エミちゃんの事件帖#2

ノーボディーが知っている




目次
 
第1章 ネットストーカー
第2章 トラップ
第3章 ノーボディー
第4章 オフミ
第5章 ヒトゴロシ
第6章 クラック
第7章 捕獲作戦
第8章 コンフェッション(告白)
第9章 エピローグ

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第一章   ネットストーカー

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 問題が明るみに出たのは、七月九日のことである。

 (ヤバイことになっちまったなー)
 柳原は、そう思いつつも、ことの発端が自らの馬鹿げた行為であるだけに、他人に相談することもできず、一人で悩んでいる。
 (しかし、あの男、本当に私を狙っているのかしら?)
 柳原は、ときおり姿を見せる、怪しげな男の人相を思い浮かべようとする。しかし、その男の姿が確認できるのは、いつも一瞬であり、その顔がよく見えたことはない。

 日の長い時期ではあるが、夜も八時を過ぎると、あたりはすっかり暗くなり、ここ、桜が原商店街を通る人影は疎らだ。
 ときおり、サラリーマン風の男たちが三々五々、シャッターの下りた商店の前を通り過ぎて行くのは、近くの駅に電車が停車したからであろう。
 静まり返った街の中、メインストリートの一隅に、植え込みと町内案内板の陰に身を隠すようにして、一人の大柄の男が佇んでいる。男は、メインストリートに面した、とあるビルの二階の窓を見上げている。
 通り過ぎるサラリーマンの何人かは、男に不審感のこもった眼差しを向ける。男はそれに反応するかのように、少し動いて視線から逃れる。そうしてこの男がこの場所に立ち続けて、もう、かれこれ一時間ほどになる。
 男が眺めつづけているビルの二階には、まだ蛍光灯が灯っている。ビルの二階の窓には、三行の、ペンキで書かれた大小の文字が見える。昼間なら、その文字は金色に見えるのだが、夜の闇に室内の照明で浮かび上がった文字は、ただただ黒く見えるだけだ。
 二階の窓に書かれた文字の、最初の行は『計算機監査・不正調査』、中央の行は『潟Rンドー』、最後の行は電話番号だ。
 窓の金文字から推察されるように、このビルの二階に事務所を構える潟Rンドーは、計算機犯罪を専門とする探偵事務所である。株式会社と称していても、それほどの大組織ではなく、三人の調査員の他は事務員と社長だけの、社員総勢五名の小さな会社だ。
 今、事務所にいるのは二人の女性社員、事務員のエミちゃんと、調査員の柳原だ。
 ふたりは、背丈は同じくらいだが、その外見は対照的である。
 柳原は、枯草色のぼさぼさ頭で、服はつなぎのジーパンにTシャツというラフなスタイルで、一見、少年のようだ。
 エミちゃんは、黒くて長いストレートヘアに、白地に赤の、細かいチェック模様の入ったワンピースという、まるで少女のスタイルだ。
 エミちゃんの姓は、社長と同じ近藤である。しかし、社長とは、親戚関係にあるわけではなく、たまたま苗字が一致しただけである。同じ事務所に近藤が二人もいるのは、なにかと紛らわしい。だから、事務所の人達は、彼女を『エミちゃん』と呼んでいる。
 この二人の女性が遅くまで事務所にいるのは、仕事が溜まっているからではない。社長の近藤が帰社する予定で外出しているため、社長秘書役も仰せ付かっているエミちゃんは帰るに帰れず、調査員の柳原も、エミちゃんに付き合って居残っているというわけだ。
 もちろん、だから何をするというわけでもなく、他愛ないお喋りを延々と続けているだけだ。

 一時間以上に渡る長いお喋りにも、話題が途切れる瞬間が訪れる。
 エミちゃんは、次の話題を選びながら柳原の顔を観察し、先ほどから抱いていた疑問を口にする。
 「どうしたんですか? なんか、元気がないみたいですけど」
 「顔に出ちゃったか。まずいなあ」柳原は、渋々と語る。「あまり自慢できる話でもないから黙っていたけど、実は、私、変な奴に付けまわされているのよ。今も、外にいるみたい。髪の長い、大柄の男なんだけど」
 「ええーっ、ストーカーですか?」
 「似たようなものね。ネットのだけど」
 「ネットって、柳原さん、何かやったんでしょう」
 「えへへ、わかる?」
 「わかりますよ」エミちゃんは怒った顔で言う。「全く、おっちょこちょいなんだから。何かあったら、仕事に差し支えますよ」
 「またまた、近藤さんみたいなことを言って」
 柳原が言う『近藤さん』は、社長の近藤の意味だ。
 「どうして、そんなことになっちゃったんですか?」
 「なにね、マックの電源の切り方がわからないって、ネットの掲示板で、私を名指しで質問した馬鹿がいてね。シルバーフォックスってハンドルの奴なんだけど」
 「そりゃまた変な人ですね。そんなことなら、近くの人にきいたほうが早いし、それでもわからなければ、メーカーか、買った店にきくのが普通ですよね。その人、なんで、ネットなんかで質問したんでしょうね」
 「でしょー。変な奴でさ。で、『そーしてな』って答えてやったら、逆恨みされちゃってさ」
 「そーしてな?」
 「電源が切れないマックの前で、凍ってな、ってことよ」
 「まあ。柳原さんも、また随分な物言いを……」
 「それで、何度かやりあった挙句に、捨て台詞みたいな文章といっしょに、私の本名と、ここの住所を、ネットに書かれてしまったのよ」
 「掲示板に? コンドーの住所ですか? そりゃまずいですよ」
 「どうしてわかったんだろう」
 「まったく。悪い噂が立ったら困ります」
 「コンドーの職員名簿なんて、公開してたっけ?」
 「コンドーは探偵事務所ですから、職員名簿は丸秘です。柳原さんが、同窓会の名簿かなんかに、勤務先、書いちゃったんじゃないですか?」
 「んなわけない。まだ大学に行ってることになっている。放校なんて、格好悪くて書けないよ」
 「名刺をどこかに置いてきたとか」
 「そりゃ名刺はお客さんに渡すけど、そんな変な人に会った覚えはないわ。だいたい、私が仕事で会う人って、計算機使うのが仕事の人だから、マックの電源くらい切れないわけがないわよ。それに、もし万が一、やりかたを知らなくても、そんなこと恥ずかしくて、とても人にきいたりはできないわ」
 「そうですよねえ。私だって、マックの電源くらい切れるのに。大体、その人、今までどうしていたのかしら。買ってから電源入れっぱなしとか?」
 「コンセント引っこ抜いてて、ファイルでも、壊したのかもしれないねえ」
 「取り説読めば、わかりそうなものですけど」
 「誰かから、お古を貰ったのかもしれないわね。で、前の人が取り説なくしちゃったとか。マックって、パワーオンのボタンはあるけど、パワーオフのボタンがないでしょ。こういうのって、あんまり普通じゃないから」
 「でも、ウインドウズのマシンだって、似たようなもんですよ」
 「あれもね、電源ボタンを押して止めてる人がいるの。でも、起動したときのメッセージを何度もみているうちに、いつしか、正しい止め方に気が付くんだよね」
 「あ、そうだ。この間、展示会に行ってたでしょ。あの時、変なブースに名刺置いてきたんじゃない?」
 「あの時は、そうねえ、盗聴機専門にチェックしたんだった。そういうの作っている会社って、怪しげなところもいくつかあるわねえ。ああ、だけど、名刺は一枚も置いてきていない。アンケートなんかも出してない。ろくなアイテムなかったから。うん、名刺は、会場の受付で渡しただけ」
 「それですよー」背後霊のように、いつの間にか、ふたりのうしろに立った田中が言う。
 「うわっ」柳原とエミちゃんが同時に叫ぶ。「いたんですかー?」
 「いま、帰ったとこ」田中は言葉を節約するように言う。
 田中もコンドーの調査員だ。田中は、社長の近藤と肩を並べる巨体の持ち主だが、近藤が引き締まった身体をしているのに対し、田中はひたすら膨らんでいるだけだ。
 田中は手も大きい。そのくせ、小さなノートパソコンを愛用している。
 田中がノートパソコンのキーを操作しているところを見た人は、田中が正確にキーを押すことに感心する。田中の指は、キートップより確実に大きく、隣のキーも半分くらいは隠れて見えないからだ。
 田中の器用さは、趣味の模型作りにも発揮されている。模型といっても、普通の模型ではない。田中の作品が一つ、事務所の彼のデスクに飾ってあるが、それは精巧に作られた人形であり、背中に大きな羽を持つ女性の姿をしている。
 人形は布製の洋服を着ているが、それも田中の手になるものであるという。しかし、田中が裁縫する姿は、想像するだけで不気味だ。そもそもこの大きな手で、縫い針など、とても扱えるとは思えない。
 田中は口下手だ。だから彼をよく知らない人は、知能も人並以下と考えがちだ。しかし、田中は、粒選りのハッカーを揃えたコンドーの、腕利き調査員の一人だ。
 もっとも、これまでのところ、田中の本領が発揮されたのは、もっぱら体力の面、特に暴力沙汰の場面においてである。田中には、元暴走族のメンバーで、『鉄管健ちゃん』の異名で恐れられていたという過去もある。
 その田中がボツボツと話す。
 「名刺、主催者がリストにして、出展社に渡す。多分、どこでもそうしてるはず。そうだと、セキュリティジャパン展の出展社、柳原の名前、勤め先、電話番号にEメイルアドレス、みんな持ってる」
 「なんで、あんたが、そんなことを知ってんのよ」
 「出展したことあるから。別のやつだけど」
 「困りましたねえ」エミちゃんは言う。「どうしましょう」

 「やあ、遅くなってすまん」
 事務所の入り口のドアが開いて、姿を現したのは近藤夏樹、株式会社コンドーの代表取締役社長だ。夏樹という名前は、よく女性と間違えられるが、近藤は柔道で鍛え上げた大男だ。
 「んん? なんか、まずいことでもあったかな?」近藤は、事務所の微妙な雰囲気を感じ取り、そこにいる三人に尋ねる。
 「すみませーん」すぐ謝るのは、エミちゃんの悪い癖だ。「仕事じゃないんですけど、ちょっと柳原さんが……」
 「また、何をしたんだね?」これまでも、好奇心旺盛な柳原の引き起こすトラブルの数々に付き合わされた近藤は、うんざりしたように尋ねる。
 柳原は、自分の抱えている問題を、手短に説明する。
 「いつからだね、その怪しい男が出るようになったのは」
 「はっきりとわかったのは今日なんですけど、二〜三日前から、なんか変だなと思ってました。この事務所のあたりをうろついて、私を見張っているみたいです」
 「全く余計なことをしてくれるねえ」近藤も心配顔で言う。「しかしこれ、別のやつかもしれない」
 「すみません」柳原は恐縮して言う。「でも、外にいる奴も、大したことはできないと思いますけど」
 「そうだね」近藤は言う。「何も起こらないかもしれない。しかし何か起こるかもしれない」
 「ただの嫌がらせじゃないか、と思うんですけどね」柳原は自信なげに言う。
 「たしかに、そうかもしれない。しかし、現に待ち伏せしているということは、赤信号だ。最悪の事態を想定して対応すべきだろうね」
 「最悪って、例えばどんな?」
 「ストーカーから殺人に発展した例だってある。レイプ、暴行事件は珍しくない」
 「そんな……」
 「それにね、外にいる奴、柳原君のネットの喧嘩相手かどうか、はっきりとはわからない。実はね、こんなものが来ているんだ。君らを心配させるのもなんだと思って、黙っていたんだが」
 近藤はそう言いながら、ビニール袋に入れた一枚の紙を差し出す。そこには、二十四ポイントの、大きな明朝体の横書きで、次のように印刷されている。
 『東都銀行から手を引け.
 さもなくば、
 事務所の女
 一人消す.』
 「この脅迫状、いつ、どこに来たんですか?」柳原がきく。
 「今日、下のポストに入っていた。桜が原郵便局の消印だ。この近くから投函したらしい」
 「東都銀行の横領犯ですかねえ、これ書いたの」
 「その可能性が高いね、こんなことを書くってことはね」
 「『さもなくば、事務所の女一人消す』って俳句みたいですけど、わざとかしら」エミちゃんは変なところに注目する。
 「たまたま、字数がそうなっただけだろう」近藤は、首をひねりながら応える。「脅迫状を俳句で出す奴なんて、聞いたこともないぞ」
 「この、『一人消す』ってとこが不気味ですね」
 「そう。しかも『事務所の女』ときた。我々の弱いところを突いてきてるだろう。俺や田中にちょっかい出すってんなら、大歓迎してやるんだが、エミちゃんが襲われたりすると、困るんだよな。いずれにせよ、この脅迫状を書いた奴は、相当に知恵の回る奴だな。ただの変質者じゃあない。外にいる奴が、この脅迫状を出した奴と関係しているとすると、ことはちょいと厄介だ」
 「これ、警察に届けたほうが、良いんじゃないですか?」エミちゃんが心配そうに言う。
 「この脅迫状には『東都銀行』と書いてあるだろう。東都銀行の横領事件を調査していることは、警察にも明かせないから、警察にこの脅迫状を届け出るわけにはいかないんだ」
 「東都銀行から手を引いたりは、しないんですよね」柳原が確認する。
 「あたりまえだ」近藤は毅然と応える。「こんな脅迫状が来たくらいで手を引いていたら、探偵事務所は務まらない。だいたい、こんなものを寄越すということは、東都銀行で悪さをしている連中、かなり追い詰められている証拠だ。ここで手を引く理由は全然ない。それにね、こんな脅迫状、普通は、ただの脅しだけ……なんだがな」
 「でも、外に変な人がいますからね」
 「そう、そこが問題」近藤は考え込む。「警戒水準(デフコン)を上げざるを得ないなあ。探偵事務所の所員が襲われたなんて、俺たちの沽券に関わるし、下手をすると、信用をなくしてしまう。それにしても、外にいる奴は何を考えとるんじゃろうか。こんなところに姿を現してなあ。俺たちを何者だと思ってるのか、あいつは。襲ってきたところをとっ捕まえれば、東都銀行の事件も、一挙に解決するかもしれないんだが」
 「そうだ、こっちから、出ていって、やっちゃいましょうよ」田中は威勢が良い。
 田中には、近藤と組んだ喧嘩なら、相手がプロレスラーでも勝てる自信がある。
 「やるって、ぼこぼこにするってか?」
 「まあ、そんなようなことを……」田中は口篭もる。「要は、口を割らせれば良いわけだから……」
 「そりゃあ、俺とお前で奴を締め上げれば、口を割らすのもわけないと思うが、そうするわけにもいかんところが、辛いところだ。警察に目をつけられると、商売に差し支えるからなあ」近藤は考えながら言う。「そいつが、何もしないで見ているだけなら、警察に突き出すわけにもいかないし、どやし付けるわけにもいかない……」
 「それじゃあ、どうすれば」田中はいらいらして言う。
 「すみません。私が悪いんです」柳原は、消え入りそうだ。
 「まあ、こうなっちまった以上は致し方ない。まずいことにならないように、最善を尽くすしかありませんな」そう言うと、近藤は、ぶつぶつ呟きながら、自分の考えをまとめる。「そうだなあ、起こり得る最悪の事態は、奴が襲ってくるってことだね。そうしてくれれば、警察に突き出しゃ良い。話は簡単だ。俺たちが、こっそり、柳原君をガードして、奴が手出しするのを待ちゃあ良い。そいつが襲ってこなくても、所在が確認できたら、尾行して、正体を明らかにすれば良い。そいつが東都銀行の横領犯なら、一丁上がりだな……。で、外にいるってのは、どんな奴だね?」
 「髪の長い、ちょっと大きめの男です。今は姿が見えないんですけど、夕方から、あの電信柱のあたりにいて、時々こちらを見ています」
 「俺、柳原の送り迎え、しても良いけど」田中が言う。「奴が手を出したら、のしてやる。それなら正当防衛、良いでしょう?」
 「まあ、そういうことなら問題は少ないが……」近藤は思案顔で言う。「しかし、その馬鹿が狙っているのは、柳原君とは限らない。脅迫状には、事務所の女と書いてあるだけだ。エミちゃんが狙われているのかも知れない。そいつがネットの喧嘩相手なら、狙われているのは柳原君なんだろうが、そいつは柳原君の顔を知っているのかね。もし知らなければ、柳原君とエミちゃんの見分けがつかないじゃないか。結局、どっちにしても、エミちゃんと柳原君の二人をガードする必要があるね」
 「それで……、どうしたら……」田中には、近藤の意図が掴めない。
 「どちらにしても、俺とオマエでなんとかするしかあるまいな」近藤はあっさりと言う。「脅迫状の話は出さないで、警察に届けるって選択もあるが、それで解決できるとも思えん。他に手はなかろう」
 「で、何をすりゃあ良いんですか?」田中は焦れる気持ちを押え切れずにきく。
 「帰りに、俺とオマエで手分けしてエミちゃんと柳原を尾行する。誰かが襲ってきたら、もちろん取り押さえて警察に突き出す。手出しをしなくても、彼女たちを見張ったり、尾行したりしてる奴がいたら、今度はそいつの跡をつけて、正体を明らかにするんだ。ふたりを狙う奴を見つけ出せるように、離れて尾行するんだな。敵の正体さえわかれば、そいつと膝を突き合わせて談判すりゃあ良い。うまくすると、東都銀行の一件まで片が付いてしまう。ふたりには、安全のため、しばらくの間ホテルに泊ってもらおう。アパートがばれて、何かされても困るからな」
 「わあ」エミちゃんは嬉しそうに言う。
 「その宿泊費、会社で出してくれるんですか?」柳原は、肝心な点を確認する。
 「しかたがないねえ、経費で落とそう。だけど、部屋代だけだよ。飲み食いまでは、面倒みきれん。食事は、コンビニの弁当でも買って済ませてくれ」
 近藤は、近くにあるホテルを予約するよう、エミちゃんに指示する。エミちゃんが一瞬戸惑ったのは、それが、格式あるホテルで、一泊料金がビジネスホテルの倍以上するホテルだったからだ。
 「ここ、高いですよ?」
 心配そうに問い返すエミちゃんに近藤は言う。
 「まあ、いいさ。一週間で予約しといて。そうすりゃあ、室料、割引になるんだよ」

 「それでは、よろしいでしょうか?」作戦会議が終ったところで、エミちゃんがきく。
 「OK。エミちゃんは、田中君がガードして」近藤が指示する。「俺は柳原君をガードする。ルートはいいね」
 地図でホテルまでのルートを確認して、先ずは、エミちゃんと、続いて田中が事務所を後にする。
 近藤は事務所の窓からエミちゃんと田中の後姿を追う。怪しい奴の姿は見えない。
 「さて、君の番だ」
 「それじゃあ、お先に。角のコンビニで待ってますから」柳原はそう言って事務所を出て行く。
 近藤は、火元を確認し、照明を落とすと、戸締りを確認して事務所を出る。
 階段を降りて歩道に出たところで左右を眺め渡すが、怪しい者は見当たらない。
 角のコンビニの大きな窓の向うで、柳原が週刊誌を立ち読みしている。近藤は、コンビニに入り、レジに進んで煙草を買う。
 柳原は、近藤の姿を見て、雑誌を棚に戻し、何も買わずにコンビニを出る。
 近藤は柳原の姿が見え隠れする距離を保って尾行を開始する。近藤には柳原の通り道がわかっているため、柳原を見失う恐れはない。
 ホテルまでは、ここから歩いて、五分程度の道程だ。
 近藤の見た限り、柳原の跡をつけている者はいない。あたりは人影も疎らで、誰かが柳原を尾行していれば、すぐにわかるだろう。
 近藤の携帯が振動する。田中からだ。「エミちゃんを尾行している奴がいました」
 「どこからつけられた?」近藤は低い声で応える。
 「事務所の前からだと思います。気付いたのは、少し後ですけど」
 「エミちゃんはどうしている?」
 「チェックインを終って、ロビーにいます」
 「曲者は?」
 「ホテルの入り口で、タバコ吸っています。白いジャンパーの、大柄の男です」
 「名前とか部屋番号とか、奴に聞かれたかな?」
 「大分距離ありましたから、聞かれてないと思います」
 「こっちももうすぐホテルに着くから、君はそいつを尾行してください。まさか、気付かれちゃいないね」
 「大丈夫です。奴はエミちゃんのほうを見てて、こっちには背中を向けてます。私は、トイレの前にいますから」

 柳原がロビーに入る。柳原に気付いたエミちゃんは、手を上げて、柳原に所在を伝える。
 「待ったー?」
 柳原の声に、エミちゃんは笑い顔で応える。
 「チェックイン終ったよー。部屋行こう、部屋」
 エミちゃんは立ちあがり、柳原と共にエレベータに向かう。
 近藤はホテルに入ると、田中の横を素知らぬ顔で通り、トイレに向かう。
 田中は少し待って、トイレに入る。中には、手を洗う近藤がいるだけだ。
 近藤は小声で言う。「入口近くでタバコを吸っている、白いジャンパーの長髪の男だな」
 「そうです」
 「今度は俺がつける。君は少し後から来てくれ」
 便器に向かう田中と別れ、近藤はトイレを出る。男はエントランスを出て、タクシー乗り場に向かっている。近藤は、心持ち歩を早め、タクシー乗り場に向かう。
 近藤がロビーから外に出たとき、タクシーに乗り込む男の姿がみえる。都合の悪いことに、待機しているタクシーはその一台だけだ。
 近藤はタクシーの車番を読もうとする。タクシーのグリーンの塗装に、ホテルアプローチのダウンライトがきらきらと反射して、車番が読みづらい。
 「今のタクシー、どこの会社のものかわかるかな?」近藤は配車係に近付いてきく。
 「ええ、渡辺観光ですよ」
 「あの運転手、ちょくちょくここに来るのかね?」
 「さあ、流しのタクシーですからね。どうかされましたか?」
 「あ、いや、古い友人に良く似ていたものだから」
 「タクシー会社の電話番号をお調べ致しましょうか」
 「いや、こちらで調べるから良い」
 男の乗ったタクシーは既に視界から消えている。近藤は、配車係と話をしている間にタクシーが来たら、それを捕まえて尾行しようと考えていたのだが、もはやこの手は諦めざるを得ない。
 近藤がエントランスに向かうと、田中の姿が目に入る。
 「逃げられたが、ちょっと待ってくれ」
 近藤の携帯電話には、渡辺観光の番号が記憶されている。幸いなことに、渡辺観光は地元のタクシー会社で、コンドーがよく利用するお馴染みのタクシーだ。
 近藤が電話を掛けると、すぐに、がらがら声の男が電話に出る。
 「ああ、渡辺観光さん? 近藤と言いますけど、山根さん、ですか?」
 「はい、山根です。毎度、お世話さまです」がらがら声が言う。
 「例によって、お願いなんですけど、先ほど、二〜三分前に、桜が原グランドホテルから客を乗せて出た車、行き先わかりませんか?」
 「ちょいとお待ちを……ああ、二0三号車、新宿駅ですね」
 「新宿駅、ですか。今、私、グランドホテルにいるんですけど、そのタクシー、尾行できませんかね。このあたりに空車ありませんかねえ」
 「ちょっとお待ちください」
 近藤は、しばらくの間、受話器から流れるメロディーを聞いている。やがて、メロディーが止んで、山根が結果を伝える。
 「近藤さん、203号車の客、××駅付近で下車しました。ちょっと道路が込んでますんで、電車のほうが速いと思ったのかもしれませんが、無線でいろいろ連絡しましたんで、気付かれてしまったかもしれません。申し訳ございません」
 「無線で、ウチの名前、出しました?」
 「いや、グランドホテル周辺の空車を探したのと、203号車の現在位置を問い合わせただけです」
 「空車、ありました?」
 「それが、そのあたりには一台もありません」
 「そりゃ不幸中の幸いでした」
 「え?」山根は、近藤の真意が掴みかねる。
 「いや、空車があれば、山根さんは、『グランドホテル、近藤さん』と、空車に連絡するでしょう。その無線は、渡辺タクシーの全車に流れますから、ウチが追いかけていることを、ターゲットに気付かれてしまいますよ」
 「そうですね。危ないところでした。いずれにしても、お役に立てず、申し訳ありません」
 「いやいや、こちらこそ無理なお願いをして、申し訳ありません」
 電話を切った近藤は田中に言う。「駄目だな、新宿駅に向かったそうだが、途中で、私鉄に乗り換えたと。もしかするとこいつ、相当に勘の鋭い奴かもしれんな。やはり、尾行には、車を用意しておかんといかんな」
 「これから、どうします?」
 「もう、来やせんだろう。エミちゃんたちには、経緯を連絡しておくから、我々は、どっかそこらで一杯やんない?」
 「良いっすねえ」田中の大きな顔一杯に笑みが広がる。

 

 翌七月十日、午前九時――
 いつもは昼過ぎに出社する柳原も、今日はホテルからエミちゃんと一緒の出社で、コンドーの営業開始時刻には自分のデスクに座っている。
 早起きが苦手の柳原は、おぼつかない手つきでパソコンを起動する。
 柳原がまずチェックするのは、メイルと、例の、シルバーフォックスとやりあった、ウエブのボードだ。
 「うわー、しつこい奴ちゃな」
 パソコン画面を眺めて、柳原が叫ぶ。
 デスクで新聞を読んでいた近藤は、なにごとが起こったかと、柳原のパソコンの画面を覗き込む。
 「なんだこりゃあ」
 近藤が、思わず叫んだのは、そこに、「女探偵柳原のナイトライフ」というタイトルで、柳原がホテルで男と一夜を過ごした旨の文章が表示されていたからだ。
 「証拠写真? こりゃなんだ」
 「見てみましょう」
 柳原が『証拠写真』と書かれた囲み文字部分をマウスでクリックすると、新しいウインドウが開き、昨夜、ホテルのロビーに柳原が到着した時の写真が表示される。
 そこには、満面の笑みを浮かべてこちらを向いたエミちゃんと、彼女に片手を上げて合図しながら近付く、柳原の後姿が写っている。
 写真の背景には、ホテルのフロントもはっきりと写っており、近藤の判断でも、男女密会の証拠写真として充分に使えるものだ。
 「ははあ」近藤は状況を理解する。「奴はエミちゃんを柳原だと思っているんだな。それで、柳原を、彼女と密会してる男だと……」
 「なんですって!」柳原は言葉を失う。
 「こんなの困ります」これはエミちゃんだ。
 「これ、シルバーフォックスってハンドルの奴が出してるね。柳原君と口論していた相手は、この男なんだね。こいつがエミちゃんを尾行していた奴だとすると、東都銀行云々の脅迫状は関係ないかも知れない」
 「すいませーん。みんな私が悪いんです」柳原が泣きそうな声で言う。「でも、この記事、全然、間違っているんですけど、どうしましょうか」
 「こんな奴の間違いを正してやるってのも、変な話だ。かといって、放っておくわけにもいくまい。エミちゃんに悪い噂が立っても困るし、コンドーの信用にも関わるからね」
 「全くう。どうしたら良いでしょうか」エミちゃんも困惑している。「これって、世界中の人に読めてしまうんですよね」
 「ボードの主催者に、この記事の削除を要求しよう。これ、明らかに違法性が高いメッセージだから、多分、削除してくれると思うよ。そう、柳原君から、強く削除を申し込むのが良いね。もちろん、その前に、この記事、ファイルに保存しといて」
 「わかりました。厳重に抗議します。このメッセージを送信した、シルバーフォックスって奴の正体を教えてくれると嬉しいですけど……」
 「それは、ボードの管理人次第だね。裁判所に訴え出た段階なら、そういう情報も強制的に出させることができるんだが、今の段階では、ボードの主催者には、送信者を教えなきゃならん義務はない。下手に教えて、かえってトラブルになることもあるから、まず、教えちゃくれんだろう」
 「訴えるって、どうすればいいんですか? この記事を出したシルバーフォックスって、もちろん本名じゃないし、どこの誰だかわかりませんよ」
 「相手の氏名が不詳でも告訴できる。この記事が公開されていることは間違いない事実だし、その内容が柳原君の権利を不当に侵害していることも明らかだ。ボードの管理者が記事の削除に応じなければ、ボードの管理者を訴えることもできる。そのためには、関連する記事とか、やり取りしたメイルなんかを、きちんと保存しておかなくてはいけない。君が書いた奴もだよ。具体的な手続きに関しちゃあ、先ずは、弁護士に相談することだね」
 「なんか面倒ですね」柳原は、自分の書いた記事にも後ろめたいものを感じて言う。「お金もかかりそうだし、記事の削除だけお願いするのが良いかもしれませんね」
 「東都銀行の絡みもあるから、ウチでやっても良いんだが、まあ、現段階では、それが妥当なとこだろうね」近藤は言う。「告訴すれば、この、シルバーフォックスって奴の正体もわかるだろうから、ストーカーを止めめさせることもできるだろうし、もし、そいつが東都銀行の横領に絡んでいるなら、そっちの事件まで解決できるわけで、この記事を利用して氏名不詳のシルバーフォックス氏を告訴する意味は多分にあるんだが、どうも、俺には、今の段階で、そこまでする踏ん切りがつかないんだよね」
 「そうですねえ」柳原も同意する。「シルバーフォックスは、私に対する個人的な恨みから、跡をつけまわしているのかも知れませんからね」
 「その可能性も高いからねえ。あまりつまらないことで、裁判にするってのも、大人気のない話だし、手間も費用も掛るからねえ。まあ、早い段階でメッセージを削除すれば、被害も少ないわけだし……、だいたい、告訴したって、そうそうすぐに解決するものじゃない。この記事で大騒ぎするよりも、ストーカー男をとっ捕まえるほうが手っ取り早いだろうさ」
 「記事を削除したりすると、逆恨みするかもしれないわね」
 「そうなったときのために、証拠は、しっかり保存しておく必要があるだろうね。いつでも告訴、できるように」
 「わかりました。その線でいきます。しばらくは様子見ってことで……」
 「柳原君に関しちゃあそれで良い。しかし、相手の正体がわかって、こういうことを止めさせられるまで、エミちゃんのガードは当分必要だな」
 「ずっとホテルに泊まるんですか?」エミちゃんは心配そうに尋ねる。
 「うん、それが良いと思うねえ」近藤は答える。「君は自宅通勤で、ご家族と一緒だから、まさかこいつが自宅を襲ったりすることはないと思うけど、万が一ということも考えておかなくてはいけない。放火でもされると困るだろう」
 「ホテル泊まりは嬉しいんですけど、昨日の外泊も、親には、相当に疑われているんですよー。あの写真なんか見られたら、めちゃくちゃ怒られますう」
 「ご両親には、今晩にでも、ホテルに来てもらおう。私から、きちんと説明します。ご両親にも、一応は、用心してもらわねばなりませんからね。この一件、単に、柳原の軽率な行動が原因なのかもしれないけど、エミちゃんにしてみれば、コンドーに勤務しているが故に降りかかった災難なんだから、本件はコンドーの問題として対処します」
 「私も、お会いしましょうか?」柳原は申し訳なさそうに言う。「元はと言えば、私が悪いんだから」
 「君はそれほど悪くはない。ぶつかったのは君だけど、相手が変な奴だったのは災難だったといえるだろうね。だから、君は、エミちゃんのご両親に謝ったりする必要はない。でも、エミちゃんのご両親に会う時は、君も同席してもらったほうが良いだろうね。君とエミちゃんとは、一緒に動いてもらうのが良いからね。そのほうがガードも楽だし、一人よりふたりのほうが安全だ。そうそう、ここしばらくは、君は、いつもの格好をしててください。つまり、君が女性だってばれないようにね」
 「つまり、ずーっと、ジーパン穿いてろって? 化粧もすんなって?」
 「そういうこと」
 「サイテー」
 「悪いたぁ思うが、せっかくの誤解、解いてやる必要もない」
 「サイテーなのは、私が、ってことよ」

 

 午後六時――
 近藤は、桜が原グランドホテルのロビーで、柳原と向かい合ってソファーに腰をかけ、エミちゃんの両親を待つ。
 「エミちゃんって、近藤エミだったな」近藤はポツリと言う。
 「そう、だから、事務所ではエミちゃんで通してる」柳原が答える。
 「ご両親も近藤さんか。やりにくいなあ」
 エミちゃんは自宅に一旦帰り、両親をホテルまで連れて来ることになっている。
 時刻は午後六時を回ったところで、外はまだ明るい。エミちゃんを護衛するため、田中が車で尾行しているが、襲われる危険を可能な限り少なくするため、暗くなる前に行動することとしたのだ。
 エミちゃんは、長期戦に備えて、衣装一式を持ってくるという。
 柳原も、ホテルに来る途中、着替えを仕入れてきたが、紙袋一つの軽い荷物にすぎない。
 柳原は、エミちゃんがどれほど多くの着替えを持ってくるかを考えると気が重い。
 柳原は、普段は、判で押したように、つなぎのジーパンに薄いジャンパーを羽織って通勤している。だからといって、おしゃれな服を持っていないわけではない。
 こういう、高級なホテルに宿泊するという機会には、いくら柳原でも、ジーパンにジャンパーという格好はちょっと寂しい。特に、自分一人ではなく、大量の衣装を取り揃えたエミちゃんと一緒に行動するというのに、この格差は情けない。
 しかし、ストーカーのシルバーフォックスは、エミちゃんを柳原であると考え、柳原を男であると勘違いしている。この勘違いをそのままにしておけば、柳原は自由に行動でき、ガードはエミちゃんだけで済む。
 (えーい、俺は男だ)柳原は自分にそう言い聞かせ、憂鬱な気分を振り払う。
 近藤の携帯に田中の報告が入る。
 「エミちゃんとご両親のタクシー、まもなくホテルに着きます。怪しい奴は見えません」
 「はい、わかりました」近藤は、そう答えると、声をひそめて言う。「田中君には申し訳ないが、外の見張りを頼む。すぐに出られるところに車を停めて、昨日の奴がいたら、尾行をよろしく」
 「任せてください」田中は嬉しそうに言う。「私が入社したの、探偵事務所ですから」
 「もう来るってさ」携帯を切った近藤は柳原に言う。

 ドアボーイが扉を開けた正面の入り口から、両親を引き連れたエミちゃんが入ってくる。これを見た近藤はソファーから立ちあがり、柳原を連れてエミちゃんの一行に向かう。
 「お見合いみたいですね」柳原が小声で言うが、近藤は小さく鼻で笑うだけで、何も言わない。
 エミちゃんは、両親をロビーに残し、ベルカウンターに大きなトランクを預ける。
 近藤はエミちゃんの両親に近づき、一礼する。
 「近藤さんでいらっしゃいますか?」
 エミちゃんの父親は、四十代の中ごろと思しき小柄の男で、皺の多い顔は、よく日に焼けている。その顔をくしゃくしゃにして近藤に礼を返す。
 「近藤でございます。娘がいつもお世話になっておりまして」
 「いやあ、お世話頂いているのは、私どものほうです。あ、私、調査事務所コンドーの社長を務めております近藤と申します。苗字が同じなのも何かのご縁で」
 近藤は、毒にも薬にもならないことを言いながら名刺を差し出す。エミちゃんの父親は、その名刺を大事そうに受け取る。
 「本日はお忙しいところ申し訳ありません」近藤は話を続ける。「実は、業務上のトラブルがございまして、お嬢様にもいろいろとご迷惑をおかけ致しておりまして、この事情につきまして、ご家族の方にもご説明して、ご理解頂きたいと考えておる次第でございます」
 「はあ、左様でございますか」エミちゃんの親父は、近藤の話が飲み込めないが、一応頭を下げている。
 「エミもいつの間にか年頃になりまして、親と致しましても、いろいろと心配しております。社長様のほうにも、良いお話がございましたら、是非一つ……」エミちゃんの母親も、柳原同様、この会合から、お見合いの雰囲気を感じ取っている。
 「お母さん、今日は、そういう話じゃないんだから」エミちゃんは母親の話をさえぎり、近藤に言う。「すみません、いろいろして頂いて。で、お話は、どちらで致しましょうか?」
 「ああ、ホテルのグリルなんですけど、予約しておきましたんで、お食事でもしながらお話を聞いて頂く、ということでどうでしょうか」
 近藤の提案に、エミちゃんの両親は異議もない。

 近藤が推奨するメニューは、フィレミニオンのステーキディナーコースだ。
 近藤は、エミちゃんの両親に、なかなか本題を切り出さず、天気と景気の話から、最近の旅の話題でふたりの興味を繋いでいる。
 近藤はエミちゃんの父親に興味を持つ。近藤は、出会った人の職業を、おおよそ、見当をつけることができる。しかし、エミちゃんの父親に対しては、その推理がまったく働かない。
 エミちゃんの父親は、歳の割には、皺が多く、手も荒れている。日に焼けた顔は、ゴルフなどのスポーツで焼けたようには見えない。それは、建築、土木関連の、屋外で体を使う仕事に従事しているようにも見える。しかし、着ているものは、相当に金の掛ったものであり、単なる肉体労働者とも思われない。エミちゃんの父親は、高等教育を受けている風ではないが、その奥方は、知的な女性だ。
 「近藤さんは、何か、ご商売をされているんでしょうか?」ついに近藤は、推理を諦め、エミちゃんの父親に質問する。
 「百姓をやっておりましてな」エミちゃんの父親はそう答える。
 「この、東京の真中で、農業ですか?」近藤は驚いて問い返す。「そういえば、練馬大根とか、昔はありましたが、今でも残っているものでしょうか?」
 「大根も、昔はやっておりましたが、今は、果樹でございます」
 「かじゅ……? ああ、りんごとか、みかんとか、そういうものですか」
 「ええ。梨と梅が主体ですが」
 「お父さん、それは、もう、本業ではないでしょう」エミちゃんの母親が話をさえぎって言う。「前の代から、少しずつ畑を潰しまして、アパート、マンションを建てまして、今はそれをお貸しして生計を立てております」
 「ははあ、不動産業と言いますか、大家さんをされているんですな」
 「あんなものは仕事じゃねえ。俺の仕事は果樹の世話」エミちゃんの父親は、妻の説明に不快感を露わにする。
 「はい、夫が日中働いておりますのは、果樹園の手入れでございまして、私どもの敷地も、大部分は果樹園なんですけど、収入のほとんどは不動産からでございます」エミちゃんの母は、困惑気味だ。「こういう場合、職業は、なんとご説明すればよろしいんでしょうか?」
 「まあ、農業でも、不動産業でも、どちらでもよろしいんじゃないでしょうか」近藤は、なだめに回る。
 「まあ、果樹は、たしかに、ろくな金にもなりませんので、趣味といわれても致し方ないんですが、これで、税金対策という実益もありましてね」エミちゃんの父親も譲歩する。「十五町歩の土地、遊ばしときますと、目ん玉が飛び出るほどの税金を取られますんで」
 エミちゃんの父親の話に、一瞬、近藤はイメージが掴めなくなる。
 「十五町歩? えー、一町がおよそ一ヘクタール、つまり一万平米だから、十五万平米、四万五千坪? そりゃまた、大変なもんですなあ。このあたり、坪百万以上しますよ。たしかに税金も掛りますなあ」
 「税金は、農地にしておきますとお安いんですけど、それでも、お家賃の相当な部分を持ってかれまして、傍でみられるほど楽ではございませんのよ」エミちゃんの母親は言う。
 「まあ、昔よりは楽だから……」エミちゃんの父は、ボーイが皿を運んできたのを見て、話を途中で打ち切り、次の料理に取掛かる。
 (てーことは、エミちゃんは、とてつもない大富豪の一人娘だった、ってわけか)近藤は、運ばれた皿の肉をナイフで切りながら考える。(このストーカー事件、一つ間違えると、エライことになるな)

 メインディッシュのステーキは、それほど大きくはないが、厚手の肉の周囲にベーコンを巻いて、網目を付けて焼き上げたものだ。使われている牛肉は相当に上質のもので、柳原がナイフを入れると、肉汁がほとばしる。
 エミちゃんと柳原はにこにこしながら料理を片付ける。二人は近藤や両親をそっちのけで会話を弾ませている。
 「これって、めちゃくちゃ美味しいじゃない」柳原は素直な感想を述べる。「脂身のところがないから、食べるべきか、残すべきかなんて、悩む必要もないし」
 「軟らかだし、ベーコンが効いてるわねえ」エミちゃんも、このメニューはいたく気に入ったようだ。「今度、真似しようっと」
 これを見ていたエミちゃんの母親が、目を細めて近藤に尋ねる。
 「エミと柳原さんは大分仲がよろしいご様子ですが、どのようなお付合いをさせて頂いておりますか、社長様はご存知でしょうか? こうして見ておりますと、お似合いのカップルのようにも……」
 近藤は、フォークを皿に置き、ナプキンで口の端をふくと、姿勢を正してエミちゃんの両親に向かい、小声で話し始める。
 「えー、実は、現在起こっております問題はこのふたりに関することでございまして」
 「まあ」エミちゃんの母親は、期待と心配が入り混じった顔で近藤をみつめる。
 「まず、今日お話し致しますことは、ここだけの話にして頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
 「ええ、もちろんそれは構いませんけど……」エミちゃんの母親には、話の先が、全く読めない。
 「ええ、柳原は、こんな格好をしておりますが、ウチの女性調査員です」近藤はエミちゃんの両親に顔を近づけて、本題を話し始める。「実は、ネットストーカーというんでしょうか、インターネットで会話をする過程で、柳原を付狙う者が現れまして、なぜか、柳原の本名と勤務先まで、ストーカーの知るところとなりました。ところが、ストーカーは、私どもの事務所を見張っていた様子なんですが、帰宅時に跡をつけられたのは、柳原ではなく、エミさんでした」
 「まあ、それは、柳原さんが女性に見えなかった、ということで?」エミちゃんの母は、柳原の姿を横目で見ながらきく。
 「そういうことでしょう。こういうものも出してきました」近藤は、エミちゃんと柳原の密会を伝える、シルバーフォックスの記事をプリントアウトした紙を、両親の前に差し出す。
 「あらー、これはひどい……。それで、実際に、柳原さんは、エミとホテルに泊まったんですか?」
 「ええ、もちろん。一人より、ふたりのほうが安全ですからね」近藤が答える。
 「あのー、私達、別に、変な関係じゃありませんから」近藤たちの話を横で聞いていた柳原が、念を押すように言う。
 エミちゃんの母は、音を立てて鼻から息を出す。自分自身のおかしな想像に、腹を立てているようだ。
 「私どもの調査員がエミさんを尾行致しまして、ストーカーの姿を確認しております。あまり鮮明ではないんですが、この写真の男に見覚えはありませんか?」
 近藤は両親の前に、昨日撮影したストーカーの写真を差し出す。写真は田中が撮影したもので、斜めうしろから撮影された横顔だ。
 「こんな男には、見覚えはありませんねえ」エミちゃんの母は写真を父に渡しながら言う。「あなたはどうですか?」
 「いや、私にも心当りはありません」エミちゃんの父は、写真の角を持って、写真をいろいろな角度から眺めながらそう言うと、写真を近藤に返す。
 「この写真は、お二人にお渡ししておきます。もしもこの男を見かけたら、すぐに、私どもにご連絡ください」近藤が渡した写真を、エミちゃんの母は、忌まわしいものでも扱うように、手早くハンドバッグにしまう。
 「それで、これからどうされるおつもりですか?」
 「エミさんには、事件が解決するまでの間、このホテルに宿泊していただきます。ホテルの部屋には柳原を入れて、万一の事態に備えます。外を出歩く際は、私どもの調査員が尾行致します。これは、万一ストーカーが襲ってきた際にエミさんをお護りすると共に、ストーカーの姿が確認されましたら、そいつを尾行いたしまして、正体を明らかにすることが目的です。ストーカーの正体さえ明らかになれば、きちんとした対処も、それほど難しくはありませんから」
 「ああ、なるほど。コンドーさんは探偵事務所でしたな。ストーカーのような事件も、手がけておられたんですか?」エミちゃんの父親が尋ねる。
 「ええ、最近でこそ、計算機犯罪が専門のようになってしまいましたが、以前は、ストーカー事件も、何度か扱った経験があります。相手さえわかれば、直接乗り込んでいって談判すれば、大抵は諦めてくれます。どうしてもストーカー行為を止めない場合は、裁判って手もあります」
 エミちゃんの母親は、近藤の体格を眺めて、さもありなんというように、何度も頷く。

 

 ホテルのロビーで、エミちゃんの両親を送り出した近藤は、田中に電話する。
 「今、ご両親と別れたところだ。そちらの状況は?」
 「怪しい奴はいないようです」
 「そう……。じゃ、こっち来る?」

 近藤と田中は、柳原、エミちゃんと共に部屋に向かう。ボーイのサービスを辞退してベルカウンターから受け取った、エミちゃんの大きなトランクを引いて歩く田中は、まるでエミちゃんの下僕のようだ。
 部屋に一歩入ると、田中は目を丸くして言う。「うわっ、デラックスな部屋っすねえ」
 「一流ホテルだからな。ビジネスホテルとは、わけが違う。キッチン付きってのは、ちょっと良すぎるような気もするが、ウチが上得意だからか、長期で頼んだからか、フロントが気を利かせて、サービスしてくれたんだね」
 「これ、高くはありませんか?」
 「料金は、普通の部屋と同じにしてくれだ。長期割引もあるしね。もちろん、ビジネスホテルなんかに比べたら、ずいぶん高いけど、しゃあない。このくらいのクラスじゃないと、ホテルを使う意味がない」
 部屋は広いがスイーツというわけではない。奥に二つのベッドが並び、その両側に、鏡のついた机がある。ベッドのこちら側には、エクストラベッドに変形しそうなソファーがあり、その向かい側にはテレビが組み込まれた棚がある。手前には、小さなキッチンと丸いテーブルがあり、椅子が四つ並んでいる。
 近藤たちは、丸テーブルを囲んで腰を下ろす。近藤は、ルームサービスに、田中のための握り飯を二人前、部屋に届けるよう依頼する。柳原は、コーヒーメーカーをセットしてから席に付く。
 「さて、作戦会議といこうかね」
 「今日は、本当、すみません。お手数ばかり、おかけしまして」エミちゃんが近藤に謝る。
 「君が謝ることはない。君は純然たる被害者だ」
 「悪いのは柳原」田中が言うと、柳原は小さくなって、頭を下げる。
 「もう、その話は、なしだ。えー、まずこの部屋だけど、一週間予約した。一週間泊まると、割引になるんでね。経費も馬鹿にならないから、できれば、この一週間で片付けたい」
 「すみませーん」柳原が小さな声で言う。
 「ホテルの良いところは、安全が確保されることだ。このストーカーがどんな奴かわからんが、そうそうレベルの高い犯罪者とも思えん。ホテル内には警備員もいるから、ロビーその他で襲われる可能性は低いだろうし、部屋に鍵を掛けて、他人を入れなければ安全と考えて良いだろう。但し、ストーカーを部屋に入れちまったら、この安全性は犯人の側に有利に働くから、その点にだけは気をつけてください」
 「変な人を部屋に入れなければ良いのね」
 「エミちゃんは、柳原君と行動を共にしてください。何かあったらすぐに、私か田中君に連絡すること」
 「はい」エミちゃんは素直だ。
 「事務所との往復は、俺が送り迎えしよう」
 「私がやっても良いですけど」田中が言う。
 「いや、田中君は、犯人に顔を知られないようにしてくれ」近藤は説明する。「俺が送り迎えするのは、柳原を護るというポーズだ」
 「ポーズ?」
 「あー、いや、要するに、犯人を割り出すためには、犯人に出てきてもらわなくちゃいけない。そのためには、エミちゃんがそこらを歩き回って、犯人に跡をつけさせれば良いんだが、ホテルに泊まってまで安全を確保しているのに、エミちゃんが一人でそこらを歩き回るのは不自然だろう。だから、俺が送り迎えして、エミちゃんの安全に最大限対処していることを、犯人にわかってもらう必要がある」
 「それは、普通のことなんじゃないですか?」柳原が疑問を挟む。「ポーズってのとは、ちょっと違うと思うけど」
 「あー、だから、それだけ気をつけているのに、エミちゃんが一人で歩き回る場合もあるでしょう、ってことなんだ」近藤は、うまく説明ができない自分に腹を立てる。「俺だって、外出することもあるだろう」
 「それも普通だと思いますけど?」柳原、まだよくわからない。
 ドアにノックの音がして、ルームサービスがおにぎりを届けに来る。口を開きかけた近藤は、ルームサービスが立ち去るまで、口を閉ざす。ルームサービスからおにぎりを受取ったエミちゃんは、それを田中の前に美しく並べる。
 「だから、それは罠だってことなんだ」ドアが閉まるのを確認した近藤は、いらいらしながら説明を再開する。「つまり、俺の外出は、犯人を油断させるための罠で、実際は近くで待機しているんだ。で、エミちゃんが一人で外出し、その跡を、少し離れて田中君が尾行する。エミちゃんは、普段は、しっかりガードされているから、一人で外出するなんて、犯人としちゃあ見逃せない機会だろう。で、犯人が現れてくれたら、田中君は犯人を尾行し、俺はエミちゃんに合流する。俺の姿を見た奴は、諦めて巣に帰るが、そこを田中君がしっかりと尾行して、ストーカーの正体を見届ける。うまい作戦だろう」
 「なるほど」柳原、やっと近藤の話の意味を理解する。「で、私がエミちゃんと一緒に動くのはプライベートタイムだけ、ってわけですね」
 「そうだ。事務所に来たら、あとは帰るまで、自分の仕事をしてください。例の、銀行の仕事も、片付けなければいけないからな」
 「最初の罠は、いつにします?」おにぎりを片手に田中がきく。「早いほうが良いかも」
 「そうだね。早くけりをつけたいから、早速、明日やろうかね。明日は、午後三時から、打ち合わせを予定してるんだ。それが終ったところで電話を入れるから、それから作戦を開始しよう。俺の打ち合わせは、中央公園の先の東都銀行なんだけど、エミちゃんも、そこまで一人で往復するってのはどうだろう」
 「あ、どうせ、そろそろ記帳が必要ですから」エミちゃんが言う。「機械でもできますから、夜七時ぐらいまでなら大丈夫ですよ。あまり暗くなったら怖いけど」
 「打ち合わせ、午後の三時からだから、それほど遅くはならないと思うよ」
 「で、俺は、離れたところからエミちゃんの跡をつける、と……」田中が言う。
 「私は何をしましょう」柳原がきく。
 「おいおい、君は銀行の打ち合わせに同席だよ。例の、不正行為云々って話の中間報告、明日するって、前から決まってたでしょう。自分の仕事、忘れないでくれよ」
 「ああ、あれ。ええ、報告書はできてます。内容はあまり自慢できるようなものじゃないんですけど、エミちゃんが打ったから、立派なレポートに仕上っています」
 「誰かが小銭をちょろまかしている、って話だったけど、なんかわかったんだろうね。『進展ありませんでした』じゃあ、みっともない」
 「ええ、被害は掴めました。それほど小銭じゃありませんけど。手口もわかりました。だけど、誰がやっているのか、皆目、見当が付かないんですよね」
 「いいよいいよ。そのくらいわかっていれば充分だ。誰も、簡単に解決できるなんて、思っちゃいない。コンドーの営業上も、もう少し引っ張ってくれたほうが助かる」
 「それはちょっとずるいんじゃあ……」



第二章   トラップ
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 七月十一日――
 柳原は、今日も午前九時からの勤務だ。
 普通なら、柳原はずっと遅い時間帯、大抵は昼過ぎに出勤しているのだが、朝から事務所の仕事があるエミちゃんと行動を共にする都合上、九時には事務所に来ざるを得ない。おまけに今朝からは、近藤が車でホテルまで迎えに来るという豪華版である。とても遅刻できるような雰囲気ではない。
 朝が早いと困ったこともある。柳原は、監査の仕事を深夜に行うのが常で、深夜にならないと調子が出ない。ところが、こんなに早起きをしてしまうと、遅い時間に仕事をしようとすると眠くなる。特に、頭を使う局面になると、その瞬間に、睡魔が襲ってくる。
 柳原は、やむを得ず、午前の勤務時間に監査業務を行うのだが、周囲が明るいと、気が散って、まったく能率が上がらない。柳原は、自分自身の能率の悪さに腹を立て、脹れっ面でキーボードに向かう。
 柳原が許せないのは、自分自身だ。
 ストーカーの男が悪いのはもちろんで、でき得ることなら自らの手で叩きのめしてやりたいところだ。しかし、信用第一の仕事に就いている身では、これ以上、下手な争いに巻き込まれるわけにはいかない。
 そもそも、ネットの世界に変な奴がいることなど常識であり、柳原にしたって、昔から充分に理解していた。だから、こんなことになってしまったのは、元はといえば、自分の不用意な一言が原因だというしかない。
 柳原は、キーボードの前で、鼻と上唇の間に鉛筆を一本挟んで、口を尖らせている。やり場のない怒りを鉛筆に向け、締め上げているかのようだ。

 

 午後三時、柳原と近藤は、東都銀行桜が原支店を訪問する。
 「大野川支店長と、三時にご面会するお約束なんですが」
 近藤が窓口の女性にそう言うと、別の事務員が近藤たちを小さな応接室に案内する。
 大野川支店長は、近藤たちが応接室に入った直後に、応接室の扉を開けて姿を現す。
 「お忙しいところすみません」支店長は大きな額に浮かぶ汗をハンカチで拭きながら言う。「それで、何かわかりましたでしょうか?」
 「報告書をお持ちしました。不正行為が行われていることは確かなようです」近藤は、鞄から報告書を納めた封筒を取り出し、机の上を滑らせて、支店長に差し出す。
 支店長は、封筒に手を伸ばしながら、応接室の入り口を一瞥すると、近藤に小声で言う。
 「この話、くれぐれも御内密にお願いします。行内でも、まだ、知る者はごく小数です。ちょっと、私がお茶を持ってきましょう。そうそう、あれを、お見せ致しましょう」
 支店長はそう言うと、報告書をそのままにして、応接室を出て行く。
 (お茶のサービスを口実に、立ち聞きする奴でもいるんだろうか)近藤はそう思い、支店長の出ていったドアをみつめる。ドアの向こうには誰もいないようだ。
 やがて支店長は、お茶の入った茶碗を乗せたトレーを持って、応接室に戻る。トレーの下に、大判のピンクの封筒を持ち、器用に、机の上に封筒だけを落とす。支店長は、茶托に載せた茶碗を、几帳面に、近藤と柳原の前に並べると、おもむろに封筒を近藤に差し出して言う。ピンクの封筒には、ばら色のインクで『謹呈』と印刷されている。
 「近藤さんにプレゼントです。私の論文が出ておりますんで、お暇な時にでも、お読みください」
 近藤は封筒から雑誌を取り出して眺める。名の通った週間経済誌だ。目次ページを開くと、大野川勇作という活字がそこにある。
 「これは大したものですなあ。支店長さんは、経済のご研究もされていたんですか」
 「ええ、二足の草鞋を履いておりまして。本来なら、こんなところで判子など突いていないで、経済の先行きや為替の動向を予測しているはずなんですがね。どうも、本店には、わからず屋が多くて……」
 「えー、報告書のほうなんですけど、内容に付きまして、ご説明致しましょうか?」
 近藤、本来の用件に話を戻そうとする。
 支店長は、自分の前に置かれた封筒から分厚い報告書を取り出し、その装丁をしげしげと眺めて言う。
 「ああ、また随分と分厚い報告書を書かれましたな。私の論文など、ほんの六ページです。それも広告にスペースを割かれてですよ」
 「いやー、支店長さんの論文は、普通の本屋さんにも並ぶような立派な雑誌ですから、私どもの報告書とは、土台が違いますよ」近藤は、一応、得意先を持ち上げておく。「それで、中間報告の内容ですが、システムの解析を担当致しました、柳原のほうからご説明致したいと思うのですが、よろしいでしょうか」
 「ああ、もちろん構いませんとも」
 柳原は居住まいを正すと、支店長に向かって、よそ行きの声で話し始める。柳原のよそ行きの声は、トーンが一段下がって、まるで、怪談を語り始めるかのようだ。
 「ええ、それでは、順を追ってご説明致します。まず、結論から申しますと、御社で不正行為が行われていることは、間違いないものと思われます」柳原は説明を始める。「これまでの解析の結果、不正総額は、千八百万円と見積もられました」
 「千八百万円ね。多いというべきか、少ないというべきか」支店長はおかしなことに悩む。「それで、手口はわかりましたか?」
 「はい。プログラムに細工をする、古典的な手口です。この種の犯罪では、切り捨て計算の端数を自分の口座に振り込む、って手口がよく知られているんですけど、今回のは、好きなところから好きなだけキャッシュを持ってこれるという、ある意味、画期的な手法です。使われました方法は、足し算のルーチンに細工をして、合計がぴたりと合うようにするというものです。この銀行の会計システムは、合計を計算するとき『サムチェック』という専用の手続(プロシジャー)を呼び出しているんですが、この手続きに不正な細工が施されています。細工されたサムチェック手続は、テーブルを参照してまして、そのテーブルに、あちこちの勘定コードと金額が記録されています。で、サムチェックを呼び出したときに指定された勘定コードがテーブルのものと一致しますと、正しい合計値からテーブルの金額分だけ減らした額を、正しい計算結果として報告します。、つまり、ターゲットとなった特定の勘定の計算をするためにサムチェックが呼び出されると、正しくない結果を返すって訳です」
 「で、盗まれた金はどうなりましたか?」支店長が尋ねる。
 「それはわかりません。システムの側で言えることは、正しく計算するとキャッシュが不足するんだけど、足し算のルーチンに細工が施されているために、合計の金額は不足がないように見える、ってことだけです」
 「ああ、そういうことか。つまり、金庫の金は、計算機の出す値とぴたりと一致していたが、それは、本来あるべき現金よりも少ないってわけだね。早い話が、千八百万のキャッシュがなくなっているんだけど、計算が間違っていて、なくなっていないように見える、ってわけだ」
 「簡潔明瞭に言いますと、そういうことになりますな」近藤が言う。
 「それで、誰がやったか、ということは、わかりませんか?」
 「そこまではちょっと……。ただ、キャッシュはここの支店から消えていますから、この支店内部の人の犯行である可能性が高いと思います。あ、キャッシュを持ち出した人がですね。プログラムの細工は、別のとこからでもできますけど、現金の札束とかを、実際に、ここからよそに運ぶという仕事も必要ですから、それは、この銀行にいる人の仕業と言うことになります。それから、私が調べたのは、月末の、支店全体の残高ですけど、日々の部署ごとのチェックもされているようですから、そちらのファイルを丹念に調べていけば、何月何日にどの場所から現金が持ち出されたか、ということもわかるんじゃないかと思います」
 「まずいことになりましたなあ」支店長は大きな溜息をつく。「どうしたものでしょうか……」
 「これは、業務上横領が行われていることに間違いありませんから、警察に届けるしかないと思いますが」近藤は遠慮がちに言う。
 「そう、もちろんそうですなあ」支店長は天井を見上げながら言う。「ただ、こういうことは、いろいろと差し障りがございまして、私の一存ではちょっと……。申し訳ありませんが、少しの間、お待ち頂けませんでしょうか」
 支店長はそう言うと、応接室を出て行く。

 あとに残された近藤は、灰皿があるのをこれ幸い、ポケットから煙草を出して火をつける。
 支店長はなかなか帰ってこない。
 「あまり遅くならなきゃ良いがな。エミちゃんの件、暗くなる前に片付けたい」
 「支店長さん、どうしちゃったんでしょうね」
 「多分、御本社に電話しているんじゃないかね。俺たちに聞かれたくないもんだから、支店長室かどこかで……」
 「エミちゃんに来てもらうの、あまり遅くなるようだったら、明日にすれば良いんじゃないですか?」
 「まあ、暗くなっちまったら、そうするしかないな」近藤は面白くなさそうに言う。「しかしこの件、早いところ片付けちまいたいんだよね。こんな状態が続くと、エミちゃんには仕事を頼めないし、田中君も他の仕事ができない。ホテル代だって馬鹿にならないんだよ」
 「みんな私が悪いのね」
 「まあ、そう自分を責めるな。君の一言がきっかけだったにしろ、相手が異常だ。交通事故で言えば、九対一で相手が悪い」

 やがて支店長が、首の汗を拭きながら、応接室のドアを開けて、入ってくる。
 「申し訳ありません、お待たせして。警察には届けますが、その前に、当行の専門家が手口と被害状況を確認しておきたいと。レポートは、彼等にファックスしときました。今、電話会議の準備を致しますから、少々お待ちください」
 支店長はそう言うと、サイドテーブルの電話機を中央の机に運び、ボタンをいくつか操作する。電話機のスピーカーから、呼び出し音に続いて人の声が流れる。
 「はい、東都システムセンター、明石です」
 「あ、桜が原の大野川ですけど、ただいま、近藤さんにお越し頂きまして……」
 支店長が、電話機本体のマイクに向かって心持ち大きな声で話し始めると、支店長の話が終るのを待たずに、スピーカーから先方の声が流れる。
 「こちら準備できてます。資料も配りましたんで、ご説明のほう、よろしく」
 支店長は、近藤に目配せする。近藤は柳原に説明を促すように、掌を差し出す。
 柳原は分厚い報告書を開き、順を追って犯行手口の説明を始める。

 

 午後五時を回った頃、エミちゃんに近藤からの電話が入る。
 「打ち合わせ、長引いちまったが、いま終った。まだ明るいようだから、これから作戦開始、で良いかな」
 エミちゃんは、受話器を抑えて、田中に言う。
 「作戦開始、良いですか?」
 「いつでもどうぞ」田中が答える。
 「田中さんも、良いそうです」エミちゃんは受話器に向かって言う。「それでは、私、今から東都銀行に記帳に行きます。公園を横断するコースで良いですね」
 「俺は、柳原と、銀行の隣の茶店(サテン)にいるから、ターゲットを確認したら連絡頼む。獲物が掛んなかったら、記帳が終ってから、こっちにおいでよ。ケーキをご馳走するから。店の名前は繻子(しゅす)、銀行の隣だよ」受話器を通して近藤の暢気な声が聞こえる。
 田中は、窓から外の様子をうかがう。怪しい奴の姿は見当たらないが、雲行きが少々怪しい。
 「雨が降るかも。空が変な色だ」田中が言う。
 「あら、本当。なんか、空が黄色っぽいですね」
 エミちゃんは、ロッカーから置き傘を取り出すと、通帳を入れたセカンドバッグを小脇に抱えて事務所を出る。
 エミちゃんの姿が交差点のビルの角に消えたところで、田中は事務所を出る。
 田中は、ドアに鍵を掛け、注意深くあたりを見まわすが、事務所を見張っているような人物もおらず、エミちゃんの跡をつけているような者の姿も見えない。湿り気を含んだ風の中、一雨来ることを予感した通行人が足早に通り過ぎる。
 午後の五時という時間帯は、この辺りの人通りが少なくなる時間帯だ。
 主婦は、既に買い物を終え、夕餉の支度の真っ最中だ。
 ビジネス街に通勤する勤め人は、まだ帰ってくる時間ではない。
 このあたりは、小さな子どものいる家庭が少なく、塾通いの子どもも数えるほどしか通らない。
 数少ない通行人の中には、犬を散歩させる人が多い。その人達も、雨が降り出す前に、ペットを歩かせるだけ歩かせて家に帰り着こうと、歩を早めて商店街を通り抜ける。
 エミちゃんも足早に銀行に向かう。
 商店の建ち並ぶ路地を抜けると、交通量の多い国道に出る。そこを右に曲がり、少し進んだところの信号で国道を横断する。田中は、近付きすぎることを警戒し、信号を一回待って、次の青信号で横断することにする。
 田中は歩道の手前で信号が変わるのを待つ。エミちゃんは向かい側の歩道を更に右側に進み、公園の入り口へと向かう。
 国道の向う側には大きな公園が広がっている。銀行はこの公園の向こう側にある。
 車で銀行に行く時は、この道を右側に進み、公園をぐるりと迂回して向う側に行く。もちろん、徒歩で行く場合は、公園を横切るのが近道だ。
 エミちゃんの姿を目で追いながら、田中は、信号が変わるのを待ちつづける。田中は、この信号機の赤の時間が長いことを思いだし、少々不安になる。
 雨の降り出しそうな空模様のためか、エミちゃんは急ぎ足で歩いている。田中が尾行していることなど、すっかり忘れてしまったようだ。
 このまま青信号を待ち続けると、エミちゃんとの距離が開きすぎる。田中は、信号を無視して渡ろうかとも考えるが、交通量が多く、難しそうだ。
 エミちゃんの姿は、公園の入り口に消える。田中がエミちゃんの消えた公園入り口を見つめていると、田中の視界を自転車が横切る。
 田中の目は、自転車の男の顔を一瞬捉える。
 自転車が通り過ぎてわずかの後、田中は自転車の男が誰であったかを思い出す。
 (こいつは、あの、ストーカーじゃないか!)
 田中は自転車の男をあらためて見つめる。しかし、既に自転車は大分先に進んでおり、田中には後姿しか見えない。
 (自転車とはなー)
 田中は、一昨日、エミちゃんの跡をつけるストーカーをホテルまで尾行し、写真も撮影した。本来であれば、自転車の男がストーカーだと、瞬時に気が付いても不思議ではない。しかし、ストーカーが自転車に乗ってくるとは、田中は考えてもいなかったのだ。
 田中の目は自転車を追う。信号はまだ赤のままだ。道路の車は依然として多く、とても信号を無視して渡ることはできそうにない。
 田中は腰のホルダーから携帯電話を取り、近藤の番号を押す。
 「田中です。ターゲットらしき男、自転車で公園前を通過」
 「そいつはどっちに向かった?」
 「えー、公園前を右に……あ、左折しました。銀行のほうに行きます」
 「了解、待ち伏せをする。そいつは俺に任せろ。君はエミちゃんをガードして」
 信号が黄色に変わり、スピードを上げた数台の車が通過すると、そのあとの車は次々と停車する。田中は公園に向かって走り出す。
 園内の遊歩道はカーブしており、道の両側に木が茂っているため、見通しが悪い。
 国道の歩道を歩く人も少なかったが、それでも自動車は頻繁に通行していた。しかし、公園内には、全く人影が見られない。田中は不吉な予感がして、一刻も速くエミちゃんの姿を視界に捉えることを願う。空には雨雲が広がり、あたりはかなり暗くなってきた。木立の間には、深い闇が横たわっている。
 田中の願いに反して、エミちゃんの姿はなかなか見えない。あまりランニングが得意ではない田中は、息が切れ、スピードが鈍る。
 公園の奥には、小さな広場があり、そこから向う側に二つの道が伸びている。その左側の道に向かうエミちゃんの後姿がようやく見える。
 空には真っ黒な雨雲が広がり、先ほどまで見えていた黄色味を帯びた光は地平線に近い部分に押しやられている。遠くに雷鳴が聞こえ、湿り気を帯びた、冷たい風が吹き始めた。雨が降り出す気配が高まってくる。
 エミちゃんの姿を確認した田中は、ほっと一息入れ、尾行を続けるために距離を置こうと、木陰の道に戻る。
 その時、右側の道から男が一人飛び出してくる。遠目にも、それは、あのストーカーの男だとわかる。
 男はまっすぐにエミちゃんのほうに向かう。
 田中が驚いたことには、男の手には、太くて長い、棒のようなものが握られている。
 田中はエミちゃんに向かって走り出す。
 異変に気付いたエミちゃんは、男を見つめて口を大きく開ける。
 田中は悲鳴が聞こえてくるものと予想するが、エミちゃんの口からは、なんの声も聞こえない。あまりの恐怖に、声も出ないのだろうか。
 次の瞬間、エミちゃんは男とは逆の方向に走り出す。田中も走るコースを曲げ、エミちゃんの逃げる方向に向かう。
 男は、吼えるような声を出す。田中には、彼が何を言っているのかわからない。
 田中も大声を出して男を制止させたいと思う。しかし、息が上がって声が出ない。しばし口をパクパクさせていた田中は、声による制止を諦めて口を閉じると、全力でエミちゃんに向かって走る。
 やがてエミちゃんは田中に気付き、田中の方向にコースを変える。
 男がエミちゃんに追いついた瞬間、エミちゃんと男の間に田中が入る。
 「うおー」男はそう叫ぶと鉄パイプを振り下ろす。
 男には田中の姿が目に入らなかったのだろうか、田中は完全に無視されたようだ。
 男がエミちゃんに向かって振り下ろした鉄パイプの根元、男が握るすぐ先に、田中の左腕が入る。
 鉄パイプは空を切る。田中の二の腕は、鉄パイプにこすられて皮が剥ける。
 ジャンパーを着てくるべきだった、と田中は一瞬後悔する。田中は、半袖のTシャツ姿だ。
 次の瞬間、田中の大きな掌は、男の手首を掴み、もう片手で鉄パイプを握る。
 田中は体をひねり、自らの体を間に入れて、男と鉄パイプを引き離そうとする。しかし、男もこれに抵抗して、鉄パイプを自分の体に引き寄せる。ストーカーの男と田中は、一本の鉄パイプを共に掴んで取り合う。力比べだ。
 田中は男の手首を締め上げるが、男は鉄パイプを離さない。そればかりか、田中の顔を狙って鉄パイプを振リ下ろそうとする。しかし、力では田中の敵ではない。田中は鉄パイプの支配権を徐々に奪い取ると、「やっ」と言う掛け声と共に、鉄パイプを男の額に打ちつける。
 いつまでも鉄パイプを握りつづける男の手が邪魔をして、鉄パイプはそれほど強く男の額に当たったわけではない。それでも、男は鉄パイプを放し、尻餅をつく。
 長い髪の懸かった男の額に、一筋の血が流れる。
 田中はエミちゃんを見る。エミちゃんも、転びかけているが、スカートを地面でこすらないように、掌で体を支えている。器用なもんだ、と田中は思う。
 「大丈夫か?」
 田中はエミちゃんに声を掛ける。しかし、エミちゃんは恐怖に駆られて、体も動かず、声も出ない。
 エミちゃんの恐怖は、ストーカーの男に襲われた恐怖だけではなく、凶暴な一面を見せた田中に対する恐怖でもある。
 田中は、自分では気付いていないが、閻魔のような形相をし、手には、たった今、男の額をかち割った鉄パイプを地面に立て、いつでも振りまわせるぞとばかりに、左手で鉄パイプの上端を握り締め、その下方に開いた右手を添えている。
 不器用な田中は、ストーカー男に対する表情と、エミちゃんに対する表情を切替えることができないのだ。エミちゃんには、田中は凶暴な動物のように思え、田中が次に襲うのは自分かもしれないという恐怖に怯えている。
 エミちゃんは、田中の凶暴な本性を聞き知っている。近藤に出会う前の田中は、暴走族のメンバーで、鉄パイプやチェーンを使ってしょっちゅう喧嘩をしていたと、エミちゃんは以前に聞いたことがある。そんな話も、話として聞く分には愉快だが、いざ目の前で実演されると、恐怖以外のなにものでもない。
 エミちゃんの唇は震え、目には涙が浮かんでいる。その表情は、泣き出す直前のようだ。
 田中はエミちゃんの心情がわからず、どう対処すればよいかもわからない。
 田中がエミちゃんを見つめて、どうしようかと考える僅かな隙に、男は身を翻して駆け出す。
 田中は、男を追うべきか、エミちゃんのガードを続けるべきかと迷う。それは、結果的に、エミちゃんのガードを続ける形となる。
 向かい側、公園の出口に近藤が姿を現し、田中に向かって大声で呼びかける。近藤は田中たちに向かって走り寄り、倒れているエミちゃんに叫ぶ。
 「大丈夫か?」
 「ストーカー、向うに逃げました」田中は、男が逃げていった方向を指差して大声で叫ぶ。田中の指差す方向に、逃げて行く男の後姿が小さく見える。
 「OK。君はエミちゃんを頼む」近藤は走り出す。
 近藤に続いて現れた柳原に手助けされ、エミちゃんはようやく立ちあがり、スカートに付いた埃を払う。柳原に礼を言うような目付きをしたところを見ると、やっと自分を取り戻したようだ。しかし、怒ったような顔は変わらず、田中には無言のままだ。
 田中は、どうして良いかわからず、エミちゃんを扱いかねている。柳原も、エミちゃんに対する襲撃には、自分も責任の一端があると自覚しており、なんと声を掛けたら良いか、逡巡している。
 しかし、そんな複雑な心象模様も、すぐに雲散霧消する。
 近藤が帰ってきたのだ。
 「駄目だ、逃げられた。奴は自転車に乗って行っちまった。信号も変わっちまったし、タクシーも捕まらない。どうも段取りが良くないなあ」
 「どうしましょう」エミちゃんがやっと口を開く。
 田中はほっとする。
 近藤はそんな田中の姿を見て、提案する。
 「今日のところは帰るしかないね。通帳もケーキも、また明日にしよう。ホテルまで送って行こう」
 近藤たちは、公園の出口に向かう。銀行に近い、近藤たちが駆け込んできた出口だ。
 近藤はタクシーを止め、女性二人と共に乗り込む。
 「田中君、悪いけど、事務所の始末のほう、お願いします」
 「了解」
 田中はそう応えると、ずっと手に持っていた鉄パイプをしばし眺め、これをどう処置すべきか考える。
 先ほどの一件が問題になった場合に備え、コンドーで一旦、証拠品として保管する、というのが常識的なやりかただろう。
 しかし、田中には、今回の大立ち回りが、それほど、大きな問題になるとは思えない。
 (これでエミちゃんが怪我でもしていりゃあ、この鉄パイプは重要な証拠品だけど、それにしちゃあ、俺の指紋を付け過ぎたなあ)田中は考える。(しかし、エミちゃんも無事だったし、俺の腕はちょっとすりむけているけど、これは、事件にゃあ、なりそうもない。ストーカーは、おでこから少し血が出てたけど、元気に走って逃げてしまったしな。鉄パイプを下げて夜の町を歩くのも穏やかではないし、この鉄パイプは、ここらに捨てておこう)
 田中はそう考えると、鉄パイプをゴミ箱に捨て、パンパンと手を叩いて掌に付いたゴミを払うと、公園をあとにする。
 大粒の雨がぽつりぽつりと落ち始めた。
 遠くに雷鳴が聞こえる。
 このあたりも、まもなく雷雨になりそうだ。
 田中は、歩を速めて、事務所へと急ぐ。

 

 翌七月十二日の朝――
 コンドーの事務所は重苦しい空気に包まれている。
 エミちゃんは、昨日の恐怖が忘れられず、いつもの明るさがない。田中に対しても恐怖心を抱き、田中に接する態度はよそよそしい。
 田中も、エミちゃんに嫌われたことを悟り、元気がない。
 連続定時出勤記録を更新中の柳原は、生活のリズムが狂って調子が出ないうえ、今回の騒動の責任を感じて、落ち込んでいる。
 近藤は、一文の金にもならない事件にうんざりしている上、二度もストーカーを取り逃がして、しょげ返っている。
 そんなコンドーの事務所に、あまり歓迎されない客がくる。
 「田中健也さんはこちらですか?」事務所入り口のドアを少し開けて、男が尋ねる。よく見れば、声の主は、制服の警察官だ。
 「はい、左様ですが」近藤はデスクから立ちあがり、入り口に向かいながら言う。「田中はウチの職員ですが、どんなご用件でしょうか?」
 その言葉に、二人の警察官がドアを開けて入ってくる。
 「田中さんに、署のほうまでご同行願いたいんですが」警察官は手帳を示して言う。「この先の中央公園で発生しました殺人事件に関しまして、お話をうかがいたいと思います」
 「殺人?」近藤は、眉を吊り上げて言う。「どういうことでしょうか? それを田中がやったと?」
 「えー、一応ご説明致しますと、本日未明、この先の中央公園の茂みの中で、男の撲殺死体が発見されました。死因は、頭に数ヵ所受けた、棒状の鈍器による打撲とみられとります。付近を捜索したところ、ごみ箱から血液が付着した鉄パイプが発見され、血液型が被害者のものと一致しました。鉄パイプには、指紋が残されておりまして、それが田中さんの指紋と一致しました」
 「はあ、そういうことでしたか」近藤は、溜息をつきながら言う。「殺されたのは、ひょっとしてこの男ですか?」
 近藤が差し出すストーカーの写真に、警察官は色めいて尋ねる。
 「どうしてここにこの写真が? たしかに、殺された男に良く似ていますが」
 「えー、これにはいろいろと事情がありまして。田中は、たしかに昨日、鉄パイプを振りまわして、この男と大立ち回りを演じたのですが、けしてこの男を殺したりはしませんでした。殺しの一件と、鉄パイプの指紋の一件は、全然、別の話だと思いますが。まあ、この事情につきましては、少々入り組んでおりますんで、私どものほうから、全てをまとめてお話したほうが良いと思いますな」
 「はあ、そういうことでしたら、後ほど、関係された方に署まで来ていただいて、お話をうかがうように致します。しかし、今のところは、まず、田中さんにご同行願えませんか? そういう指示を受けておりますんで。それから、この写真、拝借してもよろしいでしょうか」

 警官たちは、近藤からストーカーの写真を譲り受け、田中を連れて事務所をあとにする。田中は、おとなしく警察官に連れられて行くが、傍目にもはっきりわかるほど、しょげ返っている。
 田中の去ったコンドーの事務所は、再び、疲労感が支配する。
 「ストーカーの人、殺されちゃったんですね」エミちゃんがポツリと言う。「どうして殺されちゃったんでしょう」
 「そんなこと、俺たちにわかるわけないだろう」近藤が言う。
 「田中さんの指紋、警察にあったのかしら」柳原がぽつりと呟く。
 「あいつが『鉄管健ちゃん』と呼ばれていた頃には、警察のご厄介にもなってるからな」近藤も独り言のように言う。「起訴猶予になったから、前科は付いていないが」
 「鉄管健ちゃんは随分と有名だったって、えばってたことがありますよ」エミちゃんが吐き捨てるように言う。「まったく、馬鹿みたい。そういうのって、恥ずかしいことだと思わなくちゃ」
 「まあ、昔の話だからな。いまさら蒸し返しちゃあ気の毒だ」
 「でも、昨日は、本当に鉄管健ちゃんでしたよ」エミちゃんは目を吊り上げていう。「田中さんの、あんなに怖い顔、初めて見ました」
 「なあに、昨日の田中が本物の鉄管健ちゃんだったら、あんなもんじゃ済まない。あの男も逃げられたはずはないし、殺されずに済んだはずだ。田中も焼きが回ったな」
 「いくらストーカーでも、やりすぎたらまずいんじゃないですか?」柳原がきく。
 「やりすぎたら過剰防衛だな。たしかに、ストーカーにだって人権があるから、あまり無茶なことはできない。しかし、行動の自由を奪う程度に叩きのめすぐらいのことは、許されたんじゃないかね。現にエミちゃんは襲われたんだし、田中には、そういうことができたはずだよ。なにせ、鉄管健ちゃんなんだからな」
 「そのストーカー、誰が殺したんですか?」柳原がきく。「田中さんが本当にやったってことは、ないんでしょうね」
 「うーん、そいつはなんとも言えんなあ。心情的に、あいつは無実だとは思うが」
 「鉄パイプに指紋があったって言うけど、それは、あの男が襲ってきた時、エミちゃんを護るために、鉄パイプを奪い取ったからですよね」柳原は言う。「その時、田中さんは、たしかに男のおでこをたたいて、怪我をさせたみたいですけど、大した怪我じゃなかったでしょう。その人、自分で走って逃げちゃったじゃないですか。だから、田中さんは無実ですよ」
 「それがわからないんだよ。あの時、ストーカーはたしかに逃げた。俺が追いかけたんだから間違いはない。しかし、そのあと、あいつがどうしていたか、誰も知らない。俺は田中と別れて、君らをホテルに送っているんだよ。彼は一旦ここに戻って戸締りと火の用心をしているはずだけど、単独で行動した。つまり、田中のアリバイはないってことだね。あのあと、どこかでストーカーと出会って、第二回戦をやったかもしれない」
 「頭の怪我って、内出血とかしていると、あとで容態が悪化するっていうじゃないですか」エミちゃんが言う。「田中さんがやった、おでこへの一撃が致命傷だったのかもしれないわ」
 「うーん、あの程度で死ぬとは信じられないが、可能性はないとも言えんなあ。その辺のことは検死でわかるだろうけど……」
 「でも、もしそうだったら、正当防衛ってことになると思いますよ」柳原は田中を庇う。「だって、鉄パイプを取り合ってたときのことですから。それにしても、さっき、中央公園で死体が発見されたって言いましたよね。その人、どうして中央公園に戻ったりしたのかしら? 何か、忘れ物でも、したのかしら」
 「あいつが公園に戻ってきた理由は、まるっきりわからない。まあ、いずれ警察に呼ばれるはずだから、その時にでも、話を聞かせてもらおう。俺が見た限りでは、めぼしいものはなかったがね」
 「鉄パイプはどうしたんでしょうか?」エミちゃんがきく。
 「ああ、そういえば、田中は、ストーカーから奪い取った鉄パイプ、ずっと持っていたな。それからあいつ、あの鉄パイプ、どうしたんだろう。俺たちと別れた時も、まだ持っていたがなあ。さっきの警官は、ゴミ箱から発見されたと言ってたが、それは、田中が捨てた物なんだろうか?」
 「鉄パイプには、ストーカーの人の指紋も付いていたんじゃないですか?」エミちゃんが言う。「ストーカーの人、一旦は、うまく逃げたんだけど、自分の指紋がついた鉄パイプを取り返しに、現場に戻って来たんじゃないでしょうか」
 「そりゃあり得るなあ。それで、あの場でモタモタしていた田中とぶつかったってえか? そりゃ、まずいよ」
 「でも、田中さんが本当にストーカーの人を殺したんだったら、凶器の鉄パイプを現場に残しておくわけがない、と思いますけどね」柳原は冷静だ。「だって、あの人、それほど馬鹿じゃないし、喧嘩慣れしてるから、人を殺したくらいで冷静さを失うようなことはないと思いますよ。公園に田中さんの指紋の付いた鉄パイプが残っていたっていうことは、田中さんはやっていない、っていう証拠みたいなもんじゃないかしら」
 「それは一理あるね。だけど、あいつは変に潔いところがあって、自分に不利な証拠を隠したりしないんだ。もっとも、そういう意味では、あいつは人を殺したりしない。あいつは昔から鉄パイプを振りまわして喧嘩していたけど、傷害罪で挙げられるレベルをわきまえていてね、適度に痛めつけるのが得意だったんだ」
 「起訴されないってわかっているから、自分のしたことを隠そうとしなかったんでしょう」エミちゃんは手厳しい。「そうすれば、族仲間から恐れられる存在になれますからね。狡賢い奴」
 「そうそう。だから、間違えて殺してしまったときは、きっちり、証拠隠滅するはずよ」柳原は、田中の無罪に、自信満々だ。「狡賢いから信用できる、ってのも変な話だけど、田中さんは無実よ」

 

 警察からの連絡は、午後になっても一向に入ってこない。
 コンドーの事務所に、仕事をする雰囲気は全くない。
 ただ一人、柳原が黙々とパソコンに向かっている。
 近藤は、昼食から帰ってくると、そのあとは事務室には戻らず、応接室に篭って煙草を吸っている。
 「ケーキでも買ってきましょうか?」重苦しい雰囲気にいたたまれずに、エミちゃんがいう。
 「エミちゃんは駄目よ。ボディーガードがいなくなっちゃったんだから」柳原が言う。「私が買ってくるわ。お詫びのしるしに奢ります。エクレアで良かったかな?」
 「はい。三個、ね。私、コーヒー淹れておきます」
 コーヒーを淹れるエミちゃんに、応接室から戻った近藤が声をかける。
 「あれ、柳原君は?」
 「ケーキを買いに行きました」
 「暢気なもんだねえ。田中君が捕まっちまったっていうのに」
 「言い出しっぺは私です。雰囲気を変えようと……」
 「あ、そう……。そうだねえ、そういえば、ケーキも悪くはないねえ。甘いものを食べれば、ちったあ雰囲気も明るくなるだろう。しかし、いったい、どうなっちまうんだ。戦力が一人欠けたのも痛いねえ。警察からは、まだ何も言って来ないかな?」
 「音沙汰なしです」
 「どこかで、ニュースをやっていないかな? 三時のニュースなんて、なかったっけ?」
 エミちゃんはテレビのスイッチを入れる。チャンネルをあちこち回すと、ニュースをしているチャンネルが見付かる。政治や海外の戦乱といった、近藤には遥かに遠い世界のニュースをいらいらしながら眺めていると、画面の隅に白い三角形が現れ、地方のニュースに切り替わる。その最初に現れたのが、「公園に撲殺死体」という、近藤たちが待ちわびていたニュースだ。
 テレビ画面の中で、アナウンサーが原稿を読み上げる。
 「今日の早朝、桜が原中央公園に犬の散歩に来た近所の主婦から、茂みの中に男の人が倒れているとの百十番通報がありました。倒れていた男性は、コンビニエンスストア店員の荒木田剛司さん十九歳で、既に亡くなっていることがわかりました。死因は、鈍器のようなもので頭を強く殴られたためとわかり、警察は殺人事件とみて捜査を進めています。その後の現場付近の捜索で、公園内のゴミ箱から血の付いた足場用の鉄パイプが発見され、警察ではこれが犯行に使われたものとみていますが、動機や犯人の手掛りなど、詳しい事情に付いては、まだ、わかっていないということです。では、次のニュース……」
 「田中さんのこと、言いませんでしたね」エミちゃんがポツリと言う。
 「ああ、助かったな。警察は、彼が犯人でない可能性も高いと、考えてくれているようだね」
 「だけど、容疑者扱いされたって、不思議じゃないですよねえ」
 「そうだ。凶器と思しき鉄パイプには田中の指紋があるし、前の日には田中とあいつは鉄パイプを振りまわして喧嘩をしている。おまけにご本人は、元暴走族の鉄管健ちゃんだ。田中の名前と顔写真を出されて、この事務所の写真まで、どーんと出されても、不思議じゃあない」
 「そんなことになったら、商売、上がったりですよねえ」
 「まったくだ」
 事務所のドアが開き、柳原がケーキの箱を差し出す。
 「ケーキ、刑事さんたちの分も買ってきました」
 「いやあ、本当は、ケーキなんか、まずいんですけどね。まあ、他ならぬ近藤さんのところだから」柳原のうしろにいた男が、そう言いながら、事務所に入ってくる。
 「ああ、これは鈴木さん。高橋さんもですか。いやあ、助かります」近藤の顔が、パッと明るくなる。
 「お宅の田中さん、なかなか強情ですな。いくら締め上げても落ちませんよ。流石は近藤さん、部下の鍛え方が違いますね」
 「そりゃあ皮肉ですか? 田中はやっちゃいませんよ。田中は、鉄パイプを、たしかに、前の日に振りまわしました。私の目の前でね。しかしそれは、あのストーカー男が鉄パイプを振りかざして、ウチの事務員に襲いかかってきたからなんですよ。その鉄パイプを田中が取り上げて、ごつんとやったら、あいつは逃げていったんです。あの男は、ウチの事務員に対して、以前からストーカー行為を働いておりまして、田中は、護衛のために、事務員を尾行しておったんです」
 「いや、申し訳ありません。そのお話、田中さんからも聞いております。私どもも、田中さんは、今回の殺しとは無関係とみております。しかし、これだけ物証が揃っちゃ、田中さんには、一度来て頂かないわけにはまいりません。二〜三日、お泊まり頂いても良かったんですが、ここでのお話で容疑が晴れたら、夕方にも釈放することに致します。そのストーカー事件のいきさつと、昨日の喧嘩に関して、もう少し詳しく、ご説明頂けませんか?」
 「報告書、できてますけど」エミちゃんが言う。
 「あ、それ、作ってたの? お客がいるわけでもないから、作らなくても良かったんだけど」
 「経費とかありますから、一応作っておかないと、あとで、わけがわからなくなります」
 「うん、それはそうだね。とにかくちょうど良かった。コピーを一つお渡しして」
 「はい」エミちゃんはコピー機のストッカーに報告書を放り込むと、コピーボタンを押し、次々出て来るコピーを手際よくホチキスで閉じ、ふたりの刑事と近藤に、一部づつ手渡す。
 「それでしたら、まず、これを読ませて頂いて、それから、いくつかご質問させて頂くということで」鈴木はそう言うと、エミちゃんの案内で応接室に消える。
 近藤は、エミちゃんから渡された報告書を、自分のデスクで読む。
 応接室から戻ったエミちゃんは、近藤にそっと耳打ちする。
 「脅迫状のところ、抜いてありますから」
 これを聞いた近藤は、にやりとして、応接室の方を一瞥する。
 エミちゃんと柳原は、お茶の支度をしている。エミちゃんは来客用のティーカップに入れたコーヒーとエクレアの皿をトレーに載せて応接室に向かう。柳原は近藤にエクレアとコーヒーを出すと、自分とエミちゃんの分をそれぞれのデスクに運ぶ。
 「あの刑事さんたち、所長とどういう関係なんですか?」応接室から戻ったエミちゃんがきく。「警察の人にしては、随分と良さそうな人達じゃないですか」
 「元部下」近藤は簡潔に答える。「連中が新米デカのときに、俺が指導員をやったんだ。ろくな指導もしなかったが、酒の飲み方だけは、きちんと教えた」
 「桜が原の警察署におられたんですか?」
 「いや、桜は桜でも、桜田門。殺しってことで、本庁から来たんだろうが、なんか、雑用係をやらされているみたいだねえ。もう少し、肩を怒らしていなければ駄目だねえ。まあ、俺が昔を知っているせいかも知れないが」
 「しかし、知り合いの刑事さんが担当してくれて良かったですねえ。そのおかげで、田中さんの名前や勤め先が、マスコミに出なかったんですよね」
 「いやいや、俺たちゃそんな、大物じゃない。田中の名前を警察が出さなかったのは、田中犯行説には無理があるからだよ。警察でも、そう考えているんじゃないかね。だいたい、鉄パイプに指紋があったのと、前の日に喧嘩していたのって、田中に不利な話のようにも聞こえるけど、前の日に鉄パイプ振りまわして喧嘩してたんだから、鉄パイプに指紋があったのはあたりまえだ。で、前の日の喧嘩は、ストーカーからエミちゃんを護るためなんだから、田中は無罪というしかない。田中が警察にどう喋ったか、俺達にゃわからんが、あいつがストーカー事件のいきさつをちゃんと話していれば、警察としては、別の証拠を掴むまで、田中を犯人とは断定できんよ。名前なんか出した日にゃ、人権問題だ」

 コンドーの雰囲気を明るくしたのが、柳原の買ってきたケーキであったのか、田中の釈放が伝えられたからであるのか、それとも、捜査を担当するのが、近藤の元部下の、顔見知りの刑事だとわかったからであるのかは判然としない。しかし、刑事たちが応接室でストーカー事件の報告書を読む間、コンドーの事務所には久しぶりに会話が明るく木霊し、エミちゃんの笑い声が響いた。
 やがて刑事たちが事務所に顔を出して言う。
 「報告書、良くまとまっていますね。これ、間違いとか、追加すべき情報等、ありませんか?」
 「ええ、こんなところだと思いますが」近藤、今読み終えたばかりの報告書を閉じて言う。
 「それでしたら、最後のページにでも、お三方に署名捺印して頂けませんか。『上記、間違いございません』とでもしてね」
 「柳原君は、報告書、読んでいるの?」近藤がきく。
 「ええ、この報告書、私とエミちゃんとで、一緒に作ったんですよ。ホテルの夜って、暇ですから」

 女性ふたりが署名している間に、鈴木刑事が近藤に尋ねる。
 「近藤さん、これからどうされますか? 近藤さんのことだ、このまま手を引かえるとも思えませんけど」
 「そうですなあ。これでストーカー行為が収まれば、当面の問題はなくなるんですが、どうも嫌な感じがするんですな」
 「嫌な感じ、と言いますと?」
 「つまり、今回の殺しが、ウチと関係がない、と言い切れる自信がないんですな」
 「近藤さんが責任をお感じになる必要はないでしょう」
 「いや、今回の殺しがウチがらみだったとすると、その犯人が次に何をするか、恐ろしい気がするんですよ。ストーカーよりも殺人犯のほうが、危険度は高いですからなあ。ここは、きちんと調べておかなければ、枕を高くして寝られません」
 「わかりました。近藤さんが調査されるなら、我々も協力しましょう。その代り、知り得た事柄は、こちらにも流すようにしてください」
 「申し訳ありませんなあ」
 「それから、田中さんの疑いは、完全に晴れたわけではありませんので、その点だけはお忘れにならないよう、お願いします。田中さんと、殺害された荒木田氏との間にトラブルがあったことは、間違いありません。即ち、田中さんには荒木田氏を殺害する動機があったんですね。死亡時刻は、現在のところ、昨日夕刻から深夜と推定されておりますが、そのほとんどの時間帯で、田中さんのアリバイはありません。ガイシャは当日の夕食をとった様子がありませんので、殺害はそれほど遅い時間ではなかろうと思われまして、つまり、昨日のトラブルの直後に殺害された公算が高いわけでして、一旦逃げ出した荒木田氏が、何らかの事情で公園に戻ったところ田中さんと再び衝突し、殺害されるに至ったというストーリーも、あながちないわけではありません」
 「わかりました。我々としては、田中の嫌疑を晴らすためにも、真相を明らかにせにゃならん、ってことですな」
 鈴木刑事は、にやっと笑って言う。
 「近藤さん、あまり無茶をなさらんでくださいよ。近くに来たときには、こちらにも顔をお出し致しますんで、ま、お互い、助け合っていきましょうや」
 「その点に関しては、こちらも異存は、ないですなあ」

 

 田中が釈放されたのは、午後七時過ぎだ。
 事務所に現れた田中は、案に相違して、元気なものだ。近藤も、柳原も、エミちゃんも、不思議そうに田中の顔を見る。
 「いやあ、俺、場数、踏んでいるから」田中は元気な理由を説明する。「それに、今回は、警察、えらく丁寧。どうも、捜査の格好つけるため、俺を捕まえたみたい」
 「そいつはそいつで、ひどい話じゃないか」近藤は言う。「まったく、こっちの気持ちも考えないで」
 「殴ったのは俺だから……、自重すべきでした。すみません」
 「いーや、殴り方が足らんかった。あいつの頭かち割っても良かったくらいだ。あの時あいつを取り押さえていれば、事件は解決、あいつも殺されることはなかったんだぜ」
 近藤は、ストーカーにも、彼を殺した殺人犯にも、田中の優柔不断さにも、無性に腹が立つ。更には、昨日ストーカーを取り逃がした自らの不手際にも腹が立って仕方がない。
 あの時、近藤がストーカーを取り押さえていれば、彼は殺されずに済んだはずだ。近藤がもう少し早く公園に入っていさえすれば、田中と協力してストーカーを取り押さえることができただろうし、機転を利かせて柳原にもう一つの出口を押さえさせておけば、ああも、易々と逃げられることはなかっただろう。
 ストーカーは、近藤の不手際の結果殺された。これは、一面の真実だ。その結果、せっかくの手掛りは、再び、闇の中に消えてしまったのだ。
 (まったく、どいつも、こいつも……)
 近藤はやり場のない怒りをぶつけるように、応接室の天井に煙草の煙を吹き付ける。



第三章   ノーボディー
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 七月十三日――
 定時出勤も四日目を迎えると、柳原の生活リズムは徐々に午前の生活に順応してきた。
 東都銀行の不正事件に関するその後の調査は、司直の手に委ねられることとなり、柳原の最終報告書は、エミちゃんの手で分厚い報告書に製本され、請求書と共に東都銀行に送られた。
 東都銀行のシステムセンターでも、その後、いろいろと調査をしているようだが、それに関係する情報はコンドーには一切流れてこない。
 この一件は、もはや、近藤たちの手を離れたのだ。この関係で残った業務は、いずれ呼ばれるはずの警察の事情聴取を待つのみである。
 コンドーの事務所の雰囲気は、以前に比べれば随分と明るくなってきた。
 田中は、依然としてエミちゃんのガードを続けているが、エミちゃんに対するストーカー行為は、中央公園で起こった殺人事件以後は、まったく発生していない。
 柳原は、ネットの掲示板(ボード)のチェックを続けているが、その後、シルバーフォックスからのメッセージは現れていない。
 もちろん、殺害された荒木田が、シルバーフォックスであり、ストーカーであったとすれば、これは、当然の結末だ。

 「もう、ホテル、引き払っても良いんじゃないでしょうか?」柳原が言う。
 「俺、もう少し、様子見したほうが良いと思うけど」田中は不安そうだ。「このところ、ストーカー見えないけど、殺した奴がいるわけだから」
 「そう、なんであいつが殺されなきゃならないか、それがさっぱりわからない。田中がやったんなら話は簡単なんだが、違うんだろう?」
 「俺、やってませんよう」
 「荒木田を殺した奴が、ストーカー仲間だったりすると、前よりも危ない状況かもしれん」
 「ストーカー仲間で殺し合いなんてするんですか?」柳原はきく。
 「そりゃあり得るさ。獲物の奪い合いってこともあるだろからね。つまり、両方がエミちゃんを狙ってだね……」
 「そんなあ」エミちゃんは泣きそうな声を張り上げる。
 「それにしちゃ、二人目のストーカー、姿が見えませんけど」
 「荒木田みたいに、単純な奴ばかりじゃあるまい。それにこいつは、人一人殺しているんだぜ。荒木田の頭がどうなっていたか、知ってるか? ぐしゃぐしゃだったそうだ。用心深い上に、とてつもなく異常で危険な奴だよ」
 「もちろん、ガード、続けるのは良いと思う」田中は不安そうに言う。「でも、いつまでやったら良いんだか。他の仕事ができないんですけど」
 「そう、困ったもんだ。こんな状態をいつまでも続けるわけにはいかん。それでだ、昨日も刑事連中に言っといたけど、この件は、俺たちで解決する。俺たちゃ探偵だ。防戦一方は昨日で終り。これからは攻めだ。俺たちで、殺人犯を狩り出してやろうや」
 「よっしゃ」田中は急に元気になって言う。
 「いいですねえ」柳原もにっこりして言う。
 「危ないことは駄目ですよ」エミちゃんは、まだ心配そうだ。
 「で、どこから手をつけましょうか?」柳原がきく。
 「現場百回。まずは公園からだ」
 「あ、それ、警察も、現場での説明、頼みに来るようなこと、昨日言ってた」田中が言う。
 「それは当然だね。鈴木刑事に一緒に来てもらおう。ついでに警察の話も聞かせてもらえるかもしれないよ」
 「こっちから警察呼び出すんですかあ?」柳原が呆れたように言う。「そういうのって、警察に呼び出されて行くのが普通じゃないかなあ」
 「これからは、攻めだって言ったろう」近藤は鼻息も荒く言う。「引っ掻き回されるのはもう止めだ。これからは、回りを引っ掻き回してやるんだ。連中の予定が合わないっていうなら、俺たちだけで調べるまでだ」
 「あの鉄パイプ、どこから持ってきたんだろう」田中がポツリと言う。
 「あ、田中君は、あいつが、自転車に乗ってきたのを目撃したんだったな。その時、鉄パイプは持っていなかったのか?」
 「ええ、だからそのあと、どこかで……」
 「それから、あいつの鉄パイプ、結局、田中君の手に残ったわけだろ。鉄パイプ、あのあと、どうしたんだ?」近藤は田中に尋ねる。
 「あれ、放っとくわけにもいかないから、ゴミ箱に突き刺しといた」田中は応える。「証拠品だから、事務所に持って帰ろうかとも、思ったけど、そんな大事なものじゃないと思って、捨ててしまった。今思えば、持って帰れば良かった」
 「昨日のニュースでは、凶器と思しき鉄パイプは、ゴミ箱から発見された、って言ってたけど、それ、田中君が捨てた奴かもしれないね。それがそのままゴミ箱にあったってことは、荒木田を叩き殺したのは、別の得物かもしれん。凶器が別にあるとしたら、そいつを見付け出さにゃならん」
 「だとしたら、鉄パイプ、二本あるはず」田中は、最初に言いたかったことを、やっと述べる。「二本目の鉄パイプ、あるんなら、俺は無罪」
 近藤は鈴木刑事に電話して、近藤たちが計画している公園での調査に立ち会わないかと持ちかける。鈴木刑事は、他に所用があるということで、高橋刑事が近藤たちに同行するという。
 一昨日のエミちゃん襲撃事件のとき、現場には、事務所の四人、全員がいた。高橋刑事の依頼もあり、調査にはその全員が出向くこととなった。業務時間中に、全員が事務所を空けるわけにはいかないため、正午を待って、事務所を出ることにした。

 

 正午、エミちゃんは留守番電話をセットし、事務所の鍵を掛ける。階段を降りたところで、近藤と田中と柳原の三人がエミちゃんを待っている。
 四人は、一昨日、エミちゃんと田中の歩いたコースを辿る。
 公園前の広い国道を渡る信号は赤だ。信号待ちの機会を捉えて、田中が説明する。
 「ここです、あいつ、自転車に乗って、左から右へ、すうっと」
 「で、その時は、手ぶらで、鉄パイプなんか持っていなかったと」
 「ええ。それで、赤信号、随分長くて、エミちゃんの姿見えなくなった」
 「エミちゃんが少し待っててやれば良かったね」
 「すみませーん。考えごとしながら歩いてたもんで。それに、雨も降りそうだったし」
 やがて信号が変わり、全員、国道を渡る。
 公園に入って少し進むと、一昨日エミちゃんが襲われた場所に、高橋刑事が近藤たちの知らない男と共に立っている。多分、桜が原署の刑事だろう。
 「お忙しいところすみません」高橋刑事は、遥か彼方で近藤たちの姿を見付け、大声で呼びかけてくる。
 「こちらこそ、お呼び立てをして」近藤も、遠くの高橋刑事に向かって声を張り上げる。

 近藤たちは、一昨日の状況を再現する。犯人役は、先日の活劇に出番の少なかった柳原だ。柳原は、傍らに落ちていた小枝を振り上げて、エミちゃんに襲いかかる。

 「良くわかりました」田中達の一通りの動きを見て高橋刑事が言う。「これなら、田中さんは正当防衛ですね。検死報告書でも、ガイシャの額の傷は、後頭部の傷より早い時点のものであるとされておりまして、話は合います。後頭部の傷は、いわゆる滅多打ち、十回以上殴られておりまして、遺体は相当にひどい状態でした」
 「荒木田に強い恨みを持つ人物の犯行ということでしょうか」
 「深い恨みを持つ人物か、あるいは、異常者による犯行という可能性が高いですね」
 「荒木田に襲われて、頭に血が上って、やりすぎたという可能性もないではないな。田中は喧嘩慣れしているから、手加減もできるが、最近の若い奴等は、手加減というものを知りませんからなあ」
 「あそこまでやるかとは思いますが、その可能性もないわけではありません。それから、遺体が発見されたのは、そこの茂みの陰です。荒木田氏は、同じ場所で一日二度も叩きのめされたってことで、この二つの事件の間には、何か関係があるかもしれませんね」
 「近藤さんと柳原さんは、その時どうされていたんですか?」高橋がきく。
 「今回の一件、実は、ストーカーをはめようという、罠だったんですよ」近藤は、事情を説明する。「最初の予定では、ストーカーに気付かれないように、エミを田中が尾行して、ストーカーにエミの跡を付けさせ、そこで、私がエミに合流する予定だったんです。私が姿を現せば、ストーカーは諦めて巣に帰るだろうと。それを田中が尾行して、ストーカーの正体を暴くと、まあ、そういう作戦だったんですな」
 「現実の動きとはずいぶん違いますね」高橋は言う。
 「まず、ストーカーが自転車で現れたのが予想外でしたなあ。おまけに、こいつ、エミの跡をつけるのではなく、公園の出口に先回りしました。信号の関係で、エミと田中の間隔が開きすぎたのも失敗でした」
 「まあ、そんなもんですよ。犯人が予想通り行動してくれるなんて、めったにありませんよ」高橋は、近藤を慰めるように言う。「それで、近藤さんの方は、どうされたんですか?」
 「我々、東都銀行の隣の喫茶店『繻子』で待機しておりまして、田中からの連絡を受けて、公園に向かいました。公園のこちら側の入口は、角のところと、銀行の正面のところとの二ヵ所にありまして、我々は、銀行の前の公園入り口に向かいました。エミはここから出て来るはずでしたので。ちょうど我々が入口の前に着いたとき、角の入り口からストーカーが公園に入る姿が見えました。それで、柳原に角の入り口の見張りを任せ、私は公園の中に入りました。広場が見渡せる地点まで来たところで、エミが倒れているのを見付け、急いで駆け付けたんです」
 「その時は、柳原さんも、エミさんの方に向かわれたんですね」高橋はきく。
 「ええ、近藤さんが『馬鹿野郎』と叫んで走りだしましたんで、何事が起こったのかと、跡を追いかけました」柳原は言う。「そうしたら、エミちゃんが倒れていたので、もう、びっくりしまして」
 「そのあたりのお話は、田中さんの話されていた内容と同じですか?」高橋が確認する。
 「ええ、全く、あの通りです」
 「さて、次は、私の番ですが……」近藤が説明を始める。「襲ってきた男は、田中の一撃で尻餅を突きましたが、すぐに立ちあがって逃げ出しました。そこで、エミのガードを田中に任せまして、私が男を追いかけました。が、それをご説明する前に、田中の指紋の付いた鉄パイプが、どこで発見されたものか、お教え願えませんかな」
 「鉄パイプ、そこのゴミ箱に垂直に突き立ててありました」高橋は、丸い金網のゴミ箱を指差して言う。
 「それ、俺が挿しました」田中が言う。「血の付いた方を下にして」
 「発見された時の状況と一致します」高橋は言う。「おそらく、この鉄パイプは、犯行には使われた物とは、別物であると思われます。血液の付着状況も、ガイシャの傷の状況と異なりますし」
 「指紋の付着状況はどうだったでしょうか」近藤が尋ねる。「田中は、ストーカーが握り締めていた側を掴んだはずですが」
 「田中さんの指紋が検出された側に、荒木田氏が握り締めていた跡がありました。ガイシャの指紋は、鉄パイプのそこら中から検出されましたけどね」
 「田中の一撃を受けて逃げ出したストーカーが、再びここに戻ってきた理由が、一つの謎なんですが、この辺り、何か遺留品はありましたか?」
 「この付近は徹底的に調べましたけど、鉄パイプ以外の遺留品は見付かっておりません。もちろん、死体を別とすればの話ですが。被害者は、鉄パイプを取り戻しに来たのか、それとも、仕返しをしようと、現場に戻ったのかもしれません」
 「死体はどこにあったんですか? 殺害の犯行現場はどこだったんでしょうか?」
 高橋は、近藤たちを、角の入り口に続く通路に少し入ったところに案内して、地面を指差して言う。
 「ここが殺害の犯行現場であると推定されます。地面に血痕その他が残されておりましたんで」高橋は説明する。「死体は、通路脇の茂みの中に隠してありました。おそらく、犯人は、殺害後、死体を茂みの陰まで引きずって行ったんでしょう。柵が一部倒れておりましたし、あちこちに引きずった跡がありますんで。おそらく、足首を持って、引きずって行ったんですね」
 「犯人は、なんでそんなことをしたんでしょうかね」
 「犯行は、遊歩道上で行なわれたはずですが、遊歩道に死体を放置しますと、街灯の光で見えますからね。発見を遅らそうとしたんじゃないでしょうかね」
 「なにかでカモフラージュしてあったんですか?」
 「いや、茂みの陰に引きずって行っただけです。朝であれば、簡単に見付かります。まあ、ひどい状況でしたよ」
 「凶器はなかったんですか?」
 「ええ、おそらく、あの鉄パイプとは別の、棒状の鈍器を使ったものと思われますが、凶器はまだ発見されておりません」

 近藤は、犯行現場をざっと見渡すが、これといったものは見付からない。既に犯行からは、まる一日以上が経過し、昨日は警察が徹底的な調査を行なっている。近藤にも、ここで何かが見つけ出せるとはとても思えない。近藤は、犯行現場の調査を早々に打ち切って言う。
 「さて、それでは、逃走経路についてご説明致しましょうか」
 「よろしくお願いします」
 近藤に「向うの方に逃げてくれないかな」と言われ、柳原はストーカーの逃げ出した方向に小走りに走り出す。近藤はその跡を追いかける。その他の全員も、近藤の跡を追う。
 公園の入口で、柳原は、進むべき方向がわからず、立ち止まる。柳原に追い付いた近藤は、入り口横の生垣を指差して言う。
 「奴は、ここに自転車を置いておりまして、これに乗って逃げ出しました」
 近藤は公園を出ると、右側の道を示す。
 「男はあちらの方向に逃げました。あの十字路の信号が、運悪く、男が渡ってすぐに赤になっちまいまして、結局見失いました」
 「この方向、ガイシャのアパートがあるほうですね。アパートに逃げ帰ったのかもしれない」高橋刑事は、考えながら言う。
 「アパート、我々にも拝見させて頂くわけにはまいりませんかね」
 「まあ、良いでしょう。鑑識の作業、もう終ってるはずですから。私も、こちらが終ったら、アパートのほう、見ておこうと思っていたんです」
 「ところで、荒木田がどこから鉄パイプを調達したかはわかっているんでしょうか?」近藤が質問する。「あの男、公園に来る前に田中に目撃されているんですが、その時には、鉄パイプなど持っておらなかったようですが」
 「あ、凶器の出所、判明しとります」
 高橋刑事は、公園内に建設中の二階建ての建物を指差す。その建物は、既にほとんど完成しており、建物周囲に設けられていた足場も、あらかた撤去されている。
 「ほらそこ、集会施設の工事現場なんですが、そこの資材置き場から、鉄パイプが紛失しておりました。紛失した鉄パイプは二本です」
 「そうでしょう」田中は嬉しそうに言う。「おれ、あいつから取った鉄パイプ、ゴミ箱に刺しといた。あいつを殺した鉄パイプ、多分、もう一本の奴。そっち、俺の指紋、付いてない」
 「残念ながら、もう一本の鉄パイプは発見されておりません。この辺り、徹底的に捜索したんですが、全く空振りでした。あと、残る場所は池ぐらいですが、これを浚って調べるのは、おおごとですんで、どうするか、悩んでおります。それに、鉄パイプが二本なくなっているからといって、鉄パイプが凶行に使われたかどうか定かではありません。工事資材の管理は、それほど厳密に行なわれているわけでもなかった様子で、資材の数が合わないこともそれほど珍しくはなかったと、工事関係者は言っておりました。殺しには、ひょっとすると、金属バットか何か、別の鈍器が使われていて、犯人がそれを持ち去っているかもしれません」

 

 十二時三十分、田中とエミちゃんを事務所に帰し、近藤と柳原は高橋刑事と共に、殺されたストーカー、荒木田のアパートに向かう。
 公園北側出口の前にある信号は、赤の時間が長い。近藤が荒木田を追いかけた時、たまたま、荒木田が自転車で信号の前に来た時が、青信号が赤に変わる瞬間だった。エミちゃんを襲うのに失敗した荒木田が近藤から逃れることができたのは、非常な幸運だったといえるだろう。
 高橋刑事は、信号を渡ると、少し先の細い路地に入る。近藤は、荒木田がこの路地に入って行くのを目撃している。
 「荒木田氏のアパートは、ここから十五分ほど歩いたところです」高橋は説明する。「車は、ちょっと入りにくいんで、歩いて行くのが正解です。この道に入ったということは、多分、荒木田氏はまっすぐアパートに帰ったんでしょう」
 路地は車一台がやっと通れるほどの道幅で、うねうねと曲がりながら、なだらかな上り坂が続いている。途中で、クリーニング屋のバイクと蕎麦屋の出前の自転車を見掛けるが、たしかにこのあたり、車を使うより、バイクや自転車で営業した方が便利だろう。
 やがて前方が開けた所に出る。
 右手の家はなくなり、ガードレールの向うに、広大な景色が広がっているのが見える。スモッグで霞んではいるが、木造家屋がごみごみと立ち並ぶ彼方に、大きなビルがいくつも見え、その間に、高速道路の高架橋が横切っている。あのあたりには、私鉄の別の路線が通っているはずだ。
 道はほぼ直角に左に曲がって続いているが、高橋はガードレールの切れ目から崖の上へと歩を進める。近藤が崖から顔を突き出すと、下方に向かって、狭いコンクリートの階段が続いているのが見える。高橋はその階段を慎重に降り始める。
 崖を降り切ったところは、先程よりは広い道路が続いている。センターラインこそないが、この程度の道幅があれば、普通乗用車でも、なんとか、すれ違うことができそうだ。
 やがて前方に、パトカーの赤い回転灯が見える。高橋はそれを指して、「あれです」と言う。

 荒木田の住いは、ブロック塀に囲まれた、かなり草臥れた、二階建てのアパートだ。
 アパートの前の道路には、パトカーと、鑑識のバンが停車しており、さながらワイドショーの一場面のようだ。近所の人が数名、ひそひそ話をしながら、パトカーとアパートの二階を交互に眺めている。
 道路から見える側のアパートの二階には、鉄製の外廊下が設けられ、これに面して各戸のドアが設けられている。その、右から二つ目のドアが開け放たれ、中で動く青い作業服を着た警官の姿が、道路からも窺うことができる。室内では、真空掃除機を使っているような音がする。
 高橋刑事は、近藤たちを引き連れて外階段を上る。鉄製の階段は足音が響き、柳原は、見物の主婦たちの羨望の入り混じった視線を感じる。
 外見はみすぼらしいアパートだが、室内は明るく、小ざっぱりしている。
 ドアを入ったところは、六畳にも満たない板張りの小さなダイニングキッチンで、左の壁には流しとガスレンジが、右側にはユニットバスが備え付けられている。襖の向うは六畳の和室に絨毯が敷かれ、ベッドとデスクとビニールの洋服ダンスが置かれ、デスクの上には、型遅れのマッキントッシュと蛍光灯スタンドと電話機が置かれている。部屋は、どこもきちんと整頓され、和室には、明るい日差しが差し込んでいる。
 高橋刑事の質問に答えて、警官の一人が説明する。
 「台所のゴミ箱に、血液の付着したチリ紙がありました。その他は、特に、めぼしいものはありません」
 「パソコンはどうなった?」
 「おおよそのところは調べましたが、めぼしいファイルはありません」青い作業服の警官が高橋刑事の質問に応える。「このパソコン、電話線が繋がっておりますんで、メイルホルダーに何かあるんじゃないかと考えておるんですが、プロテクトが掛っておりまして、どうやっても外れません。メーカーを呼んで、プロテクトを外してもらったほうが良いのではないでしょうか」
 高橋刑事は近藤たちのほうをみて、少しの間考え、やがて言い難そうに口を開く。
 「近藤さんのご商売、パソコンがご専門でしたよね? こんなことをお願いする筋合いじゃないことは重々承知しておりますが、プロテクトを解除して頂けるとありがたいんですが」
 「お安い御用です」近藤は答える。「柳原君、ちょっと頼む」
 「キーボード、触っちゃって良いですか?」柳原はマックの前に腰をおろして尋ねる。
 「ええ、もう指紋採取は終っとりますから」警官が答える。
 「パスワード、忘れる人が多いから、裏口があるんです。でも、こういうのって、パスワード付けている意味がありませんよね」柳原はキーボードを操作して、ロックをあっさり解除する。「メイルのログがありますね。これ、開きましょうか?」
 「お願いします」高橋刑事は言う。
 柳原は、ログ一覧を開き、新しいメッセージから順に画面に表示させる。そこに現れたのは、シルバーフォックスと柳原の、ボード上での議論、というより罵り合いだ。荒木田は、自分と柳原の議論を、全てログファイルに保存していたのだ。
 「柳原さんのお名前が出てますね。このシルバーフォックスってのが荒木田でしょうか?」画面を覗き込んで高橋刑事がきく。
 「多分そうです。プロファイルも、そうなっていますから」
 「この、『あらびあ姐』ってのが、柳原さんですね」
 「そうです。ネットじゃ、みんな、勝手な名前を名乗って議論しているんですよ。これ、ハンドルっていいます。アラビア姐って、ちょっとロマンチックな名前でしょう」
 「柳原さんは、イスラエルと関わりがあるんですか? シルバーフォックスってのも、テロリストみたいな名前だし、まさか、この論争の裏に、政治的・宗教的な背景があるってことはないでしょうね」
 「ええー? どうしてそんなことになるんですか? 別に、アラブもイスラエルも、ユダヤ教もイスラム教も、全然、関係ありませんけど」
 「柳原さんのアドレス "ArabiaNay" ですけど、NayってNoの古い形で、拒絶とか、反対とかいう意味ですよ」高橋刑事、教養の片鱗を披露する。「反アラブとなりますと、さしあたりイスラエルかと……」
 「うわー、そんな意味があったんですか。私、全然そんなつもりは……」
 「反対の反対だな、柳原は」近藤が言う。「だけどこんなの、本名書いたのと同じじゃないか。柳原君もガードが甘いね」
 「どういう意味でしょうか?」高橋刑事がきく。
 「YANAIBARA、ARABIANAY。ローマ字の綴りを逆にしただけだ」
 「どうせ、そのアドレス、名刺にも刷ってますから、隠したって意味ありません。元々、本名で登録しようとしたんだけど、誰かに先取りされてしまっていたから、ひっくり返して登録しただけです。刑事さんのお話をうかがうと、ちょっと意味的に問題あるかもしれないけど、みんな、このアドレスでメイルくれるから、いまさら直したりできないわ。私のアドレスは、良いことにしましょうよ。だいたい、こんなところでそれを議論しても、意味ないじゃないですか。このログ、どうします? フロッピーに取っときましょうか」
 「お願いします」高橋刑事はそう言うと、フロッピーを探す。「えー、フロッピーは……、誰か持っていないかね?」
 警官たちがフロッピーディスクを持っていない様子を見た柳原は、黙ってバッグからフロッピーディスクを二枚取り出すと、ボードの過去ログをフロッピーディスクに転送する。コピーを二部作ったのは、一部を警察に渡し、もう一部は自分たちの調査に使うためだ。
 「なにからなにまで、申し訳ありません」高橋刑事は恐縮する。
 「えー、もう一つホルダーがありますね」柳原はマウスを動かしながら言う。「こっちには、メッセージ、一つしか入っていませんけど……」
 柳原が開いたファイルは、差し出し人を nobody とする、匿名サイトからのメイルだ。その本文を読んだ柳原は、息を飲み込む。
 『ボードのコメント拝見.
 可愛い顔をして酷いことを言う女だ.
 ネットなら安全と思っているようだが、馬鹿な女だ.
 Nobody knows.
 こいつの本名と勤務先は下記のとうり.
 一人暮しで男っ気なし.
 帰宅が深夜に及ぶこともある模様だ.
 健闘を祈る』
 そして、そのあとに、柳原の本名と、コンドーの住所が続いている。
 柳原の腹の中で、熱いものがぐるぐると回る。もし胃カメラが入っていれば、柳原の胃壁には、急速な充血と、激しい蠕動運動が観察されたはずだ。
 しかし、柳原は、なんとか冷静さを取り戻し、メイルをフロッピーディスクに転送する。
 「ノーボディーって、何者だ」近藤は声を荒げる。
 「誰でもない者、というような意味なんでしょうけど……」高橋刑事は解説するが、あまり役には立たない。
 「いずれにせよ、このノーボディーって奴が、裏で荒木田を操って、ストーカーさせてたみたいね」柳原は怒りを押さえて言う。「ひどい奴だなあ」
 「この男、柳原さんに恨みがある様子ですけど、お心当りはありませんか?」高橋刑事が尋ねる。
 「私を恨んでいる人ならたくさんいると思いますけど、こんなこと、やりそうな人には、ちょっと、心当り、ありませんねえ」
 「どうしてそんな大勢に恨まれるんですか?」高橋刑事は意外そうに訪ねる。
 「高橋さん、ウチが探偵事務所だってこと、忘れんでくださいよ。我々の仕事は、つまるところ、誰かが隠したがっている真実を明るみに出すことなんです。だから、我々の仕事がうまくいけば、たいていは、誰かが泣くことになる。私も、柳原も、因果な商売をやっとるんですよ」

 メイルフォルダーにあったメッセージは、ノーボディーからのもの、一つだけだ。柳原は、精神の動揺を抑えながら、他に手掛りはないかと、ディレクトリを次々と調べていく。しかし、他に荒木田が作製したと思われるファイルは見付からない。
 「この人、マックを手に入れて、まだ日が浅いんじゃないでしょうか」柳原が言う。
 「どうしてそんなことがわかりますか?」
 「この計算機、ほとんど使った形跡がありません。長く使っていれば、いろいろとファイルが溜まるものです。ボードのやり取りとメイル一件しか入っていないってことは、多分、それにしか使っていないってことです。シルバーフォックスがボードに出てきたのも、ごく最近ですし、ボード上の議論に慣れているって感じも、全然しませんでした」
 「しかし、その計算機、電源が入りっぱなしでした」警官が言う。「ヘビーユーザだったんじゃあないでしょうか」
 「この人、電源の切り方を知らなかったの」柳原は警官の話に割り込む。「だいたい、長く使っている人だったら、電源の切り方ぐらい、わからないわけがないでしょう」
 「それにしちゃあ、ずいぶんと古いモデルですよ」警官が言う。
 「中古を買ったのか……」柳原は考えながら言う。「それとも、誰かに、お古を貰ったのかもしれないわね」

 

 近藤たちは、田中とエミちゃんの待つ事務所に引き上げる。ふたりは、近藤たちを待っていたように、質問を浴びせ掛ける。柳原は、フロッピーをふたりに見せると、計算機に差し込んで、その内容を表示させる。
 「問題はこれよ」柳原はノーボディーからのメイルを示して言う。
 「この人が煽ったのね」
 「こいつが、我々に対するストーカー事件の黒幕であることは、間違いない」近藤は解説する。「次に、こいつが、我々を狙ってくる可能性も高いね。どういう理由があるのかはわからんが、少なくとも、柳原を攻撃する動機を持っていることは確かだな。こいつが、荒木田を殺したって可能性もある。ノーボディーって奴が、柳原、またはエミちゃんを狙う第二のストーカーということになると、殺人も辞さないストーカーに狙われていることになるわけで、これは相当に危険な状況といえるね」
 「どうすれば、ノーボディーさんを捕まえることができるんですか?」エミちゃんが心配そうにきく。
 「可愛い顔って、こいつ、柳原の顔を知ってるのか?」田中がきく。
 「君、なんか心当りはないかね?」近藤も驚いて尋ねる。「ノーボディーは、柳原君の個人情報を知り得る人物、ということになるんだが」
 「こんな人に、心当り、あるわけがないでしょう」柳原は困惑している。「ボードの議論で使っていたアドレス、名刺にも刷ってましたから、名刺さえ手に入れば、このメッセージに書かれた情報は揃います。だけど、顔はわからないはずですよ」
 「名刺を渡した先って、ウチのお客さんか?」
 「ええ、ほとんど、お客さんにしか渡していません。お客さんなら顔を知ってても、不思議はないわ」
 「顔を知ってて、可愛い顔って、書くかなあ」田中は言い難いことをずばりという。
 「そりゃあ、趣味なんて、人それぞれだから、わからんよ。俺だって、柳原の顔が可愛いといわれりゃあ、そんなもんかなあと、思わないこともない」
 「あのー、全然、フォローになって、いないんですけど。で、名刺ですけど、その他には、この間の展示会に入るときに入り口で渡しただけです。そのデータ、ひょっとすると、あの展示会に出展した会社全部に配られちゃったかもしれませんけど」
 「お客さんかもしれないわね」エミちゃんが言う。「前に話していたときは、シルバーフォックスさんが計算機に詳しくなさそうだったから、お客さんのわけない、って考えたんだけど、この、ノーボディーさんだったら、計算機に詳しい人だって良いわけです。それに、お客さんの周囲だったら、柳原さんに恨みを持ってたり、柳原さんの調査を妨害しようって人、たくさんいるんじゃないですか? 顔だって知っているかもしれないし」
 「そりゃあ、いっぱいいるだろう」近藤は言う。「柳原君がこれまでに見つけ出した計算機の不正使用は、一つや二つじゃないからね。刑務所にぶち込まれた奴だっている」
 「近いところでは、東都銀行」柳原はポツリと言う。「これ、犯人、まだわからないんですけど」
 「そういや、脅迫状もあった」
 「東都銀行で、名刺を渡したのは、支店長だけだろ。あれ、ノーボディーって顔じゃなかったけどな」
 「ノーボディーさんがどんな顔をしているか、わかるんですか?」エミちゃんがきく。
 「あ、いや、実際の顔じゃない」近藤は自分の顔をはたいて言う。「あの支店長、計算機は触れないんだ。電源を入れることすらできないそうだ。だから、彼がノーボディーだとすると、このメイル、秘書あたりに打たせたってことになるんだけど、そんなことって、ありそうもないだろう」
 「でも、そうだとすると、柳原さんの名刺、秘書の方か、腹心の部下に渡してるんじゃないですか。報告書打つとき使うはずですから」エミちゃんは、しつこい。「どんなに秘密の話でも、報告書残しておかないと、あとで、わけがわからなくなります」
 「そりゃあるな。支店長の腹心の部下が、報告書作っとけと言われて、柳原の名刺を渡されたんだが、実はそいつが不正行為を働いた張本人だった、なんてケースだね。その場合、柳原の足を引っ張るために、その情報が使われたとしても、おかしくはない」
 「柳原の名刺を貼り付けた報告書、銀行中、回覧してたんじゃ?」田中がきく。
 「いや、それはない。今回の件は、支店長とその回りの、限られた人間しか知らないはずだ」近藤は真面目に答える。「柳原の名刺、誰に渡したか、支店長に聞いておこう」
 「ま、東都銀行の関係者だと、決まったわけじゃないですから。昔の事件で、私に恨みを持っている人だっているかもしれませんよ。クラッキングに必要なのは執念だっていいますから、大昔に関係した人かもしれない」
 「そりゃそうだ。しかし、東都銀行に関係する可能性についちゃあ、警察の耳にも入れといたほうが良いね。これには、東都銀行さんの承諾が必要だが、運が良ければ、両方の事件が一挙解決だ。他に何か気付いたことは?」
 「このメッセージ、かなり年配の人が書いたようにもみえますね。『拝見』とか……」
 「ノーボディー・ノウズって、歌の文句ですよね。これも、そうとうに古い歌です」
 「歌の文句は、誰も知らないって意味なんだけど、この場合はノーボディーという奴が知ってるよ、って意味だなあ」
 「『とうり』って、誤記ですね.これ、よくやる人がいるんですよ。自分じゃ間違っていないつもりでね」
 「正解は『とおり』か。年配の人なら、そんな間違いはしない……ってこともないか」
 「それから、句読点の使い方も特徴的ですね。句点に『.』を使って、読点に『、』を使うのって、なんだかおかしいですね。日本式と英語式が混ざっている」
 「ちょっとまてよ、これ、あれと同じだな」
 近藤は、ファイルから一枚の紙を取り出す。以前、何者かがコンドーに送りつけてきた脅迫状だ。そこには、こう書いてある。
 『東都銀行から手を引け.
 さもなくば、
 事務所の女
 一人消す.』
 「な、同じだろう」
 「つまり、ノーボディーは、東都銀行の横領に関係しているってことですか」柳原は言う。「それで、調査を妨害するために、荒木田をけしかけて、私を襲わせたっていうこと」
 「それにしても、日本語式の読点と英文式の句点を使うってのは、あまり普通じゃないね。この特徴を追いかけたら、犯人は簡単に見付かるんじゃあなかろうか」近藤は嬉しそうに言う。
 「これ、学会のスタイル」田中が言う。「コンピュータの辞書、そういう風に学習すると、メイル打つ時も、同じになっちゃう」
 「ふーん、学会の論文って、こんな風に書くんだ」柳原は、田中の見識に感心して言う。
 「しかし、論文書くやつが『とうり』なんて誤記をするか?」
 「そりゃわかりませんよ。『通り』と漢字で入力する時は、『つうり』って入れて変換しているかも知れませんから」エミちゃん、身に覚えがある。
 「ははあ、論文のワープロ打ちを請負っているのかもしれんな。計算機が使えない教授の研究室で助手をやっているとか……」
 「あの支店長も、計算機が使えないんでしたよね」
 「あ、論文も貰ったな」近藤はデスクの横に積んだ書類を書き回し、支店長から貰った経済誌を見つけ出す。
 「横書きですね」柳原が経済誌を覗き込んで言う。「句読点、たしかに日本式の読点で、句点はピリオッドですねえ」
 「それ、標準的。だから、その雑誌と決まったわけじゃない」田中が念を押す。
 「しかし、この支店長の周辺、ぷんぷん臭うがな」近藤は断定的に言う。「警察には、ちょっと、話せないかも知れないなあ」
 「そういえば、ノーボディーって奴、電子掲示板(ボード)によく出ている」田中がポツリと言う。
 「本当か?」近藤は顔を輝かせる。ノーボディーのメッセージが手に入れば、ノーボディーが何者であるかを知る手掛りになる。
 「過去ログ、サーチしましょう」柳原はキーボードに向かうが、すぐに悲鳴を上げる。「うわー、凄い量ですよ。こんなに? どうやって?」
 「一人じゃないね、ノーボディーって」田中が言う。
 「そりゃどういう意味だ?」
 「つまり、匿名希望さんが、大勢、ノーボディーって名乗っているわけね」柳原は画面に表示されたメッセージを指差して言う。「ノーボディーどうしで喧嘩してるのもあるし。ほら、これ」
 「その中に、あのメイルを出した奴はいないかなあ」
 「句読点とか、メッセージの特徴で引っ掛けるようにサーチしてみましょう。ダウンロードも大量だし、ちょっと時間が掛りますけど」
 「無駄に終るかもしれないが、どこかでなんか書いててくれてれば、大いに手掛りになるんだが……」

 

 ノーボディー氏のメッセージのサーチが完了したのは、夜も七時を過ぎた頃だ。柳原は、怪しいメッセージをプリントアウトして、みんなに配る。
 「一応、句読点の使い方が同じやつを、全部プリントしときました。その中で、色の薄いのは、文体の一致度が低い奴、赤でプリントしたのは、一致度が高いやつです。短いメッセージが多いから、文体の一致度、あまり当てにならないかもしれませんけど」
 「なんか、用語の間違いを指摘したのが多いですね。自分じゃあ『とうり』なんて書いてるくせに」
 「ノーボディーのメッセージ、文章めちゃくちゃなのが多いけど、このノーボディー、相当にまともだ」
 「論理はまともかもしれないけど、なんとなく、陰湿なメッセージが多いいですね」エミちゃんが言う。「私、こういう人とはお付き合いしたくはないわ」
 「こんな奴、俺だって付き合いたくはない」
 「わー、こっちのこれ、何?」田中が声を張り上げる。「アニメのボード。これ、同じ人物か?」
 「ああ、それ、文章の特徴はそっくりなのよね。中に、『とうり』を使っているのもあるでしょう。同一人物から送られている可能性は、かなり高いと思いますよ」
 「こいつ、牛夏椎菜のファン? マジかよ」
 「うしかしーな? なんだい、それ」近藤、アニメには疎い。
 田中の話では、牛夏椎菜は、一部のアニメマニアの間では、熱狂的な支持を集めている声優だという。実は、田中が机に飾ってあるフィギュアは、牛夏が声を当てているアニメの主人公レイナだ。
 「ふーん、これがねえ」近藤は、田中のデスクに飾ってあるフィギュアをまじまじと眺めるが、そのうちに、はたと気付く。「ひょっとして、このキャラ、エミちゃんにそっくりじゃあ……」
 「だってこれ、私がモデルだもん」エミちゃんが言う。「田中さんに頼まれて、写真を撮らせてあげたのよ」
 「いや、エミちゃんが、レイナにそっくりなの」田中は言う。「あ、もしかして、それでエミちゃんが狙われたとか……」
 「つまりどういうことかね」近藤は混乱して言う。「ノーボディーは、アニメのレイナの声を当てている声優、牛夏椎菜のファンで、エミちゃんはレイナにそっくりで、そのために、エミちゃんがシルバーフォックスに狙われたということか? たしかに、シルバーフォックスにコンドーの住所を教えたのは、ノーボディーだけど、それは、柳原の勤め先としてだ。その情報を元に、シルバーフォックスはエミちゃんを付け狙ったんだけど、それは、柳原君と間違えてのことで、マックの電源がどうのこうのという、ばかげた話が発端だ。いろいろな要素が相互に関係していることは確かだが、どういうストーリーなんだか、全然読めないぞ」
 「私がアニメのキャラに似ているかどうかなんて、今回の事件には関係ないんじゃないですか?」エミちゃんは言う。「だって、ノーボディーがシルバーフォックスをそそのかしたのは、東都銀行の調査を妨害するためでしょ。ターゲットは柳原さんで、たまたま、ボードで柳原さんがシルバーフォックスさんと喧嘩していたから、こりゃいいやと思って、シルバーフォックスさんに、このメイルを送ったわけですよね。ところが、柳原さんの顔を知らないシルバーフォックスさんは、私を柳原さんだと思って、襲ってきたんですよね」
 「一人暮しで男っ気なし、って、エミちゃんじゃなくて、柳原のことだね」田中が言う。
 柳原、一瞬むすっとした顔をするが、すぐに元の顔に戻ってポツリと言う。
 「アパートまで、つけられたかなあ」
 「このメイルが、百パーセント真実を書いているかどうかなんて、わかりはしない」近藤が言う。「ノーボディーは、シルバーフォックスに柳原君を襲わせたかったわけだからね。相手に男がいると、襲うのをためらったりするじゃないか。だから、こういうことを書いて、襲っても大丈夫だと、シルバーフォックスを安心させようとしたんじゃないかね」
 「まだ、推理するには材料が足りないみたいですね」柳原が言う。「シルバーフォックスが殺されなければならない理由も、きっとあるはずですし、凶器とかも、探さなきゃいけないですよね」
 「そりゃそうだ」近藤は、推理をあっさり諦める。「もう少し、様子を見ようや。但し、これからは、柳原君もガードの対象にせざるを得ないな。ノーボディーは、柳原君とエミちゃんを取り違えたりしないかもしれないからね」
 「罠、仕掛けようか」田中がポツリと言う。
 「罠? どうやって?」近藤がきく。
 「俺、レイナOVA版の初回DVD持ってる。これ、幻の牛夏のデビュー作。初回特典付けてオークションに出したら、ノーボディー、引っかかるかも」
 「そんな大事なディスク、手放しちゃって良いんですか?」エミちゃんがきく。
 「他の人に売れたって言えば、みんな、あきらめる」
 「いんちき。だけどそれ良いかも」柳原は言う。「文面、考えましょうか?」
 「頼む」田中はそう言うと、ネットオークションへの出品ページを開き、柳原の指示に従ってキーボードを打ち始める。
 「譲ります。幻のDVD、OVAレイナ#1、牛夏のデビュー作です。但し、レイナと牛夏への思いを、私と共有できる人に譲りたいです。あなたがこの作品につける値段といっしょに、この作品に対するあなたの思いを聞かせてね。モノは美品、初回特典も、ポスター以外は全部付けまーす。閉め切り十四日午前十時。ダンク隊長」
 柳原の言葉に合わせて田中は素早くキーボードを叩く。
 「閉め切り明日は、ちょっと早いんじゃあ」田中は疑問を呈する。
 「そんなに、のんびりしては、いられないわ」柳原は言う。「句読点の一致するノーボディー、ボードに、ほとんど毎日、メッセージ書いてるから、多分、こいつもすぐに見るわよ」
 「そうだ、それで良いぞ」近藤も賛成する。「うん、良いんじゃないかな」
 「でも、ダンク隊長って何? 勝手に入れちゃって、もー」
 「レイナに出てる、特殊機動部隊の隊長。俺のハンドル」
 「それじゃあ、文体を直さないと。女言葉よ、それ」柳原は、画面を指差して言う。
 「あ、いいの。ダンク隊長、女言葉使うんだ」
 「ひょっとして、田中さんも、ノーボディーさんと、同じ趣味だったの?」エミちゃんがきく。
 「実は、そう」田中は恥ずかしそうに答える。

 

 翌七月十四日は土曜日だ。本来であれば、コンドーは土曜休業だが、休みにしてしまうとエミちゃんのガードができない。そこで、休日はまた別の日に取ることにして、全員、朝から出勤している。
 一週間の長期割引料金で押さえたホテルも、あと二泊残っている。
 近藤の願いは、この二日の間に事件が解決することだ。
 荒木田を殺した犯人が捕らえられれば、田中に対する疑いも晴れ、エミちゃんに対する危機も去る。安心してホテルを引き払えるというものだ。
 そのためには、土日といえど、休んでなどいられない。
 近藤の思いをよそに、柳原はデスクでアゴを出している。
 九時の出勤時間は、普通の人には当たり前であるが、普段、午後一時出勤の柳原には四時間も早い。朝型の生活リズムに慣れつつあるといっても、流石に六日間も続く早朝出勤は、ボデーブローのように柳原に効いてくる。
 「わお」隣のデスクで田中が小さく声をあげる。
 「どうかしましたー?」柳原がゆっくりときく。
 「レイナのDVDに、レスがいっぱい」
 「なになに。『DVDちょーだい。レイナ大好き。ダンク隊長も好きだよ。ねだん、二万円ちょーど、どーだ、はあと』、なんだこりゃ」近藤、このメッセージには拒絶反応が起こりそうだ。
 「これ、句読点が違う」田中は冷静に分析する。
 「『どーだ』に『はあと』ですか。『とうり』とはずいぶんと違いますねえ」
 「この人も、レイナに思いはある」田中はポツリと言う。
 「わかりますか?」柳原がきく。
 「うん、二万円という値段で」
 「元はいくらだったんだ? そのDVD」近藤がきく。
 「九千八百円」田中がポツリと言う。
 「それが二万か。そりゃ、買占めとくんだったな」
 「二万円は、安いと思う。この人、すごく欲しいけど、お金ないんだ」
 「そんなことまでわかるんか?」
 「私も、そういう印象を受けましたよ」柳原は、そう言うと、不思議そうな顔の近藤に解説する。「『ダンク隊長も好きだよ』の『も』に、ダンクってハンドルの田中さんに対する媚が感じられるじゃないですか。それで最後の『どーだ』。これって、空威張りですよね。このパターンは、欲しいけどお金がないってこと。それでも、九千八百円のディスクに二万円の値を付けてるのは、相当に欲しがっている証拠です。お金があれば、五万、十万、付けたんじゃないですか?」
 「そんなに? 馬鹿じゃないか、たかがアニメのDVDに」
 「レイナのDVD、レアものだから、二万円は、どう考えたって、安すぎる。ダメ元で、応札したんじゃないかなあ。入札期間が短かったから、競合相手が出てこないかも知れない、なんて考えて」
 「全く、マニアの考えることはわからん」
 「切手集めるより、よほど理解できますよ」エミちゃんも話し始める。
 「そう、持って満足、その上、アニメも見れる」田中が言う。
 「こういうのって、一つ見れないと、気になるんですよねー」エミちゃんの話は脱線し始める。
 「次行こう、次。まだいっぱいある」柳原、エミちゃんと田中の長いお喋りには付合いきれない。
 「えー? こいつは凄い」田中の言葉に、みんなは画面を覗き込む。
 「落札価格九万円。ポスターがあれば十万付けたが、残念。そのポスター、ダンクの部屋に貼ってあるんだろうけど、それ、一万円の価値がある品物だから、心して眺めるんだね。レイナOVAは#3でハマって、そのあと全巻収集。#2は入手したが、#1が見付からなかった。ダンク隊長には感謝感激。関東地区なら手渡し希望。落ち合い場所、連絡乞う」
 「おいおい、九千八百円が九万? 付合いきれないぜ」あきれ果てた近藤は、田中への応札メイルを見るのを止めて、煙草を吸いに応接室に向かう。
 「なんとなく、いやなやつ、って感じですね」エミちゃんは眉をひそめて言う。
 「落札価格とか、まるで、この人に売るって決まってるみたいな書き方ね」
 「この人、相場、良く知ってる。九万なら、大抵、こいつに落ちる。五万以下だと、取り逃がす確率高い。コレクターだね、こいつ。ファンじゃない。コレクター、高ピーな奴が多い」
 「ファンとコレクターって、どう違うんですか?」エミちゃんがきく。「マニア、ってのもあるんですよね」
 「ファンはみんなで楽しもうって人、コレクターは、人の持っていないものを集める人、特に、集め出したら、全部、集めないと気が済まない人が、筋金入りのコレクター。その他に、マニア、これは、自分だけで楽しもうっていうネクラな人。ヲタク、とも言う」
 「そうすると、田中さんはマニアですね」
 「あれ? ばれちゃった?」
 「どうします? 九万ですよ。売っちゃったら?」柳原は金に目がくらんでいる。
 「売らない。これ、ノーボディー、探すためにやってる」
 「九万あれば、海外旅行だって行けますよう」
 それだけのお金があれば、あんなこともできる、こんなこともできると、楽しい妄想に耽っている柳原を尻目に、田中は、次々とメイルを表示する。が、そのスピードは鈍りがちだ。田中は、句読点のチェックだけをしようと自らに言い聞かせてメイルを開くのだが、思いを同じくする人達のメッセージには、ついつい心を奪われ、熟読してしまう。
 そのうちに、ついに、ノーボディーの特徴に合致するメイルが出て来る。差し出し人はオックス、匿名サイトからのメイルだ。応札価格は四万九千円。原価のきっちり五倍を付けてくる。
 「細かい奴ちゃなあ」柳原の関西弁が出る。
 「こいつに売るか」田中は、ポツリとそう言うと、返事のメイルを書き始める。
 「えっ? 売るの?」柳原は驚いて尋ねるが、すぐに自分で納得して言う。「五万かあ。悪くはないわね」
 「いいんですか? 大事なDVD売っちゃって」エミちゃんは心配そうに尋ねる。
 「いい、いい」田中は、メイルを入力中の画面から目を離さずに言う。「この人、初回特典は要らないから安くしてくれ、って書いてるでしょ。DVDだけなら二枚ある」
 「同じDVD、二枚も買ったの?」柳原は、あきれてものがいえないという顔つきだ。「九千八百円もするやつを?」
 「フィギュア作るのに、特典、ふたつ必要だったから」田中はメイルを打ちながら言う。「アニメフェアで手渡し、ってことで良いすね。来週の土曜、ビックサイト……」
 メイルを送り終って、画面から顔を上げた田中に、柳原が尋ねる。
 「アニメフェアってなんですか?」
 「アニメの愛好家が集まるお祭り」田中は嬉しそうに言う。「出版社だけじゃなく、サークルもブース出す。俺、毎年、見に行ってる」
 「ははあ、レイナの中古ディスクに五万も出そうってマニアなら、当然来るってわけね。それで、田中さんがディスクを売った相手を、私達が尾行すれば良いわけね」
 「そーゆーこと」
 「私も見に行って良いかしら? どうせ休みだし」エミちゃんがきく。
 田中は、細い目で、エミちゃんを上から下まで眺めてから、ポツリと言う。
 「エミちゃんは、まずいかもしれない」
 「ええーっ、どうして?」
 「その人がストーカーだったら危ないってことでしょ」柳原は言う。「だけど、そんな人の集まるところで襲ってくるかしら? 私達と一緒に行動していれば、大丈夫でしょう」
 「ストーカーじゃなく、怖いのは、レイナファン。エミちゃん、すごくレイナ似だから、みんな写真撮りたがる。もみくちゃにされるかも。おれ、ダンク隊長しないとまずい」
 「ふーん。いっしょにコスプレやってたら?」
 柳原は、田中の過ぎた心配を冷笑する。『そーしてな』に対する反省が、全然、活かされていないようだ。
 「エミちゃんのコスプレ……それ良いかも知れない」田中は、柳原の軽口を真剣に考える。

 「何かあったかね?」応接室から戻った近藤が尋ねる。
 「ばっちり、ありました」Vサインをした田中、近藤に経過を報告する。「オックスって奴ですが、コンタクトできそうです」
 「オックス? 何だそいつは」近藤がきく。
 「これ、ハンドル」田中が説明する。「匿名のメイルアカウントだから、正体は不明。だけど、句読点、ノーボディーと同じです」
 「アドレスはOXだね。どういう意味だろうか」
 「ただの、マル・バツじゃないんですか?」柳原は気楽に言う。
 「そういう名前のお店がありましたよね」と、エミちゃん。
 「去勢牛」辞書を開いた田中が言う。「あまり、かっこ良くない」
 「意味を知ってて、そう名乗っているとしたら、不気味じゃないですか」エミちゃんは気持ち悪そうに言う。「お肉が美味しいとか、そういうことでしょう?」
 ノーボディー氏の肉の味という、エミちゃんの気味の悪い着想に、皆、しばし言葉を失う。
 近藤は、話を軌道に戻すように言う。
 「で、そいつをどこに誘き出したんだ」
 「来週のアニメフェア会場。先方の指定だけど」
 「アニメフェア? そんなところ、俺は行けないぞ」
 「来て頂かなければ困ります。ノーボディーを押さえる絶好のチャンスです」
 「そりゃあ良いけどさ。こんないい年をした野郎がほっつき歩っていちゃあ、目立ってしょうがないんじゃないか?」
 「バトルスーツ、用意しましょうか?」田中が提案する。「ゴーグル下ろしておけば、誰にも正体わからない」
 「バトルスーツ? ヒーロー物のか? デパートの屋上とかでやってるあれ? それでノーボディーを尾行するってか? 奴が会場の外に出たらどうするんだ」
 「その格好で、日本全国、追いまわす」
 「おいおい、真面目に考えようや」近藤は考え込む。「まあ、目立つのはしょうがないとして、遠くのほうから見張っていようか」
 「エミちゃんも行きたい、って言ってるんですけど、エミちゃんのガード役ってのはどうでしょう」柳原が助け船を出す。
 「エミちゃん? そりゃエミちゃんが行くなら、誰かがガードせにゃならんだろうが」
 「エミちゃんにレイナをやってもらって、そのガードをするんなら、全然不思議じゃないでしょう」柳原は説明する。「そうやって自然な形で会場にいて、田中さんの取引が終ったら、ノーボディーを尾行すれば良いじゃない。そのあとのエミちゃんのガードは、ダンク隊長に代わってもらえば良いでしょう」
 「ダンク隊長? 誰? それ」
 「俺」田中が自分を指差して言う。
 「あ、ハンドルね」この世界にだいぶ慣れてきた近藤は、気楽に言う。「今の柳原君の案、悪くないと思うけど、エミちゃん、やってくれるかね」
 「あの、大きな羽の付いた、フィギュアですか?」エミちゃんがきく。「羽は、ちょっと重そうだけど」
 「羽は、単なる、イメージ。コスプレに、羽は要らない」
 エミちゃんは、フィギュアのスカートの長さをしっかり確認して言う。
 「このぐらいなら、良いですよ」
 話は決まった。



第四章   オフミ
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 「コスプレ、ただ歩き回ってても良いんだけど、相生さんのブースでやったほうが楽だし、ガードしやすい。おれ、頼んできます」
 「相生さん? ぶーす?」エミちゃんがきく。
 「相生さんは広告屋さん」田中が言う。「ブースは小間。展示会場の小さな区画を借りて、いろいろと置いた奴。相生さん、レイナのブース、アニメフェアに出すって。オフミに来ないかって」
 「なんだ、そのオフミって?」近藤が尋ねる。
 「オフライン・ミーティング。この辺りの、レイナのファンが集まる」
 「ふーん。そんなのがあるんだ。それじゃあそこに、ノーボディーが来るかもしれないねえ」近藤は目を輝かせる。「出席者の写真、隠し撮りしよう」
 「でも、ノーボディーさんが来たとしても、どうやって見分けるんですか?」エミちゃんがきく。
 「エミちゃんの写真見せて、びっくりした奴がノーボディー」
 「そんな、うまく行くか?」近藤は悲観的だ。「まあ、やってみたって、無駄じゃあないが」
 「写真、良い?」田中はエミちゃんに確認する。「どうせなら、レイナ似の写真、持って行きたい」
 「良いですけどー」
 「えーと、口紅、ちっちゃく塗ってくれないかな。フィギュアみたく」
 「ああ、こんな風に……。うまく塗れるかなあ。髪も二つにまとめるのね」
 「そうそう」
 「ちょっとお待ちを―」
 エミちゃんが化粧室に消えている間に、田中は撮影場所の準備をする。
 コンドーの事務所は、取り立てて変わった事務所ではないが、コンドーの事務所で使っているガラス戸の付いた白いスチール製の本棚は、偶然にも、レイナのオフィスにも置かれているものと同じだ。棚に並んだ白いファイルも、まあまあ、アニメの中の本棚のファイルと似ていなくもない。
 コンドーが、計算機犯罪専門に転進を図って、二年前に近藤調査事務所から株式会社コンドーに社名変更したとき、薄暗くごみごみした事務所も、白を基調とした未来的なものにリフォームしている。それは、レイナの作者が思い描く未来的な事務所の姿と、偶然にも、一致している。
 「そういえば、カタログを見て家具を選んだ時、この棚にご執心していたのは田中君だったなあ。そういう理由があったのか」
 「多分、レイナの作者、この家具のカタログ見て、背景、描いたんじゃないかな」田中は目を細めて言う。
 アニメの背景に写っている本棚は、ガラスの引戸に、四文字熟語の貼り紙がしてある。コンドーの本棚には、もちろん、そんな張り紙はない。しかし、田中はバッグから何枚かそれらしい紙を取りだし、両面テープで本棚のガラス戸に貼り付ける。そこには、こう書いてある。
 『安全第一』
 『油断大敵』
 「なんか、工場にでも貼ってある標語みたいだな」
 「宇宙は危険、いっぱいだから」田中は標語の意義を力説する。
 次に田中がバッグから取り出したのは、白い小さなノートパソコンだ。このパソコンのメーカーは、レイナアニメの製作にも関係しており、自社のノートパソコンをアニメ中でレイナに使わせていたのだ。但し、通常に市販されているモデルに白いボディーはなく、田中のノートパソコンは、マニア向けの、期間限定スペシャルバージョンだ。
 やがて、化粧室からエミちゃんが戻って来る。
 田中は、エミちゃんの顔を見て、ヒュ―ッと口笛を吹く。
 柳原の目にも、エミちゃんの姿は、フィギュアのレイナにそっくりだ。口紅の色も、マニキュアも、レイナとよく似た色に変わっている。エミちゃんのバッグには、かなりの種類の化粧道具が入っているらしい。
 田中は、エミちゃんを本棚の前に座らせると、大きなデジタルカメラを持ち出して、白いノートパソコンを操るエミちゃんを、角度を変えて何枚か撮影する。
 「オフミって、いつやるんですか?」柳原は、田中に尋ねる。
 「今日の三時」田中は、パソコン画面で、たった今撮影した画像をチェックしながら言う。「K大前の喫茶店で」
 「おいおい、そんなすぐにやるのかね」近藤は驚いて言う。「ま、早いに越したことはないが」
 「どういう配置にしますか? エミちゃん連れてくわけにもいかないし、田中さんは出席するわけだし……」
 「隠し撮りは柳原君にやって貰うしかないね。俺はエミちゃんガードして、ここにいるからな。喫茶店には田中君もいるわけだから、もしもの時にも、対応できるだろう」
 「それしかありませんねえ」
 「万が一、ノーボディーが特定できたら、柳原君が尾行する。尾行の開始は、ミーティングの終了後になるだろうから、田中君も柳原君を尾行してガードできるね。いずれにせよ、事務所にはすぐに連絡してくれ。状況によっては、俺たちも出動する」
 「了解」田中と柳原は、声を揃えて応える。

 

 オフミはK大近くの大きな喫茶店の奥を借り切って行われた。オフミの会場は、素通しのガラスでではあるが、他の席とは区切られており、遠慮なく議論ができるのが好ましい。
 喫茶店の目立たない席に陣取った柳原は、望遠レンズのついた小型のテレビカメラをセットし、オフミの会場を盗撮する。この映像は、ノートパソコンの小さなウインドウにリアルタイムで表示され、もちろん、録画もされている。音声は、田中がポケットに差したボールペン型のワイヤレスマイクで拾っている。柳原は、ワイヤレスマイクから送られた電波をノートパソコンで受信し、小型テレビカメラの映像と共に、メモリーカードに記録する。
 オフミの出席者は総勢七名、その中で、田中の知っているのは相生ただ一人だ。
 相生は「あいおいクリエイト」という広告会社を経営している。広告会社と言っても、看板を作ったり、看板の掲示場所を斡旋したり、新聞折り込み広告を作ったりといった、どちらかといえば泥臭い仕事が中心の小さな会社だ。
 田中は「あいおいクリエイト」でアルバイトをしたことがある。計算機の腕を生かして、折り込み広告の原版を作製したり、ホームページ作りを手伝ったりしのた。
 そのうちに、田中のフィギュア造りの趣味と、相生のコレクションの趣味との間に、微妙な一致点があることを知り、趣味の世界でも付き合いを続けている。
 田中は、フィギュア製作のために資料を集めるのだが、相生は、資料を収集する行為自体が趣味である。
 相生のコレクションは、特定分野のアニメにまつわるポスターやテレカが多い。相生はフィギュアも集めているが、彼の興味の対象は量産されたフィギュアであって、田中の作るような手作りフィギュアは相生のコレクションの対象外だ。
 しかし、お互いの持つ情報はそれぞれにとって貴重なもので、会えばいつまでも話が弾む。

 田中は、はじめてのオフミ参加で、落ち着きがない。
 田中のポケットには、エミちゃんの写真が入っている。
 相生は、オフミに集まったメンバーに田中を紹介する。もちろん、実名は出さずハンドルでの紹介だ。
 田中のハンドルは『ダンク』もしくは『ダンク隊長』だ。ダンクは、アニメ『レイナ』に登場する特殊機動部隊の隊長で、失敗は多いものの、値は善良な男で、レイナの危機をちょくちょく救う、単純な性格の、太った大男だ。
 そう思って見れば、田中はダンク隊長に似ていなくもない。太り具合はそっくりだし、下膨れの丸顔に小さな目という顔つきもよく似ている。
 田中の自己紹介を、同人達は好意的に受け入れる。いずれもレイナアニメの熱狂的ファンである同人達は、ダンク隊長も大好きなのだ。
 メンバーは、それぞれハンドルを名乗って自己紹介する。
 田中も彼等が活動するボード『K大前』はよく覗いており、ハンドルを聞けば、ああ、この人がと納得できる。
 田中も、相生も、ボード『K大前』には、時々、書き込みをしており、同人のメンバーも、田中の顔こそ知らなかったが、田中の性格や趣味は、かなりの部分まで把握している。
 田中が面白いなと思ったのは、五人の同人達は、女性が男性風のハンドルを、男性が女性風のハンドルを名乗っていることである。
 女性三人のハンドルは、『たあ坊』、『もっ君』、『ゆーのすけ』であり、男ふたりが『さくら』に『あやめ』ときた。
 しかし、田中には、これまでボードに書き込まれたメッセージから、これらのハンドルを名乗る投稿者の性別は、おおよそ見当がついていた。田中は、自分の想像が当たっていたことが嬉しく、にやりとする。
 田中は鞄から大小いくつかの自作のフィギュアを取り出して、挨拶代わりに、メンバーに回す。最も大きいフィギュアは、田中がコンドーのデスクに飾っているものだ。このフィギュアだけは、メンバーに回さず、田中の前のテーブルに立てて、みんなに見せている。
 フィギュアを回覧しながら、メンバーは近況を語り合う。田中はそんな会話を、少し離れたところに身を置いて、ぼんやりと聞いている。その感覚は、深夜、一人、自分のパソコンで、『K大前』のボードを読んでいるときの感覚とそっくりだ。
 相生と田中以外のメンバーは、全員、近くのK大サークル室に本拠を置くアニメ同人誌『K大前』のメンバーだ。しかし、この中の何人がK大の学生であるか、田中には判然としない。
 同人『K大前』は、大学外部にも門戸を開くことをモットーとしたサークルであり、学外の人間が同人に加わることは、何ら問題ではない。しかし、少なくとも、サークルの責任者、さくらは、K大の学生のはずだ。サークル室の確保にしても、大学祭でのサークルの展示にしても、学外の者には難しいだろう。
 同人の五人のメンバーは、いずれも二十代前半という印象を受ける。
 歳に関しては、田中もまだ三十前であり、ここに集まったメンバーの中では、相生だけが四十過ぎのおっさんだ。但し、長い髪をボニーテールに束ね、髭を生やして、薄汚れた黒いシャツを着た相生の姿は、誰よりも学生風にみえる。
 雑多な話題が一段落したところで、議論は、近く開催されるアニメフェアにブースを出す話に移る。
 この企画、同人のメンバーにとってはうまい話だ。なんでも、あいおいクリエイトに、正体を知られずに市場調査をして欲しいとの依頼が某企業からあり、アンケート調査を行うことを条件に、出展費用は全てその会社持ちで、あいおいクリエイトがブースを出すことになったという。相生は、この話をアニメ同人に持ち込んだのだ。
 少々怪しい話ではあるが、作品発表の機会に乏しい同人にとっては嬉しい話であるし、同人誌や細々したグッズ販売で、多少の実入りも期待できる。
 田中のフィギュアを眺めていたあやめクンがポツリと洩らす。
 「この服、良いねえ。これもダンクが作ったの?」
 あやめクンの一言をきっかけに、フィギュアの服に関する熱い議論が交わされ、最後には、市販の人形に着せられるレイナの衣装をフェアで販売して一稼ぎしようという計画がまとまる。
 田中は、フィギュア本体の製作に心血を注いだのだが、メンバーの興味の中心は、フィギュアの着ている洋服というわけだ。
 肝心のフィギュアが評価されないのは、田中としては、ちと寂しい。しかし、新顔で参加して、他のメンバーの役に立てることがあるのは嬉しいことでもある。田中は喜んで、衣装製作のノウハウを教えることにする。
 議論は次に、実寸大のレイナの衣装ができるかという話になるが、これが難しいものでないことは明らかだ。
 「それ、布が一杯いるのが問題。作ることは難しくない」
 「布くらい、同人の予算で買うよ。どうせ人形用に買うんだし」
 「サイズは誰に合わせようか」
 「ええー? それって、コスプレやれってことですか?」ゆーのすけ(女)が高い声を上げる。
 「それ以外にないでしょう」
 「三人とも、あまり似てませんけどね」
 「いや、それっぽいヘアスタイルにして、化粧をすれば、レイナに見えるさ」
 「イメージ違うなあ」
 田中の目からも、メンバーの三人の女性はいずれもレイナに似ていない。むしろ男の一人、さくらのほうがよほどレイナ似である。相生は、どうしようかと考え込んでいる。
 田中は、今がエミちゃんの写真を見せる、良いチャンスだと考える。
 念のため、ガラスの壁の向うの柳原に目を向けると、ノートパソコンの画面を食い入るように見つめている柳原が、顔の向きは変えずに、田中に手を上げてOKサインを出す。田中が、今、柳原のほうを向いたのを、柳原はパソコンの画面で確認したのだろう。
 「これ、どうだろう」
 田中は、エミちゃんの写真をポケットから取り出すと、みんなの前に差し出す。
 田中は、写真を見るメンバーの反応を探る。
 柳原も画面を凝視する。
 驚いた人間がいたら、そいつがノーボディーだ。
 しかし、田中の思惑は見事に外れる。
 驚いたのは、田中以外の全員だ。
 そこにいるメンバー全員が、田中の出した写真を、食い入るように見つめる。
 「スゲー」少しの間の沈黙を破って、さくらクンが言う。
 「これ、本物ですか?」
 「まさか、CGだろ」相生が言う。「みなさん、騙されちゃいけませんよ。ダンクはね、フィギュアを作るときも、三次元データから起しているんでーす。レイナの三次元データがあれば、CGで写真そっくりの映像を作ることができるはずだ。ダンクはそういうの、得意だったよね。まあ、だけど、これだけできりゃ大したもんだ。皮膚の質感は実に自然だし、髪の毛も一本いっぽん計算して描いているんだね。背景の棚がちょっと汚れていたり、貼紙には折れ目の跡がうっすら見えるなんて、芸が細かいねえ。CGも、ここまでくれば芸術だ。うん、この写真、フェアで売っても良いねえ。著作権の処理、こっちでしようか?」
 「いや、それ、本物」田中は言う。
 「本当か?」相生は、田中の言葉が信じられない。「こんなのがいたんじゃあ、大変だよ。本当にそんなのがいるんなら、ウチのブース、手伝ってくれないかなあ。こんなのがフェアに出てきたら、凄いことになるよ」
 「凄いことって?」田中は心配そうに尋ねる。
 「千客万来」
 出席者の一人が言うと、笑いが広がる。レイナの背景に時々使われている四文字熟語だ。
 「その子、やってくれるかなあ、コスプレ」相生は心配そうに尋ねる。
 「これ、俺の会社の事務やってんだけど、やっても良いって言ってる。でも、やるなら上司の人がガードするって」
 「ああ、ガードね、それ絶対必要」相生が言う。「ダンク隊長が適任だと思うけど。もちろん、ダンク隊長の格好でね」
 「お嬢様ねえ」女性の一人が不機嫌そうに言う。
 「レイナの設定もそうじゃない」
 「射撃の腕は?」
 「まさか、そんなこと。できない、できない」
 「ポラ撮って売ったらどうかしら。レイナとのツーショット」
 「いいねえ、それ、売れるよ。俺も欲しい」
 「最後にみんなで記念撮影しましょうよ。レイナを真中にして……」
 「一応、ショーは十時から午後の五時だから、昼と三時に三十分の休みを入れて、二時間ずつ三回立ってもらう計算だね。どうせ、いいかげんなブースなんだから、大変なようだったら、もっと休んでもらっても良いけど」
 「それ、言っときます。衣装、彼女に合わせて良いですね」
 「もちろん。それから、彼女のハンドルは?」
 「あ、えー、決まってないです」
 「『レイナ』で決まりよ」
 「レイナへの連絡は、ダンクに入れれば良いね」
 「うん、俺の隣に座ってるから」
 「いいなあ」

 

 その後しばらく話が弾み、お開きとなったのは午後五時を過ぎた頃だ。
 田中の姿が消えるのを待って、柳原も喫茶店を後にして、事務所に引き上げる。
 コンドー事務所では、エミちゃんと近藤が首を長くして二人の帰りを待っていた。
 「ノーボディー、やっぱり駄目か」近藤、こんなことで簡単にノーボディーの正体がわかるとは思ってもいなかったが、それでも、結果を聞けば落胆する。
 「駄目ですねえ。エミちゃんの写真、全員が驚いた」
 「出席者の顔写真、一応、撮っときました」柳原はエミちゃんにメモリーカードを渡す。
 「録音、タイプしましょうか」エミちゃんが言う。
 「事件に関係あるようならタイプする意味もあるけど……」
 「一応、それ、預かっときます」エミちゃんは、柳原からメモリーカードを受け取る。「顔写真くらいは、ファイルしときます」
 「ま、コスプレ、やるのは決まった」田中は言う。「フェアでノーボディー、会えるかも」
 田中は、エミちゃんのサイズを測るために巻尺を取り出すが、エミちゃんはさっと身を引く。
 「私が測ってあげるわ」柳原は、巻尺を田中から奪い取ると、エミちゃんのサイズを手際よく測り、田中に各部の数値を告げる。
 「あとは、ディスクを受け取りに来た奴をつけるだけか」近藤はそう呟くと、みんなに一つの提案をする。「今日は、一つ、パッといこうかね。今日は土曜なのに仕事させちまったから、俺がご馳走するよ」
 もちろん、費用はコンドーの会議費から支出される。これは、厳密に言えば、脱税行為のはずだが、税務署もそこまで細かいことは言うまい。
 「わーい」エミちゃんは素直に喜ぶ。
 「良いんですか?」柳原の胸はちくちく痛む。今日の一件を含め、金にならない余計な仕事をコンドーにさせてしまっているのは、元はといえば、自分の不用意な一言が原因だ。
 「心配するな。ウチは、いま、儲かっている。東都銀行の一件もカタがついた。荒木田って奴が死んじまってからは、ストーカーは一度も現れない。ノーボディーっていう変な野郎は、いずれ見つけ出して、けりをつけにゃならんが、嵐は去ったと考えて良いだろう。ホテルも明日で引き払うわけだし、何事もけじめだ。ここらでパッといこう」

 

 七月十五日、この日は日曜日で、本来であればコンドーは休業であるが、非常事態ということで、全員、朝から出勤だ。
 近藤は、例によって、ホテルで柳原とエミちゃんを拾い、事務所に向かう。
 近藤たちが事務所に入ると、既に田中が出勤して、パソコンに向かっている。
 「えらく仕事熱心だな」近藤が感心して言う。「また、どういう風の吹き回しだね」
 「何かありました?」柳原がきく。
 「いや、特にない。俺、今、レイナの衣装、拡大版のデータこさえてる」
 「はあ」近藤は溜息をつく。感心して損をしたというところか。
 「田中さんって、随分器用なんですねえ。洋服まで作っちゃうんだ。お裁縫って、難しいでしょう」エミちゃんは、パソコンを操作しながら、感心したように言う。
 「データ出せば、服、できてくる。データ・オーダ・システム、CAD/CAMだね。普通の服も、これでやってる」
 「ああ、それー。でも、オート・クチュールが開業できますね」エミちゃんはプリンターを動かしながらいう。
 「俺、センスないから駄目。いまやってんの、単なる、物真似」
 「これ、昨日の出席者の顔写真ですけど、名前を教えてもらえます?」エミちゃんは、プリントアウトした顔写真を数枚、田中の前に示す。「報告書に入れておきますので」
 「あ、ハンドルね」
 田中は、写真の余白に、昨日聞き出した出席者のハンドルを書き込む。エミちゃんはそれを受け取り、再びパソコンに向かう。
 その時、パソコンのキーをぽつぽつと叩いていた柳原が大声をあげる。
 「うわっ、シルバーフォックスが出ました」
 「どこにい?」
 「ネットの掲示板。こないだと、同じボードです」
 「嘘だろう。奴は死んだんじゃあ……」近藤は、柳原が操作するパソコンの画面を覗き込むと、口を噤んでしまう。
 画面には、シルバーフォックスを差し出し人とするメッセージが表示されている。「女探偵柳原、コスプレデビュー」と題されたその記事の内容はこうだ。

 『女探偵柳原のコスプレデビューは、
 七月二十一日から開催される
 アニメフェアと決まった。
 扮するのは「レイナ」。
 気になる人は、
 「あいおいクリエイト」
 のブースに行こう。
 柳原のコードネームは
 「レイナ」だ。
 レイナの彼氏は
 「ダンク隊長」=「ただのデブ」。
 以前の彼氏は振られたのかな?』

 記事には写真も添えられている。昨日のオフラインミーティングに田中が持参したエミちゃんの写真だ。
 「この写真、みんなに渡したんですか?」柳原がきく。
 「みんな欲しがるから、ファイル、コピーさせた」田中が答える。「悪い奴って雰囲気、なかったけど」
 「そうは言っても、この写真を手に入れられる人間となると、かなり限定されるぞ」近藤は考えながら言う。「昨日のオフミの出席者、ないし、その誰かからファイルを譲り受けた奴……」
 「相生さんに確認しよう」田中は電話に向かう。
 「それから、この記事も、削除してもらったほうが良いね」
 「ええ、そうします」柳原は答える。「それにしても、ボードの主催者には、前回、クレームをつけて、シルバーフォックスがらみの記事を、全部消してもらったんですけどねえ」
 「発信者のアドレスは? 同じかあ」
 「アドレス偽造って可能性もありますよ。この記事の送信者も、主催者に確認してもらいましょう」

 柳原は、記事の削除を要求するメイルをボードの主催者宛てに発信する。そのメイルの中で、シルバーフォックスが殺害されたこと、この記事を投稿した者がシルバーフォックスの殺害事件に関与しているかもしれないことを伝え、発信者が誰であるのか調べてもらうように依頼する。
 田中は相生に電話を掛け、レイナの写真が流出して中傷記事に使われたことを伝え、流出経路を調査してもらうよう依頼した。
 相生は、二つ返事で調査を引き受けるが、回答はなかなか返って来ない。
 柳原のメイルには、すぐに返信が来る。その中で、ボードの主催者は、シルバーフォックスの投稿をブロックしなかった不手際を詫び、記事をすぐに削除すると共に、以後のシルバーフォックスからのメッセージはボードに載せないように、自動的に排除するメカニズムを設定したことを伝える。また、記事が発信元から主催者に到達するまでに辿った経路は、以前のシルバーフォックスからのメッセージとまったく同じであり、パスワードも正常に打ち込まれていたという。
 つまり、ボードの主催者側からは、今回のシルバーフォックスは、以前、柳原とトラブルを起したシルバーフォックスと区別がつかず、同一人物であるように見えるということだ。因みに、シルバーフォックスは、このボードを運営するプロバイダの直接の会員ではなく、プロファイルも登録されていないため、住所や本名はわからないという。
 相生の返事は、昼近くなってようやく来る。それによれば、連絡のつかない一人を除くメンバー全員から、エミちゃんの写真は誰にも見せていなし、いわんや、公開されたボードにアップロードするなんてことはしていない、という確認を得たということだ。
 連絡のつかないメンバーはゆーのすけ、彼女は、どうやら、K大の学生ではないようだ。

 

 「さて、これからどうしたら良いかな」事務所近くの蕎麦屋で、蕎麦湯を飲み干した近藤は、他の三人の顔を見渡して尋ねる。
 「ノーボディーは、来週のアニメフェアでの田中さんとのディスクの取引に期待するとして、問題は、シルバーフォックスを名乗って変なメッセージを送ってきたのは誰かってことですね」柳原が言う。「死んだ荒木田さんが前回のシルバーフォックスの記事を出していたとすると、今回は、別の人間がシルバーフォックスを名乗って中傷記事を出してきたわけで、それはいったい誰か、ってことが当面の問題になると思うんですけど。それは、ノーボディーと同一人物なんでしょうか?」
 「そうだ。その点が大いなる疑問だ。そいつは、ノーボディーであるのかも知れないが、ひょっとすると、別の、もう一人のストーカーかもしれないし、荒木田殺しにも関係しているかもしれない」近藤はそう言って、食後の煙草に火を付ける。「いずれにしても、そいつは、エミちゃんがレイナに扮した写真を持っていた奴で、つまりは、昨日のミーティングに出ていた奴か、そいつの知り合いだ。一人ずつ洗っていけば、すぐに正体が割れるんじゃないか?」
 「あのメンバー、正体、秘密なんです」田中が言う。「だけど、相生さんが調べてくれている。連絡先はわかるから。特に、行方不明の『ゆーのすけ』が怪しい。彼女自身か、彼女の友達」
 「田中君の体型まで知っているということは、出席者の可能性が高いなあ」近藤は言う。
 「ゆーのすけさんがノーボディーさんってことですか?」エミちゃんが尋ねる。「レイナアニメのファンで、荒木田さんとの接点があるってことは、ノーボディーである可能性が高いですよね。そうだとすると、ノーボディーさんは、柳原さんの顔を知らないのね」
 「知らないのかもしれないし、知ってて、おちょくっているのかもしれない。今の段階では、なんとも言えんなあ」
 「その人、シルバーフォックスのパスワード、どうしてわかったのかしら」柳原が言う。「荒木田さんが生きている時に教えてもらったのかもしれないけど」
 「あのマック使えれば、パスワード、自動的に入るかもしれない。荒木田のアパートに忍び込んだかも」
 「あのマック、どうしたんだろう。警察が押収しているかもしれない。ちょっと問い合わせてみよう。シルバーフォックスが現れた件も、連絡しておかにゃあなるまいし」近藤は、そう言うと、携帯電話を取り出して番号ボタンを押しながら、他の客の迷惑にならないよう、席を立って表に行く。
 やがて店内に戻った近藤は言う。
 「マック、まだ、荒木田の部屋に置いてあると。彼は被害者だから、押収が必要なんて考えなかったそうだ。調べたければどうぞ、だとさ」
 「それ、調べてみましょう」柳原が言う。「ボードに投稿するためのパスワードがどうなっているかも知りたいんだけど、もう一つやることがあります。荒木田さんって、部屋も綺麗にしてたし、几帳面な性格だったんじゃないかと思うんです。だから、不要になったファイルは、その都度、消していたかもしれない。あのマック、異様に個人的なファイルがなかったでしょう。残っていたのは、私とのやり取りの記録とノーボディーからのメイルだけ。これって、ちょっと少なすぎる」
 「荒木田が、不要なファイルを消したとしても、我々としちゃあ、どうしようもなかろう」近藤が言う。
 「いいえ、消されたファイルも、運が良ければ、内容を復活できます」
 「そんなことができるのか?」
 「ええ、だから、シルバーフォックス二号さんとか、ノーボディーさんとのやり取りのメッセージなんかも、運が良ければ見付かるかもしれません」
 「それ、すぐにやろうや」
 近藤は、蕎麦屋の親父に名刺を渡して、勘定を事務所に請求するように頼むと、全員を引き連れて荒木田のアパートに向かう。
 「現場百回だな」

 

 荒木田のアパートの管理人は、小柄な、頑丈そうな男だが、どこか抜け目のない、小狡そうな人相の男だ。
 近藤が、探偵事務所の名刺を渡して、荒木田の部屋を調査したい旨伝えると、管理人は、既に準備していた鍵を近藤に手渡す。先ほど、警察から、近藤の調査に協力するよう要請があったという。
 近藤は、荒木田の部屋の鍵を開ける。柳原は、マックを調査するため、奥の部屋に向かう。
 エミちゃんと田中は、入り口の近くに立ち止まり、室内を見渡す。
 「綺麗に使っているなあ」田中が感心して言う。
 「綺麗過ぎますね」エミちゃんは眉をひそめる。「偏執狂(モノマニア)かも」
 奥の部屋に行ってマックを調べるはずの柳原が、すぐに戻って来て、狐につままれたような顔をして、全員に尋ねる。
 「マック、向うの部屋にはありませんけど、どこかにありませんでしたか?」
 「なんだとー」近藤が叫ぶ。
 改めて奥の部屋を覗くと、机も電話も、前日と同じように置かれているが、机の上にあったはずのマックだけが消えている。
 「盗まれたのか? いや、管理人にきいてみよう。鈴木刑事が知らないだけで、警察の誰かが持ってったのかもしれない。警察にあるなら、調べさせてもらえば良いが、もし、盗まれたんなら、おおごとだ」
 近藤は、記録係のエミちゃんを連れて、管理人室に向かう。他のふたりは、荒木田の部屋を、更に詳しく調べる。

 「ああ、それは、ご家族の方が先日来られて……」管理人は、近藤の質問に応えて言う。「亡くなられた方の部屋を、いつまでもそのままにしておくわけにはいきませんので、警察のほうにもご了承頂きまして、ご家族の方に、部屋を引き払う段取りを考えていただいたんです。引越しと部屋の明渡しは明日に決まりました」
 「でも、マックは部屋にはないですよ」
 「マック? ああ、あのパソコンですね」管理人は言う。「あれは、借り物だったそうです。荒木田さんにそれを貸したといわれる方が、昨日、ご家族と一緒に見えられまして、計算機は一足先に引き取りたいということで、お持ち帰りになりました」
 「それは、なんという方でしたか?」近藤はきく。
 「いやあ、お名前はうかがいませんでしたけど、ご家族の方は、その人をよくご存知だったようですよ」
 「この写真の中に、マックを持ち去ったという女性に似た人物はいませんでしょうか」近藤はそう言うと、昨日のオフミで隠し撮りしたアニメ同人の、メンバーの写真を見せる。
 「ああ、この方ですね」管理人は、『ゆーのすけ』の写真を指差す。「この方が車を運転して、荒木田さんのお母さんを乗せてきたんです。小さなロータリーのスポーツカーでしたよ」
 「この方の連絡先とか、わかりませんか」
 「お母様のほうでしたらわかりますけど。多分、そちらにきいて頂けば、わかると思いますけどね」
 近藤は管理人から荒木田の実家の住所と電話番号を聞き出し、携帯を取り出すとその番号をダイヤルする。しかし、相手は出ない。
 管理人が近藤に助け船を出すように言う。
 「そのお母様でしたら、明日の引越しに立ち会うようなこと言われてました。搬出が終りましたら、鍵を返しに、ここにも顔を出すはずです。ええ、引越しは明日の午前十時からと、言われてました」
 近藤は管理人に礼を言うと、明日、荒木田の母親に会いに来る旨を伝え、荒木田の部屋にいた柳原らを伴って、アパートを後にする。

 

 七月十六日、月曜、朝八時四十五分に柳原とエミちゃんはホテルを引き払う。
 迎えに来た近藤は、料金明細書にサインする。ここの払いは、月末にまとめて事務所に請求が来る。
 「このところ、ストーカーも姿を見せないから、多分、大丈夫だろうと思うけど、送り迎えは、当分、俺がしてやるよ」
 「私は、送り迎え、遠慮します。いつもの時間帯に戻しますから」
 「いつもの時間帯ねえ」近藤は思案顔だ。「能率が上がらないんじゃ仕方がないかなあ。しかし、出社の昼頃は良いとしても、帰りが深夜になるってのはちょっとまずいねえ。まだ絶対安全と決まったわけじゃあないからね。帰りは誰かに送ってもらったほうが良いね。監査は、アパートでもできるんだろ。仕事さえしてくれれば、別に、長々と事務所にいる必要はない。監査を、アパートの君の部屋でやってもらえば良いさ。但し、夜、一人でいるときは、鍵をしっかり掛けて、外来者にも用心することだね」

 午前十時、近藤と柳原は荒木田のアパートの部屋を訪れる。
 アパートの前には、幌付きのトラックが一台停車し、近藤たちがアパートに到着した時には、既に荷物搬出の真っ最中である。
 荒木田の部屋に、中年の女性がいる。近藤が名刺を出して名を尋ねると、荒木田の母と名乗る。
 荒木田の母は憔悴し切っているが、近藤の質問に応えて、途切れ途切れに語る。
 「先日、ここまで送ってくださったのは、ゆーのすけさんです。もちろん本名じゃ御座いませんけど、息子とはいろいろとお付き合いをさせて頂きまして。はい、お住いは存じ上げませんけど、連絡はメイルで、ゆーのすけさん宛てに送ればちゃんと返事がきます。あの方からマックをお借りしたことは、息子からのメイルで聞いておりまして、思い出のある品だから返して欲しいといわれましたら、もちろん、反対する理由はございません。あの計算機を貸して頂いたおかげで、息子ともメイルのやりとりができるようになり、大変感謝しておりました」
 近藤は、荒木田の以前の生活についても質問する。母親は口篭もりがちで、話の内容も要領を得ない所が多いが、それでも、いくつかの点は明らかになる。
 それによれば、荒木田は、以前、若い女性に対する暴力事件を起こし、心神喪失状態下の犯行ということで刑事罰は受けなかったが、一年近く入院生活をしていたということである。退院後、近所の人目を避けるようにこのアパートに越し、コンビニエンスストアの深夜の店番をして生活していたという。
 荒木田の母親は、外で待っている引っ越し業者を気にし、近藤の質問にも上の空だ。近藤としても、あまり無理も言えず、いずれ、改めて自宅を訪問することとし、荒木田の入院していた病院名と担当の医師、殺される直前までの荒木田の勤務先住所など、必要な情報を得ると、母親に礼を述べて別れる。



第五章   ヒトゴロシ
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 事務所に帰った近藤は、興味深々という顔で待ち構えていたエミちゃんたちに、荒木田のアパートで見聞きしたことを報告する。
 「ゆーのすけさんは、荒木田さんのガールフレンドだったんですね」エミちゃんは、近藤の話が終ると言う。「それで、荒木田さんの遺志を継いでシルバーフォックスをやったってわけですか。あんまり意味のない話だと思いますけど」
 「多分、マックに、ボードに投稿するためのパスワードも設定されていたんでしょうね」柳原は言う。「計算機にパスワードが設定されていれば、あのマックを持っていさえすれば、誰でもシルバーフォックスになれるんですよ」
 「結局、どういうこと?」田中が誰にとはなく尋ねる。
 「シルバーフォックスの今回のメイルは、あまり心配する必要はないだろう」近藤が言う。「ゆーのすけは、荒木田から、柳原とのトラブルを聞いていたかもしれないし、聞いていなかったとしても、マックのファイルを見れば、柳原と荒木田とが口論していたことがわかるからね。それで、エミちゃんがレイナのコスプレをやるという話を聞いて、嫉妬に燃えて中傷記事を出したって所が正解だろう。つまり、彼女はエミちゃんを柳原だと思っているからね。ボーイフレンドの敵である柳原が、あろうことか、お気に入りのアニメの主人公のコスプレをやると聞いちゃあ、心中穏やかじゃあるまい」
 「ゆーのすけさんは、ノーボディーさんとは別人なんですね」エミちゃんが確認する。
 「あ、それ別人」柳原が即座に応える。「ゆーのすけさん、いろいろな人とメイルをやり取りしているんだけど、メッセージの特徴がノーボディーとは全然違う」
 「そうすると、ゆーのすけさんは私達の敵じゃあないですよね」エミちゃんは言う。「荒木田さんを殺した人は、私達の敵だし、ゆーのすけさんの敵でもあるはずよ。だから私達は、同盟を結べないわけないわ」
 「そうだねえ。ゆーのすけ嬢の話が聞ければ、ノーボディーの正体を知る手掛りが掴めるかもしれないね」近藤は言う。「そもそも荒木田をそそのかしたのはノーボディーだ。ゆーのすけにしたって、荒木田を窮地に追い込み、死に至らしめた奴の正体を知りたいはずだ。なんとかゆーのすけに連絡をとれないかなあ」
 「メイルを打てば良いですね」柳原が言う。「私から打っときましょうか?」
 「柳原、シルバーフォックスの敵。ゆーのすけへのメイル、俺から出したほうが良い」田中はキーボードに向かう。「おれ、ゆーのすけとは一度会っているし、なんとか協力してもらえるよう、頼んでみる」

 

 近藤が昼食を終えて事務所に戻ったのは一時少し過ぎだ。
 事務所では、鈴木刑事と近藤刑事が、柳原、田中、エミちゃんらと話をしている。
 会話の輪の中心に、みたらし団子が置いてある。近藤の姿を見たエミちゃんは、近藤のためにお茶を準備し、団子を奨める。
 「あれ、これ、どうしたの?」
 「刑事さんたちのお土産です」エミちゃんが言う。
 「いやー、このあいだ、ケーキをご馳走になりましたから」鈴木刑事は言う。「公僕としての立場上、貰いっぱなしというわけにはいきませんのでね。それにしても、コンドーさんは、今回の事件、いろいろとお調べになったんですねえ」
 「今回の件は、我々に対する兆戦と言っても過言じゃありませんからな」近藤は毅然として言う。「荒木田はウチの職員を狙ったストーカーだったわけでして、荒木田は殺されましたが、ノーボディーを自称する正体不明の男に煽られてストーカー行為を働いていたことは明らかです。そりゃあ、ノーボディーの行為は、たちの悪い、いたずらに過ぎないのかもしれませんが、ことは殺人事件に発展しておりますからな。ノーボディーが殺しに関与している可能性もありますし、我々も油断ができません。なにしろ、このノーボディーが我々に敵意を持っていることは、明々白々ですからなあ」
 「ノーボディーをおびき出す作戦が進行中というお話ですねえ。我々も、たった今、この作戦への参加のお誘いを受けていたとこです。しかし、これには我々、動くことが難しいと思います」鈴木刑事は言う。「たしかに、ノーボディーは、ストーカー事件の黒幕である気配が濃厚です。しかし、ただいま我々が致しておりますのは、殺人事件の捜査でありまして、これがストーカー事件に結びつくという確証は得られておりません。それに、もう一つ、難しい事件が発生致しまして……」
 「警察がお忙しいことは、重々理解しております。今回のノーボディーの件に関しては、我々で対応致しますのでご安心ください」
 「難しい事件って、何かあったんですか?」柳原がきく。
 「東都銀行の桜が原支店長が、今朝、首吊り死体で発見されたんですよ。それが、どうも、自殺ではないご様子で。今日の午後に記者会見を開いて、このあたりの詳しい状況を説明する段取りです」
 「え? あの、大野川さんが? 亡くなられた?」近藤は驚く。「最近、我々、東都銀行さんから一つ調査を請負いまして、それを担当されていたのが大野川支店長だったんですよ」
 「調査と言いますと、東都銀行桜が原支店の、横領事件に絡むお話ですか?」鈴木刑事、目を見開いて尋ねる。
 「ええ、警察のほうへは、とうに連絡が行っていると思いますが、東都銀行の計算機システムに不正な操作が施されまして、現金が千八百万ほど、行方不明になったという、あの一件です」
 「そうですか、その事件もご担当されていたんですか」鈴木刑事は大きく頷いて言う。「そういうことでしたら、支店長変死事件に付きまして、概要をご説明致しますので、何か気が付かれたことがありましたら、お知らせください。この二つに事件には、なんらかのつながりがあるんではないかと、我々は、睨んでおるんですよ」
 鈴木刑事はそう前置きをすると、東都銀行桜が原支店長変死事件の概要について語り始める。
 「事の発端は、今朝の六時過ぎ、桜が原中央公園に犬を連れて散歩にきた主婦からの通報です。桜が原中央公園の池の裏に、松の木がぽつんぽつんと生えている、通称三本松と呼ばれている場所があるんですが、この主婦、その松の木で首を吊った男の死体に出くわしたと、百十番通報してまいりました。あ、前回、荒木田の死体を見つけた主婦とは違う主婦です。えー、仏さんの身元は、所持品から、東都銀行桜が原支店の支店長、大野川勇作氏と、すぐに判明しました。死亡時刻は昨夜十時から十二時頃、死因は、頚動脈圧迫、つまり縊死でして、首吊りという状況には合致します。支店長は、昨夜十時過ぎに銀行を出られておりまして、おそらく、銀行から現場に直行されて、事件に遇われたのではないかと思われます」
 「首吊りで、自殺ではないんですか?」近藤が尋ねる。
 「自殺、という可能性もゼロではないんですが、自殺にしては不審な点が多々ございまして、我々は、支店長は何者かに殺されたのではないかと睨んでおります」
 「不審な点……」近藤は鈴木刑事の言葉を鸚鵡返しに口にする。
 「はい。まず、第一点は、首を吊るのに使われたと思われる踏み台が、何者かに持ち去られておりました。首吊り自殺は、手で枝にぶら下がるなどすれば、踏み台なしでも不可能ではありません。しかし、地面には、明らかに踏み台を使ったと思われる跡がありまして、支店長の手にも、木登りをしたような形跡はありませんでした。したがって、支店長が首を吊った後に、何者かが踏み台を持ち去った可能性が高いと考えております」
 「でも、これが殺人だとすると、犯人は、首吊り自殺に見せかけたかったんじゃないですか? だとしたら、なんで、犯人は、踏み台を持ってっちゃったんでしょう」エミちゃんがきく。
 「あるいは、踏み台から足が付くと考えたのかもしれません。犯人が踏み台に誤って指紋を付けてしまった、というようなケースですね。それはともかくと致しまして、踏み台なしでも、自殺できないわけではありませんが、踏み台を使った跡が地面に残っていて、踏み台がどこにもないのは、いかにも不自然であるというのが第一点です。犯人が何を考えて踏み台を持ち去ったかという点につきましては、この際、脇においておくことに致しましょう。えー、次に第二の不審な点は、支店長が首を吊ったと同様のロープが、支店長が銀行を出る以前から、現場に置かれていた点です。遅くとも、当日の午後八時頃には、既に、ロープと踏み台が現場に置かれていました。これは、現場を通りかかったアベックの目撃証言がありまして、ロープのようなものが輪に巻かれて、三本松の枝に掛けられていたのを、アベックの男性も、女性も目撃しております。木の根元には、アルミ製折畳式の三段の脚立が立て掛けられていたとのことです。このアベックは、これらのものが置かれていたことについて、『首吊りの準備がしてあるじゃん』等と口には出したものの、実のところでは、植木の管理に使う道具が放置されているのだろうと考え、そのまま立ち去ったということです」
 「その脚立が、現場から姿を消したというわけですな」
 「ええ。また、その三時間前、午後五時に現場を通りかかった公園の管理人は、三本松の周囲にはロープも脚立もなかったと、はっきりと証言しております。したがいまして、このロープと脚立は、当日の午後五時から八時までの間に何者かが持ち込んだものとみられます。亡くなった支店長は、この時間帯、ずっと銀行で会議をしておられまして、支店長がこのロープを持ち込むことは不可能です」
 「誰かが支店長に頼まれて準備したとか……」
 「ええ、そういう可能性も否定できません。これに付きましては、会社、家族など、支店長周辺の人達に問い合わせておりますが、ロープや脚立を持ち込んだという者はこれまで現れておりません」
 「これは難しいですな」近藤は上を向いて言う。「下手をすれば自殺幇助に問われますからなあ」
 「そうですね。この点に付きましては、誰かが支店長の自殺を手伝ったという可能性は否定できません。しかし、そういうことを頼まれてこれを手伝うってのは、あまり普通のこととも思えませんけどね。自殺の準備を頼まれたら、普通、止めるんじゃないでしょうかねえ。まあ、特殊な事情があれば、あり得ない話ではないんですが。えー、第三の点ですが、殺された支店長の携帯電話が消えておりました。まあ、これだけでしたら、本人がどこかで携帯をなくしてしまった、という可能性も考えられるんですが、実は、支店長が銀行を出ました夜の十時ごろ、支店長の携帯にメイルが着信致しまして、支店長はこれを見た直後に銀行を出たことが、行員によって目撃されています。目撃者の話では、メイルを見た支店長は非常に驚いた様子であったということです」
 「つまり、何者かに呼び出された可能性が高いと。で、呼び出した奴は、メイルを他人に見られないように、携帯を持ち去ったのではないかと……」
 「はい。その可能性が高いと考えております。つまり、これらをまとめて申し上げますと、昨日の午後十時、何者かが支店長の携帯にメイルを送り、支店長を三本松のところへ呼び出し、その場所に予め用意してあったロープと脚立を用いて支店長を殺害し、首吊り自殺に見せかけたと、こういったことが行われたのではないかと、我々は推察しております」
 「ははあ、踏み台は、支店長の身体を持ち上げる目的で準備されたのかもしれませんなあ」近藤は言う。「もしそうだとすると、犯人は、首吊り自殺をする時に台を使うなんてことに、考えが及ばなかったかもしれません」
 「そのくらいのことは気が付きそうに思いますが……。まあ、そういうことであったのかもしれません。いずれにしましても、我々の推察が正しいと致しますと、本件は極めて入念に計画された殺人事件ということになります。そこで、これだけのことをしなければならない、犯人の動機は、いったいなんであったか、ということが問題になります」
 「横領事件との関連、ですな」
 「ええ、殺された支店長は、桜が原支店で疑惑を持たれておりました横領事件調査の責任者をされておりました」鈴木刑事は言う。「つまり、横領を行った人物には、支店長を殺す理由は充分にあったわけです。特に、支店長が横領犯を特定する何らかの証拠なり情報なりを掴んでいたとすれば、なおさらです。例えば、支店長は何らかの手掛りをつかんだのだが、そのことを犯人に気付かれてしまった、といった状況があったのではないでしょうか」
 「犯人に自首させようと説得したのが裏目に出た、というようなことだって、あるかも知れませんなあ」
 「犯人を警察に突き出したりしないで、内々に片付けようとしていたのかも知れませんね」エミちゃんは言う。「銀行って、不祥事を嫌うじゃないですか。弁償させて依願退職にするというような温情措置を採ったって、不思議じゃないですよ」
 「そうですね。その可能性も多いにありますねえ。まあ、どんな事情があったのか知りませんけど、横領犯が横領事件調査の責任者を殺す理由は、山ほどあるでしょう」
 「そういえば、我々も脅迫状を受け取っておりますよ」
 そう言うと、近藤は、ビニール袋に納めた脅迫状を取り出して、鈴木刑事に渡す。鈴木刑事は脅迫状をじっと眺めたのち、声に出して読み上げる。
 「『東都銀行から手を引け、さもなくば、事務所の女一人消す』ですか。すさまじいですな。これ、我々がお預かりしてもよろしいでしょうか?」
 「もちろん構いませんとも」近藤は応える。「その脅迫状は、ノーボディーから送られたとみられる、唯一の物的証拠ですから、指紋採取などもよろしくお願いします」
 「ノーボディー? あの、荒木田をそそのかして、柳原さんに対するストーカーをやらせたという、あの男ですか?」
 「ええ、そうです。脅迫状は郵送されましたんで、メイルアドレスは書いてません。もちろん差し出し人が書いてあるわけでもありません。しかし、その脅迫状の句読点の使い方、ノーボディーが荒木田に送って、柳原を襲うようにそそのかしたメイルと、全く同じなんです」
 「ははあ、たしかに、句点の代わりに、ピリオッドを使っていますね。たしかにこれが同一人物である可能性は否定できませんね。つまり、ノーボディーは、近藤さんたちが行っていた東都銀行の横領事件調査に気付き、近藤さんに、東都銀行の調査から手を引くように脅迫状を送り、荒木田をそそのかして、柳原さんを襲わせようとした、とおっしゃるんですね。もしそうだとすると、この脅迫状を出したノーボディーが、即ち、横領犯であることは、ほぼ確実じゃあないですか。そして、支店長殺害が、その延長線上にある可能性も大、ということになります」
 「もちろん、そうに違いありません。特に、脅迫状のほうは、東都銀行から手を引けと、はっきり書いてあります」
 「まあ、ちょっと待ってください。この脅迫状が、近藤さんを東都銀行の調査から手を引かせるために出されたものであることは間違いないでしょう。横領犯がこの脅迫状を出した公算は極めて高いと、我々も思います。しかし、荒木田氏にメイルを送った、ノーボディーを自称する人物が、はたして、この脅迫状を送りつけた者と同一人物であるかどうかという点は、それほど確かではないんじゃありませんか? たしかに、句読点は一致しますけど、このような句読点の打ち方が、それほど特殊なもの、というわけでもないでしょう」
 「それはそうです。横書きの論文等で、しばしば使われる書式だということです」
 「そうだと致しますと、荒木田氏の一件と、この脅迫状は、まったく無関係であったという可能性もあるんじゃないですか? もちろん、近藤さんにとっての関心ごとがストーカー事件と荒木田殺しであることは重々承知しておりまして、そちらに、このノーボディー氏が絡む可能性は高いでしょうが、支店長殺害事件との関連性は薄いんじゃないでしょうかねえ」
 「うーん。そう言われると、身も蓋もありませんなあ。しかし、脅迫状も、ノーボディーのメイルも、我々の捜査を妨害するという意味では、同じ効果を持つものなんですな。時を同じくして送られたふたつのメッセージがあり、両者の句読点が一致していて、しかも、その目的といいますか、機能といいますか、そうしたものも一致しておれば、これら双方のメッセージは、同一人物が送ったと考えるのが普通ではないかと思いますよ」
 「ええ、我々もその可能性は否定致しません。しかし、荒木田氏は、柳原さんと、トラブルを起されていたんですよね。ノーボディーが送ったというメッセージを読んでも、東都銀行の横領に関係するというよりは、荒木田氏に対して柳原さんが書かれたメッセージを読んで、義憤に駆られた第三者が、荒木田氏を応援する目的で書かれたものであるように、私にはみえるんですよ。ああ、すいません。義憤というのは不適切ですね。それに、柳原さんの個人情報を伝えるという、ノーボディー氏の行為が正当なものだとは、とても、思えませんけどね」
 「脅迫状とノーボディーのメイルが、送信時期と句読点を同じゅうしていたのは、偶然の一致だというんですな。その可能性を否定できないのが辛いところなんですが、私は、『偶然』で片付けることが嫌いな性分でしてね。ま、たしかに私ども、ストーカー事件との関りが強いもんですから、必要以上にノーボディーに拘っているのかもしれません。わかりました。どのみち、こちらは我々の事件ですから、我々が独自に追いかけることに致しましょう。何かわかりましたら、ご連絡しますから」
 「申し訳ありませんねえ。我々も、もう少し人数がおれば、いろいろな可能性を掘り下げることができるんですが、なにしろ、支店長さんは、いろいろな方に関りがある上、横領事件との絡みもありまして、これ以上、調査項目を増やせないのが実情なんですよ。ノーボディーに関しては、申し訳ありませんが、近藤さんの方で、よろしくご調査ください。われわれも、できる範囲でご協力致しますので」
 「いやあ、ストーカー事件の方は、最初から、我々の事件だと考えておりますんで、別に、謝って頂かなくても結構です。脅迫状の方は、東都銀行がらみということで、取り上げて頂けるんですな」
 「こちらは、間違いないでしょう。それで、少なくとも、この脅迫状を出した人物は、大野川支店長が近藤さんに横領事件の調査を依頼したことを、知っておったんですね。しかし、近藤さんが東都銀行の横領事件を調査していたことを、どの程度の方が、ご存知だったんでしょうか」
 「我々がお話をしたのは、大野川支店長だけです。しかし、銀行内部で我々の調査を知っていたのが、大野川支店長だけだったとも、思えません。それに、支店長にご面会に行く時は、いつも、銀行のカウンターで、係の方に取り次いで頂いてましたので、我々の正体を知る人物であって、かつ、横領事件が起こっていることを知っている人物であれば、我々がなんのために銀行に来ているかは、大方、推察できたことでしょう。ただ、支店長さんのお話しでは、横領事件が発生していることは、行内でも、ごく少数の人しか知らないと言っておられました。私が横領事件に関して議論した東都銀行の関係者は、桜が原支店では支店長さんだけ、その他には、東都銀行システムセンターの技術者だけです。多分、桜が原支店の中には、他に、知っている方もおられると思いますが、それほど多くの人が横領事件について知っておったといということは、ないでしょう」
 「犯人なら、横領事件が起こっていることは、知っていますよ。だって、自分がやっているんだもん」エミちゃんが口を挟む。「だから、犯人が、所長か柳原さんのことを、探偵事務所、コンドーの調査員だって知っていれば、この脅迫状は出せました。自分が横領を働いている銀行の中で探偵の顔を見れば、何をしに来たかぐらい、ピンとくるでしょ」
 「そりゃそうだ」近藤は言う。「我々、別に秘密裏に探偵業をしてるわけでもないから、私や柳原の商売は、相当数の人が知っていますねえ。例えば、ここの商店街の人達にしたところで、我々が探偵事務所をやっていることぐらい、みなさん、ご存知ですよ」
 「銀行を訪問した時、窓口で『近藤です』と言って、支店長を呼んでもらっていますよね」柳原も補足する。「犯人がそれを聞いていたなら、電話帳の探偵事務所のページを開くだけで、コンドーの名前があるし、住所も全部わかりますよ」
 「電話帳なんか見る必要もないわ」エミちゃんが言う。「だって、東都銀行には、近藤調査事務所の口座があるんですよ。だから、住所だって届けてあるし。これ、銀行の人だったら、たいてい、わかるんじゃないですか? たぶん、銀行の計算機使えば、簡単に調べられると思うわ」
 「そういや、この口座を開設したのは俺だった。窓口に住所氏名を書いた伝票を渡したし、その後も何度か窓口で手続したから、記憶の良い奴だったら、俺の顔だって覚えているかも知れない」
 「そうですねえ。それでは、行内で横領事件を誰が知っていたかという点は、犯人を特定する手掛りにはなりませんねえ。それにしても、近藤さんは、相当に危険な状況にあったんですね」
 「それは認識してました。もちろん我々は、こんな脅迫状をもらったくらいで、調査から手を引いたりは致しません。しかし、『事務所の女一人消す』という言葉が、単なる脅しに終るとも思えませんでした。実際、事務所の周りには、怪しい男が出没してましたし、事務員のエミは実際に襲われております。この襲撃は、田中の素早いガードのおかげで、撃退できましたがね。エミを襲った荒木田が何者かに撲殺され、今度は、横領事件調査の銀行側責任者である大野川支店長が自殺を装って殺害されたとなりますと、我々を狙っているのは、相当に危険な連中であったということになります。もちろん、これら一連の事件が同一人物の手になる、ということが前提ですが」
 「このあたりと、従業員の方のご自宅付近、パトロールを強化するように言っておきましょう」
 「そうして頂けると助かります。特に、エミと柳原の安全を、我々、最も心配しております。もっとも、危険は、峠を越したんじゃないかと思いますけどね」
 「と、申しますと?」
 「連中が我々を狙う目的は、東都銀行の横領事件調査を妨害することです。しかし、私どもが行っていた東都銀行さん関連の業務は、既に調査を完了しておりまして、我々は、すっかり手を引いています。ですから、横領犯としては、いまさら、我々を襲っても意味がないんですよ」
 「しかし、近藤さんは、今回の一連の事件から、完全に手を引かれたわけではないんでしょう」
 「そりゃそうです。形の上では、東都銀行との関係は切れてますけど、ストーカー事件が解決されたわけではありません。これは我々の事件ですから、東都銀行さんの依頼とは関係なく、我々独自に調査を進めます」
 「まったく、近藤さんのしつこさには、定評がありますからねえ」鈴木刑事は感慨深げに言う。「横領犯も、近藤さんに手を出すなんて、余計なことをしたもんだ。いずれにしても、エミさんと柳原さんの周辺パトロールは、やらせて頂きます。運が良ければ、犯人が引っかかるかも知れませんし」
 「ところで、横領事件の、その後の捜査の進展は、どうなっていますでしょうか? 我々のほうには、東都銀行さんからのその後の情報は、全く入ってこないんですが」
 「本件、銀行側の告発を受けて、警察も捜査に乗り出したのですが、なかなか思うように進展致しません。元々、計算機犯罪というのは、我々の弱い部分でして、特に、東都銀行のシステムは規模も大きく、複雑でして、我々の手におえません。また、東都銀行の基幹システムに細工が加えられたという事情もありまして、捜査活動は、計算機システムにトラブルを起す危険を避けて行わなくてはなりません。そういう事情がありまして、この事件の捜査は、被害者であります東都銀行さんが主体となって取り進めておりまして、警察サイドは、各種の会議などにオブザーバーを出す形で関与致しております。もちろん、犯行の全貌が明るみに出て、犯人が特定できましたら、犯人逮捕は我々の手で行いますけどね。まあ、そこまではよろしいんですが、どうも東都銀行さんがあまり協力的でございませんで、できることなら、事件にはしたくないと考えておられるようです。実は、被害金額が千八百万ということも、先ほど、近藤さんからはじめてうかがった次第でして」
 「え? そりゃあまずいことを致しましたなあ。東都銀行さんには、私ども、報告書を提出致しておるんですが、それは、警察のほうには伝わっていないのでしょうか?」
 「えー、このお話、ここだけにして頂きたいのですが、届がありましたのは、第一に、決算時の使途不明金の額が異常に膨張していること、特に、それが、桜が原支店で多く発生しているようだということと、計算機のはじき出す合計値は合っているため、どこかの計算で異常が生じているだろうということでして、具体的に、どこでいくらの被害が生じているかという報告は受けておりません。近藤さんのほうで、詳しい情報をお持ちでしたら、ぜひお聞かせ頂きたいんですけど」
 「そりゃあもう、相当なところまでわかっています」柳原は言う。「わからないのは犯人だけです」
 「ちょっと待った!」近藤は、柳原を制止すると、鈴木刑事に向かって言う。「えー、我々、たしかに、東都銀行さんのご依頼を受けまして、調査致しました。その結果、種々の事実が明らかになり、これらにつきまして、東都銀行さんには詳細をご報告致しました。報告した相手は、今回殺害されたという、大野川支店長ですがね。私ども、この内容は、そのまま警察のほうに伝わると信じておったんですが、それが伝わらないとなりますと、私どものほうから刑事さんにお話するわけにもまいりません。今回の調査は、調査の過程で知り得たことを、東都銀行に対する報告の中でのみ用い、他には一切の情報を洩らさないという条件下で行っております。したがいまして、たとえ相手が警察といえども、その内容を洩らすわけにはまいりません」
 「まいりましたなあ」鈴木刑事は、自分の肩を叩いて言う。「なんらかの形でご協力頂くわけにはまいりませんかなあ」
 「まあ、普通は、しないんですよ。つまり、同じ事件に関して、複数のお客様から依頼がありましても、片方はお断りすることにしておるんです。普通は、先着順ですな。だから、この件は、通常であれば、一旦、東都銀行さんからお受けした以上、他所さんからご依頼があっても、お断りすることになります。しかし、今回は、特殊な事情がございますからなあ」
 「そうですよ」鈴木刑事はここぞとばかりに力説する。「近藤さんが狙われた、ストーカー事件に関係している可能性が高いですからねえ」
 「何を言われますか」近藤は首を振って応える。「ストーカー事件は私どもの私的な問題です。そんなことで原則を曲げるわけにはまいりません。私が特殊と申しましたのは、第一に人がふたりも殺されていること、第二に警察からの依頼であること、第三に東都銀行さんからの業務委託は既に終了していることです。つまり、前回の調査で得た秘密情報の扱いにさえ気を付ければ、警察にご協力することは道義的には問題ないし、状況が状況ですから、秘密情報が洩れるリスクを犯す価値もある、ということです」
 「はあはあ、だいぶ見えてきました」鈴木刑事は言う。「つまり、近藤さんは、前回、東都銀行の依頼で調査した、その内容については、私どもにお話することはできない。しかし、私どもが新たにご提供する情報に対して、解析を行ったり、助言して頂いたりすることは、場合が場合であるだけに、可能であると、そういうことですね」
 「はい、そういうことです。どうでしょうか? もちろん、東都銀行さんの承諾が得られましたら、前回の調査で得た情報を使うこともできるようになりますがね」
 「わかりました。この件、一旦内部で議論致しますが、ゴーサインが出ましたら、なるべく早い時期におうかがいいたしますので、その際は一つよろしくお願い致します」

 ふたりの刑事は、近藤に礼を言うと引き上げていく。
 エミちゃんは、みたらし団子のプラスチックケースと茶碗を片付けながらきく。
 「警察からの依頼って、料金請求できるんですか?」
 「当然するさ。但し、正式な調査依頼書をもらわないとまずい。責任者の判子が突いてあるやつね。見積りとか、契約書とか、いろいろ面倒な手続も必要だろうね。民間の総務部みたいに、なあなあで金を払ってくれるようなことはないだろうね」
 「ファイルは、前回の調査と分けておかなくちゃいけませんね」
 「当然だね」近藤はそう言うと、柳原に向かって言う。「しかし、警察はろくな情報を持っていないようだが、調査のしようもないんじゃないか?」
 「必要な情報は、こちらから指定して、押収させれば良いじゃないですか」柳原は気楽に言う。「でも、それじゃあ角が立つから、こちらから一度、東都銀行さんに出向いて、警察に協力することになりましたって、ちゃんと断っといたほうが、良いんじゃないでしょうかねえ」
 「たしかにそうだなあ。だが、東都銀行に話しに行く前に、それに関しての警察の了承も得なきゃならん。何をするにも、いろいろと面倒だなあ」

 

 七月十七日――(火曜日)
 コンドーの朝のひとときは、優雅に過ぎて行く。
 柳原は、今日から午後の出社に戻ったから、まだ事務所には出ていない。
 田中は、朝方、事務所に顔を出したなり、アニメ同人のメンバーに、人形の衣装作りを伝授する、と言い残して出かけていって、それっきりだ。
 田中は、流石に出て行く時は、近藤の目を気にしているようだった。
 近藤も、「こんな遊びみたいなことは勤務時間外にやれ」と言いたいところをぐっと我慢して、行き先を告げた田中には「行ってこい」と鷹揚に言い放った。
 結局のところ、人形の衣装作りも、ノーボディーを探し出すためという業務上の目的がある、と言えなくもない。
 五月蝿いのが二人もいないと、事務所は静かなもんだ。
 近藤は、社内で唯一喫煙可能な応接室で、ゆっくりと煙草を吹かしながら新聞を読む。
 エミちゃんは、朝からワープロを打っている。
 東都銀行桜が原支店における横領事件は、警視庁を依頼人とする、コンドーの新たな業務として開始する予定だ。警視庁からはまだ正式な横領事件の調査依頼は来ないものの、これに関連するとみられる支店長変死事件の顛末について、エミちゃんは、これまでに知り得た事実をまとめている。
 昼も近くなった頃、エミちゃんが応接室に顔を出し、鈴木刑事からの電話があったことを伝える。
 「正式な依頼を持って午後三時にコンドー事務所を訪問するとお伝えください、とのことでした」エミちゃんは、そう言って報告を締め括る。
 「商売、商売」近藤は、煙草を吹かしながら、嬉しそうに言う。

 

 午後一時、柳原が出社する。
 柳原が、近藤の顔を見て不審顔をしたのは、通常であれば、近藤が昼食を終えて事務所に戻るのは、一時をかなり回った頃だからだ。
 田中に逃げられてしまった近藤は、行動パターンをいつもとは変えたのだ。つまり、弁当持参のエミちゃんをガードするため、近藤は、事務所を空けるわけにいかない。そこで、昼食を店屋物で済ませることにしたのだ。
 ここしばらく、ストーカーの姿はないが、油断は禁物だ。
 近藤は、横領事件の正式依頼が午後三時にくることを柳原に伝え、対応を考えるように言う。柳原は、小さい文字をたくさん書き込んだ紙を取り出し、「考えておきました」と言う。
 「それで、まずどうするかね」
 近藤が尋ねると、柳原はホワイトボードを手前に引き、『銀行への挨拶』と書いて言う。
 「まず、銀行にお断りしないといけません。警察の調査に協力するようになったということをですね。それで、できれば、前回の調査でつかんだ情報を今回の調査にも使わせて頂くよう、東都銀行さんの許可を得ることです。東都銀行さんにお出しした報告書を、そのまま警察に提供することができれば一番良いんですけど」
 「うん、それを認めてもらえれば、話が早いね」
 「三時からの打ち合わせでは、銀行に挨拶に行くよということを、警察側に了承して頂く必要があります」
 「それは大丈夫だろうね。特に、前回調査の結果を使えるようにするのが一つの目的なら、警察も嫌とは言うまい」
 「前回の調査結果を利用させて頂く件は、東都銀行さんが、あの報告書を握りつぶしているようで、すんなり認めていただけるかどうか、ちょっとわかりません」柳原は、ホワイトボードに『前回報告書の提出』と書く。
 「俺たちが警察に協力すると言えば、まさか、あれを隠し通せるとは思うまい」
 柳原は続いて、ホワイトボードに『または再調査』と書いて言う。
 「前回の情報が使えないとなると、もう一度、調査をやり直す必要があります。前回の調査を再現するのであれば、東都銀行基幹システムのソースコード、ぶっちゃけた話、サムチェック手続(プロシジャー)のソースコードだけ調べれば良いんですけどね。だけど、何も知らないという前提でやるんでしたら、ソースコードを全部提出してもらう必要があります。それから、毎月の計算表が必要です。この二つがあれば、千八百万の現金の行方不明を見つけ出せるし、現金が足りないのに合計が合っていたのは、サムチェックに施された不正な細工であると、はっきり言うことができます」
 「銀行があーだこうだ言っても、警察が押収してしまえば良いわけだな」
 柳原は、ホワイトボードに『詳細: 金は、いつ、どこから消えたか?』と書いて言う。
 「えー、前回の調査は、毎月の、しかも銀行全体の計算表をチェックしていましたけど、銀行には、毎日の計算表や、部門別の計算表があります。これらの合計値を再チェックすれば、いつ、どこから現金が消えたか、もっと詳しく特定することができます」
 「行員の行動をそいつと付き合わせれば、誰がやったかもわかるってもんだな」近藤は言う。「しかし、それらの個別の計算表の全てで、合計値の操作が行われているのかね? それは、相当に大変なことのように聞こえるが」
 「ええ、この、サムチェックでの操作、相当に複雑な調整をしなくてはいけません」柳原は応える。「銀行の現金残高って、ものすごくたくさんの帳簿に関係してきますから、どこか一ヵ所を書き替えて済ますってわけにはいきません」
 「つまり、合計値を操作した人間って、銀行のシステムのかなりの部分までを知り尽くした人間だってことだね」
 「そうです」柳原は言う。「こういうことができるのは、銀行の計算機システムを知り尽くした人間ですね」
 「つまり、システムプログラムの開発にタッチした人間、ってことか」
 「そう考えるのが簡単なんですけど、必ずしもそうとは限りません」
 「まさか、社外の人間が、銀行のシステムプログラムを知り尽くすなんてこと、できないだろう」
 「それほど簡単ではないと思いますけど、システムを知り尽くした社外の人間が、詐欺を働いたという前例はあります。七〇年代の初め頃に、ジェリー・シュナイダーという人が、アメリカの電話会社のオンラインシステムを騙して資材を盗み出したって、有名な事件があります。その人、社員でもないのに、社内の電話機材供給システムに関しては、社内の誰よりもよく知ってたっていう話ですよ。ゴミとして捨てられたマニュアルを読んだりしてね。最近は、マニュアル類も計算機に入れておくのが普通ですから、システムに侵入さえできれば、マニュアルを手に入れることもそれほど難しくはないでしょう。だから、東都銀行の会計処理システムを知り尽くした人間が社外にいたって、それほど不思議なことではありません」
 「しかし、社内の誰かが情報を洩らすか、セキュリティ管理にルーズな部分がなくちゃ、銀行のシステムになんぞ、それほど簡単には侵入できんだろう。銀行のシステムを管理する人間が、それほどいい加減なことをやっているとも思えんがね」
 「情報の流出があり得ないほどきちんとやっているのなら、現金が流出することも起こり得ないんじゃないですか? たいていは、現金よりも、情報のほうが流出し易いと思いますけど」
 「つまり、犯人は、銀行の外部の人間である可能性が高い、ってことか?」
 「いいえ、外部の人間がシステムをいじった可能性もある、ってことだけです。どちらの可能性が高いかときかれれば、社内の人間がやった可能性のほうが高いでしょうね。銀行の金が取れるものなら、取ってやりたいと考える人は、銀行の中よりも外の世界に大勢います。だけど、現実にそれを実行できる人の数は、銀行の中のほうが圧倒的に多いんですね。犯罪を犯す可能性は、結局のところ、論理積(アンド)なんですよ。犯罪を犯そうという意図があって、かつ、犯罪を犯すことができる場合、つまり、両方の条件が成り立って、はじめて犯罪は起こり得るんです。社内の規律や従業員のモラルにもよりますけど、今回のような事件で論理積が成り立つ確率は、社外よりも、社内の人のほうが高いと思いますよ」
 「そうすると、捜査の手順はどうすれば良いかな?」
 「まずは、社内の人間がシステムをいじったって可能性を追求すべきでしょうね。これだけ複雑なシステムをいじれる人間は限られていますから、その人達の身辺を調べるのが第一でしょう。それから、システムへのアクセスの管理、例えばパスワードの管理が適切になされているかどうかも、早い段階でチェックしておく必要があるでしょうね。これがザルだったら、外部の人間に、簡単にクラックされてしまいます。最近の計算機システムは、文書も全て計算機に入っていますから、一旦、システムへの侵入を許してしまうと、システムに不正な処理を行わせるために必要な、全ての情報へのアクセスを許してしまいます」
 「早い段階で、東都銀行の基幹システムを扱っているところに行く必要がありそうだね」
 「そうですね。それとあとは、現金が、どのようにして持ち出されたかを調べることですね。こっちは、社外の人間には、極めて難しいと思いますよ。だって、銀行ってのは、大事なものを安全に保管するってのが、主要業務の一つなんですからね。行員でもない人が銀行のお金を勝手に持ち出す方法があるなら、多分、誰かが、とっくの昔に実行していますよ。システムをいじるような、面倒で手間のかかるまねをする前にね」
 「ふむ。それで、こっちの犯人を突き止めるために、現金持ち出しの場所と日時を特定しようってわけだ」
 「そういうことです」
 次に、柳原はホワイトボードに『調査範囲の拡大』と書く。
 「えー、次に、前回の調査は、東都銀行さんからの依頼で、ここ一年間の、桜が原支店の使途不明金を調べたんですけど、この手口、去年より前から使われていたかもしれないし、他の支店でも似たような不正が行われているかもしれません。過去に遡って、全ての支店のデータをチェックする必要があります。その結果によれば、被害総額が千八百万よりも大きくなるかもしれません」
 「しかし、不正な操作は、サムチェックに仕込まれたテーブルに書いてあるやつだけだろう。その合計が千八百万だったんじゃないかね」
 「いえいえ、東都銀行さんのシステムは、小型の計算機をたくさん並べて構成されています。昔だったら、大型の計算機を一台おいて、それで全部の計算をしていたんですけど、今使われているシステムは、支店ごとに違う計算機で処理しているんです。だから、サムチェックのプログラムも、支店ごとに違うプログラムが使われています。前回調べたのは、桜が原支店のデータを処理している計算機に入っていたプログラムなんですけど、よその支店のサムチェックにも同様な細工が施されていたとすると、そっちのテーブルには別の口座の別の不正操作が指定されているかもしれません。実際のところがどうなっているかは、それぞれの支店のプログラムをチェックしなければわかりませんけど」
 「しかし、現金を持ち出したのは、桜が原支店の行員だろう。よその支店でも同じ犯罪が行われているってのは、ちょっと考え難いが……」
 「真似、ってことだってあるかもしれませんよ」柳原が言う。「誰かが始めた不正行為を、他の行員が真似をするかもしれません。不正に気付いた社員が、それを摘発せずに、自分も同じことを始めるかもしれません。それに、銀行の人って、転勤するじゃありませんか。ある人の移動に伴って、不正行為が行われる銀行も移動したとすれば、怪しいのはその人ってことになりますよ」
 「ああ、なるほど。そんなことをやっていれば、犯人はすぐにわかるな。しかし、そんな馬鹿か? この犯人」
 「ま、調べてみるのは無駄じゃありません。システムは、全ての支店で同じですから、この犯罪、原理的には、どこの支店でも実行可能です」
 「ま、そりゃそうだ。調べてみましょう。で、過去ってのは?」
 「そっちは、もっと可能性が高いんですよね。この不正操作、期末になると、不正に持ち出された金額は、雑損失に計上されてリセットされるんです。で、もし、前の期もサムチェックのテーブルが同じだったとすると、同じ口座から、同じ金額だけ、現金を持ち出さなくちゃいけません。毎年ですよ。でも、そんなことって、ちょっと考えられないでしょう。いちばん可能性が高いのは、前の期には、別のテーブルが使われていて、別の口座に別の金額だけ、不正操作が行われていたってことです。少なくとも、この不正がいつから行われていたか、その点は押さえておかなければいけません」
 「そんな過去のデータは残っているのか?」
 「たいてい、テープに入れて保存していますから。きっと大丈夫です」
 「そんなとこかね」
 「そんなとこです」
 「それじゃ、今の話、一応メモしておいて……」
 「あ、私やっときます」エミちゃんが言う。「メモしましたんで、警察の方が来られるまでに、タイプしときます」

 

 午後三時、鈴木刑事が高橋刑事を伴ってコンドーの事務所に現れる。
 近藤は、揉み手をして二人を応接に案内すると、コーヒーをエミちゃんに頼む。
 「松にします?」エミちゃんは意味ありげな眼差しを近藤に向けて尋ねる。
 「うーん、やつらにゃあもったいないが、今回は松だな」
 エミちゃんは、とっておきのブルーマウンテンの缶を開け、豆を五匙、グラインダーに入れると、挽きに掛る。

 応接室に通された鈴木刑事は、椅子に腰を下ろすや否や、不機嫌そうな顔をして、近藤に言う。
 「いやあ、近藤さん、東都銀行の件、ウチから近藤さんにお願いすると言うお話は、なし、になりました」
 「ええー? そりゃまた一体、どうしたんですか」近藤は驚いて尋ねる。
 「いや、驚かして済みません。調査は近藤さんにやって頂く。しかし、ウチからではなく、東都銀行さんからの依頼でやることになったんです」
 「どうも、話が良くわかりませんなあ」
 「我々にも、さっぱりわかりません。それで、そうなりました経緯をご説明致しますので、近藤さんのほうでも、考えてみてください」鈴木刑事はそう前置きすると、昨日からの経緯を語り出す。

 えー、今回の東都銀行の事件の捜査なんですが、私どもには計算機がよくわかりませんので、どこかの、こういったことに詳しい専門家を起用したらよいのではないか、という話が以前より出ておりました。
 昨日こちらで、コンドーさんが東都銀行の横領事件を調査されて、被害金額も、手口も、既に捉まれているようだというお話をうかがいまして、これを本部に持ちかえって相談致しましたところ、そういうことであれば、コンドーさんに正式にお願いしよう、ということで、一旦は、話がまとまったんでございます。
 この件、東都銀行さんのお耳にも入れておく必要があろう、という意見もございましたので、昨日夕刻、東都銀行さんに連絡致しました。ところが、先方さんのご返事は、コンドーさんに依頼するのは、ちょっと待って欲しい、というものです。
 東都銀行さんの言い分は、コンドーさんには、以前、同じ事件で東都銀行のほうから調査を依頼しており、よそに出してほしくない情報も、相当な量、コンドーさんにお出ししていることもあり、同一の事件で、他の者がコンドーさんに調査を依頼することは好ましくない、という論理です。
 この言い分、一応は筋が通っておりますが、警察を相手にして『出して欲しくない情報』などとは、よく言ったものだと思います。
 それで、その時点では、先方も、この判断は担当者レベルのもので、政治的な判断も必要であろうというお話もございまして、東都銀行内部でもう一度議論するから、本日の昼までは、コンドーへの依頼は待ってもらえないかと強く言われまして、まあ、一日程度であれば、待つことも差し支えなかろうと、その場は先方の要望を受け入れました。
 政治的判断というのは、当然、警察の捜査に協力すべきというものだと、その時点で、我々は、そう考えておったのです。
 ところが、本日朝、本庁の上層部から、東都銀行の件でコンドーに依頼する件、東都銀行から依頼させろという指示がありまして、我々もそれを受け入れざるを得なくなりました。
 もちろん、この指示、無条件で受け入れたわけではありません。
 どうも、先日からの様子を見ると、東都銀行は我々に情報を出したがらない様子で、近藤さんの調査結果も、ほとんどこちらには伝わっておりません。今回、改めてコンドーさんにお願いするとしても、それが東都銀行経由で、肝心の調査結果がこちらに流れてこないようでは困ります。
 それで、今日の午前中、部内ですったもんだがありまして、具体的な取り進めにつきまして東都銀行さんとも議論致しました。その挙句、ようやっと決まったのが、こういうことです。
 まず、依頼主は東都銀行とする。これは、先方のご要求を飲もうということです。
 但し、コンドーさんが調査された結果は、全て警察のほうにも流すことを第一の条件と致しました。これは、前回の調査結果も含めてということで、双方了解しております。
 第二の条件は、東都銀行は、警察がコンドーさんと自由にコンタクトすることを認め、また、コンドーさんには、コンドーさんが本調査に関して入手した全ての情報を、警察の求めに応じて開示することを認める。これには、前回の調査で入手した情報を含みます。
 この二つの条件、要は、コンドーさんに調査していただいてわかったことを、全て警察側にも開示しなさいということでして、先方さんは嫌な顔をされてましたが、これらの条件、先方は飲まないわけにはまいりません。これに反対すれば、東都銀行は、警察に隠し立てしたいことがあると、白状しているようなものですからね。
 なお、銀行さんには、本調査に関して警察が知り得た情報を、本来の目的、即ち横領事件および支店長変死事件の捜査以外には使用しない、との一札を取られました。
 第三の条件は、警察がコンドーさんの調査結果を外部に発表する場合は、東都銀行の許諾を得る、但し、警察の活動に関わる情報提供に関しては、この限りでない、というものです。つまり、指名手配や犯人逮捕に関しては、警察は自らの判断で自由に行い、これに関連して必要となる情報の開示、例えば、指名手配などの理由の説明、裁判所への証拠の提出など、警察業務上必要欠くべからざる情報開示に関しましては、警察側の判断で行なえることと致しました。
 まあ、こういう条件であれば、我々としても受け入れられるだろうということで、先ほど先方さんとは合意が成立致しました。ここに、東都銀行さんからの調査依頼書をお持ちしましたので、お納めください。

 「はあ、そういうことでしたか。いやあ、鈴木さんにはご不満かもしれませんが、我々としてはやり易いですなあ。前回入手した情報と、今回の情報とを、どう切り分けるか、頭を悩めておりました」
 「それで、どういうところから手をつけるか、ご意見をお聞かせ願えませんか」
 「それに付いては、柳原から説明させます」
 近藤がそう言うと、柳原は、ちょっとまってくださいと言いって、事務所にホワイトボードを取りに行く。
 「あー、それから、本日我々と近藤さんの話した内容も、東都銀行さんには伝えることになります。これは、近藤さんのほうで、議事録を作成して頂けませんでしょうか」
 「ええ、構いませんとも。そういうことでしたら、記録係も同席させましょう」

 応接室に、柳原とエミちゃんが入ると、鈴木刑事はおもむろに言う。
 「それでは、これより、東都銀行横領事件に関る打ち合わせを開催させて頂きます。議事録のほう、ここから、よろしくお願いします。出席者は警視庁から、私、鈴木と高橋の二名、株式会社コンドーより、近藤社長、柳原調査員、近藤エミ事務員の三名、近藤エミは記録係としての参加です。ここまで、よろしいですね」
 「はい、間違いありません」近藤は言う。
 「では、議題の第一項、調査依頼でございますが、ここに、東都銀行さんからコンドーさん宛ての、調査依頼書をお持ちいたしましたので、お納めください。なお、本調査依頼には条件が付いておりまして、調査の依頼主は東都銀行さんですが、コンドーさんが調査された結果は警察側にも報告すること、警察は、東都銀行への報告、許諾なしに、コンドーさんとは自由にコンタクトし、コンドーさんは、本調査に関連して入手したすべての情報は、警察の求めに応じて開示すること、これらに必要である限り、コンドーさんの東都銀行への守秘義務は及ばないということです。ここでいう『本調査に関連して入手した全ての情報』には、コンドーさんの前回の東都銀行さんから依頼された調査に関連して入手した情報を含みます。えー、この旨を記載した、当方と東都銀行さんとの間の覚書も、コピーをお渡しします。以上、よろしいでしょうか」
 「要するに、警察になら、全部喋っちゃって良いってことですね」柳原がきく。
 「そういうことです」鈴木刑事、さらさらと鉛筆を紙に滑らせ議論を記録しつづけるエミちゃんを見て、続けて言う。「あ、今のは議事録に書かなくて良いですから。では、次の議題、柳原調査員より、今後の調査計画について、ご報告頂きます」
 柳原は、エミちゃんのまとめた調査計画をプリントした紙を出席者に配ると、ホワイトボードの位置を直して、説明を始める。
 「えー、このボード、先ほど、調査計画について所内で議論したときのものですけど、『東都銀行さんへのご挨拶』と、『再調査』に関しましては、先ほどの鈴木さんのお話で、不要ということでよろしいですね」
 「まあ、こっちからも、一言、言っておくのが礼儀だろうけど、それはまあ、形式ってことで、調査のほうは、どんどん進めて構わないね」近藤は言う。「あとで俺が電話しとくよ」
 「あ、コンドーさんの前回の調査報告書、東都銀行さんから頂いています」
 柳原は、ホワイトボードの『前回報告書の提出』という文字と、『または再調査』という文字を二本の横線で消したのち、『詳細: 金はどこから消えたか』という文字を指して言う。
 「さて、これからの調査ですけど、まず、横領した犯人を見付け出すことが当面の目的になると思います。このためには、現金が持ち出された場所と日時をより詳しく調べる必要があります。前回の調査は、支店全体の、それも、月毎の計算表をチェックしましたんで、被害総額はわかりましたけど、いつどこで現金が消えたかは、大雑把にしか、わかりませんでした。しかし、銀行の計算表は、毎日、いろいろな部署で作られていますから、それらの計算表を個別にチェックすれば、いつ、どこから現金が持ち出されたかを特定できると思います」
 「現金が消えた時に、その場所にいた者が犯人ってわけですね」
 「はい。あまり昔の話だと、わからないと思うんですけど、最近行われた不正を何件か詳しく見ていくことで、犯人の手掛りが掴めると思います」
 「それ、早速やりましょう。銀行には、個別の計算表を提出して頂くことと致しましょう」
 「よろしくお願いします」
 「あ、これは、コンドーさんから東都銀行さんに請求なさってください。警察とコンドーの関係なんですが、警察は、コンドーから情報を得るだけという立場でございまして、コンドーさんに対する指導やお手伝いは、原則的にできませんので」
 「ややこしいですな。まあ、こちらから請求するのは一向に構いませんけど」
 「では、次の『調査範囲の拡大』ですけど、前回は、ここ一年間の桜が原支店についてだけ調査を行いました。しかし、この犯行、どの支店でも可能です。また、もっと古くからこの犯行が行われていた可能性もあります。銀行員は、支店間の転勤がありますけど、誰かの転勤と時を合わせて、犯行の行われた支店が移動していたとすると、その人が犯人である可能性が高いと考えられます」
 「これは、かなりの仕事量になりますねえ」鈴木刑事が言う。「必要性はよく理解致しますけど」
 「プログラム作ってチェックすれば大したことありません」柳原はこともなげに言う。「まずは、支店別、月別の計算表を、全ての支店で、過去の分を含めて、テープかなんかで手に入れたいと思います。各支店で毎年使われていた、サムチェック手続も必要ですね」
 「これ、時効は五年ですけど、少なくとも十年分は、調べて頂くのが良いですね」
 「そうですね。犯人追跡って意味がありますからね」
 「民事の時効もあるから、十年分の損害金額は計算しておく必要があるね」近藤は言う。
 柳原は、ホワイトボードに『十年』と小さく書き加えてから、話しを続ける。  「それから、ホワイトボードには書いてないんですけど、東都銀行さんのシステムプログラムを誰がいじったか、という点も調べなくてはいけません。今回の事件は、二つの行為で構成されているんですね。つまり、現金を持ち出すこと、そして、プログラムに手を加えて、持ち出したことがばれないようにするってこと、その二つの不正行為で構成されています。その二つの犯行は、同じ人がやったのかも知れないし、違う人がやったのかもしれません」
 「捜査も、二面的に進める必要があるということですね」
 「そうです。お金を誰が持ち出したか、ってことを調べるためには、お金がいつどこから持ち出されたかを調べ、その時に現金に手が出せた人を特定する、というのが捜査の道筋でしょうね。プログラムをいじった人のほうは、システムプログラムに関する知識を持っていて、かつ、プログラムを改変するためのアクセス手段を持っていた人を探さなければいけません」
 「それは、システム担当者の誰か、ってことですね」
 「一つの可能性は、そのとおりです。もう一つの可能性は、外部から銀行のシステムに侵入して、情報を集めたり、プログラムをいじることができたか、ってことです。その中間的なケースとしては、退職した社員による犯行とか、システムプログラムに関する情報が、不正に外部に持ち出されるケース、とかがあります」
 「これは、どうすればわかるんでしょうか」
 「一つは、システムに関与した人物のリストを手に入れることですね。システム作りは、外部に委託している部分もあると思いますけど、その場合は、委託先についても、同じ調査をしないといけません」
 「それ、相当な人数になりそうですね。怪しい人物のリストを頂ければ、こちらでも、身辺調査を致しましょう」
 「よろしくお願いします。それから、システムのセキュリティ管理がどうなっているか、って問題ですね。セキュリティホールはきちんと塞いでいるのか、パスワードはクラッキングされ難いものが使われているか、使われなくなったアカウントがいつまでも残されていないか、変なソフトが置かれていないか、などなどです。こういった調査は、私たち、いつもやっていますので、同じことを、東都銀行さんのシステムでやりたいと思います。このシステムは、ちょっと規模が大きいんで、一から調べるのは大変なんですけど、銀行さんのほうで日常的にされている、セキュリティ管理の記録を見せて頂ければ、さしあたり、それをチェックするだけで、おおよその状況がわかると思います」
 「なるほど、よくわかりました。だいたい、そんなところでしょうかね。そう致しましたら、東都銀行横領事件に関する打ち合わせは以上とさせて頂きまして、以後、コンドーさんと私どもの、プライベートな情報交換をさせてください」
 「東都銀行さんに報告する議事録は、ここまでで良いってことですね」エミちゃんが確認する。
 「ええ、そうです」
 「ええと、コンドー内部の記録もありますので、以後のお話も、メモしますけど良いでしょうか?」エミちゃんはきく。
 「構いませんとも。ただそれは、ここだけということで」鈴木刑事が答える。
 「支店長殺しの件、何か進展がありましたか?」近藤が尋ねる。
 「ええ、おおありです。支店長が何者かに呼び出されたメイル、電話会社の記録から再生できました」
 刑事が差し出した紙には、不気味なメイルの内容が印刷されている。

 『ヒトゴロシヨ
 ニゲタイナラバ
 チウオウコウエン
 サンボンマツニコイ』

 「なんかの暗号でしょうか?」
 「文字通りじゃないですか?」鈴木刑事は言う。「支店長が殺人犯であることを知った何者かが、警察に捕まりたくないなら、中央公園の三本松まで来いと、脅迫したんでしょう。支店長がその指示に従って三本松に出向いたところ、待ち構えていた連中に殺害されたわけですなあ。犯人は、この脅迫メイルを残さないため、携帯を持ち去ったが、そのメッセージが電話会社にも残っていたとは、御存じなかったというわけです」
 「支店長は、誰かを殺していた、ということですか?」
 「まあ、これにはいろいろと解釈の余地があるでしょう。支店長が実際に殺人を犯していたのかもしれないし、自殺だか、過労死だかは知りませんけど、誰かの死に責任があると考えられていたのかもしれません。もちろん、別の意味があるかもしれません」
 「支店長の部下なり、関係した人で、自殺したり、過労死したりした人というのはおられたんでしょうか」近藤は尋ねる。
 「これに付きましては調査中です。自殺、過労死に拘らず、支店長の周囲でここ数年間に亡くなられた方のリストを現在作成中です」
 「荒木田さんの撲殺事件に関与していた可能性はないですか?」
 「その可能性もありますね。この辺りで最近起きた殺しは、荒木田殺しだけですから、支店長が本当の殺人を犯していたとすると、荒木田を殺していた公算が大です。あの晩、支店長は、近藤さんとの打ち合わせを五時までされた後、一時間ほどデスクワークをされて、六時ごろに銀行を出られています。ですから、支店長には、公園で荒木田と遭遇し、彼を殺すことが充分に可能でした。支店長は、銀行を出られて、すぐに、娘さんとご一緒になり、おふたりで食事をされていたはずなんですが、肝心の娘さんが、神経に異常を来たしておりまして、支店長の明白な足取りは追えません。奥さんも、支店長さんがどこで食事をされたか、聞かれておりません。要するに、当日の支店長の行動は不明であって、アリバイがないんですね。支店長が荒木田を殺害した犯人だと仮定すると、いろいろな状況が矛盾なく説明できます。支店長が荒木田を殺す動機ですが、例えば、荒木田は、田中さんたちにしたと同様な襲撃を、支店長と娘さんに対して行ったということが考えられます。田中さんは、荒木田の額を傷付けただけでしたが、あの支店長は、勢い余って撲殺してしまったということですね」
 「その犯行現場を誰かに見られて、支店長は、脅迫されたのかも知れない、ということですな」
 「ヒトゴロシというメッセージから、脅迫があったことは明らかです。襲ってきた変質者を逆に殺してしまったということであれば、情状酌量の余地は多分にあるんですが、明らかに過剰防衛ですし、刑事罰を受ける可能性も多分にあります。大野川さんは、支店長という社会的地位もおありだし、銀行の信用にも関りますから、脅迫を受ければ三本松に向かう可能性が高いでしょう。この状況であれば、支店長は、金で片を付けよう、と考えるんじゃないかと思いますよ」
 「ところが脅迫者の目的は金ではなかった。支店長を殺す目的で、三本松におびき寄せた。そういうストーリーですな」
 「そうです。それで、支店長殺害犯の動機は、横領事件に関係しているのではないかと、我々、一つの可能性として、そう考えているんです」
 「たしかに、可能性はありますなあ。あそこの行員でこちらに自宅がある人なら、銀行から帰宅する際に公園を通るでしょうし、支店長よりも少し遅れて退社した人なら、支店長が荒木田を殺すところを目撃したかもしれません。その行員が横領犯であって、支店長にばれそうになっていたとしたら……」
 「ええ、桜が原支店の従業員の、あの日の勤務時間については、現在リストを作成中です」
 「支店長の娘さんが神経に変調を来たしたのは、支店長の殺しの現場を見たからなんでしょうか?」
 「いや、あの娘さん、だいぶ以前から、おかしかったようです」
 「娘さんがおかしくなった原因は、なんだったんでしょうか? たとえば、それが、変質者に襲われたためであったとして、それが荒木田だったとすると、支店長には荒木田を殺害する動機が生まれますね。その場合は、あのふたりは、偶然遭遇したのではないかもしれない」
 「それは、相当な偶然ですねえ。まあしかし、すべて可能性の域を出るものではありません。証拠なり、目撃証言などが得られませんと、支店長殺しの一件は先へは進みませんねえ。荒木田の前科に関しては、資料を取り寄せ中ですが」
 「横領事件を追っていけば、支店長殺しも解決できるかもしれませんなあ」
 「ノーボディーがどう関係してくるか、それも問題ですね」エミちゃんが口を挟む。
 「ノーボディー!」鈴木刑事は思い出したように叫ぶ。「脅迫メイルの差し出し人も、ノーボディーです。このメイル、インターネットから送られているんですが、海外の匿名サイト経由で、ノーボディーの名義で発信されています」
 「全ての糸が、一つに繋がりますなあ」近藤は感慨深げに言う。
 「支店長殺しの動機が、横領がばれそうになったから殺したということだとすると、柳原さんを襲撃させた目的と一致します。それに、ノーボディーが、その後も荒木田とコンタクトを続けていたとすると、荒木田殺しの犯人を知り得てもおかしくはない。例えば、あの夜、ノーボディーと荒木田が、あの公園で密会していたってことだってあり得るじゃないですか」
 「ノーボディーは一人じゃないんです」柳原は言う。「ボードには無数のノーボディーさんが勝手なメッセージを書いています。私達、文章の特徴から、荒木田にメイルを送ったノーボディーさんを篩い出していたんですけど、この脅迫メイルからは、文章の特徴が掴めません。だから、このメイルが、ノーボディーを名乗る人物から送られているからといって、荒木田さんに私の正体を教えるメイルを出した人と、同一人物が出したものだ、とは限りません」
 「このメイルの文章で特徴的なところは、『チウオウコウエン』だな。ここは、『チュウオウコウエン』とすべきところだ。これは、行の文字数を一つずつ増やすために、そうしているのかも知れないけど、普通じゃないね。これは、古い仮名使いかもしれないなあ」
 「こういうのって、最近のアニメで見たことありますよ」エミちゃんが言う。「抱きしめ合うシーンの後ろに、『ぎう』とか、書いてあるんですよ。正しくは『ぎゅう』でしょ、なのに『ぎう』……」
 「アニメ!」近藤は声を張り上げる。「句点にピリオッドを使うノーボディーも、アニメファンだったなあ」
 「この脅迫メイルを送ったノーボディーは、荒木田に柳原の正体を伝えたノーボディーと同一人物である可能性が高いということですか」鈴木も興奮して言う。「そうであるなら、ノーボディーこそが横領事件および支店長殺人事件の真犯人である公算も、また、大であるということになります」
 「ノーボディーは、柳原の名刺を入手して、その情報を用いて荒木田を扇動したものと思われます」近藤は言う。「彼が銀行関係者であるとすると、柳原の名刺は、前回の調査でお渡ししたものだけですから、その調査に関る情報を知り得た人物ということになります。支店長さんは、行内でも調査を秘密にされておりまして、この情報にアクセスできた人物は、相当に限られます。特に、柳原のメイルアドレスまで割り出せたのは、名刺をみることができた人間に限られるでしょう」
 「わかりました。そちらの方面からも調査致しましょう。それから、昨日お誘いを受けたノーボディー捕獲作戦ですけど、こちらからも、誰かを派遣して、立ち合わせたほうが良さそうですねえ」
 「ああ、それでしたら大歓迎ですよ。実は、私も狩り出されているんですが、ああいう所、私はちょっと、苦手なんですなあ。仲間がいれば心強い」
 「ああいう所って、アニメフェアでしたか」
 「ええ、そうです。ここにおりますウチの事務員も、アニメの主役に仮装して参加すると言ってます。田中なんぞは、仕事をほっぽりだして衣装を作っとります。彼も仮装するんだそうですよ」
 「それはそれは、お楽しみで。私どもも、みなさんの晴れ姿を見るのを楽しみに致しましょう」
 鈴木刑事は、笑いながらそう言って腰を上げる。
 高橋刑事は、思い出したように付け加える。
 「あ、そうそう、今日、大野川支店長の葬儀をやるそうです。夜の八時から、桜が原中央公園の集会所でやると言っておられました。最近、オープンしたばかりの集会所ですよ。我々も参加する予定ですが、近藤さんはどうされますか?」
 「はあ、そうですなあ。大野川さんとは仕事の付き合いもありましたし、ご挨拶せんわけにもいきませんなあ」近藤は面倒くさそうに言いながら、ふたりの刑事を見送る。

 

 夜、近藤と柳原は支店長の葬儀に参列するため、桜が原中央公園内の集会所に向かう。
 近藤は、葬儀会場を『公園の集会所』と聞いたとき、(支店長ともあろう者の葬儀を、公園の集会所なんかでやるのかね)と考えたのだが、集会所を一目見て納得した。桜が原中央公園の一角に最近新築された集会所は、公共の建築物であって、広く住民に利用が公開されているものだが、鉄筋コンクリート二階建ての立派な建物で、民間の葬祭施設にもひけを取らない。
 流石に、銀行の支店長ともなると、弔問客が多い。集会所の脇にはテントが五つほど張られ、桜が原支店の職員が多数応援に駆けつけて、弔問客の応対に当たっている。公園の広い敷地は、こういうときに便利だ。葬儀を夜に設定したのも、業務に支障を来たさないためであろう。近藤は、変なところで銀行の底力に感動する。
 鈴木刑事と高橋刑事は、テントの脇に立ち、弔問客の顔と態度に目を光らせている。
 近藤と柳原は、二人で一つの、潟Rンドー名義の香典袋を出して記帳を済ませる。
 コンドーにしてみれば、大野川支店長はお得意様である。近藤は、黒いスーツに黒いネクタイをし、流石の柳原も、今日は喪服姿で参列している。
 集会所の建物の中に入ると、漆喰の臭いも真新しい。この集会所、昨日オープンしたばかりで、支店長の葬儀が最初の一般利用だという。
 (第一号の客が支店長か……)
 近藤は、この集会所と大野川支店長の、不思議な関係に思いを巡らす。
 この集会所の建設に使われた足場用の鉄パイプが、荒木田殺害に用いられたものと考えられており、それを使って荒木田を殺したのは、ここに眠る支店長かもしれない。そして、支店長はそれが原因で、何者かに誘き出され、殺害された可能性がある。
 近藤は、『因果』という言葉を思い浮かべるが、すぐにその言葉を頭から振り払う。
 もしも、鉄パイプの出所と、支店長の葬儀場所の一致が、超自然的力のなせる業だというなら、それは、この集会所自体が超自然的意思を持つものであって、オープン翌日に、第一号にふさわしい、盛大な葬儀を入れてやろうと、殺人者に鉄パイプを提供したということになる。
 もちろん、そんな話は荒唐無稽に過ぎる。近藤は、馬鹿げた考えを頭から追い払い、列席者の話に耳を傾ける。
 支店長変死事件は、まだ全てが明らかになったわけではないが、首吊り自殺にみせかけて殺害されたらしい、という趣旨で、既に警察の公式発表があり、マスコミでも報道されている。
 列席者の話に耳をそばだてていると、支店長は、融資先の恨みを相当に買っていたらしい。
 結局のところ、銀行は金融業であり、営利を目的として経営がなされている以上、債務不履行の危険性が高い相手には融資を断るし、返済不能に陥った融資先に対しては、担保物件の差し押さえや、破産宣告などの法的処置が当然のように行われる。
 列席者のひそひそ話によれば、支店長の関ったこれらの行為の結果、倒産に追い込まれた企業も多数あり、中には自殺した経営者もいたようだ。
 「あの『ヒトゴロシ』ってえのも、荒木田殺しとは無関係かもしれんなあ」近藤は、柳原に耳打ちする。「融資を断られたり、返済期限の延長を断られた客が大勢いそうだ。その結果、倒産した会社や、特に、自殺した経営者のリストを作る必要があるね。首吊りで死んでいたのも、別に、自殺を装ったんではなくて、首吊り自殺をした経営者の復讐だから、支店長にも同じ死にかたをさせた、ってことだって考えられる。もしそうなら、踏み台の謎は説明できるんだが」
 「つまり、荒木田とは関係ないかもしれないってことですね」柳原が言う。「でも、普通の業務で恨みを買ったんなら、脅迫されたくらいで、のこのこと三本松まで出て行くかしら」
 「うーん、その業務の内容に、何か後ろめたいことがあったのかもしれないね。返済計画に無理があるのを承知で融資したとか、最初は気前よく金を貸しといて、ある日突然、態度を変えたとか」近藤は考えながらそういうが、すぐに晴れ晴れと言う。「しかし、支店長殺しの犯人を突き止めるのは、警察の仕事だ。それが横領に関係するなら、俺たちの仕事にも関係してくるが、融資先がどうのこうのというような話だったら、我々がタッチする問題ではないな」
 「そうですねえ。こっちの筋は、あまり追いかけても、仕方ないのかもしれませんね」
 焼香を終えた近藤と柳原は、早々に集会所を出る。
 二人の刑事は、まだ入り口のあたりで参列者に視線を走らせている。近藤は、彼等に軽く目礼しただけで、言葉を交わすことなく集会所を後にする。



第六章   クラック
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 七月十八日(水曜日)午後三時、近藤と柳原は東都銀行東京システムセンターを訪問する。
 東都銀行東京システムセンターは千葉県にある。
 最初に千葉県と聞いたとき、近藤は、相当に遠い場所をイメージしたが、コンドーの事務所がある桜が原からは、地下鉄を一回乗りかえるだけで、東都銀行のシステムセンターまでは三十分と掛らない。
 地下鉄の階段を上ると、地上の熱気が襲ってくる。地下鉄の冷房になれた身体には、熱気も心地よいと感じられるが、それも最初だけだ。システムセンターの十二階建てのビルは、地下鉄の出口から目と鼻の先にあるが、炎天下の道路を歩き始めた近藤のアゴからは汗が滴り落ちる。
 「いやー、暑いねえ」近藤は柳原に言う。「車もあんまり通っていないね。こういう暑い日に外出する馬鹿は、あんまりいないんじゃあなかろうか」
 「ここら辺、いつも空いてるんじゃないですか?」柳原は言う。「車なら、クーラー付いてるから楽なんでしょうけどね」
 「鰻屋があるねえ。帰りにご馳走しようか」
 「良いんですかー?」柳原は嬉しそうだ。

 二重の自動ドアを通って東都銀行東京システムセンターのビルに入ると、そこは充分過ぎるぐらいの冷房が効いており、汗を掻いた身体は急速に冷え出す。近藤は、壁の案内板をすぐに見つけ、受付の所在を探す。
 だだっ広いエントランスは、床も壁も黒っぽい石が敷き詰められ、明るい屋外から入った近藤たちには、室内が暗く感じられる。一見無造作に置かれたステンレス製近代彫刻の金属光沢からは、他人を突き放すような、冷たい印象を受ける。
 「十一階だね」近藤はそう言うと、先に立ってエレベータに向かう。
 近藤が押そうとしたエレベータの十一階のボタンの横には、『受付』と大書したプラスチックの板が貼られている。
 「なんだ、案内板なんか見ていないで、さっさと、ここに来れば良かったな」近藤は階数ボタンを押しながら言う。

 十一階の、エレベータを出た先には受付カウンターがあり、笑顔の受付嬢が頭を下げて近藤たちを迎える。近藤が名を名乗り、面会相手である明石の名を告げると、受付嬢は明石主任を電話で呼び出す。
 近藤は、ソファーに腰掛け、煙草を吸いながら、明石が現れるのを待つ。
 柳原は窓に寄り、スモークガラス越しに外の景色を眺める。
 このビルは、十二階建てと、それほど高いビルではないが、回りのビルに比べれば多少高く、十一階の窓からは、かなり先まで見通すことができる。柳原は視線を下に移し、炎天下を歩く人達を真上から観察している。
 やがて現れたセキュリティシステム主任の明石は、髭の剃り跡の濃い、頬骨の張った神経質そうな男だ。
 「応接室へどうぞ」明石はせっかちそうに、歩きながらそう言うと、近藤を奥の応接室に招く。
 「えー、さて、どこからお調べになりますか?」明石は席に着くと、すぐに切り出す。
 「必要なものは、リストアップしてきました」柳原は、持参した封筒から一枚の紙を取り出し、明石の前に差し出して言う。「今回の調査は二つ考えています。まず、桜が原支店から、いつ、どの場所から現金が持ち出されたか、これを詳細に把握したいと思います。このために必要なのが、個別口座の日計表です」
 「これ、もちろん電子可読形式でご希望ですね。媒体はDLTでよろしいでしょうか?」
 「もちろん、計算機で読めないと困ります。DLTは5(ファイブ)まででしたら大丈夫です」
 「使用回数をオーバーしたバックアップテープが大量にありますから、それに入れてお渡ししましょう。テープって、何度も使うと磁性体が痛むといわれまして、一定回数バックアップしたテープは捨てる決まりなんですけど、実際には、まだまだ使えるんですよ。万一読めなかったら、改めてお送りしますけど、まず、そんな心配はありません」
 「ありがとうございます。で、もう一つの調査項目は、前回の調査が、ここ一年間の桜が原支店に限定して行われたのに対して、今回は、過去十年間の全ての支店に拡大して調査したいと思います。データは各支店ごと、月ごとの集計表で結構です。各支店のサムチェックプロシジャーのコードも、毎年のバックアップからコピーしてください。それから、今回の横領は、ここのシステムプログラムに不正な改造を施して、行われているんですけど、こういうことができた人間、つまりは、システムプログラムの内部を知り得た人間のリストを頂けませんでしょうか」
 「これは、過去に遡ってですね。どのくらい遡れば良いでしょうかね」
 「サムチェックを使った集計方法が使われるようになった以降です」
 「サムチェックプロシージャ―は、相当に古くから使われていますよ。二十年までは経っていませんけど、十七〜八年前から使っていたんじゃないかな」
 「それじゃあ、一応二十年分、リスト、頂けますでしょうか。それから、もう一つチェックして頂きたいのが、セキュリティの管理状況です。セキュリティホールはきちんと潰されているのか、簡単にクラックできるパスワードを使われていないか、パスワードは、適当な頻度で変更されているか、などなどです。その他、おかしなファイルがあったり、おかしなプロセスが走っていない、っていうようなことは、定期的にチェックされているんですよね。その検査記録もコピーをください」柳原は、紙に書かれた項目を一つずつ、シャープペンシルの先で示しながら言う。
 「わかりました、監査記録ですね。大至急準備させましょう。このメモ、ちょっと拝借してよろしいですか? ちょっとお待ちください」明石は、柳原が頷くのを見ると、メモを片手に事務所に戻る。
 明石の後姿を見送った近藤は、お茶を一口飲むと、煙草に火を付けて言う。
 「忙しそうな男だね」
 「横領事件があって、セキュリティ主任も大変なんでしょうけど、話が早くて助かりますね」
 「DLTってなんだね。殺虫剤みたいな名前だが」
 「バグを退治してくれる特効薬とか?」柳原は微笑んで言う。「実は、そんなものじゃなくて、カートリッジ式のテープです。少し前に流行った奴で、値段は高いんですけど、信頼性は抜群って奴です。最近は違う方式のテープも、いろいろ出ているんですけどね」
 「銀行は保守的だからな。でも、ウチの機械でそんなテープ、読めたっけ?」
 「田中さんがこさえた、媒体解析システムがあるじゃないですか。古いオープンリール以外でしたら、大抵のテープは、読むことができます」
 柳原の言う『媒体解析システム』は、コンドー事務所の片隅に置かれた特製のパソコンで、フルタワーを三つ連ねたそのケースには、およそ世間で使われている、ありとあらゆる種類のドライブが装着されている。このシステムにインストールされたプログラムは、ドライブに原始的なコマンドを送ることで、少々壊れたファイルも修復しながら読み取ることができる。
 「ああ、あれ。あの機械、計算もできたっけ?」
 「そりゃ計算機ですから、あの機械だって計算できますよ。でも、あれ、コンドーのLANに繋がってますから、あの機械に付いているドライブを、他のマシンから使ったほうが効率的ですね。そのほうが、計算は、全然速い」
 明石は、予想していたよりも早く、近藤たちが雑談している応接室に戻ってくる。
 「ファイルのコピー、頼んでおきました」明石は言う。「一時間ほどかかりそうですので、その間、ウチのシステムでもご見学になりませんか?」
 「見せて頂けるんですか?」柳原は意外そうに言う。
 「そりゃあありがたいですなあ」近藤も嬉しそうに言う。
 「一般見学コースがありますので、ご遠慮なくどうぞ。一時間のコースで頼んでおきましょう」明石はそう言うと、部屋の隅の電話を取り上げて、案内係に近藤たちのめんどうを頼む。「お荷物は、ここに置かれておいて結構ですので、貴重品だけお持ちください」
 扉にノックの音がして、案内係の女性が姿を現す。明石は、案内係と二言三言声を交わすと、近藤に挨拶して事務所に戻って行く。近藤と柳原は、案内係に誘導されて、受付カウンターのほうへと向かう。
 受付カウンターの前には、ビルの模型が置かれている。
 「これがこのビルの模型です」案内係は説明する。「東都銀行は、全国三ヵ所にほぼ同様な施設を持っておりまして、お客様のデータはそれら三ヵ所にコピーが置かれています。ですから、地震などの災害でどこかのセンターが使用不能になりましても、他のセンターが代わりを務めることができます。ビル前面の三分の一ほどの部分がシステムグループのオフィス、うしろ側の三分の二ほどが機械室となっております」
 案内係は、「機械室に参ります」と言って廊下を進む。
 受け付けカウンターの向かい側に、日本全体と首都圏の地図が描かれ、数百の支店の位置に赤いLEDが輝いている。これら全ての支店のデータをこの建物に置かれた計算機が処理していると思うと、近藤はその計算の膨大さに感心し、思わず柳原に洩らす。
 「凄いね、これは。ものすごい量の計算を、ここではやっているんだ」
 「銀行でやっている計算なんて、大した計算じゃありません」柳原はあっさりと言う。「計算量だったら、科学技術関係のほうがはるかに多いし、通信量だったら、電話会社や情報サービス関係のほうが上ですね。ただ、銀行のシステムは、お金が関係するから、信頼性は抜群だと思いますよ」
 案内係は、近藤たちの話を聞き流して先に進み、廊下の突き当たりのスチールドアを開けて、近藤たちを中に招く。
 ドアを入ったところは、ガラス張りの小さな部屋で、左側に階段が続いている。ガラスの向う側にはタンクや送風機、ポンプなどが整然と並んでいる。案内係は、右手を差し上げてガラスの向うの機械を指して言う。
 「十一階と十二階は空調システムが入っております。この建物には多数の計算機システムが設置されておりまして、計算機の消費する電力は、最後には、全て熱になります。この熱を取り去る役を果しますのが、この階にございます空調システムです。この上の階には、冷却水を冷やすための冷水塔が並んでおります。
 案内係は、近藤たちを階段に導く。
 下の階には長い廊下が延びている。廊下の一面の壁は、大きなガラスがはめ殺しになっている。
 ガラスの向うには、電子機器を納めたスチール棚が何列にも続き、赤や緑のランプを点滅させている。
 「ここの計算機は、東都銀行の全ての本支店の計算業務を行っております。全国三ヵ所のシステムは、まったく同じ計算を行い、相互にファイルの一致をテストしています。ですから、最大二ヵ所のセンターが破壊されても、残り一つのセンターが生き残れば、東都銀行は業務を継続することができます。全てのデータは、ディスクアレーと呼ばれる装置に格納されております。これは、ハードディスクを組み合わせて信頼性を高めたもので、一部のドライブが破損しても、残りのドライブからデータを復元することができます。ドライブの破損が生じますと、警報が出ますので、係員が直ちに、破損したドライブを新品のテスト済みドライブと交換致します。ディスクアレーは、システムを止めずに不良ドライブの交換ができるという特徴があります。更に、全てのデータは、ライブラリにバックアップしております。ライブラリはオートチェンジャ付きのテープドライブ装置でして、一年間過去までの毎日のデータと、十年間の毎月のデータが記録され、保存されます」
 「二重、三重のバックアップ体制が取られているってわけですな」近藤が感心したように言う。
 「はい、このようなシステムにより、いかなる災害、故障が起ころうとも、お客様にご迷惑をおかけすることなく、正常な業務が継続できるように致しております」
 「たいしたもんですなあ」近藤は感心して言う。
 「でも、これはある意味、必要最低限の措置なんですよ」柳原は近藤に小さな声で言う。「だって、ハードディスクは時々クラッシュしますから、レイド、つまりディスクアレイにするか、ミラーリングが必要です。地震や火災、貿易センタービルのテロみたいなことを考えたら、ビルも複数持つ必要がありますし、プログラムのバグや、計算機の不正使用といった事故を考えたら、過去のデータも保存しなくちゃいけません。だから、セキュリティを考えれば、この程度のシステムは必要ってことになります。でも、それをきちんとやられているのは立派だし、ここまでやれば、普通、充分ではありますね」
 「三ヵ所も同じものがいるのかな」近藤も小声で柳原にきく。
 「まあ、大抵は二ヵ所で大丈夫なんでしょうけど、それですと、どこか一ヵ所が使えなくなった場合、バックアップシステムがなくなってしまいます。だから、本気でセキュリティを考えるんでしたら、三ヵ所必要なんです」
 「このシステムは、支店ごとにわかれて処理されているんですか?」近藤は案内係にきく。
 「はい、棚の上についている小さなラベルに支店名が表示されています」
 案内係は、近藤たちを廊下の端に導く。廊下の両端には階段があり、案内係は近藤たちを伴い、階段を降りながら言う。
 「このビルの四階から十階までに、同様な装置が設置されています」
 十階から四階まで階段を下るのは、単調で、草臥れる行程だ。近藤たちは、桜が原支店を受け持つブロックを興味深く眺めるが、見たところでは、ほかの計算機の棚と全く変わらない。近藤たちが興味を失ったのをみて、案内係は、途中で近藤たちをエレベータに導き、三階のボタンを押す。
 三階は、手前がコンソールルームだ。半円状に大きく湾曲した長い机にディスプレーが並び、何人もの職員が画面を眺めてキーボードを操作している。このビルの全ての計算機は、このコンソール卓で制御されているという。
 案内係は、近藤たちをコンソールの向こう側へと導く。
 三階フロア―の奥には、何列ものデスクが並び、多くの職員がそこに置かれた端末に向かっている。ここでは、システムプログラムの改良や、各種のデータ分析を行っているという。
 柳原は、その光景を大学の計算機実習室のようだと思う。但し、大学の計算機実習室は、いつも満員で、柳原が端末を使おうとするたびに、端末を使っている他の人が作業を終るのを待たなければいけなかった。ここの端末は、半数近くが空いており、誰でも待たずに作業ができそうだ。
 「端末が空いていて良いですねえ。大学の実習室とはエライ違いです」柳原は、うらやましそうに言う。
 「あたりまえだ。端末が空くのを待ってる奴に給料を払うくらいなら、端末を増やしたほうが経済的だろう。ウチの事務所だって、そうしているさ」
 近藤たちがコンソール卓を眺めていると、奥の端末を操作していた明石が近藤たちに近付いて言う。
 「テープのコピー、もうすぐ終ります。見学は、あと、下だけですね。十五分といったとこかな。見学が終られた頃、上にテープをお持ちしますんで、応接室でお待ちください」
 柳原は、明石に、いくつか技術的質問をする。その質問のいくつかには、明石自身が答えるが、明石の手に余る質問に対しては、明石は、別の技術者を呼んで答えさせる。柳原は、今度はその技術者に別の質問をぶつけ、しばしの間、議論を続ける。
 近藤は、柳原が無礼な議論をしないかと、はらはらしながら柳原たちをうしろで眺めているが、議論は純粋に技術的なもので、先方の技術者も、議論を楽しんでいるようにみえる。
 やがて、柳原も満足し、技術者に礼を述べて別れる。
 近藤も明石に礼を言い、案内係に促されて階段を下る。
 機械室側には、二階のフロア―はない。機械室の一階と二階は吹き抜けになった天井の高い部屋で、大型の印刷機が何台か置かれ、ものすごいスピードで印刷を続けている。
 「これは何を印刷しているんですか? 証書類でしょうか?」
 「証書類は別のところで印刷しています。ここでは、お客様への残高通知を印刷しております。封筒に入れて封をするところまで、全て自動で行いますので、お客様のプライバシーも、保たれます」
 近藤たちは、案内係に導かれて廊下に出、エレベータに向かう。
 「事務所のほうも御覧になりますか?」
 近藤が頷くと、案内係は事務所の扉を空けて内部を近藤たちに見せる。事務所には、ゆったりとデスクが並び、その一つ一つに大型の液晶ディスプレーが置かれている。デスクは全部で五十ほどある。
 「この施設、何人ほどの方がおられるんですか?」近藤が尋ねる。
 「二百人少々です」
 案内係はそう答えると、近藤たちをエレベータに乗せ、地下一階のボタンを押す。
 地下一階は天井の高い大きな部屋で、発電機、タンク類、ボイラー、焼却炉などが設置されている。
 「奥にあるのが電源でして、落雷などの電源異常に備えました安定化装置、瞬停に備えた二次電池、および、ディーゼル発電装置があります。その他は、ビル全体に温水を供給するボイラーと、焼却炉などがあります」
 「焼却炉? ははあ、このビルで出た反故は、ここで燃やしてしまおうってことですね」近藤が言う。
 「ええ、お客様の秘密情報を印刷した紙が多いですので。もちろん、焼却によって発生した熱も有効利用しておりますし、排ガスは完全に無公害化の処理がされています。さて、そろそろお時間ですので、応接室のほうに戻りましょう」
 近藤たちは、エレベーターで十一階に上がり、応接室に戻る。

 応接室では、明石が神経質そうに貧乏ゆすりをしながら、もう一人の男と話し込んでいる。近藤たちが応接室のドアを開けると、明石は会話を中断して立ちあがり、近藤たちを迎えながら言う。
 「ちょっとまずいことがわかりました」
 「何かありましたか?」近藤が尋ねる。
 「パスワードのいくつかは、ここ十年以上変えられていません。一番古いものは、十八年前に変更されたきり、現在に至るまで、一度も変更されていません」
 「それは、システム管理用のパスワードですか?」
 「ええ、それだけを調べましたんで。ですから、昔、システム管理に関った人間なら、現在でも、システムをいじることができてしまいます。このリストの人間が、横領事件に関与している可能性があります」明石は、ホチキスで綴じた数枚の紙を近藤に差し出して言う。
 「あ、職員リストですな」近藤は言う。
 「サムチェック手続に関係した人が誰か、わかりますか?」柳原はきく。
 「そうおっしゃられると思いまして、サムチェック関係者は赤字で印刷しました」
 「えー、この犯行、以前ここに勤めていた者の仕業だという可能性もありますし、現在も勤務している内部の者が関与したという可能性もあるんですが、これらにつきましては、名簿から調査を進めると致しまして、それ以外に、外部の者がやったっていう可能性はどうでしょうか。クラッキングソフトでクラックできるようなパスワードが使われていたら、たまたま電話で接続したクラッカーに侵入されてしまうかもしれませんから」
 「あ、それは、多分大丈夫です。といいますのも、パスワード設定時に、クラッキングソフトでチェックしているんですよ。もっとも、使っておりますクラッキングソフトで破れないからといって、絶対大丈夫という保証はありませんけど。それから、ファイルとプロセスの検査記録は、テープにコピーを入れておきましたけど、異常は一度も見付かっていません。セキュリティホールも、きちんと対策をしているようです。まあ、パスワードの一件を見逃していたこともありまして、監査のあり方自体に問題があるかも知れません。このあたりは、コンドーさんがお詳しいと思いますので、監査基準書も、テープに収めておきましたので、見直しをして頂ければ幸いです。さて、そんなところでよろしいでしょうか。いま、彼とも話していたんですけど、パスワードの変更を、大至急、致しますんで。あ、それからこれがテープです。ちょっと量がありますけど、大丈夫でしょうか」
 明石はそう言うと、十数巻の正方形をしたテープカートリッジを紙袋に入れ直し、柳原に手渡す。柳原は、紙袋のあまった部分を小さく折り畳んでバッグに入れる。バッグはパンパンに脹れたが、なんとか蓋を閉めることができる。
 「柳原君、そんなところで良いかな?」近藤は、柳原が頷くのをみて、明石に応える。「いやあ、本日はお忙しいところ、どうも、ありがとうございました。あ、そうそう、こんど、桜が原支店にもお邪魔しようと考えているんですけど、担当の方はどなたになりましたでしょうか。以前、我々は、亡くなられた支店長さんとお話しさせて頂いてたんですが」
 「黒田です。彼は、以前から、桜が原支店長の下で、横領事件調査を担当していました。現在、彼は、支店長代行も務めております。近藤さんが行かれたらきちんと応対するよう、こちらからも、話を通して置きましょう。あ、それから、ちょっとお待ちください。センター長が近藤様にご挨拶したいと申しておりましたので」
 明石は、応接室の隅にある電話機を手に取って二言三言話したのち、近藤に向かって言う。
 「センター長、すぐにまいりますので、少々お待ちください。私は、申し訳ありませんが、これで失礼致します」
 明石はそう言うと、もう一人の男と連れ立って、応接室から出て行く。

 やがて、ドアが開いて、女性がアイスコーヒーを三つ、近藤たちの前に並べる。そのあとに、見知らぬ長身の男が入ってくる。
 男は、センター長の西と、自己紹介する。
 近藤と柳原は席を立ち、挨拶をして名刺を交わし、西に奨められるままに、再び席に着く。センター長は、近藤に深々と頭を下げて挨拶をした後、本題に入る。
 「今般、警察のほうから先生方に調査をお願いしたいが、というお話がございましたが、手前どもの不祥事に、そこまで警察のお手を煩わせるわけにはまいりません。近藤様には、前回、調査をお願いした経緯もございますので、それなら我々から改めてお願いしようということとなった次第でございます。なにとぞご調査のほう、よろしくお願い致します」
 「いえいえ、こちらこそ一つよろしくお願い致します。私どもも、御社からご依頼頂いたほうが、前回調査との継続という意味で、やり易うございます。今回の調査に付きましては、前回の調査で、不正行為の手口がほぼ明らかになりまして、最近一年の、御社の桜が原支店で行われました不正操作の被害総額も、ほぼ把握できております。そこで、今回の調査では、犯人の手掛りが得られるよう、まず、桜が原支店からの現金持ち出しが、いつ、どこから行われたかを特定したいと考えております。もう一つは、調査の範囲を広げまして、桜が原支店以外では不正がなかったかどうかを調べると共に、過去のデータも解析致しまして、この不正行為がいつ頃から行われたかも明らかにしたいと考えております」
 「手前どもと致しましても、犯人に付きましては、是非、明らかにして頂きたいと考えております。銀行は信用を旨と致しますんで、行内に犯罪者がいたというお話はあまり頂けないんですが、やられてしまったものは致し方ございません。犯人と被害総額が明らかになりましたら、損害を回収する措置を、きちんと取らせて頂きます」
 「それは当然のことでしょうなあ。その上、この犯人、御社の支店長さんを殺害している可能性もありまして、警察のほうでも、必死に探しているところです」
 「殺人は、横領とは無関係かもしれないと、私どもは考えておるんですがねえ。銀行というものは、所詮、金貸し商売でございまして、人様に恨まれる局面も多数ございます。中には、あらっぽい人達もおるんですよ」
 「まあ、殺人事件のほうは、警察が取り組んでおりますので、いずれ真相は明らかになるでしょう。我々の役割は、横領事件の報告書を警察にお出しする所まででございまして、あとは先方さんで取り調べて頂くことになるものと存じます」
 「横領犯が人まで殺しているとなると、もはや処置なしですが、私ども、単なる横領だけでしたら、あまり事を荒立てずに済ませたいと考えておるんですよ。これまでに判明致しました被害総額も、千八百万円でして、まあ、弁済不能な額ではございません。横領は、おそらく、行内の者が関与していると思うんですが、前途ある優秀な人間を社会から葬り去るような真似は、私ども、あまり致したくないんですな」
 「はあ、おっしゃることは御立派だと思います。しかし、これは警察の判断する事柄でございますから……」
 「ああ、いや、もちろん左様でございますとも。近藤様には、まず、真相を明らかにすることに注力して頂ければ結構です。それでですね、今回の一件で、行内の監査システムに相当な問題があることが判明致しまして、この事件が片付きましたあとも、近藤様には、いろいろと見て頂けないかと考えておる次第でございます」
 「ははあ、監査の仕事ですな。それは、ウチにとりましても、願ってもないお話です」
 「その代わりといっちゃなんでございますが、いくつかお願いがございまして」
 「どういうことでございましょうか? 予め申し上げておきますが、コンドーと致しましては、警察との間の信頼関係を壊すわけにはいかないという事情がございますことを、ご承知おき頂きたいんですが」
 「もちろん、近藤様にご迷惑はおかけ致しません。それで、お願いと申しますのは、えー、一つは、近藤様の調査を、特に、報告書に記載する内容を、横領事件に限定して頂きたいということです」
 「あ、もちろんそう致しますが?」
 「えー、例えばのお話ですが、例えば、近藤様が調査の過程で、万一、仮に、脱税などに気付かれましても、そういった事実を指摘したり、あるいはそれを示唆する類の記述は、報告書には、含めないで頂きたいんでございます」
 「それは、警察も、納得ずくではないかと思いますが。つまり、今回の調査で知り得た情報は、横領事件と、支店長殺害事件の捜査以外には使用しないという覚書が交わされておりますからな」
 「はい、たしかに、そのような覚書は交わさせて頂きました。しかし、公序良俗に反する契約は無効です。公務員には、犯罪を発見したとき、これを通報する義務がございまして、近藤様の報告書にこれらの事件以外の犯罪行為に関る記述がなされますと、それを読んだ警察官が、この覚書の趣旨に従って行動してくれるかどうか、極めて疑わしいと考えております」
 「それはちょっと、ひどい話ですなあ」
 「まあ、私ども、最初から反故にするつもりで、警察が覚書にサインしたとまでは思っておりませんが、いざその場に立てば、そのような行動もあり得るのではないか、と危惧致しておる次第です」
 「なるほど、わかりました。西様のご懸念は、よく理解できます。余計なところを突つきまわさないよう、注意して調査することに致しましょう」
 「余計なご心配をおかけして、まことに申し訳ありません」
 「まあ、我々、いろいろ、調査をしておりますと、御依頼主様の違法行為は、ちょくちょく目にするんですよ。しかし、守秘義務がございますんで、そういった情報は、一切、表に出してはおりません。今回の調査は、警察への情報開示義務がございます点が、普通の調査と異なっておりまして、危ない情報を私どもが持ちました場合、警察に要求されれば、それを出さざるを得ません。まず、そういった情報を我々が持たないよう、情報を出される際には充分ご注意ください。まあ、後で気付かれた場合にも、頂いた情報をお返しして、最初から頂かなかったことにするぐらいのことは、ご協力致します」
 「お心遣い、申し訳ありません。重ね重ねのお願いで恐縮ですが、もう一つのお願いは、犯人がわかりました際、我々に、警察より先に教えて頂きたいということでございます」
 「うーん、これはどうでしょうか。報告は、御社と警察の双方にすることとなっておりますし、逃亡などの恐れもございますんで、犯人がわかりましたら、直ちに警察に連絡するというのが、あるべき姿だと思いますが」
 「えー、これはけして事件をもみ消そうといったことではございません。警察の方にきちんと届けて頂くのは、もちろん結構なんでございますが、仮に私どもの行員が横領を働いていたとして、これを穏便にすませるためには、弁済の意志を確認して、返済計画を立てさせなくてはなりません。その前に、逮捕されたり致しますと、本人が反省して弁済を望みましても、事実上、弁済が不可能になりかねません。これでは、私どもも困りますし、当人の罪状も重くなってしまいます。僅かな時間でも結構ですから、警察に通報する前に、私どもにご連絡を頂くというわけにはまいりませんでしょうか。覚書でも、近藤様が、私どもと警察の、双方に報告するとの規定はございますが、どちらを先にということに関しましては、特段の定めがございません。犯罪を犯しました者を更生させ、犯罪による損失を最小限に抑えることも、我々社会人の務めではないかと考えておるのですが」
 「たしかに、時間関係の規定まではございませんなあ。わかりました、御社の行員が事件に関与していることが判明致しましたら、警察より先に、御社にご連絡することと致しましょう。但し、長くても一〜二時間程度ですよ。まあ、警察も、連絡を受けてすぐには動けんでしょうから、それでも、半日程度の余裕はできるんじゃないでしょうかね。但し、こちらが情報を流してから警察が逮捕するまでの間、犯人に逃亡、自殺などをされないよう、責任を持って動いて頂けませんか」
 「それは勿論のことでございます」
 西センター長は近藤の条件を快諾すると、別れの挨拶をして、近藤たちをエレベータまで見送る。
 その途中、西が受付嬢に耳打ちをすると、受付嬢は西に封筒を渡す。西はその封筒を、エレベータの扉が開いたとき、近藤に渡す。
 「本日は、お構いもできず申し訳ありません。これで一つ御容赦を」エレベータのとの向うで、西は深ぶかと頭を下げて言う。「事件が片付きましたら、また、改めてお願いに伺いますので、その時は、ひとつ、よろしくお願い致します」
 近藤が、中身を理解しないままに封筒を受け取り、西に応えて頭を下げている間に、エレベータの扉が閉まる。
 エレベータが下降する間に、柳原は近藤に尋ねる。
 「今の封筒、なんですか?」
 近藤は、封筒の中身を取り出す。そこには、五百円という大きな文字と細かい文字が多数書かれた券が十五枚入っている。
 「おしょくじけん、ですね」
 「この食券、鰻屋でも、使えるかなあ?」近藤は小さい字に目を走らせながらそう呟く。

 

 近藤たちが東都銀行東京システムセンターを辞したのは午後五時を少し回ったところだ。この時期、午後五時は、夕刻とはいえ、まだ昼間のように明るくて暑い。
 近藤は柳原をうなぎ屋に誘う。来る時に目をつけておいた店だ。店員に確認すると、西から貰った食券は、この店でも使えるという。
 店は、まだ、がらがらだ。普通の人は、まだ仕事をしているのだろう。
 柳原ががっかりしたことに、この店にはうな丼がない。うな重の松、竹、梅があるばかりである。近藤は、しばし暗算をした挙句、うな重の松を二人前とビールを二本、それに、お新香と焼き鳥を注文する。柳原は、御飯を大盛りにしてもらう。
 普段、松、竹、梅とあれば、迷わず竹を注文する近藤だが、こんなところまで、何度も来る機会があるとも思われず、食券を余らせても仕方がないと考えての松の注文だ。近藤の計算では、これだけ頼めば、ほぼ、食券の七千五百円が消えることになる。近藤の胃は、さほど丈夫ではないが、柳原の健啖ぶりを考えれば、このくらいは片付けることができるだろう。
 「うな丼とうな重は、どこが違うんだね」近藤は柳原にきく。「丸と四角の違いぐらい、どうでも良いんじゃないか。重箱だと、角のメシ粒が取り難いけどね」
 「うな重って、御飯が少ないじゃないですか。それで、たいてい、汁が掛りすぎている」
 「往きに見た時は、丼みたいなのがショーケースにあったけど、あれは、ランチメニューかな? 夜は、高級感を出すために重箱を使うのかもしれないね」
 「意味ないですねえ」
 「ま、食券が使えて助かったね」
 「まずい約束をしたんじゃなければ良いけど」
 「東都銀行ともあろうものが、この食券に、そうそう大きな見返りを期待しているはずはないさ。ま、『わざわざ来て頂いてありがとう』ってくらいの意味だと思うね。どっちにしたって、公序良俗に反する契約は無効だ。警察との約束に反すると我々が判断したら、その時点で、警察との約束を優先する。その結果、東都銀行からは、今後の仕事が貰えなくても、それは仕方がない。だが、食ったもんは頂きだ。まさか、この食券返せとまでは言わんだろう」
 「あはは。でも、ここの監査、相当大きな仕事なんじゃないですか? ウチの手に負えるのかしら。それに、管理も、随分、いい加減みたいだけど。十年以上もパスワードを変えていなかったなんて、噴飯モノだわ」
 「病気があるから医者がいるんだ。あまりキチンとやられてたら、俺たちの出番はないさ。ここの監査は、全部引き受けたら、そりゃ大変だろうけど、さしあたり、できる範囲で引き受けて、仕事が軌道に乗ったら調査員を増やせば良いさ。ウチだって、もう少し大きな会社になったって良いんだ。そうなりゃ、給料だって、もっと払えるよ」
 「いいですねえ」
 「まあしかし、過大な期待は禁物だな。東都銀行ともあろうものが、俺たちみたいなちっぽけなところに、そうそう、仕事をまわすわけはないと思うよ。まあ、今回みたいな、使途不明金の調査でも、時々回してくれたら御の字だね」
 「そんなもんですかねえ。でも、まあいいや。少なくとも、この、鰻は頂きだもんね」

 うな重を待つ間、柳原は、システムプログラムに関与した職員のリストを眺める。
 リストは、最初に現在の職員リストがあり、そのあとに、退職した職員のリストが年代別に過去に遡って続いている。リストには、氏名と業務内容に続いて、現在の連絡先が記載されている。
 不正に利用されたサムチェック手続に関与した人は、赤い字で名前が印刷してあるが、最初のほうには、ほとんど出てこない。サムチェック手続が作られたのは十八年前で、その当時は多くの職員がこれに関与したが、その後は、誰もこのプログラムを扱っていないということであろう。
 「あれ、大野川ってのがいますね」柳原がリストを指差して言う。「女性の名前だけど、住所、桜が原ですよ。十六年前に退職しているんだけど、支店長の奥さんかも知れない」
 「その住所は現在のものか?」
 「ええ、住所などに変更があった場合は、わかる範囲で、アップデートしている、って言ってました」
 「支店長夫妻は、社内結婚、ってことかな?」近藤は、手帳を取り出して頁をめくる。「あ、電話番号も合っているね。支店長の奥さんに間違いない」
 「この人がやったのかしら?」柳原はポツリと言う。
 「支店長と共犯ってことか?」近藤は懐疑的だ。「被害総額は千八百万だったよな。あの支店長がそんなつまらない犯罪を犯すかね。銀行の支店長っていったら、年収だけでも、それ以上あるはずだからな。ばれたら全部パーだぜ」
 「ああ、それであの支店長さん、変なことを言ったのね」
 「なんか言ったっけ?」
 「あの支店長さん、私が被害総額をお話ししたとき、『千八百万円ね。多いというべきか、少ないというべきか』って言ったんですよ」
 「ははあ、なるほど。つまり、千八百万円は大金だけど、銀行内部の者が不正を働くにはつまらない金額だと、支店長はそう言いたかったんだな。俺はまた、ハムレットの台詞に引っ掛けた、へたくそなジョークかと思ってた。Too big, or not so big とかね」
 お新香とビールが運ばれる。
 「ぷはー」仲居さんの注いだビールを、近藤は一気に飲み干す。「暑い日のビールはうまいねえ」
 柳原は、きゅうりの漬物を一つ口に放り込むと、ビールをちびりと飲んで言う。
 「しかし、銀行の外部の人に、現金が持ち出せるかしら?」
 「そりゃあ普通は無理だろう。そんなことができるんなら、何も、計算機に操作を加えなくても、いくらでも現金を持ち出せば良いじゃないか。銀行強盗なんて手間の掛ることも、する必要がない」
 「つまり、割に合うか合わないかは別として、あの犯行は内部の者だってわけですよね」
 「その可能性は高いね。それに、絶対にばれないという自信があれば、犯人が、この犯罪は割に合うと考えても不思議ではない」
 「東都銀行桜が原支店の人間、ってことになると、ずいぶんと限られた人になりますよねえ」
 「その、職員リストも、容疑者を絞るのに使えるかな?」
 「計算機を不正に操作した人は、おそらく、この職員リストに名前が載っている人です。たしかにパスワードの管理が甘いですから、外部の人でも、長い年月の間にはクラッキングできたかもしれません。だけど、かりにクラッキングが行われたとしても、あのプログラムをいじることは、普通の人には無理なんじゃないかと思います。なにしろ、三ヵ所のシステムセンターに同じプログラムがあって、結果をチェックしているわけですから、いじるとすれば三ヵ所同時にやらないといけませんし、新旧プログラムの切り替えにも特別な操作が必要になります。瞬間的にシステムを止めないと、プログラムの切替えはできないんですよ。そんなことって、普通、外部の人間にはできません」
 「既に退職した職員がやったという可能性はどうだろう? 例えば、大野川夫人に、この犯行は可能だったんだろうか?」
 「それはあり得ます。その場合、在職中に、サムチェック手続に合計を操作する機能を潜り込ませておいたんですね」
 「十八年前にそんな細工をしていたということか? そして、十年以上も経ってから、その細工を使って、横領を働いたってことか? たまたま、パスワードを変更しないというミスがあったから、横領が可能だったわけだけど、そんなこと、普通、期待できないだろう」
 「サムチェックの合計値の操作、そもそも、横領目的ではなかったのかも知れませんよ」
 「こんな不正な操作、普通の経理処理でするか?」
 「あまり合法的じゃない経理操作を目的としていたのかもしれません。例えば、脱税とか、裏金造りとか……」
 「おいおい、銀行がそんなことをするのか?」
 「あの、西とかいうセンター長の口ぶり、いかにも、なんかやってるみたいだったじゃないですか。この鰻も、そのおかげなんじゃないですか?」
 「そういえばそうだったな」近藤は考えながらいう。「彼の態度は、明らかに不審だった。しかし、脱税を例にして、気付いても報告書に入れてくれるなと頼まれたんだが、脱税していて、あんなこと、言うかなあ」
 「銀行が脱税している可能性は少ないと思いますよ。もし脱税だったら、千八百万なんてけちな金額じゃあないはずですから、サムチェックを使うやり方では、対応できないんじゃないかと思いますよ」
 「この方法、あまり多額の誤魔化しはできないってことか?」
 「ええ、期末に、雑損失に計上されますから、あまり巨額の不正は不可能です」
 「するってーと、考えられる不正は、どういったものかな?」
 「政治家か総会屋に渡すための、裏金を作っていた、ってのが正解じゃないですか? 結果的に、脱税にもなっているかも知れませんけど」
 「もしそれが本当なら、東都銀行の一大スキャンダルだね。そんなことが明るみに出るリスクを犯すぐらいなら、千八百万ぐらいの横領は、闇から闇に葬ってしまいたいだろう。しかし困ったね。横領がサムチェックを使ってなされたことは、前回の報告書に書いてしまったわけで、あれ、既に警察にも渡ってしまったんだよね」
 「まあ、適当にぼかす、って手はあるでしょうけど」
 「ぼかすって、どうやって?」
 「つまり、システムプログラムをよく知っている人で、システムにアクセスできる人なら、サムチェック手続に細工を加えることができたって前提で、警察に渡る報告書は書くんですよ。それは、嘘じゃないでしょう」
 「まあ、たしかに、横領犯は、サムチェック手続に細工したわけだからな。君の話が本当なら、銀行側で細工した分もあるはずだが、それは、銀行にしてみれば、業務の一環というわけだ」
 「そう。法律に触れるかどうかは別としてね」
 「しかし、過去分を解析したら、銀行が細工した分も、横領被害額に含まれてしまうぞ」
 「まあ、サムチェックが作られたのは十八年前で、私がもらったデータは十年分ですから、これの解析からは、銀行の細工分は出てこないかも知れない。パスワードを変えていなかったのも、この機能、もう何年も使っていないからじゃあないでしょうか」
 「まあ、厳密にいえば、ちょっと問題かも知れんが、銀行の操作分が少々出てきても、みんな、横領犯がやったことにしても良いわけだ。実務上は、それで通るだろう。俺たちも、すっ惚けて、サムチェックの細工は、みんな横領犯がやったことにしておくか。うん、それが現実的な、大人の対応ってもんだろう。まあ、銀行の連中にも良識ってものがあるはずで、先方さんで、被害総額を削ってくれるかも知れない」
 「それにしたって、銀行の犯罪には目をつぶるわけですね。悪事を見逃すのは、正義にもとる行為だとは思いますけどね」
 「探偵事務所は、依頼主の利益を第一に考えなくちゃならないんだ。それが俺たちの正義ってもんだ。俺たちは、公務員じゃあない。調査事務所のコンドーは、営利を目的とした企業なんだ。お客様は神様です、って言うだろう」
 「そうすると、依頼主が、警察じゃなくて東都銀行さんだったってのは、大きな違いになったわけですねえ」
 「そうだねえ。警察が俺たちに依頼するのを止めさせたのは、銀行にしてみれば大ヒット、それを仕組んだ奴は表彰もんだな」
 「この、横領事件の調査は、銀行にしてみれば、綱渡りみたいなものかもしれないわね」
 「ま、とにかく、君の案でいこう。サムチェック手続に細工を加えた人物は、システムプログラムを熟知しており、かつ、システムにアクセスできた人物であるってことを前提にするわけだ。元々銀行が準備していた機能かどうか、って点には触れないでね。で、さしあたり怪しいのは、その職員リストに載っている人物だから、それ、警察に渡して、一人一人、調査してもらおう」
 「はいはい、焼き鳥、手羽焼きでございます」
 二人の前に、焼き鳥の皿が運ばれる。大ぶりの手羽が、色よく焼かれ、全体に掛けられたタレが、てかてかと光っている。
 柳原は、焼き鳥を眺めて、しばし会話を中断するが、仲居が離れると、涎を飲み込んでから、話し始める。
 「職員リストに載っている人と、桜が原支店の内部の者、その双方が組み合わさるケースって、そんなにないんじゃないでしょうか」
 「現在判明している組み合わせは、支店長夫妻だね。しかし、それ以外にないとは断定できない」近藤は、焼き鳥の皿の端に、七味唐辛子を盛りながら言う。「同じ銀行の行員同士なら、同期入社とか、同窓とか、転勤で一緒になるとか、いろいろな形で、つながりを持つ可能性がある。社内結婚だって、支店長以外にも、何組だってあるだろう」
 「それにしても、支店長夫人がこの事件に関っている可能性は、相当に高いんじゃないでしょうか。システムセンターでサムチェックをやっていた人が、桜が原支店の近くに住んでいて、支店長夫人をやっているんですからねえ」
 「たしかに。支店長夫妻の身辺調査は、重点的にやるべきだろうね。そもそも、あの支店長の周辺、最初から、ぷんぷん臭っていたんだ」
 「そっちはどうかしら。支店長の奥さんがサムチェックに手を加えた場合でも、組んだ相手が支店長とは限らないんじゃないかしら。支店長夫人で、地元に住んでいるわけですから、支店長以外の支店の人達とも付き合いがあったはずですよ。そういう人達の誰かと組んでいたかも知れません。行員の誰かと不倫していた、とかね」
 「事件の陰に男あり、か」近藤は考えながら言う。「しかし、あの奥さんに間男がいたとは、考えにくいなあ」
 「好みは人それぞれですからねえ。支店長が殺されたんだって、三角関係の縺れが原因かもしれない」
 「不倫の挙句、邪魔な夫を自殺に見せ掛けて殺してしまった、ってのは良くある話だ。しかし、この状況下で自殺すれば、横領犯であると疑われるんじゃないかね。その場合、計算機をいじったのは夫人に違いない、と誰でもそう考えるんじゃないかね。いくら色恋に狂っていたとしても、そこまで分別を失うとは、考え難いがなあ」
 「支店長と奥さんが組んで横領してたんなら、話は簡単ですね。その場合、支店長は、いよいよ自分たちの犯行が隠し通せないと覚悟を決めて、自殺したんです」
 「しかし、支店長以外の人間がロープを準備したという点と、踏み台がなくなっている点はどう説明するんだね」
 「支店長は誰かに頼んでロープを準備してもらったんです。踏み台は、誰かが持っていってしまったんです。踏み台だって、買えば結構な値段、するんでしょう?」
 「人が首を吊っている横で、踏み台を盗むか? えらくブラックな状況だなあ。まあ、あり得ないとは言えないが」
 「あ、踏み台は、支店長が来る前に盗まれたのかもしれませんね。支店長は、頼んでおいた踏み台がないんで、仕方なく、松の木を登って、首に縄を掛けてから飛び降りたんです」
 「松お待ちい」男の店員が重箱をテーブルに置く。「肝吸い、今、来ますんで」
 「でも、支店長の手は綺麗だったといってただろ。木登りした形跡はないと」近藤は山椒の入った竹筒の栓を抜きながら言う。
 「ウエットティッシュかなんかで手を拭いていたのかも」柳原は、大盛り御飯の具合を確認しながら言う。
 「自殺する奴がそこまでやるか? それからもう一件、支店長が自殺じゃなさそうだというのには、例の脅迫メイルがある。あれはどう説明されるんだね」
 「そうですねえ。支店長が横領がばれそうになったんで自殺したって話には、脅迫メイルは入ってきませんねえ。一方、誰かが支店長を脅していたことも確かで、それは、どうやら支店長が誰かを殺していたようだ、もしかすると荒木田さんを殺したのが支店長なのかも知れないと。それで、支店長は脅迫者に会いに、三本松に行ったのよね。で、そこはたまたま、支店長が誰かに頼んで、自殺するためのロープを用意していた場所だったって。あー、駄目駄目。そんな偶然の一致って、まず、起こりませんよねえ」
 「だろ、だろ。支店長の死が殺しなら、わりかし説明がし易い。つまり、支店長に横領の罪をなすり付けて殺そうとした奴がいて、そいつが偶々、支店長の荒木田殺しを知ってしまったんだな。で、それをネタに支店長を脅して、三本松までおびき出して殺してしまった、ってわけだ。自殺に見せかければ、横領したのは支店長、ってみんな思うじゃないか。それなら話が通るだろ」
 「その場合、夫人は関係ないかも知れないですね。夫人が怪しいんじゃないかと、せっかく、目星を付けたのに、また、振り出しに戻るわけね」
 「しょうがないだろう。捜査ってものは地道にやるしかない。君は、そのテープのデータから、横領犯を割り出す。そうすれば、この事件は解決だね」近藤は、柳原の膨らんだバッグを指差して言う。
 「それは、頑張ってみます。最初からそのつもりですから」それだけ言うと、柳原は、いよいよ本格的に、うな重に取りかかる。

 

 翌七月十九日の午前十時、鈴木刑事と高橋刑事が、コンドーの事務所を訪ねる。エミちゃんはふたりを応接室に案内する。
 応接室で、コーヒーを飲みながら新聞を読み、うつらうつらしていた近藤は、ふたりの刑事の訪問に、目を覚まして瞬時に体勢を立て直すと、ふたりに席を奨める。
 「新しいの持ってきますから」エミちゃんはそう言って、近藤の飲みかけのコーヒーカップ持ち、応接室を出て行く。
 「昨日、東都銀行のシステムセンターに行かれたとか」鈴木刑事は訪ねる。「何か、わかりましたでしょうか」
 「ああ、詳しいことは、柳原から説明させたほうが良かったんですが、まだ出社しておりませんので、私から、概要をお話しましょう」そう前置きをして、近藤は昨日の訪問内容を掻い摘んで話す。
 近藤の話に対して、鈴木刑事は何か質問をしたい様子だが、ちょうど、エミちゃんがコーヒーを持って応接室に入ったのを見て、鈴木刑事は口を塞ぐ。
 近藤は、逆に、コーヒーをサービスするエミちゃんを見て、閃いたように言う。
 「あ、そうそう、これも議事録が要るんでしょうか?」
 「そうですね、報告して頂いたほうが良いでしょう」
 「エミちゃん、悪いけど、記録係をお願いできないかね」
 「はい、ちょっと、ノート、持ってきますね」
 「あ、そうそう、職員リストをお渡ししましょう」
 近藤はエミちゃんと連れ立って事務所に戻ると、昨日手に入れた、東都銀行のシステムプログラムに関係した職員のリストをコピーする。
 近藤たちが応接に戻ると、鈴木刑事が改まって言う。
 「それでは、これより、東都銀行横領事件に関る打ち合わせを開催させて頂きます。議事録のほう、ここから、よろしくお願いします。出席者は警視庁から、私、鈴木と高橋の二名、株式会社コンドーより、近藤社長、近藤エミ事務員の二名の参加です。それでは、第一の議題、コンドー側の調査結果について、近藤社長よりお願い致します」
 「えー、私ども、昨日、東都銀行東京システムセンターを訪問致しまして、各種調査を行いました。第一に致しましたことは、桜が原支店における現金の持ち出しが、いつ、どの場所から行われたかを調べるための、詳細データでございまして、これを解析するための元データを磁気テープの形で入手致しております。この解析に付きましては、本日以降弊社にて行い、結論が出次第、東都銀行桜が原支店さんをご訪問して、該当時刻、場所において現金を持ち出すことのできた人物を特定する計画です」
 「その解析、どのくらいの時間が掛りますか?」鈴木刑事がきく。
 「今日中に終らせると、柳原は申しておりました。先、よろしいでしょうか?」
 「お願いします」
 「えー、第二に、前回の調査は、昨年一年間の桜が原支店における現金持ち出しについて行ったものでしたが、場所と期間を、過去十年間にわたる全支店に拡大して解析するため、その元となるデータを入手致しました。これに付きましては、先ほどの解析に引き続き、実施する計画でございます。解析所要期間は二日程度と予想しています。ここまで終りましたら、中間報告を作製し、関係者に、お届け致します」
 「よろしくお願いします」
 「第三に致しましたことが、システムプログラム、特にサムチェック手続に不正な操作を施した者を特定する作業です。このプログラムは、外部から操作を施すことは極めて困難と考えられ、システム製作に携わった人間の関与が疑われています。頂きました、関係した職員のリストにつきましては、警察にもコピーをお渡しし、身辺調査などを行って頂きたいと考えております」
 「これ、サムチェックに関与した職員の大部分は既に退職しているようですが、彼等に付いても調べる必要がありますか?」
 「ええ、パスワードが長年にわたって変更されていないという問題も見出されまして、過去の職員でも、不正な細工は可能な状況でした。なお、これらの人物が、直接操作したかもしれませんが、他の者に情報を流しただけであるかもしれません。それからもう一点、今回の犯行は、システムプログラムに対する細工と、桜が原支店からの現金持ち出しという二つの要素で構成されております。このリストの人物は、システムプログラムを細工できた人物のリストでして、これと、桜が原支店から現金を持ち出せた人物との接点を探さないといけません」
 「共犯者がいるだろう、ということですね」
 「そういうことです。我々も昨日、一つ、可能な組み合わせを見付けています。それは、大野川支店長と、その夫人です。ご夫人、東都銀行に勤めておいでの時に、サムチェックプログラムの開発にタッチされていました」
 「この方達は、被害者だと認識してますが」鈴木刑事は言う。「この人達が事件に関っているとなると、複雑な背景があったかもしれませんねえ。その他、何か進捗はございませんか? ノーボディー関係とか」
 「ノーボディーの方は、特に、変わったことはありません。先日、支店長さんの通夜で、参列者の話に聞き耳を立てていたんですが、支店長さんは、お仕事の方でも、相当に恨みを買っていらしたようですね。例の『ヒトゴロシ』は、そちらの関連、ってこともあるんじゃないでしょうか」
 「そうなんですね。支店長を殺す動機を持つ人物が、山のようにおりまして、この捜査は、少々時間がかかりそうです。ところで、近藤さんの言われていたこと、大当たりでしたよ」鈴木が言う。
 「何か言いましたっけ?」
 「荒木田は、七年前に傷害事件を起しているんですが、その被害者、大野川支店長の娘さんでした」
 「すると、大野川支店長には、荒木田を殺す動機があったんですね」
 「この事件、荒木田は無罪になっていますから、国に代わって懲罰したということも、あり得ない話ではありません。しかし、社会的地位もおありの支店長が、そんなことをなさるとも思えないんですけどね」
 「荒木田さんはどうして無罪になったんですか?」エミちゃんがきく。
 「心神喪失状態下での犯行とみなされました」
 「精神に異常があったということですか」
 「前の年に煩った病気の際に、脳の機能の一部に損傷を受けたこと、被害者の大野川百合子さんを中心とするグループから長期にわたって執拗ないじめを受け、ノイローゼ状態になっていたことなどがその原因だったようです。裁判が終わって、一時的に、入院してましたが、一年もしないうちに退院してますから、それほどひどい状態ではなかったと思いますよ」
 「百合子さんがおかしくなったのは、荒木田に襲われたのが原因だったんでしょうか?」
 「これに関しては、よくわかりません。荒木田の犯行は、強姦などの性的なものではなく、棒を振りまわして傷を負わせたというものです。傷は、全治一ヶ月という重傷ですが、百合子さんは、裁判の過程で証言などもしてますので、この事件の直後は、それほどおかしい状態ではなかったものと思われます。まあ、こういうものは、あとで症状が出るということもありますんで、なんとも言えませんがね。少なくとも、百合子さんの精神面の問題に関しては、警察の記録には、何も記載されていません」
 「荒木田回りは、私も、調べておきましょう」近藤は言う。「支店長の殺人事件とは無関係かもしれませんが、少なくとも、我々を襲ったのは荒木田でして、その周辺に我々を付狙うものがいることは間違いありませんからな」
 「わかりました。荒木田殺しは相当に凶暴な男の仕業と思われますから、くれぐれも、危ないことはなさらないようにお願いします。何か、お手伝いできることがあれば、言ってください」
 近藤は、手帳の頁をめくりながら言う。
 「ああ、これこれ。えー、調査は三ヵ所から始めます。第一に、荒木田の実家、第二に、荒木田が入院していた病院、第三に、荒木田の勤め先であった、新宿の二十四時間コンビニです。私の調査に協力するよう、警察の方から一声掛けておいて頂ければ助かります」
 「お安いご用です。何か掴めましたらお知らせください」
 鈴木刑事はそう言うと、高橋刑事に近藤の手帳からそれぞれの連絡先をメモさせて、応接室を出て行く。近藤とエミちゃんは、その後姿に軽く頭を下げる。

 近藤は、荒木田周辺の調査を一人で行うことにする。
 柳原は、どうせ午後にならなければ現れないし、彼女には、東都銀行システムセンターからもらってきたデータを解析するという急ぎの仕事がある。エミちゃんは、種々の報告書を書かなければいけないし、田中はふたりをガードしなくてはいけない。
 近藤は電話を三本掛けて、それぞれの相手に、面会のアポイントを入れてもらう。それぞれの相手には、既に、警察からの連絡も、入っていた様子だ。
 午前十一時、近藤は、田中にあとのことをよろしく頼むと、たまには目新しいところで昼食を取るのも良いかな、と考えながら事務所を出る。
 荒木田の実家は、コンドーの事務所から直線距離ではそれほど遠くない。しかし、電車で行く場合は、地下鉄、山手線、私鉄と載りかえる必要があり、時間がかかる。国道に出れば、バスの便もあるが、時間が読めない。そこで、近藤はタクシーを利用することとする。
 コンドーの事務所から二分も歩かないところに、渡辺観光タクシーの事務所がある。ここには、たいてい一〜二台のタクシーが止まっていて、電話での呼び出しを待っている。
 近藤が事務所受付の窓に顔を近付けると、すぐにドライバーが出てきて、タクシーを準備する。近藤が、手帳に記載された住所をドライバーに告げると、後部座席に乗り込む。

 

 荒木田の実家は和菓子屋だ。
 店の間口四間は、近藤の両親が昔やっていた八百屋、つまり現在の近藤ビルと同じだが、店の横には立派な扉の、車の入れる通路があり、それを含めれば間口は五間半、更に、敷地の奥行きも相当にある様子で、近藤ビルとは勝負にならない。
 近藤は、外見をざっと観察してから、店内に入る。石造りの店内は、洒落た雰囲気で、各種の和菓子が美しくディスプレーされている。ショーケースの奥には、制服を着た女店員ふたりと、白い上っ張りを着た男がふたり立ち、二組の客と応対中だ。
 「先ほどお電話を差し上げた近藤ですが」
 近藤が、手の空いた、年老いた男の店員に言うと、男はさっと表情をきつくして、「こちらへ」と、短く言う。近藤は、和菓子店には歓迎されない客のようだ。
 近藤は、暖簾をくぐり、男が手招きした店の奥へと向かう。暖簾の先には、玄関ともいうべき場所があり、右手には白木の縦格子のしゃれた引き戸がある。この戸は、荒木田家の自宅玄関であり、近藤も、本来、こちらから入るべきだったのだろう。
 玄関の広い土間の前方は、幅広のガラス戸になっており、その向うに、和菓子を作る作業場が見える。ガラス戸の左には、菓子職人たちが手を洗うのだろう、ステンレス張りの流しがあり、水道の蛇口がいくつか並んでいる。
 左手には、上がり框の向うに板張りの広間があり、その先に、木材をふんだんに使った幅の広い立派な階段が続いている。
 男は左手の階段を上るように手招きし、「上で、奥様がお待ちです。階段を上がって、右手です」と近藤に告げる。
 近藤は、靴を脱いで、男が出してくれたスリッパに履き換えると、男に礼を言って別れ、一人で階段を上る。
 階段を上がったところは、小さなホールになっており、前に引き戸、右にガラス戸、左にドアが見える。右手のガラス戸は、分厚い木の桟に周辺をカットしたガラスの嵌められた立派なものだが、今は開け放たれて、その向うに、大きな、明るい部屋が見える。近藤がその部屋の中を見ると、高価そうなソファーから中年の夫人が立ち上がり、近藤に深々と頭を下げる。殺された荒木田の母親だ。
 「近藤さん、ですね。お手数をおかけして、申し訳ありません」
 「いや、本日はお忙しいところお時間を取って頂いてありがとうございます。実は、息子さんが殺害された事件につきまして、我々、真相を知りたいと願っておりまして、ご質問したい点が多々ございます。一つ、我々の調査に、ご協力願えませんでしょうか」
 「お詫びを申し上げなければならないのはこちらのほうです」荒木田夫人は、改めて頭を下げながら言う。「息子には、近藤さんのところの事務員さんにもご迷惑をおかけしたようで、まことに恐縮しております。本来でしたら、お詫びのご挨拶にお伺いすべきところでしたが、息子を亡くしたり致しまして、いろいろと動転致しまして、ご挨拶が遅れて大変恐縮致しております」
 「奥さんは、警察のほうから、何か、お話を聞かれてますか?」
 「いいえ、ほとんど聞いておりません。一度、息子が殺された事件の捜査状況をお話しくださると言って頂いたんですが、聞けば気分が滅入るばかりと思いまして、お断り致しました。そんな話を聞いても、元に戻るわけはございませんからね」
 「ははあ、そう致しますと、ノーボディーのお話も御存じないわけですね」
 「ノーボディー? なんでございましょう」
 近藤は、ノーボディーが荒木田に送ったメイルのハードコピーを差し出す。
 「荒木田さんが私どもの事務員を襲いましたのは、実は、この、ノーボディーと称する人物に、唆されたためだったようです。その後、東都銀行桜が原支店の支店長が、ノーボディーと称する人物からの脅迫メイルに誘い出され、荒木田さんが殺害されたと同じ、桜が原中央公園で、首吊り自殺を装って殺害されております」
 荒木田夫人の顔色が変わる。
 「それでは、息子は、連続殺人犯に操られた挙句殺されたと……」
 「ここだけの話にして頂きたいんですが、実は、東都銀行桜が原支店から、現金が消えうせるという事件が発生しておりまして、私どもは支店長さんからの依頼を受けて調査しておったのです。その、ノーボディーのメイルにある、柳原と申す者が、私どもの事務所でその調査にあたっていた担当者でした。ノーボディーは、荒木田さんを操って柳原を襲わせ、支店長を誘き出して殺害したと、当然その裏には、ノーボディーこそが、桜が原支店から現金を横領している人物であったと、そういう仮説が、現在、有力視されております」
 荒木田夫人は無言だ。
 近藤は、話しを続ける。
 「それにしてもわからないのは、なぜ、ノーボディーは、こう易々と支店長や荒木田さんを操ることができたのか、また、支店長と荒木田さんとの間には、過去の傷害事件という関連がございまして、これが今回の事件と関係があるものなのか、ないものなのか、我々には理解し難い部分が多々ございまして、奥様には、荒木田さんのこれまでの行動、交友関係などに付きまして、できるだけ詳細にお話し頂けるとありがたいと、かように考えておる次第です」
 近藤は、荒木田夫人の心の内を察する。顔色からは、ほとんど読めないが、荒木田夫人の心の中には、様々な思いが渦巻いているであろうことは、容易に察することができる。
 しばらくしたのち、夫人は口を開く。
 「わかりました。全てをお話し致します。近藤さんには、息子の無念を、是非とも晴らしてやってください」
 そう前置きしたのち、荒木田夫人は、その息子について話し始める。

 そもそもの始まりは、息子が熱を出したことでございましょう。
 それまでは、親が言うのもなんですが、息子は非常に優秀でございまして、小学校はいつもクラスで一番、中学も、難関で有名な国立の付属中学に悠々と合格したんでございます。
 しかし、中学に入学して早々の夏休みに病気を致しまして、高熱が続いたために、脳の一部に損傷を受けてしまったんでございます。
 まあ、脳に損傷を受けたと申しましても、人並み程度になったというだけのことなんですが、それでも、クラスのトップを続けていた息子にとっては耐え難いことでして、ノイローゼ気味になって学校も休みがち、ついには、一年を二度するはめになったんです。
 これで、全て始めから中学生活を送ってくれれば、元通りになったんでしょうけど、あの、大野川百合子という女が、仲間を誘って息子に対していじめを続けたんでございます。
 そのため、息子のノイローゼがぶり返してしまいました。ただ、今回のものは、それほどひどいものでもなく、息子は悩みながらも学校に通っていました。
 そんなある日、息子が大野川さんを傷つけたというじゃございませんか。
 私どもはびっくりして、事情を調べました。
 近くにいた人の話では、息子が突き出した竹の棒に、百合子さんが自分でぶつかってきたというのが真相です。
 百合子さんは、息子が突き出した棒に、自分でぶつかって、ぶたれたとか言って、大騒ぎをするつもりだったんでしょう。
 しかし、百合子さんは、目がお悪いんですね。それで、ぶつかりそこなって、大怪我になってしまったんです。
 裁判では、こちらも、優秀な弁護士の先生にお願いして頑張りましたよ。
 しかし、息子が棒を出したことも、相手さんが怪我をしたことも事実ですから致し方ありません。百合子さんが動いたかどうかということは、議論にもなりませんでした。
 百合子さんの執拗ないじめについても、弁護士の先生は、念入りに調べてくださって、証人を呼んで、全てを明らかにしました。
 いじめの立証には、ずいぶんとお金と時間を使ったのですが、息子を護る役には立ちませんでした。いじめられたからといって、仕返しをして良いという理屈も通りませんものね。
 結局、息子のノイローゼを手掛りに、なんとか無罪を勝ち取りました。しかし、学校は退学になるわ、強制入院になるわで、こちらの被害も相当なものでした。
 まあ、あの子は、元々、大した病気ではございませんから、病院のほうはすぐに退院できましたし、学校も、中学でございますから、別のところに、すぐに入学できました。なんやかんやで、二年ほど棒に振りましたけどね。
 その後は、近所の目があるからと申しまして、親元を離れて、一人でアパート暮らしをしておりました。まあ、あの子にとりましては、それがいちばんではないかと、私も考えておりました。
 そうそう、息子は、なんでも、コンビニの深夜の店員の仕事を見付けたとか申しておりましたが、私ども、店の経営は順調でございまして、お金の苦労はありません。小遣いでも、必要でしたら、いくらでも送るつもりでした。あまり危ない仕事をしないでも良いだろうと申したこともございます。しかし、あの子は自立したいと申しまして、自分の稼ぎで生活していたんです。
 もちろん、息子には、いつまでもコンビニの店員をさせておくつもりはございませんでした。主人は亡くなりましたが、長男が跡を継いで立派に店を切り盛りしています。あの子には、いずれ株を分けて、何でも好きなことをして、やっていけるだけのものは残してやりたいと考えておりました。
 ノーボディー? そうでございましたね。しかし、この名前には、全く心当りはございません。
 コンピュータのお話でしたら、ゆーのすけさんと言われる女性が、陰になり日向になり、息子を庇ってくださいました。
 この人のことに付いては、息子も、何も話してくれませんでしたが、ゆーのすけさんのお使いになっていたマックを譲って頂いて、私とメイルのやりとりができるように設定してくださいました。息子のお葬式にも来られましたし、アパートを引き払う時も、一度、車で送っていただきました。
 ゆーのすけさんの正体? それは、見当も付きません。息子は新宿に勤めていましたので、街中で出会った女性ではないかとも思っていましたが、それにしては、随分礼儀正しい、きちんとした方だなあ、と感じていました。

 近藤は、荒木田夫人の話から、荒木田の人となりを少しばかり理解できたと思う。
 それまでの、荒木田に対する近藤の印象は、ただただ不気味なストーカー男だった。しかし、荒木田夫人の話を聞けば、荒木田も、悩み多い人生を歩んだ、自立心旺盛な好青年であったということが、近藤にも理解できる。
 しかし、このような情報だけでは、なんら、事件を解決するヒントにはならない。そこで、荒木田の入院していた病院を訪ねたい旨を夫人に話し、主治医に口添えを依頼して、荒木田夫人の元を辞す。

 近藤は、荒木田和菓子店から三軒ほど離れたところにとんかつ屋があるのを見付け、そのカウンター席に座って、とんかつ定食を注文する。
 たまたま麦茶を運んできた店の女将を捕まえて、荒木田和菓子店の評判を聞くが、町内の評判も申し分なく、店の経営も順調のようだ。
 とんかつ屋のカウンターで、近藤は、食後の一服を楽しみながら、デジタルレコーダーのメモリーを空のカードと交換し、録音済みのカードにメモを貼り付ける。

 

 荒木田の入院していた精神病院は、荒木田の実家近くの駅から急行で三十分ほど下り、、更に、タクシーで十分ほど走った所にある。
 バス通りから、林の中を数十メートル進んだところに、石造りの立派な門があり、その真正面に石造りの、がっちりとした大きな建物がある。それがこの病院の本棟だ。
 本棟ビルの大きな扉を入ると、天井の高い、薄暗いホールがある。ホールは床も壁も石造りで、ひんやりとしている。
 ホール正面に、受付のカウンターがあり、その中に、老人が一人、ぽつんと座っている。この大きなホールにいる人間は、近藤の他は、受付の老人だけだ。
 近藤は受付の老人に名を名乗り、荒木田の主治医との面会の約束がある旨を告げる。老人は、近藤に、応接室までの道順を教え、そこで待つように言う。
 近藤は言われるままに、応接室に進み、主治医を待つ。
 応接室は、立派な作りだが、作られてからかなりの時間が経つようで、あちこちに傷みが目立つ。壁際には、いくつかのガラスケースがニス塗りの台の上に置かれ、その中に、頭蓋骨や脳の標本が飾られている。職業がら、近藤は注意深く頭蓋骨を観察する。近藤の見たところ、この頭蓋骨は、本物の人骨であるようだ。
 やがてドアが開き、白衣を着た、腹の出た小男が現れる。男の頭は、周辺部のみに白髪交じりの髪を残すのみで、大部分は禿げ上がり、その頭頂部は、卵の小さい端のように尖っている。
 男は、荒木田の主治医と名乗るが、どことなく陰のある男で、ひしゃげた目には、度の強い丸い眼鏡が掛っている。
 近藤は、主治医に、来訪の目的を伝え、荒木田の病状を尋ねる。
 主治医は、近藤に迷惑そうな顔を向けるが、それでもボツボツと話し始める。

 えー、今回は、ご本人が亡くなられて、その原因を調査するということで、警察のほうからも、お母様のほうからも、ご依頼がありましたのでお話しますが、本来は、患者さんのご病状は、第三者にはお話しできないことになっておりますので、その点、間違いのないように、一つ宜しくお願い致します。
 さて、荒木田さんのご病状ですが、人間、生き物ですから、病状も時間と共に変化するものです。ですから、私ども、最近の荒木田さんの状態をお尋ね頂いても、あまり正確なお話しをすることはできません。
 荒木田さんを診断致しましたのは、七年前のことでございます。当時、裁判所の依頼を受けて、荒木田さんの精神鑑定を致しました。この時の状況でしたら、かなり正確なお話しをすることができます。
 この時は、ご当人にも数日間お泊まり頂き、入念な検査を致しました。その結果、事件を起された時点で、荒木田さんは、強度のノイローゼのため心神耗弱状態となっており、責任能力を問える状態ではないと、われわれ、判断しました。
 これは、荒木田さんがおられたような受験校では、それほど珍しいケースではありません。もちろん、裁判になるケースは稀ですけど、登校拒否や自殺未遂などを起した挙句、精神神経症と判定される例は珍しいものではありません。
 特に荒木田さんは、前年、ご病気をされて、脳神経に損傷を受けまして、これが、引き金となった可能性は多分に考えられます。その他、学校関係で、人間関係にトラブルを抱えておられたというお話で、こういったことが精神に変調を来たす原因になります。
 精神病は不治の病と思われがちなんですが、最近では、良い薬もいろいろと出ておりまして、特に荒木田さんのような若い方でしたら、直るのも早いものです。要は、早期発見、早期治療が決め手といえるでしょう。あとは、ご家族の理解と支えでしょうな。
 荒木田さんの措置入院を当院がお受けした際も、症状は急速に回復し、程なく、完治したと判断いたしました。これには、我々の治療が功を奏したことももちろんなんですが、ご家族、特にお母様のお力が相当に役に立ったものと考えております。
 その後の状況も、トレースしてましたが、中学も無事卒業し、就職もされたということで、我々の診断に間違いはなかったと、自信を持っております。
 警察のほうから、最近、荒木田さんが起した暴力事件に関して問い合わせを受けましたが、これが神経症に起因するものか否かは、我々には判断のしようがありません。これを調べます際には、ご本人に来て頂いて、種々の検査をする必要があります。特に、荒木田さんが亡くなられた今となっては、もはや調べようがありません。
 従いまして、警察には、過去に神経症があったことは事実だが、それは既に完治したこと、これが再発する可能性はあり、過去に一度も神経症を患ったことがない者に比べれば、神経症を患うリスクが高いとはいえるものの、今回の荒木田さんの事件が、神経症に起因するものであるか否かは、判断できないとご返答致しました。

 「荒木田さんは、他人の言動に、影響を受け易い、といった傾向はありましたでしょうか?」近藤は尋ねる。
 「最近の若い人は、そういう傾向が強いんですが、荒木田さんが、彼等に比べて特に影響を受け易い、といったことはなかったと思います。まあ、ああいう進学校に進む方は、多少そういう傾向が強いんですが、ばらつきの範囲内であって、病的といえるほどのことはありませんでしたね。もちろん、七年前の荒木田さんが、そうであったというお話ですよ」

 

 病院を辞した近藤は、新宿の、荒木田が勤めていたという、コンビニエンスストアに向かう。

 コンビニの店長は忙しそうだ。近藤が訪ねると、あからさまに迷惑そうな顔をするが、それでも、仕事を続ける傍ら、近藤の質問に応えてくれる。

 荒木田さんねえ、まあ、それほど気の利く人じゃなかったけど、真面目な人だったね。遅刻や無断欠勤もしなかったし。たまには失敗もしたけど、素直に謝って、言訳をするということがなかったね。
 暴力的傾向? ぜーんぜん。気の小さい、大人しい男でしたよ。
 えーと、彼は、誰かの紹介でここに来たんだけど、誰の紹介だったかは覚えていないねえ。最近、求人広告出していないから、前にバイトしていた奴か、取引先の紹介か。まあ、強盗が出たりして、夜の店番のなり手がいないもんだから、ウチも助かっていたんだけどね。
 え、彼、殺されちゃったの? 彼、度胸がありすぎたのかもしれないねえ。夜の公園なんか、一人でうろついちゃ、いけないよ。
 え? 彼を殺った奴に? 心当りなんか、あるわけないよ。

 近藤は、ここでも大した手掛りが得られず、むなしく、事務所に引き上げる。
 三人の証言を録音したメモリーカードは、エミちゃんに渡しておいたから、近藤の今日一日の苦労は、報告書を分厚くするための、何らかの足しにはなろう。しかし、これらの証言が事件解決に結びつくようには、近藤には、とても思えないし、荒木田の身辺調査が、横領事件の報告書に、どれほど使えるかも疑問である。
 事務所では、柳原のデータ解析が、着実に進んでいる。近藤はそれをみて、今日の一日も、全く無駄というわけでもなかったなと、ほっと胸をなで下ろす。

 

 翌、七月二十日午後一時半、近藤と柳原は、東都銀行桜が原支店に黒田総務部長を尋ねる。
 黒田は現在、総務部長の肩書きはそのままで、支店長代行を務めている。黒田の名前は、明石主任に紹介されたが、明石は黒田に電話して、近藤たちに協力するよう言ってくれたようだ。
 黒田は、近藤たちを応接室に案内する。その応接室は、前回、大野川支店長と打ち合わせしたときに案内されたのと同じ部屋だ。
 近藤たちがソファーに腰を下ろすと、女性社員がお茶を配っている間に、黒田は話を始める。
 「いやあ、近藤さん。たびたび申し訳ありませんが、また一つ、ご調査のほう、よろしくお願いします」黒田は、テーブルに手を付いて、深々と頭を下げて言う。「本来でしたら、再調査の依頼は、私どものほうから、お願いに上がるべき筋合いでございましたが、支店長が突然に亡くなられて、私どもの支店もてんやわんやの状態でございまして、業務分担も定かではございませんでした。大変異例な形ではございますが、本店と警視庁の方でいろいろと打ち合わせを致しまして、ウチから近藤さんにご依頼することに決まりましたとき、刑事さんが近藤さんをご訪問したいといわれましたので、それならばと、刑事さんに依頼書をお届け頂くことになった、というのが経緯でございます。失礼の段、重々お詫び致します」
 「いやあ、我々に関しては、別に、失礼でもないと思いますが」近藤は、黒田を安心させるように言う。「警察は、今回の横領事件が、支店長さんの殺害事件に関係しているのではないかと考えておりまして、横領事件の新装解明にも、並々ならぬ関心を寄せております」
 「はい、支店長は、横領事件の調査を担当されてましたので、横領犯が支店長を殺したという可能性を否定することはできません。しかし、昨今の不景気もございまして、銀行と致しましても融資先の選別を致さざるを得ず、銀行が手を引いた結果破産に繋がるケースもいくつかございまして、恨みを買う局面も多ございます。支店長は、もしかすると、融資の業務に絡んで殺されたのではないかと、私ども考えております」
 「たしかに左様ですなあ。私、先日、支店長さんの葬儀に参列させて頂きまして、周りの方の会話に聞き耳を立てておったんですが、そのようなお話をされている方が多かったですなあ。ただ、私どもの請負っておりますのは、横領事件の調査でございまして、支店長さんを殺した犯人を見付けることではございません。報告は、警視庁のほうにも致しますので、殺人事件との関連に付きましては、警察が検討することになるものと思います」
 「かしこまりました。それでは、横領事件の調査のほう、一つよろしくお願いします。あ、そうそう、ご紹介が遅れましたが、私、こういう者でございます」
 黒田は名刺を近藤たちと交換する。黒田の名刺の肩書きは、『総務部長』となっているが、その横に、『桜が原支店長代行』という文字をプリントした細長い紙が貼り付けられている。ワープロで急遽印刷したものを切り貼りしたものだあろう。
 名刺交換に続いて、黒田は、これまでの自分の役割について、簡単に紹介する。近藤は、これまでの疑問点を明らかにしようと、いくつか、質問をする。
 黒田は、殺された支店長の腹心の部下で、横領事件の調査に関しても、経緯を全て聞いていたという。東都銀行桜が原支店で横領事件の話を知っていた者は、支店長と黒田の他に、支店長秘書の女性が一人、合計三人だけであったということだ。
 「それで、本日お伺いした趣旨なんですが」近藤は、話が一段落したところで切り出す。「えー、先日、御社の東京システムセンターをご訪問致しまして、日毎、口座毎の集計表を頂きまして、不正が、いつ、どこで行なわれたかの特定を致しました。本日は、その結果をご報告致しますので、これらの不正をし得たのは、いったい誰であったのかを、黒田さんにご検討頂きたいと考えております」
 柳原は、システムセンターから貰ったテープの解析に昨日一日を掛けて作製した、現金が消えた日付とアカウントを記載したリストを、黒田の前に差し出す。
 「勤務の記録と照らし合わせてみます」
 そう言うと、黒田は、柳原が提出した紙を持って、一旦事務所に戻る。
 黒田の出て行った応接室で、近藤は煙草に火を付ける。
 柳原は、長期戦を覚悟して、お茶を一口だけ飲む。
 「東都銀行内で、横領事件の調査に関して知っていたのは、大野川支店長と、黒田氏と、秘書の女性の三人、ってことだね」
 「そう、その三人が、私の名刺を見ているはずですね」
 「その他のところでは、本店の何人かと、東京システムセンターの何人かだな」
 「その人達のところまで、私の名刺が渡っていたでしょうか?」
 「行内の報告書をどう書いたかによるねえ。その内容を教えてもらえるとありがたいが、明かしてもらえるとも思えんなあ」
 黒田は、近藤たちが予想していたよりもずっと早く戻ってくる。応接を出てから、まだ数分しか経っていない。
 黒田は、応接室に入るや否や、近藤たちに話し始める。
 「全てのケースで現金持ち出しが可能であったのは、私と、大野川支店長の二人だけでした」黒田は言う。「亡くなられた支店長が横領をされていたとは、信じられませんがねえ。もちろん、私はやってませんよ。我々、ほとんどの現金のチェックに立ち会っておりますんで、こういう結果が出ましたのも、ある意味、当然なんです」
 「複数の人が現金持ち出しに関与していた場合はどうなりますか?」
 「その場合は、現金を扱っていた全ての者に、犯行可能です。全部で十一人ですか……」
 「申し訳ありませんが、その方達のお名前と住所を頂けませんでしょうか」
 「かしこまりました。お帰りの際に、コピーを差し上げます」
 「システムセンターのデータがいじられていたって可能性はないかね」近藤は柳原にきく。
 「その可能性もあります」柳原は言う。「所詮はハードディスクの中のデータですから、犯人が管理者権限で計算機システムにアクセスできるなら、なんだって、できてしまいます。でも、そうやって支店長なり、黒田さんなりに罪をなすり付けるためには、支店長や黒田さんの行動を知っていなくちゃできません」
 「そいつは簡単な話だ。金がなくなったのは、桜が原支店からなんだから、桜が原支店の誰かが犯行に関与していたはずだね。そいつが支店長の行動を知っていてもおかしくはない」
 「このデータがいじられたかどうか、チェックしましょうかね」
 「そんなことが可能か?」
 「ええ、過去のデータは、全てバックアップテープに保存されていますから、犯行当日のハードディスクの中身を再現することができます。もちろんこれも完全なものじゃありませんけど。つまり、犯行後、バックアップする以前にファイルをいじられてしまっていたら、それを知る手段はありません」
 「バックアップテープは、調べることにしようや。支店長に罪をなすり付けるとしても、その日のうちにデータを修正するってのは、ちょっと難しいだろう。明石さんにメイル打って、問題の個所がバックアップテープと一致するか、チェックしてもらってください」
 柳原は、ノートパソコンに向かい、メイルを打ち込む。その間の会話の中断を埋めるように、黒田はお茶をすすりながらが言う。
 「横領には関係のない話かもしれませんけど、最近、支店長を付け回す者がいるようだって、支店長、心配されてました」
 「ストーカーですか。そいつは、横領には関係ないかもしれませんけど、支店長殺しに関係しているかもしれませんね。その男の特徴とか、わかりませんでしょうか」
 「どうも、女性だったようですが、あまり詳しいお話は伺っておりません」黒田が応える。「あるいは、奥さんが何かご存知かもしれません」
 「女性ねえ」近藤は考えながら言う。「女性に付け回されていたとなると、これは、全然別の話かもしれない」
 「いやあ」黒田は笑いを噛み殺すようにして言う。「あの支店長に限って、女性問題を起こすはずはありませんよ。ものすごい恐妻家でしたからね」
 「そりゃ、わかりませんよ」近藤は言う。「私も昔は浮気の調査をかなりの数やりましたけど、この人が、と思うような小心そうな男が女をこさえているケースが、かなり、ありましたよ」
 「支店長の奥さんは、情報通なんです。私にも時折、電話が掛ってきてました。支店長に変なことを吹き込まれても困りますんで、あまりいい加減な応対もできません。困ったもんでした。それ以外にも、このあたりの店に網を張っているようで、油断も隙もありません」
 「店に網を? そりゃどういうことです?」
 「飲食店の店員を手なずけて、我々の会話を調べていたようです。だから、支店長の女性関係の噂話などをした日にゃあ、あっという間に、奥さんの知るところとなってしまいます」
 「またしかし、凄い方ですなあ。あ、そうそう、支店長は最近、雑誌に論文を出されていましたよね」近藤が言う。「あの論文、どなたが清書されたんでしょうか」
 「私がやりましたけど?」黒田は応える。「まあ、清書と申しましても、誤字・脱字のチェックをしただけですけど」
 「支店長の書かれた原稿は、手書きではなかったんですか?」
 「今時、手書きで論文を書く人、いますか。当然、フロッピーディスクで頂きましたよ」
 「支店長さん、計算機が全く使えないとうかがったんですけど、ワープロはお使いになっていたんですか?」
 「そういえば、彼、ワープロも駄目でしたねえ。誰が入力したんだろう。ええ、これを入力した人は、ワープロの腕は確かな方ですね。ほとんど訂正しませんでした。『とうり』を『通り』に直したくらいだったかな、目立った間違いは。どこかの入力代行業者に頼んだのか、それとも奥さんに打ってもらったのか……」
 「黒田さんが直される前のファイルは、残っていませんでしょうか?」柳原がきく。
 「ございますよ」
 黒田は、支店長から渡されたというフロッピーディスクを持ってくる。近藤は、それをハンカチで扱い、ビニール袋に入れる。
 「この原稿を誰が入力したかってことも、一つの謎なんですなあ」
 「本日は、そんなところでよろしいでしょうか」黒田がきく。
 「あ、そうそう、一つ知りたいと思っておりますことが、我々の正体、つまり、名刺に書いてある事柄ですが、この情報はどの程度、行内に、流されたんでしょうか?」
 「報告書は極秘の扱いで、本店と、東京システムセンターに送りました。これを見たのは、本店の役員クラスと不正対策委員会のメンバー、東京システムセンターのセンター長と数名の技術者といったところでしょう。どれも皆、口は固いはずですよ」
 「その報告書には、我々に関するデータを、どの程度記載したでしょうか?」
 「議事録の出席者欄には、潟Rンドーの近藤社長と柳原調査員と記述してあります」
 「名前は苗字だけですか?」
 「ええ、姓のほうだけを記述しました」黒田は面白そうに言う。「だから、柳原さんが女性であるということは、桜が原支店の三人しか知らなかったと思いますよ。あ、システムセンターの連中は、電話会議で柳原さんの声を聞いてますから、柳原さんが女性であると、知っていたはずですね」
 「名刺はどのように扱われていたんでしょうか?」
 「私がお預かりしています」黒田が応えて言う。「報告書を書きましたので。ただ、名刺は機密扱いにはしておりませんでしたなあ。つまり、透明なポケットのついたファイルに挿し込んで、私の机の上に置いてました。昼間は難しいでしょうけど、遅くまで残業している行員など、人が少ない時であれば、盗み読みすることもできたでしょうね。ただ、名刺を見ただけで、恵さんと夏樹さんのどちらが女性か、わかりますでしょうかねえ」
 近藤は、黒田が何か誤解をしているように思える。近藤の質問は、ノーボディーが荒木田に提供した柳原の情報の流れを掴むためのものだ。だから、近藤が女性に間違われる可能性など、どうでも良い話だ。しかし、ノーボディーのメイルの一件は、黒田に話すわけにもいかず、近藤は黒田の誤解をそのままにする。

 

 帰り道で柳原が近藤に言う。
 「ノーボディーのメイルには、私の姓と名前が入っていたから、これに横領犯が関与しているとすれば、支店長と、黒田さんと、秘書の女性の三人だけですね」
 「そうだね。事務所の住所などは、『潟Rンドー』だけわかれば電話帳でも調べられるんだが、君の名前までは無理だね」
 「そうすると、ノーボディーは、支店長でなければ、黒田さんか、秘書の女性ということになります。現金の持ち出しもその人がやったとすると、犯行が可能なのは、支店長と黒田さんのふたりだけ、ということになりますね」
 「盗み読みの可能性があったわけだから、そう簡単には絞れないよ。桜が原支店に、横領犯の一人がいることは間違いないんだから、その男が黒田氏の名刺ファイルを盗み読みした可能性がある」
 「支店長を付け回していた女性って、どういうことでしょうか」
 「この話が事実だとすると、支店長を殺害した犯人グループの一人、ってことも考えられるね」
 「犯人グループ……」
 「大の男の首を、無理やりロープに吊るすんだ。一人じゃとてもできるまい」
 「後ろから忍び寄って、首を絞めたんじゃないの? それから、滑車の原理を使って持ち上げれば、女性一人でも、首吊りに見せかけることができると思うけど」
 「あー、首吊りにみせかけて殺すってのは、それほど簡単じゃないんだ。縊死と絞死は簡単に見分けられる。支店長が自殺でないとしたら、支店長の体を立たせた状態で、予め準備したロープの輪に首を通して、支店長を下に落とすか、ロープを急激に引き上げるかしなくちゃいけない。薬が使われた形跡もなけりゃ、他に傷跡もなかったから、死の直前まで支店長の意識はあったはずで、恐らく抵抗もしたはずだ。俺や田中みたいな図体の大男が犯人だったとしても、一人で殺るのは、ちょっと難しかったんじゃないかね」
 「まあ」
 「支店長殺害の動機が、融資を断られて自殺した経営者の遺族による仇討ち、といったものであれば、自殺した経営者一族による共謀、なんてことがあったかもしれない。犯行前に、支店長の行動パターンを調べておくのは、合理的なやり方だ」
 「その過程で、支店長が荒木田さんを殺すところを見てしまったのかもしれませんね」
 「うん、それも一つの可能性だな。そうだとすると、あの『ヒトゴロシ』ってのは、荒木田殺しということにもなるな。しかし、この場合は、支店長殺しと横領事件は無関係ということになる」
 「桜が原支店からお金を持ち出したのは、支店長か黒田さんのどちらかである可能性が高いって考えるべきなんでしょうけど、黒田さんがやりますかねえ」
 「支店長以外の人間が横領しているとすれば、黒田氏がやった可能性が高いね」近藤が言う。「それに、黒田氏は支店長の右腕のような人物だから、もし、支店長が黒田氏を疑うようなことがあれば、黒田氏がそれに気付く可能性は高いね」
 「もし、黒田さんが横領していて、それに気付いた支店長を殺しているんだとすると、支店長を付け回していた女性って、どういう役割になるんでしょうか」
 「もし黒田氏が犯人だとすると、支店長を付けまわしていた女性は黒田氏の仲間ということになるが、そうだとすると、彼はあんなことを我々に喋るまい。彼が犯人の場合、女性云々は黒田氏のでっち上げじゃないかね。他に支店長殺害の犯人がいるように思わせるためのね」
 「黒田さんが横領犯で、支店長も殺していたとしても、やっぱり、支店長を殺す時には誰か協力した人がいるんですよね。支店長の首を無理やり吊るためにね。そうすると、その人は横領事件の関係者、ってことになりますよねえ。もし、横領に、桜が原支店の行員がふたり以上、関与しているとすれば、それは、支店長でも黒田さんでもない人がふたり関与している、ってこともあり得ますねえ」
 「そういやそうだな。現金の消えた全ての場所に立ち会ったのは、支店長と黒田氏の二人だけだが、複数の行員が横領に関与しているとなると、全ての現金持ち出しを一人がやる必要もないから、他の連中でも犯行は可能ってことになるね。現金に触る機会のあった、十一人の誰か、ってことだな」
 「そうなると、犯人がせっかくふたりに絞られたと思ったけれど、必ずしもそうとは限らない、ってことになりますよね」
 「そうだなあ。無駄足を踏んじまったかなあ。しかし、支店長と黒田氏の容疑が多少濃くなった、って程度の成果はあったとも言える。横領に、行員ふたりが関与している可能性よりも、行員の関与は一人だけって可能性の方が高いからね」
 「あと、このファイルですね」
 「うん、それ、鈴木さんに頼んで、指紋を取ってもらったら、中身を解析してください」
 「ファイルを見れば、誰が打ったか、簡単にわかるかもしれませんよ」柳原は言う。「先にコピーをこさえてから警察に送りましょう」
 コンドーの事務所に着くと、柳原はすぐにフロッピーのコピーを作成する。近藤はエミちゃんに頼んで指紋採取を依頼するメモを作り、これを原本のフロッピーディスクと共に封筒に入れて鈴木刑事に送る。
 「これ、作成者は『大野川』となってます」柳原は言う。「入力に使ったパソコンに登録されている名前が、大野川ってことです。あの支店長、本当はパソコンを使えたのか、それとも奥さんが入力したのかも知れない」
 「で、そのどちらかがノーボディーってことか?」
 近藤は、誰にともなくそう言う。
 (しかしこのいずれかがノーボディーであったとして、事件は、どのように進展したんだろうか)近藤は考え込む。
 柳原は、ファイル内容の解析はアパートの自分のパソコンで行うことにして、ファイルを別のフロッピーディスクにコピーする。



第七章   捕獲作戦
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 七月二十一日の土曜日、アニメフェアは東京ビックサイトで午前十時の開場だ。
 田中は、昨日、相生に会って、出展社バッジと車輛通行章を受け取ったが、そのとき相生に、九時にはブースに集まるように、と言われている。
 八時五十分、ビックサイト駐車場で近藤の車から降りたのは、レイナ(エミちゃん)、ダンク隊長(田中)、そして近藤だ。自宅で着替えをするエミちゃんのため、近藤は、全員を車で送り迎えすることにしたのだ。柳原は、昼頃、会場に来る予定だ。
 鈴木、高橋の両刑事とは、この駐車場で落ち合うことになっているが、広い駐車場で、刑事たちがどこにいるか、見付けることができない。近藤は携帯で鈴木に場所を教え、やがて現れた刑事たちに、田中が出展社バッジを渡す。
 会場に入るだけなら、警察手帳があれば充分なのだろうが、あまり目立つことは好ましくない。鈴木と高橋のいかにも刑事然とした目付き顔立ちは隠しようがないが、出展社バッジを付けていれば、多少なりともカモフラージュになるというものだ。
 会場の地図を持つダンク隊長の先導で、近藤たち一行は会場に入り、あいおいクリエイトのブースに向かう。
 あいおいクリエイトのブースは、四メートル角ほどの小さなブースだ。しかし、相生は、幸運にも角を引き当て、二つの面が通路に接した場所を得ている。
 相生クリエイトのブースでは、相生が忙しそうに動き回り、アニメ同人のメンバーにブースの飾り付けを指示しているのが見える。
 田中は近藤たちを先導して、あいおいクリエイトのブースに近付いて行く。
 近藤たちの一行に気付いた相生は、その、あまりの物々しさに、目を丸くする。他の同人たちも同様で、作業をしている手を止めて、近藤たちに目を見張る。
 田中のダンク隊長は、相生が予想した通りの姿だ。
 エミちゃんのレイナは、予想した以上の出来で、思わず頬が緩んでしまう。
 しかし、相生が驚いたのは、その後ろに立つ、恰幅の良い三人の護衛役だ。
 「ちょっと、ちょっと」相生は田中の耳元で尋ねる。「レイナやってる人、タダモノじゃない人なのかな? うしろのこの人達、誰?」
 「レイナは、俺の勤め先の事務員。後ろの人達は、ちょっと……」
 口篭もる田中をさえぎるように、鈴木刑事が相生に話しかける。
 「相生さんですか? ここの責任者をされている。ちょっとお話、よろしいでしょうか」
 相生は、なにごとかと訝りながらも、ブースの裏に刑事たちを招き入れる。
 鈴木刑事は、相生に警察手帳を見せてから、手短に話す。
 「実は、本日ここである取引が行われることになっておりまして、我々、その取引相手に関心があります。あのレイナ役の女性ですが、実は、彼女を付け狙っていたストーカーが殺されるという事件が最近発生しました。いろいろ調べますと、このストーカー、何者かに操られていた形跡がありまして、そのストーカーを操っていた者が、本日ここに取引を行うために現れる可能性が高いと、我々、予想しております。相生さんにご協力頂きたいのは、ここでは、我々、レイナの護衛役という形を取らせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか。実際、その男がレイナ役の女性を襲うということも、考えられなくはない状況でして」
 「はあ」相生は、あまりにも現実離れした話に、返す言葉も思い浮かばない。
 「それで、取引相手が確認されましたら、我々、その男を尾行致しますんで、皆様方には、何食わぬ顔で展示をお続けになって頂きたいんです」
 「要するに、知らん顔をしていれば良いということですね」相生、やっと要領が飲み込める。「しかしそれにしても、凄いお話ですね。事実は小説より奇なりといいますか、ほとんどアニメのストーリーですね。もちろん、ご協力致しますとも。他のメンバーにも秘密ということですね」
 「はい、申し訳ありません」鈴木が応える。
 「それでは、このブースにいる間は、これをお付けになっていてください」相生は鈴木に腕章を三つ渡す。腕章には、『整理係』と緑色の字で書かれている。

 田中の携帯にメイルが入る。
 「オックスよりダンクへ
 十一時、アニメフェア会場、
 落ち合い場所、指定されたし.」
 オックスは、田中のお宝DVDを落札した相手で、ノーボディーである可能性が高い人物だ。田中は、紙袋をあやめ(男)に渡し、中のフィギュアの陳列を彼に任せ、携帯メイルにメッセージを入力する。
 「ダンクよりオックスへ
 十一時のコンタクト了解
 あいおいクリエイトのブースで待つ
 当方、姿もダンク隊長」
 田中は、メイルを送信すると、近藤とふたりの刑事に言う。
 「ノーボディー、十一時にここに来ます」
 「それ以前に下見にくるかもしれませんから、開場する前に、配置に付いときましょう」鈴木刑事が言う。「えーと、高橋君は、ここにいてもらおう。あくまで、レイナの護衛という形でね。近藤さんと私は、離れた場所から監視しましょう」

 

 十時、ショーが開演する。しかし、あいおいクリエイトのブースを訪れる客は少ない。やはり、大多数の来場者の目当ては、大手出版社とゲーム会社のブースのようだ。
 エミちゃんはブースの奥のコーナーに立っている。そこには、小さなステージが作られ、壁にはレイナの背景が描かれている。エミちゃんの横には、田中がいつもコンドー事務所の自分のデスクにおいている、レイナの大きなフィギュアが飾られている。
 閑散としたあいおいクリエイトのブースに紛れ込んだ小学生の男の子が、エミちゃんを不思議そうに見つめる。
 エミちゃんは、何をすれば良いかわからず、ずっと動かずに立っている。
 男の子は、エミちゃんと、レイナのフィギュアを交互に眺める。
 男の子と目が合ったエミちゃんが、思わず微笑むと、男の子は驚いたように言う。
 「これ、人間、ですか?」
 「ええ、人間ですよ」
 「写真撮って良いですか?」
 「どうぞ」
 男の子は、エミちゃんの写真を数枚取ると、田中に、シャッターを押してもらうよう頼み、エミちゃんと並ぶ。田中が依頼に応えてシャッターを押すと、男の子は礼を言って立ち去る。
 相生が田中に近寄って言う。
 「本当は、ポラで撮って金取る予定なんだがな。まあ、小学生じゃしょうがないが」
 「どうせ暇だし、この位のサービス、良いんじゃないすか」
 「そうだねえ、別にポラの売上に期待しているわけでもないし、まあ、良いか。レイナの取り合いになるようなことがあったら、その時点で考えようかねえ」
 「私、ちょっと、そのあたり、歩き回っていましょうか? なんか、人形だと思われているみたいだし」エミちゃんが相生にきく。
 「そうですね。客寄せにもなるし。だけど、あまり遠くには行かないでくださいね」
 「アンケート、私も取りましょうか?」
 他の同人は五人のアルバイト嬢と共に、クリップボードを片手に通行人に近寄り、アンケートへの回答を依頼している。アンケートに答えると粗品を進呈すると言うが、進呈されるのは、樹脂で成形した、身長一センチ足らずの小さなレイナの人形だ。
 「アンケートは、ちょっと要領があってね。それよりも、受付に座っててもらったほうが良いね。あやめクンと交替してくれないかな」
 「そういえば、ゆーのすけさんは来られていないんですか?」エミちゃんは相生に尋ねる。
 「うん、彼女、こないだのオフミ以来、音信不通なんだ。元気していると良いけどね」

 約束の十一時が近付く。田中は、誰がノーボディー氏だろうかと、行き交う人に視線を走らせる。
 ブースは徐々に客が入るようになった。
 人形用の衣装や同人誌もボチボチと売れ始めた。
 エミちゃんの写真を希望する客も多く、エミちゃんは、受付をあやめクンに交替してもらい、ブースの奥のステージに立つようにした。ツーショットのポラロイドには、短いながらも、行列ができ始めた。
 「どうも、ありがとうございます」ブースを出る客に頭を下げる高橋刑事、整理係も板に付いてきたが、時計を見てポツリと洩らす。「十一時十分、遅いな」
 「来ないですね」田中は高橋刑事に耳打ちする。
 「しっ、見られているとまずい」高橋刑事は田中にそう言うと、そ知らぬ顔で入場客に頭を下げる。「いらっしゃいませ」

 十二時、早い昼食を終えた相生は、ブースに戻ると、エミちゃんに昼食を採ってはどうかと奨める。田中は、近藤と刑事たちと相談し、ノーボディーとのコンタクトを諦め、エミちゃんと柳原を連れ立って食事に行くこととする。柳原は、食事の時間を狙ったかのように、十二時ジャストにブースに到着している。
 相生は、近藤たちに弁当を渡して言う。
 「この向うに海の見える所がありますから、そこで食べられたら良いですよ」

 展示場の長い建物の端には大きなガラスが嵌められ、その内側と外側にベンチが並べられている。建物の内側のベンチは、既に大勢の弁当を食べる人達で占められ、近藤たち全員がまとまって座る場所はない。それを見た近藤は、迷わずガラス戸を開け、外のベンチに進む。
 冷房の効いた建物から一歩外に出ると、そこは夏だ。
 「うわ、暑いなあ、中のほうが良かったかな」近藤は、そう言いながらも、人気の少ないベンチに向かう。
 「でも、海が見えるのって良いですね」
 エミちゃんは嬉しそうに言うが、ここから見える海の景色は、どことなく殺風景だ。
 「パラソルがありますね」田中は言う。「昔は、こんなもの、なかったと思うけど」
 「弁当、本当は、あまりよろしくないんですが」高橋刑事、そう言いながらも、輪ゴムを外してプラスチックの弁当箱を開ける。
 「俺も、警察には、カツどん、ご馳走になったから、おあいこで、良いんじゃない」田中はそう言って高橋刑事を安心させようとするが、これはピント外れというものだろう。
 「結局、ノーボディー氏は現れなかったんですね」鈴木刑事が田中に確認する。
 「ええ、開場早々、確認のメイル、入れてきたけど、約束の時間過ぎても、現れない」
 「会場には来ていたということかな」
 「多分そう。張り込んでんの、ばれたかも知れない」
 「目付きの悪い奴が三人もいたからなあ」近藤は言う。「まあ、たいして期待もしていなかったから、あっさり諦めても良いんじゃないかな」
 「そうですね。いろいろやって頂いたことには感謝しますけど、我々、これで引き上げることに致します」鈴木刑事はそう言って、近藤たちに頭を下げる。「あ、そうそう、変わった人物を見掛けましたよ」
 「変わった人物? 誰ですか、そりゃあ」
 「大野川支店長の奥さん。アニメフェアに来そうな人には、見えないでしょう」
 「それで、どうされたんですか?」
 「先日お会いしてますんで、ご挨拶したんですが、軽く会釈して立ち去られました」鈴木刑事が言う。「ちょっと、驚いた顔をされてましたね」
 「そりゃ、あの奥さんも場違いだが、刑事さんのほうが、よほど、アニメフェアには、似合わないでしょう」近藤は言う。
 「投資、かな?」田中が言う。
 「そうそう、あの奥さん、株式投資を手広くやられているというお話をうかがいました」高橋刑事はきく。「アニメへの投資、ってのもできるんですか?」
 「アニメへの直接投資も最近では増えてますけど、あまり一般的じゃあないですねえ。でも、出版社やプロダクションの株価にしたところで、アニメの売れ具合で、大きく動きますからねえ」近藤は応える。
 「アニメも立派なビジネス。しかも、成長産業」田中は言う。「放送だけじゃない。ヒットすれば、ビデオ、DVD、ゲーム、主題歌のCD、じゃんじゃん売れるし、おもちゃや、キャラクターグッズのライセンス料まで入るかも」
 「そうだよなあ」近藤は羨ましそうに言う。「賢い人達は、こういう所での反応を見て、アニメ関連企業の株価の先行きを予想するんでしょうなあ」
 「なるほど、普通の人がこういう所を歩いていたって、不思議じゃないってことですね。さて、それじゃあ、我々はこれで失礼致します。今日は、いろいろと、ありがとうございました」
 鈴木刑事はそう言うと、高橋刑事と共に立ち上がり、弁当の空き箱にゴム輪を掛けてゴミ箱に投げ捨てて、去って行く。
 鈴木、高橋の両刑事を見送った近藤たちは、自分たちの今後の計画を議論する。
 「支店長夫人がノーボディーかも知れない」近藤はみんなに話す。「支店長夫妻のペアは、今回の横領が可能な組み合わせだ。もし、彼女がノーボディーなら、刑事が張っているのに気が付いて、取引を諦めたってことも考えられる」
 「支店長の論文の原稿に『とうり』がありました」柳原が言う。「支店長が計算機を扱えないというのが本当だとすると、誰か別の人が原稿を打ち込んでいるはずで、支店長の奥さんがあれを打ったんだとすると、奥さんがノーボディーである可能性は相当に高いです」
 「明日、俺と柳原は、大野川夫人を徹底的に洗う」近藤は言う。「田中君とエミちゃんは、悪いけど、二人だけで頑張って」
 「はい」エミちゃんはにっこり笑って応える。「これって、なんか、ちょっと、快感ですね。癖になりそう」
 「おいおい、そんなの、癖になったりしないでくれよ」
 そんなふたりのやり取りを、田中はにこにこしながら眺めている。田中にとって、この二日間は、仕事というよりは、完全に趣味の領域だ。エミちゃんまで巻き込んでしまったことは、田中にとっては、望外の幸せだ.
 にやにやしている田中に柳原が言う。
 「こっちのほうが似合ってんじゃないの?」
 「いやだなあ、これ、俺の、七つの顔の一つ」田中は言う。「ある時はダンク隊長なの」
 「それ以外の顔なんてあるの?」柳原は手厳しい。
 「そりゃ、いっぱいある」田中は応える。「ある時は凄腕のハッカー、ある時は暴走族の鉄管健ちゃん、またあるときは、テーラー田中のデザイナー。しかして、その正体は……」
 「お肉のかたまりー」エミちゃんが茶々を入れる。
 「フィギュアの芸術家(クリエータ)」消え入りそうな声で田中が言う。
 「おいおい、君の正体は『探偵事務所コンドーの腕利き調査員』だろ」近藤が訂正する。

 

 翌七月二十二日、この日は日曜日で、コンドーは本来は休業日であるが、近藤は朝から事務所に詰めている。午後からは柳原も出社してくる。田中とエミちゃんのふたりは、今日もアニメフェアでコスプレだ。だから午前中は、近藤一人が事務所にいる。
 今日、近藤は柳原を伴って、大野川夫人を徹底的に調べ上げる計画だ。
 大野川夫人を疑う理由はいくつもある。
 第一に、彼女は十八年前に、東都銀行システムセンターに勤務しており、サムチェックプログラムを開発した担当者だった。システム管理者のパスワードは、変更されておらず、大野川夫人はシステムに侵入して、サムチェックプログラムに細工を施すことが可能である。
 第二に、大野川夫人が打ったと思われる支店長の論文草稿に、ノーボディーの文章の特徴である『とうり』の誤字が含まれており、しかも、ノーボディーと目される『オックス』と田中の、DVDの取引現場周辺に姿を見せている。
 大野川夫人が横領の共犯者であり、かつ、ノーボディーであるなら、ストーカー事件の経緯はつじつまが合う。柳原の調査を妨害するため、荒木田をそそのかして柳原を襲わせたというわけだ。
 大野川夫人一人では、東都銀行桜が原支店から現金の持ち出しは不可能だ。これには、支店内部の共犯者が必要になる。
 この共犯者として疑わしい人物は、数回にわたる現金持ち出しの全てで、その時刻と場所に立ち会っていた大野川支店長と黒田総務部長のふたりが第一候補だ。但し、複数の行員が現金持ち出しに関与していた場合は、このふたり以外が横領犯である可能性もある。
 先日の調査の段階では、ファイルの捏造により、このふたりに罪を着せる工作が行われる可能性も指摘されていたが、東都銀行システムセンターに保存されているバックアップテープの記録との照合により、ファイルが捏造された可能性は極めて低いと考えられている。
 そういうわけで、近藤の推理は、ほとんど完成している。しかし、現金を誰が持ち出したかという、極めて重要な点があいまいなままだ。また、大野川夫人がシステムに侵入したとの近藤の推理にも、これを裏付けるなんの証拠があるわけでもない。従って、今の段階では、犯人を指摘する報告書を提出することはできない。

 大野川夫人の住む家は、コンドーの事務所からそれほど離れていない。近藤は、大野川邸に向かって歩きながら、柳原に疑問を投げかける。
 「夫人は誰と組んでいたんだろうねえ」
 「夫の支店長か、不倫相手の黒田さん。あのふたりが不倫していれば、ね」
 「ノーボディーは、大野川夫人だろう」
 「もしかすると、ノーボディーは黒田さんかもしれない。夫人が『とうり』って書いていたって、今のところ、黒田さんの証言があるだけだし、あのフロッピーだって、黒田さんがいじっているかもしれないわ」
 「夫人が黒田と不倫関係にあった場合、夫人は事件と無関係かも知れないね」
 「そんなことってありますか?」
 「システムのプログラムや、変えられていないパスワードを、ポロリと喋ってしまったかもしれない。サムチェックは、元々、不正操作ができるように作られていたわけだろ」
 「もし、そうだとすると、あの夫人、消される危険がありますね」
 「そうだね。黒田が単独で横領を働いていたのだとすると、夫人は危険な要素だね。自分の身の安全のためには、彼女を自殺にみせかけて殺してしまう、ってことも考えられなくはない」
 「夫人が殺されて、『全部、私と夫がやりました』なんて遺書が残っていたら、完全犯罪ですよねえ」
 「まあ、自殺に見せ掛けた殺人が、そうそう、うまくできるものでもないと思うが、一応、注意はしておいたほうが良いね」
 近藤と柳原は、住所と地図を頼りに大野川夫人の家を探す。
 「ここにも『とうり』がありますよ」
 柳原が指差したのは、町内会の掲示板だ。そこには、町内会の廃品回収の決算報告書が貼ってあり、『下記のとうりご報告致します.』とある。
 「句点もピリオッドだなあ」
 「会計の判子、これ『大野川』とありますけど、支店長の奥さんでしょうか?」柳原は、デジタルカメラのファインダーで決算報告書を覗きながら言う。
 「町内会長にきくのが早いね」
 近藤はもう一つの掲示物を指差して言う。そこには町内会長の名前と連絡先が書かれている。
 近藤は町内会長の荒川大輔氏に電話を掛ける。荒川は自宅におり、時間も空いているという。近藤は、道順を聞き、荒川邸へと向かう。
 荒川は、温和な顔の小柄な老人だ。彼は、近藤たちをリビングに案内すると、冷蔵庫からプラスチックのボトルを取りだし、冷やした日本茶をグラスに注いで二人に奨める。
 近藤は荒川に名刺を差し出して自己紹介した後、話を始める。
 「実は、私ども、先日亡くなられた東都銀行の大野川支店長さんについて調査致しておるんですが、二三、おうかがいしたいことがございまして」
 「ああ、大野川さんですか、あの方も大変ですなあ。あれ、犯人はまだ捕まっていなかったんですね。私も、及ばずながらお力になりたいと思います。なんなりとお尋ねください」
 「えー、掲示板に貼ってありました、廃品回収の決算書、あれ、大野川という判が押してありましたが、どなたが書かれたものかご存知でしょうか」
 「あれは、大野川さんの奥さんです。奥さんも、以前、銀行に勤められていたということで、町内会の会計を引き受けて頂いております」
 「あの奥さんは、どこかに、お勤めになっておられるんでしょうか?」
 「いえいえ、銀行を辞められてからは、お勤めはされないで、自宅におられますよ。娘さんの世話がありますので。ああ、インターネットで何かのお仕事をされてたというお話はうかがったことがございますけど」
 「娘さん? ご病気ですか?」
 「ええ、病気というのかどうか、良くわかりませんが、いわゆる引きこもりというものでして。この方も、お気の毒な方でしてね。何年か前に、頭の弱い男に襲われて、大怪我をされたことがありまして、それ以来、外に出られなくなったということです」
 「はあ、そんなことがあったんですか。それで、奥さんは、だいたい自宅におられるんでしょうか?」
 「昼御飯の支度ができるまでは、自宅におられるようですね。午後は、外出されることが多いようです。俳句の会で、ご一緒することもありますよ」
 「俳句……」
 近藤、今回の事件で、どこかに『俳句』というキーワードが出ていたような記憶があるが、それが何だったか、思い出せない。
 「大野川さんの生活ぶりはどうだったんでしょうか。派手だったとか……」
 「派手? そりゃあ派手ですよ。銀行の支店長さんですからね。景気がこんなですから、昔ほどじゃないにしても、それでも、お給料もかなり出ているはずですし、お届け物の数も半端じゃありません。ご自宅も、立派な構えですよ。まあ、御覧になるのが一番だと思いますけど」
 近藤は、支店長宅への道筋をきき、町内会長の家を辞する。
 「ノーボディー、やっぱり大野川夫人ですね。俳句もやっているし」
 「俳句……、それ、何だったっけ?」
 「最初に来た脅迫状が、五・七・五だったのよ」
 「そりゃあ、関係ないだろう。しかし、ノーボディーが大野川夫人であることには、間違いはあるまい。あの会計報告には、判まで突いてある。本人にぶつけて、なんと言うかだね」
 「今のところ、夫人が横領に関与していたという、証拠はないんですよね」
 「そう、昔システムプログラムの開発にタッチしていた、ってことだけ」
 「夫人がノーボディーだというのも、『とうり』と句読点の一致くらいですよね」
 「そう。脅迫状と、メイルと、論文と、会計報告がある。ただし、このやり方は、横書きの論文で一般的だそうだから、句読点のスタイルが一致したからといって、同一人物の手になるとは断言できない」
 「そうすると、大野川夫人にキリキリ迫っても、知らぬ存ぜぬとシラを切られたらお仕舞いですよねえ」
 「そこが悩みの種なんだなあ。なんとか、俺の話術でカバーしようとは思っているんだが、できればもう一つ、決め手になるようなものが欲しいねえ」

 

 近藤たちが大野川邸に近づいた時、玄関の扉が開き、大野川夫人が出て来るのが見える。近藤は、柳原の袖を引き、脇道に身を隠す。
 「どうしましょう」柳原がきく。
 「当然、尾行だ」
 近藤はポケットから取り出した小さなCCDカメラを塀の角から突き出し、液晶ディスプレーに大野川夫人の姿を映す。夫人は、近藤たちのほうに近付いてくるが、少し先で道を折れる。
 「桜が原駅かな? 行き先は」
 近藤の予想通り、夫人は桜が原駅から地下鉄に乗る。近藤と柳原も二つ先の扉から同じ地下鉄に乗る。
 夫人は、渋谷駅で地下鉄を降りると、雑踏の中を進み、Sデパートに入る。
 店内は冷房が効いて、ひんやりとしている。
 夫人があちらこちらのショーケースを眺め始めたのを見た近藤は、入口近くの、灰皿が設置してある場所に立ち、煙草に火をつける。
 「こういう尾行が一番やり難い。これ、吸い終わったら中に入るから、君もショーケースを覗いててくれないかね。夫人に見られない位置で頼む。時間が持たないようだったら、なんか買ってやるから、なるべく安いアクセサリーか化粧品を品定めしておいて」
 「良いんですかー?」
 柳原は嬉しそうに応えると、アクセサリーの品定めを始める。煙草を吸い終わった近藤は、柳原に近付いて言う。
 「なんか良いのあった?」
 「こんなのどうでしょう」
 「ふーん、いいねえ。一,十、百、千……」値札を見た近藤は、急に声をひそめて言う。「おいおい、二万もするのか、もっと安いのにしてくれ。どう考えても、これは経費では落ちない。それに、エミちゃんにも、なんか買っていかないとまずいしなあ」
 「あ、ターゲット動きました」
 近藤のひそひそ話をしっかりと聞いていた店員の、軽蔑の眼差しを受けながら、近藤は夫人の乗ったエスカレータに向かう。
 夫人が次に向かったのは婦人服売り場だ。
 ここでも、夫人は様々な洋服の品定めを始めて、なかなか動こうとしない。柳原はTシャツ、小物など、あちこちを覗いて回るが、自分とエミちゃんの、双方に似合いそうなものは、全くない。
 「何かお探しでしょうか」店員が近藤に近付いて言う。
 「ああ、えー、実はプレゼントを探しておりまして……」
 「どういったものがよろしいでしょうか?」
 「ああ、物はなんでも良いんですが、まあ、五千円くらいで二つ」
 「お使いになるのは、あちら様でしょうか?」店員は柳原を指していう。
 「ええ、あれと、もう一人。もっとずっと、女の子っぽいのがおりまして」
 「ご姉妹で、お揃いのものというわけですか。よろしいですわね」
 「あ、いや、娘ではございませんで、ウチの事務をやっておるんですが、このところ働きが良いので、何か一つ、買ってやろうかと思いまして……」近藤の説明は、だんだんと怪しくなってくる。
 「ターゲット動きました」柳原が小声で言う。
 「あ、すいません、時間のようで」
 近藤は、説明にならない説明をして、店員と別れると、大野川夫人を追う。
 次に大野川夫人が品定めを始めたのは食器だ。
 「あ、これはいいねえ。エミちゃんとお揃いのコーヒーカップでも買おうか。事務所で使ったら良い。それなら、経費で落ちるし」
 「あ、それ賛成」
 柳原は、あっさりとカップを見つけ出す。カラフルな動物の描かれたお揃いのコーヒーカップだ。値札を見て、近藤も満足する。
 「あー、これ、お願いします」
 近藤がカードの伝票にサインし終り、柳原が包装されたコーヒーカップを受け取っても、大野川夫人はまだ食器を見ている。近藤は、やむなく、他の食器の検討を始める。柳原は、穴明き包丁の実演販売を、目を丸くしてみている。
 近藤が、ワインの栓抜きを買おうかどうしようかと、真剣に悩んでいるとき、大野川夫人が動き出す。近藤は、柳原を包丁の実演から引き離し、大野川夫人を追う。
 「あの夫人、さっきから、見ているだけで、何も買いませんねえ」
 「そう、俺のほうが、よほど金使った」
 大野川夫人が次に訪ねたのは、外商のデスクである。ここで、夫人は一人の外商係の店員を呼び出して、何事か相談を始める。
 近藤は、望遠レンズ付きの小さなCCDカメラで店員の名札を読み取り、顔写真を撮影する。
 柳原は、季節物の売り場で、カラフルな浴衣を見ている。
 近藤はそのうしろに立ち、目は大野川夫人と外商の男を見つめている。
 やがて、話が終わったようで、大野川夫人はハンドバックから帯封のついた札束を出す。外商の男は束を受け取ると、帯封を切り、ばさっという音と共に一万円札を扇のように広げると、なれた手つきで数え始める。男が札の大部分を受け取り、数枚の札と小銭を盆に載せて夫人に返す。伝票の記入が終った夫人はこれを受け取ると、立ち上がってエレベータに向かう。
 「君、夫人の跡をつけて」近藤は言う。「おれは、あの男に、ちょいときいてみよう」
 近藤は、先ほど夫人と話をしていた外商の男を捕まえる。
 近藤が名刺を渡して自己紹介すると、外商の男は、あからさまに嫌な顔をする。しかし、東都銀行の横領事件を調査中であること、依頼主は銀行と警察の双方であることを伝えると、外商の男は、渋々口を開く。近藤は、そっと、ポケットの録音機のスタートボタンを押す。
 「あの奥様、たしかに、少々お買い物が過ぎるとは、思っておりました。普通、こういう多額のお買い物はカードでされる方が多いのですが、あの奥様は、いつも現金でございまして、大抵、束を一つお持ちになっておられます。今日は、多い方でございますが、それでも、均しまして、月に百万から二百万のお買い上げがございました」
 「どういった品物を買われているんですか? お届け先は自宅でしょうか?」
 「買われている品物は千差万別でして、日用品全般、衣料品、装身具、小物類、その他諸々です。お届け先は、ほとんど自宅です」
 「いつ頃から、そんなに大量の買い物をされていたんでしょうか」
 「もう三年はされていますねえ。もっとも以前は、月に百万を越えることは、滅多にございませんでしたが」
 「そうですか。いずれ、警察から問い合わせが来ると思いますんで、彼女の買われたもの、リストにしておかれるのがよろしいでしょうな」
 近藤はそういうと、外商部を後にする。
 近藤は携帯電話を掛ける。
 「柳原君、今どこ?」
 「デパ地下でーす」
 近藤は、地下で柳原と落ち合う。柳原は、何やら大量に食料品を買い込んでいる。夫人もいくつか食料品を買うと、デパートを後にする。
 近藤と柳原は、そのあとも大野川夫人の尾行を続け、夫人が自宅にまっすぐに戻ったことを確認する。
 近藤は、事務所への帰りの道すがら、柳原に言う。
 「毎月百万以上買い物しているとさ、あの夫人。それも三年以上だ」
 「横領は、かなり昔からやっていたのかもしれませんね。古いデータもチェックしなくちゃ」
 「これで、夫人に関しちゃ、証拠は完璧だな。いずれも状況証拠だが、これだけ並べれば、いくらあの大野川夫人だって落とせるだろう。明日十時ごろに、ご夫人を問い詰めようかと思うんだが、君も同席してくれないかね」
 「えー、そんなに早くにですか?」
 「午後になると、夫人、出かけてしまうかもしれないだろう。アパートに迎えに行くからさ」
 「仕方ないですねえ。カップも買ってもらったことだし、お付き合い致しましょう」



第八章  コンフェッション(告白)
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 七月二十三日午前十時、近藤と柳原は故人となった大野川支店長の自宅を訪れる。
 リビングに続く日本間には、支店長の骨壷が置かれ、大きな写真が飾ってある。
 近藤と柳原は、その前に正座し、焼香をして頭を垂れる。
 「どうも、わざわざご丁寧に、申し訳ありません」
 支店長夫人は、ふたりに、お茶とお茶菓子を奨める。
 近藤は、出されたお茶と菓子に毒でも仕込まれているのではないかと、手を付けるのを躊躇する。しかし、柳原はそんなことはお構いなしに、煉菓子を楊枝で切って口に運び、お茶を旨そうに飲む。
 「美味しいですねー、これ、どこで買われたんですか?」
 「これは、頂き物。京都のお土産よ」
 近藤は、菓子には手をつけず、お茶を一口飲むと、夫人に向かって座り直し、一礼してから話し始める。

 「奥さん、今日、我々がお邪魔致しましたのは、もちろん、いろいろとお世話になった支店長様にお別れの挨拶をしたいということもありましたが、奥様にも、今回の事件に関して、いろいろとお尋ねしたいことがございまして」
 「はあ、なんなりとおききください」
 「まず、ご主人が経済誌に書かれた論文ですけど、このワープロ打ちは、奥様がなされたんではございませんか?」近藤は、以前、支店長から貰った経済誌の、支店長の論文が印刷されたページを開いて夫人の前に滑らす。
 「はい、私が打ちました。それが何か?」夫人は目を細めて論文を眺めていう。
 「この論文の句読点、ちょっと変わっていると思われませんか?」
 「はいはい、丸の代わりにピリオッドですね。私も、これを打ち始めたときは、丸を使ってしまいまして、主人に怒られました」
 「漢字変換を学習すると、丸の代わりに、ピリオッドが出るようになるんじゃありませんか」
 「ええ、多分、今も、そうなっていると思いますけど」
 「このメイルに心当りはありませんか?」
 近藤は、荒木田に送られたノーボディーからのメイルをプリントした紙を、夫人の前に差し出す。支店長夫人は、何も言わない。
 「次にこちらは、奥様がワープロ打ちされました、町内会の決算報告書ですが、文章の最後のところにご注目ください。『下記のとうり』となっていますでしょ」
 「ええ、それが何か?」
 「ここは、漢字で書けば、通路の通の字になるんですけど、仮名では『とおり』と書くところです」
 「はあ、それは存じ上げませんでした」
 「先ほどのメイルも、『とうり』使っておりますでしょう」近藤は言う。「丸の代わりにピリオッドを使うってのは、横書きの論文ではそれほど珍しいものではありません。しかし、論文に『とうり』なんて誤記は、普通、許されないんですな。実は、今回、奥様が打たれました経済誌の論文も、草稿には『とうり』の誤記が数ヵ所ありまして、銀行で部下をされていた黒田さんが、その部分を全部、手直しされたということです」
 「はあ、それは申し訳ないことを致しました」
 「まあ、論文など、どうだって良いんですが、問題は、先ほどのメイルと、論文の句読点、そして、『とうり』の誤記、これがみな同じだということなんです。このメイルを奥様が書かれた可能性は、極めて高いものと、我々はみております」
 「だとしたら、どうなんです?」
 「柳原の本名と勤務先、それにEメイルアドレスは、名刺にも刷ってあるんですが、柳原は、この名刺、そうそう配ってはおりません。最近では、支店長さんにお渡ししてますが、ご主人がこれを奥様にお見せになったという可能性を我々、疑っておるんです」
 「だから、私がそのメイルを出したとして、それがなんだと言うんですか」
 「銀行の調査に着手した柳原を襲うようにしむける。その理由に、どういうものが考えられるでしょうか。調査の妨害、普通、そう考えるんじゃないでしょうか」
 「なんでもご自由にお考えください」
 「もう一つ、我々、このような脅迫状を受け取っておりまして、東都銀行の調査から手を引くように要求されております。この句点もピリオッドであるという点にご注目ください」
 「それを私が書いた、と言われるんですね」
 「調査を妨害するのは、調査されたら困るからでしょう。つまり、横領に関わりがあったということです」
 「つまり、銀行の金を盗み出したのは、この私だと?」
 「奥様は、結婚される前は、東都銀行のシステムセンターにお勤めでしたよね」近藤は、夫人の質問には答えず、話を進める。
 「ええ、別に、隠し立てするようなことでは、御座いませんけど」
 「私どももびっくりしたんですが、東都銀行システムセンターの管理用アカウントに、実に長期間に渡ってパスワードを変更していないものが、いくつかありました」
 「それはまた、杜撰な話でございますこと」
 「システムセンターの技術者の話では、このユーザIDを使えば、電話線からでも、不正な会計処理が可能だということなんですな」近藤は言う。「つまり、奥様にも、計算機の合計値を操作することが可能であったということです」
 「そんなことができる人は、大勢おられたんじゃありませんか? 可能であるということと、やったといことは、全然、別の話と存じますけど」
 「えー、銀行の現金残高は、頻繁にチェックされておりまして、すべて記録が残っております。もちろんチェックのたびに、残高が正しいことを確認しているんですが、加算処理用のプログラムが細工されておりまして、本来、残高が不足しているにもかかわらず、これまでは正常であるとされておりました」
 「えー、何を話されているのか、良くわからないんですけど。お茶をもう一杯、お出し致しましょうか?」
 「いやいや、過去の記録を再度チェック致しますと、どの時点で、どこから現金が消えたかを特定することができます。この中で、最近の数回の不明金発生について詳しく調べましたところ、現金が消えた瞬間には、いずれも支店長さんが立ち会われていたことが判明致しました」
 「つまり、主人が盗み出したとおっしゃりたいんですか? 現金の集計に立ち会ったというだけで。主人は、桜が原支店の責任者でしたから、重要な集計に立ち会うのは、ごく当たり前のことでございます。もちろん、私にも、主人がやっていないと断言することはできませんが、いずれにしても、主人はもう亡くなりましたから、真相は闇の中ですね」
 「ご主人は計算機が扱えません。ご主人が現金を持ち出したことを隠し通すためには、誰かがサムチェック手続に不正な演算を指示しなければなりません。さしあたり、奥様はそれができた人間の一人でした」
 「先ほども申し上げましたけど、可能であったから、それがどうしたというんでしょうか?」
 「奥様は先日、Sデパートに行かれましたね」
 「……」
 「失礼とは思いましたが、奥様を尾行させて頂きました。それで、奥様が呼び出しておいでの外商の方にお話をうかがいました。彼は、大分渋っておられましたが、最終的に、奥様は三年ほど前から、大量の買い物を現金でされているという証言を得ました。その現金、いったいどうやって手に入れられたんでしょうか?」
 近藤は、一枚の写真を支店長夫人の前に差し出す。その写真には、支店長夫人の後姿と、その前で、札を扇のように広げて一万円札を数える、外商の男が写っている。
 夫人はその写真をしげしげと眺めていう。
 「そこまでお調べになりましたか……。ええ、致し方ありませんわねえ。そういうことでしたら、全部お話致し致します、ですけど、ちょっとお待ちください。近藤さんのそのポケットの膨らみ、それ、録音機でございましょ。録音はご遠慮頂きたいんですけど、よろしゅうございますか」
 「わかりました」近藤はそう応えると、ポケットから小型のレコーダを取り出し、支店長夫人の前に置くと、スイッチを切る。
 支店長夫人は、それを見て満足そうに頷くと、長い告白を始める。

 

 まあ、主人の能無しには、愛想が尽きます。それが諸悪の根源であったと、一言でいえば、そういうことになるんでしょうね。
 私は、独身時代、東都銀行のシステムセンターにおりまして、ええ、いわゆる社内結婚ですのよ。
 昔の銀行と言いますのは、それは厳格でして、一円でも計算が合わないと、行員はいつまでも残されて、計算をやり直したもんです。
 少々お金が足りない時には、誰かが自腹を切れば良いじゃないかと、素人の方は思われるでしょう。だけど、ある日、十円足りないからといって、誰かが自腹を切って埋める、なんてことをしていると、こんどは十円の現金が余分にあった場合、どうすれば良いのかという問題になります。まあ、十円くらいの余りのお金をポケットに入れることは、それほど大きな問題ではないかも知れませんけど、それが千円、あるいは一万円だったらどうすんでしょうか。
 会計の原則は、現金の剰余、不足が生じたときは、雑損失として処理しなければいけません。でも、銀行で雑損失があるということは、現金が消えたということを意味しまして、あまり自慢できるようなことではありません。それに、そういうことが続きますと、行員の誰かが持ち出しているんじゃないか、と疑われるのは当然の理です。
 それで、実際にどうしていたかというと、いつまでも計算が合わないときは、意図的に計算間違いをする、という処理を行なっていたんです。
 算盤の玉をちょっと動かせば済むことですからね。
 それがコンピュータになりますと、計算は間違いのしようがございませんでしょ。それで、計算が合わないってことは、現金の扱いがルーズであったのか、それとも、どなたかがつまみ食いをした、ってことになるじゃございませんか。
 銀行員は、お金を数えることに関しては、プロでございます。だけど、たまには数え間違えることもございます。封筒の隅にお札がこびりついてそのままゴミ箱行きということもございますし、コインを落として、どこかに転がっていくこともございます。
 だから、ごくたまに、計算が合わないということなら、見過ごすこともできるんですが、東都銀行では、こうしたことが、かなり広範囲に起こっていた様子なんですよ。
 つまり、銀行の金をくすねたり、知り合いに出す現金をわざと多めに数え間違えるといったことを、かなりの数の行員がやっていたらしい、ということなんですね。
 そういう不心得者がホンの少数であったのなら、警察に届けて、新聞沙汰になるのも致し方ございません。だけど、そこら中で横領行為がなされているということになりますと、これは大問題です。
 それで、何度か計算が合わないってことで大騒ぎ致しました挙句、無理やり計算を合わせるシステムをこしらえたんでございます。
 もちろん、こんなことが税務署だとか監督官庁とかにばれたら大変なことになりますから、これは、一握りの幹部と、基幹システムに関わった技術者だけの知るトップシークレットだったんです。

 計算の合わせ方は簡単でございまして、不一致が発生致しました際には、本店の調整室に届け出でを致します。ここには、秘密のノートがございまして、調整係は、それに、不一致の発生場所と金額を記録致しましてから、計算機に特別なパスワードを打ち込み、場所と、金額を打ち込みます。そう致しますと、あら不思議、帳尻はぴったりと合う仕組みでございます。
 帳面は役員が定期的に目を通して、あまり不一致が著しい支店には、それなりの沙汰が下るんでございますが、なにぶん、表向きにできることでもございません。いつの間にか、ノーチェックということになってしまったんでございますよ。
 本当は、こんな処理は一時的にする予定で、行員のモラル向上と監査体制の整備を致しまして、そもそもの不一致が発生しないようにする計画だったんです。しかし、そんな計画もうやむやになってしまい、不一致の修正が当然のように続けられました。
 パスワードに致しましても、最初のうちは、毎週変えるんだとか言っておったんですけど、それは無理というものでございます。
 システム関係の業務は、何人もの技術者が分担してこなしております。そのパスワードをころころ換えられたのではたまったものではございませんでしょう。始めのうちこそ、馬鹿正直に、毎週パスワードを変えて、月曜日の朝のミーティングで関係者全員に伝えておったんですけど、当然、忘れる人も出てまいります。それで、皆さん、メモされて、そこらに置かれたり、メイルで間違えた人に送ったり、極端な例では、端末の画面の横にパスワードを書いた紙を貼り付ける人が出て来たり致しまして、これは、かえって危ないということになりました。
 そんな混乱が続いた挙句、余り頻繁にパスワードを変えるのはやはり現実的ではないということになりまして、仕舞いには、何年間にも渡って、一度も変えないなんてことが、普通になってしまったんですのよ。
 不一致修正の専用アカウントもそうだったんでございますよ。パスワードは「アブラカタブラ」、それをローマ字で入れるんでございます。おかしいでしょう。

 私、システムの仕事に熱中しているうちに、いわゆるハイミスといわれる年頃になりまして、さあ、どうしたもんかと思っていた、ちょうどその頃、上司の紹介で、主人と見合いをしたんでございます。
 見合いの相手は、全然取り柄のない男でございまして、強いて言うなら、まじめ。しかし、こちらもあとのない状況でございましたから、贅沢も申せません。話をまとめることにしたんでございます。
 私は、しばらくは銀行を辞めずに、当時都内にありましたシステムセンターに通勤しておりましたが、娘が生まれましたのを機会に退職し、専業主婦になったんです。
 主人のほうは、その後、支店長にまで出世したんですから、東都銀行の水には合っていたんでしょう。結局のところ、この銀行は、取り柄のない人物を取りたてるような、不思議な組織だったんでございます。
 そうして一応の出世は致したんですが、本人は、経済学をやるんだとか、変な趣味に走りまして、宅では不満たらたらでございました。
 分相応に、判を突くのを身上と心得ておればよろしかったんでございますが……。
 それでまあ、私が宅の計算機から「アブラカタブラ」を致しまして、主人が札束を鞄に入れて持ち帰る、という生活が始まったんでございますよ。
 千八百万? ほほほ。まあ、そういうことにしておきましょう。
 主人にしてみれば、自分の能力を顧みない会社への復讐、私にしてみれば、小遣い稼ぎといったところでしょうか。お札の束を一つハンドバックに入れておりますと、それは心が落ち着くものでございます。

 宅から致しました調整、秘密の帳簿にも付けませんから、普通なら、ばれるはずはないんです。でも、決算の時には、使途不明金を埋めなければいけませんから、調整金の総額は表に出てしまいます。そんなところから足が付いたんでございましょう。近藤さんの事務所に調査の依頼が行ったという話を主人が聞いてまいりました。
 これ、調査を依頼したのは本店なんでございますけど、使途不明金が抜きん出て多いということで、桜が原支店を中心に調査するということになりまして、なんと、主人を責任者として、極秘の内に調査するということになったんでございます。
 実は、私、近藤さんのお噂はよく存じ上げておりまして、そこには柳原さんという腕利き調査員がおられることも、この道では評判でございます。その近藤さんと柳原さんが調査されるということで、これはいよいよ年貢の納め時かと、主人とふたり、覚悟を決めたものでございます。
 あ、そうそう、東都銀行の調査から手を引くように、コンドーさんに脅迫状を差し上げたのも私でございますのよ。主人は無駄なことは止めておけと申しておりましたが、万に一つでも、これで手を引いて頂ければ儲けものでございますからね。結果的には、無駄でございましたけど、はなから、大した期待もしておりませんでしたので、私ども、それほどがっかりも致しませんでした。

 ところで、私どもの娘、これが不憫な娘でございまして、中学生の時に変質者に襲われまして、それ以来、部屋に閉じこもったきり、外にはほとんど出られない生活でございます。
 襲った男は捕まったんでございますが、精神に異常があるとかで、無罪放免、最初は病院に閉じ込められていたんですが、それもほんの形ばかりで、一年もしないうちに娑婆に出てまいりました。
 この男、当家の敵でございますから、二度と手出しはさせまい、何かあったら叩きのめしてやろうと、アンテナを張って、動静を監視しておりました。そう致しましたら、この男、なんと、この町に越してきたんでございますよ。
 もちろん、この男が借りたアパートの大家さんにもお金を掴ませまして、留守を狙って何度か部屋を調べ、この男が何を企んでいるか、逐一監視しておりました。
 生意気にも、シルバーフォックスなんて名乗って、インターネットに書き込みを始めたのも、すぐにわかったんですよ。この男が不用意にも部屋に残したメッセージを、大家さんがコピーして、ご注進とばかりに届けてくれたんです。
 馬鹿なんだか几帳面なんだかわかりませんけど、この男、下書きをプリントしたものに、鉛筆で校正していましたね。その校正済みのメッセージがインターネットに出ていましたから、この男がシルバーフォックスであることは、間違いございません。

 そうこうするうちに、この男、インターネットで、あの柳原さんと喧嘩を始めるじゃありませんか。まったく、世の中は狭いというか、傑作なお話じゃあございませんか。
 それで、私、このふたりをぶつけることにしたんです。毒をもって毒を制すると申しますでしょ。
 ええ、ノーボディーは私でございますよ。この名前は、以前から悪戯をするときに使っていたものでございます。
 アニメ? ええ、アニメの議論をするときもノーボディーでしたね。いい歳をしたおばさんが『レイナ』なんて、みっともなくて、人には言えませんものね。
 柳原さんの名刺は主人に見せてもらいましたから、必要な情報は全てございます。それを揃えて、シルバーフォックスさんにご連絡差し上げたんでございます。
 案の定、この男の病気は、全然、治っておりません。
 注意して見ておりますと、この男、なにやら、近藤さんの事務所の回りをうろつき始めたじゃございませんか。我ながら、手際の良さと申しますか、悪知恵が働くと申しますか、私自身の賢さに、まったく感心したものでございます。
 ところで、荒木田が近藤さんの事務所を見張り始めたところまでは予想通り、順風満帆だったんでございますが、この男がさっさと柳原さんを襲って、調査どころではなくしてくれるという予想は、大外れでございました。
 この大間抜けは、柳原さんと事務員さんを取り違えてまして、挙句の果てに、事務員さんのボディーガードに額を割られて、アパートに逃げ帰ってくる始末です。さあ、いよいよ私達も命運尽きたかと、この時には思いましたね。

 ところで、私どもの娘でございますが、あんな男のどこがよろしいんでしょうか、主人にだけはなついておりまして、時々、主人に連れられて外出しておりました。あの日、近藤さんと柳原さんが主人に会われた日も、娘と主人が外食をする約束になっておりまして、私が車で娘を銀行まで送り届けました。
 私が宅に引き上げて、大家さんからの電話で荒木田の大失態を知って、さあどうしようと考えておりましたところに、顔を真っ青にした主人と、おびえ切った娘が帰ってまいりました。
 悪い時には悪いことが重なるものでございます。
 主人の話を聞きますと、主人が娘を連れて公園を抜けようとした時、あの男が鉄棒を持って襲ってきたということです。
 この馬鹿は、いったい何を考えていたんでございましょう。額をかち割られた仕返しをしようとでも考えたんでございましょうか。額を割った男が、そう、いつまでも公園になんぞいるわけがないじゃございませんか。まったく、馬鹿の考えることは、わけがわかりません。
 それで、主人を仕返しの相手と取り違えたのか、相手は誰でも良かったのか、この馬鹿は主人を襲い、逆にやられてしまったんでございます。
 主人も娘も、この男が以前、娘を襲った犯人であると、瞬時に気付いたそうです。主人は、この男、生かしておくわけにはいかないと、その瞬間に考えたんだと申しておりましたが、主人はそれほど機転の利く男ではございませんから、ただただ怒りのあまり、滅多矢鱈と打ちのめしてしまったんじゃないかと、私は思っております。
 とにかく、この馬鹿は、今度はめでたく息の根を止められて、二度と悪さができなくなりました。
 主人は、奪った鉄パイプを公園の池に捨てたと申しておりました。これは、主人にしては上出来の処置でございます。

 さて、荒木田の片を付けたことは、喝采すべきことでございますが、肝心の柳原さんのほうは、横領のからくりを暴いてしまい、行内に調査委員会ができるは、警察の調査が入るわで、いよいよ主人と私は窮地に追い込まれました。
 そんなある夜、主人から電話がございまして、これから首を吊ると言うじゃございませんか。なんでも、荒木田を叩き殺したところを誰かに見られていたようで、脅されていると言うんですよ。
 もう、私はびっくり致しまして、なんとか止めさせようと説得したんですが、効き目はございません。
 そんなことは、金でカタを付けるのが常識でございましょう。
 しかし、主人はもう嫌だと申しまして、私の説得に応じてくれません。せめて場所だけはと、やっとの思いで聞き出しまして、公園に駆け付けたんでございますが、時既に遅しでございまして、主人は松の枝にぶるさがっております。
 ここで主人に自殺されたら、銀行の金に手をつけたのは自分だと、白状しているようなものじゃございませんか。
 変質者を叩き殺したところを誰かに見られて、脅されたんで自殺しました、なんて話が世間に通用するとでも思っていたんでしょうかねえ。まったく、主人ときたら、その肝心の道理をわきまえておりません。
 おまけに、主人が計算機を使えないのは周知の事実でございまして、私が、昔、システムセンターにおったことも、銀行の方なら大抵ご存知です。ですから、主人が横領の犯人ということになりますと、私が手を貸したと真っ先に疑われることは、火を見るよりも明らかです。
 とにかく、自殺だけは困ります。
 かといって、主人の死体を動かすことなど、私一人では、とてもできません。
 それで、私は、踏み台を片付けたんでございます。
 ええ、主人が鉄パイプを捨てたという、公園の池に放り込んだんでございますよ。
 踏み台がなければ首は吊れませんから、主人は誰かに殺されたということになるでございましょ。そうすれば、横領事件の犯人は、主人の他にいるということになるじゃございませんか。
 案の定、警察もそのように考えて、殺人事件として捜査してくださいました。

 私のお話は以上です。
 近藤さんには全てお話致しましたが、さあて、どう致しますかね。
 厳密に言えば、私は、横領事件の共犯でございますわね。アブラカタブラをやりましたから。しかし、天地神明に誓って、それ以外の悪事は働いておりません。
 私を警察に突き出しますか? 
 それは、銀行の方とご相談してからが、よろしいんじゃございませんか? 
 いろいろと、明るみに出ちゃまずいことも、ございますからね。
 千八百万、返せというなら、お返し致します。
 それで、このままそっとしておくのが、どちらさまにとっても、いちばん宜しいんじゃございませんかしら。

 

 「『おーっほっほ』、と」エミちゃんは、柳原の持ち帰った録音の最後の言葉を口に出してタイプすると、背骨を一度、思いきり伸ばしてから、近藤たちに言う。
 「しかし、ひどい人ですねえ、このおばさん。今回の事件は、ストーカーにしても、銀行の横領にしても、みんなこのおばさんがやらせたんじゃないですか。それで、警察には捕まらないんですか? もしそうだとすると、あまりにも理不尽な話ですねえ」
 「そうだねえ。俺も、最後には、ひっぱたいてやろうか、と思ったがね」
 「だけど、このおばさん、大馬鹿ですよ。だって、状況を誤解してるもん」柳原は面白そうに言う。「このおばさん、私達が動いているのは、前の調査の続きだと思っているんですよ。だから、警察への報告は、銀行の判断でするんだと信じているんですよ。しかも、銀行は、内々に済ませたがるだろうとね。でも、今回の調査は、前の調査とは全然別で、銀行に報告した内容は、警察へも同時に報告することになっているんですよねえ。だから、大野川夫人の供述の記録を付けた報告書は、銀行にも行くし、警察にも行くわけです。『銀行の方とご相談してからが、よろしいんじゃございませんか』なんて言われたときには、大笑いしそうになっちゃったわ」
 「でも、どうしてこの録音、ちゃんとできていたんですか?」エミちゃんは不思議そうな顔をしてきく。「だって、録音機、止められちゃったんでしょう?」
 「バックアップ。プロのたしなみよ」柳原は、そう言いながら、ボールペンをエミちゃんに見せる。「ボールペンがワイヤレスマイクになってるの。その電波をノートパソコンで拾って、録音してたのよ。今回の大野川夫人の告白は、決定的な決め手になるってわかっていたから、証拠はきっちり残す必要があったのよね」
 「ま、その予想は大当たりだ」近藤は、にこにこしながら言う。「さて、それじゃあ早速、今回の大野川夫人の供述を軸に、報告書を書こうじゃないか。大野川夫人をぎゃふんと言わせるやつをね」
 「ストーカー事件に関しては、百パーセント、解決ですね」柳原が言う。「横領事件の調査を妨害するため、大野川夫人が、婦女暴行の前歴がある荒木田をそそのかして、柳原を襲わせようと考えた、しかし、荒木田は間違えてエミちゃんを狙ってしまったってことです」
 「これに関しちゃ、証拠もあるね。ノーボディーから荒木田に送られたメイル、『とおり』の使われた町内会の決算報告と、論文の草稿。校正した人の証言もあったね。草稿のフロッピーには、大野川夫人の指紋が付いているはずだ。それから、脅迫状もある。句読点が一致しているからね」
 「でも、ストーカー事件、解決して良かったですねえ」エミちゃんは、記録の手を休めて、ほっとしたように言う。「コンドーにとっては、このストーカー事件の解決が最大の課題でしたからねえ。私もこれで、ひと安心」
 「まったくだ。いくら余計な銭を使ったと思っているんだ」近藤も同意する。「これを、大野川夫人に請求するわけにもいくまいし……。いや、まてよ、横領事件との絡みで襲われたわけだから、銀行に請求できるかも。ま、文句言われたらその時だ。エミちゃん、あのホテル代とかも、今回の経費に入れといてね。今の話のところに、ストーカー事件のレポートも、コピーアンドペーストしときゃ良い。報告書が厚くなるしな。それはそれとして、横領事件のほうも、万事解決だね」
 「これはもう、ばっちりです」柳原が言う。「大野川夫人のアブラカタブラは、東都システムセンターで見付けたアカウントと一致します。詳細調査の結果でも、現金が消えたときには、支店長が必ずいたという結果が出てますし、夫人の金遣いの荒さに関するSデパート外商の証言もありますから。過去分は、今、集計していますけど、これを入れると、被害総額は五千万ほどになりそうですよ。横領が行われていたのは、桜が原支店だけだと思いますけど、あちこちに、ちまちまとした補正があるんです。これが、多分、夫人の言っていた、正規の補正分ですね」
 「その、正規の補正分、どうするかなあ」
 「額が少なければ、雑損失として、認めてもらえるんじゃないですか?」エミちゃんが言う。「東都銀行さんの『秘密のノート』ってのを見せていただいて、それに載っている分と、載っていない分を分けて計算すれば、被害総額はきちんと計算できると思います」
 「それ、すぐに、やっときます」柳原はそう言うと、東都銀行システムセンターの明石に、秘密のノートの内容を連絡するよう、依頼のメイルを書く。
 「次に荒木田殺し、こいつも解決だな。犯人は死んでしまっているから、もう、どうしようもないが」
 「池から鉄パイプが出てくれば、大野川夫人の証言が正しいことが実証できるわね」柳原が言う。「実証したからどうなるってもんでもないんでしょうけど」
 「支店長の娘さんの証言が得られれば完璧なんだが、こいつは難しそうだなあ」
 「その娘さんには、可愛そうな結果でしたね」エミちゃんがしんみりと言う。「その子、これからどうするんだろう。自分はヒッキーで、父親は自殺、母親は逮捕されちゃって、多分、横領は弁償しなければいけないから、自宅もなくなってしまうかもしれないのよね」
 「そういう悲劇は、犯罪には付き物だ。犯人は、自分が悪いんだから仕方がないが、その家族は悲惨なもんだ。しかし、だからといって、犯罪を大目にみるわけにはいかん」
 「そうですねえ、可愛そうですけど、しかたありませんねえ」エミちゃんは悲しそうに言う。
 「あとは、支店長の自殺。ちょっと待てよ。これに関しちゃあ、いろいろと問題があるぞ」
 「横領がばれそうになったので自殺したが、その踏み台を夫人が片付けてしまったため、他殺のように見えました、ってだけなら、話は簡単なんですけどね」柳原は言う。「誰がロープを準備したのか、ってのと、誰が脅迫メイルを送ったのか、ってのが残ってますねえ」
 「まあ、ロープに関しちゃあ、支店長が誰かに頼んで準備させたのかもしれないけど」
 「支店長が脅迫メイルを見て自殺を決意したんだったら、ロープは脅迫メイルを出した人物が準備していた可能性が高いですよ」柳原は言う。「だって、脅迫メイルを支店長が見たのは、ロープが目撃されたより、ずっと後のことだったんですよ」
 「そうだねえ。偶然の一致という可能性もゼロじゃない。つまり、支店長が誰かに頼んで自殺の準備をしていたところに、偶々脅迫メイルが届くって可能性もゼロではない。しかし、その確率は極めて低いだろうね。殺しの準備を整えて、そこに支店長を呼び出したってのが正解だろう」
 「あれ、脅迫メイルのように見えたけど、予め取り決めてあった暗号で、『自殺の準備ができました』って意味だったんじゃないですか?」柳原は新説を唱える。
 「それは、ずいぶんと生々しい暗号だな。『ヒトゴロシ』だぜ。支店長は、現に、荒木田を殺しているんだ。暗号で自殺の準備ができたことを伝えるってのは良い考えだが、それにしたって、もう少しマイルドな暗号を使っても良さそうなもんだ」
 「脅迫メイル暗号説の問題は、誰が送ったかってことですね」エミちゃんが言う。「支店長に協力しそうなのは大野川夫人で、差し出し人も夫人が使っていた偽名と同じノーボディーだけど、大野川夫人は、支店長に自殺させたくなかったのよね。その他に、支店長の自殺に協力しそうな人っているのかしら。大野川夫人の情報網があちこちに張り巡らせてあったみたいだけど、夫人に知られずに、こんな大変な仕事を頼むようなこと、支店長にできたのかしら」
 「うーん」柳原と近藤は考え込む。
 「支店長が三本松のところまで来て、それから何が起こったか、ってことも、大問題じゃないですか?」エミちゃんが言う。「大野川夫人は、自殺だって言ってるんですけど、それは、首を吊っているのを見たからそう言っているだけで、首吊りに見せかけた殺人かもしれませんよ」
 「しかし、支店長は、これから首を吊ると、夫人に電話してきたわけだろう」
 「それは、支店長を殺した人が掛けた、偽装の電話かもしれません」エミちゃんは、ぴしゃりと言う。
 「そうだなあ。『脅迫メイルの指示に従って三本松の所に行ったら、自殺の準備ができていたので自殺しました』、って話よりは、『三本松で待ち伏せしてた奴等が支店長の首を吊って殺し、自殺に見せかけた』って話のほうが、ありそうなことだなあ。これが殺しだとすると、誰が、なんの目的で支店長を殺したのか、ってことが謎だなあ」
 「どちらにせよ、支店長に脅迫メイルを送った人がいるんですから、誰が、なんの目的でってのは、自殺でも、殺人でも、どっちにしても謎です」
 「支店長を呼び出した人物は、支店長が荒木田さんを殺したことを知っていたんですよね」
 「支店長が脅迫メイルに応じたのは、荒木田殺しを知られたと思ったからだろうけど、このメイルを出した奴がそれを知っていたかどうかはわからない」近藤は、自分の混乱した考えを何とかまとめようと、口に出して言う。「つまり、銀行業務の関係で死んだ人も何人かいるからね。『ヒトゴロシ』が荒木田殺しを指すとすると、荒木田を殺した現場が公園だから、支店長が荒木田を叩きのめしているところを誰かに見られた可能性がある。そいつが銀行員って可能性は前回議論したが、そうだとしても、横領がばれることを防ぐという動機は成り立たないね。あの横領が支店長夫妻の犯行であることは、今となっては、間違いない。銀行の不祥事が明るみに出ることを恐れたとか、ま、横領と殺しとに関係ありと考える余地もないではないが、ちょっと弱いなあ。結局のところ、なぜ脅迫メイルが出されたのか、ってところは全くの謎だねえ。銀行の人達が言ってたように、横領事件とは無関係の、融資を巡るトラブルが原因で殺されたのかも知れないなあ。支店長の周りをうろついていた女性がいたという、黒田氏の証言もあるし……」
 「どうしましょうか、報告書のこの部分」エミちゃんが尋ねる。
 「わかったことを正確に書いとくしかあるまい」近藤は応える。「何者かがロープを準備したことと、何者かが脅迫メイルを送って、支店長を三本松に呼び出したことは確かだが、それが誰であるかはわからない。支店長は、荒木田殺しがばれたかと思い、脅迫者と交渉するため、三本松に赴いたと推察されるが、脅迫者のいう『ヒトゴロシ』が、荒木田殺しのことであったか、銀行業務に関連して発生した誰かの死に関して責任があるという意味であったのかは不明である。支店長は自殺したのかも知れないが、殺された可能性もある。と、まあ、ここまでは、要するに全然わからないということだが、今回の大野川夫人の証言で明らかになった点として、踏み台は、三本松のところにあり、首吊り自殺に見える状況であったが、大野川夫人がその踏み台を持ち去って、桜が原中央公園の池に放り込んだ、ってのが加わるね。大野川夫人の供述の裏付けとして、池を浚って脚立が出てくれば、物証による裏付けも取れるね。鉄パイプの一件もあるから、あの池は浚うようにとの助言も、報告書には入れておこう」
 「それで鉄パイプが出てくれば、田中さんに掛けられた疑いも、いよいよ晴れるわけですね」

 エミちゃんは猛然とキーボードを叩く。たった今議論した、銀行と警察への報告書を、忘れないうちに書いてしまおうという考えだ。
 電話が鳴る。
 エミちゃんは、長い文章の入力途中で、すぐには電話に出られない。
 電話の呼び出し音が二度、三度と鳴るのを聞いて、近藤はエミちゃんが忙しいことに気付き、自分で受話器を取る。相手は田中だ。
 「あれ、君、どこにいるの? そういえば、事務所、エミちゃん一人だったねえ。駄目でしょ、彼女を一人にしちゃあ」
 「すいません、大事な電話、あったんで。今、ゆーのすけと、相生さんとこ。ゆーのすけ、近藤さんに、話、聞いてもらいたいって言ってるけど、どうします」
 「どうしますも、こうしますも、ないだろう。すぐに行くから、彼女、押さえておいて」
 電話を切った近藤は、柳原に言う。
 「ゆーのすけを田中君が押さえている。すぐに話を聞きに行こう」
 「エミちゃん、どうします?」柳原がきく。
 「他にいないからしょうがない。鍵を掛けて、怪しい奴を入れないようにして、ここにいてくれるかな」
 「でも、ストーカー事件、解決したんですよね。もう平気だと思いますよ」エミちゃんは気楽に言う。
 「そりゃそうだ。じゃ、それほど遅くならないうちに戻ってくるから、ちょっと頼むね」
 近藤はそう言い残し、柳原を連れて、あいおいクリエイトに向かう。

 

 あいおいクリエイトのごみごみとした作業場の一角に、小さな応接コーナーがある。応接コーナーといっても、それほど立派なものではなく、小さなスチールテーブルの周囲に粗末な椅子が並び、周囲を棚で囲っただけのものだ。周囲の棚には、カタログ、スクラップブック、それに様々な素材見本が雑然と置かれている。
 近藤が応接コーナーに入ると、田中と相生が並んで座り、その向かい側に一人の女性が腰掛けている。その顔は、ゆーのすけ。オフミで柳原が隠し撮りした写真で、近藤にもお馴染みの顔だ。
 相生は近藤に席を譲り、棚の裏からパイプ椅子を取り出して、テーブルから少し離れた位置に置き、自分はそこに腰を下ろす。
 近藤は、ゆーのすけに自己紹介して言う。
 「ゆーのすけさん、でしたな。実は、私ども、最近、相次いで桜が原中央公園で発見された変死体に絡む調査を致しておりまして、ゆーのすけさんのお話が参考になるかと考えております。いろいろとお聞かせ願えると大変にありがたいのですが」
 ゆーのすけは、しばし無言だ。
 彼女は、全て話そうと心に決めている。しかし、何をどういう順序で話そうか、考え込んでいるのだ。
 やがてゆーのすけは口を開く。
 「大野川さんを殺したのは私です」ゆーのすけはそう言うと、近藤の前に頭を下げる。「私一人でやりました」
 「それは少々おかしいですなあ」近藤には、ゆーのすけの告白がにわかには信じられない。「あんた一人で、大の男の首が、どうして吊れたんでしょうか? 第一、あなたには大野川支店長を殺す動機がない」
 「少し、お時間、よろしいでしょうか? 最初からご説明しますから」ゆーのすけはそう言うと、近藤に促されて話を始める。

 

 荒木田さんは、悪い人じゃなかったんです。
 荒木田さんと私、それから大野川百合子さん、大野川支店長の娘さんですけど、その三人は、進学校として知られる国立の中学校で一年のときの同級生でした。
 荒木田さんは、実は、一年先輩だったんですけど、中学一年を留年して、同じクラスになったんです。
 中学生で留年するなんて、恥ずかしい話ですよね。
 荒木田さんは、自分が留年したことを隠していたんですけど、百合子さんはクラブの先輩からこの話を聞いてしまったんです。
 百合子さんと私は、その頃、親しい関係にありましたので、百合子さんは、すぐにその話を、私にもしてくれました。
 荒木田さんは、前の年の中学一年の夏休みに、高い熱の出る病気をされて、脳の一部に損傷を受けたとかで、言葉も、ろれつがまわらなっていうんでしょうか、日本語の発音もおかしく、成績もあまり芳しくありませんでした。
 そんなことで、まあ、クラスの笑い者というんでしょうか、最近の言葉で言えば、いじめられっ子になってしまったんです。
 いじめる側の代表格が百合子さんでした。
 私は、そういうことは、好きではなかったんですけど、百合子さんとは友人関係を続けていましたので、いじめる側に回る格好となりました。
 いじめは、五月頃から、十月までの、半年ほど続きました。
 十月のある日、百合子さんのグループが、たまたますれ違った荒木田さんを指差して、これ見よがしにひそひそ話をして、どっと笑ったんです。
 こんな行為は、日常茶飯事のことで、百合子さんもそれがどんな結果を招くかなんて、思ってもいなかったんでしょうね。
 大きな不幸が大勢の人を襲うことになる、そもそもの発端って、本当につまらないことなんですね。
 荒木田さんと百合子さんを襲った大きな不幸の発端は、その時、荒木田さんが、偶々道端で拾った竹の棒を持っていたことだったんです。
 普段は、ただいじめられていた荒木田さんだったんですけど、手にした竹の棒が彼を元気付けたんでしょうか、この時は竹の棒を水平に構えると、フェンシングのように、百合子さんに向けて突き出したんです。
 竹の棒は、百合子さんの頬に突き刺さりました。
 普通の人であれば、顔の前に竹棒を差し出されれば避けると思います。だけど、百合子さんは近視なのに、眼鏡を掛けていなかったんです。百合子さんは、教室では、黒板を見るために眼鏡を掛けるんですけど、それ以外の時は、まず、眼鏡を掛けません。もちろん、外見を気にしてです。ですから、街中を歩いていて危ないなと感じたことも、一度や二度ではなかったんです。
 さて、荒木田さんが突き出した竹の棒ですけど、運の悪いことに、先端が鋭く斜めに切ってありました。百合子さんは、頬を貫いた竹棒の先端が口の中に出るほどの怪我で、出血もひどく、近くのお店の人が呼んでくれた救急車で、病院に運ばれました。
 荒木田さんは、自分のしたことの結果に驚き、呆然と立ち尽くしていましたが、近所の人に取り押さえられ、警察に連行されました。
 口の中の怪我は治りが遅いんだそうです。それから、嫁入り前の娘の顔の傷ということで、跡が残らない治療をしたということもあったんでしょう。百合子さんの入院は一ヶ月あまりに及びました。
 百合子さんの怪我が全治一ヶ月の重傷だったことが理由だったのか、大野川さんのご両親が荒木田さんをけして許そうとしなかったためかは知りませんが、荒木田さんは傷害罪で逮捕、起訴され、学校も退学になりました。
 裁判では、まず、傷害が故意に行われたのか、単なる事故であったのかについて争われました。
 荒木田さんの側は、たまたま突き出した竹の棒が百合子さんの頬に当たってしまったものであり、本人には傷害の意図もなく、竹棒の先がそんなに鋭くなっていたことにも気付いていなかったと主張しました。
 また、百合子さんが棒に向かって動いたことが傷害の原因だという証言もあったんですが、荒木田さんが突き出したことが原因だという証言もありまして、裁判官は、荒木田原因説を採用したんです。
 実際のところ、百合子さんはふらふらと前後に動いていましたから、その場にいた私には、どちらが原因とも言い難いように思えます。
 しかし、荒木田さんが棒を突き出したことも事実だし、それが百合子さんの頬を傷つけたことも事実ですから、百合子さんの怪我が荒木田さんの責任とされることは、仕方のないことだと思います。
 その次に、二つの点に議論が集中しました。一つは、百合子さんたちによる荒木田さんへの執拗ないじめ、もう一つは、荒木田さんの精神状態です。
 裁判所の判断は、第一に、百合子さんたちのいじめは、非道な行為であり、犯行の引き金とも考えられるが、このような背景下であったとしても、傷害行為は許されるものでないとするものでした。
 しかし、二つ目の論点に関しては、荒木田さんの精神が犯行当時正常でなかったと判断し、傷害罪に関しては無罪とし、荒木田さんには、精神的欠陥を治療するために入院を求める、という判決が下りました。
 この裁判の間に、百合子さんはおかしくなってしまったんです。
 それは、荒木田さんに怪我を負わされたショックもあったでしょう。
 しかし、私には、裁判の過程で、被告側の弁護士から、百合子さんのいじめ行為について、執拗に追及されたことが原因だったと思えてなりません。実は、私も、いじめグループの一人として裁判所に何度か呼び出され、相当に落ち込んだものです。
 いずれにしても、百合子さんはそれ以後、外出を怖がるようになり、結局、学校も辞めてしまいました。
 荒木田さんは、しばらく病院にいましたが、元々、暴力的傾向があるわけでもなく、傷害も、たまたま、尖っていた竹の棒が、百合子さんの頬に当たってしまったからに過ぎません。すぐに、社会復帰を許され、公立の中学に入りなおして、無事に卒業されました。
 そうは言っても、この事件が荒木田さんに残した傷は計り知れません。学校は退学処分になりましたし、病院から出てきたあとも、精神異常のレッテルを貼られ、近所の人には後ろ指を差され、自宅を出て、事件を知らない人々の間で、一人で生活することを余儀なくされました。
 荒木田さんの悲劇は、百合子さんが原因だとしても、私にも責任の一端があります。
 私は、入院中の荒木田さんに、これまでの自分の行為を詫び、その後の社会復帰を、陰ながらお手伝いすることとしました。
 一方、この結果に気が納まらないのが大野川さんのご両親、特にお母さんです。
 被害者である自分の娘は、心に傷を負い、いまだに自宅から出られない状態であるのに、加害者の荒木田さんは、一年もしないうちに病院を退院して、中学も卒業して、社会に出て普通に働いているわけですから。
 大野川夫人は、荒木田さんの跡をつけまわしました。荒木田さんがこの町のアパートに越して来ると、大野川夫人は、アパートの管理人を買収して、荒木田さんの留守中に部屋の中を調べていたんです。
 これは、私が荒木田さんにお貸ししたマックで動かぬ証拠を掴んで、管理人さんを問い詰めて白状させたんですよ。
 あのマックにはテレビカメラが付いてまして、数秒ごとに部屋の様子を撮影して、ハードディスクに保存していたんです。だから、荒木田さんには、マックの電源は切らないように、お願いしておきました。
 大野川夫人が荒木田さんにしたことで、たった一つ良いことがありました。
 大野川夫人は、荒木田さんに、新宿駅近くのコンビニの深夜の店員の仕事を斡旋したんです。
 これは、荒木田さんに、ノーボディーを名乗るメイルを送って、新宿のコンビニに行くように指示し、一方で、大野川支店長からコンビニの経営者に圧力をかけて、荒木田さんを雇わせたんです。
 この細工が明るみに出たのは、荒木田さんがコンビニで失敗をしでかした時に、店長が不用意に洩らした一言からでした。
 店長は、銀行からの依頼があったから雇ってやっているんだ、と荒木田さんに言ってしまったんです。荒木田さんは、その言葉の真意を店長に問いただして、大野川夫妻の動きを知ったんです。
 善意に解釈すれば、大野川夫妻は、自宅付近から荒木田さんを追い払いたかったんでしょう。少なくとも、深夜、新宿のコンビニに荒木田さんを勤めさせておけば、その間、自分たちは荒木田さんから被害を受けることはありません。
 しかし、私には、大野川夫人の狙いがそれだけであったとは思えません。
 大野川夫人は、ノーボディーの名前で荒木田さんに恩を売ることによって、荒木田さんを操ることを狙っていたように思われます。また、新宿という、刺激の強い場所に荒木田さんを送ることによって、事件を起し易い状況にしようという意図があったのではないかと思います。
 ノーボディーからは、その後、何通かの気味の悪いメールが荒木田さんに送られました。それは、知らない女性のデータと行動パターンを伝え、荒木田さんがその女性たちを襲うよう、煽っているとしか思えないメイルでした。
 これらのメイルは、全てフロッピーディスクに入れて、私が保管しています。荒木田さんのところにおいていたのでは、あの管理人に、どうかされる危険がありましたからね。
 このメイルと、管理人さんが荒木田さんの書類を盗み出した証拠写真は、フロッピーに入れてお持ちしました。大野川夫人は、どのみち、起訴されるんでしょうけど、その時の罪状に、これらの犯罪行為も付け加えて頂ければ幸いです。
 もし、荒木田さんが、粗暴な性格だったら、これらのメイルに反応して、第二、第三の暴行事件を起していたかもしれません。しかし、元々、荒木田さんにそんな傾向はなく、最初の頃は何事も起こりませんでした。
 しかし、柳原さんと口論したあとに送られたメイルには、荒木田さんは反応してしまったんです。
 彼は、何度か柳原さんを付けまわし、ついには、柳原さんを襲ってしまいました。
 私はあの夜、たまたま、荒木田さんのアパートを訪れました。荒木田さんは、額から血を流して帰ってくると、アパートの前で待っていた私に、事の顛末を話してくれました。
 私は、荒木田さんを部屋に入れると、怪我の手当てをしました。幸い、荒木田さんの額の傷は大したことではなく、血もすぐに止まりました。
 私は、荒木田さんの愚行を引き起こす原因となった、ノーボディーのメイルと、柳原さんとのやり取りをフロッピーに格納しました。そして、他人を襲おうなどという馬鹿な考えは止めて、その日は早く寝るよう、荒木田さんに言って、アパートを後にしました。
 ところが、私が出たすぐあとに、荒木田さんはアパートを飛び出したんです。
 不審に思った私が彼の跡をつけると、彼は再び中央公園に戻り、鉄パイプを準備しています。
 これは止めさせなければいけないと考えているうちに、あの支店長が通りかかり、荒木田さんともみ合いになりました。支店長は、荒木田さんから鉄パイプを奪い取ると、何度も何度も荒木田さんの頭を殴り付けました。明らかに、それは、荒木田さんを殺そうとしたものです。荒木田さんは、前のめりに倒れて動かなくなりましたけど、支店長は、その頭を後から、何度も何度も鉄パイプで叩きました。
 支店長はその後、荒木田さんの死体を茂みに隠し、パイプを公園の池に放り込むと、傍でおびえ切っている百合子さんを連れて、どこかに消えてしまいました。
 私は支店長の姿が見えなくなってから、倒れている荒木田さんに駈け寄りましたが、既に手遅れであることは明らかです。
 私はその時考えました。
 私がこの話を警察にしたとしても、支店長は、荒木田さんに襲われたため止む無く反撃したと、正当防衛を主張するでしょう。仮に過剰防衛と判断されて支店長が罪に問われても、死刑になることはあり得ません。それは、荒木田さんが殺されたことを考えると、あまりにも不公平です。
 私は、復讐の機会を狙って、しばらく、支店長の様子を探りました。
 支店長の精神状態が普通でないことは、傍目にも、はっきりわかります。
 そういえば、百合子さんがおかしくなったのも、父親である支店長に元々そういう精神的な弱さがあって、それが遺伝したのかもしれませんね。
 これは、一押しすればよい。そうすれば支店長は、自ら、破滅するだろう、そう考えた私は、三本松に首吊りの用意をして、支店長に脅迫を装ったメイルを出して、あの場所におびき出したんです。
 そのメールでノーボディーを名乗ったのは、大野川夫人に対する復讐の意味も込められていました。
 大野川支店長があの場で自殺しなくても、第二第三の機会を作るつもりでした。しかし、首吊りの準備を見た支店長は、それを使って、あっさりと自殺しました。
 これは私の贖罪です。
 私の荒木田さんに対するひどい行ないを償うため、荒木田さんに代わって、荒木田さんを殺した男に復讐したのです。
 私は、この行為で罰を受ける覚悟もできています。私は、それを、荒木田さんを傷付けたことに対する罰だと考えるでしょう。ですからこの話、警察にも、包み隠さずお話いただいて構いません。

 柳原さんを中傷する記事? あ、それ、私が出しました。
 柳原さんにも、荒木田さんの死に対して、多少の責任はあります。少なくとも、荒木田さんに著しい不快感を与えたことは確かです。
 ですから、柳原さんが多少の不快感を感じたとしても、それはおあいこでしょう。
 しかし、ネットの世界で、あの程度のことを不快に感じるようじゃあしょうがありませんね。これは、荒木田さんに対して言ったことなんですけど、柳原さんに対しても言えるんじゃないでしょうか?



第九章   エピローグ
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 その夜、近藤は事務所のみんなを焼き鳥屋に誘う。
 ゆーのすけの告白で、この事件は全て解決だ。エミちゃんが作製中の報告書は、ゆーのすけの告白に基づいて、明日、書き直すこととした。
 事件解決は嬉しいが、近藤にはどっと疲れが出た。この二週間、コンドーの社員全員、休みなしだった。近藤は、疲れているのが自分だけではないことをよく分かっている。そこで、ビールの乾杯が終ると、早速全員に提案する。
 「えー、きっちり二週間前に始まったストーカー事件から、東都銀行の横領事件と殺人が二件、この二週間というもの、全員休みなしでよく頑張ってくれました。諸君のご活躍もあって、全ての事件は本日、めでたく解決致しました。そこで、少し、休みを取ろうかと思うのですが、どうでしょうか」
 近藤、そこまで話すと、全員の顔を見渡す。エミちゃんと柳原は、音を立てずに拍手している。田中は、「異議無し」と言って胡座を組み直し、にこにこしながらビールを飲み干す。
 「えー、休日出勤が四日ありますんで、明日の火曜日から、水、木、金と休めばちょうど代休四日ということになります」近藤は話を続ける。「が、エミちゃんには報告書を書いてもらわなければいけませんので、明日は出てください。報告書、午前中には終るでしょ?」
 「大丈夫です」エミちゃんは応える。「請求書も一緒にお渡しできますよ。で、そうしたら、明日の午後から休んじゃって良いんですか?」
 「もちろんさ。で、私はそれを持って、午後に、警察と銀行に説明に行きます。これには柳原さんも、付き合ってください」
 「了解」柳原は気楽に応える。
 「銀行と警察には、概略を電話で連絡しておきました。警察は、すぐに大野川夫人の身柄を押さえる、と言っていました。東都銀行さんからは、ストーカー事件に関る経費も、銀行で持って頂けるとの内諾を得ております。つまり、あのホテル代は、銀行持ちということです。そういうわけですので、柳原さんも、本日は安心して、大いに、飲んでください。私の話は以上」そこまで言うと、近藤は座って、ビールで喉を湿らす。
 「良かったあ」柳原は、そう言うと、一気にグラスのビールを空ける。
 「俺の人件費も請求できるのかな? 警察に行ってた分と、アニメフェアの分」
 「入れちゃえ、入れちゃえ」近藤は無責任に言う。「駄目なら駄目と、向こうから言ってくるだろう。アニメフェアも、大野川夫人を確認しているから、まるっきり無駄というわけでもない。この部分も、報告書に、ちゃんと入れておいてね」
 エミちゃんはにっこりと頷いて言う。「コスプレの話は省略した方が良いでしょうねえ」
 「そうだねえ、あまり調査の本筋には関係ないからねえ。それにコスプレ衣装の費用は、あいおいクリエイトさん持ちだから、ウチは人件費だけ貰っておけば良いわけで、あまり話をややこしくしない方が良いだろうね」近藤は上機嫌でエミちゃんに応える。
 今回の報告書は、かつて例を見ない、分厚いものになりそうだ。
 銀行とコンドーの関係も上々だから、報酬の上乗せも期待できそうだ。

 近藤たちが飲み始めたときは、外はまだ明るく、店内も空いていた。しかし、今、外は真っ暗になり、店内も空席を探すのに苦労するほどの混みようだ。
 近藤たちのテーブルの上には、焼き鳥その他の料理の皿が並び、冷酒五合瓶が三本、空となって横たわり、四本目の冷酒の封を近藤が切ったところだ。
 「女は怖いよ」近藤は、自分のグラスにたっぷりと冷酒を注ぎながら、偽らざる感想を洩らす。「事件の謎は解決したが、女心は永遠の謎だな」
 「何、ロマンチックなこと言っているんですか」柳原は言う。
 「饅頭、怖い、とかね」田中も茶々を入れる。
 「可愛い女だっているでしょう」エミちゃんはピントの外れたことを言う。「怖い女ばかりじゃありません」
 いつの間にか、エミちゃんは相当に飲んでいる。
 (これはまずいぞ)近藤は、アルコールのために回りが鈍くなっている頭で考える。
 エミちゃんは自宅通勤だ。だから、これが終れば自宅に帰る。当然、両親は酔ったエミちゃんの姿を見ることになるだろう。それがあまりひどい状態だと、エミちゃんの両親は、エミちゃんにコンドーを辞めさせようとするかもしれない。
 (これはまずい)近藤はあたりを見渡して再び思う。
 最初はビールで始めた宴会だったが、いつの間にか、みんなが冷酒を飲んでいる。
 冷酒は、ビールに比べて、はるかに悪酔いし易い。特に、アルコールに免疫のないエミちゃんには、冷酒は危険性が高すぎる。
 「どうして? 君まで冷酒を?」
 「だって、所長が、さっき、奨めたじゃないですか」エミちゃんが応える。「美味しいですねえ、これ。でも、お酒をオンザロックで飲んだのって、初めて。こういうのって、普通なんですか?」
 近藤は、自分の失敗を思い出す。

 口の広いグラスに、氷をたっぷりと入れる。
 そこに冷酒をたっぷりと注ぐ。
 酒はそれほど上等なものでなくとも良い。
 これが旨いのなんのって。

 近藤は先ほど、自ら実演して、みんなに冷酒のオンザロックを奨めたのだ。
 「冷酒のロック、かっこ悪いけど、旨いから許す」田中はえらそうに言う。
 「そう、形に拘っちゃいかんな。真の幸せは、形になんかにゃあない。その中身が問題なんだよ。つまり、味が問題ってことだな」近藤は、ろれつが怪しくなってきた口で言う。
 「どうして、ゆーのすけさんは告白する気になったんでしょう」エミちゃんが目を座らせて言う。「大野川夫人の告白を聞けば、喋らなくちゃ、って気になるんじゃないかと思うんですけど、ゆーのすけさんは、その内容を知っていたんじゃないかしら?」
 「そいつは無理だろう」近藤が言う。
 「大野川夫人の告白、ワイヤレスマイクで録音したんですよね」エミちゃんが言う。「だから、ゆーのすけさんがFM受信機を持って支店長の自宅の近くにいたとすれば、話の内容を聞くことができます。車のラジオでも受信できますね」
 「しかしそれができるためには、彼女は二つの情報を知っていなくちゃいけない」近藤は言う。「第一に、我々がワイヤレスマイクを使っているってことを知らなくちゃいけない。その周波数も、わかっていなければ、電波を探すのは、大変だと思うよ。第二に、我々が大野川夫人の話を聞きに行ったってことを知らなくちゃならない。我々が夫人を横領事件の片割れと断定するに足る証拠をつかんでいて、それをぶつけに行くんだ、ってことをね」
 「でも、その二つの情報さえあれば、ゆーのすけさんは、大野川夫人の話を傍受したい、って思うんじゃないかしら」
 「そりゃあそうだな。天敵みたいなもんだからな、あのふたりはね」
 「で、誰かが彼女にその情報を伝えた、ってことはなかったのかしら」エミちゃんが言う。「それができそうな人って、一人しかいないんですけど。でも、私は、その人を非難するつもりは全然ないし、報告書に書かなきゃあ、とも思ってません。それに、結果的には、良いことだったんですよねえ」
 「おいおい、そりゃあ爆弾発言だぜ」近藤が言う。「つまり我々の誰かが、ゆーのすけ嬢に情報を横流し、したってことか?」
 「この人って、良いことも、たまにはするんですけど、ろくでもないことは、しょっちゅうするんですよねえ」
 エミちゃんは相当に酔いが回った様子で、倒れかけたコマのように、上体が歳差運動を始めている。
 「すみません」田中が言い難そうに口を開く。「ゆーのすけ、俺にコンタクトしたけど、真実は誰にも明かせないって。でも、大野川夫人の悪を暴いてくれるんなら、全部話すって。だから、二人が夫人に会いに行った時、俺、周波数教えた」
 「馬鹿野郎」近藤が田中に言う。「これは、完全に職務規定違反だぞ。いろいろやる前に、俺に、こっそり聞かせてくれたって、良かったろう」
 田中は小さくなって消え入りそうだ。それを見た近藤は、田中を安心させるように言う。
 「まあしかし、事前に聞かせてもらったところで、俺は、オマエがやったようにやれと言ったろうがね」
 「で、俺、結局どうなります?」田中が尋ねる。「首ですか?」
 「ばーろ、オマエは無罪放免だ」
 近藤の上体も相当にふらふらしている。
 エミちゃんはといえば、既にテーブルに突っ伏して、寝息を立てている。
 「良いのかなあ」田中がポツリと言う。田中も、先ほどから相当に飲んでいるはずだが、まだ完全に素面だ。
 「良いんじゃないの、別に」最初からマイペースの柳原は、つくねの串に手を伸ばしながら言う。「いろいろあったおかげで、事件が解決したんだし。それに、焼き鳥、残すと、もったいないよ」
 柳原の冷静な意見に、田中は、先ほどまでの落ち込みようが嘘のように、元気を取り戻す。
 「よし、今夜は、飲むか」
 田中はそう言って、手酌で冷酒をなみなみと注いだグラスに口を当てると、そのまま上を向き、グラスの酒を、一気に口の中に流し込む。
 急に元気になった田中が言う。
 「夜は、これからだぜ」
 柳原は、うんざりしたように応える。
 「あんたに付き合ってられるのは、ノーボディー」


 
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