白い車に向かい、トランクを開ける。
 保冷車は、その隣にバックで入り、運転手が下りて、後ろの扉を開けている。
 保冷車の扉の陰でよく見えないが、白い車のトランクから、何かを保冷車に積み替えたようだ。
 積み替えは短時間で終り、男たちが車に乗り込む。それぞれの車のエンジンが始動する。
 「保冷車を追う」
 そう言うと、鈴木は、大股で自分たちの車に向かう。
 高橋は携帯電話で近藤を呼び出す。
 近藤はすぐに電話に出る。
 「駐車場の入口のところにいます。メンバーチェンジをしませんか?」
 「メンバーチェンジ?」高橋は大声で言う。
 「そりゃ良い考えだ。君、近藤さんの車に乗って」鈴木は、近藤の考えを瞬時に悟り、高橋に言う。
 高橋は、了解した旨を近藤に伝えると、歩く方向を変え、駐車場の入口に向かう。駐車場の入口のすぐ外の所で国道の路肩に停車した一台の車から、佐藤が降りて、こちらに来るのが見える。
 保冷車と白い車は、駐車場の出口で、国道の車の流れが途切れる瞬間を待っている。
 近藤は、助手席に乗った高橋に言う。
 「こっちは、白い車を追えば良いんですな」
 「はい、鈴木さんは保冷車を追うとのことです」
 白い車と保冷車は、急発進して国道に出る。
 鈴木も、この機を逃さず、国道に車を入れる。
 少し置いて、近藤が車を発進させる。

 近藤の尾行は短時間で終る。三十分も走らないうちに、新宿にほど近いマンションの地下駐車場に白い車は入っていく。近藤がマンションの外に駐車している間に、高橋は車を降りて、自動車用のスロープを歩いて駐車場に入る。
 白い車が駐車した場所はすぐに見付かる。高橋は、白い車のナンバープレートの封印が正規のものでないことに気付く。
 高橋は車の陰に身を隠し、男たちがエレベータに乗るのをじっと待つ。
 男たちの乗ったエレベータは十二階で止まる。
 高橋は、エレベータのボタンを押し、近藤に一報を入れる。
 「駐車場所がわかれば、部屋はわかるはずだ」近藤は言う。「危ないことはしないで、引き上げたほうが、良くはありませんか?」
 「表札だけでもみておきましょう」高橋は気合が入っている。
 しかし、エレベータに乗った高橋は、カードキーを挿さないと階数ボタンが機能しないことに気付き、むなしくエレベータを降りる。
 「ま、そんなもんだよ」近藤は、助手席でがっくりと肩を落とす高橋を慰める。「駐車場所はわかったんだ。管理人に、住人の名前を聞いたら良いし、必要なら令状をとって、踏み込めば良いじゃないか」
 「踏み込む……。そうですね、すぐに踏み込みましょう。この車、ナンバーを付け替えた形跡がありますから」高橋は、急に元気を取り戻すと、本庁に電話を掛け、応援を呼ぶ。
 近藤は、しばらく駐車した車の中で、マンションの駐車場出口を見張る。
 三十分もしないうちに、高橋の呼んだ応援が到着する。
 「あとは我々がやります。結果はすぐにご連絡しますから」
 高橋の言葉に、近藤は短い別れの挨拶をすると、車を出し、事務所に帰還する。

 一方、保冷車を尾行する鈴木の車は、首都高で渋滞に巻き込まれている。
 「どこへ行くんでしょうねえ」佐藤は呟く。
 「この保冷車、金を管理しているんじゃないかな」鈴木は言う。「『保冷車で一箱送るべし』とか、連中のメイルにあっただろう」
 「人の管理と、金の管理が別々に行なわれているんですね」
 「それと、勧誘係だな。勧誘は、オーハローンが直でやっている。オーハローンは、客を斡旋するだけだから、非常に安全だ。しかし、カモを捕まえるのが詐欺の鍵だから、オーハローンが最も重要な役回りを果しているとも言える。ほかのチームは、大葉組のコントロール下で、言われた通り動いているだけだろう。セールスパートがビジネスをコントロールしているってわけだ」
 「一番危険な役回りが、あの白い車の連中ですね。実際に、被害者に会って、金を巻き上げているんですから」
 「で、金の流れて行く先は、この保冷車の向かう先ってわけだ」
 「しかしこれ、摘発は至難の業ですね。被害届が出てこないと、動けないでしょう」
 「被害届は、当分、出ないだろうな。あの女の子、エミちゃんっていったっけ、その子のお袋さんに、連中、素直に金を返していたよ。返金は渋らない、だけど、入金と返金のバランスをみて、ある日突然、白い車の連中が姿を隠すってのが、ありそうな筋書きだな」
 合流地点を通過した時、保冷車の近くでクラクションが鳴らされる。
 佐藤は突然、保冷車のしていることに気付く。
 「あの保冷車、尾行に気付いているんじゃあ?」
 佐藤の見たところ、保冷車は、合流地点の手前で、車間距離を開け気味にする。そして、合流地点に差し掛かると、急に、前の車の後部にピッタリと付ける。少々危険な運転だが、こうすることで、合流する車は、必然的に、保冷車のすぐ後ろに入ることになる。これを繰り返し行なえば、保冷車と鈴木の車の間が徐々に開いてしまう。
 鈴木には、これを防ぐ手立てが思い浮かばない。
 ついに、鈴木は保冷車を見失う。
 「ナンバーがわかっているでしょう。無線でパトカーに流して、探してもらったらどうですか?」佐藤は提案する。
 「だめだ。この捜査、まだ正式にはスタートしていない。この車も、俺の私用車なんだ。無線も付いていない。携帯で連絡できないことはないが、ま、ナンバーから保冷車の持ち主が割れることを期待しようや」

 夕刻、近藤調査事務所に、鈴木、高橋の両刑事が訪れる。
 「いやあ、全然駄目ですね」鈴木は開口一番に言う。「まず、ナンバーですが、白い車のナンバーも、保冷車のナンバーも、どちらも偽造でした」
 「偽造?」近藤は眉をしかめて言う。「それなら、逮捕してしまえば良かったんじゃないですか?」
 「ナンバーがわかった時点で、本庁に問い合わせました」鈴木は言う。「そのナンバーの車は、実在したんですね。しかし、我々が追っていた車とは、全然、別の車です。最初から偽造とわかっていれば、その時点で、現行犯逮捕できるんですがね」
 「しかし、白い車のほうは、逃げたりはできないでしょう。おまけに、マンションの部屋までわかっていますから、まだ、遅くはないと思いますが」
 「いや、あのあと、管理人さんにご同行願って部屋に踏み込んだんですが、もぬけの殻でした。駐車場に白い車はありましたが、盗難車に、偽造のナンバープレートを付けたものでした」
 「令状も準備していたんですか。手回しが良いですな」
 「いや、任意で調べました。マンションの賃貸契約に、防犯上の必要があるときは、管理人の立入を認める旨の条項がありましたんで」
 「そりゃちょっと問題じゃないですか?」
 「ナンバープレートの封印に細工があったんです。偽造プレートを付けた車から、男が二人降りて、部屋に入ったのが目撃されていますから、何らかの犯罪が行なわれていると疑うには、充分な状況です。事実、車は盗難車ですから、結果的にも、立派な刑事事件です」
 「それで、マンションの所有者は誰だったんですか?」近藤はきく。「また、オーハローン、ってことは、なかったんでしょうね」
 「あのマンション、全室賃貸でして、不動産会社の所有です。件の部屋は貿易会社を自称する会社が事務所として借りていました。しかし、その会社、住所も、電話番号も、でたらめです」
 「これは迂闊でしたなあ」近藤は、残念そうに言う。「保冷車が尾行に感づいた以上、白い車の連中も危ないとわかるはずですから、逃げ出すのも当然でしたねえ。あのマンションは、直ちに押さえるべきでした」
 「ほぼ最短でしたよ、押さえたのは」高橋が言う。「あれ以上速く動くことは、難しいと思いますよ。今回は、連中の動きが、予想以上に素早かったために逃げられたというべきでしょう。明らかに、詐欺師たちは、常に逃げ出す準備をしていたんです」
 「エミちゃんのお母さんの話はきかれましたか?」
 「ええ、お話を聞かせて頂き、パンフレットと領収書の類をお預かりしています」鈴木は言う。「指紋も、相当数、採れましたが、あの詐欺師たちに、前科はありません。パンフレットの住所と電話番号は、あのマンションのものです。電話は携帯に転送する設定がしてありましたが、携帯はプリペイドで、持ち主は不明です」
 「これが詐欺事件であることは、もう明らかでしょう。この連中、取り締まれないもんなんでしょうかね」
 「被害届が出ておりませんからねえ」
 「特に、オーハローンは、まだ、証券の販売を続けていると思いますが、これ、止めさせないとまずいでしょう」
 「あ、オーハローン、証券の販売を中止したみたいです」柳原が突然口を挟む。
 「え? どうしてそんなことがわかるんですか?」鈴木は不思議そうな顔をしてきく。
 「オーハローンのシステム、また、裏口を作りましたから」柳原は平然という。「この人達、前に自分たちのシステムをクラッキングされたんで、メイルは、プロバイダのメイルに戻しているんですけど、何を考えているんだか、メイルホルダーをオーハローンのシステムの中に作っているんですね。馬鹿じゃないかしら。前のメイルは消されてしまったけど、最近のメイルは、ほとんど残っていますよ」
 「裏口ってあんた、ハッカー行為は犯罪ですよ」鈴木は驚いて言う。「違法行為によって得た情報は、証拠として使えません」
 「ハッカーは犯罪者じゃありません」柳原は言う。「ハッカーってのは、気の利いたプログラムを作る人。他人のコンピュータシステムに無断で侵入する『クラッキング』が犯罪だって言いたいんでしょ。だけど、この人達、私を襲う相談をしているのよ。このクラッキングは正当防衛で、完全に合法的です」
 「その議論は、あとでするとして、オーハローン、どうしたんだね」近藤は柳原に尋ねる。
 「わりと新しいメイル、プリントしますね」柳原がそう言ってキー操作をすると、プリンターが音を立てる。「例によって、過去のメイルをぞろぞろ添付してますから、だいたいの経緯は追えると思います」

 柳原のプリントしたメイルの添付メイルを時間を追って記せば次のようになる。
 『リスク増大により、証券の拡販は中止、営業チームも解散されたい』
 『指示により、営業部隊は解散のこと。販売員には、これまでの歩合を清算の上、一時金として定額分の三ヶ月分を支払い、営業機密厳守の念書に署名させること』
 『未入金成約客の扱いは如何』
 『販売成績に含め、歩合給を支払われたし』

 「最初のメイルは、匿名アカウントからのメイルですね」柳原は言う。「これを出した人が黒幕みたい。その他のメイルは、オーハローン幹部間のやり取りです。小野瀬さんが大川さんに指示しているのね」
 「これだけでは、普通のビジネスメイルですねえ。犯罪が行われていることを裏付けるものにはなりません」
 「いっぺん、やられているからでしょう、ヤバイ話は、メイルでは、しないみたい。でも、いずれにしても、オーハローン、証券の販売から撤退しちゃったみたいです」
 「これ、今日のメイルですか?」
 「ええ、ほんのさっきです。日付のところに時刻が入っているでしょ。JST(日本標準時)で入っています」
 「多分、営業部隊の解散は、明日ですね」鈴木は言う。「少し捜査員を動員して、営業の連中の身元を割り出しておこう」
 鈴木の指示を受け、高橋は、携帯を手に室外に出る。営業係の身元割り出しの手配をしようというのだろう。
 応接室の話は、一時途切れるが、鈴木がポツリと言う。
 「匿名の告発、柳原さんだったんですか」
 「これに関しちゃあお答えできません」近藤は難しい顔をして言う。「ただし、警察内部では、柳原の『や』の字も出さないようにお願いします」
 「わかっておりますとも」鈴木は応える。「さて、近藤さんはこれからどうされますか?」
 「この件、ウチの仕事でもありませんからなあ。ま、できる範囲で鈴木さんにご協力することは、やぶさかではございませんがね」
 「恐れ入ります」鈴木は恐縮して言う。「正式にチームが発足致しましたら、またご挨拶に参ります。その時、前回の久我山と大葉組の疑惑に付きましても、ご助言賜りたく……」
 「ありゃもう、俺には関係ない……」近藤は不機嫌そうに言う。
 「まあ、思い出したくもない、不愉快な話だ、ということは重々承知していますけど、悪い奴等をのさばらしておくのも愉快なことではない、とは思われませんか?」
 「街の探偵風情が、勝負できるような相手じゃありませんよ、この連中は」近藤は、あきれ返ったように言う。「暴力団と警視庁幹部と国会議員の連合チームですからねえ。俺にだって生活があるんだ。できりゃあ、こういう連中とは、距離を置きたい、ってのが本音なんですよ。こんな連中に関ると、何をされるか、わかったもんじゃない」
 「もう、とっくにばれていると思いますけど」横で二人のやり取りを聞いていた柳原は、そう言って、一枚の紙を差し出す。
 そこには、こうプリントされている。

 『近藤調査事務所の監視を強化のこと。但し、トラブルは厳に慎まれたし』
 『田中は、粗暴に付き、近藤及び柳原から隔離のこと』

 「何かあったんですか?」鈴木は驚いて尋ねる。「近藤さんは、どうして、大葉組に目を付けられることになったんですか?」
 「目は、昔から付けられてますよ」近藤は静かに応える。「目の敵、って奴ですな。最近、また、いろいろありまして、多少緊張が高まっているんですが、この事情は、お話できるようなことではございません」
 「この、『田中』って、一体何者なんですか? 大葉組も手を焼くような凶暴な奴が、近藤さんを狙っているってことでしょうか?」
 「あ、そいつは、大丈夫です」近藤は、鈴木を煙に巻くように言う。「そいつは、ただのストーカーですから。大葉組の関係者には、そんな奴もいるんです。でも、そいつからは、二度とストーカー行為をしないよう、きっちり、念書を取りました」
 「そうですか。近藤さんも、おやりになりますなあ。しかし、大葉組、相当に危険な連中ですから、くれぐれもご無理をなさらないようにお願いします」
 「だから、そうしたいと、さっきから言っているんですがねえ」近藤は言う。
 「あのー、このメイル、プロバイダが管理しているメイルだから、警察で押収することもできますよ」柳原が言う。
 「しかし、これだけでは、どうでしょうか」鈴木は言う。「警察だって、やりたい放題というわけではないんですよ」
 「でも、オーハローンの家宅捜査をしたんですよね」柳原が言う。「だったら、プロバイダの過去の記録を調べた方が、速かったんじゃないですか。運が良ければ、バックアップテープが、まだ残っていますよ。密告に添付されたメイルのね」
 柳原の言葉に、鈴木と高橋は、無言のまま、顔を合わせる。

 「さーて、どうしたもんかね」
 刑事たちの帰った近藤調査事務所で、近藤は、エミちゃんと佐藤、そして柳原の顔を見渡して、口を開く。
 「まず、問題点を整理したら良いと思います」エミちゃんは混乱した状況に光明を与えるように言う。「この事務所が抱えている問題は、佐藤さんの調査を、今後、どう取り進めるかってことと、柳原さんの安全をどう確保するかってこと、それから、詐欺事件や久我山代議士の汚職事件にどう取り組むかってことですよね」
 「僕の調査は、二つとも、すぐに片付くよ」佐藤は言う。「もう、報告書はほとんどできあがっているし、抜けのあったところも調査済み。エミちゃんに渡したのがそれです」
 「あ、それ、もう、報告書できてます。あとは、所長に見ていただければ終りです」エミちゃんが言う。「詐欺や汚職の件は、できる範囲、ってことにすれば、さしあたりの問題は、柳原さんをどうやって護るかってことだけですね」
 「ああ、なるほど、えらくややこしい状況かと思っていたが、簡単なことだったんだね。夜逃げした奴から、家賃を取り立てるって仕事もあるけど、何とかなりそうだね」
 「しかし、柳原さんをガードするのは、大変な仕事ですよ」佐藤は心配そうに言う。
 「大葉組は、さしあたり、柳原さんを襲う可能性は低い、と俺はみるね」近藤は言う。「ウチの名前が出てきたメイルにあったろう。『トラブルは厳禁』とか、『粗暴な田中を隔離しておけ』とかね。あれは、事件が起こるのを好ましくないと、大葉組が考えている証拠だ」
 「しかし、田中さんは、柳原さんの個人データに赤線が引いてあったりして、柳原さんが襲われるんじゃないか、って心配していましたよ」エミちゃんは異議を唱える。
 「大葉組の連中が、柳原さんを痛めつけたい、と思っていることは事実だろう」近藤は冷静に言う。「しかし、大葉組の立場に立てば、いま、問題を起こすことは致命的だ。何しろ、ありもしない投資話で何千億かの金を巻き上げてどこかに隠しているんだ。連中は、久我山を総理にして、自分たちはまともな銀行を支配下に収めたいと考えているわけだ。いま警察沙汰を起こすことは、連中としては、なんとしても避けたいところだろう」
 「それじゃ、普通にしていれば良いってこと?」柳原は嬉しそうに言う。
 「そうとも言えない」近藤は難しい顔をして言う。「犯罪を犯す心理の一つに、絶対ばれないという、確信があるんだ。ばれなけりゃ、何をやったって平気だろう。人を殺したって、ばれなきゃ無罪だ」
 「それじゃあ、どうすれば良いんですか?」エミちゃんがきく。
 「『柳原さんを襲ったら、必ず尻尾を押さえるぞ』というメッセージを連中に伝えることだな」
 「メールか何かで?」
 「いやあ、そんなんじゃ、連中は信用しない。俺たちが柳原さんを、きっちり、ガードすることだ。連中は、どうせ俺たちを見張っているんだから、俺たちのメッセージは、すぐに連中に伝わる」
 「そのガードが、それほど簡単じゃないと思うんですよね」佐藤は言う。「私も、実家の方、いろいろありまして、あまりこっちの仕事できないと思うし……」
 「ここの三階に柳原さんを泊めることにした。、ばあさん一人で、部屋が空いているからな。メシは俺たちと食うことにした。大学は送り迎えしてやる。授業中のガードまでは、ちょっとできないが、まさか、真昼間の大学で、連中に襲われるってことはないだろう」
 「何から何まですみません」
 「その代わりといっちゃなんだが、オーハローンの悪事を暴く、手伝いをしてもらいたい。夜逃げした奴の行方調査にも協力してもらったことだし、ストーカー調査の費用も無料サービスにするってことでどうだろう」
 「オーハローンの悪事を暴くのは、頼まれなくてもやります。だって、それ、私の問題でもあるんですよ。近藤さんにご協力頂ければ、私も嬉しいわ」
 交渉は成立だ。

 「三番目の問題は、オーハローンの詐欺事件と久我山代議士の汚職事件ですけど、これは、ウチで手を打てることって、ないんじゃないですか?」
 「そうだねえ」近藤は考え考え言う。「まあ、これは警察に任せた方が良いねえ。何か意見を聞かれたら応えるけど。あと、柳原さんのクラッキングで何か出て来るかも知れんけどな」
 「刑事さんたちが言っていた、前の事件って、どういうものだったんですか?」エミちゃんがきく。「何か、協力を依頼するようなお話でしたけど。もし、お話し頂ければ、それも、記録に含めておきますけど」
 「そうねえ、それじゃ、一通り話すから、佐藤君も、俺の話を補ってね」近藤は、そう前置きすると、近藤と佐藤が警視庁を辞職する原因となった、前の事件について話し始める。

 最初は、女性問題だったんだね、あの事件は。
 久我山代議士は、女癖が悪くて、普通の女じゃ物足りないと。それで、大葉組が女を斡旋したんだ。それだけなら、たいしたことではなかったんだが、覚醒剤を使ってね。
 結局は闇に葬られてしまったが、そういうことが行われたことは間違いがない。

 あの当時、覚醒剤が社会問題になっていて、警察の方でも、重点的に薬物乱用を取り締まろうとしていたんだ。
 そんな時に、行き倒れの女が病院に担ぎ込まれてね。最初、意識を失って道端に倒れていたため、病気と事件の両面を考えていたんだが、女の様子がおかしかったんで調べたら、尿から覚醒剤反応が出たんだね。
 この女、意識は取り戻したんだが、覚醒剤中毒で完全にイカレててな、尋問しても何もわからない。結局、彼女からは何も得られないまま、病院に収容したんだ。
 もちろん、我々も、気合を入れて調べたよ。なんせ、覚醒剤だからね。
 付近の聞き込みから、女が近くのマンションの一室に住んでいたことがわかり、その部屋を調べたところ、少量の覚醒剤が発見されたんだ。それで、本件、重要事件に格上げになってね、背後の組織まで挙げてやろうと、人数を増やして、精力的に捜査を行なったんだ。
 マンションの持ち主は、オーハローンで、なんでも、借金のカタに取り上げたものらしい。オーハローンは、合法的な金融業者なんだが、裏に大葉組があることは周知の事実だ。
 大葉組は、いろいろな事件で取り沙汰されていたんだが、なかなか尻尾を掴ませない。警察が攻めあぐねている間に、合法ビジネスでぐんぐん成長しているんだ。ここで、覚醒剤を扱っている証拠が得られれば、連中の化けの皮を剥ぐことができるってわけだ。
 オーハローンは、その部屋は空家になっていたはずだというが、現に、その部屋は誰かに使われた跡が歴然としているし、遺留品の分析から、行き倒れの女がその部屋を使っていたことは間違いがない。そこら中に指紋もあったしな。鍵をこじ開けられた形跡もないし、オーハローンが被害届を出す気配もない。これは、オーハローンに関係する者が使っていたのだろうと、普通、そう考えるよな。
 そのうちに、この部屋をしばしば訪れていたのが久我山代議士らしい、という目撃証言が得られてね。
 こりゃあ大変な話だろう。国会議員が暴力団から女を斡旋されていたというだけでも一大スキャンダルだが、それが覚醒剤を使ってたというのは大問題だ。何しろ国を挙げて覚醒剤を追放しようとしていたさなかだからな。
 ところが、この捜査情報を大葉組幹部に電話で伝えた奴がいるんだ。そして、大葉組幹部は、その情報を久我山代議士の事務所に連絡している。
 なんでそんなことがわかったかっていうと、大葉組関係者の電話は、我々が傍受していたんだな。
 オーハローンが暴力団大葉組の隠れ蓑だということは、我々の間じゃあ常識だ。覚醒剤の出たマンションを、そのオーハローンが所有していたということで、大葉組幹部に対する電話の傍受が認められたんだ。
 俺たちは、シャブ取引の証拠を掴もうと、大葉組関係者の電話を傍受していたんだが、なんと、警察の内部情報を伝える通話が録音されたってわけだ。
 内部情報が洩れたということで、電話を掛けた奴が警察関係者であることは確実だ。そこで、関係者の声をすべて録音し、声紋分析にかけたんだ。その結果、電話をしたのが高梨だという疑いが濃厚になったんだ。
 電話の傍受は、もちろん合法的に手続を踏んで行なっていて、普通なら高梨の所を通るはずだったんだが、これを決定した時、たまたま、高梨が出張中で、代理の者が承認したんだな。それで、高梨は傍受されているとも知らずに電話を掛けちまった、ってわけだ。
 そんなこんなしているうちに、本件捜査は打切りという指令が下ったんだ。理由は明かされなかったが、久我山には手を出すなってことだな。久我山代議士は、当時、与党の幹部で、総理にも近い人物だったから、政治的圧力が加わったということは容易に想像できるね。
 それにしたって、警察内部の者が暴力団幹部と裏で通じているってのは、由々しき問題じゃないか。
 そこで俺は、組織の問題は、久我山とは無関係に解決しなくちゃならんと、いろいろと画策したんだが、はめられちまったんだよ。
 証拠の録音テープが改竄されたんだ。
 だから、声紋分析を再度行なった結果、大葉組に情報を洩らした電話の主は、なんとこの俺だ、ということになっちまったんだ。
 もちろん、この俺だって抜かりはない。傍受したテープは、電話局で複製を三部こさえて、一部は、立ち会った電話局職員の署名を入れて封印しておいたんだ。しかし、そのテープを持ち出したところで、高梨の影響力がある限り、また改竄されてしまうのは目にみえているじゃないか。
 警察は組織で動いているんだし、ましてや警察官の不祥事は、我々とは別の人間が調査にあたるんだよね。テープが偽造されたってことは、その調査チームの中に、高梨と結託した奴がいるとしか考えられない。この状況下で俺に打てる手は皆無、ってことだな。
 本件捜査終了ということで、俺にはなんのお咎めもなかったが、そんなところにいられるわけ、ないじゃないか。で、高梨の野郎に辞表を叩き付けて、近藤調査事務所を開いた、というわけだ。

 「それで、その複製したテープはどうしたんですか?」エミちゃんがきく。
 「これは、ここだけの話だよ」近藤は言う。「他の証拠と一緒に、クッキーの缶に封印して、処分した」
 「処分って?」
 「つまり、ないことにしたんだね」
 「で、本当はどこかにあるんですか?」
 「それがわからないんだ」近藤は言い難そうに言う。「あるんだか、ないんだか、あるなら、どこにあるんだか」
 「まあ」エミちゃんは呆れ顔だ。
 「あの中には、いろいろ入っていましたからねえ」佐藤は言う。「聞き込み調査の記録、マンションの部屋の遺留品とDNA鑑定結果、関係者と現場の調査資料、尿分析の結果も入っていましたね。傍受テープだって、何時間分もありましたよ」
 「どうせ、あんなもん、がらくただよ、今となってはね」
 「横槍さえ入らなければ、久我山代議士を逮捕できましたよ。まだ、時効にもなっていませんから、今からだって、逮捕できるでしょう。それに、今回の詐欺事件の登場人物も、高梨、久我山、オーハローンじゃないですか。特別チームなら、再調査、できるんじゃないですか? それ、やる価値は、充分にあると思いますけど」
 「そういや、総理も替わっているなあ。久我山の政治的影響力も、今なら、あまりないかも知れないねえ」
 「むしろ、総理周辺は歓迎するかもしれませんね。ああいう古い政治家の支配力を嫌っているみたいですから」
 「そりゃどうかなあ。こんな事件、政府にとって痛手になることは確かだろう。野党にとっちゃ、棚ぼたの、グッドニュースだぜ」
 「それにしたって、以前とは全然違う。我々、もはや公務員でもありませんから、いよいよとなったら、マスコミにリークしても良い。特別捜査チームがグタグタ言ったら、そう、脅しをかけることだってできます」
 「守秘義務は、まだあるんだよ」
 「違法な行為を隠す義務はありません。もう一遍、やりましょうよ」
 「つまり、証拠を封印したクッキーの缶を探せと?」
 「当然ですよ。どうして、わからなくなっちゃったんですか?」
 「あれは、死んだ親父に処分を依頼したんだよ。親父は要領を得た男だったから、必ずどこかに隠したと思うんだが、今となっちゃ、聞き出すこともできない」
 「それ、どこに隠したんでしょうか?」
 「それがわからないんだよね。親父は死ぬ間際、何か言ったようなんだが……」

 近藤は刑事の仕事が忙しく、父の臨終に立ち会うことはできなかった。
 しかし、近藤の妻、信子は、近藤の父が担ぎ込まれた病院に駆けつけ、その死に立ち会っている。そして、父が近藤に残そうとした、最後の言葉を聞いている。
 信子は、その様子を近藤に次のように伝えた。
 「『夏樹ちゃん呼んで』と言われたんだけど、とても間に合わない。それで、私が伝えるからと言うと、『死んで』と言った後で、舌がもつれたようになって一瞬黙ったあとで、『のば』と言ったんですよ。それがお父様の最後の言葉でした。あなた、この意味わかるかしら」

 「で、その意味、わかったんですか?」エミちゃんがきく。
 「いや、全然」近藤は憮然として応える。
 「奥さんに、お話を伺うわけにいきませんか?」佐藤は言う。
 「そりゃ構わんが」近藤は、そう言うと、一階の近藤花卉店に、妻の信子を呼びに行く。
 近藤に伴われて事務所に現れた信子は、空いたデスクに腰を下ろす。エミちゃんは、変わった話の成り行きに興味津々といった顔をして、信子にコーヒーをサービスする。
 「クッキーの缶、親父に預けたんだよね。しかし、隠し場所を言わずに死んじまった」近藤が話題の口火を切る。
 「夏樹ちゃんへの最後の言葉、あれがたぶん、クッキーの缶の隠し場所だったんでしょうね」信子が言う。
 「なんて言ったんですか?」エミちゃんがきく。
 「『死んで』と『のば』。それがお父さんの最後の言葉」
 「『死んで』と『のば』ねえ。『神殿』かな? 神殿の場所に埋めた、とか」エミちゃんは、わからないながらも、頭に浮かんだ言葉を呟く。
 「ギリシャじゃあるまいし。神殿が出て来るなんて、日本じゃあゲームくらいじゃないかね。日本じゃ普通、神様のいるところは、神社って言うだろうが」
 「『死んでしまう前に、おまえに言っておくことがある』とかいう、前置きだったんじゃないかって、その時は感じたんですけど」信子は言う。
 「それだったら、『のば』は、『あの馬鹿に』かあ?」近藤は、声を張り上げる。「最後の言葉にしちゃあ、あんまりだぜ」
 「『死んで』と『のば』の間って、どのくらいの文字数が入りそうですか?」エミちゃんは冷静にきく。
 「舌がつってしまったみたいで、レロレロ言ってたけど、ほんのちょっとしか入らないと思うわねえ。二文字か、多くても四文字。たしかに、『死んでしまう前に、あの馬鹿に』ってのは、ちょっと長すぎるような気がしますねえ」
 「『死んでレロレロのば』ですね。それって、『シンデレラの馬車』じゃないですか?」エミちゃんの名推理が飛び出す。
 「シンデレラの馬車あ? そりゃあ、あの親父が絶対に口にしそうもない台詞だぜ。第一、それがクッキー缶の隠し場所だったとして、シンデレラの馬車って、いったい、何だ? デズニーランドにでも、隠しに行ったのか?」
 「かぼちゃ」エミちゃんは、ポツリと言う。「それならあるでしょ。だって八百屋さんだったんだもん」
 「かぼちゃ……もしそれが本当なら、あれじゃないかしら」信子は、考え考え言う。「ショウウインドウに飾っていた、プラスチックのかぼちゃ。あれ、中身は空洞のはずよ」
 「それ、今どこにある?」
 「お母さんのリビングに、大事そうに飾ってあります。近藤青果店のシンボルで、お父様の記念ですからね」
 「かぼちゃねえ、シンデレラの馬車が。それにしたって、親父はなんで、隠し場所を伝えるのに、そんな、回りくどい言い方をしたんだろうか」
 「他にも人がいましたからね。看護婦さん、お医者さん。それに、弟さん夫婦も来てましたよ。お父さんが危ないって話は、だいぶ前からわかっていましたからね。だいたい、夏樹ちゃんは探偵なんだから、暗号ぐらいすぐ解けるだろうって、お父さん、普段から言ってたじゃない」
 「しかしこれって、暗号かあ? 謎掛けだよ、こんなの」
 「まあ、とにかくかぼちゃを見てみましょう」
 信子は三階にある義母の部屋に、プラスチック製のかぼちゃを取りに行く。
 かぼちゃを持って、事務所に戻った信子は興奮気味だ。
 「何か入ってるみたいよ。ゆすると中で何か動いているみたい」
 近藤はかぼちゃを観察する。
 「これは、二つの半球形のパーツを接着して組み立てているな。ばらしちゃっても良いね」
 「もちろん。だけど、あとで、また接着しといてね。お義母様には大事な思い出の品なんだから」
 近藤はデスクの引き出しからナイフを取り出すと、かぼちゃの接続部の僅かな隙間に刃を入れる。近藤がしばらく刃を動かしていると、徐々に隙間は広がり、やがてかぼちゃは二つに割れる。
 そこには、スポンジに包まれた、ほぼ立方体の形をしたブリキの缶が入っている。
 「これだ、これ」近藤は嬉しそうに言う。
 ブリキの缶の蓋は、ビニールテープでシールされている。近藤は、テープの端を探し当て、ゆっくりとテープを剥す。テープの粘着剤は、既に、老化して粘性を失っている。
 缶の蓋を開けると、そこには、数冊の手帳とフロッピーディスクと何本かのカセットテープ、そして、小さなビニール袋がいくつか、束ねられて入っている。
 その品々を見ると、近藤は、刑事をやっていた頃の、過ぎ去りし日々を思い出す。
 「あの頃の俺は、正義感に燃えていたんだよ」
 「今は違うんですかあ?」
 「そりゃ今だって燃えているさ。だけど、今は、事務所の経営とか、税金とか、いろいろ考えなくちゃいけないことがあるだろう。あの頃は、ただただ正義あるのみ、それが、いずれ報われると、信じていたんだ」
 「それで、結局、辞めることになっちゃったのよねえ。まったく馬鹿なんだから」
 「それ、コピー作っときましょうか」エミちゃんが言う。
 「そうだねえ。だけど、これ、極秘だからね。この中身だけじゃなくて、こういうものがあること自体、警察にも、家の人にも、喋っちゃ駄目だよ」近藤はゆっくりと言う。「それから、その封筒は開けちゃ駄目だよ。証拠の品は、同じものを二部用意して、片方はその封筒に入れて、公証人に封印をしてもらったんだ。裁判の時、くだくだ言われないようにね」
 「用意が良いですねえ」佐藤は感心して言う。「どうしてそこまでやったんですか?」
 「電話の声を聞いただけで、高梨だと言うことはすぐにわかったんだ」近藤は遠くを見るようにして言う。「しかし、この証拠を突き付けて、高梨がすんなり諦めてくれるとは、到底思えなかったんだ。現にそうなっただろう」
 「しかし、それがわかってたのに、高梨さんの陰謀に、所長はどうして簡単に引っかかっちゃったんですか?」エミちゃんは手厳しい。
 「あそこまでうまくやるとは思わなかったんだ」近藤は言う。「悪い事をしているのは、高梨一人かと思っていたが、仲間がいたんだね。そいつがどいつだか、俺には見当も付かないが」
 エミちゃんはコピーを二部作り、原本は封筒に入れて、銀行の貸し金庫に預けることとする。フロッピーディスクのファイルや、テープの録音は、全てまとめてCD―Rに納められる。
 エミちゃんがダビングする盗聴テープの音声が事務所に流れる間、近藤は目を細めて録音内容に聞き入る。


五章   保冷車?

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 九月二十七日、佐藤は、休暇を取り、父の書斎で遺品の整理をしている。
 整理という作業は、捨てることが基本だが、大事なものが紛れ込んでいるかも知れず、捨てる前に一通り目を通す必要がある。しかし、メモの類を読み始めると、作業はなかなか先に進まない。
 いま、佐藤がページを捲りながら首を捻っているのは、父の最近の手帳だ。
 手帳の最初の部分は、見開き二ページに一週間分の予定を書くようになっている。そこに、父の細かい文字で、予定が書き込まれている。
 佐藤が、おやっ、と思ったのは、毎日の日付の下に、かな一文字を挟んだ数字と、二桁の数字が書いてあることだ。最初の数字は、陸運局識別符号を省略した車のナンバーのように思える。
 車のナンバーらしき符号は、ざっと見たところ、三種類のものがあり、それが、ランダムに現れている。
 佐藤は、工場で使っている車のナンバーを思い浮かべるが、この記録はそのどれにも該当しない。
 表に、車がバックする音が聞こえ、佐藤は反射的に顔を上げて、窓から外を見る。
 部屋の窓は西に面し、レンガ塀の向う側が給食センターの駐車場になっている。そこに、一台の保冷車がバックして入っていく。
 それを見た佐藤、思わず、心の内で呟く。
 (おいおい、保冷車だよ)
 以前、保冷車を尾行してまかれた苦い想い出に、佐藤の頬は一瞬緩むが、この保冷車、見れば見るほど、あの時尾行した保冷車に良く似ている。佐藤の心に、疑惑の雲が湧き上がる。
 佐藤は、保冷車のナンバープレートに目を走らせる。それは、以前尾行した保冷車のナンバーとは違うようだ。しかし、その番号には見覚えがある。手帳にに目をやれば、正にそこに書かれた符号の一つと一致する。
 (ちょっと待てよ、このナンバーって)
 保冷車、というキーワードを頭に、手帳に書かれたナンバーを見直すと、その一つは、前回尾行した保冷車のナンバーと良く似ている。
 正確なナンバーを確認するため、佐藤は、近藤調査事務所に電話を掛ける。電話口に出たエミちゃんが、記録を確認してくれる。この手帳にあるナンバーの一つは、前回、詐欺師とコンタクトした保冷車のナンバーに間違いがない。
 佐藤は、エミちゃんに、近藤を電話口に出すように頼む。
 「保冷車、見付かりました」佐藤は、自分を落ち着かせるように、低い声で言う。
 「こないだ逃げられた保冷車か?」
 「あれとは違うんですけど、これも、仲間だと思います」佐藤は説明する。「親父の遺品、整理してたんですけど、手帳がありまして、そこに、車のナンバーらしき数字が三つ書いてありました。一つは、前回、尾行を撒かれた保冷車のナンバーで、もう一つのナンバーの保冷車が、いま、目の前に止まっています」
 「目の前っていうと、大葉ビルか」
 「大葉ビルの隣の、桜が原給食センターの駐車場です」
 「給食センター? それは、大葉組と、何か、関係があるのか?」
 「オーハローンが傘下に収めたと、もっぱらの噂です」
 「そしたら、すぐに、行くから、それまで見張っといて。鈴木刑事も呼んで、今度は、逃がさんようにしよう」
 近藤は、佐藤から新たな二つの保冷車のナンバーを聞き出すと、鈴木刑事に電話する。鈴木は、すぐに向かうと言う。

 佐藤は、父が生前使っていたデスクに腰を下ろし、保冷車を監視しようと、外を眺めつづける。その時、ふと、視線を感じて上を見ると、大葉ビル五階の窓から、一人の男が佐藤を睨み付けているのが見える。
 佐藤は瞬時に考えを巡らせ、視線をそのまま上に上げて空を見上げ、大きく伸びをする。
 (男の顔には、大きな刀傷がある。この男、柳原の言っていた小野寺ではないか? 小野寺は、保冷車、つまり、詐欺の金の流れにも関与していたのか?)佐藤はそう考えると、書斎の窓から離れ、再び近藤に電話を掛け、小野寺と思しき男が、保冷車を見張る佐藤を睨み付けていた旨を連絡する。

 佐藤からの連絡を受けた近藤は、駐車場に向かいながら、携帯電話で鈴木刑事に事態を告げる。鈴木は、高橋とすぐに現地に向かうという。
 近藤は、車を走らせながら考える。
 今回の尾行は、開始時点が難しい。
 佐藤の実家の周囲は、道が細く、佐藤の家に近藤が乗り付ければ、すぐに警戒されてしまうだろう。それでなくとも、大葉ビルの一室から、大葉組幹部の小野寺と思われる男が佐藤を睨んでいたという。
 近藤は、佐藤の実家に続く細道の、国道からの入口近くに車を停め、傍らの自動販売機で煙草を買うと、封を切り、火を付ける。
 やがて佐藤からの連絡が入る。
 「保冷車、今、出ました」
 「どっちに行った?」
 「北です。国道の反対です」
 「今、迎えに行くから、工場の前で待っていて」

 近藤は、心持ちスピードを上げて、車を佐藤の実家に続く細道に入れる。佐藤の実家の門前で、近藤を待っていた佐藤が素早く車に乗り込む。
 「この先の十字路を左折しました」
 「大葉ビルから睨んでいた奴って、どうなった?」
 「すぐに姿を消しました。近藤さんの車が来た時にも注意しましたが、誰も見ていないようです」
 近藤が十字路を左折すると、はるか前を走る保冷車の後姿が見える。
 佐藤は、鈴木刑事に電話を掛け、保冷車が走り出した旨を伝える。鈴木は、車二台で近藤のカバーをするという。
 保冷車は、巧みに脇道を選んで走っていく。近藤は、高橋の到着を待って、バトンタッチする。
 「この車、偽造プレートを付けています」鈴木は近藤に連絡する。「この車番の車、やはり保冷車なんですが、別途、所在が確認されました」
 「現行犯逮捕しちまったらどうですか?」近藤は提案する。「別件で責めたてれば、吐いちゃくれませんかね」
 「この運転手が大葉組の関係者だとすると、そう簡単に喋っちゃくれんでしょう」鈴木は冷静だ。「それに、多分、この保冷車は、現金は積んでいないと思いますよ。連中、もう、証券の販売から手を引いていますからね。それよりは、このまま、行き先を突き止めた方が良いでしょう」

 信号待ちの機会を捕らえ、佐藤は近藤に父の手帳を見せる。
 「これが、親父の手帳なんですけど、上の数字は保冷車のナンバーに間違いないと思うんですが、この二桁の数字、ひょっとして、保冷車に積み込んだ箱の数じゃないでしょうかね。百前後の数字ですから」
 「例の、一億円に相当する箱か?」近藤は、信号を睨みながら問い返す。「その数字、いつ頃から始まっていて、合計は幾つぐらいになるかなあ」
 「最初の書き込みが七月三日ですね。合計は、ちょっと待ってくださいね」佐藤は揺れる車内で合計を計算して言う。「五千七百三十二です」
 「五千七百億……」近藤は感心したように言う。「今の日本で、そんな金が、右から左に動くものかね」
 「昔、金塊のペーパー商法で一躍名を馳せた豊田商事が千五百億集めたっていったけど、あれは、お年寄りとか、小口の客を大勢カモにしたんですよ。そんなところからいくら巻き上げても、タカが知れています」佐藤は冷静に言う。「今回の連中は、大金持ちを狙ってますからね。エミちゃんのところも、三千万出したって言いましたよね。そんな人が二万人いれば六千億は簡単に集まります」
 「そうだなあ。あるところにはあるからなあ。今の不景気だって、バブルの崩壊で大損した連中が不良債権を山とこさえて、銀行の信用まで怪しくしちまったのが原因なんだろうけど、投機ですった金は空中に消えたわけじゃない。誰かの手に渡っただけなんだよな。損をした連中は、金が返せなくなって、社会問題になるけど、儲けた連中は静かにしておりゃいいから、だれにもわからない。そんな金持ちが、低金利に痺れを切らして、こういう話に乗るんだろうなあ」
 「この数字の最初の方、だんだん増えているんですけど、グラフを書けば、記録される前の数字も、だいたい、予想できそうです。被害総額、もっと正確に計算できますね」佐藤は理科系だ。

 鈴木からの連絡に従い、近藤は、保冷車の一本脇の道を、保冷車に少し遅れて走り続ける。今回は、保冷車は高速道路を使わず、狭い道路を巧みに選んで走りつづける。そのかいあってか、渋滞に巻き込まれることもなく、いつしか車は、倉庫が立ち並ぶ埋立地の一帯に入る。保冷車が海沿いの道を走ったため、近藤の車は、鈴木の車の後ろを走る形となる。
 保冷車が停まったのは、岸壁に面した、とある冷凍倉庫の前だ。
 保冷車の運転手が守衛に声を掛けると、倉庫の敷地の鉄門が静かに開く。保冷車が倉庫の入り口の前に進むと、倉庫の入口が開き、保冷車は倉庫の中に姿を消す。
 鈴木は車を降りると、近藤に言う。
 「道交法違反で現行犯逮捕しましょう」
 高橋の車が鈴木の車の脇に停まる。鈴木は高橋を手招きすると、守衛所に向かう。
 警察手帳を見せられた守衛は、門を開く。鈴木と高橋は車に戻り、倉庫に向かって車を走らせる。近藤もその跡について車を進める。
 倉庫の扉が徐々に開く。その中に保冷車は進み、床に線の引かれた駐車場所で停止する。後を追う鈴木たちにも、保冷車のドアが開き、運転手が降りようとしているのが見える。
 鈴木は運転手の前に車を急停車させると、車を降りて運転手の前に立ちはだかり、警察手帳を掲げて言う。
 「道路交通法違反の現行犯で逮捕します」
 保冷車の運転手は、頭の禿げ上がった頑固そうな老人だ。彼は、鈴木の言葉を聞くと、逃げ道を探すように、周囲を見渡す。しかし、手前には高橋が立ちはだかり、その向うからは、近藤と佐藤が駈け寄ってくる。これを見て観念したか、老人は無言で立ち尽くす。
 鈴木は老人に手錠を掛けると、しばし考え、近藤に言う。
 「近藤さん、申し訳ありませんが、この男、署まで護送願えませんか?」
 「そりゃ構いませんけど」
 「私、この現場を見張っていたいんですよ。護衛に高橋をつけますんで」
 「どうぞ」
 近藤は、自分の車の後部ドアを開け、男と高橋を座らせ、自分は運転席に入る。
 「どこに行きゃあ良いでしょうか?」
 近藤は高橋の指示に従い、もよりの警察署まで車を進める。

 警察署には、予め連絡が入っていた様子で、近藤が駐車場に車を乗り入れると、そこには数名の警察官が近藤たちを待ち構えている。高橋は、警察官に二言三言伝え、男を警察官達に引き渡す。
 高橋は、近藤に、倉庫に戻るよう依頼する。
 「取調べはしないんですか?」近藤は高橋に尋ねる。
 「それよりも、あの、倉庫を調べるのが先だといわれています」高橋は応える。「応援部隊がまもなく来ますんで、我々も加わります。現金が出て来るかもしれませんからね。近藤さんも、ご同行頂くように、鈴木刑事に言われています。よろしいでしょうか?」
 「もちろん、構いませんとも」近藤はそう言うと、再び冷凍倉庫に向かって車を進める。

 近藤たちが冷凍倉庫の前に着くと、既にそこには数台のパトカーと、マイクロバスのような車が停まり、何人もの警察官が冷凍倉庫に入ろうとしている。
 「えらく手回しが良いですねえ」近藤は、感心したように、鈴木に言う。
 「尾行中から準備をさせときましたので」鈴木はそう言うと、急ぎ足で冷凍倉庫に向かう。

 倉庫に入ったところは、黒ずんだ吹き抜けの空間で、右側に二台の保冷車とフォークリフトが停めてある。左手には、工具類が置かれ、その先に、プレハブ二階建ての建物が、まるで屋外に建つかのように、倉庫の中に建てられている。
 一階は計器室で、二階が事務所だ。一隊の警察官が、二手に分かれて、その双方の部屋に入り、帳面の類を調べ、そこにいる人達の話を聞いている。
 「まずは、偽造プレートが組織的に作られていた容疑を固めます」鈴木刑事は、近藤に歩みよって、解説する。「その次に、動機ですが、これに付いては、詐欺事件との絡みを疑うのが自然の流れでして、保冷車が騙し取った現金を輸送する目的で使われていたとの嫌疑について、裏付け調査を致します」
 「出入庫の記録はございますかね」近藤は尋ねる。「運び込まれたと思われる現金の、日毎の数量を記録したと思われるリストがあるんですが」
 「どうしてそんなものをお持ちなんですか?」鈴木は驚いたようにきく。
 「実は、佐藤の親父さんの手帳なんですが、保冷車のナンバーと思われる数字と二桁の数字が、日毎に、記録されています。この数字、保冷車に積まれた箱の数じゃないかと考えておるんですよ」
 「その手帳、こちらでお預かりしてもよろしいでしょうか」
 「構いませんよ」
 佐藤はそう言うと、父の形見の手帳を、鈴木刑事に手渡す。手帳を受取った鈴木は、タラップを駆け上がり、二階の事務所に向かう。近藤たちもその跡を追う。
 二階の事務所では、棚の帳簿が机の上に積み上げられ、刑事たちが内容を確認している。帳簿を捲っている私服の警察官は、この手の作業を長年してきたのか、刑事というよりは、経理事務の専門家のように見える。刑事たちは、一通り目を通した帳簿に走り書きのメモを貼り付け、ダンボール箱に放り込む。
 他の刑事は、計算機に張り付き、ファイルのコピーをしている。計算機は、押収することになるが、輸送中のファイルの破損に備えて、一応、バックアップを取っておくのだという。
 「入出庫記録です」鈴木は一冊の帳簿を取り出すと、近藤の前に広げる。「手帳の記録に符合する記録がありますね。Rという記号が振ってあるのが、全て、手帳に書かれた数字です」
 「それが現金と言うことですか」近藤が言う。
 「それは、リターン品です」事務所の男が言う。「一旦出荷したけど、引き取れないと言われて持ち帰った品です」
 「これは、どこから返品になったもんですか?」近藤が事務所の男に尋ねる。
 「それはわかりません」事務所の男は当惑したように応える。
 「それは、ちょっとおかしくはありませんか?」鈴木は事務員を責める。「返品となれば、代金を返すなり、納入数量を減らすなりしなければならないでしょう。どこから返品になったか、なぜわからないのでしょうか?」
 事務員は、鈴木の質問に、押し黙ったまま応えようとしない。鈴木は、畳み掛けるように言う。
 「あなたには、後ほど署の方でゆっくりお話をお伺いしましょう。よろしいですな」
 帳簿を調べていた刑事が、一冊の帳簿を鈴木に渡して言う。
 「こちら、在庫管理簿、品種別になっています」
 鈴木は、『MベジR』というタグの付いたページを開く。そこには、ミックスベジタブルリターン品の入出庫記録と在庫の量が記述されている。この記録によれば、怪しい箱は、全て出荷済で、在庫はゼロになっている。
 「在庫ゼロということですが、現地で確認しましょう。棚番号はここに書いてあります」鈴木はそう言うと、近藤を誘って、倉庫に向かう。

 近藤たちが事務所にいる間に、倉庫の扉は既に開けられ、数人の警察官が防寒着を着込んで中に入るところだ。近藤たちも、警官から防寒着を受取り、冷凍庫の中に入る。
 鈴木は、在庫管理記録に記された、ミックスベジタブルリターン品の置き場を探す。棚はすぐに見付かるが、そこは空だ。
 近藤は、一度開けられたミックスベジタブルのダンボール箱がどこかにないかと、一通り棚を見て回るが、そのような箱はないようだ。
 近藤たちは、一しきり調査を続けるが、流石に防寒着を着込んでも、マイナス三十度の冷凍庫の中には、そうそう長時間いられるものではない。
 警官たちの調査は、まだ時間が掛りそうだが、近藤たちは一足先に帰ることにする。
 近藤は、見送りに来た鈴木刑事に別れを告げながら言う。
 「どうも、あまり芳しくないようで、責任を感じますなあ」
 「まあ、保冷車、二台とも偽造プレートですから、ここの連中が、組織的にナンバープレートの偽造していることには間違いありません」鈴木が言う。「保冷車の入手ルートも調べる必要があるでしょう。固定資産台帳に記載がありませんから、盗難車である可能性もあります」
 「しかし、期待した金はみつかりませんなあ」近藤は残念そうに言う。
 「結局のところ、お目当ての金は、なし、ということになりそうですね。ただ、佐藤さんの手帳の数字に符合する入庫記録は、確かにありました。全て、冷凍のミックスベジタブルなんですが、Rという記号が打ってありまして、連中が言うには、リターン品ということです。リターン品は、安く叩き売ったということなんですが、千二百箱の出荷が記録されてまして、例の、南進丸でしたか、あの記録と一致します」
 「全て海外に運搬済みということですか」
 「搬送先はわかりませんが、恐らく、そうでしょう。販売先は偽名で、足取りは追えません。しかし、漁船に積んだところまで押さえたとしても、遠洋漁業の船が冷凍の野菜を積むことに不思議はありませんし、どうせ、船員相手だからと、船主が安いリターン品を仕入れることも不思議はありません。連中がマネーロンダリングのために、国外に現金を持ち出したことは間違いないと思われますが、何分、証拠が皆無です」
 「しかし、リターン品が、全て桜が原給食センターからってのは、ちょっとおかしいんじゃありませんか?」
 「それが、どこから返品になったか、という記録がないんですよ」
 「佐藤の親父さんの手帳に書かれた数字と一致するということは、他からリターンになったという可能性は、ほとんどないでしょう」
 「そう考えるのが普通でしょうね。しかし、証拠がありません。佐藤さんの親父さんも、もう亡くなられておりまして……」
 「あの運転手が、何か喋ってくれると良いんですがね」
 「あれは、口の固そうな男でしたねえ。取調べは難航しますよ」
 「まあ、そちらの方は、鈴木さんにお任せします。成果を期待しておりますんで」
 近藤はそう言うと、車を出し、事務所へと戻る。その途中、佐藤を実家の前で下ろす。今日、佐藤は、親父の遺品整理のため、休暇をとっていたのだ。思わぬ発見のため、佐藤は、休暇の一時を、仕事に使ってしまったのだ。
 


第六章   ボーンコレクター?

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 「骨が盗まれたあ?」昼下がりの事務所で、受話器を掴んだ近藤は、素っ頓狂な声を張り上げる。
 近藤調査事務所には、近藤の他に、エミちゃんと柳原がいる。
 ふたりとも、近藤の大声に、何が起きたかと、顔を上げる。
 電話を終った近藤は、興味津々と近藤を見つめるふたりに、事情を説明する。
 「佐藤君の親父さんの骨壷が盗まれたそうだ。佐藤君が保冷車の尾行に付き合ってくれた間、お袋さんは、桜が原ショッピングセンターの地権者説明会というのに出かけていたそうだ。その隙に、佐藤君の家の、日本間の床の間に置かれていた骨壷が、忽然と、姿を消したということだ。戸締りはきちんとしてたそうだけど、縁側の引戸のガラスに穴をあけられて、そこから手を入れてロックを外して侵入したらしい。いま、警察も呼んだといってるが、俺もちょっと見てくる」
 「佐藤さん、かわいそう」エミちゃんが言う。「お父様の骨壷、盗まれちゃって、どうするんでしょうか」
 「そりゃあ困るわな。これから、納骨もしないといかんからな。しかし、こんなもの盗んで、何をしようってんだ。悪質な嫌がらせ、かなあ」
 「身代金の要求があるかもしれませんよ」柳原は不気味なことを言う。「『要求に応じなければ、不燃ゴミとして処分する』とかね」
 「えらくブラックな話だが、まあ、ない話でもないな。とにかく、俺は、ちょっと様子を見てくる。柳原さん、一緒に来られますか?」近藤はそう言うと、そそくさと事務所を飛び出して行く。

 近藤は、佐藤家の工場の駐車場に車を停める。脇にはパトカーとバンがそれぞれ一台、停車している。
 佐藤の自宅は、鉄工所と棟続きである。駐車場は、敷地の中央部にあり、その前方と右側が工場となっており、駐車場の左側に、佐藤一家の玄関が設えられている。
 近藤は、佐藤家の玄関を覗くが、そこには、既に警察官が数人立っており、近藤が入り込む余地はなさそうである。
 そこで、勝手知ったる近藤は、玄関の左側にある門から庭へと入る。
 鉄工所の建物は、道路ぎりぎりまで建てられているが、自宅側は道路から離れて建てられており、道路側、即ち住居の南側に、さほど広くはないが庭がある。
 この庭は、佐藤の母、映子の自慢の庭で、小さな噴水の回りに、石造りの置物が並べられ、数十本のバラが所狭しと植えられている。
 近藤が白いアーチを抜けると、右側の日本間の外に、サンダル履きの佐藤と映子が所在なげに立っているのが目に入る。ふたりは、日本間の中を見詰めて、近藤に気付かない。
 「どんな具合ですか?」
 近藤がふたりに声を掛けると、佐藤は近藤を振りかえって言う。
 「ご心配かけて申し訳ありません。親父の骨が盗まれました」
 「盗まれたって、いつ頃のことかね?」
 「私が家を出たのが十時過ぎ、近藤さんが迎えに来た時ですから、盗まれたのはそれ以降だと思いますよ。お袋が家を出たのが九時半で、その時骨壷は確かにありましたんで。それで、私が帰ってきたのは、一時過ぎでしたが、骨壷を見ずに、台所で昼飯を作って食っていたんです。二時少し前にお袋が帰ってきて、骨壷がないことに気付いたんです。まさか、私が台所にいる間に盗まれたわけはないと思いますから、犯行は、午前十時以降、午後一時までの間ということになります」
 「骨壷を盗まれるような心当りはあるかね」
 「全然ありませんよ。骨壷は、葬儀屋の持ってきた普通の骨壷ですし、中に入っているのは、親父の骨だけですからね。金目のものは、なにも入っていません」
 「佐藤君とお袋さんが家を空けていたって、工場の従業員がいたんじゃないかね。そもそも、犯人はどこから侵入したんだろう」
 「侵入経路はあそこです」
 佐藤が指差したのは、庭の西側の突き当たりである。その向うは、桜が原給食センターの駐車場だが、境界のレンガ塀を跨ぐように、アルミの脚立が立てられている。
 「作業場は反対の方です。工員さん、だいたい、建て屋の中で仕事をしていますから、ましてや、こちらから入られたんじゃあ、工員さんには見られる気遣いはありません」
 「こりゃ、わかりやすいねえ。この脚立、どこから持ってきたんだろう」
 「給食センターの駐車場に置いてあったものだそうですよ。なんか、屋根の雨漏りを修理していたとかで」
 「しかし、真昼間に、こんなことをやって、誰も気付かなかったもんだろうか」
 「やあ、近藤さんもみえられましたか」高橋が近藤に近付き説明する。「給食センターのパートタイマーの人が目撃しています。作業服姿の男がふたり、駐車場の横に脚立を立てて、上って行くのを見たと。パートの人は、工場の屋根の修理しに上がったと思い込んでいたそうですが、今日は、屋根の修理はお休みだったんです」
 「それ、何時頃ですか? 犯行時刻は、特定できるわけだ」
 「十一時頃だそうです。それで、十分もしないうちに降りてきたそうです。作業服の男の一人は、ズックの袋を持っていたということですから、その中に骨壷が入っていたんでしょう」
 「盗まれたものは、骨壷だけ?」
 「ええ、まっすぐ日本間に来て、庭に面したガラス戸を破って侵入し、骨壷を盗むと、すぐに引き上げたということです」
 「犯人は、最初から骨壷を狙ったってわけだ。しかし、骨壷が日本間にあると知っていたのはどういう人達だろう」
 「そうですねえ、葬儀のあとに焼香に来てくれた人が二〜三十人はいましたからねえ」佐藤は言う。
 「日本間に骨壷が置いてあったことくらい、道路を通った人なら、わかるんじゃないかしら」佐藤の母、映子が言う。「東西はレンガ塀なんですけど、南側は生垣で、スカスカでしょう」
 近藤が庭先を見ると、確かに、道路と日本間の間には潅木が多数植えられているが、その隙間から、道路がちらほらと見える。場所を選べば、道路から日本間を覗くこともできそうだ。
 「あそこの連中からも、丸見えだな」
 近藤が指差した先は大葉ビル。その三階以上の窓は、この場所からも良く見え、向うからこちらが見えることも明らかである。
 「問題は、動機だな」近藤は言う。「柳原さんは、犯人が身代金を要求してくるんじゃないかなんて言ってたが、なんか、そんな話はあったかね?」
 「いいえ、何もありません。それにしても、骨壷を盗んで、身代金を要求するなんてこと、聞いたことありませんけど」
 「有名人の骨を盗んで、身代金を要求されたという事件、過去に、あったことはあったが……」近藤は、首を傾げて言う。「しかし、佐藤さんの親父さん、別に有名人というわけでもないからなあ。その他に理由があるとすれば、嫌がらせ。この家の人や親父さんによほど深い恨みを持っていた人物がいたのか……」
 「まあ、再開発の話で、親父は、いろいろ発言してましたから、嫌っていた人はいたと思いますよ。しかし、こんなことをするほど、恨まれるようには、とても思えませんけどね」
 「あとは、あの手帳か……」
 「あれで、一人逮捕していますから、恨まれるかもしれませんねえ。でも、骨壷盗まれたの、尾行を開始した直後ですよ。多分、保冷車の運転手を逮捕したときよりも早い時刻じゃないでしょうか。そもそも、もしも我々が保冷車を疑っていると連中が知っていたとすると、保冷車はあんな倉庫などには行かなかったんじゃないでしょうか」
 「君が親父さんの書斎にいたとき、大葉ビルから、小野寺と思しき男が睨みつけていたと言ったよね。書斎から見えた保冷車、詐欺事件の現金輸送に使っていたはずで、その詐欺に小野寺も一枚噛んでいるわけだから、保冷車を調べる男に良い感情を持つわけはないと思うけどね」
 「しかし、そんなことで、骨壷を盗んだりしますかねえ」
 「まあ、考えにくい話ではあるがね。あとは、親父さんが、実は毒殺されていて、骨からその毒が検出されるというような場合だね。砒素とか使っていれば、骨に残るだろう」
 「しかし、死んだのは病院でですよ。毒殺なんてできますかねえ。それに、脳溢血の発作を何度もしている男を、わざわざ殺さなければならない理由がありますか?」
 「骨を盗まなくちゃならん可能性としては、そのぐらいしかないだろう」
 「あ、骨はねえ、分骨したんですよ」映子が言う。「郷里のお墓にも入れたいということで。かけらをいくつか送りました。だから、もし分析する必要があるんでしたら、それを使えば良いんじゃないかしら」
 「それ、少し返してもらいましょうよ」佐藤が言う。「別に、お墓に入れる骨は、全部入れなければいけないってこともないから、葬儀屋さんに言って、骨壷もう一つもらって、その中に、返してもらった骨を、少しだけ入れておけば良い」
 「流石」映子は嬉しそうに言う。「そうしましょう。何も心配することはないじゃない。そうすれば、納骨式だって、ちゃんとできるし、被害は、日本間のガラスだけ。これだって、大きいから、直すのに結構掛ると思うわ」
 映子はサンダルを鳴らして家に駆け込む。骨の送り先である夫の郷里に、骨の一部を返してもらおうと、電話を掛けに行ったのだろう。
 佐藤と近藤の前に警察官が来て、捜査の状況を説明する。それによれば、ガラスを割った手口は、プロのもので、指紋は残されていない。また、日本間には土足の足跡がいくつか残されているが、大量に市販されているズック靴で、サイズも特定されたものの、あまり有力な手掛りにはなりそうもないという。
 近藤は、警察官に、骨壷を盗んだ理由が、毒殺の証拠隠滅のためではないかとの可能性を説明する。また、骨の一部は既に分骨されており、手元に戻すことができる旨を説明する。警察官は、近藤たちの協力に礼を述べ、骨が手に入ったら、分析にかけることも検討したい旨を述べる。
 盗まれたものが骨壷というのは、異例で、不気味な窃盗事件であるが、所詮は窃盗事件である。日本間周辺で捜査にあたっていた警察官は、小一時間もしないうちに、引き上げる準備を始める。近藤も、後を佐藤に任せ、一旦事務所に引き上げることにする。

 夕刻、コンドーの事務所を、鈴木、高橋の両刑事が訪れる。
 「ミックスベジタブルリターン品、全部で六千二百飛んで七箱、冷凍倉庫に運び込まれていました」鈴木は近藤に報告する。「不動産投資証券による詐欺の被害総額が、六千二百七億ということでしょう」
 「返金した部分もあるから、もう少し少ないんじゃないか?」近藤は尋ねる。
 「ああ、そうかもしれません」鈴木は言う。「出荷が、極端に多いものと、少ないものがありまして、千二百箱の出荷が五回と、百箱の出荷が一回ある他は、一箱から五箱程度の小口の出荷になっています」
 「その小口の出荷は、返金に使ったのかもしれませんなあ」
 「販売員への報償金とか、事務所の支払いとかもありますからね」
 「そいつは、被害総額の内枠だな。詐欺の被害総額から、詐欺行為に掛った必要経費を差し引く必要はない」
 「百箱は久我山代議士への賄賂ですね」エミちゃんが言う。
 「六千億の現金が、まだどこかに隠されているということか。それで、現金の流れは掴めたんでしょうか?」
 「佐藤さんの親父さんの手帳がありますから、出所は、全て桜が原給食センターで間違いないでしょう」鈴木は応える。「しかし、リターン品の流れに関しては、相手先に迷惑が掛るからと、事務員も、運転手も、黙秘しています。なお、保冷車の運転手、元は、大葉組の大番頭ですね。若い頃には殺人の前科もありました。刑務所を出た後、足を洗ったことになっていますが、大葉組の指示で動いていることは間違いありません。しかし、口が固く、ろくに喋っちゃくれません。偽造ナンバーを付けた車を運転してただけでは、そうそう、ぶち込んでおけませんから、こっちの線は期待薄ですねえ」
 「ナンバーを偽造した動機くらい、喋りませんでしたか?」
 「あの運転手、保険所の許可が取れないんで、偽造プレートでやったとか言っていますが、理由になりません。しかし、そう言い張られてしまったら、それ以上追求のしようがありません」
 「またしても、空振りってわけですか」
 「いえいえ、今回は、道交法違反で起訴できるでしょう。食品衛生法違反の疑いも濃厚ですね。保冷車は、車体番号から、盗難車であることが判明しました。ナンバープレートの偽造も含めて、組織的な犯罪であることは明らかです。今回の大捕り物も、それなりの成果はありました。被害総額もおおよそ判明しましたし、取調べの取っ掛かりを掴んだという点で、本日は大前進と言えるんじゃないでしょうかね。責任の所在と背後関係に付いては、これからじっくりと調べますが、人を雇っているし、倉庫もあります。どこかで大葉組との繋がりが出て来るんじゃないかと期待しております」
 「大葉組のメイル、プロバイダのファイルから、何かわかりませんでしたか?」
 「これ、許可が出ません。詐欺事件と大葉組の関係が、もう少しクリヤーになれば押収できると思いますが、何もない現状では、無理があるでしょう。一度失敗していますし」
 「裏口情報も、特にめぼしいものはありません」柳原が言う。「オーハローンのメイルシステム、定期的にチェックしているんですけどね」
 「まだ、そんなことやっているんですか。それ、まずいんですよね。聞かなかったことにさせて下さい」
 「営業の連中からは、なにか掴めませんでしたか?」
 「これもダメですねえ。営業をしていたのは、スポーツ新聞の求人広告をみて応募した連中で、全員、真っ白です。歩合給も、〇.一パーセント、一口一千万の売上で一万円だそうです。べらぼうな歩合給なら、詐欺の共犯である疑いが濃厚ですが、これでは、普通の商売と変りありません。因みに、オーハローンの取り分は売上の一パーセントということです」
 「手間の掛る割には、マージンが小さいですなあ」
 「オーハローンは、注文を取り次ぐだけで、実際の販売は、全て投資会社が直接行っているそうです。それにしたって、六千億売っていれば、一パーセントでも六十億ですよ。その内六億ほど販売員に支払った計算だ」
 「三月で六億……販売員は百人ほどいましたな。一人六百万ですか。月収二百万なら、悪くないですなあ」
 「それが、固定給はべらぼうに安いんだそうですよ。要領の良い奴は、歩合で、数千万稼いでいたようですが。ま、証券のセールスなんて、そんなもんだそうですよ。売れなければ、会社の取り分はゼロですからね。身内に売り付けていた販売員もかなりいたようで、これが詐欺となれば、販売員も被害者ということになります」
 「結局のところ、オーハローンは完全に白、ということになりますか」
 「あの、販売部隊は白でしょうね。幹部が何をやっていたか、わかったものじゃありませんけど、被害届が出てこない限り、これ以上の捜査は困難です」
 「被害届、じきに出るんじゃないかしら」エミちゃんが言う。
 「そんなこと、わかりますか?」
 「ウチの母が、解約を申し込んだとき、電話をかけた先は、新宿のマンションにあった事務所です。でも、そこの人達、既に逃げてしまったんですよね。そうなると、あそこに電話しても、誰も出ない、つまり、解約できないってことになります。それって、詐欺ですよね」
 「そういえば、証券の販売も、既に中止しているんだ。投資会社、これ以上運営する理由はありませんなあ」近藤も言う。「儲けを最大にしようと思えば、証券の販売を中止すると同時に、投資会社は姿を晦ましているはずですね。被害届が出て来るのは、時間の問題ですなあ」
 「解約する人がいればね」柳原は冷たく言う。「エミちゃんのお母さんが解約したんだって、詐欺かもしれないって聞いたからでしょ。知らなければずっと持っていたんじゃない」
 「まあしかし、大勢いる客の中には、急に現金が入用になる奴だっているだろう。そういう奴が出て来るのを、ひたすら待つんだな」
 「歯痒いですね」鈴木は言う。「しかし、被害届が出て来るのを待つしかないというのは、その通りです。他に打つ手はありません」
 「デマを流しましょうか」柳原が提案する。
 「デマ?」近藤は、また、柳原が良からぬことを企んでいるのではないかと、不審感を顕わにきく。
 「つまり、インターネットの投資関係の掲示板に、匿名で投稿するんですよ」柳原は説明する。「『アパートに投資するという証券を買って、最近、解約しようとしたんだけど、投資会社に連絡できない。これって詐欺じゃないでしょうか?』ってね。なんなら、一人二役か、三役やって、話題を盛り上げても良いわ」
 「うーん、これはうまい手のように見えますけど、あまり、警察が表に立ってできるような作戦じゃありませんねえ」鈴木は言う。「近藤さんの責任でやって頂ければありがたいですけど、我々は、本作戦に関しては、一切、関与しないという形で良いでしょうか?」
 「その位のことは、ウチで引き受けても良いですよ」近藤は言う。「作業は、柳原さんにお願いできますかね。コンドーの名前も出さないようにしてもらえればありがたいですけど」
 「わかりました。絶対にバレないようにやります」柳原は言う。「途中に二〜三段噛ませますから、絶対に大丈夫です」
 「噛ますって、何を?」近藤は心配そうだ。
 「あー、だから、手ごろなサイトのアカウントをお借りしてですね。もちろん、正面から名乗ってお借りするわけには、いきませんけど……」
 柳原の話を鈴木が遮るように言う。
 「済みません。このお話、我々は、お伺いしないほうが良いかと……」
 鈴木刑事の言葉に、近藤も事情を察し、話題を変える。
 「そういえば、今日、佐藤君の親父さんの骨壷が盗まれたんですけど、これに関して、何か情報をお持ちじゃありませんか?」
 「佐藤さんの心痛、お察し致します。盗難の話は、もちろん聞いておりますが、それ以上の情報は入っておりません。お父さんの手帳が、保冷車摘発の手掛りになったわけで、今回の詐欺事件と、骨壷窃盗事件の間になにか関係があるかもしれません」
 「私、現場を見て来ましたが、侵入経路は、大葉組傘下の、桜が原給食センターの駐車場からですし、犯行が行なわれた佐藤家の日本間は、大葉ビルの上層階から丸見えなんですな。大葉組が、骨壷窃盗事件に絡んでいても、不思議はありませんよ」
 「しかし、大葉組がやったという証拠は、何一つありません。それに、大葉組が、なんで、骨壷なんか盗まなければいけないんですか。確かにあの手帳のおかげで、保冷車を捕まえることができましたが、だからといって、骨壷を盗んだりする理由にはならないでしょう。特に、今みたいに、巨額の詐欺を働いている時に、なんでわざわざ、そんな、危ない橋を渡らなくてはいけないんでしょうか」
 「骨を盗まなければいけない理由として、死因を探られないためという可能性を考えたんですけど、どうでしょうかね。例えば、親父さんは、大葉組に毒殺された、ってことは考えられませんか? それで、毒の痕跡を知られないために、証拠となる骨を盗み出したと」
 「しかし、だれも佐藤さんの親父さんの死因を疑ったりしていなかったですよ。わざわざ骨を盗み出す必要はなかったんじゃありませんか。それに、あの方は、脳溢血の発作を起して入院された挙句、病院で亡くなられたわけで、医師の診断書もありますから、毒殺というケースは非常に考えにくいと思います。もちろん、分骨された骨が残っているということで、これに付きましては、念のため、分析を行ないますがね。しかし、これで毒でも出た日には、骨壷を盗み出したことが、完全に、裏目に出たということになりますね」
 「その他の理由として、骨壷の身代金を要求してくるんじゃないかと言う意見もありますが」近藤は言う。「要は、金目当ての犯行ということですな」
 「そんなこと、しますかねえ」鈴木は、この案を一蹴する。「奥さんに伺ったんですけど、あの方の骨は、田舎のお墓にも納めるということで分骨されたそうじゃないですか。それで、分骨した骨を一部返してもらうから、あの骨壷、盗まれても、たいして困らないそうです。だから、仮に、身代金を目的に盗んだとしても、空振りということになりますねえ」
 その時、電話が鳴り、エミちゃんが出る。数秒の受け答えの後、エミちゃんは、受話器を近藤に差し出し、大声で言う。
 「所長、佐藤さんのおうちに、骨の身代金を要求する脅迫電話が掛ってきたそうです」

 「なんだって!」そう言うと、近藤は受話器を受け取る。
 鈴木刑事は、慌てて立ち上がり、机に膝頭をぶつけながらも、事務所の外に歩き、携帯電話を取り出して、捜査本部に連絡する。
 「とにかく、俺は佐藤君ちに行ってくるから、事務所、後始末をしておいて。今日は遅くなりそうだから」
 近藤は、エミちゃんにそう言うと、上着を引っ掛けて事務所を出るが、ふたりの刑事の存在を思い出し、彼等に尋ねる。
 「これから佐藤君の家に行きますが、もし皆さんも行かれるんでしたら、私の車に乗って行かれませんか?」
 ふたりの刑事は、近藤の誘いに乗る。
 「要求は三百万、映子さんが、一言の下に拒絶してしまったそうだ」近藤は手短に電話の内容を伝える。
 「佐藤家には、警察の者は誰もいませんでした」鈴木も状況を説明する。「逆探知も、もちろん、していません。今、各方面から、佐藤家に急行中とのことです」
 「あとの祭じゃなければ良いですがね」近藤は言う。「あの奥さんにスパッとやられたら、二度と電話を掛けようなんて思わないんじゃなかろうか」
 「なに、先方も手間暇かけて盗み出しているんだ。もう何度か、連絡があっても不思議はありません。本件、営利誘拐と違って、人質が殺される心配はありませんから、思い切った手が打てます。身代金受け渡しが行なわれたら、必ず犯人を挙げてみせます」
 「これは、どういう事件になるんでしょうな」
 「死体損壊と恐喝ですかね。営利誘拐に比べれば、微罪です。しかし、この事件、何らかの広がりを持っている可能性が高いですから、全力で解決しますよ」

 佐藤の家に到着した近藤が、いつものように、駐車場に車を停めようとすると、佐藤の母、映子に誘導され、屋内の作業場に車を入れる。そこには既に、トラックが一台停車している。
 「一応、警察が動いていることは、伏せてあります」鈴木は言う。「犯人がここを見張っていれば、あるいは、気付くかもしれませんが、わざわざ教えてやる必要はありません」
 映子は、近藤たちを案内し、作業場を通って佐藤の住居へと導く。佐藤の住居の北半分は、一階部分が工場の資材置き場になっており、奥のドアから、佐藤家の台所に入ることができる。
 居間では、工員に扮した三人の刑事が、電話機に装置を取り付け、通話内容を録音する準備を進めている。

 映子は、近藤と刑事をソファーに座らせると、お茶の準備をするといって、台所に行きかける。鈴木はそれを押し止め、映子をソファーに座らせて言う。
 「次の電話がいつ掛って来るかわかりませんので、早目に、作戦を決めておきましょう」
 「身代金なんて、払いませんよ」映子はずばりと言う。
 「まあ、奥さん、こういう手合いに正直に出る必要はありません。新聞紙の束でも良いじゃありませんか。いずれにせよ、犯人を誘き出す必要があります。次に電話があった場合は、金を払うということで、話をまとめて頂けませんか」
 「三百万くらい、払ったって良いじゃないですか」佐藤が言う。「親父がかわいそうだ」
 「だって、骨は分骨したのがあるから、取り戻せなくても構わないじゃない。それに、三百万も現金ありません。ウチが今どんな状態か、渉ちゃんは、全然わかってないのね。相続税だって、どこから工面したものか……」
 「お母さんは、いきなり断って、電話を切っちゃたけど、分骨した骨があることを話せば、身代金、負けてくれるかもしれませんよ」
 「そうねえ、五十万くらいに負けてくれたら、払っても良いけど」
 「新聞紙で良いんじゃないですか?」鈴木は言う。「誘拐事件と違って、人質が殺される気遣いはありませんから、金を受取りに来た人物は、必ず押えます。そうすれば、お骨も取り戻せます」
 「わかりました。犯人から電話があったら、まず、事情を話して値切ります。どうせ、電話は長引かせた方が良いんでしょう」
 「逆探知はします。ですけど、それほど時間は必要ありません。あまり不自然な応対は、しないほうが良いと思います。我々がいることも、気取られないようにお願いします」
 「じゃ、まずは値切ります。分骨した事実は明かしても良いんですね」
 「それは、前回の電話では、お話になっていない?」
 「ええ。三百万と言われて、冗談じゃないと言って、切ってしまいました」
 「それじゃあ、犯人から次に電話があった時は、分骨があるから、骨がなくても困らないと教えてやった上で、少額なら支払うと言ってください」

 作業服姿の刑事たちは、録音の準備を終って、電話を待っている。
 映子は台所でお茶の準備をしている。
 刑事たちは、ただ電話を待つだけでも、し方あるまいと、映子に持ってきてもらった古新聞を切って、札束を作っている。
 一時間待っても、電話は掛ってこない。
 映子は、夕食代わりの握り飯を、大きな皿に盛って刑事たちの前に運んだ。
 近藤は、新聞紙の札の数を数えながら握り飯を頬張る。
 「三百万円ありますね。これ以上必要になることは、ないんじゃないでしょうかね」
 黙々と新聞紙を切っていた刑事たちも、近藤の意見を妥当なものと考え、握り飯を片手に、作業場の整理をはじめる。
 その時、電話が鳴る。
 刑事は録音機をスタートさせる。
 他の人達は、一瞬動きを止める。
 映子は、鈴木が促すのを見て、受話器を取り上げる。
 「佐藤さんかね」低い、落ち着いた、男の声が聞こえる。
 「はい、佐藤でございます」
 「先ほど電話した者だが、ブツは盛り場にばら撒くことにした。酔っ払いが小便をしそうなところにな」
 「ちょっと待ってください。それは、あんまりじゃあございませんか?」
 「俺たちも、遊びじゃないんでね。頂くものが頂けないんじゃあ仕方ない」
 「三百万なんて大金、とても無理です。何をお考えか存じませんけど、この不景気にそんなお金を出したら、工場が潰れてしまいます。第一、お骨は分骨してありますから、返して頂かなくても、それほど困らないんですよ」
 電話の向うの声が、一瞬止まる。
 少しの間を置いて、男が言う。
 「百万円、これが最後だ。明朝八時、新宿駅JRの中央地下道に持って来い。指示は携帯電話に入れる」
 「ちょっと待ってください。百万円なんて現金、銀行が開かなければ下ろせません。五十万円なら手元にあります。五十万円で返していただければ、騒ぎも大きくなりません。警察にも届けず、丸く収まるように致しますから」
 「警察? 警察と言えば俺たちが怖がると思っているのか。百万円、これ以上は、びた一文負からない。親戚中駆けずり回って集めてこい。一万円札で百枚、それを茶封筒に入れ、明朝八時、新宿駅JRの中央地下道で待て。あとの指示は携帯に入れる。携帯の番号は?」
 映子は、自分の携帯電話の番号を伝え、「それで、骨はいつ返して頂けるのですか」と言いかけるが、その声に重なるように、男が言う。
 「それでは、明日朝、八時に連絡を入れる。指示に従わない場合は、明日の晩、東京中の盛り場の、小便臭い裏通りで、爺さんの骨を拾い集めるんだな」
 「もしもし」
 映子は受話器に叫ぶが、電話は切れている。
 映子は、そっと受話器を下ろす。額に汗が浮かんでいる。
 「逆探知、できました。新宿駅の公衆電話、JR中央線ホームです。既に警察官が向かっていますが、時間的に、難しいんじゃないでしょうか」作業服姿の刑事が言う。
 「どうされますか?」鈴木は映子に尋ねる。「私は、犯人の指示に従うのが良いと思います。付近に私服を張り込ませ、犯人とコンタクトしたところで、検挙します。金は、新聞紙で良いでしょう。封筒に入れておけばわかりませんから」
 「わかりました。おっしゃる通りに致しますわ」映子は青い顔をして言う。「それにしても、罰当たりな人達ですねえ。骨を返してくれる気は、本当にあるんでしょうか?」
 「遺骨など持っていたってしょうがありませんから、返してくれるんじゃないでしょうかねえ」近藤は自信なさげに言う。
 「万一、犯人を取り逃がした場合、明晩は、盛り場の路地に張り込ませます」鈴木は力強く言う。「骨をばら撒くような真似をさせるようなことは致しません」
 「だけど、こんな小さな事件に、それほど人数が掛けられるんでしょうか」佐藤は心配そうにきく。
 「確かに、問題があるといえばありますね。データベース不正アクセス捜査の特別チームの仕事として扱おうと考えているんですが、情報の漏洩先がオーハローンで、佐藤さんの親父さんは、オーハローンの詐欺事件の重要な手掛りを捕まえた方ですから、関連があることはあるんです。しかし、単純な、金目当ての犯行である可能性もありますからねえ」
 「いいや、大葉組、ぷんぷん臭いますよ」近藤は言う。「単なる嫌がらせでやったのかもしれませんが、連中には、動機も機会も揃っている。ここは大葉ビルの目と鼻の先で、ビルからは現場が丸見えですし、侵入経路も、大葉組傘下の給食センターだ。おまけに、親父さんは保冷車のナンバーをメモっていたんですからね」

 翌二十八日、朝七時に映子は新聞紙の札束百万円を納めた封筒をセカンドバッグに入れると、自宅を出て、新宿駅に向かう。
 犯人の要求に、一人で来いという言葉は含まれていない。そこで、佐藤は映子に同行することにした。

 近藤が朝食をとっていると、佐藤からの連絡が入る。
 「犯人、検挙しました」
 「ほお。そりゃ良かったねえ。それで、これからどうするの?」
 「調書を作るということで、母と、警察署に同行します。骨壷の在処も、まだわかっていませんし、これ取り戻さないことには、引き上げるわけにもいきません」
 あとで詳しい話を聞かせてくれと言って電話を切った近藤は、妻の信子にも、このニュースを伝え、身支度を整えると、階下のコンドー事務所に出社する。事務所に既に顔を出していたエミちゃんにもこのニュースを伝え、灰皿と新聞紙を掴むと、応接室に消える。

 十時半、佐藤からの第二報が入る。
 「コンタクト、失敗だったようです」
 「なんだって? どうしてそんな話になったんだ?」
 「八時ちょうどに犯人からの連絡がありまして、これに従って、現金入りの封筒を突き出すように入れたハンドバッグを持って、お袋が中央地下道を行ったり来たりしていたんですけど、それをスリ取った男がいましてね」佐藤は言う。
 「そいつが犯人じゃないのか? 取り逃がしたのか?」
 「張り込んでいた私服警察官が、スリの現行犯で逮捕しました」佐藤は言う。「いま、取り調べている最中なんですけど、本物のスリのようです。骨壷のことは、全く知らないし、脅迫電話も掛けていないと言ってるそうです。この男、スリの常習犯だそうですから、恐らく、言っていることは本当だと思います」
 「スられたのは、何時ぐらいのことだ」近藤がきく。
 「数分経ったところですから、八時六分か七分頃です」
 「するってえと、犯人が映子さんの様子を窺っている間に、本物のスリが出てきてしまった、ということか?」
 「その可能性が高いようです。そうだとしたら、警察が張り込んでいるのを、犯人も、当然気付いたでしょうね。スリ逮捕の瞬間は、大騒ぎでしたから」
 「まずいなあ。それで今どこ? 今後の予定は?」
 「西新宿の新宿警察署です。骨壷を盗んだ犯人は取り逃がしたんですけど、スリの現行犯逮捕は、きちんと処理しなければいけませんので、被害届とか、いろいろと書いているところです。こちらはがっくり来ているんですけど、所轄の連中は喜んでいますよ。スリの逮捕も手柄になりますからね。多分昼過ぎには、解放してもらえると思いますんで、一旦自宅に戻るつもりですけど、何かありましたら、事務所に伺いましょうか?」
 「刑事たちは何か言っているかな?」
 「改めて犯人からの連絡があるかも知れないから、録音と逆探知の準備は、もう、一日二日、続けると言っています。ですから、少なくとも、お袋は家にいなくちゃいけません」
 「鈴木刑事も、君んちに行くのかな?」
 「多分、どこかで顔を出すと思いますけどね」
 「君の話も、もちろんだけど、鈴木さんの見解も聞きたいから、刑事連中が来る頃を見計らって、君んちに行くよ。適当な時に電話を下さい」近藤はそう言って電話を切る。
 「結局どうなったんでしょうか?」エミちゃんが心配そうにきく。
 「映子さん、佐藤君のお母さんなんだが、これが、犯人の要求通り、ハンドバッグから現金を入れた封筒を突き出させて、新宿駅の中央地下道を行ったり来たりしてたところ、その封筒をスり取った奴がいたんだそうだ。すわ、犯人とばかりに警察がそいつを逮捕したんだが、正真正銘、本物のスリだったそうだ」
 「それじゃあ、犯人は、逃げてしまったんですか?」
 「犯人がどこにいたかはわからない。多分、そのあたりに、いたはずだが、ラッシュの新宿だから、ものすごい人だ。ちょっと見付けることは難しいだろうね。だいたい、あの地下道には、相当な数の私服警官が張り込んでいたから、逮捕の瞬間は、かなりの騒ぎになったはずで、そんなところに犯人がモタモタしているわけはないよ」
 「それで、どうなるんでしょうか?」
 「犯人から、改めてコンタクトがあるんじゃないかと、映子さんは、自宅で待ち構えるようだ」
 「電話、掛ってきますかねえ」エミちゃんは眉を寄せて言う。「百万くらいの金のために、そう、何度も脅迫電話を掛けるでしょうか?」
 「そうだねえ。今朝の騒ぎで、警察の力の入れ具合もわかったわけだから、俺だったら、尻尾を巻いて逃げ出すがねえ」
 「その場合、骨はどうなるんでしょうか?」
 「犯人からの電話では、要求に従わない場合は、盛り場に捨てると言っていたそうだ。警察は盛り場のパトロールを強化するはずだから、もし犯人が脅迫電話通り、盛り場の裏路地に骨を捨てようとすれば、ひょっとすると、犯人逮捕に繋がる可能性もあるね。俺だったら、そんな危ない真似は、決してしないけどね。そんな嫌がらせをしたところで、一文の得にもならないじゃないか。骨壷なんて、かさばるし、持っていてもどうしようもないから、どこかに置き去りにするんじゃないだろうかねえ。普通のものじゃないから、佐藤君の手元に戻る可能性が高いと思うね」
 「そうなれば良いですねえ」エミちゃんは遠くを見るような目つきで言う。「それで、骨壷盗難事件の記録はどうしましょうか。これ、詐欺事件と無関係なら、近藤調査事務所の仕事にはならないと思うんですけど」
 「そうだねえ、関係があるのかないのか」近藤も思案顔で言う。「まあ、俺も動いているし、関係があるかも知れないから、一応、記録は取っておいて下さい。無駄になるかも知れないけど、佐藤の親父さんの手帳が、保冷車を捕まえる手掛りになっているし、俺の勘じゃあ、この事件、どうも、大葉組が絡んでいるような感じがするんだよね」
 「何千億円もの詐欺事件を起している人が、骨壷なんか盗むんでしょうかねえ。たかが三百万円のお金を脅し取ろうとするなんて、なんか変ですよねえ」エミちゃんは、近藤の勘には懐疑的だ。
 「そういえば、昨日流したデマ、反応ありましたよ」柳原は嬉しそうに言う。「証券の販売元、雲隠れだって。警察に届け出るみたい。オーハローンも、いよいよ足元に火がついてきますよ。骨壷なんか、盗んでいる場合ではないですね」
 「そいつは昨日今日の話だろう。大葉組はネットなんか見ちゃいないだろうから、まだ、騒動には気付いちゃいないはずだ。骨壷盗まれたのは、昨日の昼間だからな。いったいいかなる理由で骨壷なんか盗んだんか、俺にもさっぱりわからないが、その動機が連中にとってリスクより重要であったんじゃないかね。そもそも、侵入ルートは、大葉組傘下の給食センターだし、現場は大葉ビルの上層階から丸見えだ。あのあたり、人通りはほとんどないんだけど、盗まれたのは真昼間で、給食センターのパートタイマーの人が、賊の一味が侵入するところを目撃している。屋根の修理があったり、仕事が忙しかったりで、その人物が何をしたのかの確認はしていないんだよね。しかし、よほど、大葉組と給食センターの内情に詳しくなければ、こんな窃盗、危なくてやっていられない」
 「それで、動機は何なんでしょうねえ」エミちゃんは釈然としない。「お金を脅し取るのが目的のはずはないですよねえ。嫌がらせとか、そういう目的なんでしょうかねえ」
 「一見、金目当ての犯行のように見えるが、どうだろうねえ」近藤は、考えながら言う。「行きずりの奴が、骨壷を見掛けて、一丁これを盗んで金を取ってやれと考えたんなら、三百万は、まあまあの金額だね。しかし、大葉組がやったとしたら、たかが三百万のために、こんな危ない橋を渡るとも思えない。親父さんが毒殺されていて、証拠を消すために盗んだという可能性はなくはないが、これについては、今、分骨した骨を分析しているから、じきに結果が出るだろうね。その他の可能性としては、嫌がらせしかないんだが、嫌がらせにしても、おかしいよね。だれが、なんで、嫌がらせをしなければならないのかがわからない。大葉組には、保冷車を見られたから、何らかのアクションを取る理由があるが、骨壷を盗んで嫌がらせをしたところで、なんの意味もないと思うんだよねえ。第一、もし嫌がらせなら、なんで金なんか要求したんだろうか。そんなことをしたら、佐藤家の人達は、金目当てに盗まれたと思うわけで、嫌がらせの目的は果せないはずだ」
 「嫌がらせのために骨壷を盗むように頼まれたんだけど、金が欲しくなった実行犯が、独断で身代金を要求している、というパターンでしょうか?」エミちゃん、書名は思い出せないが、そんな推理小説を、いつかどこかで読んだような気がする。「それとも、今日の朝、佐藤さんの自宅を空にしたかったとか」
 「あそこ、工員さんがいるんだ。それに、自宅を空にしてなにかをするんだったら、骨壷を盗んだときにやれば良かったはずだよね」
 「そうですよねえ。よく考えると、この、骨壷窃盗事件は、全く不思議な事件ですねえ」
 「そういえば、盗みに入ったのは、工員風の男だといったな」近藤は呟く。「佐藤工業所の工員が、裏に回って盗みに入ったという可能性はないだろうか」
 「そんなことしますか?」
 「あそこ、再開発になるということで、工場をたたもうかなんて相談をしているんだ。それを根に持った工員が、骨壷を盗むという可能性もないではない」
 「そんなことになると、佐藤さんには、ダブルショックですね」
 「まあ、不愉快な話ではあるが、あらゆる可能性をあたっておく必要はあるね」

 夕刻、刑事たちがまもなく訪れるとの佐藤からの連絡を受け、近藤は佐藤の家を訪問する。
 佐藤家の居間には、疲労感が漂っている。佐藤の母、映子と佐藤は、録音担当の二人の刑事と共に、脅迫電話が掛るのを待ち構えている。
 鈴木と高橋の両刑事は、近藤よりも一足先に到着し、録音係の刑事と何やら、話し合っている。
 近藤の顔を見ると、鈴木は言う。
 「犯人からの電話、掛ってきませんね。金は、諦めたのかもしれません」
 「そうですねえ、たかが百万のために、そうそう危ない橋を渡るとも思えませんからねえ」
 「そうなんですよ」鈴木も言う。「この捜査体制も、少々、過大だったかもしれません。詐欺事件との関連、大葉組との関連を疑って万全の構えをしたんですが、金銭の要求があったということになりますと、単なる金目当ての犯行である可能性が高いと思われます。佐藤さんのご心痛はお察し致しますけど、子どもが誘拐されたわけでもございませんので、そろそろ、本件の捜査体制を縮小したいと思います」
 「仕方がないですねえ」佐藤も言う。
 「えー、犯人が言っておりました、骨が盛り場に散布されるという可能性に備え、東京周辺の各盛り場周辺のパトロールを強化するよう、各署に手配致しました」
 「ところで、詐欺事件のほう、なにか進展ありましたか?」近藤、
 「あ、今日の午後、届け出でが三件、あったそうです。我々も、先ほど、届け出でがあったという報告を受けただけでして、現在、所轄所で事情を聴取している段階です。明日にも、広域詐欺事件として正式に本部を設けて捜査を開始することになるでしょう」
 「柳原のデマが効きましたかな」
 「その話、我々とは無関係、ということにしておいて頂けませんかね。いずれ被害者は、ネットで見て、心配になったというんでしょうがね」
 近藤、柳原に確認するように目配せする。柳原は満足そうに頷く。

 


第七章   発覚?

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 九月二十九日午前八時、近藤ビル三階のダイニングキッチンに、近藤と妻の信子、三階の住人である近藤の母ハル、そして居候の柳原が顔をそろえる。と、いっても、特別な理由があってのことではなく、毎日のことだ。変わったことといえば、昨日から柳原がメンバーに加わっていることくらいだ。
 「佐藤さんのお骨、振り出しに戻ったのかね」ハルが尋ねる。「あの人も大変だねえ」
 「まあ、警察の不手際ということになるんだろうね。新宿警察署はスリを捕まえて喜んでいるようだが、たまったもんじゃないね」
 「骨を盛り場に播くとか言ってたの、どうなりました?」
 「一応、パトロールを強化したそうだが、空振り。出任せだったようだ」
 「人んちの骨なんか持ってても、どうしようもないから、いずれ出て来るんじゃないかしらねえ」
 「多分な。それに、佐藤君のところでは、分骨した骨があったそうで、納骨は、問題なくできるみたいだ」
 「それは良うございました」ハルはお茶をすすりながら言う。「昔は、小さな骨壷を使うこともあったんですよ。それで、入り切らないお骨は捨てていたんです。最近は、大きな骨壷しか見掛けないけどねえ」
 「捨ててたってどこに? 変なところに捨てたら問題になるだろう」
 「焼き場の方で、穴掘って埋めていたんでしょう。昔は、そういうことも、うるさくはなかったですからねえ」
 「つまり、お墓に入れる骨は少しでも良いってことですか」柳原は、意外そうに言う。「骨は全部お墓に入れるのかと思ってたけど」
 「ホンの少し入れれば、それで充分なんですよ。形ですからね」
 「あ、そうそう、例の夜逃げだけど、行き先、掴めそうだ。柳原さんが見付けてくれた。今日はどうせなにもないし、ちょっと出掛けてくるよ」
 「家賃、取り返せますかねえ」
 「うーん、俺の予感では、取れそうだ。かなり計画的に逃げているからね。こういう連中は、キャッシュをしっかりと握って逃げるもんだ。他の債権者も行き先をつかんでいないようだから、先手必勝、ウチの滞納分は、きっちり取れると思うよ」
 「それは良うございました。当てにしていないお金が入ってくるのは嬉しいねえ。うまくいったら、温泉にでも行こうかねえ」
 「そんな暇はないと思うが、ま、女性陣で行ってきたら良い」
 「一緒に行ったら? 夜逃げした人、上諏訪温泉にいるんですよ」柳原、突飛なことを言い出す。
 「そいつ、まだそこにいるんか?」近藤は、すぐに夜逃げ男が捕まえられるとは思っていない。
 「それがいるみたいなんですね」柳原は面白そうに言う。「また、パソコン教室をやってます。ちっちゃなLANなんかこさえちゃって。やっていることは、近藤ビルでやっていたときと同じです。アドミニのパスワードまで同じだから、同一人物に間違いはないわ」
 「そいつは面白い。今日もそこにいそうかね」
 「今日も教室ありますから、多分、いるんじゃないですか?」
 「やったね。それじゃあ、大挙して押し掛けるかね」
 「あ、それ良い、今日はお店も定休日だし」信子が言う。「だけど、私は取りたてに付き合う必要ないでしょう。お義母様と適当に遊んでるから。今晩、温泉で合流しましょう」
 「私は、夜逃げ男に会いに行きますからね」近藤の母、ハルはきつい声で言う。「踏み倒したの、私のお金ですからね」
 「九時には出ようかね。諏訪インターだろ、道が空いていれば二時間少々で着くんじゃないかね。うまくすれば、昼前にカタが付く。それから遊んだら良いんじゃないかね」
 「善は急げと言いますからね。さっさと出かけて、とっちめてやりましょう。さて、そうなると、こうしちゃいられない。どっこらしょ」
 ハルは、掛け声と共に立ちあがり、荷造りをするために自室に戻る。
 信子は食器を皿洗い機に入れ、ダイヤルを回す。
 柳原は、パソコンを立ち上げ、夜逃げ男、山岸の経営するパソコン教室「上諏訪IT塾」の案内地図をプリントする。
 近藤は、佐藤とエミちゃんに電話を掛け、今日は事務所を休む旨、連絡する。

 中央高速を諏訪インターで降りると、上諏訪温泉は目と鼻の先だ。
 近藤は、交通量の少ない湖畔の道にゆっくりと車を進める。
 「この少し先、右に入ったところです」柳原は助手席で、プリントアウトした「IT塾」の案内地図を眺めながら言う。
 近藤は、柳原に示されるままに、湖畔の国道を右折して細い道に入る。
 「あった、あれだね」
 近藤が指し示す先に、「上諏訪IT塾」と書かれたプラスチックの板を掲げた二階建てプレハブが目に入る。建物の一階は、人影もない、建材倉庫のようだが、二階の窓には、天井の蛍光灯が明々とみえている。
 近藤は車をゆっくりと進めながら建物を観察する。建物の脇には、鉄の階段が設けられているが、それが唯一の二階への通路であるようだ。
 「出入り口はここだけか」近藤はそう呟くと、階段の前に車を停めて、信子に言う。「多分大丈夫だと思うけど、君は、下で見張っていて」
 近藤を先頭に、信子を除く三人は階段を上る。二階は、階段の先に鉄製の外廊下が続き、その右側に、こちらと向うの二ヵ所に、アルミサッシの引き戸が付いている。
 柳原は、近藤の指示に従い、廊下の突き当たりで待機する。その向こう側には、階段こそないが、鉄の柱に梯子段が付いている。夜逃げ男がそこから逃げ出そうとした際に妨害する、というのが柳原の役割だ。
 近藤はおもむろに二階の引き戸を開ける。手前にカウンターがあり、その後ろに、事務員らしい小柄の女性がいる。奥には長細い机にノートパソコンが何台か並べられ、数人の中年の男女が課題に取り組んでいる。
 「山岸さんにお会いしたいのですが」近藤は、事務員に声を掛ける。
 「申し訳ありません」事務員は、言葉通り、申し訳なさそうに応える。「山岸はただいま講義中で、手が離せません」
 「急を要します」近藤は低い声で言う。「こちらから、講義室に踏み込んでもよろしいかと考えております」
 「ちょっとお待ち下さい」事務員は急に不安顔で近藤に応えると、小走りに奥の教室に向かう。
 ノートパソコンを操作していた人達の何人かが、近藤たちに、遠慮勝ちに視線を向ける。
 母ハルを室内に残し、近藤は廊下で待機する。
 奥の講義室の引き戸が開いて、事務員と、山岸が現れる。
 山岸は、不安そうに廊下の左右に視線を走らせ、事務員の案内で近藤の方に歩み寄る。
 「緊急の要件って、なんですか?」男はぶすっと言う。「ずいぶんと無礼な方達ですね」
 「私、こういうものでして、依頼を受けまして、山岸さんを追ってきたんですよ」近藤は名刺を差し出して言う。「こちらさんのご依頼でね」
 近藤が示す先には、開け放たれた引き戸の先に、ハルが憮然と立っている。
 不安げな視線を走らせてその姿を捕らえた山岸は、一瞬声を詰まらせるが、すぐに落ち着き払って言う。
 「どうも、遠路はるばるご苦労様ですなあ。ここじゃあなんですから、あちらでお話を致しましょう」
 前後を信子と柳原が固める中、山岸は事務員に小声で二言三言いうと、近藤たちを、斜め向かいの喫茶店に連れ込む。
 その喫茶店は、小さく、古臭く、小汚い店で、他に客は誰もいない。
 近藤たちが入ってくるのをみて、カウンター席で煙草を吸いながらスポーツ新聞を読んでいたマスターが、カウンターの裏側に移動する。
 近藤は、奥の四人掛けのボックス席に山岸を導き、奥に山岸を座らせて、その前に、近藤とハルが座る。
 信子と柳原は、ボックス席一つを隔てて、入口に近い三人掛けのボックスに席を取る。
 マスターが水を運び、注文を取る。
 「コーヒーで、良うございますか?」山岸は低姿勢でそう言うと、柳原たちを指して尋ねる。「あちらさんもご一緒なのですね」
 「今回の調査は金が掛っておりますよ」近藤は山岸を脅すように言う。
 「私は紅茶にしてもらおうかね」ハルは言う。「レモンティー」
 「すいませーん」メニューを見ていた柳原が大きな声で言う。「私、クリームソーダ、良いですか?」
 「他はコーヒーで?」山岸は、諦めたように言う。「それじゃ、コーヒー三つと、レモンティーとクリームソーダね」
 カウンターの向うに引き上げるマスターを目で追った山岸は、小さな声で近藤たちに言う。
 「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ありません。溜まっておりますお家賃は、きちんと払わせて頂きますので、なにとぞ、穏便にお扱いくださいますよう、一つよろしくお願いいたします」
 「契約書、ご存知ですよね」ハルはバッグから封筒を取り出し、そこから契約書を引き出す。「延滞利息と、取り立ての実費もご負担戴くことになっております」
 「はい、もちろん、その分もお支払い致します」山岸はずいぶんと素直だ。「その代り、私がここに居りますこと、他の方々にはくれぐれも御内密にお願い致します」
 「この取り立て、かなり掛っておりますが宜しいでしょうかね」ハルは冷たく言う。
 「はあ、そうでしょうなあ」山岸は、近藤と、入り口近くに陣取る信子と柳原に視線を走らせると、唇を歪めて、皮肉っぽく言う。「だいぶ時間もお掛けになったご様子で……。ま、覚悟はしております。いかほどでしょうか」
 「家賃三百万円、消費税十五万円、利息十八万五千円、取り立て費用百五十万円です」ハルは事務的に言う。
 「良うございます」山岸は素早く計算して言う。「そう致しましたら、きりの良いところで五百万、でどうでしょうか?」
 「私は一向に構いませんが、余分にお支払いになる道理はないんじゃございませんか?」ハルは顔を引いて言う。
 「まあ、これまでご迷惑をおかけしたお詫びと、まあ、なんといいますか、口止めのお礼というわけで」
 「わかりました、それではそういうことで」ハルは、表情を緩めて山岸に応えると、近藤に向かって言う。「そちらもそれで宜しいでしょうね」
 「ええ、もちろん。それにしても、山岸さんのご商売、こちらでは順調なんでしょうか」
 「ええ、田舎でパソコンなんぞと思ったんですがね。勧められて始めてみると、これが大当たりでしてね。田舎は楽しみが少ないのか、田舎の方が、インターネットの使い出があるんでしょうかね。さて、銀行までご同道願えますか」

 近藤は、車で銀行まで行くことにする。山岸を助手席に座らせたため、女性三人は後部座席だ。
 銀行で待つこと暫し、山岸は一万円札の束を五つ、ハルに渡し、領収書を受け取る。金を受取ったハルは、山岸に対する態度が急変する。近藤も、サービス精神を発揮し、山岸をパソコン教室まで送り届けることにする。

 山岸を下ろした近藤は、再び銀行に向かい、現金を近藤商店の口座に振り込む。
 その後、銀行の窓口女性お奨めの蕎麦屋で遅い昼食を取り、神社と湖畔の観光を終えて、旅館にチェックインする。
 「ふーむ、『神経痛筋肉痛関節痛胃腸病切り傷肩こり冷え性腰痛美肌打ち身火傷運動器障害皮膚病アトピーリューマチ婦人病』ね、エライいっぱい効き目があるなあ。しかし、だいたいのところ、この温泉は。女性用だな」
 「胃腸病、ってのもありますよ。あなた、胃の調子が良くないとか言ってたでしょう。晩御飯の前に、しばらく浸かっていたら?」

 近藤が浴場から戻ると、仲居さんが夕食の支度を始めている。
 (女性軍は当分風呂場から帰らんだろう)
 そう睨んだ近藤は、ビールを一本、栓を抜いて、窓際に運び、ソファーに腰を下ろす。窓の外には諏訪湖が広がり、夕闇の中にも、風に細波の立つのが見える。近藤は、自分でビールをグラスに注ぎ、一人で飲み始める。
 「いやあ、風呂上がりのビールは旨いねえ」
 近藤がそう言うと、仲居さんは微笑んで言う。
 「宜しいんですか? お一人で始めちゃって。枝豆でも、お持ちしましょうか?」
 「つまみまで貰うと、文句が出そうだね。あー、ビールと冷酒を少し追加してもらえんかな」
 「はいはい、かしこまりました」仲居はそう言って、笑いながら引き上げて行く。
 少しすると、女性陣三名が部屋に帰ってくる。
 「うわー、凄い」柳原が驚嘆の声をあげたのは、無論、テーブルに山と並べられた料理に対してである。
 「特別料理だからな」近藤はそう言いながら席に付く。「お酒、冷を頼んどいた」
 ハルは、座布団の横に正座し、近藤に深々と頭を下げる。
 「本日は、お疲れ様でした。お蔭様で、家賃、丸々取り戻しました。余分に頂いたことでもありますし、お礼も兼ねて、この温泉は私からのご招待ということにいたします」
 「いいんですかー?」柄にもなく、柳原が言う。
 「良いんですよ。この夜逃げ男の行き先、突き止められたのは、柳原さんのお働きだと、ちゃんと伺ってますよ」
 「あはは、それほどの働きでも……」柳原は照れくさそうに言う。
 「まあ、とにかく、飲んだ飲んだ」近藤はみんなのグラスにビールを注ぎながら言う。「風呂上がりの一杯は旨いからねえ」
 「今日のビールは、特別に美味しいでしょう」
 「全くだ。あの山岸って奴、えらく景気が良いねえ。三百万だけ頂いて、お袋と山分けかと思っていたんだが、五百万ときたね」
 「普通の夜逃げなら、三百万の半分でも、回収できれば御の字ですよ」
 「あの人、夜逃げした時、かなりの現金を持っていたんですよ」柳原が解説する。「ここのパソコン教室でも、結構儲けているんじゃないですか。山岸さんのパソコンにあったメイル、ちょっと読んでみたんですけど、この人、株でも儲けているみたい。だから、他の借金取りにばれないならば、こんなの、安いものかもしれないわ」
 「他の債権者の方には、どうするんですか?」ハルは近藤に尋ねる。「あの人が夜逃げしたあと、何人か、ウチにも問い合わせに来ましたけど。行き先わかったら連絡してくれ、なんて言い残していった人もいますよ」
 「教えてやることはない。ウチが正式に依頼されたら、話は別だがな。ただで債権者どもに教える理由など、どこにもない。それから、あいつを見つけたなんて宣伝はしない。口止めの仁義はそれまでだ」
 「まあ、でもこれで、調査事務所の経営も、当分大丈夫ですね。家賃も払えるし」
 「家賃、危なかったのかい? まあ、貯金もあるから、待って待てないことはないけど、税金払わなくちゃいけないからね。二階の家賃も、計算に入っているんだから、気を付けておくれよ」
 「わかってるって。これがなくても、来月には入金があるから大丈夫だったんだ」
 「オーハローンの仕事はお金にならないんですか?」
 「今んとこ、金になりそうな気配はないねえ。これ、誰からも依頼がないからねえ。まあ、正式に依頼されても困るんだが、前々からの因縁もあるし、柳原さんが狙われていることもあるし、佐藤君の骨壷にしたってあいつ等が盗んだ疑いが濃厚だ。ウチとしたら、金になろうとなかろうと、このヤマ、解決しなくちゃならんのだよ。詐欺の被害者からでも、調査依頼がこないかねえ」
 「あ、そういえば、詐欺事件、ネットのニュースに、警察の発表が出ていましたよ。テレビでもやるんじゃないですか?」
 「お、そろそろニュースが始まるね。被害が巨額だから、トップニュースかも」
 信子が点けたテレビでは、天気予報に続いてニュースが始まるが、近藤の予想に反して、なかなか詐欺事件のニュースにならない。
 やがて、ニュースの時間の終わり頃になって、「架空投資話で詐欺」とのテロップが入り、アナウンサーが詐欺事件の概要を伝える。
 「アパートに投資するとの名目で多額の金を集めていた投資会社と連絡がつかないが詐欺ではないか、という届け出でが相次ぎ、警視庁が調べたところ、投資を募っていたとされる且都圏不動産共同投資なる会社は存在せず、アパートが実際に建設された形跡もないことがわかりました。警視庁では、悪質な詐欺事件とみて、捜査を始めました。同社が販売していた不動産共同投資証券は、一口一千万円で、これまでに判明しているだけでも十五口、総額一億五千万円分の証券が販売されたとのことです。捜査本部では、これ以外にも被害者がいるものとみており、お心当りの方は近くの警察署もしくは交番にご連絡下さるよう、呼びかけております。ただいま画面に出ておりますのが、同社のパンフレットです。このパンフレットに書かれたアパート投資は、詐欺の疑いが濃厚ですので、証券を買われた方は、お近くの警察署にご相談下さい、とのことです」
 ニュースの時間は終わってしまう。
 「なんだ、これだけ?」柳原は不満そうだ。「被害は何千憶もあったはずですよね」
 「犯罪と認識されているのは、被害届のあった分だけだからね。保冷車の話や、給食センターの情報は、捜査本部じゃあ当然押えているはずだが、あれだけじゃ事件にはならない。警察としては、この情報、当分、マスコミには隠しておくんだろう」
 「これから大騒ぎになりますねえ。明日の新聞にも出るだろうし」
 「そうだなあ。この話が知れ渡れば、被害者が続々届け出るはずだからね。数千億の詐欺となりゃ、これは大事件だ。被害届が集まれば、現金の流れと付き合わせることができるね。証券の電話セールスをやった連中は、警察が割り出しているから、事情聴取もできるだろうし、オーハローンの家宅捜索も、もう一度、やることになるんだろうね」
 「プロバイダの記録も調査できますね」柳原は言う。「そうすれば、この犯罪、全てが明らかになりますよ」

 近藤たちが桜が原の事務所に戻ったのは翌朝九月三十日の十時過ぎだ。事務所には、既に佐藤もエミちゃんも出社している。
 エミちゃんは、近藤を待ち構えていたように言う。
 「昨日、鈴木さんから電話がありましたよ。戻られたら電話を欲しいって」
 「例の、詐欺事件の話かな? それとも骨壷か」
 近藤は、自分のデスクに座ると、エミちゃんに渡されたメモにある番号に電話をかける。
 「いやあ、近藤さん、戻られましたか」鈴木は、すぐに電話口に出て言う。「温泉に行かれていたとか。優雅にやられていますねえ」
 「なに、借金の取り立てですよ。ウチも、金にならない仕事ばかり追っかけてたら、潰れてしまいます」
 「いやあ、近藤さんにはさんざんご迷惑をおかけしておりまして、まことに申し訳ないとは思っております。それで、ご迷惑ついでに、今日の夕刻、お伺いしても宜しいでしょうか」
 「そりゃ構いませんが、どっちのお話でしょうか。詐欺の件、それとも、骨壷の件ですか?」
 「両方です」鈴木は、遠慮がちに付け加える。「申し上げにくいことですが、予めお話いたしますと、佐藤さんの骨壷、進展、全くございません。お骨が盛り場に撒かれたというようなことは起こりませんでしたので、あるいは、我々のパトロールも功を奏したのではないかと考えておりますが、犯人が出任せを言っておったかもわかりませんので、あまり胸をはれるようなことでもありません」
 「いやいや、お気になさりますな」近藤は、鈴木が哀れに思えてくる。「我々も、どちらの事件にも興味深々ですから、お話を聞かせていただけるだけでも大歓迎ですよ」
 「申し訳ありませんなあ」そう言って、鈴木は電話を切る。
 佐藤は受話器から洩れる鈴木の話を聞いていたようだ。
 「骨壷、駄目ですか」
 「駄目だねえ。唯一の救いは、骨を盛り場に撒いたりされてないってことだね」近藤は、そう言ったあとで、言い難そうに付け加える。「これ、君の工場の関係者がやったってことはないんだろうか?」
 「ウチの従業員ですか? それはないと思いますよ」
 「どんな社会にだって、不平不満はある。特に、君のところは、最近、工場を閉鎖するというような話があったろう。社員の中にも、色々な考えがあったんじゃないか」
 「動機はともかくとして、骨壷を盗み出すのは、ウチの工員には難しいと思いますけど……」佐藤はしばし考えて言う。「あの日は、大きな装置の組立てがありまして、三人ともそれに掛っていましたから、誰かが抜け出して骨壷を盗み出すと言うのは、ちょっと無理だったでしょう。作業時間は午前十時から十二時少し過ぎまで、そのあとの昼飯も、全員一緒に取ったそうですから」
 「あるとすれば、三人全員の共謀か……」
 「そりゃ、あり得ませんよ。工員さん、みんな古くからやっている人だし、不満らしい不満も出ていません」
 「しかし、これまでやってきた仕事、できなくなる人もいるだろう」
 「みんな、もう歳だから、いつ辞めても良いなんて言ってます。結局は、お客さんに事業を丸々引き取ってもらうことにしたんですけど」
 「丸々って、従業員付きでか?」
 「ええ、従業員、機械、ノウハウその他ひっくるめてです。後に残るのは、経営者の我々一家と、がらんどうになった工場だけです」
 「そうか、そっちの目処、付いたの」
 「ええ、お蔭様で。そもそも、ウチの工員が盗み出すなら、日本間のガラスなんか破らないで、資材置き場を通って台所から盗みに入れば良いんですよ」
 「そうだよなあ。君のところの従業員がやるには、危険過ぎる犯罪だね。給食センターを進入路に使ったり、大葉ビルから丸見えのガラスを破ったりということはねえ。だいたい、大葉組以外の者には、この犯行、危険過ぎるんだ。しかし、大葉組がやったとしたら、金が目的であるはずはない。何しろ、巨額詐欺事件を実行中なんだからなあ」
 「あるとすれば、毒殺の証拠隠滅のために骨を盗んだという可能性ですね。だけど、今となっては、その可能性は限りなくゼロに近いですね。身代金要求がありましたから、金目当てじゃあないかと思いますよ」
 「しかしねえ、高々三百万の金のために、これほどの手間の掛る犯罪を企てるというのも、ちょっと解せない。どうも、俺には引っかかるものがあるんだが。それに、真昼間だぜ、骨壷盗まれたの。誰がやったにせよ、現場は、大葉ビルから丸見えであることに変りない。俺は、大葉組の関係者が絡んでいる可能性が高いと睨んでいるんだが、連中が、金目当てでこんなことをするはずはない」
 「でも、現に身代金要求がありましたからね」
 「そいつは、フェイクかもしれんのだよな」近藤は考えながら言う。「最初から金なんか取るつもりはなかったが、金目当ての犯行に見せ掛けるってケースだね。だから、毒殺の証拠隠滅のための骨壷窃盗という可能性もまだ捨て切れん」
 「一応、分骨した親父の骨、昨日、宅配便で届きました」佐藤は、鞄から封筒を出して言う。「分析用のサンプル、準備しましたので、鈴木さんが来られたらお渡ししましょう。しかし、親父は、脳溢血の発作を二度も起した挙句に、三度目の発作で亡くなっているんですよ。きちんと医師の診断も受けているし、毒を盛られた可能性は少ないんじゃないでしょうかね」
 「親父さん、亡くなったのは夜だったよね。病院って、結構、外から人が入れるじゃないか。深夜、誰かが見舞いを装って忍び込んで、一服盛ったって可能性もないではない」
 「服毒死と脳溢血の違いぐらい、診れば簡単にわかるんじゃないですかねえ。白骨死体で見付かったってんなら、死因を特定できないケースだってあるかも知れませんけど、一時間もしないうちに、医師の診断を受けているんですよ」
 「しかし、検死をしたわけじゃないだろう。もちろん、異常死と考える理由はまるでなかったから、検死をする理由は全くない。親父さんが脳溢血の発作を何度かしたことは確かだろう。しかし、それが死因だと、きちんと調べたかどうか、極めて疑わしいと俺は思うね。脳溢血で病院に担ぎ込まれて、その晩に亡くなったから、医師としても、あまり考えずに、死因を脳溢血と、死亡診断書に書いてしまったのかもしれない。毒にも色々あるからね。外見で、すぐに毒殺とわかる毒ばかりじゃあない」
 近藤の言葉に、佐藤は、しばし無言である。やがて、佐藤は硬い表情で口を開く。
 「確かにそうですねえ。親父と大葉組の間には、色々、対立もあったし、保冷車に目を付けていました。だから、大葉組が親父に一服盛るという可能性は確かにありますねえ。それで、砒素のような毒を使っていれば、骨に残りますから、証拠隠滅のために骨壷を盗み出す必要もありますね。で、身代金要求は、フェイクというわけですね」
 「そう。特に、親父さんが保冷車に目を付けていた、ということに大葉組が気付いた可能性が一番高いな。佐藤君が手帳を見付けたときも、大葉ビルから睨んでいた奴がいたと言ってただろう。親父さんが保冷車を疑って、その動きを一々見張っている、なんてことに気付いたら、連中、すぐさま親父さんを消したいと思うだろう。現に、親父さんがもし生きていれば、あの手帳の、数字の意味を説明してもらえたはずだな」
 「ひどい。あんまりですよ」エミちゃんは、身近な人に対してなされた凶行に、打ちひしがれている。
 「そうなると、この骨の分析、大きな意味を持ちますね」
 「そうだ。もし俺の推理が正しければ、君の親父さんは、大葉組の誰かに殺されたんだ。これが殺人であるという証拠はその骨だな。もしそれが事実なら、俺たちは、親父さんの仇をとらなくちゃいけない」

 事務所の中を、しばし、沈黙が支配する。
 佐藤は、今の今まで、親父が殺されたなどとは、考えてもみなかった。しかし、近藤の推理には、極めて説得力があるようにみえる。佐藤は、近藤の推理を反芻し、おかしいところがないかと検討するが、親父を殺した犯人に対する怒りが湧き起こり、冷静に考えることが難しい。
 「親父の病室、個室でした。坂本医院の病棟も、確かに、深夜の出入り、簡単ですね。それに、親父の手帳、行方不明なんですよ。ひょっとすると、親父を殺した奴に盗まれたのかも知れません。もっとも、この手帳、単に、どこかに紛れ込んでいるだけなのかもしれませんけど……」
 「手帳って? あったじゃないか」
 「いや、親父、普段持ち歩く手帳の他に、書斎にも別の手帳を置いていたんです。それで、毎晩、転記していたんです。なくなったのは、普段持ち歩いていたほうです」
 「バックアップ、ですね」柳原が口を挟む。「佐藤さんの親父さんって、用心深い人だったんですねえ」
 「まあ、なくした時の用心もあったかもしれませんけど、外で手帳に書いた字って、汚いじゃないですか。それで、読めなくなる前に、記憶が定かなうちに、転記するんだとか言ってましたよ。目も悪くなってましたからね」
 「まあ、なんにしても、たいした男だよ。佐藤君の親父さんはね。仮に大葉組に殺されたんだとしても、奴等の悪事の尻尾に気付いて記録に残し、それを二部もこさえていたわけだ。おまけに、分骨ときてるからね。まったく俺もこういう男と仕事をしたかったよ。いずれにしても、仇は、しっかり、とってやるからな」
 「そうですよ」エミちゃんも言う。「もう、お金の心配もないから、絶対に犯人を捕まえてください」
 「当然だ。この際、金は関係ない。俺の人生を狂わせた奴等でもあるからな。このヤマ、きっちりカタをつけてやる」
 「それに、詐欺もやっているんですよね、この人達。母も、怒っていましたよ、昨日のニュースを聞いて。あ、所長にはよくお礼を申し上げるようにと言われました。お蔭様で、母のお金は、ほとんど取り戻せました。どうもありがとうございます」
 「あ、そうだったね。君のところは、間一髪セーフだったわけだ」
 「それでも、二百五十万円の損害ですよ。まあ、大部分戻ってきたから、良かったと言ってますけど。気が付かなかったら、全部、取られちゃったんですよねえ」
 「それ、被害届、出しといた方が良いね。昨日、今日、気付いた人達は丸損で、それに比べりゃあ被害は小さいけど、それにしたって、二百五十万円は大金だ」
 近藤は、昨日の捕り物の大成功で気を良くしていたが、それでも、近藤調査事務所が得た利益は百五十万円に過ぎない。二百五十万の損害で済んで良かったなどと喜ばれると、高々三百万円の家賃を踏み倒した男を必死になって追跡した自分たちが情けなくなる。
 「そうそう、昨日の家賃取り立ての報告書、書いといてくれないかな。詳細は柳原さん、説明してあげて」
 「あれ、仕事だったんですか? ほとんど、遊んでるみたいでしたけど。探偵の仕事って、結構、面白いんですね」
 「いつもあんな風じゃないけどね。そうだなあ、柳原さんには、給料、払わなくてはいけないねえ」
 「いいですよお。御飯、食べさせてもらっているし」
 「いや、最近どこに行ってもコンピュータだ。君のその才能、探偵事務所にも必要だ」
 「それじゃあ、何かあったら呼んでください。バイトしますから。ただし、詐欺師は別。これは、私の問題ですから、共同作戦で行きましょう」
 「バイトねえ。それじゃあ、当分、そういうことでお願いしましょうかね。佐藤君も、実家の方が大変で、手が足りないんだ。期待しているよ」
 「あ、それ、大丈夫そうです」佐藤が話に割り込む。「工場の方、結局、取引先に引き取ってもらうことになりましたんで、僕は失業です。お袋の手伝いが、ちょっとありますけど……」
 「あら、大丈夫だったの。ま、どっちにしても、でかいヤマだ。手は多いほうが良い。例の、再開発と大葉組、久我山の線も追う必要があるからな。あっちは、なにか進展、あったかね」
 「そうですねえ、計画はまとまって、地割りの図面が出てきました。ウチは、マンション二部屋と、ショップ一つの権利が貰えそうです。実際に形が出て来ると、色々、意見を言う人がいて、詳細は、これからつめることになってますけど」
 「大葉組の動きは? 久我山はまだ絡んでいるのかね?」
 「久我山さんの話は、全然、出ませんねえ。あの人が動いたのは、国のお金を引き出すとこまでだったようですね。大葉ビルは、引越しを始めています。一階の倉庫がどこかに出て行きましたし、オーハローンも、何やら運び出していますよ。給食センターも引っ越したし、オーハローンが借金のカタに取った鉄工所は、取り壊しが始まっています」
 「オーハローンの引越しはまずいなあ。詐欺の証拠も消えてしまいそうだ」
 「そんなことを言っても、あのビルも取り壊すことになっていますから、仕方ないでしょう」
 「そうだねえ。て、いうことは、君の所も取り壊しか? なにかと大変だろう」
 「当然そうですよ。取り壊しは、建設会社がやってくれるんですが、その前にどこかに引越ししなくちゃいけません。まあ、アパートを借りれば良いんですが、問題は薔薇ですね。なにせ生き物ですから、どこかに花壇を借りて、植え替えておかなくちゃいけません。近藤さんの奥さんが、何かご存知じゃないだろうかって、お袋、期待してましたよ」
 「いやあ、知らんだろう。本部の持ってきた花、並べているだけだからね。少しだったらこのビルの裏っかたに植えといても良いんだけど、あの数だからねえ」
 「それ、ウチで預かりましょうか? 空いたスペースありますから」エミちゃんが口を挟む。
 「本当? そうしてもらえると助かるなあ。だけど、四〜五十はあるよ。かなりのスペース食うと思うけど」
 「大丈夫です。お通夜の準備してたとき、お母様に見せて頂きましたから。あのくらいでしたら、大丈夫です」
 「預かってもらって、そのあとどうするんだね」近藤が尋ねる。「五十本もの薔薇、マンションじゃあ植えられないだろう」
 「マンション売って、一戸建てを買う計画なんです。マンション二つも売れば、庭の広い家が買えるんじゃないかって」
 「ああ、なるほど。等価交換だからね。工場の分がショップになって、自宅の分がそのまま残るって寸法だ」
 「それほど単純な話でもないですけどね。ショップは立地が良いってことで、面積減っちゃいますし、不動産を売ったり買ったりしていると、税金を取られて、なかなか計算通りいかないみたいです。まあ、工場の売却で、多少のお金も入りますから、相続税を払っても、なんとかなる計算なんですけどね」
 「オーハローンに良いようにされていると問題だなあ」
 「一応、取引している銀行の人にみてもらったんですけど、大体妥当なところだろう、ってことでした。だけど、オーハローンはだいぶ儲けそうですね。まあ、国道沿いのビルを持っていたし、給食センターと、鉄工所ひとつ押えていたわけで、彼等が最大の地権者だから無理はないんですけど、一番良い場所取っちゃったし、地下道やら遊歩道のお金は国に出させていますからねえ。業者選定でも色々と注文を付けてまして、なんか、臭いと思うんですよ」
 「これに関しちゃあ、尻尾を押さえないことには、手の打ち様がないね。まあ、連中も、例の巨額詐欺事件に絡んでいるから、その他のところで、あまり危険な橋は渡らないと思うよ」
 「逆に、詐欺事件の捜査で、再開発の不正も明るみに出るかもしれませんね」
 「そうなりゃ嬉しいが。ついでに久我山との関係も明るみに出ると良いのだが」

 午後五時、近藤調査事務所に鈴木刑事が高橋刑事を伴って現れる。
 一同は、応接室に移り、エミちゃんはコーヒーをサービスする。
 「いやあ、大変です」鈴木は、椅子に腰を下ろすなり言う。「例の不動産投資証券、被害者が続々現れまして、対応に追われております。現在、各警察署で受付けたものを集計していますが、本件がらみの被害、例のミックスベジタブルリターン品の在庫管理簿から、六千二百七億と推定しておりますが、既に、五千億以上の被害が確認されておりまして、史上最大の詐欺事件となることは間違いありません。これによく似た事件で、豊田商事の純金ファミリー契約証券の詐欺事件が昭和六十年にありましたが、あの被害総額ですら千五百億ですからね。今回の事件は、被害者一人あたりの被害金額が極めて高いのが特徴です。一口一千万で、五口、十口契約したのがざらにいます。今日午後一時の時点で、記者会見をして、一千億を超える被害が既に届けられていることと、被害者が続々と現れていることを発表しましたが、午後七時にも記者会見を予定しておりまして、五千億という数字を出す予定です。テレビ各社も実況で流すはずです。大変な騒ぎになりますよ」
 「そりゃあ大変だ。しかし、これで警察も、本腰を入れて取り組めるでしょう」
 「いや、それが色々と問題ありまして、捜査本部の要員を増やすのは良いのですが、例の高梨の問題がありまして、高梨の他にも大葉組とつるんでいる奴がいる様子なんですが、それを調べている時間がありません。結局、この詐欺事件の捜査本部にも、大葉組のスパイが紛れ込むことを前提に捜査を進めざるを得ないんですな」
 「それはまずいですなあ。警察の手の内が、連中に筒抜けってわけだ」
 「それでですね、例の特別チームはそのまま残すことにしました。警察情報漏洩問題対策班ですね。最初は詐欺事件もこのチームで扱う予定だったんですが、こう大騒ぎになっては、対応し切れません。このチーム、大葉組と無関係のメンバーだけを選ぶ必要がありますし、本庁の組織から独立して設置されたものですから、そうそう大規模な組織にするわけにもまいりません」
 「そうなりますと、詐欺の捜査本部と、情報漏洩対策チームとの関係はどうなるんでしょうか」
 「詐欺事件捜査の実働部隊は、当然のことですけど、捜査本部ということになりますす。まあ、我々流に言わしてもらえば、泥臭い仕事は捜査本部にやってもらうということですな。情報漏洩対策チームの掴んでいる情報は、詐欺事件解決に必要と思われる情報は、捜査本部に流しますけど、全てを捜査本部に流すような真似はいたしません。そんなことをすれば、手の内が全て、大葉組に流れてしまいますからね」
 「ははあ、なかなか良い形ができたってわけですな」
 「それが、それほど良くもないんですよ。われわれのチームからも、メンバーが一部、捜査本部に引っ張られましてね。我々、この詐欺事件に早くから取り組んでいましたから、そのメンバーを詐欺事件捜査本部に引っ張るというのは、至極、順当な話なんですけど、こちらが手が足りなくなって困ってしまいます。詐欺事件が風雲急を告げる事態となりますと、情報漏洩の調査も、急ぎ行なう必要がありますからねえ」
 「そりゃ大変ですなあ」
 「それでですね、近藤さんに、ご協力頂きたいんですが、駄目でしょうかねえ」
 「今でも、できる範囲でご協力差し上げているつもりですがね。鈴木さんは、我々に、それ以上の何をお望みでしょうか?」
 「名目は、情報漏洩に関する調査、です。具体的内容には、大葉組の動静を探り、彼等への警察情報漏洩の実態を明らかにすること、有り体に言えば、高梨と大葉組の繋がりを明らかにすることなんですが、大葉組がこの詐欺事件に絡んでいるという具体的証拠も、なんとか、固めていただきたいというのが本音のところです」
 「大葉組に対する捜査はされるんでしょうな。つまり、証券の電話勧誘をした連中を引っ張ったり、オーハローンの家宅捜索を再度行うといった」
 「もちろん致しますとも。近藤さんは、以前、この事務所が大葉組を相手にするのは危険が大きすぎるというようなことを言われましたが、今回は、捜査本部のほうで大葉組を徹底マークしますから、連中が近藤さんのところを襲ったりする危険性は、非常に低くなったと思いますよ」
 「そこまでやっていただければ、やってやれないことはありませんな。で、それを無償でやれといわれますか?」
 「いえいえ、調査料はきちんとお支払い致します。月三百万で、三ヶ月分の予算を取りました。この範囲内で、掛った費用を実費でご請求下さい。調査の方法はお任せします。何か出てきましたら、その都度ご連絡頂くことになりますが、最低月一回の報告書をお出しください。それ以外にも、ちょくちょくご相談に伺いますけどね」
 「へ? そんな話になりましたか。それだけ頂ければ、当調査事務所の総力を挙げて取り組むことができます。実は、柳原さんにもお手伝い頂くことにしたんですよ。その……、やり方には、少々問題があるかも知れませんが」
 「いや、今回は、調査の方法は全て近藤さんにお任せします。もちろん、問題があるような内容は、報告書には入れないで下さい。近藤さんたちが犯罪を犯したなんてことを報告書に堂々と書かれてしまっては、私ども、近藤さんを逮捕しないわけにはいかなくなりますんで」
 「ははあ、この話、極秘ですな」
 「当然です。私どもがご依頼するのは、オーハローンの動向を調査して、警察情報漏洩の実態を明らかにして頂きたい、調査方法に関しては、近藤さんに一任する、ということです。調査の具体的方法は、近藤さんの企業秘密でしょうから、そこまではわれわれタッチしません。もっとも、証拠として使うものは、合法的に得たものに限られますけど、近藤さんの報告書だけで全てを済まそうなどとは考えておりませんからご安心ください。いよいよとなれば、我々が家宅捜索して、証拠を差し押さえます。ですから、近藤さんには、その誘導を、つまり、どこで何を押さえればよいかをお教え頂ければ、それで充分です」
 鈴木は一気にまくし立てると、鞄から書類を出して、付け加える。「これ、正式な調査依頼書ですのでお納め下さい」
 「は」近藤は、笑みがこぼれそうになるのを必死に堪え、ポーカーフェースで注文書を受取る。
 近藤が素早く計算したところでは、自分自身と佐藤、柳原の三名を百パーセント調査に掛ければ、一月三百万円の予算はほぼ消化できる。実際には、柳原の全ての時間を調査に使うことは難しいだろうが、調査時間を水増しして報告する手だってないわけではないし、調査員を増やしても、他の調査事務所に応援を頼んでも、近藤のピンハネ分が利益になる。
 「あはっ」柳原は微笑んで言う。「面白くなってきましたねえ。お言葉に甘えて、早速、第二弾を仕込みましょう」
 鈴木刑事は、眉をしかめて柳原を一瞥するが、柳原の言葉に対する論評を避ける。
 「まあ、そちらの調査につきましては、近藤さんに全てを一任するということで、我々は、結果を期待することに致します。それから、佐藤家遺骨盗難事件のほうですが、盛り場に骨を撒くとの犯人側の脅しがありましたので、該当個所のパトロールを強化致しましたが、骨が撒かれたという報告はこれまでの所入っておりません。現金受け渡し場所でスリの現行犯逮捕された男と骨壷の窃盗との繋がりも、これまでのところ見出されておりません。この男、スリの常習犯でして、骨壷窃盗事件との関連は薄いのではなかろうかと我々考えております」
 「この事件、詐欺事件との関連は考えられませんか?」近藤は自分の推理を切り出す。「佐藤君の親父さんは、保冷車を密かに監視しておりました。しかし、その姿、大葉ビルから見えてしまうんですな。だから、詐欺師どもがこれに気付いたとすれば、彼を消そうと考える可能性は多分にあります。親父さんは、朝に脳溢血の発作を起して病院に担ぎ込まれたんですが、昼頃には健康状態を回復しております。一晩入院したのは、重態だったからではなく、精密検査を予定していたことと、大事をとって入院したに過ぎません。病室は個室で、深夜、被害者は一人でした。そして、あの病棟、外部の者が出入りすることも容易だったんですなあ。だから、深夜に何者かが病室に侵入し、ベッドに寝ている病人に毒を盛ることも可能でした。亡くなった後で、医師が診断をしましたが、異常死を疑う理由がありませんでしたから、さほど詳しく調べたわけでもないでしょう。親父さんの持ち物から、もう一冊の手帳が消えておりました。そこにも、保冷車の出入りが書かれていたかも知れません。佐藤君の親父さんは、一旦その手帳に記録した後、もう一冊の手帳に転記していたそうですから。さて、これが毒殺であったとすると、遺骨を残しておくのは、犯人にとって極めて危険なことであったに違いありません。もしも、砒素のような毒が使われていたとすると、その痕跡は骨に残りますからね。そこで、犯人は遺骨を盗み出したってわけです。金目当ての犯行に見せ掛けてね。ま、こんな可能性を我々考えておるんですが、どうでしょうか?」
 「たしかに、遺骨を盗み出して、身代金を要求するというのは、あまり普通ではない犯罪ですから、そのような複雑な背景があった可能性もありますね。三百万という要求金額も、なかなか微妙な額でして、空き巣に入って盗み出すには充分過ぎる額ですが、現金受取りの際の危険を考えると、あまり割に合うような犯罪にも思えないんですね。もっとも、スリの登場でぶち壊しになってしまいましたが、犯人たちが何かうまい現金受け渡しの段取りを考えておって、あの後、それを実行する計画だったのかもしれません」
 「盗難のあった場所は、大葉ビルから丸見えで、侵入経路も大葉組傘下の給食センターでしたね。骨壷を盗み出した連中は、大葉ビルや給食センターの内情に精通している可能性があり、大葉組とも何らかの関係があるのではないかと、我々疑っているんですよ」
 「それはどうでしょうかねえ。大葉組、巨額詐欺事件の真っ最中だったはずでして、そんな危険な真似はしないんじゃないでしょうか」
 「親父さんが保冷車を見張って、記録を取っていることに気付いたとしたらどうですか」
 「うーん、その場合は消そうとするかもしれませんが、骨壷を盗む理由はありませんね。仮に毒殺をしていたところで、誰もそれに気付いていなかったですから、放っておけば、そのまま済んでしまったはずです。骨壷窃盗事件に関して、我々が最も可能性が高いと睨んでいるのは、香典ドロです。葬式は目立ちますし、葬式の後では、かなりの額の現金が家にあるのが普通ですから、葬式の直後に空き巣に入られたという窃盗事件は、それほど珍しいものではありません。今回の窃盗は、香典を狙って押し入ったものの、目当ての香典がなかったんで、腹立ち紛れに骨壷を盗んだのではないでしょうか。近藤さんのご指摘のように、あの場所、大葉ビルから丸見えであることは確かなんですが、大葉ビルの窓から外を覗いている者なんてそうそうおりません。進入路も、工員が作業中の工場を避けようと思えば、道路側の塀を超えるか、給食センターとの境界塀から侵入するしかないわけでして、いくら人通りが少ないといっても、道路から塀を乗り越えるよりは、給食センターから塀を乗り越えた方が安全でしょう。結果的に、給食センターのパートタイマーに目撃されてしまったんですが、それは、警察にも伝えられましたよ。つまり、給食センターの人間が共犯であるという可能性は低いと考えておるんですよ」
 「うーん、たしかに、単なる金目当てという線も、捨て切れませんなあ」
 「もちろん、捜査は、あらゆる可能性を念頭において進めております。毒殺の証拠隠滅のために盗んだという可能性も、きちんと調べますよ」
 「分析用の遺骨、届きました」佐藤は封筒を鈴木に渡す。「分析、よろしくお願いします」
 「あ、これはこれは。お預かり致します」鈴木はそう言うと、封筒を開いて中身を確認すると、鞄から取り出したポリ袋に封筒ごと入れ、それを鞄に仕舞う。「もちろん、近藤さんの推理された、毒殺という可能性も、我々、捨てたわけではありませんから」
 「結果は、いつ頃でますかねえ」
 「なに、すぐにわかります。明日、お昼過ぎにでも、結果を持って、お伺いします」鈴木はそう言い残して、近藤調査事務所を後にする。

 十月一日、朝八時、近藤一家は、柳原を加えて朝食の真っ最中だ。
 近藤は、一心不乱に卵かけ御飯を掻き込んでいる。傍らに置かれた新聞の一面トップには、巨額詐欺事件を伝える大きな活字が踊っている。近藤の斜め後ろに置かれたテレビのモーニングショーも、先ほどから、同じニュースを伝えている。
 「あるところにはあるもんだねえ」ハルは他人事のように言う。「でもこれ、騙されるほうが馬鹿だよ。十%の利回り、今の世の中にあるわけがないじゃないか。こんなのに金出すくらいなら、株を買ったほうが余程ましだね。だけど、あんたのとこでも、こういう事件を扱ったら、儲かるんじゃないかね。そうすりゃあ、家賃が払えないなんて、情けないことを言わなくても済むんじゃないかね」
 「実は、この件、ウチも絡んでいるんだ」近藤は言う。「これ、最初に見付けたのは柳原さんだ。あ、だけどこれ、内緒だからね」
 「それはそれは」ハルは嬉しそうに言う。「このぐらいの事件になると、礼金も相当に出るんだろうねえ」
 「それが、たいした額でもないんだね。もっとも、こないだの夜逃げ追跡よりは、余分に頂けそうだが」
 「まあ、景気がよろしいことで。ご同慶の至りです」
 「エミちゃんのお母様が、昨日、店にお菓子を持ってきて、お礼を言ってましたよ」信子が言う。「あの方も、証券を買われたんだけど、近藤事務所からの連絡で、事前にキャンセルして、お金を取り戻せましたって。お菓子、調査事務所の皆さんで食べたらいいんじゃないかしら」
 「そんな、インサイダー取引みたいなことをして、問題になったりしないのかね」ハルは心配そうに言う。「身内だけうまいことやった、なんてことが世間に知れると、商売に差し支えるんじゃないかね」
 「あれは、詐欺師の正体を調べるためにやったんだ。警察官立会いのもとにね」近藤は、ビルの写真が大きく掲載された新聞の社会面を広げて言う。「この、詐欺師のアジトだって、エミちゃんちに来た詐欺師を尾行して、俺たちが突き止めたんだよ」
 「こういう詐欺って、取られたお金は、ほとんど返って来ないでしょう」信子は心配そうに言う。「そんな事件を引きうけたりして、調査料、払ってもらえるんですか?」
 「あ、依頼主は警察。だから支払いは問題ない。それに、騙し取られたお金は、どこかに隠されているようだから、うまくすると、かなりの部分が取り戻せるよ。もちろん、この話、全部丸秘だからね」

 近藤が事務所に顔を出すと、既に、佐藤もエミちゃんも出社している。近藤はエミちゃんに菓子折りを渡し、お茶の時間に出すように言う。エミちゃんは喜んでそれを受け取るが、よく考えると、この菓子折り、エミちゃんの実家からもらったものであり、エミちゃんがその買い物に付き合っていたかもしれない。近藤は、エミちゃんのうれしそうな顔を、演技じゃないか、と少しだけ疑う。
 近藤は、デスクに腰を下ろすと、エミちゃんの淹れたコーヒーを飲みながら、どこから手を付けたものか考える。しかし、なすべきことが多い反面、有効な手立てをなかなか思い浮かばない。
 柳原は、先ほどから計算機の操作に没頭しているが、エミちゃんと佐藤は、近藤が何かを言い出すのを待っているようだ。それを見た近藤は、自分一人で考えることを諦めて口を開く。
 「ちょっと、作戦会議でも開こうかね」
 佐藤とエミちゃんは、近藤に従い、応接室に移動する。柳原も、キーを二つ三つ、素早く操作すると、他の人達の後を追って応接室に入る。
 「えー、事件の概要は、既にお聞きの通りだ」近藤は全員の顔を見渡して言う。「ここではまず、考えられる対応をリストアップして、それから、着手の順序、担当を決めたいと思うんだが、どうだろうね」
 「それじゃ、私、ホワイトボードに書きましょう」エミちゃんは立ちあがって、ホワイトボードの準備をする。
 「えーと、詐欺事件のほうは、警察がやるんですよね」佐藤が口を開く。「我々にできることは、それほどないと思いますけど」
 「鈴木刑事の雰囲気では、オーハローンのシステムをクラックしてくれってのが本音だったようですけど」柳原が言う。
 「実のところはそうだろうね。それを口に出せないのが、連中の辛いところだ」
 「これまでのシステムだったら、簡単に侵入できるんですけど、いま、オーハローンは引越しをしてまして、システムも、多分、入れ換えてしまうんじゃないかと思うんですよね。いっぺんやられたの、あの人達も気付いていますからね。だけど、そんなことをされると、侵入が難しくなります」
 「しかし、君は、見ず知らずの所にも、簡単に侵入してたじゃないか」
 「どこでも良いからクラッキングしろってんなら、簡単ですよ」柳原は口を尖らせて言う。「だけど、新しいオーハローンのシステム、アドレスがわかりませんから、クラックのし様がありません。正規の社名で登録してくれりゃ、ネットワーク・インフォメーション・センターに問い合わせれば一発でわかるんだけど、前のシステムも偽名で登録したんですよお」
 「どうすればそれがわかるかね」
 「昔、私が作ったオーハローンのシステムだったら、ホームページを公開してましたから、そこが手掛りになりました。だけど、オーハローンのホームページ、二三日で閉じちゃったんですよね。連中のメイルアドレスがわかれば、それからターゲットとなるシステムが割り出せます。その外の手としては、オーハローン内部からの何らかのアクセスをキャッチすることですね。こちらでこさえたページにアクセスさせるとか、公開された掲示板とかに、何か書いてくれれば良いんですけど、どうでしょうかね。まあ、それらしいホームページを作っておいたし、掲示板のサーチもしますけど……」
 「オーハローンの連中が、公開の掲示板に、会社のパソコンを使って、なんか書いたりするかねえ。もっと、手堅い方法はないかねえ」
 「まず、新しい事務所、どこに引っ越したんだか、調べる必要があるでしょうね。それから、何らかの方法でIPアドレスを割り出します」
 「何らかの方法?」
 「事務所に忍び込んで、計算機、触らせてもらえれば一発なんですけどね」
 「そりゃ駄目だ。見付かったら、君、殺されるぞ」
 「警察に計算機を押収させるって手はありますね」佐藤は気楽に言う。
 「計算機を押収しちまったら、クラッキングも糞もないだろう。まあ、その時点で計算機に残っているメイルなら読めるんだろうが、決定的証拠を押さえようと思ったら、連中にバレないように、連中のメイルなんかを見れるようにせにゃならん」
 「IPアドレスは、外部と情報をやり取りする時に使いますから、通信線を傍受できれば、割り出せます。ADSLとか、どうなってるのかよく分かりませんけど、警察から言えば、サービス会社がログをくれるんじゃないかしら。外部とやり取りしたメイルを傍受すれば良いわけですね」
 「内部のやり取りは、駄目か」
 「大葉組内部での連絡を傍受するためには、大葉組のシステムに侵入しなくちゃいけません。クラッキングすりゃ、良いわけね。さしあたり、IPアドレスがわかれば、攻撃の手は、色々と考えられます。こないだ仕込んだウイルスが残っているかもしれないし、例えそれが消されちゃったところで、地道にポートを攻めていけば、たいていのシステムは落とせます。IPアドレスは、傍受すればわかりますから、まず、そっちのほうから攻めたら良いんじゃないですか」
 「連中の新しい事務所は割れているんだろうか。これは、当然警察がやっているよなあ。で、連中の電話の傍受は、警察にやってもらえば良いわけだ。それで、その情報をこっちにも流してもらやあ良いわけだな。ま、鈴木さん、午後にも来ると言ってたから、そん時に相談しよう」

 柳原は、今日も大学をサボってしまった。柳原が大学をサボるのは、今日に始まったことではない。これまでも、大学に登校した日数よりも、山の上システムサービスに出勤した日数の方が多い。しかし、そろそろ進級のための単位不足が深刻になるはずだ。
 柳原は、大学をきちんと卒業したい気持ちもあるが、きちんと卒業しても、あまり大きな意味がないとも感じている。
 元々、柳原は研究者になるつもりは全くなく、大学は技術を身に付ける所と割り切っている。しかし、その技術を、柳原は充分に習得してしまった。少なくとも、自分ではそう感じている。
 山の上にしろ、近藤調査事務所にしろ、柳原がその気になれば、すぐに社員として迎えてくれるだろう。事実、柳原は、山の上の社長から既に誘いを受けており、提示された待遇も魅力的だった。仕事の内容では、近藤調査事務所の方が面白そうだが、近藤が口にしたバイト代から考えると、こちらの待遇は今ひとつといえる。
 おまけに、柳原自身はそれほど脅威に感じていないのだが、近藤の口ぶりでは、大葉組が柳原を襲う可能性があり、柳原が大学に通う場合は、近藤が送り迎えをすると言う。近藤がいくら大葉組と事を構えているといっても、赤の他人に、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。
 (当分、休学、ということにするか……)柳原は密かに決断する。


第八章   連続殺人事件?

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 十月一日、午後三時、鈴木、高橋の両刑事が近藤調査事務所に現れる。近藤はふたりを応接室に案内し、エミちゃんにコーヒーの準備を頼む。
 応接室に集まったのは、二人の刑事のほか、近藤、佐藤、柳原、そしてエミちゃんだ。エミちゃんは、記録のためのノートを広げ、鈴木刑事が話を始めるのを興味深々、待ち構えている。
 「どこからお話しましょうかね」
 「やはり、ここは詐欺事件のその後の経過からお話戴くのが宜しいのではないでしょうか」近藤は言う。「それによって、我々の調査方針も変りますでしょうし、色々とお願いしたいこともありますので」
 「さようですな」鈴木刑事は、コーヒーを一口飲むと、話を始める。「まず、被害の届け出でですが、これまでのところ五千七百億円の被害の届け出でがありました。被害者は総数八千人強、現在、その一人一人につき、本件に関するものであるかどうか、判別作業を行なっております」
 「ははあ、他にも、似たような詐欺を働いていたものがおったんでしょうか?」
 「ええ、規模は小さいんですが、同種の詐欺を働いていたものが既に二組見付かっておりまして、そちらは既に、関係者を押えています。その被害を除いて、八千余人、五千七百億の被害が発生しているということです」
 「オーハローンとの繋がりは出てきましたでしょうか」
 「それが、ぷんぷん臭うんですが、決め手となる証拠がありません」
 「例の保冷車、オーハローン傘下の給食センターから出ていましたよね。佐藤君の親父さんのメモもあるし、それでも駄目ですか」
 「あれは、ナンバーの偽造で立件できますが、詐欺との繋がりを示すものは何もありません。連中は、偽ブランドの冷凍野菜を給食センターで製造していたものと考えていたようですが、給食センター側では、そのような事実は確認されておりません。どうも、給食センターの二階会議室で、使用済みの段ボール箱に現金を詰め込んでいたというのが実情のようです。会議室に、分不相応な、大きな金庫がありましたからね」
 「プロバイダのメイルはおさえましたか?」柳原が質問する。
 「おさえました。が、既に大部分が消去されていました。最近の三日分はありましたけど、普通のビジネスメイルにしか見えませんよ。一応、ファイルをお持ちしましたんで、チェックしてください」
 「それ、一応チェックしますけど、三日分じゃ、多分、役に立ちませんね」柳原は言う。「オーハローンのメイル、実は、私も見てるんです。だけど、最近は、ろくな話が出ていません。もっと昔のメイルが欲しかったんですけどね」
 「例の倉庫の方はどうですか?」
 「ナンバーの偽造を組織的に行なっていた、との証拠は得られました。食品衛生法違反も見付けまして、関係者を片っ端からしょっ引いて尋問してるんですが、詐欺事件との関係は出てまいりません」
 「しかし、あの運転手、大葉組の関係者だったでしょう」
 「そうなんですが、二十年も昔の話です。大葉組の先代は武闘派で、あの男も幹部として殺人事件に関っていますが、出所後は、組を抜けて、更生した形になっておるんですなあ。大葉組も、代替りして、合法路線に転じてしまいましたし、現在もつながりがあるという証拠は全くありません。冷凍倉庫も何らかの関係があるのではないかと疑っているんですが、出資者は名義借りが多く、実態が掴めません。社員には、前科のあるものが多く、丸暴関係の会社である疑いが濃厚なんですが冷凍食品流通業としての合法的な営業活動が行われていることも事実でして、取調べは難航しております。まあ、種々の違法行為が日常的に行なわれておりまして、それほど品行方正な会社でないことも事実ですがね」
 「大葉ビルは、再開発で取り壊されるということで、オーハローンも引越しをしておるようですが、引越し先は突き止められましたか?」
 「ええ、もちろんです。桜が原駅の南口近くのビルのフロアを借りて、事務用品を持ち込んでいます」鈴木刑事は、そう言った後、声をひそめて続ける。「ただ、オフィス面積は大葉ビルよりも狭く、大葉ビルにいた連中の一部は、別のところに移動したのではないかと思われます。それがどこかは、まだ掴めておりません」
 「オーハローンの引越し先の傍受も続けていただけませんか?」
 「もちろん致します」
 「佐藤さんの親父さんの骨、分析できましたか?」
 「はい。しかし、異常は検出されませんでした。少なくとも、砒素等の重金属が用いられたという形跡はありません。まあ、高温で火葬された骨を分析しておりますので、有機系の毒が使われたとしたら、検出はできないのですが」
 「さようですか」近藤は落胆して言う。「しかし、骨から毒が検出ができないのであれば、骨を盗む理由にはなりませんなあ」
 「骨からわかることって、毒だけですか?」エミちゃんが口を挟む。「他にも色々とわかると思うけど」
 「そうですね」鈴木は考えながら言う。「骨折を伴うような場合は、骨から死因を推定できます。例えば、鈍器による撲殺なら、骨に異常が残りますね。縊死の場合は頚椎骨折を伴いますし、刺殺でも、骨に傷が入る場合があります」
 「おいおい、今回は、医師が診断しているんだ。いくらなんでも、撲殺や刺殺はないだろう。無論、首吊りなんかしていない」
 「私の祖母が亡くなった時、焼き場の人が、骨を見て、どういう病気をしたのか、ぴたりと当ててましたよ」エミちゃんは言う。「右足が不自由だったとか、脳溢血をいつ頃、何度したとか……」
 「脳溢血?」近藤は眉をあげて言う。「それ、骨でわかるのか?」
 「ええ、頭蓋骨の内側に、血の跡が付くんだそうです。古さによって、色のつき具合も違うんだそうですよ」
 「ああ、そうか。それで、焼き場の職員が変な顔をしていたんだな」
 「変な顔?」鈴木刑事は近藤の言葉を繰返して尋ねる。「なにか、お骨に、不審な点でもあったんですか?」
 「そう、あの時……」近藤は、失われかけた記憶を呼び覚ましているのか、遠くを見るような目つきをして、言葉を続ける。「初老の小柄な男でしたな、あの焼き場の職員は。それが親父さんの死因を聞くもんだから、脳溢血の発作を三度繰返した挙句に亡くなられたと教えたんですが、その男、腑に落ちないという顔をしたんですよ」
 「腑に落ちない?」鈴木刑事は再び近藤の言葉を繰返して尋ねる。「それで、近藤さんは、その理由をきかなかったんですか?」
 「そりゃ当然ききましたよ」近藤はムキになって言う。「で、その応えは、『別にたいしたことではない』でしたな。それ以上、尋ねなかったんですが、今にして思えば、もう少し問い質すべきでしたなあ」
 「なに、もう一度問い質せば良いだけの話です」
 鈴木はそう言うと、携帯電話を取り出して、佐藤老の火葬に立ち会った初老で小柄の葬祭場職員の割り出しを依頼する。
 「つまり、可能性としては、脳溢血による死ではない、ということを隠すために、骨を盗んだということですな」近藤は言う。「これが殺しだという可能性は、依然として残っているわけだ」
 「しかし、それにしてもおかしいですよ」佐藤は言う。「だって、親父の死因なんか、誰も疑っていなかったんですからね。なぜ、わざわざ、骨を盗む必要があったんでしょうか?」
 「バレそうだと考えたんだろうな。なぜ、そう思ったかは謎だが」
 しばし雑談をしていると、鈴木刑事の携帯電話が鳴る。
 鈴木は険しい顔をして二言三言電話に応えると、通話を終えて近藤に向かう。
 「その職員、須山という男なんですが、行方不明だそうです」
 「行方不明? 理由はわからんのでしょうか?」
 「状況から家出の可能性は低いと考えられておりまして、事故と犯罪の双方の可能性について捜査を行なってますが、これまでのところ手掛りなしということで、お宮入りの可能性濃厚です。下水にでも落ちて、流されてしまったのかもしれません」
 「それって、連続殺人事件なんじゃあ?」柳原が驚き声を上げる。
 「まあ、ちょっと待てよ」近藤は、柳原をたしなめるように言う。「全く、関係のない話かも知れんからね」
 「いやいや」鈴木は近藤を押さえるように言う。「このような話になりますと、その可能性もあたっておく必要があります。と、いいましても、調べるのは相当に難しいでしょうが」
 「接点、ですな、手掛りは」近藤が言う。
 「接点、ですか?」鈴木が尋ねる。「それ、なんですか?」
 「佐藤君の親父さんと、須山氏との接点は、火葬のときしかありません。この二つの事件が関係しているとすると、あのとき葬祭場にいた八人の誰かが、何らかの形で事件に絡んでいると考えるのが定石でしょうな」
 「たしかに、それが一番考えやすいですなあ。須山氏が参列者の誰かを恐喝したが、逆に殺られてしまった、といったケースですな。もしそんなことがあったとすると、骨を盗む理由もあるというものです。で、その八人ですが、お名前はわかりますか?」
 「俺と嫁さん、佐藤君とお母さん、この四人は、無関係だろうね。可能性があるとすると、叔父さん夫婦、あとは医者と坊さんだな。医者は、坂本医院の院長、坂本先生だったが、坊さんは、誰だか知らない」
 「あれは、葬儀をした、本願寺の住職です。常覚さんといわれる、ちゃんとした和尚さんです」佐藤が補足する。「この人は関係ないと思いますけどねえ」
 「ま、現段階で容疑者から除くわけにはいかんだろうがね」近藤は言う。「しかし、一番恐喝されそうなのは、医者ですな。もし、脳溢血でないとなると、明らかに坂本医師の誤診ですからね」
 「叔父さん夫婦にしたって、何らかの利害関係があったかもしれませんよ」高橋刑事は言う。「親父さんに借金をしていたかも知れない。いずれにせよ、佐藤さんの親父さんが殺されたものだとすると、せっかく脳溢血ということで片付いた死因に疑いをもたれることは、犯人にとって重大な問題となります。現段階では、あの時葬祭場にいた、八人全員を容疑者と考えるのが順当でしょう。佐藤さんとお母さんにしたところで、遺産を相続しているわけでしょう」
 「冗談を言わないで下さいよ」佐藤は怒ったように言う。「そんなことはあり得ません」
 「全くだな」近藤も佐藤を擁護する。「もちろん、俺も、女房も、やっちゃいない。怪しいのは残りの四人だ」
 「いや、近藤さんの言われるのもごもっともです」鈴木刑事は近藤をなだめるように言う。「しかし、須山氏から何らかのコンタクトがなかったかどうか、一応、確認しておいて頂けませんでしょうか」
 「この八人、ウチで追っかけますか?」近藤は、意外そうに尋ねる。
 「それが良いと思いますがね」鈴木は言う。「何分、材料が少なすぎます。この程度では、連続殺人事件などという大きな話を庁内で軽々しく出すわけにもまいりません。ある程度材料が得られましたら、私どもも本格的捜査に取りかかりますが、そこまでのところを近藤さんにやって頂くわけにはまいりませんでしょうかね。詐欺事件調査の一部ということで。例の手帳の一件がありますので、佐藤さんの親父さんの死が、もし殺しだとすると、詐欺事件との絡みも充分に考えられますから、無理なお願いでもないと思いますがね」
 「そうですなあ。御説ごもっともですなあ。それに、この件、我々が調べた方が速いですし、波風も立ちませんからな」
 「須山氏失踪事件に関する再調査は、こちらでやっておきます。また月曜日にも、本件捜査状況の詳細をお持ちしますから、近藤さんの調査結果と突合せをしましょう」

 「手近なところから始めよう」刑事たちが帰ると、近藤はそう言って、一階の近藤花卉店に電話し、妻の信子を呼び出す。
 「火葬場の人から?」信子は、あっけに取られて言う。「別になにも聞いてませんけど?」
 「あの、えらくおしゃべりな職員がいただろう。あれ、須山って男だそうだが、行方不明になっているんだそうだ」
 「まあ、それで、私たちにどういう関係があるんですか?」
 「佐藤君の親父さんの骨が盗まれただろう。それに関係があるんじゃないかと考えているんだけどね。あの男、親父さんが脳卒中で亡くなったといったら、変な顔をしていただろう」
 「そうでしたか? 私は、気が付きませんでしたけど」
 「そうか、あいつと話をしたのは俺だからなあ」近藤は、諦めたように言う。「あの時、参列者に、なにか不審な気配はなかったかなあ。驚いたとか、怯えたとか……」
 「さあ、皆さん、普通だったように思いますけどねえ。つまり、お葬式としては普通だったってことなんですけど。映子さんは、落胆されていましたけどねえ」
 「君は、なにも気付かなかったってことか。まあ、そうだろうとは思っていたが」
 「ウチの母の話も、聞きましょうか?」
 「そうねえ、ちょっと君んちに行って、聞いてくるか」
 「事務所に寄ってもらった方が速いかもしれませんね。今日、母は外出してますけど、もうそろそろ、桜が原に帰ってくる頃です」
 「あ、そう。それじゃあ、ここに寄ってもらえるとあり難いね。帰り、送っていくからさ」
 佐藤は、母、映子の携帯電話に連絡する。映子は、既に桜が原に到着しており、近藤調査事務所の目と鼻の先のスーパーで買物中だったが、近藤が送ってくれるという話を聞いて、牛乳その他の重量のある食料品を買い足すという。
 「もう十分もすれば来ると思います」佐藤は、映子の話の細部を端折り、簡単に報告する。

 「焼き場の人から?」映子の反応も信子と同様だ。「別に、なにもありませんでしたけど?」
 「焼き場の職員に、須山という名前の、初老の小柄の男がいたんですが、これが行方不明になっておりまして」
 「ほら、あの、おしゃべりな人ですよ。喉仏がどうのこうのと言っていた」
 「ああ、あの軽薄な男ですか」映子は馬鹿にしたように言う。「だいたい、骨が立派だなんて誉められて、私たちが喜ぶとでも思っていたんでしょうかね。まったく、何を考えていたんでしょうね、あの人は」
 「とにかく、焼き場の職員が行方不明になっており、彼の扱った、親父さんの骨が盗まれているんです」近藤は、話を元に戻して言う。「この二つの事件、偶然かもしれませんが、何らかの関係があるのではないかとも考えられます。もしそうだとすると、あの焼き場で、なにかがあった可能性が高いんですな」
 「なにか、とは? どういうことでしょうか」
 「あの須山という男、親父さんの死因に興味を持っておりましてね、それで、私が脳卒中だと教えてやったら、不審そうな顔つきをしたんですよ。もし、親父さんの死因が病気でなく、殺人であったような場合、須山氏が死因に疑問を持っているということを犯人に覚られたとしたら、犯人は須山氏を殺そうとするかもしれません。あるいは、須山氏が犯人に気付いて、強請ろうとしたのかもしれません。その場合、骨に何らかの痕跡があったということにもなりますし……」
 「まあ」映子はしばし絶句する。「それで、骨も盗まれたってことですか?」
 「そうです。そう考えれば、全てが一つに結びつきます」
 「あのー、これは、単なる可能性ということで、まだそうだと、決まったわけではありませんからね」佐藤は、説明を補う。
 「私はなにも気付きませんでした」映子は考えながら言う。「その、須山さん、ですか、その方が不振な顔をしたことにも気付きませんでしたし、他の方に変な素振りもあったようには見えませんでした」
 「さようですか。あの男があの後で接触してきた、ということもなかったんですな。ところで、親父さんは叔父さんにお金を貸していたとか、叔父さん夫婦との間で、何らかのトラブルがあったというようなことはございませんでしたか?」
 「叔父さんとですか? 別に、お金の貸し借りもないし、トラブルはありませんでしたよ。最近、ほとんどお会いしていませんでしたしね。あ、そう言えば、叔父さん、ビデオを撮っていましたね。あれに何か写っているかもしれませんよ。少なくとも、あの焼き場のお爺さんが、喉仏がどうのと説明していたのを、一生懸命撮っていましたからね」
 「ああ、そう言えばそうでしたな。明日にでも、叔父さんにお話をおうかがい致したいですなあ」
 「私からお願いしておきましょうか?」
 「そうですなあ。お願いできるとあり難いですなあ。しかし、須山氏の失踪に付いてはお話にならないようにお願いします。まあ、骨壷盗難事件の調査をしているとでも、紹介しておいてください」
 「かしこまりました。それじゃあ、先方の都合の良い時間を聞いてみましょう。近藤様はいつでも宜しいですか?」
 「ええ、明日、明後日、いつでも結構ですよ」
 近藤の言葉を受けて、映子は、叔父に電話を掛け、明十月二日午後三時の面談をセットする。
 叔父の家は茨城県の磯原市だという。
 「磯原市……どこかで聞いたことがあったな」
 「青森に行ったとき、ね」信子は言う。
 「青森? 茨城じゃないのか?」
 「青森のね、キリストの墓とか、ピラミッドとかを発見した人が、茨城県磯原市の人だったでしょう」信子はおかしなことを言い出す。「あなた、感心してたでしょう。『キリストの墓の存在それ自体より、磯原の人がこんなところでキリストの墓を発見する理由が謎だ』とか言ってたじゃない。だけど、ピラミッドはともかく、キリストが青森まで来て、そこで死んだなんて、どう考えても、荒唐無稽な話ですよねえ」
 「ああ、あれかあ。そう言えば、そんなことがあったねえ。結構、本格的なモンだったけど。それに、いろいろと説明を読むと、まるで根拠がないというわけでもないんだね。細かい話は忘れてしまったけど。それで、磯原って、どう行けば良いんだね」
 「磯原は、茨城の北の外れ、勿来の関のちょっと手前ですよ」映子が説明する。「上野から、特急で二時間ほどで行けます。車なら、常磐自動車道の北茨城インターで降りれば、すぐです。綺麗な海岸がありまして、渉が小さい頃には、毎年夏に、叔父さんのところに泊まりに行ってたんですよ」
 「北茨城ねえ」道路地図をみながら近藤が言う。「三時間もあれば行けそうだねえ。特急で行くより安上がりだろ。うまい魚でも食えるかな」
 近藤は叔父さんの家の位置を道路地図で確認する。その場所は、佐藤も知っているということだ。
 明日は土曜日で、事務所は定休日だが、犯罪捜査に、土曜も日曜もない。近藤は、翌日の磯原訪問の段取りを計画する。
 捜査上の都合だけなら、叔父さんの家を訪問するのは、案内役の佐藤と近藤のふたり充分だ。しかし、柳原を一人で残すのも心配であり、連れて行くことにすると、エミちゃんも付いて行きたいと言い出し、記録係を頼むことにする。
 結局、叔父の事情聴取に磯原まで出向くのは、近藤調査事務所の全メンバーだ。それなら、ささやかな社員旅行も兼ねてしまおう、と近藤は提案する。
 話はすぐにまとまった。

 十月二日(土)午後一時半、近藤の運転する車は快調に常磐自動車道を北上する。朝九時に桜が原を出た近藤たちは、水戸の偕楽園で萩を見物し、日本料理に舌鼓を打ってきたところだ。助手席では、案内役の佐藤が道路地図を拡げ、後部座席ではエミちゃんと柳原が尽きることのないお喋りをしている。
 北茨城のインターチェンジを降りた後、近藤は、佐藤の案内に従い、叔父さんの家の所在を確認する。そこで一旦停車して議論した結果、叔父さんとの約束の時間である三時まで、まだかなりの時間があるから、海岸でも見物しようかということで話がまとまる。
 小さな工業団地を抜け、陸橋を渡ると、その先には長い砂浜が広がっている。近藤は、海岸に面した駐車場に車を入れる。
 砂浜は広くて美しいが、あたりに人影は見えず、風に運ばれた砂が、竹を編んだ柵を超えて道路や駐車場の舗装部分にも積っているのは、なんとなく侘しい光景である。
 それでも、海には違いない。もう、夏はとうの昔に過ぎ去ってしまったが、日差しは強く暖かい。エミちゃんと柳原は、車を降りると、波打ち際へと小走りに向かう。
 ミニスカートに白いサンダルのエミちゃんや、ジーパンにズック靴の柳原と違って、近藤と佐藤は背広の上下に革靴というスタイルである。
 こんな格好では砂の上を歩けやしない。
 近藤と佐藤は、顔を見合わせてしばし考えるが、互いに頷くと、靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲くって、女性二人の跡を追うことにする。
 柳原が波打ち際の砂を穿って何かを探している横で、エミちゃんは海に近付いて行き、波が打ち寄せると逃げて遊んでいる。浜に打ち上げられた流木に腰を下ろした近藤は、煙草に火をつけ、佐藤に話し掛ける。
 「君は、毎年、ここで泳いでいたのか」
 「ええ、中学の頃までですけどね」佐藤は応える。「それ以来、十年以上も来ていませんよ。昔は、浜がもっと広かったですけど、侵食されたんですかねえ」
 「そうだねえ、これだけ真っ直ぐな浜だと、海流なんかも、きついかも知れないねえ。しかし、君が子どもだったから、同じ浜でも、広く感じたのかも知れない」
 エミちゃんの悲鳴と同時に、柳原の、「うわっ」という声が聞こえ、近藤たちは、声のした方に視線を走らせる。予想以上に大きい波が打ち寄せ、エミちゃんは逃げ遅れ、柳原が砂浜を穿っていたところまで、水が来たようだ。
 「おいおい、濡れちまったら、始末に困るぞ。これから叔父さんのところに行くんだからな」
 「なに、足を洗わせてもらえば良いですよ。そんな綺麗な家でもないし」
 「一応、容疑者だからなあ。いくら君の叔父さんだといっても、あまり馴れ馴れしいのもなあ」
 「あまり格式ばらない方が、向うも警戒しないし、良い話が聞けるんじゃないですか。だいたい、今回の調査、半ば社員旅行ですからね」
 「まあ、そういう面もあるからねえ。警察には、出張旅費、四人分請求するから、表向きは、参考人の事情聴取だがね」

 「いやあ、いらっしゃい」佐藤の叔父は、顔をくしゃくしゃにして近藤たち一行を迎える。「遠路はるばるご苦労様です。映子さんもご心配でしょう。まあ、どうぞどうぞ」
 叔父は近藤たちをソファーに案内すると、週刊誌を取り出して言う。
 「これ、読まれましたか?」叔父が取り出した週刊誌には、骨壷の盗難から身代金受け渡し失敗に至る顛末が、面白おかしく書かれている。
 「これ、今日の発売ですか?」近藤は、記事にざっと眼を通しながら尋ねる。
 「ええ、東京のあたりでは、もう少し早く出たのではないかと思いますが、このあたりは、田舎でして、今朝、発売になっていました。新聞の広告を見て、飛んで買いに走りましたよ」
 近藤は、記事を斜め読みするが、他人の不幸を笑いものにするようなその書きっぷりには、不快感を覚える。
 「この記事、よく調べて書いていますが、新しい情報はありませんな」近藤はそっけなく言う。「それで、佐藤さんですねえ、私ども、警察からも依頼を受けてこの事件を追っておりまして、この件に関していろいろとお話を伺いたいと考えておるんですが、一つご協力いただけませんかな」
 「そりゃもう、なんでも致しますとも。全く罰当たりなことをするもんですねえ」
 佐藤の叔母が、台所から姿を現し、近藤たちの前に、お茶と栗羊羹を運ぶ。栗は茨城の特産品だ。
 「それから、今日お話する内容に関しては、他に、お話しにならないようにして頂きたいのですが、宜しいでしょうかね」
 「ははあ、捜査上の機密って奴ですね。もちろん、ご協力致しますよ」
 「どうも、申し訳ありませんなあ。それで、今回の事件に関して、何か、お心当りはございませんでしょうか」
 「うーん、全くございませんが、おまえも、ないよねえ」叔父は、叔母に同意を促す。
 「ええ、なにも気付きませんでしたねえ」
 「さようですか。佐藤さんご夫婦は、問題の骨の焼き場にご同道されましたよね。私も、その時あの場におったのですが、骨に、なにか、異常があることに気付かれませんでしたか?」
 「異常? どういうことでしょうか?」
 「いや、私も、気が付かなかったのですが、焼き場の職員が、腑に落ちない、と言う顔をしておったんですな」
 「焼き場の? 職員、ですか」
 「ええ、あの、喉仏の解説をした職員がおりましたでしょう」
 「ああ、あの方ですか。いやあ、全然気が付きませんでした。しかし、良いモノがありますよ」
 叔父はそう言うと、テレビの台を開けてビデオカメラを取り出すと、コードをテレビ受像機につなぎ、テープをセットしたカメラを抱えてソファーに座り直す。
 「いやあ、私、こういう趣味があるんですが、いま、問題のシーンをお出ししますんで」
 叔父はそう良いながら、テープを早送りする。ブラウン管には、葬儀のシーンが早回しで表示され、やがて、葬祭場で、寿司を前に映子が短い挨拶をするシーンになる。叔父は、テープを正常な速度に戻して言う。
 「この後すぐに、骨を拾う場面になりますから」
 寿司のアップの映像の次に、窯から出された骨の遠景が映り、次に、足の骨から頭蓋骨まで、映像がパンして行く。
 近藤は、叔父に頼んで、スローで再生してもらうが、骨に異常は見られない。頭蓋骨の破片は、曲がり具合から外側が上になっているようで、もしその内側に血痕が付いていたとしても、このシーンからは判別できない。
 その後、問題の葬祭場職員の顔が大写しになり、箸でつまんだ喉仏に解説を加える。次いで、参列者が骨を拾うシーンになる。
 「うん?」近藤は小さく声を上げる。
 骨を拾うシーンの背後で、職員が喉仏を隅の方に置き,その横に頭蓋骨の欠片を何枚か集めている。その時に、職員は、頭蓋骨を裏返して観察し、何を思ったか、他の頭蓋骨も裏返して調べている。
 「やっぱりそうだ」近藤は言う。「この男、頭蓋骨に異常があると感じたんだね。それに、頭蓋骨の裏側、真っ白だ。画像が小さくて、断言することは難しいが、血痕は付いていないようだね」
 「血痕? 異常って、どういうことですか?」
 「この職員、私に死因を質問したんですよ。それで、脳卒中で亡くなったと答えてやったら、腑に落ちぬ、という顔をしたんですな」
 「それは、死因に疑問があるということですか? しかし、仏さん、医者が診断しているはずです。あ、あの時も来られてましたね。坂本先生とか、いっておられましたけど、あの方に訊くのが速いんじゃないでしょうか」
 「この親父さん、何度か脳卒中の発作を起されてまして、医師の処方による薬も飲んでいたんですな。だから、脳卒中が誤診だとすると、死因の判定を間違えただけではありません」
 「つまり、義弟の死は、医療ミスが原因だということですか。それは大問題ですね。裁判ですね、こりゃあ」
 「親父さんの死には、医師に何らかの責任があるのではと、我々疑っております。いずれこれは、当の坂本医師に当たるしかないんですが、ことがことだけに、軽々しく動くことはできません。坂本医師を詰問する前に、周辺を固めたいと考えておるんです」
 「ははあ、そう致しますと、このテープは、一つの証拠になりますね。ようございます。どうぞご自由にご利用下さい」
 「申し訳ありませんなあ。物証がありますと、非常に助かります」
 「しかし、そういうことであれば、葬祭場の職員の方にきいた方が確実じゃないですか。現に、この男、死因を疑っているわけで……」
 「それがですね、この男、行方不明なんですな」
 「それは、一体どういうことなんでしょうか」叔父は、急に不安そうな表情を浮かべて言う。「消された、ということですか?」
 「まあ、これに関して、何があったのか、現段階では、全くわかりません。偶然の一致かもしれませんし、何らかの関係があるのかもしれません。しかし、私ども、あらゆる可能性を疑っておりまして、例えばこの男が坂本医師を脅迫して、逆に殺されてしまったというようなケースもあるのではないかと考えておるんです」
 「ビデオなんか撮って、ウチの主人に害が及ぶことはないんでしょうか」叔母は心配そうに尋ねる。
 「そこまでご心配される必要はないのでは、と思いますが、絶対安全とも断言できません。ご主人がビデオを撮影されてたのは、皆が知っておりますからね」
 近藤の言葉に、叔父夫婦は動揺を隠せない。近藤は、彼等を安心させるように、補足する。
 「まあ、まさかとは思いますが、用心に越したことはございません。戸締りを厳重にして、夜間の外出は控えるようにされた方が宜しいでしょうな。万一、不審な人物を見かけたら、すぐに、我々にご連絡下さい。しかるべく、手を打ちますので。それから、今日のお話は、けして口外されないようにお願いします。いずれにしましても、このテープは、我々がお預かりしておくのが良いでしょうなあ」
 「こんな物騒なもの、手元に置きたくはありませんよ。こちらから、お願いします」叔父の佐藤は、怯え声でそう言うと、厄介払いをするように、ビデオカメラから取り出したテープを近藤に渡す。

 十月三日(日)午前十時、佐藤とその母映子は、佐藤鉄工所のトラックでエミちゃんの実家に向かう。トラックの荷台には、佐藤家の庭から掘り上げたバラ六十株ほどと、白い石でできた女性の像と水盤が積んである。
 トラックは、佐藤鉄工所の設備と共に、客先に引き渡すことになっている。工場の設備は、ほとんどが運び出されてしまったが、このトラックは、引越しの作業の間、佐藤家で使わせてもらうとの約束で、まだ残してもらっている。
 佐藤家では、十月の一日から、賃貸のマンションを借りている。3LDKのそのマンションは、佐藤と母のふたりの暮らしには充分な広さがあるはずだが、捨て難い家具や道具類を運び込んだ結果、一部屋は完全に道具類に占領された物置になってしまい、入り切らない家具が、他の二部屋にも並んでいる。
 食卓や応接セットは、マンションのしかるべき場所に置かれているが、真新しいマンションの部屋に、使い古した家具は違和感がある。
 映子は、古い家具を捨てようという佐藤に抵抗し、これらをマンションに持ち込むことを強固に主張したのだが、実際に部屋に置かれた家具を見れば、この考えを改める必要を感じる。
 「また、すぐに引越しをするんだから、その時に、持って行くなり、買いなおすなり、考えましょう」映子はそう言って、佐藤の考えを、半分だけ受け入れたものだ。

 佐藤は、トラックをエミちゃんの家の門前に着ける。
 佐藤が、トラックを降りて、塀に埋め込まれたインターホーンのボタンを押すと、待ち構えていたようにエミちゃんが瞬時に応答する。
 すぐに、エミちゃんとその母が出て来る。ふたりは、バラの植え替え作業を手伝うつもりなのか、Gパンに長めエプロンを羽織り、長靴まで履いている。
 「バラを植える場所、エミにご案内させますので、私を荷台に乗せて頂けますか」エミちゃんの母が言う。
 「どうぞどうぞ。それでは私も荷台に乗りましょう」佐藤の母、映子はそう言いながら、トラックの助手席を降りる。
 「あらあら、三人、乗れるんじゃありませんこと?」
 「いえいえ、お付き合い致しますよ。こういうの、一度やってみたかったんです」映子は、そう言いながら、荷台に飛び乗り、エミちゃんの母に手を貸す。
 佐藤は、荷台のふたりが柵にしがみついていることを確認して、エミちゃんの指示に従いトラックを走らせる。
 近藤家の西隣にはコンクリート造りのアパートが数棟建っている。そのアパートと近藤家の塀の間の狭い道を少し進むと、道の両側は果樹園に変り、やがて小さな開けた場所に突き当たる。
 「ここです」
 エミちゃんの言葉に、佐藤はトラックを停める。
 佐藤と母の映子はトラックを降りて周囲を見渡す。
 ここが東京の都心に近い住宅地であるとはとても思えない。
 空き地の南側は、ゆるやかな傾斜地になっており、その先の茂みは公園だという。左右には、等間隔に梅が植えられ、わずかに色づいた葉が残されている。
 「この坂のところでどうかしら」エミちゃんの母は言う。「日当たりも良いし、水はけの良いところが、バラには良いんでございましょう」
 「申し分ありません」映子は言う。
 佐藤はトラックの荷台からスコップと肥料の袋をいくつか下ろすと、早速穴掘りを始める。地面は背の低い雑草で覆われているが、その下は、ほくほくとした黒土だ。
 「良い土ですねえ」佐藤は感心して言う。
 「ここは畑だったんです」エミちゃんの母が言う。「主人の先祖が、何代にもわたって、耕してきたんですよ。粗末にしたら、罰が当たるわ。ウチでは、マンションを建てる時も、表土は、剥して、果樹園に持って行っているんですよ」
 佐藤が掘った穴に、映子は肥料を入れ、土を少し入れて穴の底を均す。
 エミちゃんは、ひしゃくで肥料入れを手伝うが、肥料の一つが気になり、映子に尋ねる。
 「この牛肥、ってなんですか?」
 「あ、それはね、牛糞」映子が答える。「なんか混ぜてあると思うけど」
 「ぎゅうふん、って……」エミちゃんは目を丸くして問い返す。「牛の、えーと、あれですか?」
 「そう、牛の糞。だけど乾燥してあるから、臭くないでしょう。多分、消毒もしてあるはずだけど、触らない方が良いかも知れないわね」
 「鶏糞に牛糞、昔はウチもよく使っていたけど」エミちゃんの母が言う。「ご近所から、臭うって苦情が出て、最近は化学肥料がほとんどね」
 「牛のうんこを、お金を出して、買ってくるんですかあ?」
 「そう、バラには牛糞が良いのよ。化学肥料ばかりだと、土が死んでしまうんです」
 「先代のお爺さんは、この黒土は、何年も堆肥を梳き込んで、やっと作ったんだ、って言ってましたね」エミちゃんの母が言う。「そういう畑を、今の人は、平気で埋めたててしまうんですよ。コンクリートの屑かなんかでね。そうそう、お水が要りますね」
 エミちゃんの母は、散水用のホースの準備をするために姿を消す。やがて穴を掘り終えると、佐藤は革手袋をし、荷台からバラの苗木を次々と下ろして穴に入れていく。
 苗木の多くは、まだ花を付けている。バラの苗を植え替える際は、枝を切り詰めて行なうのが正しいやり方なのだが、せっかく咲いている花を切って捨てるのも忍びなく、映子は、短時間で植えかえるからと理由をつけて、花が付いたまま植え替えることにしたのだ。
 映子は、苗木に付けた荷札をちらちらとみながら、時々、苗木を入れかえる。仮植えとはいえ、樹形や色のバランスを考えているのだ。佐藤が苗木の位置を決め、映子が土を入れ戻す。エミちゃんは、植付けの終わったバラに、ホースから水をたっぷりと注ぐ。苗木に付いていたバラの花は、一部が植え替え作業で痛んでしまったものの、かなりの苗木にはまだ綺麗な花が残っている。
 「来週も、咲きがらを取りに来なくちゃいけないわね。今年は、早めに取った方が良いでしょう」映子はそう言いながら、痛んだ花を切り取る。
 「バラは初夏の花だと思っていましたけど、随分と長く咲くものなんですね」エミちゃんの母は、映子の作業を見ながら言う。
 「オールドローズは、春しか咲かない、一季咲きが多いんですけど、モダンローズは四季咲きで、秋にも見頃があるんですよ」
 「まあ、年中咲いているんですか?」
 「冬は、咲きませんけどね。確かに、四季咲きって言うのは、ちょっと言い過ぎですよね。だけど、バラをやる人たちは皆さん、四季咲き、って呼んでいますねえ」
 「四季咲き、良い言葉じゃありませんか。私たちもあやかりたいものね」
 「恋の、四季咲き、ですか?」映子は、いたずらっぽく、エミちゃんの母に微笑んで言う。
 「まあ、おほほほ」
 エミちゃんの母と他愛のない話をしながらも、映子は手を休めずに咲きがらを摘み取る。
 作業が終りに近付いた頃、エミちゃんの父が軽トラックを運転して空き地に入ってくる。
 「大分、植わりましたな」エミちゃんの父は、腰に手をあてて言う。「見事なもんだ」
 エミちゃんの父は、挨拶しようとする映子を制止して軽トラックの荷台に向かい、折り畳み式のベンチとテーブルを取り出し、昼食の準備を進める。

 バラの植え替えが終わる頃には、エミちゃんの父は昼食の準備を完全に終えている。ホースの水で手を洗った一同は、エミちゃんの両親に勧められるままに、席に付く。佐藤は、手洗いを借りに、エミちゃんとトラックで母屋に向かう。
 「あのう、こんなことまでして頂いて、恐縮してしまいます」映子は言う。
 「いえいえ、今日はお礼方々ですから、ご遠慮なく」エミちゃんの母は、不審顔の映子に、説明する。「お蔭様で、詐欺の被害を最小限に抑えることができました。全額は取り戻せませんでしたけど、九割方取り戻しましたからね。一味の何人かを逮捕できたのは、佐藤さんのお働きだと聞いておりますわ」
 「亡くなった夫の手帳がお役に立てたそうですけど、警察と、近藤調査事務所のお手柄ですよ。でもそれは、普通のお仕事ですからねえ。あまり、近藤さんがお気にされる必要もないんじゃございませんか?」
 「いえいえ、事前にお話を聞かせて頂けなければ、ニュースを聞いて大慌てするところでした。他の被害者の方にもお会いしたんですけど、皆さん、一銭も取り戻せていないようです。ウチも大損害をするところを、間一髪、助かりました」
 「まあ、その話は、またの機会にしましょう。せっかく御越し頂いたんですから、俗世間の話は忘れて、愉快にやりましょう」エミちゃんの父は、肉を焼きながら言う。「こうして見ると、見事なバラですねえ。このまま、植えておいて頂いても悪くはないですねえ」
 「そうですねえ」映子は、考えるように言う。「今年の冬では無理でしょうね。来年の冬まで置かせて頂けると助かります」
 「来年の冬ですね。それまでに、お話がまとまると良いですねえ」
 「お話? 何のことでしょうか」
 「おまえは、先走ったことを言わない方が……」エミちゃんの父は制止するが、エミちゃんの母は、それを振り切って話しを続ける。
 「ここの空き地ですけど、いずれエミが所帯を持ちましたときは、小さな家を建てて住まわしてやりたいやりたいと考えているんです。それでですねえ、それに、お宅の息子さんを頂ければ、私共、望外の幸せでございまして」
 「え?」映子は驚いてきき返す。「私、息子からは、何も聞いていないんですが、何かお約束を致したんでしょうか」
 「いいえ、何もございませんし、そもそもエミだって、私どもに何も話してはおりません」エミちゃんの母は言う。「だけど、様子を見ていれば、わかるじゃありませんか」
 「それは、本人たちに聞いてみるのが一番ですね」映子は言う。「私も、エミさんは、とても良いお嬢さんだと思いますけど、こういうことは、本人たちの考え次第ですからねえ」
 「あ、それはお止め下さい」エミちゃんの母は慌てて言う。「こんな話をしたのが、エミに伝わったら、恨まれます。お母様が反対をされないということがわかれば、それで充分でございます」
 「まあ、こういうことは、なるようにしかならないからねえ」エミちゃんの父は、肉をひっくり返しながら言う。「噂をすれば影だ。帰ってきたよ」
 佐藤の運転するトラックが、でこぼこ道を揺れながら、空き地に入ってくる。
 「ごめんなさーい。お待たせして」トラックから降りたエミちゃんはそう言うとテーブルに近付く。
 「ちょうど肉が焼けたところだ」エミちゃんの父は、肉を各人の皿に配る。
 エミちゃんの母は、唇に指を当てて、映子にそっと目配せする。

 佐藤が母の映子と共に自宅に引き上げたのは午後二時を回ったところだ。
 佐藤たちはバラの植え替えを午前中に済ませるつもりだったが、昼食を出され、思いもかけず話が弾んでしまい、気が付いた時は午後の二時だ。
 佐藤は、三時前に近藤と落ち合い、坂本医院を訪問する約束があったため、後片付けもそうそうにエミちゃんの家を引き上げ、自宅に戻ってきたのだ。
 「あの、エミさんって、なかなか良い娘さんじゃない」映子は、それとなく佐藤に尋ねる。
 「良い子だよ」佐藤はネクタイを結びながら応える。「なんか、僕に気があるみたいなんだけど、まだハタチそこそこ、若過ぎるよね」
 「なに言ってんの。あんただって、まだ二十五じゃない」
 「だから僕も若すぎる」佐藤は背広に手を通しながら言う。「今だって、充分に快適だし、何も慌てることはない。それにね、近藤調査事務所の給料じゃあ、結婚なんてとてもとても……」
 「あまり心配をさせないでおくれよ。私だって、いつまで丈夫か、わかったもんじゃないんだからね」
 「どう見ても、あと五年は大丈夫でしょう」
 「まっ」という映子だが、外に車のフォーンが聞こえ、会話は中断される。
 佐藤が玄関を出ると、案の定、近藤が車で待っている。
 「約束は三時、ちょっと早めだが、こうしていてもしょうがないから、行こうかね」近藤は、車に乗り込んだ佐藤に言う。「待たされるかも知れないが、良いだろう」

 坂本医院は、医院という名前から想像されるような、個人の経営する診療所を超えた、小規模な病院である。
 玄関のガラス戸を押し開けると、そこは待合所になっており、数人の患者が呼ばれるのを待っている。
 近藤は受付の看護婦に、坂本先生に三時の約束がある旨伝える。看護婦は、待合室のソファーを示し、あちらでお待ち下さいという。
 坂本医院は日曜も診療を行っているのか、待合室に数人の患者がいたことから、近藤はかなりの時間、待たされることを覚悟する。しかし、案に相違して、すぐに看護婦が近藤の名を呼び、応接室に案内する。
 「どうされましたか?」坂本医師は、近藤を不審そうに一瞥すると、佐藤に尋ねる。「お電話では、死亡診断書に、疑問を持たれているとのことでしたが。もちろん、ご遺族の方からのご質問には、我々、できる限りお答えしたいと常々考えておりますので、ご遠慮なくお尋ね下さい」
 「私はこういうものです」近藤は名刺を坂本医師に渡し、早速質問を始める。「実は、佐藤の親父さんの骨が盗難に遭うという事件を、私ども調査致しております。盗まれた骨の身代金を要求する電話があったことは事実ですが、金銭目当ての犯行としては、極めて異常な事件でございまして、その後の犯人からのコンタクトもありません。私ども、この犯行の背景には、金銭以外の理由があったのではないかと疑っております」
 「例えば、どのような理由でしょうか?」
 「つまり、骨そのものに、なにか秘密が隠されていたという可能性ですな。それで、坂本先生に、なにか、お心当りはないかと、本日ご相談に伺った次第です」
 「骨、ですか」坂本医師は、応接テーブルの一点を凝視しながら言う。「骨、と言われましても、私、佐藤さんの骨は、焼き場で、ホンの短時間見ただけでして、特に、異常というようなものは、気が付きませんでしたが」
 「親父さんの死因ですが、脳溢血、ということで間違いないんでしょうか」
 「これは、どこの医師が診断しても、そう判断するでしょう、あの経過から判断すれば、ですね。ご遺体の髄液検査をすれば、正確な診断ができたかもしれませんが」坂本医師は、首の後ろに人差し指を当てて言う。「ここに注射針を挿して、脳脊髄液を採取致します。それが血性、つまり、血液が混入しておりますと、脳内出血があると判断されます。しかし、この検査も見落としがございますし、患者さんに負担があることから、昨今ではCTでの診断が主流です。佐藤さんのケースでは、CT検査を予定していたんですが、その前に亡くなられたので、検査できず仕舞いということになりました」
 「死因はどのように診断されたのでしょうか?」
 「これはもう、佐藤さんは、動脈硬化と高血圧の持病がございまして、過去に二度と、亡くなられる直前にも脳溢血の発作を起されておりました。ご遺体の状況からも、脳溢血を否定する兆候は全くございませんでしたので、脳溢血と診断致しました」
 「亡くなられた後には、特に検査は、されなかったんですな」
 「もちろん、そんなことは致しません。検査は、治療方針を定めるために行なうものですからね。看護婦から連絡を受けて私が駆け付けた時は、既に亡くなられておりました」
 「服毒死、という可能性は考えられませんか?」
 近藤のこの質問に、坂本医師はしばし絶句する。
 「なぜ、佐藤さんが毒で死ななければならないのでしょうか?」坂本医師はおずおずと尋ねる。
 「医学上の可能性について、お尋ねしているのです」近藤は、ぴしゃりという。「誰が、なぜやったのかということは、ここでは、問わないことに致しましょう」
 「毒で亡くなられた可能性は、否定できません」坂本医師は静かに言う。「お口の辺りには、異臭も糜爛も認められませんでしたから、農薬や青酸系の毒物、あるいは、酸、アルカリなどの腐食性の薬品を服用した可能性はありません。ただ、毒にも、いろいろございますから、明瞭な痕跡を残さない毒が用いられた可能性は否定できません。しかし、近藤さんも、恐ろしいことを言われますな。これまでの佐藤さんの症状と死亡に至る経過から判断いたしますと、脳溢血で無くなられたことに、まず、間違いないですよ。佐藤さんが脳溢血の持病をお持ちだったことは、私の診断だけではなく、大学病院の診断とも一致してます」
 「大学病院? そんなところでも診察を受けていたんですか?」
 「あ、そうでした」佐藤は言う。「二度目の発作のあとに、K大病院で検査してもらったんです。念のためにCTを撮ってもらおうかと考えて行ったんですけど、そのときは、当分心配はないということで、これ以上の検査はせずに、診療所での予後の検査を続けるようにと言われました」
 「K大病院のカルテ、コピーを頂いております」
 坂本医師は、カルテのコピーを探し出すよう、看護婦に連絡する。
 「前二回の発作は、頭痛と吐き気を訴えた後に意識不明になっておりまして、明らかに、脳内出血の症状に一致します。K大の診断も、同じでした。稀に、他の部位の出血などにより、脳に血が回らなくなると、同様の症状を示すこともあるんですが、他に疾患がある兆候は認められておりません。問診以外にも、血液検査と、便の潜血検査を行っておりますから、まず、間違いはありませんね」
 看護婦が坂本医師にカルテを差し出す。近藤は病院名と担当医師の名前を読み取ると、忘れないように頭に叩き込む。
 坂本医師は、手書きでドイツ語交じりの、読みにくいカルテの文章を、一行ずつボールペンの先でなぞり、近藤にその意味を説明する。その内容は、坂本医師が先ほど説明した通りだが、最後に、『症状軽度、経過要観察』という言葉が追加されている。
 「ははあ、なるほど、おっしゃる通りですなあ」近藤は坂本医師に同意する。「このときは、CTその他の検査はされなかったんですね」
 「ええ、症状が軽度で、麻痺その他の後遺症もございませんでしたからね」坂本医師は言う。「昔は、猫も杓子も機械に掛けて検査したものです。その方が、病院の経営上は宜しいのですが、最近では、保険の本人負担も馬鹿になりませんし、X線CTでは被爆の問題が指摘されまして、最近では、不要な検査は、あまり行わないようにしておるんです」
 「三度目の発作のとき、CT検査を予定されたのはなぜでしょうか?」
 「あの時は、後頭部を強打されてましたので、念のため、検査するようにお奨めしたんです。朝、発作を起されまして、昼過ぎには、元気を回復されていましたから、そのまま退院して頂いても良かったんですが、頭部を強打された場合、時間がたってから、容態が急変することがございますので、元々血管が弱っているということもあり、大事を取って入院して頂いたわけです。運動などが、容体悪化の引き金になる場合が多ございますからね」
 「脳内出血した場合、火葬後の頭蓋骨の内側に、血液による変色が観察されるとのことなんですが、親父さんの頭蓋骨には、そのような変色はなかったようですな。坂本先生は、お気付きになりませんでしたか?」
 「いやあ、気付きませんでしたねえ。ああ、近藤さんが御覧になったんですか?」
 「いや、私もその時はわからなかったんですが、葬祭場の職員が不審に思ったんですな」
 「なにか、連絡でもあったんでしょうか」
 坂本医師は、上目使いで近藤に尋ねる。近藤は、その質問には応えずに、話しを続ける。
 「その職員、現在、行方不明なんですな。先生も、変だとは思われませんか?」
 「しかし、私も、近藤さんも、骨の異常には気が付かなかったわけで、疑問を感じたという葬祭場の職員もいない、肝心の骨も行方不明では、なんとも言い様がないんじゃないでしょうかねえ」
 「幸い、記録は残っています」近藤は、鞄から小さなビデオカメラを取り出して言う。「そのテレビ、ちょっとお借りして宜しいでしょうか」
 坂本医師が頷くのをみた近藤は、応接室に置かれたテレビ受像機の電源を入れ、ビデオカメラと接続する。昨夜編集済みのテープは、短い青色のリーダーシーンに続いて、葬祭場職員の喉仏の説明シーンに入り、続いて、参列者が骨を拾うシーンに移る。
 「ここ、背景に写っておりますでしょう」近藤は解説する。「この職員、喉仏の他に、頭蓋骨の欠片を集めているんですな。それで、何を考えたか、頭蓋骨の裏表を観察しているでしょう。テレビの画面では見難いんですが、骨は白色で、血痕はありませんな」
 「はあ、そう言われてみれば、そんな感じも受けますが、なんとも言えませんね。骨も、それほど大きく写っていませんから、確定的なことはわからないのではないでしょうか?」
 近藤は、鞄からA4の上質紙にプリントされた写真を数枚取り出す。
 「ビデオの画面は不鮮明なんですが、これを拡大して計算機処理すると、かなり鮮明になります」近藤は、大きな写真を坂本医師に手渡して言う。「この葬祭場職員が観察した、それぞれの骨の、裏表を拡大したのがこの写真なんですが、どの骨にも、血の跡は写っておりません」
 写真に顔を近付けて頭蓋骨の画像を凝視する坂本医師の額に汗が浮き出す。坂本は、白衣のポケットからハンカチを出して額を拭いて言う。
 「近藤さんは、佐藤さんが脳溢血を患っていたことを否定されようと言われるのかな?」坂本医師は、写真をテーブルに放り出すと、語気を強めて言う。「ご専門でなければわからないと思いますが、脳溢血にもいろいろありましてね、少量の出血が脳神経に作用して、重大な結果を招く場合も多々あるものです。出血が少量であれば、頭蓋骨に血痕などなくても、不思議ではないでしょう。いずれにせよ、佐藤さんの脳溢血は、極めて軽度な疾患だったんです。これは、後遺症も残らず、完全に回復されたことから、裏付けられています。それに、脳溢血の診断は、K大病院の診断とも一致しております。近藤さんは、私と、K大病院の双方が、誤診をしたとご主張されるのですかな」
 「坂本先生、我々が追っているのは、佐藤さんの骨壷盗難事件でして、別に先生の診断を疑っているわけではありません。骨壷盗難事件を調査する過程で、いろいろと疑問に思われる材料が出てまいりまして、それを専門家である先生にお見せして、ご意見を伺おうというのが、今回のご訪問の趣旨でございまして……」
 「ああ、さようですか」坂本医師は、憤然として言う。「それでしたら、お話は簡単です。佐藤さんのご病気は、明らかに、脳卒中でした。少なくとも、三回の発作は、脳溢血の発作と完全に同一の症状を示しております。これは、私だけの診断ではなく、K大病院の診断とも一致しております。佐藤さんが亡くなられた原因に付きましては、ご病歴と、なくなる直前の発作、およびご遺体の所見から、脳溢血とするのが妥当と考えますが、特殊な毒薬による服毒死という可能性を否定するものではありません」
 近藤は、これ以上議論を続けても無駄だと覚る。
 「お蔭様で、事情がよくわかりました。本日はお忙しい中、お邪魔して申し訳ありませんでした」近藤は、坂本医師に深々と礼をして、テーブルの写真とビデオのセットを鞄に仕舞い、退散する準備を始める。
 「そのカルテ、コピーを頂けませんか?」佐藤が言う。
 「これですか……」坂本医師は、カルテを手に、しばし考えるが、やがてきっぱりと言う。「カルテは、ご本人からの申し出でがあれば、コピーをお出しすることもあるのですが、これは、転院などされる場合の例外的な扱いでして、第三者には、基本的に、お渡ししないことにしておるのですよ。もちろん、私どもで責任を持って保管致しますから、警察等からの正式な要求があれば、お出し致します」
 「佐藤君、本日のところは、十二分にお話がきけたんじゃないかね。そろそろ失礼しようや」近藤は佐藤を促すと、改めて坂本医師に頭を下げ、医院をあとにする。

 「坂本医師、どうも怪しいですよ」医院を出ると、佐藤が言う。
 「ちょっと待ってて」そう言って、近藤は手帳を取り出す。「K大病院の村上先生だったね、あのカルテ書いたの。一度お会いして、お話をきくことにしよう」
 「そうですねえ。それがありますからねえ。それさえなければ、全てが坂本先生の誤診で、親父は脳溢血ではなかったのかも知れない」
 「しかしねえ、脳溢血でなければ、なんで意識を失ったかが問題だね。あのお歳で、血圧が高ければ、脳溢血も、それほどおかしくはないんだが」近藤はそう言うと、坂本医院の駐車場から車を出す。
 「どちらにしても、K大病院もそう診断しているわけですから、脳溢血の発作を起こしたことは、間違いないんでしょうね。ただ、脳溢血の発作はたいしたことではなくて、直接の死因が毒殺だということはあり得ますね」
 「毒殺であっても、毒を使った痕跡が骨に残らないなら、骨を盗む理由はないはずだね。親父さんが脳溢血を起しておらず、それが骨から判断できるとすれば、骨を盗む理由にはなるはずだが。それに、焼き場職員の失踪事件との関連も考えなくてはいけない。恐らく彼は、頭蓋骨に血痕がなかったので、死因が脳溢血ではないと気が付いたんじゃないのかね。須山氏が誤診に感づいた結果、何者かに消されたのではないか、という仮説は捨て難いんだよねえ。頭蓋骨に血痕がなかったのは、ビデオの画像からも確認されているしねえ」
 「脳溢血でも、軽度であって、骨に血痕が残らないという可能性はどうでしょうか?」
 「その場合、なぜ骨が盗まれたのか、なぜ須山氏が失踪したのか、その理由がなくなる。しかし、坂本医師が誤診をしていたなら、全てのつじつまが合うんだね」
 「つまり、K大病院も、誤診をしていたということですか?」
 「そういうことになるなあ。これを調べるのは、至難の業だろうがねえ。まあ、村上教授のお話をききに行くのは、まるっきりの無駄でもないと思うよ」

 近藤は佐藤の家の玄関前に車を乗り入れる。庭に続く木戸が開き、映子が顔を出して言う。
 「お帰りなさい。近藤さん、お茶でもお一つどうですか?」
 「今日の話、お袋にも聞かせたいと思うんですが、付き合ってもらえませんか?」佐藤も、母に合せて、近藤をお茶に誘う。

 「もちろん、坂本医師も、K大の村上教授も正しいという可能性はあるんだがね」近藤は、映子の差し出した煎茶を口に運びながら言う。「骨は、金目当てで盗まれたのかも知れないし、失踪する人間だって、今の日本じゃ珍しくないから、須山氏の失踪は、たまたま、時を同じくして発生しただけなのかも知れない。しかしね、偶然というのを、俺はあまり好きじゃないんだね。これらの事件に、何らかの関連があるという可能性を攻めてみたいと思うんだ。つまり、親父さんの死因は脳卒中ではなく、須山氏の失踪はそれに気付いたからであり、骨壷の盗難は、頭蓋骨に血が付いていないことを隠すために行われたという可能性だね、俺が追求したいのは」
 「しかし、K大病院も、坂本医師も誤診をしていたとして、その場合、親父はなぜ死んだんでしょう」
 「そうだねえ、一つの可能性は親父さんが他の病気を患っていたということだね。それが、適切な治療を受けられなかったために死に至ったという可能性だ。これなら、医療ミス事件ということになるね」
 「でもねえ、血圧はたしかに高かったんですよ。毎日測っていましたからね」お茶を出しながら、映子が言う。「それに、いきなり意識を失う発作なんて、脳卒中以外にないんじゃないでしょうか。おかしな自覚症状もありませんでしたよ」
 「まあ、俺たちの知らない病気だってあるからね」近藤はお茶を味わいながら言う。「もう一つの可能性は、殺しだな」
 「殺し?」映子は驚いて言う。
 「もし、親父さんが毒を盛られたとすれば、脳卒中の発作を起していないのに関らず意識を失ったのも不思議ではない」
 「ウチで起こした発作が、毒のせいだって言うんですか?」映子の口調がきつくなる。「そりゃあ、発作を起こしたのは、食後すぐですけど、私は毒など仕込んでいませんよ。第一、同じものを皆が食べたんですからね」
 「親父さんだけが口にしたものも、あったんじゃないですか?」近藤は言う。「お薬とか」
 「あの人が飲んでいたのは、坂本先生から頂いた薬だけですよ」映子は言う。「誰かがスリ替えたってことですか? そうでなければ、坂本先生がやったということになるじゃありませんか」
 「そういうことになるねえ。それで、もし坂本医師が親父さんに毒を盛っていたとすれば、誤診は意図的に行われたということになるなあ」
 「お薬は、いつも茶の間に置いていましたからねえ」映子は言う。「すり替えられたんだとすると、私か渉ちゃんがやったってことになるわね。だけど、あなたも、そんなことはしていないでしょう」
 「するわけがないでしょう」佐藤は語気を強めて否定する。
 「一応、薬を分析してもらおうかね」
 近藤はそう言うと、映子に頼んで、佐藤の父が飲んでいた薬の残り貰い、ポリエチレンの袋に入れて鞄に仕舞う。
 「俺が思うに、親父さんの発作が薬によるものだとしても、薬の一つだけに、発作を起す薬を忍ばせたはずだ。だから、残りの薬から、何かが出てくることは期待薄だね。だけど、薬の包装に付いている指紋は問題だ。こいつの指紋と同じなら、坂本医師が処方したということになるからね」
 近藤は、鞄から大判の茶封筒を引き出す。その中に入っているのは、骨の拡大写真だ。近藤は、坂本医師の指紋を採取するために、坂本医師に写真をつかませたのだ。
 近藤は、茶封筒をしまいながら、難しそうな顔をして、付け加える。
 「ただ、坂本医師が親父さんを殺したという仮説の最大の問題は、動機だね。坂本医師には、佐藤君の親父さんを殺さにゃならん理由というものが、ひとつもない」


第九章   シテ?

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 十月四日月曜日、近藤調査事務所は大忙しだ。
 鈴木刑事から、午後一時ごろに訪問したいとの電話が朝方入り、それまでに、これまでの調査結果をまとめておこうと考えたのだ。
 エミちゃんは近藤と佐藤の報告書と録音を元に、大急ぎで報告書を作成している。報告書のそれぞれの章を打ち終わると、エミちゃんは、完成した部分を佐藤と近藤にメイルで送る。それを二人は食い入るように読み、手を加えている。
 佐藤の叔父から受け取ったビデオテープは既にパソコンに読み取らせてある。柳原は、昨日まで画像の分析を行っていたが、ふと気がついて、今朝からは、音声の分析を始めている。ビデオを再生したとき、近藤と須山氏の会話がかすかに聞こえることに気づいたのである。会話は不明瞭で、そのままでは内容もよくわからないが、ノイズを取り除くことで、話されている内容もほぼ確認できる。
 柳原は、明瞭化処理を行った音声データをファイルに収めると、その内容を文字に直す。

 須山「仏さんは、なんで、お亡くなりになったんで」
 近藤「脳溢血と聞いとりますが」
 須山「発作は一回だけ」
 近藤「や、三度目の発作が命取りと」
 (間)
 近藤「なにか問題でも?」
 須山「いや、別に」

 この会話が交わされている間の画像は、参列者が二人一組となって骨を拾うシーンであり、マイクの指向性の関係か、参列者が話をすると、これに邪魔をされて、近藤と須山の会話が聞き取りにくくなる。しかし、画像は小さいが、須山が頭蓋骨のかけらを凝視してからこの台詞を口にしており、頭蓋骨の状況と死因の対応に不信感を抱いていることをうかがわせる。
 一通りの解析が終わると、報告書の作成をエミちゃんに任せ、近藤は柳原を大学に送り届ける。車中、柳原は単位数を計算している。どう計算しても、進級は難しそうで、柳原は、何か手がないか、必死に考えている。

 午後一時半、鈴木刑事と高橋刑事が近藤調査事務所に顔を出す。
 鈴木は、カセットテープと大きなテープカートリッジを鞄から取り出して言う。
 「これ傍受テープでして、音声と、デジタルデータの双方をお持ちしましたが、我々が分析した結果では、ろくな情報はありません。お気の済むまで解析してください」
 「どうもわざわざすみませんなあ」近藤は言う。「柳原は、本日、学校に行ってしまいましたが、今晩にでも、分析させますよ。アドレスがどうのこうのと言ってましたから、内容に情報がなくても、何か役に立つんじゃないかと思いますよ」
 「さようですか。こういうものは、やはり、ご専門の方に分析して頂くのが宜しいようですね」
 近藤はテープをデスクに仕舞うと、刑事たちを応接室に案内する。
 鈴木は、コーヒーを一口飲み、手帳を開いて話を始める。
 「えー、捜査状況につき、簡単にご報告いたしましょう。まず、詐欺の被害ですが、被害の届け出は、初日に多数あったのですが、その後は非常に少なく、これまでの合計が五千九百億少々といったところです。まあ、少ないといいましても、二百億ほどの被害届けが、昨日なされたわけでして、かなりの額ではあるんですがね」
 「これは、大きな事件になりましたなあ」近藤は他人事のように言う。
 「捜査史上最大の詐欺事件ですよ」鈴木は、語気を強めて言う。「特記事項といたしまして、被害者宅に残されていたパンフレットから、詐欺師たちの事務所が七ヶ所判明いたしました。いずれの事務所も、もぬけの殻で、手がかりはほとんど残されておりません。犯人たちの残した書類と事務所から、指紋が多数検出されておりまして、照合を急いでおりますが、これまでのところ、人物が特定されたものはありません。被害者から犯人の人相を聴取しておりますが、この作業には、まだ、かなりの時間がかかりそうです。オーハローンの販売員たちは真っ白、連中からも被害届けが出ております。自分で購入したり、親類に勧めたりしておったんですな。それから、オーハローンも被害者だと言い張っております。販売手数料を踏み倒されたと言っとります。こちらは民事事件でして、警察は原則的に介入しないんですが、いろいろと事情はお伺いしております。冷凍倉庫のほうは、道交法他で書類送検しましたが、詐欺事件との関連では、全く進展ございません。」
 「左様ですか」
 近藤は、詐欺事件捜査がそうそう急に進展するとも思っていなかったが、それでも多少の期待はあったため、残念そうに応える。
 「さて、これが私どもの報告書です」近藤は、そう言って、エミちゃんが作成した報告書を刑事たちに渡す。
 二人の刑事は、ものも言わずに報告書を読む。

 「近藤さんも、しつこく追いますなあ」報告書を読み終えた鈴木が言う。
 「この仮説、受け入れられませんかな?」近藤は自信なげに言う。
 「いや、意外と当たっているかもしれません」鈴木の思いがけない反応に、近藤はわが耳を疑う。
 「当たっている? と、言いますと?」
 「須山氏の失踪ですが、詳細を取り寄せました」鈴木はそう言うと、近藤の前に、綴じたコピーの束を差し出す。「これ、取り扱いにはお気をつけください。須山氏失踪事件の記録です」
 「こりゃどうも」
 近藤は、そう言って、報告書を読み始めるが、鈴木はそれを押しとどめるように言う。
 「まあ、詳細は後ほどお読みいただくとして、概要をご説明いたしますと、須山氏の失踪、やはり、何者かに拉致された疑いが濃厚です」そう前置きして、鈴木は須山氏失踪事件の顛末について語り始める。

 まず、須山氏についてご説明いたしますと、年齢は六十七歳、三十五年間の葬祭場勤務を定年退職した後、臨時職員として再雇用されたものです。性格は温厚で、勤務態度も良好とのことです。趣味の盆栽と、帰宅前に立ち寄る赤提灯以外には、これといった遊びもせず、私生活面でも問題は全くありませんでした。
 須山氏が失踪したのは九月の二十四日の夕刻です。
 当日十八時十五分、彼は自宅最寄り駅近くの赤提灯を訪れ、清酒三合と冷奴、焼き鳥三本を取った後、勘定を付けにして、十九時五分に店を出ています。これは、レジの打たれた時刻から確認されております。店の人の話では、須山氏は特に酩酊した様子もなく、全く正常にみえたと言っております。即ち、普段と全く変わりはなかったということですな。しかし、その後自宅へは戻らず、不審に思った家族から、二十一時十五分に一一〇番通報がなされております。
 警察では、交通事故、行き倒れなどを疑い、近隣の交番に情報を流しておりましたが、翌日朝になっても該当する情報がなく、犯罪に巻き込まれた可能性を疑って捜査に乗り出しました。
 その結果、いくつかの不審な点が見付かっております。
 第一に、須山氏が訪れた赤提灯、ほとんどの客が常連なんですが、当日、見かけない客が一人おりまして、そいつは、須山氏が店を出た直後、あとを追うように店を出ています。資料に似顔絵を入れておきましたが、三十前後の、作業服を着た工員風の男であったということです。
 第二に、当日の十九時前後、付近の路上にバンが駐車していたのが目撃されております。バンの荷台には工事用の資材が積んであった様子で、運転手一人がいたようだと目撃者は語っております。
 もちろん、この赤提灯、一見の客も珍しくなく、工事用車両が道路に駐車していることも、事件とは無関係であった可能性もあるのですが、この男たちが須山氏を拉致した可能性は否定できません。須山氏の自宅付近は、一応街灯なども設置されておるんですが、交通量はまばらで、誰にも目撃されずに須山氏を襲うことも、十分に可能であったと思われます。

 「つまり、須山氏は犯罪に巻き込まれた可能性が高い、とおっしゃるんですな」近藤は、わが意を得たりとばかりに鈴木刑事に問いかける。
 「まあ、そう考えるのが順当でしょう」鈴木は残念そうに言う。「事故の形跡は、全く見出されませんでしたし、家出する理由もありません。そもそも、失踪当時の須山氏の所持金額は、数千円であったということですから、どこへ行くこともできないはずです」
 「それで、骨壷窃盗事件との関連もありと、考えて頂けるんでしょうかね」
 「その可能性も、実は、あるんです。例の弁当屋のパートに、赤提灯から須山氏のあとを追った可能性がある工員風の男の似顔絵を見せたところ、佐藤家に押し入った男に良く似ているとの証言が得られています。但し、パートの女性も、あまり良く顔を見ていなかったということで、この証言が両事件を関連ありとする決め手となるものではありません。こちらでも、専門家の意見を聞いて見ますが。実は、我々も、近藤さんの推理が当たっていることを願っているんですよ。何分、須山氏の失踪事件、完全に手詰まりですからねえ」
 「お役に立てれば何よりです。それでですねえ、ちょっと調べて頂きたいものがあるんですよ」
 「指紋と、薬の分析ですね」
 「ええ、ここに用意しておきました」
 「薬を坂本医師が自ら処方しておれば、毒を仕込んだ可能性があるということですね。写真と薬包紙の指紋を調べればよいわけですな。もちろん、薬の成分も、お調べいたしましょう。それから、佐藤さんの親父さんの指紋が残っていそうなもの、何かお預かりできませんか」
 「あ、そうでしたな。薬包紙には、当然、親父さんの指紋があるはずだ」
 「そういわれると思って、持ってきました」
 佐藤は、鞄から小さな箱を取り出す。佐藤が蓋を取ると、中には将棋の駒が入っている。
 「親父、しょっちゅう詰め将棋をやってましたから」
 「はい、これをお預かりできれば、十分でしょう」鈴木は、将棋の箱を受け取って鞄に仕舞いながら、そういう。
 「申し訳ありませんな。まあ、毒薬は、薬のひとつだけに仕込んであったのかもしれませんから、他の包みからは、毒は検出されないかもしれませんがね」
 「確かに、医師であれば、毒薬の入手に不自由はしませんね。坂本医師の過去に関しても、一応調べておきましょう。明日の昼は、会議がありますんで、夕方にも、こちらをお邪魔いたしましょう。そのときには、多分、結果をご報告できると思いますよ」
 鈴木、高橋の両刑事は、そう言い残すと、近藤調査事務所をあとにする。

 十月五日火曜日午前九時、近藤調査事務所を見慣れない男が訪れる。その男は、近藤と似た体格で、革ジャンにGパンという、ラフなスタイルだ。男の顔もジャンパーも、ざらついた、土色をしている。
 来客を案内しようとしたエミちゃんが、男の目つきの鋭さに一瞬息を飲む間に、男は近藤のデスクに近づき、どすの効いた声で近藤に言う。
 「山岸、あんた、隠しているんじゃないかね」
 無論、この程度のことでびびる近藤ではない。金を払う気がないなら、さっさと帰ってくれとの意を言外に匂わせ、近藤は慇懃無礼に応える。
 「さて、どういうお話でしょうか。調査のご依頼ですか?」
 男のこめかみに痙攣が走る。
 コーヒーを出そうかと、流しの前に進んだエミちゃんは、恐怖のあまり、凍り付いている。
 ずっと計算機の液晶画面をみつめていた柳原も、思わず顔を上げる。
 男は、一瞬、沈黙するが、すぐに、脅しは効かないと諦めたか、憮然とした態度はそのままだが、穏やかな声で近藤に言う。
 「私はこういう者です」
 男は近藤に名刺を差し出して言う。名刺には、金融調査・取立代行、徳山エージェンシー代表の徳山泰山とある。
 「実は、山岸という男が、詐欺に近い手口で、多額の借金を踏み倒して逃げておりまして、そいつの残した書類の中から、近藤さんの領収書が見付かりましたもので、事情を伺いたいと、参上した次第です」
 「はて、山岸、ですか。領収書など、出していないはずですがね」
 「これです」徳山は近藤商店名義の五百万円の領収書のコピーを示して言う。「名義は微妙に変えてるようですが、住所は同じじゃないですか。これで騙せるとお考えでしたら、大甘ですな。近藤さんが山岸さんと会って、何事か相談をしていたことに関しちゃあ、目撃者も押さえました。山岸に対しては、刑事告訴も検討しておりますんで、下手に隠し立てすると、近藤さんも共犯ということになりますよ」
 「ああ、これですか」やっと話の筋が見えた近藤は、思わず笑みを浮かべて応える。「これは、ウチじゃないですよ。近藤商店は、このビルの一階に入っている花屋で、このビルのオーナーです。山岸は、以前このビルに事務所を構えておりまして、この領収書は、その家賃です。ここに、家賃他と、ちゃんと書いてあるじゃないですか」
 「本当ですか?」徳山は自信なげに言う。「下手な言い逃れは通用しませんよ」
 「本当ですよ。あんたもしつこい方ですなあ」
 近藤は、エミちゃんを呼んで、近藤ビル滞納家賃取立てのファイルを出してもらい、そのページを括って、数枚の紙を引き出して言う。
 「これが、調査依頼書、こっちが、近藤ビル賃貸契約書のコピーです。普通なら、こんな書類はお見せしないんですが、まあ、ここだけということで……」
 徳山は、近藤が出した紙を食い入るようにみつめ、何か不正が仕掛けられていないかと探るが、やがて、近藤の言い分が事実であると理解したようだ。
 「はあ、左様でございましたか。いや、ご迷惑をおかけしました。あの男、こちらの借金も踏み倒しておったんですな。しかし、よく、取立て、できましたなあ」
 「まあ、蛇の道は蛇、でしてね」
 「この契約書、成功報酬、ですか。近藤さんは、そんな形の依頼も引き受けておられるんですか。まあ、われわれのところも、そうなんですがね。それで、山岸ですが、もういっぺん追うとしたら、近藤さん、捕まえられますかね」
 「さて、どうでしょうかね」
 近藤、はぐらかすように言うが、徳山は畳み掛けるように言う。
 「いや、成功報酬でお受けいただければ、動いて頂けなくても、私ども、文句は言いません。まあ、額が額ですから、五分というわけには参りませんが、取立て額の三十%ということでどうでしょうか」
 「いやあ、ウチの事務所も、今、いろいろと仕事を抱えておりましてね」近藤は、徳山を追い返そうと、手の内を明かす。「それに、徳山さんも、一度は、山岸の所在を割り出したんでしょう。その領収書を押さえたということはですな」
 「これは、諏訪のパソコン塾で押さえたものですよ」徳山は笑いながら言う。「妹の嫁ぎ先ですからね。こいつを締め上げて、学習塾まではたどり着いたんですが、その先は、さっぱりわかりません」
 「ははあ、そうなりますと、我々が探すとしても、かなりの人手がかかりそうですなあ。先ほども申したんですが、ウチ、ごらんのようなちっぽけな所帯でして、今、調査員は、別件にかかりきりになっておりまして……」
 「いや、ですから、できる範囲で結構ですから。ですから、成功報酬でと。それで三千六百万なら悪くない話でしょう」
 近藤の目が釣りあがる。
 「三千六百万? いくら踏み倒したんです? 山岸、今度は」
 「あ、ですから、一億二千万、株ですったようですから、どこまで回収できるかわかりませんが、保有株式をすべて持ち去っておりますんで、なにがしかの金は、まだ、持って逃げているはずです」
 「その辺のいきさつ、報告書、ございますか?」
 「受けて頂けますか」徳山はうれしそうに言うと、鞄から書類を取り出す。「これが、これまでの調査結果です。少々汚れてますが、ようございましょうか?」
 近藤は、エミちゃんに報告書のコピーと契約書の作成を依頼すると、徳山に応接室で待ってもらうように頼む。
 エミちゃんが契約書を作成する間、近藤と柳原は、報告書のコピーを読む。

 「さ、て、と」徳山が事務所をあとにすると、近藤は、エミちゃんと柳原に言う。「これ、どうだろうねえ。三千六百万、頂きたいんだが、できるかねえ」
 「私たちが山岸さんにお会いしたの、九月二十九日ですよねえ」柳原が言う。「あの時は、ずいぶんと金回りがよさそうな雰囲気でしたけど、それから一週間も経っていないのに、今度は、一億二千万の借金で夜逃げするんですか? なんか、ずいぶんと、おかしいように思いますけど」
 「この男、第一ネットで大損したようだね」近藤は報告書のコピーのページを開いて言う。「第一ネットの株価、俺も気にしていたんだが、このところ、えらく派手な動きをした銘柄なんだ。九月二十九日に民事再生法の適用を申請して、百パーセント減資になりそうだから、ここの株持っていた人は、丸損だね。いろいろと不透明な部分があって、証券監視委員会が調査するって話になっているんだけど、海外のファンドが絡んでたりして、どこまで明るみに出るか、わからないよ」
 近藤は、第一ネットの破綻に至る経緯を記述した週刊誌をデスクの引き出しから取り出し、ページを開いて柳原に示す。
 「ここの株価、すごいですね。去年は、二千円以上していたのに、二十円くらいになったり、五百円になったり……。それで、今は一円ですか。利回り三千%って、これ、どういうこと? 株を買うと、三十倍の配当金がもらえるってことですか?」
 「まさか、もう潰れちゃったから、配当もなしだ。その株、一円で買えるけど、売りたくても売れないよ。倒産株券のコレクションしてる人はいるみたいだけどね」
 「どうしてこんなに株価が変化したんですか?」エミちゃんがきく。「去年三割の配当をしていたということは、ちゃんと、商売していたってことじゃないかと思いますけど」
 「そう、情報通信関連の量販を手がけていて、去年あたりまでは膨大な利益を上げていたんだけど、店舗を出し過ぎたのと、ゲームソフトやら、携帯コンテンツやらと、事業を拡大し過ぎて、一時、倒産するんじゃないかと騒がれたんだ。それで、額面割れが続いたところで、仕手に狙われてね」
 「シテって、なんですか?」エミちゃんがきく。
 「要は、株を買い占めて、値段を吊り上げて、売り逃げる、ってやつだ。合法的な行為だが、会社にしてみれば、迷惑な話だね。中には、暴力団まがいの仕手もあって、買い占めた株を引き取れとか、株価を吊り上げるような、良いニュースを発表しろとか言って、経営者を脅す場合もあるんだ」
 「第一ネットも脅かされたんですか?」
 「いや、裏で何があったか知らない。だけど、この仕手戦は、失敗だったようだね。一時、九百円くらいまで騰がったんだけど、そのあと、ストーンと落ちて、二十円あたりに落ち着いたんだね」
 「それで、五月にはまた騰がっていますよねえ。どうしてかしら」
 「決算発表のときに、海外ファンドの、巨額の出資話が舞い込んだんだよ。アジアマーケットに事業を展開するんだということでね」
 「で、その出資って、インチキだったんですか?」
 「いや、出資はちゃんと行われた。数千億という巨額の出資だね」
 「それで、何で潰れちゃったんですか?」
 「その出資、複雑な契約になっていてね。俺にも良くわからないんだが、特定の条件の下では、出資の引き上げができるようになっていたり、出資を株に切り替えることができるようになっていたり……」
 「ああ、なるほど。出資を引き上げてしまったんですね」
 「いや、一度、出資引き上げの話が出て株価が急落したんだが、結局、出資は行われた。それが、株に転換することになって、巨額の転換差益が出るという話になって、また、株価が急騰したんだ。ところが、資金が回らなくなってしまって、民事再生法の適用申請、ってことになったんだね。莫大な社債転換益をあてこんで中間配当をすることにしていたんだが、その権利を確定したとたんに破綻しちまって、株主は、かんかんだ」
 「だって、お金はたっぷりあったんでしょう。それで、どうして資金が足りなくなったりしたんですか?」
 「一つには、何度も倒産の噂が出て、国内の商売がうまくいかなくなったこと、もう一つには、アジアに販売拠点を作るんだということで、海外のあちこちでビルを買い込んだんだね。出資金の大部分は、不動産の購入に使われてしまったらしい」
 「お話を聞くと、その、海外ファンド、ってのが、裏で仕切っていたみたいだけど……」エミちゃんは、考えながらいう。「海外ファンドは、結局、何千億かのお金を損しちゃったんですよね。そんなことをやって、誰が儲けたんでしょう」
 「ファンドは、第一ネットの株を売り逃げするつもりだったんだろうね。しかし、第一ネットの行き詰まりがちょっと早すぎた」
 「ファンドの人って、第一ネットの経営にはタッチしていなかったんですか?」エミちゃんは突っ込む。「経営陣に入っていれば、そんなこと、わかりそうなもんだけど」
 「出資を引き上げるとかいってもめたのは、役員人事の話だったらしいけど、結局、ファンドの代理人を役員にして、出資話を丸く収めたんだね」
 「そうなると、海外ファンドの人は、損失が出るって、わかっていたんでしょう」エミちゃんは目を輝かせて言う。「判っていて損するって、ずいぶんとおかしな話じゃないかしら。それに、他に儲けた人がいるはずで、その人が黒幕ってことになるんじゃないかしら」
 「そうねえ、仕手の連中は儲けただろうね。なんせ、二十円で買った株が何十倍にもなったんだからな。うまく売り逃げできていりゃあな。全部うまくやっていれば、三回それができる。空売りもしていりゃあ、六回だな。一回で資産を十倍にしたとして、それが六回できれば百万倍だね。まあ、インサイダー情報でも掴んでいなけりゃ、そんなうまいことはできないが」
 「シテの人が、海外ファンドと、裏でつながっていれば、簡単ですよねえ。きっと、シテの人が黒幕だわ」エミちゃんは、そう言い切ってから、ぽつりと付け加える。「そういうのって、マネーロンダリングって言うんじゃないんですか?」
 「マネーロンダリング、数千億ねえ……。それって、オーハローンってか? もし、海外ファンドの金が、例の、南進丸なんちゃらで運ばれたものだとすると、話は合うが」
 「シテの人って、誰だかわからないんですか?」
 「きちんと調査をすればわかるだろう。今回は、インサイダー取引の疑惑もあるから、調査するような話だし、警察だって調べることができるはずだな」
 「私もちょっと調べておきます」柳原は、何かを思いついたように付け加える。「その、山岸さんの行方も掴めるかもしれないし……」

 午後一時、近藤と佐藤はK大病院近くの日本料理屋で村上教授を待つ。村上教授に指定されたその料理屋は、間口は狭いが、奥は広く、和風の落ち着いた調度が上品に設えられている。
 約束の時間から数分遅れて、女将が村上教授を近藤たちの前に案内する。
 「いや、遅くなってすみません」
 「いやいや、お忙しい中、お時間を取らせて申し訳ありません」
 「まあ、食事をする時間くらいありますからな」村上教授は、女将に松花堂弁当を注文して、話を続ける。「それで、ご相談の向きは、なんでございましょうか」
 「実は、私こういう者でして」近藤は名刺を村上教授に差し出して言う。「お電話でも概略申し上げたように、先日亡くなられた佐藤さんの死因に疑問を持っておりまして、坂本医院の坂本先生から、先生のところでも診察されたということを伺いまして、先生のお話もお聞かせ願いたいと考えまして、ご無理を申し上げた次第です」
 「ああ、さようでしたな」村上教授は、胸ポケットから一枚の紙を取り出して言う。「これ、私どものカルテのコピーです。普通は、第三者にはお出ししないのですが、今回は特例ということで」
 近藤は、カルテを受け取る。それは、坂本医院で見たものと同一であるようだ。
 「専門外の方にはわかり難いと思いますが、要は、佐藤さんは極めて軽症であり、心配することはないというのが、その結論です。意識障害を起こされたのも、単に、脳出血を原因とするだけでなく、栄養不足が相乗作用しておりまして、栄養を取るように申し上げたんですがね。この度、亡くなられた原因がなんであったかについては、よくわかりませんが、その後症状が悪化したものか、倒れられたときの打ち所が悪かったからではないかと想像しております」
 「脳溢血以外の原因、ということは、全く考えられませんか?」
 「類似する症状を起こす病気は、種々あります。脳に関るものでも、脳水腫、髄膜炎、膿瘍症など、種々の病気がありますし、他の部位、たとえば腹腔内での出血などがありますと、脳への血流が滞って、同様の症状を起こすケースがあります。そこで、カルテにありますように、血液、尿、便の検査を行い、触診、問診を行いまして、他の重大な要因がないことを確認いたしました。理想を申せばCTスキャンで診断するところなんですが、当時、検査病棟のほうで、一部の機械の入れ替えをやっておりまして、検査の予約が詰まっていたこともありましたので、軽症の方には検査をご遠慮願っていたんですよ。坂本先生も、その事情はご存知だったはずなんですが、患者さんからの要望で、昔馴染みのK大病院を紹介されてしまったんですな。まあ、実際のところ佐藤さんのご症状ではCT検査の必要は薄いと考えられましたから、検査をしなかったことが問題であるとも思いませんがね」
 「そういたしますと、脳溢血であったと断言できるというご判断でしょうか」
 「断言、というと、躊躇いたしますが、脳内出血の疑いが濃厚であったと言うことはできますね。いずれにしても症状は軽度であり、今後の観察によって判断すべきというのが、妥当な診断でしょう」村上教授は、専門家の慎重さで、そう答える。
 三人の前に、黒塗りの弁当箱と汁椀が運ばれてくる。
 「この店、よく使うんですよ。商売柄、他人に話を聞かれると困るケースも多ございますけど、この店、席に仕切りがありますんで、好都合です。料理も、そこそこのレベルでしょう」
 村上教授が折り紙を付けた松花堂弁当は、いくつかに仕切られた黒塗りの四角い弁当箱に、煮物、揚げ物、刺身などが少しづつ置かれた上品な造りである。扇形に押された飯の上には、細かく刻んだ紫蘇の葉が振り掛けてある。
 「確かに。なかなかのものですなあ」近藤は、料金の心配をしながら、そう答える。「佐藤君には、ちょっと足りないかな?」
 「私も、それほど大食いじゃないですよ。こういうものは、一つ一つは小さいんですけど、数がありますから、全部食べれば満腹感もありますよ」
 「ビールはいかがですか?」村上教授はぽつりと言う。
 「ビール?」近藤は驚いて問い返す。「そりゃ、我々は構いませんが、先生は大丈夫ですか?」
 「なに、今日の午後は、オペもありませんから」そういうと、村上教授はビールを注文し、言い難そうに付け加える。「それから、ここ、私に持たせてください」
 「いや、そういうわけには参りません」近藤は、慌てて言う。「ご面会をお願いしたのは私どもですから」
 「いや、私のほうからも、一つお願いがあるんですよ」村上教授は弱々しげに言う。「坂本先生は、以前はK大の医局におられましてね。私も先生の弟子でして、先生から電話を頂いて、驚いた次第です」
 「なにか、ございましたか?」
 「いや、つまりですね、坂本先生の診察に疑問を抱かれていると伺いましてね。今日、来られたのも、その調査なんでしょう?」
 近藤が、返答に詰まって無言でいると、村上教授は話を続ける。
 「患者さんが亡くなられた以上、医療の敗北であることは間違いありません。特に、佐藤さんのような軽症の患者さんに死なれては、私ども、どのような批判も甘んじて受けるしかありません。歳のいかれた方は、他のご病気もいろいろとお持ちで、診断もなかなか難しいものがあるんですが、いまさら何を言っても、言い訳にしかならないでしょう」
 「つまり、佐藤さんは脳溢血で亡くなられたのではないと、お考えなんですか?」
 「佐藤さんの症状は、脳溢血のものと一致しておりました。しかし、私どもが診察をした限りでは、極めて軽症で、生命にかかわるような兆候はありませんでした。ですから、われわれが見逃したご病気があったのか、症状が悪化したのか、わかりませんが、何らかの変化が起こっていたのでしょう。坂本先生は、本当であれば、それを見つけ出さなくてはいけなかったんですね。ですから、医療面に過失がなかったのかと問い詰められれば、それを否定することはできません。ただね、医者も人間ですから、全てにおいて完全さを要求することは難しいと思うんですよ。特に、坂本医院のような個人病院ですと、経営も大変で、スタッフも十分ではありませんから、今回のような見落としは、社会通念上、許容できる範囲ではないかと思うんですよ。まあ、ご遺族の感情を考えると、心苦しいものがあるんですがね」
 近藤は、村上教授の長い話を黙ってきいていたが、教授は、悪い奴ではなさそうだ、と判断し、手札を一枚だけ晒すことにする。
 「実はですね、私ども、坂本医師の誤診を疑ってお邪魔したんじゃないんです。実は、ニュースでお聞きかもしれませんが、佐藤さんの遺骨が盗まれるという事件が発生いたしまして、その理由を調査いたしております。時を同じくして、佐藤さんのお骨を扱った葬祭場職員が行方不明になっております。この職員、頭蓋骨に血痕がなかったことから、佐藤さんの死因が脳溢血でなかったのではないかと疑っていた兆候があります。これらの事実を総合いたしますと、佐藤さんの死が、自然死ではなく、何者かに殺害されたという推理が成り立つのではないかと、われわれ、考えております。犯人は、これに気付いた葬祭場職員を始末し、証拠となる骨を盗み出したというわけですな」
 「それに、坂本先生が関与していたということですか?」村上教授は驚きの声を上げる。
 「いや、そうとは断言できません」近藤は村上教授を安心させるように言う。「佐藤さんが亡くなられたのは、坂本医院に入院中のことなんですが、ここ、外部の者も容易に侵入できたんですな」
 「頭蓋骨内部に、血痕がなかったというのは本当なんでしょうか」
 「これにつきましては、たまたまビデオ撮影をしておりまして、その映像をコンピュータ処理した結果、血痕はなかったと、ほぼ、断言できます」
 「おかしいですね」村上教授は、食べ終わった松花堂弁当を見詰めながら言う。「確かに、私どもが診察したときは、佐藤さんの脳溢血、極めて軽症でございましたから、出血があったとしても、微々たるものであった可能性はあります。つまり、骨に痕跡の付かない程度の出血であったということですね。しかし、亡くなられたときには、相当量の出血があったんじゃないでしょうかね。脳溢血で亡くなられたとしますとね」
 「もし、佐藤さんが毒で亡くなられているとすると、どのような可能性が考えられますか?」
 「まあ、亡くなられたのが脳溢血のためではなかったとしても、いきなり毒殺ということにもならんでしょう」村上教授はあきれたように言う。「他のご病気があったかもしれませんし、薬の副作用ということも考えられます」
 「副作用?」近藤は、思いがけない言葉に驚き、村上の言葉を繰り返して尋ねる。
 「血圧降下剤というものは、一度服用を始めますと、死ぬまで飲み続けなくてはなりません。薬は、一種の毒でして、肝臓その他に負担をかけます。また、高齢の方は、体内からの薬の排出が遅れるケースがございまして、薬が効きすぎるケースもたまにあります。心筋梗塞など、他の急性疾患の原因になることもありえます」
 「血圧降下剤が効きすぎた場合、どのような症状が現れるんでしょうか」
 「いわゆる貧血ですね。顔面が蒼白になり、意識を失う場合もあります」
 「佐藤さんが亡くなる以前に起こされた二度の発作が、貧血であった可能性はありますか?」
 「そりゃありえません。素人の方には判断できないでしょうが、医師が間違えるはずはありませんよ。無論、坂本先生にも、その判断はおできになった筈です。考えられるケースは、軽度の脳溢血の発作を起こされて入院し、そこで服用した薬が効きすぎて、他の急性疾患を引き起こしたというケースですね。しかし、これは可能性でして、実際にそれが起こったと考える根拠は何もありません。まあ、薬効には個体差もございまして、仮にそのようなことが起こったといたしましても、誰も坂本先生を責めることはできないと思いますよ。坂本先生、なかなかプライドの高い方でして、皆さんが不愉快な思いをされたなら、私からお詫びいたします。ただ、腕は確かな方ですから、佐藤さんが亡くなられたことで坂本先生を責められるのは、筋違いだと思いますよ」

 村上医師と別れた近藤と佐藤は、大きな公園の中を駅に向かって歩く。
 「村上先生、誠実な方ですねえ」佐藤はぽつりと言う。「先生の言われたことは、信用しても良いんじゃないでしょうか。坂本先生も、うすうす、間違いに気づいていたけど、むきになっていただけなんじゃないですかねえ」
 「うん。親父さんが薬の副作用で亡くなられたとすると、骨に血痕がなかったという問題は片付く。しかし、それじゃあ、須山氏の失踪と、骨壷の盗難が説明できない」
 「つまり、薬の副作用ぐらいなら、無理やり隠す理由にはならない、ってことですね」
 「そう。これだけのことをするからには、相当な理由があってしかるべきだ。殺し、とかね」
 「これが殺人であるとしたら、どういうことになるんでしょうか」
 「やはり、前に議論したように、親父さんが飲んでいた薬に、毒が仕込まれていたんだろう」近藤は自分の推理を述べる。「血圧降下剤を、大目に入れていたのかもしれない。それで、三度目にはトドメをさしたってわけだ」
 「それにしたって、全然、証拠がないですね」
 「まずは、薬包紙の指紋だね。近藤医院、薬局もあったけど、担当者は別だからね。坂本医師の指紋が薬包紙にあれば、彼は相当に怪しい」
 「しかし、医師自らが薬を調合することもあるんじゃないでしょうかね」
 「そうだねえ。この指紋、あったところで、決定的証拠にはならないねえ」近藤は言う。「ま、指紋がなければ、この仮説、間違いだということにはなるがね」

 午後二時、近藤と佐藤が事務所に引き上げると、それを待ち構えていたように柳原が近藤に話し掛ける。
 「えーと、山岸さんのことなんですけど、探せるかもしれませんよ。この人、ネットの投資関係のボードに、あちこちに酷いメッセージを書いているんですよ。もちろん、ハンドル、つまり偽名を使って書いているんですけど、言葉遣いが独特で、ボードの参加者にも、ばれちゃっているんですよね」
 「ばれるって、正体がか?」
 「あ、えーと、いろんなハンドル使い分けて、一人何役もやって、インチキなメッセージを書いているんですけど、文章に特徴がありすぎて、いくつものハンドル、同一人物だろう、って言われちゃっているんですよね。ま、私は山岸さんのパソコンのクッキー、コピーしちゃったから、全部お見通し……」
 「それで、今でも、そんな馬鹿なメッセージを書いているのかね?」
 「それが、やっているんですよ。これ、ボードの管理者は、IPアドレスや、メイルアドレスを知っているはずだから、警察に頼んで情報を出させれば、居所もつかめるんじゃないでしょうかね」
 「警察ねえ」近藤は腕組みをして、考えながら言う。「まあ、やってくれるかもしれないが、これ、筋が違うねえ。山岸は、詐欺事件にも、大葉組にも、全然関係がないんだよね」
 「それじゃあ、こっちで探すしかないわね」
 「探すって、アテはあるのかね?」
 「大手プロバイダのシステムは、セキュリティが厳しいんですけど、個人の運営しているボードって、結構、ざるですから……」柳原は早口で言う。「山岸さん、何かに取り憑かれたように、そこらじゅうのボードに書き込んでいるんですよ。これ、ネットワーク・ハイって言うんじゃないかしら。多分、セキュリティの甘い、個人管理のボードにも書き込んでいるんじゃないかと思いますよ」
 「ネットワークハイ? なんだそりゃ」近藤には柳原の言っていることが理解できない。
 「山岸さん、ボードの中毒みたいなんですね。一日中、パソコンの前に座って、あちこちのボードを読んじゃあ、そこらじゅうに書き散らかしているんですよ。そういうのって、一種の病気で、ネットワークハイって言うんですよ」
 「そういやあいつ、ちょっと普通じゃなかったな。夜逃げをしておいて、余分に金を払うなんぞ、どう考えてもおかしい。病気だったのかね」
 「まあ、躁状態、ってことでしょうね。それで、セキュリティの甘いボードに書き込んでくれてれば、ログファイルを覗き込んで、IPアドレスを割り出せば、どこからアクセスしているのか、およそ見当がつきます」
 近藤には、柳原の話が、全て理解できたわけではないが、ひょっとすると山岸を捕まえられるかもしれないということだけは理解できる。後の作業を柳原に任せ、彼女の作業を邪魔しないように、コーヒー片手に、応接室に向かう。柳原は、パソコンに向かって、ボードを検索して山岸のメッセージを探し出すプログラムを書き始める。

 午後五時、鈴木と高橋の両刑事が近藤調査事務所に現れる。
 鈴木はまず、佐藤の父が服用していた薬の成分と、薬包紙に付着していた指紋について報告する。それによれば、薬は、通常の血圧降下剤で毒は検出されなかったが、薬包紙と封筒の指紋から、薬を調合したのは坂本医師であるという。
 「坂本医院には専門の薬剤師がいたが、ひょっとすると、坂本医師が薬を調合することも普通に行われていたのかもしれないね」近藤は言う。「だから、この結果で、坂本医師が薬の一つに毒を仕込んだと断定することはできないが、それが行われた可能性はある、ということができるだろうね」
 「薬効成分の量が通常の処方よりもかなり少ない、ということでしたが、これは、患者さんの年齢を考えて、そのように処方したのかもしれないというのが、鑑識の意見です」
 「実は、今日の昼、K大の村上教授のお話を伺ってきたんですよ」近藤は佐藤とエミちゃんが作成した報告書を鈴木に差し出しながら言う。「親父さんの死因は、脳溢血ではなさそうだというのが、先生の意見でした。他の病気、薬の副作用などを疑っておられましたが、副作用のほうは、きちんと配慮されていたんですね」
 「そうですね。高齢者は、薬効成分が体内に滞留しやすいため、血圧降下剤の過剰摂取になりやすいといわれてました」鈴木は言う。「いずれにせよ、坂本医院の線は、これ以上、追いかけることは難しそうですね。まあ、念のために、お話を伺うのも無駄じゃないとは思いますが……」
 「そうですなあ。で、他の進展はありましたでしょうか」近藤はつまらなそうに言う。「須山氏の失踪とか……」
 「あれからもう一度、須山氏の自宅で聞き込みをしましたが、須山氏が自らの意思で失踪した可能性はほとんどありませんね。しかし、そのほかの情報は入ってきておりません」
 「骨に関しては、その後、何かわかりましたか?」
 「少なくとも、盛り場に撒かれたという兆候は全くありません」鈴木が言う。「しかし、新事実も、全くありません」
 「うーん」近藤、お手上げとばかりに唸り声を上げる。
 「この、マネーロンダリングって、どういうことでしょうか」報告書を読んでいた高橋刑事が近藤に尋ねる。「これは、例の詐欺事件と関連するんでしょうか?」
 「詐欺事件との関連をうかがわせる証拠はありません」近藤は言う。「しかし、金額と、時期が、詐欺事件とぴったりと合っているんですな。この仕手戦、少々不可解なところもありますし、調査をされたらよいのではないかと考えておるんですよ」
 「仕手? どういうことですか?」鈴木刑事が尋ねる。
 「この第一ネット、今年の三月決算が五月に発表されたんですが、新規事業の失敗で巨額の損失が明るみに出まして、株価が急落したんですよ。その後,海外のファンドが資金援助をして海外進出もしようという話が出て株価が急騰、その交渉が決裂するという話になって急落という、大幅な上げ下げを繰り返した挙句、出資話がまとまって中間配当もするという発表が出て株価が急騰したところで、資金繰りが行き詰ってしまったんですな。第一ネット、浮動株はかなりあったんですが、出来高も大きく、仕手筋が動いたことは間違いありません。我々が疑っているのは、その仕手筋が大葉組につながりのある者で、海外ファンドの資金は、例の詐欺で巻き上げた金ではないかと疑っているんですよ」
 「ははあ、そういうことですか。国内の金は、株で儲けた、綺麗な金だという訳ですね。しかし、これは難しいですねえ。証拠があれば調べようもあるんですが……」
 「東証の方でも、調査するそうですから、そちらから情報を貰っちゃどうですか?」近藤が助け舟を出す。
 「証券取引等監視委員会、ですか」鈴木は静かに言う。「これに関しては、こちらから、問い合わせてみましょう」
 「こっちでも調べますけどね」柳原は、そう言うが、鈴木の、聞きたくない、という顔をみて、それ以上の言葉は続けず、口を塞ぐ。


第一〇章   第三のハッカー?

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 十月六日の正午、渋谷の雑踏の中を近藤と柳原が歩いている。
 店が込み合う前に昼食を終わらせようと、イタリアンレストランに入ったのは午前十一時半、コーヒーはあとで飲めるからと、日替わり定食のスパゲッティーだけを手早く片付け、今日の目的地であるインターネットカフェに向かうところだ。
 昨夜の柳原の解析では、毎日昼過ぎから夕刻にかけて、そのインターネットカフェからボードに書き込みを行うのが、最近の山崎の日課である。
 今日も同じことが繰り返されるなら、山岸は、このインターネットカフェに姿を現すはずである。

 「ここですね」ビルの入り口に置かれた看板を指差して柳原が言う。「七階かあ」
 歩行者で込み合う路地から一歩入り込んだところにあるそのビルは、他の人影も見えず、奥に狭い階段とエレベータが見えるだけだ。
 「なんか、フーゾクって感じだけど、こんなところなのかい?」近藤は自信なげに言う。
 「だって、『まんが、インターネット』って書いてあるじゃない。間違いありません」
 柳原はそういうと、さっさとエレベータの前に進み、上のボタンを押す。
 「どう見たってフーゾクだが」七階でエレベータを降りた近藤は左右の廊下を見渡す。
 奥にスモークガラスの自動ドアがあり、中のカウンターの向こう側に男が一人立っている。
 柳原は、近藤の呟きを無視して、カウンターに進み、「二人、かたっぽは喫煙席で」と言う。
 カウンターの男は柳原に小さな紙切れを二枚渡し、案内図を出して、柳原に割り当てた端末の場所を示す。
 「近藤さんはここです、わかりますね」柳原は、近藤に伝票を渡して、案内図で端末の場所を示す。
 室内は、壁や天井が黒く塗られているためか、薄暗い印象を受ける。通路の壁には本棚がしつらえられ、漫画の単行本が所狭しと並べられ、ダウンライトが背表紙を照らしている。
 きょろきょろする近藤を見て、柳原は、近藤を、割り当てられたボックスに導く。
 「ここが近藤さんの場所ですからね」
 「あいつ、こんなところにいるんかね」近藤は不安そうに言う。「それに、どうしたら良いのかな?」
 「メイルを設定しときますから」柳原は、手早くキーボードを操作して言う。「あいつ、ここに現れるはずですから、見付けたら連絡します。それまで、漫画でも読んでいたら?」
 「そうだ、コーヒーと灰皿もいるな」ボックスの中を見渡した近藤は、やっと落ち着いた様子で言う。
 「それじゃ、私は私のボックスにいますからね」柳原は、コーヒーの置いてある場所を近藤に示すと、伝票を持ち上げてボックス番号を近藤に見せながら言う。「なんかあったら、メイルを送ってください」
 近藤は、片手にコーヒーカップと灰皿を、もう片手に漫画本三冊を抱えて、柳原にうなずく。

 割り当てられたボックスに落ち着いた近藤は、年甲斐もなく、少年誌に連載された探偵漫画の単行本に熱中し、三冊を読了して次の巻を取りに行く。ついでにコーヒーも補充しようとドリンクコーナーを覗くと、そこでジュースの自販機を操作している大男の顔に見覚えがあることに気づく。
 「あれ、君は田中君じゃないか。なんでこんなところにいるんだね」近藤、その男の正体をすぐに思い出し、声を掛ける。
 近藤に呼びかけられた田中、意外そうな、ちょっと困ったような顔をするが、近藤に応えて言う。
 「あ、こんちわ。ちょっと仕事を……」
 「はあ、こんなところで仕事してんの。ま、頑張ってや」近藤、それだけ言うと、漫画単行本の続巻を三冊、本棚より取り出して、自分のボックスに戻る。
 近藤がボックスに戻ると、液晶画面のメイルソフトに、新着メイルがある旨のメッセージが表示されている。近藤がマウスを操作して新着メイルを開くと、案の定、それは柳原からのメイルだ。その本文は次のとおりである。
 『山岸、六十九番のボックスでログイン、ボックスは空でした。近藤さんの右隣ですので、人の気配がしたら、返信をお願いします』
 近藤のボックスは七十番で、確かに六十九番のボックスは右隣だ。しかし、境の壁は防音仕様になっているのか、その向こう側に人がいるのかどうか、近藤には判然としない。
 そこで、近藤は、隣の様子を探ろうと、一旦、ボックスの外に出る。ボックスの扉は腰高より下には付いておらず、少し頭を下げれば中に人がいるのかどうか、わかりそうである。
 近藤がボックスを出た、ちょうどそのとき、田中が六十九番のボックスに入ろうと、扉に手をかけている。田中は、近藤に小さく頭を下げると、黙ってボックスに入って行く。
 (おいおい、このボックスにいるのは、山岸のはずじゃないのかね。なんで田中が?)
 近藤は、何が起こっているのかわけがわからないが、とりあえず、柳原に返信メイルを送る。
 『六十九番のボックス、人が入ったが山岸ではない。その人物は、以前、君を付けていた田中だ。何が起こっているのか、解説を請う』
 近藤がメイルを送信して数秒の後に、柳原からの返信が入る。
 『そんなことは、本人に聞けばわかります。すぐに行きますから、六十九番ボックスの人物が逃げないよう、見張りをお願い』
 近藤はそっと席を立ち、隣のボックスの扉の前に進む。頭を下げてボックスの内部を伺うと、そこにはまだ誰かがいるのがわかる。
 すぐに、柳原が早足で近づき、近藤に囁く。
 「このボックスから、山岸さんのアカウントが使われていることは間違いありません。中にいるのが田中さんなら、田中さんからお話を伺うのが良いと思います」
 「ここは俺が行こう」
 近藤はそう言うと、六十九番ボックスの扉を開け、田中に近づく。田中は、メイルを読んでいた様子だが、人の気配を感じて、すばやくウインドウを閉じる。
 「何です?」田中は不服そうに近藤に言う。
 「ちょっと付き合ってもらえないか」近藤は、有無を言わさぬ、強い調子で田中に言う。
 田中は、しばし考えるが、あきらめたように言う。「じゃ、ちょっとこれ閉じるから、待って」
 田中は、ブラウザの履歴と、いくつかのファイルを消去したようだ。近藤は、扉の外で田中が作業を終えるのを待つ。
 「どうするんですか?」柳原は、近藤に尋ねる。
 「ここじゃ何だから、どこか静かなサテンにでも行こう」
 「それじゃ、ここ、撤収の準備をしておきますね」柳原はそう言うと、近藤が使っていたパソコンをすばやく操作し、自分のボックスの後始末をすると言い残して姿を消す。
 すぐに田中が現れて、近藤に尋ねる。「一体なんだって?」
 「俺たちゃ詐欺師を追いかけてるんだ。山岸って奴だがね。そいつがここに現れたと思ったら、お前がそこにいたんだよ。悪いけど、ちょっと付き合ってもらえないかね」
 「付き合うって、どこに?」
 「ま、君にも事情があると思うから、そこらのサテンで話をきこうじゃないか」
 「わかりました」
 そういうと、田中は伝票を掴んで、近藤とともにカウンターに向かって歩き始める。柳原も、伝票を二つ持って、すぐに二人に追いつく。

 「ここらに静かな店はないかね?」エレベータの中で、近藤は田中に尋ねる。
 「ある。ちょっと変な店だけど」

 田中が推薦した喫茶店は、仕切りのあるボックス席が並んだ、アベック向けの店だ。さすがに平日の昼間、他の客はほとんどいない。近藤は、柳原にはクリームソーダを、他の二人にはコーヒーを注文すると、ウエイトレスが立ち去るのを待って、田中に質問する。
 「まず、田中さんと、山岸氏の関係を教えてくれないかね」
 「おれ、あの人に頼まれて、株とかお金とか、動かしている。口座数が多いので、プログラムを組んでやってる」
 「金を動かす? 口座数が多い?」
 「つまり、インターネットトレーディングね」柳原が助け舟を出す。
 「そう、それ」
 「でも、口座数が多いって、どういうこと?」
 「あの人、いくつもの名義で、あちこちに口座を持っている。三百ほど……」
 「おいおい、それって、脱税だろう」
 「分離課税だから良いんだ、とか言ってたけど」
 「いまはそんなのはないはずだがね。ま、しかし俺たちゃ税務署じゃない。脱税はどうだって良いんだ」
 「それじゃ、何が問題で?」
 「あの、山岸って奴、詐欺同然の手口で借金を踏み倒して逃げているんだそうだ。被害者は、刑事告訴も辞さない構えだから、お前も、下手をすると、詐欺の共犯ということになる」
 「詐欺? 俺、そんなつもりじゃあ……」田中は、あわてて言う。「俺、どうしたら良いか……」
 「まあ、お前が悪いことできるとは、俺だって思っちゃいない」近藤は、田中を安心させるように言う。「山岸氏のところに案内してもらえれば、直接話を付けるんだが」
 「あ、山岸さんなら、あのビルにいる」田中は、ほっとしたように言う。「案内します。電話しとこか」
 携帯を取り出した田中を制して近藤が言う。「電話はだめだ。逃げられるとまずい。アポなしで会わせてもらおう」

 田中に案内されて、近藤たちは、インターネットカフェの入っていたビルに戻る。田中はエレベータのボタンを押すが、今回は八階、最上階だ。
 八階は廊下の両側に、網入り曇りガラスの入ったスチール製の簡易パーティションで仕切られた、小さな事務所が並んでいる。その一つに、「マウンテンインベストメント」と黒々と書かれたドアがある。
 「マウンテンね」近藤は苦笑いをして言う。「まあ、山岸だからマウンテンなんだろうが、知らない人は山師だと思うぜ」
 近藤の話しに取り合わず、田中はドアをおずおずと開ける。
 「あのー、山岸さんにお客さん」田中は、小さく開いたドアから頭を室内に入れ、小さな声でそう告げる。
 近藤は、田中を押すように、室内に入る。
 小さな応接セットの向こうに、幅の広いデスクがあり、その向こう側で山岸氏が驚いた表情を見せて、腰を浮かせる。
 「まあまあ」近藤は山岸を制止して言う。「実は、また、山岸さんを追いかけてくれという依頼がございまして」
 最初は驚いた様子の山岸だったが、すぐに笑い出して言う。
 「いやいや、逃げられないもんですなあ。それで、どうされるおつもりですか?」
 近藤は胸ポケットから書類を出して、山岸の前に広げて言う。「これが請求書ですが、お返しいただけますかね。少々多額なんですが」
 「一億二千万、ですか。そんなキャッシュ、あるわけがございませんがね。どういたしましょうかね」
 「お支払いいただけなければ、御依頼主に電話して、ここに来てもらうしかありませんな。あとは直接お話しいただくということで」
 「御依頼主ですか。どんな奴でしたか?」
 山岸の質問に適当な応えも思い浮かばず近藤が口をつぐんでいると、山岸は言葉を畳み掛けてくる。
 「暴力団でしょう。大葉組って、あまり知られていないんですがね」
 「大葉組? あんた、あんなところから騙し取ったんですか?」
 「おやおや、依頼主の正体も知らずに、仕事を引き受けたんですかね。さて、近藤さん、大葉組の殺しの片棒を担ぐおつもりですかね。大葉組、私が桜が原でパソコン教室をやってた頃の生徒さんでしてね、その後、パスワードを変えないもんだから、仕手戦の情報が全部筒抜けですよ。おかげさまで、随分と儲けさせてもらいましたがね。ま、とんびに油揚げさらわれて、頭にくるのは良くわかりますけど、連中の儲けは数千億もあるんですよ。たかが数億のゼニに目の色変えても、仕方ないんとちゃいまっか?」
 「仕手? それ、第一ネットのですか?」
 「良くご存知ですなあ。全く、近藤さんには隠し事はできませんねえ。それで、一億二千万、お返しするということで、ここは、何も言わずにお引取りいただくわけには参りませんでしょうかねえ。私も命が惜しゅうございますから……」
 近藤、思わぬ話の展開に、しばらく考え込むが、やがておもむろに口を開く。
 「一億二千万、お返しいただくのは、当然のことです。なんせそれ、踏み倒した借金でしょう。借金返したぐらいで、恩を売ろうなんて思わないでくださいよ。それよりも、第一ネットの仕手戦と、大葉組の関係について、お話いただけませんかね。別に私ども、山岸さんの命まで頂くつもりはありませんから」
 「第一ネットの仕手戦ね。それで手を打っていただけますか」山岸はうれしそうに言う。「これ、三度にわたって、暴騰と暴落を繰り返したんですが、実は、大葉組が海外のファンドと組んで仕組んだ、台本付きの相場だったんですよ。第一ネット、前期は不振だったとはいっても、それまでは順調に事業を伸ばしていた、かなり大手の企業だったんですよ。こんなことがなければ、いずれは回復もしたんでしょうが、大葉組に目を付けられたばかりに、海外の不良資産を掴まされて、いまや再起不能です。詐欺師というのは、ああいう連中のことを言うんでしょうがね。つまり、近藤さんに仕事を依頼した連中のことですな」
 「その、証拠となるようなものを何かお持ちですか?」
 「メイルの控え、ディスクに焼いたのがあります。これ、同じものがいくつかこさえてありまして、信頼できる人に預けてあるんですよ。で、私に危害を加えようもんなら、このディスク、警視庁と証券監視委員会に送られる手はずになっておりましてね。大葉組の海外ファンドとつるんでの株価操作、一切の顛末が明るみに出るって寸法なんですよ。そのあたりのことも、御依頼主に、よろしくお伝えくださいな」
 山岸はデスクの引き出しから一枚のCD−Rを取り出して近藤に渡す。近藤、それを受け取りながら、思い出したように尋ねる。
 「それから、田中さんとの関係は、どうなっているんですか?」
 「あはは、それがありましたなあ」山岸は心から楽しそうに言う。「この男、大葉組に雇われておったんですよ。なかなか腕の良い男で、私がいろいろと嗅ぎ回っているのを見つけてしまいましてね。それで、ここに来たところを、私がスカウトしたんですよ。しかし、どうしましょうかね。田中さんの面倒までは、私、見切れんのですが」
 山岸は田中を見ながら言う。田中は困ったような顔をする。近藤は、事情を理解する。
 「ははあ、つまり、山岸さんは再び姿を消すと。それで、田中をどうするかと」
 「まあ、田中さんが私の手伝いをしていたことまでは、大葉組にバレていないと思いますがね。何かあると、私も夢見が悪いし、近藤さんのところで、責任を持って引き受けて頂けると良いんですがね」
 近藤は田中を見つめて考える。山岸のこれまでの行動を知る田中を押さえておくことは、今後の捜査を進める上で、極めて有利であることは間違いがない。それに、山岸が二度目の、いや、三度目の夜逃げをしたあとに、田中を一人で残しておくことは、田中の身に危害が及ぶ可能性が、確かにある。近藤は、考えを決めると、田中に言う。
 「君は、ウチに来てもらうということでどうだろうかね。俺は、近藤調査事務所というケチな探偵事務所をやっていてね。つまり、君に、探偵をやってみる気はないか、ということなんだが……」
 「探偵? それ、良い」
 「柳原さんも、良いかな」
 「ええ、私も大学があるし、田中さんに手伝ってもらえたら、調査、すごく進むと思いますよ。計算機の腕も、私より、上みたいだし……」
 「よっしゃ、話は決まった」近藤は言う。「それで、お金のほうは?」
 「それ、近藤さんの口座に振り込みましょう」山岸はあっさりという。「それで、ご勘弁いただくということで、よろしゅうございますね」
 近藤は、事務所に残したエミちゃんに電話をする。口座番号を山岸に伝え、一億二千万の振込みをエミちゃんが確認したところで、領収書を作って山岸にわたす。

 十月七日午前十時、エミちゃんは近藤調査事務所の応接室にコーヒーを運ぶ。応接室では、近藤の依頼を受けた東都銀行行員の中野が一億二千万の現金を持参して、取引の時を待っている。
 エミちゃんが応接のドア開けると、中野は、応接室備え付けの新聞を読みながら、銀縁の眼鏡を拭いている。
 エミちゃんは中野に会釈しながら、壁際の床に置かれた黒い鞄に、すばやく視線を走らせる。その角ばった大きな鞄の中には、現金で一億二千万円が入っているはずだ。

 エミちゃんが事務所に戻って席に着こうとしたとき、事務所のドアが乱暴に開かれ、徳山が姿を現す。
 「近藤さん、やってくれましたか!」徳山は、まるで酩酊しているように、ふらふらと近藤に向かって進んで、大声で言う。
 「これはどうも、わざわざお越しいただいて、すみませんな」近藤は徳山に向かって愛想よく言う。少々ガラの悪い客ではあるが、調査料として三千六百万もの大金を支払ってくれる、ありがたい客であることには違いない。「金は取り戻しました。今、お渡しいたします。書類も調えておきましたので、こちらへどうぞ」
 近藤はエミちゃんに書類の準備とコーヒーのサービスを頼むと、徳山を応接室に案内する。
 徳山は、応接室に控えていた中野に、不快そうな一瞥をくれるが、それでも、型どおりに名刺交換をし、応接室の中央の席に着く。そこに、エミちゃんが現れ、コーヒーのサービスをし、書類を揃えて、近藤の隣の隅の席に座る。
 「さて」近藤は、名探偵が謎解きをするように、全員を見渡して言う。「えー、私ども、こちらにおられます徳山さんから、山岸という男に詐欺同然の手口で奪われた一億二千万円を取り戻してもらいたいとの依頼を受け、鋭意調査をいたしました結果、その全てを取り戻すことに成功し、本日引渡しをいたします所存です」
 「ここで良うございますか?」
 東都銀行行員、中野は、近藤に確認すると、壁際に置かれた鞄を取り上げ、いくつかの膨らんだ紙袋を取り出す。
 中野が空になった鞄を床に戻す間、近藤はテーブルに積まれた紙袋を眺めて、思わず生唾を飲み込む。
 中野は、紙袋から封帯も真新しい札束を取り出し、十束づつ、数えながら机の上に積んでいく。
 徳山は、鋭い目つきで、その作業を見守っている。一方、近藤は、緩みそうになる顔を、意識して引き締めながら、その光景を眺めている。エミちゃんは、隅の席で面白そうに、札束の山と、それに対する皆の反応を観察している。
 「一億二千万、これで全部です」作業を終えた中野が言う。机の上には二列に並べられた十二の山ができている。「こちらに判をお願いします」
 近藤は、中野から受け取った伝票をエミちゃんに渡して捺印を頼むと、徳山に向かって言う。
 「これがご依頼された取立て分です。書類のほうは、後ほどまとめて処理する、ということでよろしいですな」
 「さて、それじゃあ、お約束通り、山分けとまいりますかな」
 徳山は、近藤にうなづいてそう言うと、札束の山三つと一つの山を崩して掴み取った六つの札束とを取り分け、それを近藤の方にテーブルの上を滑らせる。
 「これが近藤さんの取り分です。ようございますか」
 「確かに頂きました」近藤は、札束の山を引き寄せながら言う。「さて、書類上の処理ですが……」
 近藤はエミちゃんに目配せし、エミちゃんが渡す書類を徳山の前に並べる。書類にはいくつかの付箋が付けられ、そのページに鉛筆書きで薄く記入すべき箇所が示されている。徳山は、エミちゃんの指示に従って、署名する。
 徳山が印鑑を取り出すのを見て、近藤は、徳山の前に朱肉容器の乗った捺印マットを差し出す。徳山が朱肉容器の蓋を持ち上げようとすると、本体が一緒に上がってしまう。それを見たエミちゃんは、ちょっと微笑んで、その蓋は回転させて開けるのだというジェスチャーをする。徳山は、エミちゃんの大げさな素振りに苦笑いをしながらも、朱肉の蓋を開け、指定された箇所に捺印する。
 全ての書類が出来上がり、両者がそれを収めた頃合をみて、中野が言う。
 「えー、この現金、どうされますか? よろしければ、私どもが処理いたしますが」
 「いや、結構。この程度の金、心配していただく必要はございません」そう言うと、徳山は汚いボストンバックに現金を手際よく詰め込む。
 近藤、この姿を興味深げに眺めているが、中野の問いたげな視線に気づいて、それに応えて言う。
 「申し訳ありませんが、こちらの現金は、私どもの口座に振り込んでおいていただけませんか」
 中野はうれしそうに残りの札束を紙袋に入れ、余った紙袋とともに、大きな鞄にしまう。
 「さて、現金の処理は以上で終わり、ということでよろしいですな」
 徳山は、そう、近藤に確認すると、中野に、帰ってくれといわんばかりに目礼する。
 中野は、近藤をちらりと見るが、近藤の、用は済んだ、といわんばかり表情を見ると、全員に挨拶して席を立つ。

 「さて、近藤さん、もう一稼ぎする気はありませんかね」徳山は、中野が姿を消すやいなや、にやりと笑って近藤に言う。
 「稼げるのは結構なことなんですが……」近藤は、考えながら言う。「以前もお話したように、私ども、いろいろと仕事を抱えておりまして、他の業務に割ける人員がおらんのですよ」
 「なーに、お手間は取らせません。山岸の居場所を教えていただければ良いんです。四百万、キリの良い数字にしませんか」
 「あー、それは残念ですなあ」近藤はやれやれといった表情でいう。「あの男、もう、とっくに逃げ出してますよ。我々の業務は、金を取り戻すことでしたから、山岸氏の身柄を押えようともしませんでしたからね」
 「そういうことでしたら、二千四百万、山岸の身柄と引き換えにお支払いいたしましょう」徳山はスパッと言う。「取り戻した金の、きっちり半分が、近藤さんの取り分になるわけですな。前回同様、支払いは成功報酬で催促なし、ということでどうですか? それなら受けられるでしょう」
 「山岸の身柄を押さえて、どうされるおつもりなんでしょうか」近藤は尋ねる。「山岸さん、やくざに殺されるんじゃないかと、怯えてましたよ。まさか、徳山さんは、暴力団関係から依頼を受けて動いておられるんじゃないでしょうね」
 「近藤さん」徳山は諭すように言う。「我々の仕事、クライアントが誰かなんて、お話できるわけがありませんがね。あんたも、この業界におりゃあ、わかるはずだが」
 「ま、そりゃそうですがね」近藤は冷たく言う。「しかし、我々、犯罪の片棒を担ぐわけにはまいりませんからな。まさか二千四百万も出して、山岸氏をタコ殴りにして、それで済ますつもりだとは、とても思えないんですな。金は取り戻したんだ、それ以上何が要るんですか?」
 「近藤さんも、ちったあ、オトナにならなくちゃいけませんな」徳山は、努めて冷静さを装って言う。「世の中、奇麗事だけじゃ済まないんだよ。クライアントが何者で、依頼された仕事を片付けたあとで連中が何をしたところで、我々の仕事には関係ないじゃありませんか。金は出すといっているんだ。近藤さんは、それ以上、何を求めるんですかね。おいしい仕事は、裏の世界にゴロゴロ転がってるんでさあ」
 「徳山さんね、私だって、青臭い書生論をしてるんじゃありませんよ」近藤は徳山に人差し指を突き付けて言う。「ウチの商売、警察とも良い関係を持ってなくちゃ、成り立たないんですな。せっかく商売がうまくいっているところで、何も危ない橋を渡る必要はありません。それにね、身柄を押さえるとなったら、かなりの人数が必要だ。今のウチにゃあ、そんなことをやっておられる余裕はありませんや。せっかくの儲け話、お持ちいただいて恐縮ですが、他を当たっちゃもらえませんかね」
 徳山は、近藤の気迫に押されたか、『警察との良い関係』という言葉に恐れをなしたのか、近藤に山岸を捕まえるという仕事を依頼することは諦めたようだ。しかし、近藤調査事務所を辞すときの徳山は、しおれたような表情とは裏腹に、憤慨しているぞという感情を表すかのように、荒い鼻息を一つ吐き出すと、大股で、いずこかへと去っていく。
 徳山の足音が階段に消えるのを待って、近藤は朱肉ケースにハンカチを被せ、ポケットから取り出したビニール袋に注意深く入れ、それを持って事務所に向かう。
 エミちゃんも、書類をまとめると、近藤のあとを追う。
 近藤は、事務所の窓際に寄ると、腰をかがめて外を覗く。近藤の視線の先には、早足で近藤ビルを離れる徳山の後姿が見える。
 徳山は、少し先に駐車していた紺色の外車の後部ドアを開けると、ボストンバックを放り込み、座席に乗り込む。フロントガラスにはスモークフィルムが貼られ、内部が見えにくいが、運転手の他に、助手席にも誰かが乗っているようだ。近藤はすばやくナンバーを記録する。


第一一章   清く正しく?

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 窓の前に身を屈めて徳山を見送る近藤の背後から、平然とパソコンを操作していた柳原が声を掛ける。
 「山岸さんのディスク、凄いですよ。大葉組の市場操作のからくりがばっちり記録されています。このテンプク・ファンドってのが、海外でぐるになっている投資会社ですけど、詐欺のお金、ここに送ったんでしょうかねえ」
 「転覆?」近藤、柳原に向かって、素っ頓狂な声を上げる。「ファンドの名前にしちゃ、変な名前だねえ」
 「メイルアドレスはローマ字でtempukuだけど、署名(シグネチャー)の所には、空の『天』に福の神の『福』って書いてます。中国系かしら。縁起が良い名前だけど」
 「そいつらが具体的に何をやったか、解析できるかね」
 「大体わかります。天福に送られているメイルは、売り買いの指示で、天福からは、残高を時々連絡してますね。暗号みたいな言葉も、時々使われてますけど」
 「暗号?」近藤の目が輝く。「どれだね?」
 「この、『ドテン』とか、『現引』とか……」
 「あ、そりゃ、投資の用語。時系列でリストを作ってくれれば、解析は俺がやるよ」
 柳原は、黙々とパソコンに向かう。
 近藤は、山岸のディスクに記録されたメッセージを読みふける。
 「これでわかるのは、半分だなあ。つまり、天福さんの取引は、わかるが、大葉組が何をやったかわからない」
 「そっちは、別のホルダーで、大葉組の偉い人に報告しているみたいです。事前に報告してますから、これ、盗み見できれば、誰でも大儲けできますね。山岸さん、これで、相当に稼いだんじゃないかしら」
 「なーるほど。うまいことやりやがったな」
 「それから、大葉組、証券会社からの情報で、山岸さんが上前をはねているのを割り出してますね。それを伝えるメイルまで、山岸さん、見ちゃっているんですね。それにしても、山岸さん、そこまでわかってて、大葉組の目と鼻の先の渋谷にいたんですよ。命知らずというか、なんというか……」
 「なんとまあ」近藤は、柳原の操作するノートパソコンの画面を覗き込んで言う。「無茶な奴だな。面も割れていただろうしな。俺たちに見付かったときは、肝を冷やしたんじゃないかね」
 「そうですね。この人、徳山さんと大葉組のやり取りも、傍受してたんですよ。大葉組、山岸さんが関西方面に逃げたと考えて、徳山さんに名古屋から大阪の方を調査するように指示してますから、山岸さんは、東京にいれば大丈夫だと思ったんでしょうね。私たちに見付かったときは、びっくりしたと思うわ」
 「ははあ、関西は大葉組と対立関係にある暴力団の本拠地だから、大葉組から逃げようと思ったら、関西に逃げ込むに限るからな。それで、あの、徳山って奴は、大葉組とどういう関係なんだかわかるかね」
 「オーハローンの借金取立てを専門にやっている人みたいです。フリーで請け負っているだけかもしれませんけど」
 「写真は撮ったな。指紋も採ったし、車のナンバーも押さえたから、あとは警察に調べてもらおう。ただの取立て屋じゃあないと思うよ」
 「徳山さん、どうして山岸さんを捕まえようと考えたのかしら」エミちゃんが言う。
 「そりゃあ、仕手の上前を撥ねようってんだ。大葉組からみれば頭に来るだろう。儲けが減るからな」
 「そんなことで、暴力をふるったりするんですかあ」エミちゃんは言う。「だって、大葉組も詐欺をやっているんですよねえ。マネーロンダリングしたりして。そんなときに、警察に目を付けられるようなこと、やるかしら」
 「そうだねえ」近藤はしばし考える。「ははあ、情報の漏洩ルートを探ろうとしたんだな。山岸に情報を漏らしている奴が大葉組内部にいると考えたんだな」
 「きっとそうですよ。で、その人が、詐欺のほうも、匿名で告発したんじゃないか、と考えたんだと思うわ」
 「それがあったな。内部情報の漏洩は、詐欺をうまくやるためにも、防がなくちゃいけないわけだ。さーて、これからどうするか……」
 「この、天福ファンドに詐欺のお金が送られたことがわかればよいんですけど、どこにもそんなこと書いてませんね」
 「うーん」近藤はしばし考え込むが、やがておもむろに口を開く。「証券監視委員会が調査をしているといったな。警察も、そこと共同で調査をするはずだ。だからこの情報を連中に教えてやれば、少なくとも、大葉組がいかがわしい取引をしたことは掴めるはずだ。証券会社には報告義務があるはずだ。まあ、鈴木さんがきたら相談しよう。それまでに、エミちゃんに言って、報告書を作っておいて下さい。俺も相談に乗るよ」

 柳原の作ったリストに、近藤が注釈を入れる。それをエミちゃんがレポートにまとめるといった作業が延々と続いていたとき、事務所のドアがわずかに開き、大柄の男が頭をのぞかせる。近藤は、それを見て、「おお、来たか」というと、エミちゃんにコーヒーを頼んで、その男を応接室に案内する。
 エミちゃんは興味に駆られて、応接室にコーヒーを運ぶついでに来客の顔をちらりと見る。その男は、以前、柳原にストーカーまがいの行為を働いた田中だ。エミちゃんは、田中には良い印象がないが、近藤に頼まれるままに、田中の話の記録係を務める。
 口下手な田中が不器用に語った話をまとめると、次のようになる。

 田中は、九月の末に、大葉組幹部の小野寺に呼ばれ、新しい事務所でサイトの立ち上げを行った。その作業が終了した所で、小野寺は帰宅しようとした田中を捉まえて、高級そうなマンションの一室に案内し、そこに設置されたシステムに対する侵入者調査を依頼する。
 その部屋は、一見したところ普通のマンションであるが、子供部屋として設計されたらしい二部屋ぶち抜きのスペースは事務所になっており、窓側に並べられたOAテーブルに数台のパソコンが置かれ、壁側に置かれた背の高い本棚には多数のバインダーが納められている。
 小野寺は田中に、この部屋のパソコンLANに何者かが侵入している兆候があると言い、侵入者を突き止めてもらいたいという。田中のアドバイスに従い、有線式LANを採用したにもかかわらず侵入されたようだと、田中を脅すように言う。
 小野寺が侵入者に「ケジメをつけてやる」と言った時点で、田中は大葉組と決別する決心をしたという。田中は型どおりのセキュリティホールのチェックをし、既に知られたウインドウズのセキュリティホールがいくつか残されていることを発見する。また、システムのログファイルに、侵入者の足跡らしい兆候を発見する。
 田中は、OSのバグが残されている旨を小野寺に説明し、OSのバージョンアップを行うが、侵入者に関する情報はしっかりと記憶するだけで、小野寺には話さず、ログファイルも初期化する。田中は、大葉組の作業はこれで打ち切りとしたい旨小野寺に告げる。小野寺の思惑は知らないが、田中としては、これで大葉組との関係を絶ったつもりである。
 田中は、自宅に帰ると、大葉組のシステムに対する侵入者を割り出す。この時田中が考えていたのは、柳原が再び侵入を企んでいるというものだったが、田中の予想に反して、侵入者は渋谷のインターネットカフェを根城とする山岸であった。
 田中は山岸に会い、大葉組への侵入は危険である旨忠告するが、逆に山岸に説得され、山岸の下でしばらく働くことになる。
 山岸の下での田中の仕事は、数多くの株式投資口座を管理することで、山岸の説明する所では、このような行為は厳密に言えば脱税であるが、数年前までは許されていた行為であり、そもそもこの程度のことは、スピード違反や駐車違反と同じで、誰でもやっていることだという。田中は、その多数の口座に自動的に注文を割り当てるプログラムを書き上げ、山岸の指示にしたがって、莫大な資産を運用していたという。
 「たかが数億」と山岸は言っていたが、田中の知る限りでも、山岸の利益は数十億に上るはずで、それ以前の利益を含めれば、山岸が掠め取った金は百億以上あるはずだという。

 「トンデモねー玉だな、あの男」近藤はあきれて言う。「やくざから百億掠め取って、無事で済むと思ってんのかねえ」
 「なんかあれば、大葉組の悪事、警察にばれる」田中は言う。「山岸さん、保険だって」
 「まあ、百億ともなれば、俺だって、少々ヤバイ橋も渡ってやるがね」近藤は憤慨して言う。「それにしても、三千六百万、いい稼ぎだと思っていたが、俺たちが一番けちな仕事をしたってわけだ。馬鹿にしやがってなあ」
 「俺の取り分、全部で百二十万」田中はぽつりと言う。
 「私なんか、十一万五千円よ」柳原が言う。「ほんとにケチなんだから」
 「まあ、俺たちゃ清く正しく稼いでいるからな。それに、証券監視委員会が調査してるんだ。山岸の奴、百億全部が自分のポケットに入ると思ったら、大間違いだぞ」
 「この報告書、全部、警察にお出しするんですか?」エミちゃんが聞く。
 「そりゃ当然だろう」近藤はそう言うが、すぐにエミちゃんの言葉の本当の意味に気づき、驚いて言う。「おいおい、まさか、君も、とんでもないことを言うねえ。そりゃあ、山岸を揺さぶれば、五億や十億……いやいや、そりゃあ駄目だよ」
 「そうですよねえ」エミちゃんも感慨深げに言う。「近藤調査事務所の信用にかかわりますからね」
 「山岸の一件は、厳密に言えば、警察とは別に、徳山から受けた仕事だ」近藤は、残念そうに言う。「だから、警視庁への報告書に含める義務なないんだね。しかし、大葉ローンが騙し取った金のマネーロンダリングの糸口がわかっていながら、それを報告しないというのは、信義に反するな。それに、山岸はキャッシュを返した時点で、カタは付いている。それ以上やれば、ケチな強請ということになるな」
 「警察に出す報告書、徳山さんからの依頼に関する部分は、削除しておくべきだと思うんですけど」
 「あ、そりゃそうだ」近藤はきょとんとして言う。「あ、つまりそういうことを言いたかったのね、君は。おりゃあ、てっきり……。しかし、あの徳山、もしも大葉組に関係しているんなら……」
 「報告書、大急ぎで作りますから」
 「頼みます。でも、警察は夕方に来るといってたから、あわてなくても大丈夫だよ。今日は、田中君も来たことだし、どこかに飯を食いに行こうかね」

 午後五時、鈴木刑事と高橋刑事が近藤調査事務所に姿を現す。近藤は、エミちゃんが作ったばかりのレポートを二人に渡して、二人を応接室に案内する。
 近藤は、田中に刑事たちに関する予備知識を与えると、コーヒーを運ぶエミちゃんのあとについて、柳原、田中とともに応接室に入る。
 応接室は六人も座ると満員だ。近藤は、田中を刑事たちに紹介すると、本題に入る。刑事たちは、読みかけのレポートをテーブルの上に伏せて置く。
 「さて、レポートに詳細にご報告いたしましたが、大葉組と『天福ファンド』と称する正体不明の海外ファンドが組んで、不正な市場操作が行われた疑いが濃厚です。これは、一昨日ご提案したマネーロンダリングではないかと考えております。このような市場操作は、それ自体が犯罪行為ですから、本件、警察のほうで、監視委員会と協力して調査いただければ、かなりの部分が明るみに出るのではないかと思いますが、どうでしょうか」
 「このレポート、ただいま斜め読みいたしましたが、十分な情報量ですな。証券会社の名前まで出ておりますし、具体的な取引内容も出ておりますから、証券会社を呼び出して、事情をきけば、全貌は明らかになるでしょうな。おそらく、大葉組、しょっ引けるんじゃないでしょうかね。海外ファンドの不正取引も、これまでにいくつか摘発しておりますから、この天福ファンドにしてみたところで、正体を洗えるんじゃないかと思いますよ。例の第一ネット、詐欺事件としての告発も検討中だそうで、天福ファンドから派遣された役員を特別背任の疑いで逮捕する手はずとのことです」
 「天福ファンドの金の出所が、例の、南進丸で運ばれた詐欺の金じゃないかと疑っておるんですがね」近藤は言う。「例の冷凍倉庫から、千二百億の送金が五回ほどありましたが、時期を同じくして天福ファンドに同額の入金があるんですなあ」
 「そりゃ、怪しいですなあ」鈴木は難しい顔をして言う。「連中が吐いてくれりゃあ良いですが、相手は、海外ファンドだから、なかなか調査は難しいんですよ。しかし、我々も国際ネットワークを持っておりますんで、とにかく、できるだけのことは致しましょう」
 「もう一つの手がかりはこいつですな」近藤は、隠し撮りした徳山の写真をテーブルの上に投げ出して言う。「車のナンバーと指紋も採りました」
 「何者ですか?」
 「この男、ウチのクライアントでしてね」近藤は、言葉を選びながら、ゆっくりと話す。「調べていただきたいのは、この男の正体と、大葉組との関係です。ご存知のように、我々、依頼主の情報を他にお話できないのですが、警察から情報を頂くことは可能なんですな」
 「ははあ」鈴木刑事、近藤の言わんとしていることがおおよそ見当が付く。つまり、この男は、大葉組の関係者で、仕手戦に絡んで動き回っているということだろう。「わかりました、この男の前科と車の所有者をあたっておきましょう」
 「それじゃあ、第一ネットの件はそういうことで」近藤は、今日の話はこれで終わりとばかりに、軽い口調で言う。「その他は、何か進展、ございましたか?」
 「大有りです」鈴木は、近藤の期待に反し、力を込めて言う。「須山氏の遺体が東京湾で発見されました。他殺です」
 鈴木は持参した袋から数枚の写真を取り出す。死後数日を経過した死体の写真は、近藤にはおなじみだが、上体を乗り出して写真を覗きこんだエミちゃんは、ウッと言う声を上げて、顔をそむける。まるで網タイツを穿いているように見えたその写真は、青白い肌に紫色の血管が網目状に浮き出た、裸体の死体写真だったのだ。
 「死後二週間ほど経過しておりますので、失踪直後に殺害されたものと思われます」鈴木は、動揺するエミちゃんを一瞥してから、冷静に言う。「死因は絞殺、後頭部に打撲傷、これは、生前に付けられたものです。つまり、須山氏は後頭部を殴られて意識を失った後に、首を絞められて殺害されたものと思われます。遺体はかなり損傷しておりますが、これは、船舶のスクリューによる死後の傷と思われ、海中を漂流中に損傷を受けたものと思われます」
 「犯人の手がかりになるようなものはありませんでしたか?」
 「これといったものはないんですが、須山氏は失踪する直前、居酒屋に入った所を目撃されているんですが、胃の内容物から、店を出た直後に殺害されたと推定されまして、あの時須山氏を追うように店を出た客が犯人と関係がある可能性が高いものと思われます。そのほかには、全く手がかりはありません。衣服は、下着にいたるまで剥ぎ取られておりましたが、これも、海に捨てられたのではないかと思われます。右手首から先も失われておりまして、現在付近の海域を捜査しておりますので、あるいは衣服その他の遺留品が発見されるかもしれません」
 「さようですか」近藤は静かに言う。「その他には、ございませんか? 骨壷盗難事件もお宮入りですか?」
 「こちらは特に新しい情報はございません」
 「骨壷?」田中が口を開く。「盗まれたのか?」
 「そう、君にはまだ話していなかったんだけど、今回の事件で重要な目撃者が亡くなられて、その骨壷が盗まれているんだ」
 「俺、変な所で骨壷、見た」
 「どこで?」近藤は語気を強めて言う。
 「大葉組のマンション。寝室の洋服ダンスの中に、白い布をかぶせた、骨壷みたいなのがあった」
 「それ、佐藤さんの親父さんのものだとわかるんですか?」鈴木がきく。
 「いや、誰のだか、わからない。でも、置いてある場所がおかしい」
 「骨壷を見れば、仏さんの名前が入っているはずだね」近藤は言う。「布がかぶせてあっちゃ、わからんのも無理ないが」
 「いずれ、大葉組、家宅捜索しますから、そのときに、骨壷も探しましょう」鈴木は言う。「しかし、大葉組関係者の骨かもしれませんから、あまり期待しないでください」
 「あれ、大葉組がやった可能性は高いと思いますがね。たしかに、証拠となる骨壷を手元に置いているのは、いかにも無用心だが」
 「骨壷に関しては、そんな所でよろしいですか?」鈴木は話を続ける。「その他の進展ですが、坂本医師が失踪しました」
 「坂本医師が? 失踪したあ?」近藤は驚いて言う。「そりゃ一体どうしたんですか?」
 「本日十二時少し前に、ご家族の方から通報がありました。坂本医師は、昨夜、友人と酒を飲むといって家を出たきり、帰宅していないということです」
 「そりゃあ、事件とは関係ないんじゃありませんか?」近藤は笑い顔で言う。「私も、遅くまで飲んだときは、カプセルホテルに泊まったりしますからね」
 「われわれが心配しているのは、坂本先生、大変にまじめな方で、これまでにそのようなことをされたことが、一度もないということです」鈴木は真顔で言う。
 「それだけですか?」近藤、鈴木の真剣な表情に驚いて尋ねる。「何か他に、事件をうかがわせる兆候があったんでしょうか?」
 「実は、昨日、坂本先生のお話を伺ったんですよ」鈴木は言いにくそうに言う。「私ども、応対には気配りしたつもりですが、事情聴取のあとで、被疑者が自殺したり失踪したりというケースが多々ございまして」
 「どんなお話をされたんですか?」
 「例の薬包紙の指紋、坂本先生のものであることがわかりましたので、坂本医院の薬の調合について、お話を伺ったんですよ」
 「やはり、あの薬、坂本さんが調合してましたか……」
 「ええ、それで、坂本医院では、薬の調合は、院内の薬局で行うのが普通だが、特別の患者には、先生自らが調合することもある、ということでした」
 「そのときの先生の様子はどうでしたか?」
 「われわれに警戒心を持っておられたようですが、応対はごく普通でした」
 「しかし、もし坂本さんが、佐藤さんの死に責任があると自覚していたとすれば……」
 「そうです、私どもが訪問したことで、犯行が発覚したと考えて、逃亡することも考えられます」
 「佐藤医師の失踪前の足取りは押さえましたか」
 「先生が酒を飲むと言っていたのは本当で、母校K大の村上教授と、新宿で飲んだそうです。これは、村上先生に裏をとりました」
 「K大の村上教授?」近藤の目が吊り上る。「それで、どんな話をされたのか、きかれましたか?」
 「村上教授、最近、坂本先生の噂話があったので、一度本人にお会いして、旧交を温めたくなったと言ってました」
 「そりゃ、私が吹き込んだ話だな」
 「そうなんですよ」鈴木刑事は嬉しそうに言う。「坂本医師が誤診したんじゃないかと、一昨日、近藤さんが村上教授に話されたんですよねえ」
 「そんな」近藤は意気込んで言う。「我々は、お話を伺っただけで、坂本医師を責めるような話はしませんでしたよ」
 「まあまあ、専門家がきけば、近藤さんが内心、何を考えているかなんてわかりますよ。それで、一昨日の晩に村上教授から坂本先生に電話がありまして、昨晩飲むという話がまとまったようです」
 「そうなりますと、坂本医師が失踪したのは、村上教授から私が佐藤さんの誤診問題を調査しているという話を聞き、その翌日には警察が調べに来たんで、こりゃ駄目だと観念して失踪した、という可能性が高いわけですなあ」
 「その疑いは極めて濃厚ですね」鈴木刑事、嬉しそうに言う。「失踪されたとき、坂本先生はかなりの額の現金と、カード類をお持ちでした。一応、失踪事件として手配はしておりますが、坂本先生のご意志で姿をくらましたのだとすると、これは、なかなか見付からないと思いますよ」
 「さあて、そうすると、今後のとり進めはどうなりますかな」
 「詐欺事件のほうは、本部で追いかけています。被害者からの聞き取りと、連中のアジトの遺留品追跡が中心ですな。パンフレットを印刷した所が判明しまして、事情聴取を行っていますけど、なかなか尻尾がつかめません。須山氏殺害事件は、一課と所轄で扱います。我々特別チームの捜査対象は、大葉組ということになるんですが、これにつきましては、監視委員会の結論が出次第、家宅捜索を行う方向で準備中です。多分、明日にも強襲することになるでしょう。先ほど田中さんの言われた骨壷、もし大葉組のマンションにあれば、佐藤家遺骨盗難事件も解決しますな」
 「マンションの家宅捜索、明日の午後四時が良いですよ」突然の柳原の言葉に、鈴木刑事、びっくりする。「明日の四時、久我山代議士が大葉組のマンションに来るそうです」
 「なんだって?」近藤が叫ぶ。「どうしてそんなことがわかったんだ」
 柳原は、応接室のテーブルに置いたノートパソコンを回し、その画面を全員に見えるようにする。画面の隅で、小野寺が携帯電話を掛けている。
 「これ、大葉組のマンションにあるパソコンのカメラの映像です。音も出しますね」柳原はイヤホンを外しながら言う。
 柳原がキーボードを操作すると、ノートパソコン内臓の小さなスピーカーから割れた声が流れる。
 『ああ、俺だ。Kさんが明日四時来られるから、手土産を用意しとけ……ああ、そうだ。幹部全員な。目に付かないようにラフな格好で来るんだ。久我山さんも、ゴルフスタイルだそうだ……ああ、それでよい。粗相のないように気をつけろ』
 「これ、記録しているんだよね」
 「当然です」柳原は近藤にそういうと、鈴木刑事に向かって言う。「明日の四時、準備していただければ、皆がそろった所で連絡しますよ。そうすれば、前回みたいなドジはないんじゃない?」
 「これは……合法的じゃないですねえ。問題になるかもしれない」
 「なーに、たまたま、ということにすれば宜しいんじゃないですか?」近藤はのんきに言う。
 「たまたま、ですか」鈴木は考えながらいう。「いずれ明日にも家宅捜索を行う計画でしたからねえ。普通は午前中に行うんだが……」
 「押し込む前に、入念に会議でもやりゃあ良いじゃないですか。今度は、証券なんちゃらも関係しているんでしょう」
 「そういえば、監視委員会の連中も、ニュースになるようなことは三時過ぎにしてくれとか、言ってましたねえ。朝は弱いんでしょうかね」
 「場中は止めて欲しいということだろうか?」近藤は言う。「オーハローンは上場していないから関係ないんだが」
 「ばちゅー? じょーじょー?」柳原には、何の話だかわからない。
 「ああ、つまりね、三時までは株の取引をやっているんだ。市場で株式が取引される会社が上場企業。家宅捜索なんて、企業にとっては不祥事だから、そんなニュースが流れると株価が下がってしまうんだ」
 「オーハローンは上場してません」高橋刑事が補足する。「しかし、消費者ローンは何社か上場しておりまして、現在、これら金融セクターの株価がセンシティブになっている、なんてことを監視委員の方が言っておられました。我々には、そのあたりの事情、よくわからないのですが、金融会社が事件を起こすと、他の会社の株価も下がってしまう、ということのようです」
 「わかりました」鈴木刑事はきっぱりという。「四時から踏み込めるように手配いたしましょう。我々、その前からマンションを見張っておりますが、柳原さんからの連絡を待って、即、踏み込むことにいたしましょう。何か動きがありましたら、こちら独自の判断で動くかもしれませんが、それは良いですね」
 「もちろんかまいませんよ」柳原はうれしそうに言う。
 近藤は、大葉組手入れに同行しようかとも考えるが、鈴木の意見を容れて、家宅捜索は警察に任せ、自分たちは事務所で待機することとする。


第一二章   大団円?

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 十月八日の午後四時が近づいている。警視庁特別チームと証券監視委員会の合同部隊による、大葉組秘密事務所家宅捜索の刻限である。
 大葉組秘密事務所の置かれた高級マンションの付近には、数名の私服刑事が張り込み、その報告の一部は、近藤たちにも伝えられている。
 警視庁特別チームがひそかに検挙を目指す久我山代議士の車がマンションの地下駐車場に入っていったことが報告される。
 柳原のディスプレーには、事務室風の調度が整えられたマンションの一室が映し出されている。その画面の中で、小野寺が手下と思しき男たちに、指示を飛ばしている。VIPを迎えるために、室内を綺麗にしている様子だ。
 後ろから画面を覗き込む近藤が、柳原に尋ねる。
 「しかし、どうやると、こんなことができるんだね?」
 「小野寺さんのパソコン、テレビカメラが付いているんです」柳原は嬉しそうに言う。「もちろんマイクもね。今度仕掛けたウイルス、相手のパソコンのカメラとマイクを勝手に操作して、映像と音声をこっちに送るようにしたんです」
 「当然、録画しているんだよね」近藤は小さな声で柳原に言う。
 「もちろんです。それから、こっちの音は、向こうには伝わりませんから、普通の声で話しても大丈夫です」

 やがて、パソコン画面に映し出された室内に緊張感が走る。
 ドアが開いて、近藤たちの知らない男が久我山代議士を室内に案内する。
 ディスプレーの中で、こちらに顔を近づけて、男が言う。
 『なかなか見事なもんだな』
 「これ、久我山代議士だよ」そこまで言った近藤は、柳原に向かって慌てて言う。「おい、鈴木刑事に連絡しないと」
 柳原は、すぐに電話機を取り上げ、鈴木の携帯電話に連絡する。鈴木は短く礼を述べて、電話を切る。すぐに突入するのだろう。
 近藤と柳原、それに、佐藤とエミちゃん、新しく加わった田中の五名は、固唾を呑んでパソコンの画面を見守る。
 画面では、小野寺と、近藤たちの知らない男が久我山代議士に説明している。
 『この業界も、日進月歩でございまして』小野寺が言う。
 『まるで、普通の会社だな』これは久我山だ。
 『はい、私共、真っ当な金融業を営んでおりまして、暴力団とみられる危険性は一切排除致しております』
 『そりゃ何かね』
 『就業規則がございまして、暴力沙汰、違法行為は厳禁されております。指詰め刺青等を致しますと、即刻免職です』
 『そりゃ、たいした変わりようだね。それで、軍資金の方は大丈夫なのかね』
 『六千箱少々確保致しました』
 『それは銀行の方だろう。総裁選の軍資金は……』
 『百箱、御用意致しました。ご指定の場所にお届けします』
 『そうだな、それでは五箱、今日頂いて行くことにしよう。前哨戦が始まっているんだよ』
 『は、かしこまりました』
 久我山と見知らぬ男は、話しながら歩き、画面から姿を消す。小野寺は部下に金を持ってくるように指示を出す。
 画面の外で声が聞こえる。
 『少々重たいですが』
 『申し訳ないな』久我山の声だ。『君らが合理的なビジネスをしていること、しっかりと見届けさせていただきましたよ。銀行の話も、悪いようにはせんからな』
 『総裁選の勝利を、私どもも、祈念いたしております』
 『なんだ、お前たちは』急に、騒がしい声がスピーカーから流れる。
 『令状だ』
 『こらそこの、計算機に触っちゃいかん』
 狭いマンションの事務室に、十人以上の男たちがうごめくさまが柳原のパソコン画面に表示される。
 『骨壷ありました。佐藤家から盗まれたものに間違いありません』
 画面の外からそう叫ぶ声が聞こえる。佐藤の顔がほころぶ。
 「一件落着だな」近藤は言う。「須山氏の殺害も、坂本先生の失踪にだって、連中が絡んでるはずだね。これだけはっきりした証拠があっちゃあ、連中も、シラをきり通せんのじゃないかね」
 「この計算機のファイルが問題ですね」柳原が言う。「例の取引の証拠が入っています」
 「この計算機のファイル、バックアップをCD―Rに焼くようにしている」田中がぽつりと言う。「それ、骨壷と同じ、洋服ダンスの中に置いてるはず」
 「おいおい、それ、鈴木さんに教えてやらなくちゃ」近藤はそういうと、鈴木刑事に電話を掛ける。
 「あー、おかげさまで、大成功です」鈴木は近藤が話す前にしゃべりだすが、近藤がCD―Rの隠し場所を伝えると、礼を述べて、すぐに電話を切る。

 十月十五日、大捕り物から一週間後の午後一時――
 「おはようございまーす、あれ?」近藤調査事務所に出勤した柳原は、事務所の様子が変わっていることに驚く。
 「おはようじゃねーだろ」近藤は、柳原の言葉遣いを正す。正午はとうに過ぎている。「ま、遅刻をとがめだてするわけじゃないがね」
 先週の手入れにより、大葉組の悪事が次々と明るみに出て、大葉組の脅威がなくなったことから、柳原はアパートに戻ることにしたのだ。朝に弱い柳原は、午後からの勤務ということで、近藤の承諾も得ている。
 「柳原の荷物、そのデスクに入れといた」田中、OAテーブルの一つを柳原に示す。
 「どうしちゃったんですか? これ」
 「近藤調査事務所は商売替えだ」近藤が言う。「これからは、株式会社コンドーだからな。電話がかかってきたときも、間違えないでくれよ」
 「それで、どういう商売をするんですか?」柳原は、狐につままれたような顔で問い返す。
 「探偵は探偵だ。だけど、これからは、生臭い浮気の調査なんぞ止して、計算機犯罪を専門に手がける」
 「あ、それ、良いですねえ」柳原は目を輝かせて言う。「田中さんも入ってきたしね」
 「だろ。それに、計算機犯罪の調査、実入りも良いんだよねえ。警視庁もお得意さんになりそうだし」
 近藤のせりふには実感がこもっている。なにしろ、最近の近藤調査事務所は、記録的な収入を上げているが、その全てが計算機に関係している。ありていに言えば、柳原が他所の計算機に不正侵入することで、事件解決の手がかりを得ているのだ。
 「それで、事務所もかっこよくした」田中はそういうと、得意そうに、デスクや書類棚を指差す。それら全ては、白を基調とした、明るく、近代的なデザインで統一されている。デスクにはパソコンのケーブルを通す穴まで用意されている。
 「なにせ、これまで使っていたの、山岸のパソコン教室が夜逃げしたときに残していったものだからな」近藤が説明する。「縁起でもないから、金も入ったことだし、全とっかえだ。壁紙と天井の張替えも頼んどいた。看板も出すし、窓ガラスにも、金文字でコンドーの名前と電話番号を入れようと思う」
 「椅子も張り込みましたね。計算機室みたい」柳原は、五本足のOAチェアーの高さをいじりながら言う。
 「田中君の話じゃあ、その椅子を使えば、何時間でも仕事ができるそうだ」
 「ハイこれ」エミちゃんが柳原にプラスチックの小さい箱を渡す。「名刺です。みんな新調したんですよ」
 柳原は、箱を開けて、自分の名刺を一枚取り出して、しげしげと眺める。山の上システムサービスで仕事をしていたときは、名刺など作りはしなかった。だから、これは柳原が生まれて初めて手にした、自分の名刺だ。
 コンドーの事務所内では、しばらくの間、「金にならない仕事」が行われる。つまり、パソコンの配線をつなぎなおしたり、段ボール箱に一時保存した書類を新しい書棚に並べなおしたりしたのだ。
 事務所の模様替えに伴い、近藤には、一つ困った問題が生じた。事務所を禁煙にするという提案が、近藤を除く全員の多数によって支持されてしまったのだ。近藤は、応接室は例外的に喫煙可とする妥協案を出し、めでたく合意が成立した。
 エミちゃんは、その妥協案をあらかじめ予期していたように、新しく買い込んだ大きなガラスの灰皿を箱から取り出して、これも新調した応接室のテーブルに置く。
 無駄な抵抗をあきらめた近藤は、応接室に立てこもり、エミちゃんが準備した灰皿をありがたく使わせてもらう。

 午後三時、鈴木と高橋の両刑事がコンドーの事務所に顔を出す。
 刑事たちは、模様替えされた事務所を興味深そうに眺め回すが、すぐにエミちゃんに、応接室に案内される。
 「どうも、ご報告が遅くなって申し訳ありません」鈴木刑事は、近藤に示された席に座りながら言う。「仕事が山のようにありまして……。やっと捜査本部への引継ぎが終わりましたので、我々も一息つけるようになりました」
 「いやあ、マスコミが騒ぎ立てていますから、お忙しいことはよーく理解しております」近藤は愛想良く言う。
 警視庁は、月三百万の調査料を支払ってくれる、ありがたい顧客だ。
 コーヒーの盆を持つエミちゃんを先頭に、柳原、田中、佐藤が応接室に入る。この応接室も、椅子、テーブルを入れ替え、大きなファイルキャビネットを処分したため、十人ほどなら楽に座れるようになった。中央のテーブルは天板も分厚い高級感漂うものだし、それをぐるりと取り囲む会議チェアも、合成皮革張りの、ふかふかのクッションだ。この打ち合わせは、新装成った応接室のこけら落とし、といったところだ。
 「えー、どこからお話しましょうかね。本日は、ご報告すべきことが山ほどありまして……」
 鈴木は、そう言いながら、テーブルの周りで鈴木の顔を興味津々と見つめる人々を見渡すが、視線を佐藤の上に止めると、話を始める。
 「そうですね、佐藤家骨壷盗難事件からお話しするのが適当でしょうね。先日の田中さんのご指摘に従い、大葉組のマンションの寝室に造り付けの衣装棚から、骨壷が一つ発見され、内部に書かれた文字から、佐藤さんのお父様のご遺骨であることが確認されました。骨壷から採取された指紋は、大葉組系土建会社の中堅幹部でして、傷害事件を起こして執行猶予中の男でした。須山氏失踪の際に居酒屋に現れた男の人相は居酒屋の親父が覚えておりまして、この男に良く似ていたとの証言が得られました。また、佐藤家に押し入った男は、給食センターのパートタイマーに目撃されておるのですが、パートタイマーに写真を選ばせた所、やはりこの男を選び出しました。これらを材料に尋問いたしましたところ、一昨日になりまして、ついにこれら二件の犯行を自供いたしました。現在、共犯の男を殺人の容疑で指名手配しております」
 「命令したのは、小野寺ですか? 坂本医師がなにをしたのかは、明らかになりましたでしょうか?」
 「須山氏殺害を命じたのが誰かにつきましては、黙秘しております。一方、医師の坂本は、息子さんに付き添われて出頭いたしました。大葉組の一連の事件が報道されて、観念したんでしょうな。佐藤さんの親父さんを殺害したことを自供しました。薬の一部に、血圧降下剤を多量に調合したとのことです。坂本は、佐藤さんの殺害が小野寺の命令によるものであると自供しました。動機は、以前の医療ミスをネタに大葉組に脅されたことと、殺しの報酬として、桜が原ショッピングセンターの診療所とマンションの権利が提示されたことだそうです」
 「詐欺事件と、第一ネットの株取引を使ったマネーロンダリングにつきましては、連日、報道されてますなあ」
 「ええ、東証の監視委員会が証券会社に報告させましてね、大葉組の取引は全て押えることができました。天福ファンドは、シンガポールに本拠を置く闇金融でして、昔なら、手が付けられなかったんでしょうが、最近はテロリストの資金源を絶つための共同捜査体制ができておりまして、ほぼ全貌が解明されております。連中、第一ネットに対する不動産詐欺もやっておったんですな」
 「すると、詐欺の被害額は、回収できそうですか?」
 「最終的にはは裁判所が決めることですが、現在の見通しでは、不動産投資証券被害事件の被害総額を上回る額が回収できる見込みです。ただし、任意整理に追い込まれた第一ネットも詐欺の被害者でして、回収した金をどのように被害者に分配するか、難しい所です。あ、それから、徳山泰山を自称する男ですが、本名山田平作五十七歳、現在はオーハローンの不良債権を専門に扱う取立て屋ですが、以前は総会屋で、恐喝の前科があります。山田は、他の大葉組組員三名とともに、殺人未遂の疑いで逮捕いたしました」
 そこまで言うと、鈴木は、言葉を切って、近藤に笑い顔を向ける。
 「仕手の上前をはねていた男がおりまして、その男を殺害する計画が進行中だったんですよ。そのために、ターゲットが踏み倒した債権を買い込みましてね、債権取立てを隠れ蓑にして、男の行方を追っていたようです。これを裏付ける、山田と大葉組の間で交わされたメイルは、マンションで押収されたパソコンに残されておりまして、誰が何をしたかは明々白々です。その男を探し出すため、山田たちは某探偵事務所を起用したんですが、金を成功裏に取り戻したものの、殺害への協力は断られたようですな。なお、この男と某探偵事務所に関する情報は公表しない、というのが我々の方針です」
 「ははあ、そりゃあ妥当なご決断ですなあ。ところで、久我山代議士の話は、ぜんぜん報道されてませんけど、どうなったんでしょうか」
 「これに関しましては、東京地検特捜部に移管し、現在、極秘のうちに捜査を進めております。今後は特捜部の扱い次第ですが、久我山代議士と秘書は、現金五億円を所持しているところを押えられておりまして、贈収賄が行われたことは明らかです。不思議なことに、久我山代議士が大葉組の事務所を訪れたときの映像が、押収したパソコンに記録されておりまして、大葉組が久我山に多額の現金を贈る旨の会話が記録されておりました。この隠し撮りに関して、大葉組関係者はシラを切っておりますが、あるいは将来において、久我山代議士を恐喝する考えがあったのかもしれません」
 近藤は柳原に目配せする。柳原は、それを見て、口をポカンと開けてとぼける。このファイルを大葉組のマンションのパソコンに残したのは、おそらく、柳原の仕業であろう。
 「大葉組のパソコンからは、証券詐欺実行犯の名簿など、そのほかにも重要な文書がいくつか発見されまして、冷凍倉庫で現金を扱った男や、これを海外に運搬した漁船関係者など、共犯者多数が特定されております。大部分の者は、これまでに逮捕いたしましたが、一部、まだ逃げ回っている男もおり、現在手配中です」
 そこまで言うと、鈴木刑事は言葉を切り、近藤にに最敬礼して言う。
 「この大事件が解決いたしましたことに関し、近藤さんには篤くお礼を申し上げるようにと、上司に厳命されました。まことにありがとうございました。真相に付きましても、ほぼ、近藤さんのご推理どおりでしたし」
 「いやいや、これが私どもの仕事ですから」近藤は謙遜して言う。
 「それで、調査料のほうも、一式三百万でご請求頂きたいとのことです」
 「それはそれは、申し訳ありませんなあ」
 近藤は、うれしそうに応える。事件が急展開ししまったため、どう計算しても今回の経費、二百万円にもならない。近藤はこの一週間、経費をどのように水増ししたものかと、頭を悩ませていたのだ。
 「いろいろな事件がありましたなあ。それで、全部解決ですか。まあ、ようございましたなあ」
 「まだもう一つあります」鈴木刑事は笑いながら近藤に言う。「近藤さんには、一番大事な事件じゃないですか?」
 「え? なにかございましたっけ?」
 「高梨ですよ、た、か、な、し」
 「あ、それがありましたなあ。で、あいつはどうなったんですか?」
 「高梨が小野寺と交わしたメイルが大葉組のパソコンから発見されました。それを突きつけたら、高梨は、あっさり自供しましたよ。もう一人、警視庁内部の協力者も逮捕できました。で、近藤さんには、お願いがあるんですがねえ」
 「なんでしょうか」
 「前回の事件の証拠なんですけどね」鈴木刑事は笑いながら言う。「あの、覚醒剤事件、まだ時効になっておりませんから、この際、立件したいと考えております。近藤さん、今度は、お惚けは、なしですよ。高梨一派はぶち込んじまいましたし、この期に及んでは、久我山代議士から政治的圧力が掛かることもありますまい」
 近藤は、事務所からクッキーの缶を取ってくる。
 「お返ししましょう。今回は、テープを改竄したりしないでくださいよ」
 「お任せください」鈴木は、クッキーの缶を受け取りながら、笑みを浮かべて言う。「それでですねえ、近藤さんと佐藤さんの辞職に関して、本庁内で少々議論がございまして、お二方には復職していただくのが妥当ではないかという声が強いのですが、このことに関して、近藤さんと佐藤さんはどのようにお考えでしょうか?」
 「そうだねえ、佐藤君、君は警視庁に戻ったほうが良いんじゃないかね」
 「私は遠慮しますよ」佐藤は言う。「鉄工所のほうは片付きましたけど、お袋の仕事を手伝わなくてはいけませんし、ここの事務所、性に合っているんですよ。あ、だけど、近藤さんはどうされるおつもりですか? 復職されるんでしたら、この事務所も閉めることになるんですよね」
 「俺は戻らんよ」近藤は憮然として言う。「小なりとはいえ、一国一城の主だ。ああいう、シンドイ思いはこりごりだし、安月給でこき使われるのもいやだね。こう見えても、俺たち、結構、稼いでいるんですよ」
 「いやあ、そうおっしゃるんじゃないかと思っていましたよ」鈴木刑事はうれしそうに言う。「我々にとっても、好都合です」
 「好都合? そりゃどういう意味ですか」近藤は憮然としてきく。
 「あ、いや、お気を悪くしないでください」鈴木は慌てて言う。「計算機を使った犯罪がこれからも増えてくるだろうということで、警察内部にも、専門家を養成しております。しかし、警察にはできることとできないことがございまして、いくら警察内部の人間を鍛えた所で、今回の近藤さんたちのお働きと同じようなことができるとはとても思えません。近藤さんたちに、引き続き、調査事務所をやっていただければ、我々、必要が生じた都度、ご協力をお願いに参上すればよいわけでして……」
 「ああ、なるほど。そりゃあ、ウチにとってもありがたいお話ですなあ」
 「つまり、どっかのパソコンに侵入してくれってことね」柳原の小さなつぶやき声は、近藤に制止され、鈴木たちには無視される。

 刑事たちが引き上げたあとで、近藤はエミちゃんに言う。
 「報告書と請求書、大至急作って、警視庁の鈴木さん宛てに送ってもらいたいんだけど」
 「あ、もうできてます。チェックしていただければ、すぐに送れますよ。だけど、残念なことをしましたねえ」
 「残念? 何か、俺たち、まずいことをやったっけ?」
 「今回の仕事、一月三百万円の枠内で、三ヶ月分の予算を取ってもらったんですよね。だけど、調査を始めて一ヶ月で解決しちゃったんですよねえ。だから、来月と再来月分の予算は、使わずじまいになります。つまり、六百万円、儲け損ねちゃったんですよ」
 「あちゃ、そうだった」近藤は悔しそうだ。「しかしなあ、これを引き伸ばすわけにもいかんかったろう」
 「そうですよねえ」エミちゃんにも名案はないようだ。
 六百万といえば、一月前の近藤にとっては大金だった。しかしこの一月、近藤は思いの他に稼いでいる。だから、今の近藤にしてみれば、この六百万、儲け損ねたところで痛くも痒くもない。
 「家賃取立ての百五十万、借金取立てで三千六百万、警視庁からの依頼で三百万……稼ぎまくったな」
 「そうですねえ。今月は、佐藤さんが調査した二件のお金も入ってくるし……」エミちゃんは考えながら言う。「あんまり稼ぎすぎると、税金も大変ですからねえ」
 「何を言うかね、この仕事、波があるから、稼げるときに稼がにゃならん。『稼げるときに稼ぐ』、これを株式会社コンドーのスローガンにしたって良いんだ」

 近藤は、背筋を伸ばしながら、事務所を見渡す。
 真新しいデスクに、四人の社員がいる。
 先月までは、近藤の他は、エミちゃんと佐藤の二人きりだった。その佐藤も、辞めるかもしれないところだった。
 今月は運良く大金を稼ぐことができた。当分は、キャッシュフローに頭を痛めることもあるまい。
 計算機犯罪の調査という新しい看板業務に関しては、かなり稼げそうだという予感がするのだが、実際にどうなるか、そもそも、どんな仕事をしたら良いのか、近藤にはさっぱりわからない。
 しかし、早速パソコンに向かって、ホームページを作って宣伝したり、どこぞに事件がないかとサーチを開始している田中と柳原の姿を見ると、何かをやってくれそうな雰囲気を確かに感じる。
 (まあ、どうにかなるだろう)近藤は不安を隠して、腹の中で思う。(貯金もあるしな)
 近藤は、窓ガラスを眺めて、にやりとする。そこにはまもなく、『(株)コンドー』の金文字が入ることになっている。

 探偵事務所に金文字。それは、近藤の若いときからの憧れだった。
 どんな本だか忘れてしまったが、近藤が若いころ読んだ本に、探偵が新しく事務所を開いたシーンが描写されていた。
 ドアのガラスに金の文字、金髪の秘書……。
 近藤はエミちゃんをちらりと見て思う。
 (絵的にゃ、ちょっと違うが、ま、良しとするか)


 
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