エミちゃんの事件帖#1

アイソレーク



目次

第1章 アイソレーク
第2章 クラッカー
第3章 洞窟
第4章 バルネット
第5章 チェイス

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第1章 アイソレーク

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 アイソレークは、孤立(アイソレート)した湖だ。
 その名前の由来は、この湖には、流れ込む川も、流れ出す川もないことによる。
 アイソレークは、その湖周辺一帯の地名でもある。
 この地に住む人々にとって、その地名は、人の出入りが遮断された孤立地帯を意味する。
 アイソレークとその湖畔のわずかな平地は、切り立った山々に囲まれている。アイソレークと外界を結ぶルートは、その山に穿たれた、長いトンネルただ一本だ。
 そのトンネルの双方の入り口は、厳重に警備されたゲートで遮断されている。周囲の山にも、幾重にも張られた鉄条網と無数のセンサーが設置され、人の出入りを拒んでいる。
 このような監視体制がとられているのは、もちろん理由があってのことである。
 アイソレークから流れ出す川がないということは、この湖に危険な薬品が流出しても他に被害を与えないことを意味する。これに目を付けた県は、アイソレーク一帯を買い上げ、危険物を扱う工業団地を造成し、企業誘致に乗り出したのだ。
 いま、アイソレーク周辺に立地するのは、原子力発電所、放射性廃棄物再処理工場、薬品会社、大学の研究施設等々で、ほとんどの事業所が放射性物質を扱うものだ。このような事業所は、各地で住民の反対運動に合い、移転先を求めていた。アイソレークの工業団地計画は、彼等にとって、まさに、地獄に仏、渡りに船だったのだ。
 ラジオアイソトープ(放射性同位元素)を扱う場所だからアイソレーク。アイソレークに進出した企業に務める人たちの中には、アイソレークの名前の由来を、そう信じている人も多い。
 アイソレーク一帯の厳重な監視体制は、もちろん、放射性物質の不正持ち出しを阻止することだ。
 放射性物質は、取り扱いを誤ると人体に種々の放射線傷害を引き起こす上、テロ活動などの犯罪に使用されると大きな被害を招きかねない。このため、放射性物質を扱う施設の保安管理には格別の配慮が必要だ。
 アイソレークでは、いくつもの施設が放射性物質を扱うことから、共同の保安管理体制が敷かれている。
 アイソレークと外界とを結ぶただ一本のトンネルには、双方の入り口にゲートが設けられ、出入りする車輛を二度にわたって厳重にチェックしている。
 アイソレークを取り囲む山の尾根には、電気仕掛けのセンサーを持つ金網が幾重にも張られ、尾根に設けられた三ヵ所の監視所から、二十四時間体制で監視が行われている。
 そんな厳重なセキュリティシステムを持つアイソレークでも、犯罪と無縁ではいられない。
 アイソレークを覆う朝霧が消えゆく四月十二日の午前九時すぎ、トンネル両側の守衛所と監視所に警報音が鳴り響き、非常放送が流れる。
 「緊急放送。緊急放送。アイソトラック社よりトリウム228二千本が盗難との通報。各ゲートはチェックを強化すると共に、監視レベルを最大にしてください。繰返します……」
 
 四月十四日午前十時、都下桜が原の街は、一刻の静寂に包まれている。
 近くの地下鉄駅に向かう通勤客の足も途絶え、シャッターを開けたばかりの商店には、買い物客の姿も疎らだ。
 そんなメインストリートに面した四階建てビルの二階にある株式会社コンドーにも、ゆるやかな時間が流れている。
 コンドー社内で唯一喫煙可能な応接室で煙草を吹かしながら新聞を読んでいるのは、同社の代表取締役、近藤夏樹である。夏樹という名前は、よく女性と間違えられるが、近藤は男性であり、柔道で鍛え上げた大男である。
 昨年までコンドーは、近藤調査事務所という看板を掲げて信用調査などを扱う、ごく普通の探偵事務所だった。しかし、一昨年、ある調査を通じて知り合ったハッカーと意気投合して一緒に仕事をするようになってから、計算機の監査と不正使用調査の仕事が増え、今では、コンピュータ犯罪専門の探偵事務所となってしまった。
 近藤は探偵だ、と自負している。事実、昨年までは、近藤調査事務所の調査活動をほとんど一人で切り盛りしていた。しかし、計算機となると、実のところ近藤にはよくわからない。調査員たちが話す言葉は、最近でこそ、門前の小僧よろしく、意味が理解できるようになってきたが、この業務をはじめた頃は、得体の知れない外国語のように思えたものだ。
 だから近藤は、実際の業務を調査員に任せている。近藤が出動するのは、新しい業務を開始して状況が掴めるまでの間と、調査活動の雲行きが怪しくなった場合である。
 計算機犯罪といえば、青白い顔をした技術オタクの犯罪というイメージがあるが、組織的な計算機犯罪を調査する場合、暴力を得意とする連中との遭遇も珍しくない。そんなときには、近藤の体格と柔道の技がものをいうことになるのだ。
 本日のところは、差し迫った状況にはない。
 調査員二名は、勝手のわかった企業の監査業務に出張しており、問題が起こる可能性は少ない。その他に問題社員を約一名抱えてはいるものの、経営上も収支トントンからわずかに黒字の状態が続いている。
 近藤は優雅な朝のひとときを楽しむ。
 熱いブラックコーヒーは、身体中に残る昨日の酒を追い出してくれる。
 わずかに透かした窓から吹き込む春風が新聞の端を揺らし、穏やかな陽光は近藤の背中を暖める。
 近藤は、このまま居眠りをしたいという欲求に駆られる。
 近藤はボスだから、居眠りをしたところで、だれに咎められるわけでもない。
 ここで居眠りをするだけの正当な理由もある。
 昨夜はクライアントを接待して、三軒ほどの梯子酒につきあった。寝たのは午前三時頃だと思うが、正確な時間は記憶にない。
 昨日は先方も相当に酔っ払っていたから、確定したとはいえないが、監査業務はコンドーさんにお任せしたいとの言質は取った。二〜三日後に提案書を持って訪問すれば、システム監査の受注が決まる可能性は相当に高い。しんどい一夜だったが、近藤は、いい仕事をしたと思っている。現在半ば休眠状態にある問題調査員に数社の監査業務を専任させれば、コンドーは経営面でも磐石の備えとなるだろう。
 近藤が誘惑を押え切れずれず、船を漕ぎ始めたとき、秘書役兼事務員のエミちゃんが応接室の扉を開けて言う。
 「所長、お電話です。調査の依頼みたいですよ」
 「あ、はいはい」
 瞬時に目を覚した近藤は、急ぎ足で事務室に向かうと、自分のデスクの前にある受話器を取り、赤いランプが点滅するボタンを押す。
 「お電話代わりました。近藤です」
 「アイソトラックの仲根と申します。実は、調査をお願いしたい件がございまして、本日か明日、近藤社長様のお時間を拝借できませんでしょうか」
 近藤は、調査員のスケジュールが書かれた、壁のホワイトボードに目をやる。
 近藤の予定は、夜の埋まっているところが二〜三あるだけで、ほとんど空だ。調査員ふたりの欄には出張と書かれた矢印が横断しているが、柳原調査員の欄は、ずっと空白だ。近藤は受話器を押さえて、エミちゃんに聞く。
 「柳原(やないばら)君のスケジュール、空いているけど、彼女、暇なのかなあ?」
 「柳原さんは、仕事入ってません。昼過ぎに来るとか言ってましたけど」
 「午後一にはちゃんと来るように連絡しといて」近藤はエミちゃんにそういうと、受話器に向かっていう。「はい、今日の午後でしたら空いております。明日でも結構ですが……」
  「ちょっと複雑な事情がございまして、こちらにご出張していただけるとありがたいんですが、どうでしょうか?」
  「場所はどこですか? 出張となりますと、お受けできない場合も、一日分の料金をいただくことになりますが」
  「場所はアイソレーク、御社からなら、車で三時間ほどですか。宿のほうもご用意致しますので、今日と明日の二日関、ご検討いただくということで、お願いできますでしょうか」
  むろん、近藤には異存ない。
  「かしこまりました。おうかがいいたしましょう。それで、おおよそ、どのような問題が起こっているか、予めお教え願えませんでしょうか。 複雑なご事情がおありのようですが」
  「これは、ちょっと、ここだけのお話にしていただきたいんですが……」
  「あー、もちろん、御依頼主様の秘密は厳守致しますよ」
  「ご存知のように、アイソレークは完全なセキュリティシステムを配備しておるんですが、先々日、不可解な盗難事件が発生致しまして、セキュリティシステムに何らかの細工がなされた疑いが濃厚です。この分野での近藤様のご高名はかねがね伺っておりまして、ぜひとも先生方にご協力いただきたいと考えておりまして」
  「ははあ、セキュリティシステムに対するクラッキングが行われたということですな。そういうことでしたら、技術者を一人連れていきたいと思いますが、よろしいでしょうか」
  「ああ、それは願ってもないことです。それでは、今日明日の二日間、おふたかたにご調査いただくということで、よろしくお願いします。それから、もうおひとかたのお名前は何とおっしゃいますでしょうか? ゲートの方に連絡致しますので」
  「柳原、です。柳の木に原っぱの原と書いて、ヤナイバラです。それと、私、近藤がおうかがい致します。これから準備を整えまして、昼過ぎにこちらを出ますんで、多分、四時前にはおうかがいできるでしょう」
  「それでは、四時にお待ちしております。よろしくお願い致します」
  電話を切った近藤は、エミちゃんに向かって言う。
  「ふたりで二日出張で、請求書書いといて。それから、柳原君捕まった?」
  「はい。一時には顔を出すと言ってました。伝票、二日丸々付けちゃっていいですか?」
  「構わんよ。まだ朝だ」
  近藤はエミちゃんにVサインを示す。
  コンドーは、昨年までは近藤調査事務所と名乗っていた。だからエミちゃんは近藤を所長と呼ぶ。『株式会社コンドー』になったといっても、近藤とエミちゃんまで含めて社員総数五名の、小さな会社だ。
  現在調査員を務める三人は、いずれもハッカーで、以前は種々の悪事にも手を出していたのだが、近藤に奨められてシステム監査の資格を取り、今では調査員という「正業」に就いた形だ。
  「まあ、私が彼らを更正させたって訳ですなあ」近藤は顧客に自社の説明をするとき、よくこう言うが、この台詞、調査員たちに聞かせるわけにはいかない。
  調査員たちは、コンドーでの仕事、つまり、『計算機犯罪の調査とその防止のための助言および監査』という業務に満足しているようだ。しかし、近藤とはときどき意見が異なる。
  「んな、かったるいことを」
  これは、調査員たちのよく口にする言葉だ。
  彼等が仕事をする目的は、その内容であって、金ではないといわんばかりだ。
  近藤にしてみればそうはいかない。請求書を出して金を貰わねば事務所はやっていけない。そのための伝票の処理や、交通費の精算、細々した事実を記した報告書の作製など、調査員たちのいう「雑用」は、調査以上に重要な業務なのだ。
  エミちゃんは、そういう意味では貴重な戦力だ。彼女は、計算機の仕組みなど全く知らない。しかし、調査員たちが送って寄越す断片的な情報をまとめて、分厚い、立派な報告書を作成するという特技がある。この報告書と、きちんと集計した経費のリストを提出すれば、たいていの顧客は、期限までに、きちんと入金してくれる。
  コンドーは、調査員ふたりが仕事をしていれば充分やっていける。少なくとも今日明日の二日間は四人がフル稼働だから、この二日間は、かなりの黒字となる。
  儲かるときに儲けておけ、というのはコンドーの経営戦略であり、作戦通り事態が展開しているのは大変に好ましいことだ。
  「だれも仕事をしない日だってあるんだから、油断をしちゃあいけませんよ」
  意味がないとは知りつつ、近藤はエミちゃんを諭す。エミちゃんは、にっこり笑うと「はい」と応える。
 
  「ほれ、いくぞ」
  午後一時、悠然と事務所に現れた柳原を攫うように車に乗せ、近藤はアイソレークに向かう。
  近藤は、柳原のスタイルを見て眉をひそめる。つなぎのジーパンに薄いジャンパーを引っかけたラフなスタイルは、計算機技術者のスタイルとしては穏やかな方だが、枯草色に染めあげた柳原の頭は、ぼさぼさである。
  「君ね、その頭、なんとかなんないかね。これから客に会うんだけど」
  「こういう形にセットしているんです」
  柳原の応えに、近藤は言葉を失う。
  (そういえば、最近、こういう頭をした奴を時々見掛けるが……流行ということか?)
  道すがら近藤は、アイソレークとアイソトラック社に関する情報を柳原に説明する。今日の午前、分厚い要覧とネットで、関連情報を仕入れておいたのだ。
  「まるで平家の落ち武者ですね」プリントアウトを読みながら助手席の柳原が言う。
  「いじめに遭っているようなもんだな」
  近藤は、アイソトラック社の肩を持ちながらハンドルを握る。しかし、柳原は容赦ない。
  「だれだって嫌ですよ。放射能なんか隣に持ってこられたら」
  「安全基準を守ってやっているんだ。悪者みたいに言われちゃあ気の毒だな」
  「だけど、アイソレークに集まったのは、住民に追い出されたからってだけじゃないみたいですね。住民の不安解消と企業の利益が一致したって書いてありますよ」柳原は、近藤に渡されたコピーを突き出して言う。
  「そう、リスク対策とセキュリティの確保だって書いてあるね。あそこなら、何かあっても被害が限られるから」
  「いくら安全だといっても、万に一つの可能性はあるわけで、それを企業も嫌ったということですよね、でも、住民もそれを嫌っているんですよ。万が一にも自分たちの生命が脅かされたら困るじゃないですか。こういう場合は、企業がリスクを口にしちゃあ駄目ですよ。反対運動が正しいってことになってしまうわ」
  「リスクはあるさ。危険なものを扱っているんだからね。そういう意識がないほうが、よほど危ない」
  「本当に危ないのなら、危ないから嫌だという住民に、絶対安全なんて嘘ついたりしちゃだめですね。そんなことしてるから、八方塞になって、どこにも工場できないのよ」
  「まあ、結局ここに集まったわけだからね。企業も安心、住民の不安も解消されて、ご同慶の至りだ。集まっていると、保安を共同でやれるってのも強みだね。放射線モニターなんか、一式で済むからね。それから、プルトニウムや放射性同位元素を過激派が狙うんじゃなかろうか、という心配もあって、こういった物は厳重に管理しなくちゃいけないんだ。一箇所にまとめて管理するってのは、賢いやりかただと思うよ」
  「セキュリティシステムなんて、たいていは、穴だらけですよ。どうせ、コンピュータ使っているんでしょ」
  「今回もそれが問題らしい。我々に話が来たのは、だれかがセキュリティホールを突いたってことだろう。我々の仕事は、破られた穴をみつけ、そいつを塞ぐことだな」
  「ま、こういうところなら、そこそこレベルの高いシステムだと思いますけど、そのへんが楽しみではありますね」
 
  高速道路を降りて山道をしばらく走ると、『アイソレーク』という案内板が目に入る。案内板の示す道は、中央線のない、一回り狭い道路だ。しかし、路面はアスファルト舗装されているし、すれ違いが楽にできる程度の道幅はあり、カーブも緩やかで走りやすい。
  「川が流れていますね」柳原が窓の外を指差して言う。「アイソレークには川は流れていないって書いてあったけど」
  「アイソレークには、トンネルを通って行くんだそうだ。この川はアイソレークには通じちゃいまい。しかし、このあたり、仕事をするようなところじゃないな。ちと寂れているけど、リゾート地帯じゃないか」
  「こういうところで仕事をするのって、ソフト業界じゃ、結構流行ってるみたいですよ。ストレスの多い業界には、人を癒してくれる環境がいいんだそうです」
  「探偵稼業もストレスは多かろうが、こんなとこじゃ商売にならんな。お客もおらん……しかし、結構なところだね。保養所、釣堀、キャンプ場。さっき、吊橋みたいなのがあったね」
  「ハイキングか登山の道かしら。あ、蕎麦を栽培しているのかも。期待していいですか?」
  「確かに、蕎麦のできそうな場所ではあるね。うまい蕎麦か。悪くないねえ」
  「わさびも作っていたりして。葱は、どうかなあ」
  「山菜蕎麦で決まりだな」
  「海老の天婦羅が欲しいです」
  「こんなところで海老か?」
  林の中の一本道を三十分も走ると、前方に崖が迫ってくる。崖の両側は斜面になっており、斜面の下半分だけ木が茂っている。崖と斜面の上半分は、ねずみ色の岩肌が露出している。
  斜面に切り込まれた切通しの間に道は続く。
  やがて、道路の前方に、金網の張られた高いゲートが現れる。ゲートの右側にはコンクリート造りの小屋があり、その中からふたりの警備員が出てくる。
  近藤は車を小屋の前に横付けにすると、大声で警備員に言う。
  「アイソトラックの仲根さんの依頼で来ました、近藤です」
  警備員の一人は、運転席に近付いて言う。
  「ご連絡、承っております。身分証明書のようなものはお持ちですか?」
  近藤は、自分の身分証明書と、助手席の柳原が手渡した身分証明書を警備員に差し出す。
  「大変失礼な質問ですが、ご確認させてください。ヤナギハラさんは妊娠はされていませんね。妊婦のかたのアイソレークへの立入は禁止されておりますんで」
  「ヤナイバラです。妊娠なんかしていません」柳原は怒り声で応える。
  警備員は、頭を下げて柳原に非礼を詫びると、書類を近藤に渡しながら言う。
  「OKです。一応、持ち物をチェックさせていただいてよろしいでしょうか。お帰りの際のチェックが簡単で済みますんで」
  近藤がレバーを引いてトランクのロックを外すと、警備員はトランクを大きく開ける。
  「このケース、開けてもよろしいでしょうか?」
  柳原は車を降りて、警備員の相手をする。もう一人の警備員は近藤に話しかける。
  「アイソトラックへの道はおわかりでしょうか?」
  「いや、ここから先はちょっと。一本道だと聞いてましたが」
  警備員は手に持った地図を示して説明する。
  「トンネルを出たところから左側は、再処理工場と発電所でして、こちらには一般車両は入れません。ですんで、突き当たったところで右折していただいて、道なりに湖を半周ほど行かれたところに、アイソトラックと大きく書かれた看板があります。道の右側がアイソトラック社です。入りかたは見ればすぐお分かりになると思います」
  近藤は、警備員の地図を素早く眺め回し、整理して記憶する。その間に、柳原も荷物の説明を終えて、助手席に入り込む。前方のゲートはモーター仕掛けで徐々に開いていく。
  三人目の警備員が詰所から出て、近藤たちに近づき、バッチを差し出す。
  「ご滞在中は、このバッチを見易いところに着けていてください」
  「どうもありがとう」近藤はバッチを着けならが言う。
  警備員の敬礼に送られて近藤は車を出す。
  ゲートの向うには、長くて細いトンネルが続く。
  トンネルの周囲の壁はコンクリートで固められている。その表面は、排気ガスのためか、カビの類か、真っ黒に変色している。路面も湿気のためか黒っぽく、ヘッドライトの明りも頼りにならない。トンネルの天井に点々と灯る蛍光灯は、ぎらぎらとした光を放つのみで、あまり役に立っているとはいえない。近藤は、左右の壁にぽつぽつと続く赤い反射板だけを頼りに、車を進める。
  他に通る車もない長いトンネルを走り続けるうちに、近藤も、柳原も、不吉な予感が募り、口数が減る。
  トンネルは一直線だ。
  はるか彼方に見える出口の光が、車が進むにしたがって次第に大きく見える。
  近藤と柳原は、早くそこまで辿り着けることを、必死に願う。
  出口に近付くと、こちら側にもゲートがあって、それが徐々に開いていくのが見える。
  (入口側の警備員が連絡したのだろう)近藤は考える。(念の入ったことだ)
  開いたゲートの先には、赤白段だらに塗られた遮断機が下りている。近藤は、遮断機の手前で再び車を止める。警備員が運転席に近付いて言う。
  「申し訳ありません。身分証明書を確認させていただけますか」
  近藤、再び自分の身分証明書と柳原の身分証明書を重ねて警備員に渡す。警備員は、その写真と近藤たちの顔を見比べると、すぐに身分証明書を返して言う。
  「ここにご滞在の間、これを身に付けておいていただけますか。ポケット線量計です。被爆量を測定致しますので、お帰りの際に返してください。インテリジェント式になっておりまして、強い放射線を検出しますとアラームが鳴ります。そのときは、一刻も早く、安全な場所に避難されるようお願いします」
  近藤と柳原が、手渡された線量計を胸ポケットにしまうと、守衛は敬礼して言う。
  「ありがとうございました。お気を付けて」
  近藤は、車を発進させると柳原に言う。
  「ちょっと、ここの地形、メモしておいて」
  「了解。録音もスタート」
  近藤はゆっくりと車を進め、T字路で一旦停止する。左への進入絽には、金網の張られた扉が道を塞いでいる。その先には、大小様々な銀色の塔が立ち並ぶ工場と、その先に、ドーム状の大きなコンクリート建造物と、白い蒸気をもくもくと吹き上げる、大きな冷水塔が並んでいるのが見える。
  「トンネルを出て五十メートルの地点にT字路。左は再処理工場、その先に原発。一般車輛は左折禁止」
  「はい。再処理工場の手前に消防署。化学消防車二台に梯子車までありますね。あ、壁に下がっているオレンジ色のあれ、放射能防護服のようですね」
  「それも書いといて」
  「写真はいいんでしょうか?」
  「いいんじゃないか? 別に止められていないし、カメラ見ても何も言われなかっただろ」
  「そうですね。適当にパチパチ撮っときます」
  柳原は、大きなプロ仕様のデジタルカメラを構え、まず、消防署の写真を撮る。近藤は写真が撮り易いよう、ゆっくりと車を進める。
  「えー、トンネル側の広い平坦部に大型の工場が立地。トンネル出口の右側には化学プラントと数ヵ所の機械工作施設。湖の反対側は、平坦部が狭く、小規模な施設が点在。周囲の山上三分の二は岩肌露出。尾根に監視所二ヵ所確認」
  「うしろにもありますから、三個所です」柳原が補足する。
  「ここらは繁華街だな。大した店はないが、売店、食堂、一応揃っている。左に公園。ボート乗り場が見える」
  「この水、放射能とか入っていないのかしら。ボートなんか浮かべちゃって、大丈夫なんでしょうかね」
  「全て、外界並、環境基準以下だそうだ。といっても、分析しているのはここの連中だから、本当に大丈夫かどうか、俺にはわからん」
  「右側は社宅になっているようですね。ここだけ、山の中腹までアパートが建っている」
  「そのずっと上に階段が見えるけど、あれが、監視所への登り口のようだね」
  車は繁華街を過ぎる。このあたりに来ると、道路から湖がよく見える。右側には、ゆったりとした敷地に建てられた、小規模な工場や研究所風の施設がいくつか並んでいる。近藤たちは看板に目を凝らしながら進む。いくつかの施設を通り過ぎ、やがて、アイソトラックのロゴが大きく書かれた看板をみつける。
  「あそこですね」
  アイソトラック社の敷地は道路の右側で、道路の左側は湖の浜辺に面している。
  「まだ四時にはちょっと早い」
  近藤は、すぐにはアイソトラック社へは入らず、車を路肩に停めると、車を降りて浜に一歩入り、煙草に火をつける。柳原も近藤の横に立って湖を眺める。
  薄雲のかかった白い空は、湖面に淡い光を落とし、盆地を取り囲む山の端に姿を隠した太陽は、前方東側の山の斜面だけを明るく照らし、山肌をピンク色に輝かせている。風はほとんどないが、空気は急速に冷え込み、湖面にはうっすらと湯気が漂っている。
  ここから向う岸までは二〜三キロメートルほどもあるだろうか。幅はそれよりも狭く、右側には山が迫り、平地部分はほとんどない。左側は、すぐ近くで湖に突き出した半島状の土地に木が生い茂って視界が遮られているが、その向うには、公園や繁華街があるはずだ。
  湖の向う岸一帯には、幅の広い平地部分があり、そこにいくつもの銀色の塔やコンクリートの建造物、そして五基の大きな冷水塔が並んでいる。冷水塔から吐き出される白い蒸気はうしろの山を越えて漂ってゆく。
  「あれが原子力発電所で、その左側のが放射性廃棄物の再処理工場だろう」近藤は言う。
  「トンネルの近くにあんなものを造っちゃって、何かあったら逃げられないんじゃないかしら?」
  「冷水塔の蒸気、見てみろよ。煙が向う側にたなびいてるだろ。多分、このあたりは、いつも西風が吹くんじゃないかな。それで、風下になる東側に、ああいう施設を造ったってわけだ」
  「トンネルは、掘りやすいところにこさえたから、しょうがないと……」
  「非常時には、確かに、トンネルは通行不能になるかもしれないけど、多分、どこかに非常用の脱出ルートがあるはずだ。俺の推理では、住宅地帯の上あたりだな」
  「そういえば、階段がありましたねえ。ひょっとすると、あれが、非常脱出路ですね」
  近藤と柳原は砂浜を歩く。
  道路から波打ち際までの浜の幅は三十メートルほどあって、砂浜はこのあたりがいちばん広い。
  左手の、小さな半島のように陸地が湖に突き出した部分では、波打ち際は玉石をセメントで固めた土留めとなっていて、その上に雑木が張り出している。右手の砂浜は、先へ進むにつれて狭くなり、ずっと先では、コンクリートの護岸の上に道が走っている。
  「もったいないですね。もう少し掃除をして、砂もちゃんとしたら、いい浜になると思いますけど」柳原は砂浜を指して言う。
  砂利混じりの砂には、土も混ざり、あちこちに草が生えている。水辺に近いあたりには、藻屑やゴミが散乱し、とても素足で浜を歩く気にはならない。
  近藤たちの左手には、朽ちかけたボートが放置され、その横には、焚き火の跡がある。
  「キャンプファイヤ位かしらね、この浜の使い道は。あの船も、いずれは燃やすつもりかな?」
  「このあたりじゃあ、泳ぐには、ちょっと寒いんじゃないかね。焚き火をして、バーベキューでもやるってのが、妥当なところだろう。魚でも釣れれば御の字だな」
  「こんなとこの魚、大丈夫ですか?」
  「自分の責任(アズ・ユア・オウン・リスク)で食うんだな」
  近藤は、短くなった煙草の火を新しいタバコに移し、吸殻を焚き火跡に投げ込み、踏み付けて火を消す。
  近藤たちは、更に数分間を湖の光景を眺めて過ごす。
  柳原は、アイソトラック社の全景を写真に収めたのち、湖にカメラを向ける。何が気に入ったか、廃船を種々のアングルから撮影し、更には、焚き火跡とゴミだらけの波打ち際まで写真に収める。
  「そんな写真、撮ってどうするんだ」
  「物語があるじゃないですか。それに、デジタルカメラだから、フイルム代もかからないんですよ」
 
  「時間だ」近藤は柳原を促して車に乗り込む。
  アイソトラック社の門と塀は、薄く割いた薄茶色の石をセメントで挟んで積み上げた、手の込んだものだ。建物の周りには、芝生と植え込みがあり、その真中で、大きな木が枝を広げている。
  門を入ったところは広い駐車場になっていて、何台もの車が停めてある。その間をまっすぐに進むと建物に突き当たり、中央の玄関らしきガラス扉の左右に、ゲストパーキングと身障者用の駐車場がある。
  近藤は、迷わずゲストパーキングに車を停める。
  中央の、玄関と思しきガラス扉を開けると、そこは小さなロビーになっている。正面の受付カウンターのうしろは大きなガラス窓で、その向うに、凝った植栽の施された中庭が見える。窓の手前、受付カウンターの背後には、天井まで続く装飾風の螺旋階段が設えられている。
  受付カウンターでは、受付嬢が先客に応対している。近藤は受付嬢が空くのを待ちながら、階段を眺めて推理を巡らす。
  (この階段は、単なる装飾か、はたまた実用的意味があるものか?)
  装飾風と近藤が感じたのは、その階段の形が、黒く塗られた鋼製の円柱とニス塗りの厚手の集成材で構成されたシンプルなデザインだったこと、階段のある場所が受付カウンターの内側で利用に不便なこと、階段の最上部は天井にぶつかって行き止まりとなっていること等による。
  近藤は階段部分の天井を眺め、(単なる装飾でもないな)と考える。螺旋階段の最上部の天井には、金属で縁取りされた長方形の切れ目が見える。その部分を跳ね上げれば、屋根裏に入って行けるようだ。
  (この階段、基本的には装飾だがメンテナンスにも使う、といったところが正解だろう)
  近藤が階段について推理を巡らしていると、先客の処理を終えた受付嬢が近藤たちに目礼し、微笑んで言う。
  「近藤様、柳原様ですね?」受付嬢は、正しく、ヤナイバラと発音して確認する。
  「はい」
  近藤が応えると、受付嬢は既に準備されていたバッチを差し出し、そちらでお待ちくださいと、ロビーの一角に置かれたソファーを示す。近藤と柳原は、ソファーに座り、配置に頭を悩ませながら、二つ目のバッチを胸に付ける。
  間もなく、一人の男が近付いてくる。
  「お待ちしておりました、仲根です」
  仲根は、ロビーの横に並ぶ応接室の一つに、近藤と柳原を案内する。
  「先生がたはコーヒーでようございましょうか?」
  近藤たちが頷くのを見て、仲根は電話でコーヒーを三つ注文する。
  「まあ、どうぞどうぞ」仲根は客にソファーを奨めると、挨拶もそこそこに、本題に入る。
  「本日は遠路はるばる起こしいただきありがとうございます。急なお願いで申し訳ありませんが、実は一昨日、弊社で保管しておりましたRIが行方不明になるという事件が発生致しまして……」
  「アールアイ? それは何でしょうか」近藤は、仲根の話を遮って尋ねる。
  「ラジオアイソトープ、放射性同位元素です。前後の事情から考えまして、盗難にあったことは間違いないものと考えております」
  こう前置きすると、仲根は事件のあらましに付いて語り始める。
 
  所在不明となりましたRIは、トリウム228の酸化物、二千本です。
  トリウム228は、半減期二年弱のラジオアイソトープでして、崩壊の過程で非常に高いエネルギーのガンマ線を放出する、極めて危険な物質です。
  トリウム228の酸化物粉末は、ちょうど注射針のようなステンレス管に封じ込んでございます。所在不明になりましたものは、これを、更に遮蔽容器に納めまして、百本ずつ、輸送用の木箱に格納したものです。遮蔽容器は、二重になっておりまして、短時間でしたら、内側の遮蔽容器だけでも安全に取り扱うことができます。外側の遮蔽容器と木箱に納めた状態ですと、公道輸送も可能なレベルです。
  保管庫での存在が最後に確認されましたのは、今月十一日の午後五時でして、保管庫を管理しております石井と、経理の砂山、それに私の三名で、保管庫の全ての製品の在庫調査を行い、全ての製品が、台帳通り、確かに保管されていることを確認致しております。
  トリウム228の紛失が確認されましたのは、翌十二日の午前八時五十分頃、石井が清掃のために保管庫のドアを開けたときでございます。石井は室内を一目見るなり、異常に気付きまして、私と山崎を電話で呼び出しました。
  現場に駆け付けました私と山崎は、石井とともに保管庫に立ち入りました。
  確かに、異常が生じていることは一目見ればわかります。整然と棚に並んでいるはずの木箱が、そこだけぽっかりと穴の開いたようになくなっておりまして、その両側の木箱は斜めになっております。何者かが、大慌てで木箱を運び出した様子が一目瞭然でございます。
  我々は、ただちに在庫数量の再点検を行いました。その結果、トリウム228百本入りの木箱二十箱、つごう二千本が紛失していることが明らかになりました。
  この事件、十一日の夜から十二日の朝にかけて、何者かが、木箱二十箱を盗み出したということは明白でございますが、最も不思議な点は、それが不可能であるという点です。
  この事業所の扉は、全てカードロック式を採用しております。扉はスプリングで閉じるようになっておりまして、扉が閉まりますと自動的にロックが掛ります。
  全ての扉の開閉は、セキュリティコントロールルームにあります計算機が常時モニター致しておりまして、ロック解除の時刻とそのとき使用されたキーが記録されている他、扉の開閉時刻と、ロックがかかった時刻も、全て記録されております。
  十一日午後五時の点検が終りました際、私自身も、室内に異常のないことを確認して保管庫を出、扉が閉まったのちにノブを回してロックがかかったことを確認致しております。ロックが正常になされたことは、計算機の記録にも残っております。
  計算機の記録では、その次にロックが解除されたのが、石井が異常を発見しました、翌日の朝八時五十分となっております。即ち、その間は一度も、ロックの解除も、扉の開閉もなされていないことが確認されました。
  石井がロックを解除して扉を開閉した時刻の記録から、石井が扉を閉めてから、我々が駆け付けて扉を開けるまでの時間は約五分しかありません。保管庫の前には従業員の出入り口がございまして、丁度この時間帯は夜勤の者の退勤時間でございました関係上、多くの者が保管庫の前を通っております。石井も、保管庫の前で我々を待っておりまして、この五分間に八百キロもある木箱を運び出すことは、だれにも不可能であると思われます。
  製品保管庫は、放射性物質専用の保管庫として当初から設計されておりまして、床から壁から天井まで、厚いコンクリートを打ってございまして、窓もございませんし、空調などのダクトもございません。
  保管庫の出入り口は、先ほどご説明したものの他に、非常口がもう一つあるんですが、これは、カードキー式にもなっておりませんで、室内の非常ボタンを押すことによってのみロックが解除される仕組みで、外部からロックを解除することはできません。また、非常ボタンが押されますと、現地で非常ベルが鳴り、非常放送が所内に自動的に流れる仕組みになっております。
  十一日の夜は、夜勤の者もおったのですが、だれも非常ベルも非常放送も聞いてはおりません。更に、この扉も計算機がモニターしておりまして、その記録によりましても、ロックの解除も、扉の開閉も、全く行われておりません。
  これらを総合すると、保管庫から木箱を盗み出すことは不可能であると言わざるを得ません。それにも関わらず、保管庫からはトリウム228二千本が忽然と消え失せております。もちろん保管庫の中は、何度も徹底的な捜索を行いましたが、紛失したトリウム228はみつかりませんでした。
 
  「密室からの盗難、というわけですな」仲根の話が終ると、近藤は興味深そうに言う。「それで我々には、どのような調査をご期待されているのでしょうか」
  「ただいま、RIを盗み出すことは不可能であると申しましたが、これは、セキュリティシステムが正常に作動していた場合の話でございまして、セキュリティシステムに検知されずにロックを解除する方法があるのかもしれません。もしそんなことができるということになりますと、今後とも同種窃盗事件が起こりうるということになり、大変由々しき事態でございます。先生がたには、今回の窃盗の手口を明らかにしていただきまして、再発防止についてご助言をたまわりたいと考えております。もちろん、その過程で犯人を特定し、盗まれたRIを取り返すことができれば、これに越したことはございません」
  「盗難判明後は、どのようなことをされましたか?」
  「そうですね。それでは、対策状況につき、概略をご説明致します」仲根はそう言うと、盗難発見後の、捜索活動の様子について語り始める。
 
  アイソレークは、放射性物質の持ち出し防止に、特に厳重な警戒体制が敷かれている地帯でございます。その中心的役割をはたしておりますのは、トンネルの内側ゲートのところにございますアイソレークセキュリティセンターでして、過激派などによる放射性物質の不正持ち出し防止を最大の任務と致しております。
  アイソレーク一帯への出入り口は、ただ一本のトンネルに限られておりまして、トンネルのゲートでは、常時でも、高感度のサーベイメータを用いて、アイソレークから持ち出される全ての物を検査しております。
  盗難が明るみに出ました十二日の朝九時、私はセキュリティセンターに盗難事件の発生と盗まれた核種を通報致しました。これを受けてゲートでは、トリウム228から出るガンマ線に選択的に反応するよう調整した高感度の半導体ディテクターをただちに準備して、検査を強化したということです。
  アイソレークの周囲の山には、電子的なセンサーを備えた五重の柵が張り巡らされておりまして、三箇所の監視所からの常時監視が行われております。従いまして、これに気付かれずに山を越えて人が出入りすることは不可能でございます。
  そういう場所でございまして、外部に持ち出された形跡もございませんから、盗まれましたRIは、アイソレーク一帯のいずれかの場所に隠されているものと考えております。
  私どもは、隠されたRIをみつけ出すため、弊社内に臨時の探索チームを編成致しました。ヘッドは山崎警備主任、探索チームは全部で八チームでございます。それぞれのチームは、高感度の放射線検出器を用いて、各場所を隈なく探索しております。
  トリウム228を納めた遮蔽容器は、かなり小さいものでして、外側の遮蔽容器は、直径八センチ、長さが十センチの、ちょうど缶詰のような形をしておりますが、内側の遮蔽容器だけに致しますと、直径が七ミリ、長さが二センチでして、どこへでも容易に隠せます。しかし、遮蔽容器に入れた状態でも、ガンマ線は外に洩れ出ておりますので、感度の高い検出器を使いますと、容易にみつけ出すことができます。
  我々が探査に使っております放射線検出器は、ガンマ線のエネルギースペクトルを高い精度で測定できるものでして、リチウムをドープしたゲルマニウムセンサーをつかっています。更に、自然放射能によるノイズを除去するため、盗まれたトリウム228の出すガンマ線にのみ反応するよう、検出エネルギーレベルを調整しております。盗まれたトリウム228は二重の保護容器に格納されておりまして、外部に漏れ出るガンマ線は人体には全く無害なレベルでございますが、この検出器を用いますと、十メートル以内の距離であれば、充分に検出可能でございます。
  探索は、まず、安全確保を目的と致しまして、ビル内部の共通場所から始めまして、各部屋、屋上、屋外と探索範囲を広げておりますが、いまだ盗まれたRIは発見されておりません。
 
  「アイソレークは、放射性物質に関しては、巨大な密室というわけですな」近藤は感心したように言う。「二重の密室からの盗難というわけですなあ」
  「いえいえ、外側のガードは、まだ破られたわけではありません」仲根は念を押すように言う。「問題のRIが、内側の密室、つまり保管庫の中にはないことは確認されておりますが、外側の密室、つまりアイソレーク一帯という点につきましては、確かに紛失したRIはまだ発見されていないのですが、全ての場所の探索が完了したわけではありませんので、そこから消え失せたということではございません。これにつきましては、山崎以下のチームが、今、必死に探索しておりますので、その成果に期待したいと思います。内側の密室の謎を解く鍵は、恐らく、セキュリティシステムの弱点にあると思われまして、こちらの問題を先生がたに解明していただきたいと考えております」
  「計算機での監視というのは、具体的に、どのようにしてたんですか?」柳原が尋ねる。
  「全てのドアとロックは、セキュリティコントロールルームの計算機でモニターされておりまして、使われたカードキーの識別符号と、ロックのオン・オフと扉の開閉時刻が、全て、ログファイルに記録されるようになっております。保管庫の扉に関係するログの一部をプリントアウトしてお持ちしました」
  仲根は、封筒から一枚の紙を取り出す。近藤たちは、腰を上げてその紙を覗き込む。その紙に書かれた文字は、まるで暗号のようだ。
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  0411 16:53:16 S1072 LR O KZ6038 (Ishii)
  0411 16:53:18 S1072 DO
  0411 16:53:37 S1072 DC
  0411 16:53:37 S1072 LK
  0411 17:08:19 S1072 LR I KZ6038 (Ishii)
  0411 17:08:20 S1072 DO
  0411 17:08:32 S1072 DC
  0411 17:08:33 S1072 LK
  0412 08:50:07 S1072 LR O KZ6038 (Ishii)
  0412 08:50:08 S1072 DO
  0412 08:51:26 S1072 DC
  0412 08:51:26 S1072 LK
  0412 08:56:48 S1072 LR O KZ0003 (Yamazaki)
  0412 08:56:49 S1072 DO
  0412 08:57:04 S1072 DC
  0412 08:57:05 S1072 LK
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  「これは、どのように読めばよろしいんでしょうか。最初は日付と時刻のようですが……」
  「はい、その通りです。最初は、月日と時分秒を示しておりまして、その次が扉の識別符号で、S1072は保管庫入口の扉を示しています。そのうしろのLRというのはロックを解除したという意味です。カードキー差込みスリットは部屋の内外に設けられておりまして、そのあとにあります記号は、「O」が室外、「I」が室内からロック解除が行われたことを示しています。その次の欄には、カードキーの識別符号と交付先が記録されています。ドアの開閉もセンサーで検出されておりまして、DOは扉を開けた時刻、DCは扉の閉じた時刻です。LKというのはロックがかかった時刻です。オートロックになっておりますので、扉が閉じると自動的にロックが掛ります」
  「ははあ、四行で一組になっているわけですな。最初の組が保管庫を点検したときのものだと思いますが、これ、二回開け閉めされていますね」
  「四月十一日の午後四時五十三分に、二十秒ほど扉を開けておりますのは、我々が点検のため保管庫に入ったときのものです。その次の、午後五時八分の十二秒間の扉の開放は、我々が保管庫から出たときのものに間違いありません。その後、翌十二日午前八時五十分まで、扉が開けられた形跡はありません」
  「十二日の午前八時五十分は、石井さんが異常を発見された時刻ですね」
  「はい。で、そのあとの八時五十六分の開閉は、連絡を受けた私と山崎が保管庫に入ったときのものです。我々が保管庫の前に着いたとき、石井は扉の前で我々を待っておりました」
  「石井さんは、保管庫のドアを開けた段階で異常に気付かれたわけですな。なぜ、近付いて確認しなかったんでしょうか? 石井さんが扉から離れれば、扉は一旦閉まり、外に出るときにもう一度、ロックを解除して扉を開け閉めする必要があるはずです。その記録がないということは、石井さんは、扉を開けただけで木箱の紛失を確認し、保管庫に入ることなく扉を閉めたということになりますな」
  「ああ、それは石井から聞きましたが、一目で異常だとわかった、と言っております。前日点検した際には、木箱はきちんと揃えて、隙間なく棚に並べてあったのですが、翌朝の状態は、棚に大きな隙間があり、その両側の木箱は斜めを向いておりました。石井は、現場に手を触れない方が良いと判断して、室内には入らず、ドアをロックしてから我々に電話したとのことです」
  「それは普通の対応でしょうか? 異常に気付いても、報告する前に、近付いて、状況を確認しようとは考えないものでしょうか?」
  「これは、マニュアル通りの正しい対応です。放射性物質取り扱い場所で異常が発生した際は、放射能汚染のないことが確認されない限り、室内への立入は禁止されています。そこに負傷者が倒れていてもそうせよと、厳しく指導しております」
  「石井さんがドアを開けていた時間は、一分少々ありますが、これは、状況確認に要した時間ということですかな」
  「そういうことでしょう。最初の電話で、石井は、木箱約二十箱が盗まれたようだと言っておりました。入口のところで数えたんでしょうな。あとで調べたところ、失われた木箱は正確に二十箱でした」
  仲根の説明が一通り終ると、近藤も柳原も考え込んでいる様子で、しばし静寂が支配する。
  「計算機のログは、もちろん書替えることができます」柳原が口を開く。「計算機を不正使用する連中がよくやる手口です」
  「はい。私どもも実はそこを疑っておりまして、この種の手口にお詳しい、コンドーさんにご協力をたまわりたいと考えておる次第です。ただ問題は、弊社のセキュリティシステムは、危険な物質を扱っております関係上、特にグレードの高いものを入れておりまして、定期的に受けております監査も、全く問題なくパスしております。そのようなシステムが破られるなどということが、はたしてあり得るのだろうかと疑っている次第です」
  「破れないセキュリティシステムは、あり得ませんからね」柳原、あっさり断言する。「あとでシステムを見せていただければ、その辺、判断できると思います」
  今度は、近藤が口を開く。
  「本件、完全な不可能犯罪というわけでもありませんなあ。今の仲根さんのお話が全て正しくて、計算機に細工がなされていない場合でも、この犯行、一人だけには可能ですね」
  気が付いたことをすぐ口にするのは近藤の悪い癖で、『それさえなければ、名探偵になれるのに』と、近藤をよく知る人たちには、からかわれている。
  「えっ? そんなことが可能ですか?」仲根、おどろいたように言う。
  「ええ。その場合の犯人は石井さん。彼は、十二日の朝八時五十分、台車のようなものを準備して、製品保管庫を開けます。おそらく、ドアに木片を挟むなどして、自動ロックが掛らないようにしたんでしょうな。そして、手早くトリウム228の木箱を二十、棚から下ろして台車に積むと、外部に運び出し、共犯者に渡します。その後彼は製品保管庫に戻り、何食わぬ顔で仲根さんたちに電話した、と、こういうわけです。屋外に出してしまえば、この敷地、門の警備もありませんから、外に出すのは簡単でしょう」
  「敷地に守衛所はありませんけど、アイソレークから外部に持ち出すことは至難の業でしょうな。しかし、石井がねえ、そんなことをするような人にはみえませんがねえ」
  「あ、ちょっと待ってください。これは、計算機が正常に動作した場合のお話です。計算機に細工をされた可能性もありますんで、石井さんが犯人であると決まったわけではありません」
  「製品保管庫から建物の外までの距離、つまり、盗んだ木箱を移動するのに要する時間は、どのくらい掛るんでしょうか?」柳原が聞く。
  「製品保管庫から屋外までは、すぐですよ。ただ、朝方は、あのあたり、大勢の従業員が通りますんで、その中をだれにも気付かれずに、木箱を載せた台車を押していくということは、ちょっと想像できませんなあ。まあ、現場をみていただいたらどうでしょうか。ついでに、所内をご案内致します」
 
  仲根は応接室のドアを押さえて、近藤たちを廊下に導く。ロビーを横断して少し進むと、廊下は左に折れて、扉にいき当たる。扉を開けると、そこは大きな作業所だ。
  「ここはパッケージングをするところでして、それぞれの顧客と用途に合わせた包装・ラベル貼り等を行っています」
  台車に積まれた合成樹脂の箱には、円筒形をした物体が並んでいる。それを作業員が機械に並べると、自動的にラベルが貼られ、ポリエチレンシートに包まれる。機械の出口側に並んだシール済みの円筒を、今度は作業員がダンボール箱や木箱に詰め込んでゆく。
  更に進んだところには、ダンボール箱が堆く積まれ、箱に張られた白い紙が風にゆれている。
  「これ、全部ラジオアイソトープですか?」
  「いえいえ、白いラベルだけのものは、ただのアイソトープ、放射能はありません。アイソトープは、普通の元素と化学的性質は同じなんですが、重さが微妙に異なっておりまして、その中の、放射能を持つものをラジオアイソトープと呼んでおります。黄色い三角のラベルが貼ってあるものが、放射能を持つラジオアイソトープです。ラジオアイソトープは、包装が完了すると、すぐに保管庫の方に移動します。これからそちらにご案内します。事件の現場ですので、じっくりと御覧ください」
  近藤たちが立っている広い作業場には、入ってきた側とは反対の側にも扉がある。その扉の右側の少し窪んだ所に、事務机がいくつか並び、一人の男が帳面を付けている。
  仲根は、近藤に小声で言う。
  「あれが石井です」
  「隠すようなことではないでしょう。あとでお話もうかがいたいし、ご紹介していただけませんか」
  近藤の頼みに応え、仲根は石井に近藤たちを紹介する。
  「石井さん、こちら、例の盗難事件の調査に来られた、近藤さんと柳原さんです。石井さんにもお話しをうかがいたいとご希望だから、ちょっとつきあってくれませんかね」
  立ちあがりかけた石井を制して近藤は言う。
  「あ、お話は一通り見たあとでおうかがい致しますんで、今はお仕事を続けて下さって結構です」
  石井に礼をいうと、仲根は、その横の扉を開けて進む。右手の突き当たりには、外に出るドアがあり、ドアの右側の壁には多数のタイムカードが整然と並んでいる。タイムカードの反対の壁には、安全作業を呼びかけるポスターや安全活動の記録が掲示され、その下には救急箱や消火器が置かれ、鍵がいくつか掛っている。
  「ここが作業員用の出入り口です。その扉から外に出られます。この前の扉が、製品保管庫の入り口ですんで、外に運び出すのはあっという間です。しかし、朝の八時五十分から九時という時間帯は、大勢の夜勤の者がこの入り口を通って退勤致しますんで、彼等に気付かれずに木箱を運び出すのは難しいんじゃあないでしょうか」
  「タイムカードを調べれば、だれが何時に退勤したかわかりますね。当日の八時五十分から九時の間に退勤した作業員を、退勤時間順に並べて様子を聞けば、はたして石井さん、あるいは他のだれかが木箱を持ち出していたかどうか、確認が取れると思いますよ」
  「かしこまりました。ただちに調査するよう、手配致します」
  左手には、通路を挟んで階段とエレベータがあり、通路の左右には、男性用と女性用の手洗い所がある。仲根は、階段とエレベータを指して説明する。
  「えー、二階と三階で、アイソトープの分離、精製作業を行っております。そちらは、放射性物質を扱っておりますので、外部のかたの立入はお断りしております。できました製品は、二重の遮蔽容器に入れたのちに一階に下ろすようにしております。遮蔽容器が一重でも、一日程度であれば、付近で作業しても被爆量は許容値以内に収まります。二重の容器に入れますと、人間が一生をそばで過ごしても、全く問題になりません」
  「その、階段横の通路は、どこにつながっているんでしょうか?」
  「この先はカフェテリアになっております。カフェテリアは、二十四時間営業で、開発棟のほうからも入れますし、中庭と駐車場側への出入り口もあります。アイソレークで働いている者はほとんどが単身ですから、帰りがけにカフェテリアで夕食を取る者も多いんですよ。それでは、保管庫に入りましょうか」
  仲根は、自分のカードキーを壁に付いている金属板のスリットに差し込む。緑のランプが点灯し、ロックの外れる音が聞こえる。ドアを開けた仲根に続いて、近藤たちも保管庫に入る。
  室内に入った近藤たちのうしろで、自然に扉が閉まり、ロックの掛る小さな音が聞こえる。
  これもセキュリティシステムはログに残しているのだなと、近藤は一瞬考える。
  保管庫の室内には、大きなスチールの棚が並び、その上に木箱が整然と置かれている。
  この部屋には、仲根が言ったように、窓は一つもない。床も壁も、コンクリートの打ちっ放しであり、秘密の通路があるとは考えられない。天井もコンクリートで、その下を灰色に塗装された大小の配管が這っており、蛍光灯がいくつも吊り下げられている。
  「ドア以外に、出入りはできそうもありませんなあ」近藤は残念そうに言う。
  「奥にもう一つドアがありますね」柳原は棚に半分隠れていた赤い扉を目ざとくみつけて言う。
  「これが例の非常口です。非常ボタンを押せば開きますが、アラームが鳴りますので……」
  説明しながら非常口に向かう仲根に続いて、近藤と柳原も非常口に近寄ろうとする。しかし、非常口近くに置かれた棚のため、通路が狭く、仲根が邪魔になって前に進めない。
  「あ、私がそっちに行きますから、お近くで見てください」仲根、非常口の前のポジションを近藤たちに譲りながら言う。「しかしこれはまずいなあ。非常口前の通路には、物を置いてはいけないことになっているんですよ。こういう事をやっていると、立入検査で指摘されます」
  仲根は、通路を半分塞いだ腰高の棚をしげしげと眺める。それはガラス引き戸の付いたスチール棚で、中には、新しい雑巾、ポリ袋、マジックインキなどが、黒い紙箱に分類されて整然と並んでいる。棚の上には花瓶が置かれ、花が活けられている。
  「どこから持ってきたんでしょうか。まあ、こういうものがあれば便利には違いないが、規則は規則だから、石井に撤去させよう」
  考え込む仲根にお構いなしに近藤が尋ねる。
  「盗まれたものは、どの辺においてあったんでしょうか」
  「こちらです」仲根は部屋の中央部を指差す。棚のその部分は隙間があり、その両側に、木箱が傾いて置かれている。
  「何かのヒントがあるかと、この部分には一切手を触れていません」
  「盗まれたものと同じ物はありませんか?」
  「番号は違いますが、それ以外は全く同じ物があります。その、斜めになっている箱も、そうですよ」
  近藤、ポケットからスケールを取り出し、箱の大きさを測る。
  「幅が二百、長さが四百、高さが百二十、ミリメートル、ですか。重さはどのくらいでしょう」
  「箱一つで四十キロほどです。最近、性能の良い遮蔽方式が開発されまして、軽量化が進んだんです。多重反射膜とかいっておりましたけど、ガンマ線が光と同じ電磁波であることを利用して、反射させるんだそうです。そうやって、遮蔽容器の中をガンマ線が行き来している間に、容器の中の吸収材で減衰させるという仕組みです。トリウム228の利用が伸びたのも、性能の良い遮蔽容器が登場してからです」
  「それでも二十箱では八百キロになりますね。いちどに持っていこうと思ったら台車か何か必要だ」
  「手では二つは持てんでしょう。ここから外まで二十往復するとなると、いくら近いといっても、一分二十秒ではちょっと苦しそうですね。一番内側の遮蔽容器だけにすれば、一本十グラム程度ですから、二千本でも二十キロで、一度に運べない重さではないんですが……」仲根は思案顔で言う。
  「でも、木箱や外側の遮蔽容器も消え失せていたんですよね」
  「そうです。今回は、二重の遮蔽容器と木箱もろとも持ち出されています。だから、運び出された重量は八百キロということになります」
  「台車だったらどうなるかしら。台車に乗せるのに、一つ三秒掛るとして、二十箱で一分、出入りの時間を考えたら、一分二十秒じゃあ、ちょっと苦しいんじゃないかしら」
  「一つ二秒なら四十秒だよ」近藤は指摘する。「なれていりゃあ、その位でできるんじゃないかね」
  「石井が積み替えているのを見たことがありますけど、一つ一秒も掛りません。我々がまねをしようとすると、腰を痛めそうですが、石井は、そういう作業をしょっちゅうやってますんで、手馴れたもんです。多分、二十箱を台車に積み替えるのに、二十秒も掛らないんじゃないでしょうか」
  「つまり、石井さんが台車を保管庫内に入れたとすると、彼には充分、犯行が可能であったと……」
  「そういうことです。さて、この部屋、微弱ではありますが、放射線のレベルが多少高くなっておりますので、ご調査がお済みでしたら、出たほうがよろしいかと存じます」
  近藤と柳原、仲根の言葉に不安になり、棚から身を離す。
  保管庫の出口で、近藤は扉のセンサーをチェックする。扉の内側最上部と最下部に、それぞれ小さな箱のようなものが取り付けられている。これに対応する位置の扉の枠にも二つの箱が取り付けられている。配線が見当たらないことを疑問に思って、近藤が尋ねる。
  「センサーの配線は、どうなっているんですか?」
  「セキュリティシステムに関する全ての配線は、壁の中に埋め込みました金属管を通すようにしております」
  「ははあ、ちっとやそっとで開閉センサーを騙すことはできませんなあ」
  「この部屋は、特にセキュリティレベルを上げておりまして、扉の上下二つのセンサーの出力が異なる場合は警報が出るようになっています。つまり、センサーを騙すにしても、両方同時にする必要があります」
  「扉の上下に付いている箱みたいなのは何でしょうか?」柳原が尋ねる。
  「この中には、特殊パターンに配列しました磁石が入っておりまして、これを複数のセンサーで検出しています。渦電流センサーやメカスイッチは、金属板を入れて騙すことができますからね」
  近藤たちは、カードキー挿入部分についてもチェックする。カードキーは、壁に取り付けられた金属板に設けられたスリット状の穴に挿入するようになっている。金属板には、鍵穴も付いている。
  「この鍵穴はなにかしら?」柳原、先ほどから疑問に思っていた点を訪ねる。「鍵でも扉を開くことができるんですか?」
  「ロックを解除できるのはカードキーだけです」仲根は得意そうに言う。「この鍵穴は、パネルを外すときに使います。これを解除する鍵は、セキュリティコントロールルームに厳重に保管してあります。まあ、滅多に使わないものですからね」
  「それは良い考えですね。この金属板(パネル)が外せれば、中の配線をショートして、鍵を開けられますからね」
  「いえいえ、この板を外して内部の配線を短絡しても、ロックは解除されません」仲根は嬉しそうに言う。「ここでは、カードキーの情報を読み取り、それをセキュリティ管理を行う中央の計算機に送っているだけです。中央の計算機は、カードキーが正規のもので、かつ、そのロックを解除する権限があるかどうかをチェック致しまして、これが正しく使われた場合のみ、ロック解除の信号を扉のロックに送るわけです。ドアをロックしているメカニズムのほうは、扉を開けた状態でないと触れません。そちらの配線も、全部金属管に納めておりますし、壁の中を通していますので、気付かれないように細工することは、まず、無理です」
  「あの、非常口も、同じようなシステムでロックの解除や扉の開閉監視をしているんですか?」柳原が尋ねる。
  「ほとんど同じです。但し、中央の計算機に行くのは、カードキーの符号ではなく、内側の非常ボタンを押すことで発生する、特別な信号ですけど。それから、非常ボタンが押された場合には、非常ベルが鳴り、緊急放送が流れるシステムになっています」
  「ハード面は、完璧みたいですね」柳原が言う。「金属板(プレート)を固定している鍵も、電子キーだから、ピッキングはできませんね。ま、これが外れても、ロックは開かないんですけど」
  「確かに、ここまでやられている会社は少ないですなあ」近藤も感心して言う。
  「まあ、それだけ危険なものを扱っているということですから」仲根は謙遜して言う。「さて、次はどこにご案内致しましょうか?」
  「もし、石井さんがお手空きのようでしたら、少しお話を聞かせていただけませんでしょうか」
 
  仲根は、近藤の依頼を作業場の石井に伝える。石井はいつでもどうぞと言う。
  「応接室のほうで致しましょうか?」
  「いや、現場で十一日と十二日の行動を再現していただくのがいいと思います」近藤は仲根にそう応えると、石井に向かって言う。「石井さんが最後にトリウムを確認されたときの状況と、盗難に気付かれたときの状況を、できる限り詳しくご説明いただけませんか?」
  「ようがす」石井は短く応えると、席を立って、保管庫の入り口に向かう。
  「えー、まず十一日ですが、員数チェックをですね、私と仲根さんと、経理の砂山さんでしたか、その三名で致しました。普段ですと四時ぐらいに致しますんですが、この日は会議が延びたとかで、五時過ぎでございました。私がカードキーでロックを外しまして、砂山さんがドアを開けて入られました。そのあとから仲根さん、更にあとから私が保管庫に入りました」
  石井は、そう言うとカードキーで保管庫のロックを外し、扉を開けて中に入る。
  「私が員数を数えたのを、砂山さんが記録されまして、そのうしろで仲根さんがチェックする、これがいつものやりかたです。えー、肝心の、盗まれた木箱のチェックをしたときは、私が棚の前に立って、木箱を指差して数え、砂山さんはそのあたり、仲根さんはそのあたりに立っておりました」
  石井は、隙間のできた棚の前に立ち、棚を指差して、数える真似をする。柳原が砂山に代わって指定された位置に立ち、仲根は自ら自分自身のいた場所に立つ。
  「作業は十分ほどで終りまして、私が鍵を開け、砂山さんがドアを開けて保管庫を出ました。仲根さんは、室内を確認して、最後に保管庫を出られました。最後に私も確認致しましたが、ドアのロックはきちんとかかっておりました」
  「非常口のほうは、みられましたか?」
  「いや、あそこはいつも閉めっ放しだもんで、特に近付いて確認するというようなことはしておりません。遠目で見た限りは、扉は閉まっておりましたし、非常開放ボタンのカバーもちゃんと付いてましたよ。第一、これを開けると非常ベルが鳴るはずです」
  「非常口が閉まっていたことは、私もそのとき確認しています」仲根も石井の話を裏付ける。「私も、その時は、見ただけで、ノブを回しての確認はしていませんけどね」
  「わかりました。どうもありがとうございます。それでは十二日の朝をお願いします」
  「私は大体、朝は八時半頃に出勤致しまして、作業所の伝票に目を通して、その日の段取りを致します。段取りは前の日の上がり前に作っておくんですが、飛び込みの依頼がございますんで、毎朝見直さなくちゃあいけません。それが終りましたところで、他の作業員に協力して作業場の清掃を行い、ゴミ集めを致しました。九時十分前頃でしたか、保管庫を清掃しようと、掃除用具を持って保管庫のドアを開けました。開けた瞬間、異常に気付きました。ラジオアイソトープには、半減期というものがございまして、長い間置いとくと、へたってしまいます。それで、在庫管理は先入れ先出しということになっておりまして、わかりやすいように、種類毎に、納庫順にきちんと並べておくことになっています。その朝の状態は、今もそのままにしてあるんですが、真中の部分の箱がごそっとなくなっておりまして、おかしな事が起こっていることは一目瞭然です。それで、直ちに山崎さんと仲根さんにお電話致した次第です」
  「直ちに、ですか」近藤が聞く。「ドアの開閉を記録しているログによりますと、石井さんは、一分二十秒ほどドアを開けたままにしてたことになっておりますが、その間、なにをされてたんですか?」
  「そんな長い時間でしたか」石井はそのときを思い出すように言う。「あまり自慢できることではないので言いませんでしたが、一瞬我を忘れてしまいまして、保管庫に一〜二歩入ってしまったんです。そのとき、手にしていた箒を倒し、これがドアに挟まってロックが掛りませんでした。ドアを入ったその場で、これは犯罪の可能性があるから、足跡や指紋を付けるとまずいのではないかと考えまして、その場で立ち止まって、被害状況の確認を致しました」
  「石井さん。異常発生時には、室内への立入は厳禁ですよ」仲根が苦言を呈する。
  「その規則は存じ上げていますけど、それは、放射能漏れの危険がある場合でしょう。今回は、綺麗さっぱり盗まれていたわけですから、危ないことはありません」
  「それから、どうされましたか?」話が規則云々の議論になることを嫌い、近藤が先をうながす。
  「一分半もそうしてたとは気付きませんでしたが、とにかくドアを閉めてロックがかかったことを確認致しまして、掃除用具をその場に置いたまま、作業場のデスクの電話で山崎さんと仲根さんに連絡致しました。あ、いや、箒と塵取りはデスクの横まで持っていきましたな。台車に乗せたゴミ袋を、保管庫のドアの前に置きっ放しにしていました。このゴミ袋に付きましては、この場所が人通りが多く、邪魔だと思いましたんで、電話をかけ終わりましてすぐに、外のゴミ捨て場までゴミを運んで、台車は作業場の定位置に返しときました。それで、保管庫の前で待っておりますと、皆さんが来られまして、山崎さんが御自分のキーでドアを開けて保管庫に入られたんです。私も説明のために保管庫に入りました」
  「台車の上に載せていたゴミ袋は、どのぐらいの大きさのものですか?」
  「かなり大きなもので、長さが二メートルほどのゴミ袋三つです。九時半過ぎに収集が来ますんで、朝にゴミ置き場に出すことにしております。前の日から袋に詰めてあった分は、先に作業員が出しているんですが、朝の掃除で出た分がありまして、これを私が出すようにしています。掃除が終ると、皆さん、作業にかかってしまいますからね」
  仲根は、何か言いたそうに近藤に顔を向ける。近藤は、自分の口の前に人差し指を立て、それを左右に振る。今は何も言うな、という意味だろうと、仲根は解釈する。
  「その他、何か変わったことに気付きませんでしたか? どんなに細かいことでも結構ですが」近藤、仲根が何か言い出す前に、話を先に進める。
  「いやあ、特に気付きませんでしたが……」石井は、記憶を掘り起こすように宙に視線を揺らす。「変わったことといえば、保管庫の中の花瓶に活けてあった花が枯れてしまったことぐらいですね。放射能が影響した可能性を疑いまして、カウンターでチェック致しました。異常はありませんでしたが」
  「花って、保管庫の奥の、非常口の前の棚に乗っていた花瓶のですか?」柳原が聞く。
  「ええ、そうです。普通、一週間はもつんですが、このときは三日で枯れてしまいました。それも、枯れたのが、盗難がわかった十二日ですから、泥棒が、なんかのはずみにRIを一つ落としたかと疑ったんです。結局何でもありませんでしたけどね」
  「花の枯れた原因はわかりませんか? 水はちゃんと入っていたんでしょうね」
  「はい。そういえば、水が白く濁っていましたね。だれかが花瓶の水に、何かを溶かし込んだかもしれません」
  「その水は、流しちまいましたか?」
  「ええ、花瓶も洗ってしまいました。新しい花に入れ換えましたんでね。しかし、カウンタでチェックしたのは、まだ枯れた花があったときでして、その濁った水が放射能を持っていたはずはありません」
  「他には、何か思い当たる節はございませんかな」
  「ええ、特にこれといったことは……」
  「他のかた、石井さんにお聞きすることは、こんなところでよろしいでしょうか?」
  近藤の問いに、仲根も柳原も顔を合わせて無言で頷く。
  「石井さんには、犯人の心当たりというか、この人が怪しいのではないかといったお考えはございませんか?」
  「まあ、私だっていろいろと考えまして、推理といいますか、そういったものがないわけではございません。しかし、いろいろと差し障りもあるでしょうし、証拠があるわけでもございませんので、無責任なお話しをすることは差し控えたいと思います」
  「わかりました、ご無理は申しません。それじゃあ、石井さん、お忙しいところ、どうもありがとうございました」
  「いえいえ、あまりご参考にならず、申し訳ありません」
  石井と別れた三人は、応接室に向かって歩く。
  「いろいろとわかってきましたんで、ここらで一旦、情報を整理しましょう。応接室、もう少しお借りしてよろしいでしょうか?」と近藤。
  「どうぞどうぞ。コーヒーをお持ち致しましょう。私は、いろいろと手配することもございますんで、それが済んだところで応接にうかがいます」
  応接室のソファーに腰をかけた近藤は、鞄から各種文房具とノートを取り出す。近藤は、新しい事件を引き受けると、新しいリーガルノートを使う。リーガルノートは、法律関係者に愛用されているノートで(だからそういう名前が付いているんだろうと思う)、黄色い紙をページ毎に切り離せるようにミシン目を入れて分厚く綴じたノートである。
  近藤は事件が解決すると、このノートから重要なページを切り離し、ファイルに綴じ込むことにしている。調査員達は、過去に扱った事件を調べる必要が生じた際は、もっぱらエミちゃんの報告書に頼るのが常であり、近藤のノートなど、彼等に言わせれば、重要な情報を搾り出した滓に過ぎない。しかし、近藤には、誰に何と言われようと、自分が現場で記入したノートが一番頼りになる。
  近藤は、関係書類をノートのページにスコッチテープで止めていく。
  近藤の作業を見ながら、柳原が口を開く。
  「こりゃあ、計算機は関係ないかもしれませんね。あの、石井って人、充分犯行可能じゃないですか。近藤説の勝利かなあ」
  「これから山崎氏が目撃者を調べるから、結論はそのあとだな。しかし、奴がやったとしたら、その手口が目に見えるようだな。柳原君、君にも見えるかね?」
  柳原は、近藤の挑戦を受けて、手口を解説する。
  「ゴミ袋、三つのうちの二つは、ゴミを少ししか入れないで、空気で膨らましてたんですよ。ロックが掛らないように扉に箒を挟んどいて、台車を保管庫の棚の前に持ってって、ゴミ袋を下ろして、木箱二十箱を乗せる。二山にしてね。えーと、木箱は、幅が二十センチ、長さが四十センチ、高さが十二センチだから、一山分の十個を二列に並べれば、四十センチ角で高さが五段の六十センチになります。その上にゴミの少ししか入っていない大きなゴミ袋を被せれば、ゴミの詰まった小さ目のゴミ袋があるように見えます。長さ二メートルのゴミ袋なら、幅は八十センチより相当長いはずだから、四十センチ角に積み上げた箱を楽々覆うことができるし、ゴミが少し入っていれば、中の木箱も見えないわね。更にもう一つ、本物の丸いゴミ袋をその上に乗せれば、ちっとやそっとではわかりません。保管庫を出てから、木箱を乗せた台車を保管庫の扉の前に置きっ放しにして電話をかけるってのはちょっと危険だけど、その後すぐに台車をゴミ置き場まで運んでますから、それほど大きな危険でもないわね。ゴミ置き場の近くで共犯者に木箱を渡したんですね。共犯者の車への積み替えは、ふたりでやればあっという間ですよ」
  「共犯者とコンタクトしているところを目撃されたらまずいね。俺の予想は、ゴミ置き場から少し離れたところに共犯者が車を停め、石井はその影に台車を停める。石井は、そこからゴミ袋を手に持ってゴミ置き場まで歩き、ゴミを置いて台車のところまで戻る。そのときは既に、台車の木箱は共犯者の手によって車に移され、多分、車も出発していて、台車だけがそこに残っている、まあそんなところだろう」
  「枯れた花ってのはどう関係するんでしょうか」
  「事件に関係ないかもしれない。たまたま花が弱ってた、ってことも考えられるし、おせっかいな奴が花瓶の水に肥料を入れたんだけど、入れすぎて花を枯らしてしまった、ってことだって考えられる」
  「今のところ、枯れた花の情報は、石井証言だけですけど、もし彼が犯人だとすると、捜査の撹乱を狙っているのかもしれませんね」
  「撹乱?」
  「あれ、奥の非常口の近くにありましたよね。あそこから賊が侵入して、木箱を運び出したとすれば、花瓶に引っかけて水をこぼしてしまったかもしれない。侵入経路を特定されたくないと考えた賊は、こぼれた水を拭き取って、何らかの手持ちの液体を花瓶に入れてカモフラージュしたってわけです。雑巾は下の棚に入っていました。濡れた雑巾が残っていれば気付きそうなものですから、もしそういうことが起こったとすると、使われた雑巾は犯人が持ち去ったはずです。車に積んでいそうな液体は、不凍液とかウインドウオッシャの液とかありますけど、こういうのを花瓶に入れたら、花は枯れてしまうんじゃないかしら。それで、そういうことが起こったと、石井さんは、私達に思い込ませたいんじゃないかしら」
  「手の込んだ話だなあ。しかし、逆に石井が犯人でないとすれば、正に、君の言ったことが現実に起こった、ってことも考えられるな」
  「その場合、犯人は、計算機に侵入して、非常口のロックを解除したんですね」
  「計算機でロックを解除することはできそうかね?」
  「ここのロックのシステム、中央の計算機で全部やっていますから、システムに侵入して管理者権限を得ることができれば、原理的に、ロックは解除可能です」
  「しかし、石井が犯人だとすると、せっかくそんな工作をしておいて、花瓶の水を捨ててしまったことが解せない。俺が石井だったら、不凍液の入った花瓶を残しとくよ。枯れた花は捨てたとしてもね」
  「それはちょっと不自然じゃないかしら? 枯れた花を捨てたのに、花瓶の水はそのままにしておくなんて。かといって、枯れた花をそのままにしておくわけにもいかないですよね。そうそう、花瓶の水に目を向けさせたければ、あとで、『雑巾が一枚足りない』なんて騒ぎ出してもいいですよ。第一、水が変だなんて、見たのは石井さんだけなんだから、最初から何も起こらなかったのかも知れないし、花が本当に枯れたとしても、水を抜いて花を枯らしちゃったのかもしれないわ」
  「雑巾が足りないと騒ぎ出したら石井が犯人、ってことにもならないな。あの男が几帳面な奴で、外から来た犯人が、雑巾を一枚盗み出したってことに、本当に気付くかもしれないからね。この件、機会があったら、石井氏に鎌をかけてみようかね」
 
  応接室のドアにノックの音がして、仲根がドアを開ける。最初に入ってきたのは、コーヒーを載せた盆を持った女性事務員だ。事務員がコーヒーを配るのを横目で見ながら、近藤は仲根に尋ねる。
  「ここ、タバコはまずいですかねえ。何なら、ちょっと外に出て吸ってきてもいいですけど」
  「あ、応接室は喫煙可です。気が付きませんで、申し訳ありません。あ、君、灰皿をお持ちして」仲根はコーヒーを配り終えた女性事務員に言う。
  事務員が軽く礼をして部屋を出ていくと、仲根は近藤に尋ねる。
  「何か、わかりましたか?」
  「可能性は二つ。石井さんが犯人か、計算機に侵入されたか」
  「石井にできますかねえ。都合よく台車を持っていたというのは大いに怪しいですけど」
  近藤は先ほどの推理を述べる。仲根は感心してこれを聞いているが、一つの問題点に思い当たる。
  「五分と二十秒ですね、石井がドアを閉めてから、山崎が鍵を開けるまでの時間は。石井の犯行だと致しますと、この五分二十秒間に、石井は私と山崎に電話をかけ、台車を押して共犯者に渡し、ゴミを捨てて、台車を戻さなくてはなりません。しかし、作業員用の出口からゴミ置き場まで、少し距離がありますから、そんな時間ではたしてできたものかどうか、私は相当に厳しいと思います」
  「そういえば、連絡を受けた仲根さんと山崎さんが保管庫に到着するまでの時間も、五分ほどかっている計算ですが、これも少し長いんじゃないですか? 仲根さんの事務所はこの先の部屋でしたよね。ここからあの作業場を横切って現場に到着するのに、三分もあれば充分だと思うんですが」
  「それはですね、線量計を準備していたのと、石井が両方に電話したとは知らないものだから、私が山崎を、山崎が私を呼び出すといった混乱がありまして、少々時間をロスしたんです。まあ、一〜二分ですけどね」
  「ああ、なるほど。しかし、石井にしてみれば、そんなことはわかりませんから、遅くとも三分後にはおふたりが来られると思わなくてはいけない。木箱を運搬しているところなんぞを目撃されるわけにはいきませんからね。その時間で、はたしてこれだけの作業ができたかどうか、それが問題になりますね」
  「でもそれって変ですよね」柳原が口を挟む。「だって、ゴミ捨て場がそんなに遠かったら、石井さんが犯人じゃなくたって、ゴミを捨てて帰ってくるのに時間が足りないんじゃあ……」
  「あ、そうですなあ。石井を問い詰めてみましょうか。あの男の言っていることはちょっとおかしい」
  「その前に、作業員の出入り口からゴミ置き場まで、どのくらい時間がかるものか、実際に測ってみませんか」
  近藤の提案に従い、三人は外に出る。近藤は、入口脇の灰皿をみつけ、ここぞとばかりに煙草に火をつける。
  「あの角にあるのがゴミ置き場です」仲根、駐車場の隅を指差す。そこには、ブロックの隔壁でいくつかに仕切られたゴミ置き場がある。ゴミ置き場の裏側は最初に入ってきた道路で、その向う側は湖だ。
  近藤たちは、逆方向に歩いて時間を測ろうと、ゴミ置き場の前まで歩く。ゴミ置き場の前から、駐車場を斜めに横切った先に、作業員の出入り口が遠くに見える。駐車場にはかなりの台数の車が停められており、ちょうど退社時間らしく、多くの作業員が車に乗り込み、駐車場から出ていく。
  「ここからですと、二百メートルくらいありますかね」
  「いや、それほどでもないでしょう。百五〜六十といったところでしょう。意外と近かったですねえ」
  近藤たち、時間を測りながら、思い思いの速度で作業員出入り口へ向かう。
  「二分ほどかりますねえ。走れば半分くらいでしょうけど、台車を押しているから、それほど早くは歩けないはずです。往復で四分か……彼が悪さを企んでいたとしたら、三分じゃあ、ぎりぎりだなあ」
  「しかし、仲根さんたちは五分経ってから来たわけで、仮にごみ捨てに往復四分かかったとしても、中根さんたちが来たときには保管庫の前にいたという、石井さんの話に矛盾するところはありませんね」近藤は作業員出入り口の外に設置された灰皿で煙草を消しながら言う。
  「犯人であるとするとおかしいが、犯人でないならおかしくないというわけか」仲根は残念そうに言う。「目撃者が捕まればいいが。石井がだれかとコンタクトしていたら、非常に怪しいですね。意外と簡単にホシが割れるかもしれない」
  「可能性としては、台車をすり替えることだってできますよ」柳原が言う。「つまり、入口のあたりで、別の台車を用意しておいて、ゴミをそっちに載せかえて、ゴミの載ったほうの台車を石井さんがゴミ捨て場まで押していく。木箱が載ったほうの台車は、共犯者が自分の車まで押して、台車ごと持っていってしまう。これなら、見られてまずいところは台車をすり替えるところだけで、そのあとはだれに見られても大丈夫ですよ」
  「ああ、それなら、ゴミ捨ても共犯者にやってもらえばいいわけだ」近藤は指摘する。「石井さんは、どこかにゴミを載せた台車を置いて、もう一台の空の台車を、何食わぬ顔をして戻したかもしれません。これなら、時間は、全然掛らない」
  「朝の八時五十分ごろというのは、このあたり、どんな状態だったんでしょうか」近藤が仲根に尋ねる。「石井さんが犯人だとして、誰にも見られずに共犯者とコンタクトできるものでしょうか?」
  「いやあ、誰かに見られた可能性は高いですよ。一番込む時間帯ですからね。日勤の人は、既に車を停めて中に入っていますし、夜勤の人がそろそろ帰り始める時間で、その双方の車が駐車場にあるわけですから」
  「夜勤の人は、人数もそれほどいないと思いますが。今よりは人通りが少なかったんではありませんか?」
  「いえいえ、日勤の人は残業がありまして、帰る時間はまちまちなんですが、夜勤は、基本的に残業をしないことになっておりまして、ちょうどあの時間帯が帰宅のピークです。十二日の朝に保管庫に入ったときも、出入り口のあたり、かなり込み合っていましたから」
  「そんな中で、はたして台車をすり替えることができたかどうかが、一つのポイントでしょうなあ。もう一つ、石井は台車をラジオアイソトープの保管庫に入れたかどうか、その二点で、彼の犯行かどうか、判断できるでしょう」近藤は、石井犯行説を実証するために確認すべき事項をまとめる。
  「いずれにせよ、明日になれば山崎の調査結果がまとまりますから、もう少し詳しくわかるのではないでしょうか」
 
  近藤たち、石井氏のゴミ捨て行動に関しては、これ以上の調査を諦め、応接室に戻る。
  応接テーブルには既に灰皿が置かれており、近藤は安心して煙草に火をつける。
  仲根は、冷めたコーヒーを一口飲んで言う。
  「さて、一つの可能性としてご指摘いただいた石井犯行説につきましては、明日の山崎の報告を待つと致しまして、もう一つの可能性、セキュリティシステムに不正がなされたという可能性はどんなもんでしょうか?」
  「そうですなあ、これにつきましては、まず、御社のセキュリティシステムを見せていただけませんでしょうか」
  「かしこまりました。早速、セキュリティコントロールルームにご案内致しましょう」
  近藤は、まだ長く残った煙草に未練がましく一瞥をくれると、それを灰皿に押し付けて消し、仲根に続いて応接室を出る。
  セキュリティコントロールルームは、玄関ロビーの真上だ。セキュリティコントロールルームへは、受付の奥の螺旋階段から上がっていく。
  「ははあ、ここでしたか」
  「玄関ロビーには、昼は受付の者が、夜間は守衛がおりまして、だれにも気付かれずにこの部屋に入ることは不可能です。もちろん、中にも人がおりますから、うまくみつからずに階段を上ったところで、部屋に入った時点でみつかってしまいます」
  仲根が螺旋階段の中央ポール裏側に取り付けられた金属板のスロットにカードキーを差し込むと、天井が自動的に上がり、階段を昇れるようになる。
  セキュリティコントロールルームは、天井が傾斜した屋根裏部屋といった感じのほぼ正方形の部屋で、窓はない。部屋の周囲の、天井の低い部分には机が造り付けされていて、その上にディスプレーが何台も並んでいる。机の下には背の低いラックに格納されて、計算機、ディスクアレー、バックアップシステムなどが並んでいる。
  仲根は、セキュリティセンターにいた一人の男を近藤に紹介する。
  「山崎です。ウチの警備主任です」
  「よろしくお願いします。セキュリティシステムについて、ご説明致しましょうか?」
  「お願いします」仲根が言う。
  「この部屋の計算機で、セキュリティシステムを運用しております」山崎は説明を始める。「やっておりますことは、今回問題が指摘されております扉とロックの監視の他、所内の監視カメラや放射線モニター等のセキュリティシステムの記録と分析が第一です。その他の業務と致しまして、人事、経理の情報処理と、本事業所全体のメイルとファイルのサービスも行っておりまして、要員は一直二名の三組二交替勤務、夜間はそのうちの一名が守衛を務めます。つまり、下の受付カウンターに座っておるわけです」
  「事件のあった十一日夜から十二日朝にかけて勤務されていたのはどなたでしょうか?」近藤が尋ねる。
  「中島と小林が当日の夜勤でしたが、特に異常はなかったとの報告を受けています」山崎が応える。
  「できれば、直接、当日のお話を聞かせていただきたいんですが」
  「両名とも、本日は夜勤です」山崎は応える。「夜勤は夜七時から朝九時までの十四時間勤務ですから、まだ出勤しておりません。六時半過ぎには顔を出すんじゃないかと思いますので、来たらご連絡しますよ」
  「えーと、セキュリティシステム関係の計算機は全部この部屋にあるんですよね」柳原が尋ねる。「この機械のオペレーションはどこでやるんでしょうか?」
  「もちろんここでしてますけど?」山崎には、柳原の質問の意図が掴めない。「あ、開発棟のパソコンからやることもありますね。特に私は、オフィスにいる時間が長いですから、専ら、開発棟の私のデスクに置いてあるパソコンからアクセスしてます」
  柳原は、満足そうに頷くと、計算機の裏から出ているケーブルを指差して、二つ目の質問をする。
  「ここのイーサは、どこに繋がっているんでしょうか」
  「メイルもやっておりますので、全世界に繋がっておりますよ。もちろん、ファイヤウオール経由ですけど」山崎は、またしても柳原の質問の意図がよく理解できない。
  「えーと、この裏に這っているのがイーサケーブルだと思うんですけど、これは、どこまで延びているんですか?」柳原、机の下を這うケーブルを指差して言う。
  「それは、製造のサーバと、開発のサーバまで延びています。サーバは、それぞれ、製造棟と開発棟の一階にあります。サーバからは、別のイーサケーブルが棟全体に這わせてありまして、それにハブがいくつもぶら下って、各人の計算機に接続してあります」
  「このイーサケーブルのルートに沿って、ご案内いただけませんか」柳原は山崎に頼む。
  「この先、ケーブルは壁の間に入っておりまして、壁を出たところからのご案内でもよろしいでしょうか」
  「ええ、もちろん」山崎の言い方がおかしかったのか、柳原はにっこりと微笑む。
  「そっちは私が説明しよう」仲根が言う。「山崎さんは作業を続けてください」
  仲根は柳原を案内して、階段を降り、ロビー前の廊下に出る。
  「あそこ、天井に近いところに、鉄の蓋がついているのがおわかりかと思いますが、あの裏にイーサが走っております。受付と応接の端子は、これからダイレクトに分岐していまして、そのための接続部が、あの蓋の奥に入っています」
  仲根はどんどん廊下を進む。
  近藤たちの使っている応接室の先は、開発事務所ということで、大きなフロア―を二メートルほどの高さのパーティションで仕切って、一人またはふたりづつの作業場所が作られている。それぞれの作業スペースには、いずれも小さな書棚とL字形のデスクが置かれ、デスクの上にはディスプレーが置かれて、カラフルなウインドウを表示している。
  「我々総務部門と営業も、この棟に入っておりまして、開発事務所の入口に近いところが、営業部と総務部になっております」仲根は、通路の右手を指して説明する。
  次に仲根は、通路左手の広い区画に、柳原と近藤を案内する。部屋には大小様々の計算機と、プリンター、プロッターなどの端末機器が不規則に置かれ、コピー機や文房具の入った棚なども置かれている。
  「ここが、計算機置き場でして、これが開発のサーバです」
  柳原、開発サーバから延びるイーサケーブルを目で追う。それは、壁につけられた端子箱まで続いているが、端子箱の中にも、端子箱とサーバ間の配線にも異常はないようだ。
  「ケーブルに異常はないようですね。サーバの監視はされているんですか?」
  「ええ、サーバは中継専用でして、他の業務には使いません。監視プログラムが数秒間隔で走って、目的外使用をチェックしています」仲根は、自信なげに応える。「ファイルシステムとプロセスリストを検査しているんですが……」
  「このマシンに変なプログラムを置かれると、セキュリティシステムに侵入されるかもしれないんですけど、それだけ監視されているんなら、多分大丈夫でしょう」柳原は、仲根を安心させるように言う。
  「製造のサーバも御覧になりますか?」
  「お願いします」
  三人はロビーを横切り、製造棟へと進む。こちらは、作業場に接して鍵の掛る扉で仕切られた部屋がある。作業場に面したコンクリート壁には大きなガラス窓が嵌め殺しになっており、これを通して、室内に計算機が整然と並べられているのが見える。
  製造の計算機室は、塵一つなく清掃されているが、なんとなく、埃っぽい印象を受ける。カーペット張りの開発計算機置き場と異なり、製造計算機室の床はコンクリートだからかもしれない。
  仲根は、カードキーを使って扉を開け、ふたりを室内に案内する。
  「これが製造のサーバです」仲根、壁側の計算機を指差して言う。「モノは開発のマシンと同じです」
  柳原、こちらでもイーサケーブルの接続状態を確認する。こちらは短いケーブルで壁のボックスに綺麗に接続されており、ケーブルにもボックスの内部にも異常は見当たらない。
  「異常はないようですね。当然、こっちも監視しているんですよね」
  「開発と同じく、中継専用で、数秒毎の監視を行っています」
  「サーバも、大丈夫そうですね」
  柳原の言葉に、三人はこの部屋の調査を打ち切る。
  応接室への道すがら、柳原は仲根に説明する。
  「一番簡単にクラックする方法は、セキュリティシステムと同じイーサに解析装置を繋ぐことなんです。だから、そのケーブルに、何か変なものが付いていないか、チェックしたんです。壁の外は大丈夫みたいですね。なんかされているとしたら壁の中の配線だけど、これって、簡単にはできないでしょう。あとは、開発なり製造なりのサーバに侵入するって可能性ですけど、決まったプログラムしか走らせていなくて、そのプロセスを常時監視されていたら、侵入は、なかなか難しいと思いますよ」
  「壁の中の配線は金属管を通していますから、外から細工できるのは、ロビー前の廊下に付いている蓋の部分ぐらいですけど、ここは四六時中監視されていますから、まず大丈夫です」仲根も自信を取り戻したようだ。
  「あとは、応接室ですね。これ、だれが使ったか、記録は残っていますか?」柳原が尋ねる。
  「応接室もキーがなければ開きませんから、だれが使ったかは、完全に記録されてますよ」
  「その記録、あてにならないかもしれないんです。予約表とかは残っていないんですか?」
  「予約表もあります。どのくらいの期間、お入用ですか?」
  「そうですね、ファイルでいただけるんでしたら、ありったけ、ハードコピーでしたら、まあ、一年分くらいあればいいかしら。念のため、予約表とキーのログの両方をください」
  「わかりました。あとで、ファイルでお届けしましょう」
 
  応接室に戻ると、仲根は近藤に尋ねる。
  「さて、本日のところは、そろそろよろしいでしょうか。今、お飲み物をお持ちしますけど、それを召し上がられたところで、宿のほうにご案内しようかと考えておるんですが」
  「いえいえ、これからですよ、我々の仕事は。仲根さんは何時ぐらいまでよろしいでしょうか? 我々だけでやるわけにもいかんでしょうし」
  時刻はまだ五時四十五分だ。
  ドアにノックの音がして、女子事務員がコーヒーを乗せたトレーを持って入ってくる。全員にコーヒーが配られる間、仲根も口を噤む。
  「このところ、九時、十時ですよ。先生がたをお送りしてから、戻って仕事をするつもりでした」
  「今日は、もう一時間もしたら終ります」柳原は仲根を安心させるように言う。「LANの具合をチェックしたいと思ってるんですけど、御社のネットに私どもの計算機を接続させていただけませんでしょうか。できましたら、セキュリティシステムと同じイーサのところに」
  「今日と明日、この応接室を押さえておりますんで、ご自由にお使いください。ここでしたら、基幹のイーサに計算機を接続できます。そこに出ている端子がそうですよ」仲根は壁のコンセントを指して言う。
  「ああ、それはベストです。この部屋、朝まで計算機を無人運転しても大丈夫ですね」
  「ええ、問題ありません。アカウントもお入用ですね」
  「あ、お願いします」
  もちろん、柳原はアカウントなどなくても計算機に接続することができるのだが、無用の混乱を起す危険は避けなければならない。
 
  仲根、アカウントの交付を依頼するため、部屋を出ていく。その間、近藤と柳原は、コーヒーを飲みながらひそひそ話をする。
  「例によって、全受信モードかね」
  「社内に犯人がまだ残っているとしたら、今でもセキュリティシステムとパケットを送り合っている可能性がありますから、そいつを捕まえれば一発ですよ」
  柳原、計算機を壁のイーサコネクタに接続すると、キーを操作して、監視ソフトを走らせる。画面にウインドウが開いて、無数の小さな文字が流れ始める。柳原はしばらくの間、それを無言でみつめる。
  「あ、管理者のパスワードが使われましたね。しっかり取れましたよ。あはっ、私のユーザ登録をしているんだ。IDも仮設パスワードもわかります。ログインしちゃいましょうか」
  「あまりお行儀の悪い事をしちゃいけないよ」
  「いろいろ調べるには、管理者権限でログインしたいんですけど、それも仲根さんに断んなくちゃいけないわけね」
  「当然です」
  柳原がセットした計算機は、セキュリティシステムが接続されたイーサケーブルに流れるデータを傍受して、自動的に収集し解析している。今のところできるのはそこまでだ。柳原には、いくつか調べてみたいファイルがあるのだが、IDを正式に貰う前にアイソトラック社のネットにアクセスするわけにはいかない。
  しばし時間の空いた柳原は、いくつものメモを応接テーブルに並べると、猛然とキーボードを打ち始める。
  柳原は最近サボりがちだが、コンドーの調査員達は、日々の記録を文書化して、エミちゃんにメイルすることが義務付けられている。エミちゃんは、これを整理して、請求書に添付するレポートを作製する。
  近藤はエミちゃんに、レポートは質より量で書くよう指示している。不幸にして未解決に終った事件でも、分厚いレポートをみれば、調査員たちが料金に見合う努力をしたと理解してもらえるだろうという計算だ。エミちゃんは、いつも、近藤の期待に応えて、分厚い、立派な装丁のレポートを作ってくれる。
  近藤は、時折柳原の質問に応える他は、特にすることもなく、煙草を吹かし、窓の外の光景をぼんやりと眺める。
  窓の外は、幅の狭い駐車場を隔てて正門に続き、その向う側には道路を挟んで湖の光景が広がっている。ここからだと、湖のこちら側の岸は、正門のところの壁のない部分しか見えない。少し左のほうには、湖に陸地が突き出し、そこに茂る木の梢が壁の上に見えている。茂みの間には、二つ三つの街灯が、蛍光灯の侘しい光を放っている。この小さな半島にも、人の入る道があるようだ。
  あたりが薄暗くなるにしたがって、道端の水銀灯もぽつりぽつりと点灯し、赤みがかった淡い光を放ち、時間の経過とともに、徐々に、青白い光に変化する。
  湖の向う岸は、湖面を覆い始めた霞のため、判然としない。ただ、大きな建物の黒い影と沢山の灯りが並んでいるあたりが向う岸だと想像できる。向うの山肌は影になって、ほとんど黒一色だ。太陽は大分前に後方の山の端に沈んだようで、空には赤紫の光が充満している。
  応接室のドアにノックの音がして、仲根が戻る。仲根は、柳原のユーザIDと臨時パスワードを柳原に伝え、パスワードはすぐに変えてください、と言う。
  柳原が管理者でログインしたいというと、仲根は、管理者のパスワードを教えるのは、手続きが煩雑で時間が掛ると言う。「パスワードは、教えていただかなくても結構ですわ。ログインさせていただければ」と柳原が言うと、仲根は少し考えたのちに「それでしたらご自由にどうぞ」と応える。教えてはいけないが使うのはかまわないといった、変な規則になっているのか、それとも、管理者のパスワードはそうそう簡単にはわかるまいと、仲根が高を括っているだけなのか、よくわからない。いずれにせよ、目的の言質を取った柳原は、仲根に礼をいう。
  「ありがとうございます。それから、十一日のバックアップテープを、適当な領域に復旧(リストア)しといていただけませんでしょうか」
  「はい、山崎に言って、すぐに用意させましょう。予備のディスクアレイにリストアして、柳原さんのディレクトリにリンクしておきましょう」
  そう言って、仲根は再び応接室から出ていく。
  柳原は早速アイソトラック社のネットワークにアクセスし、ディレクトリ構造や各種設定ファイルの内容を次々に調べる。
  柳原が作業する間、近藤は手持ち無沙汰だ。また、窓枠に灰皿を置いて、外の景色を見ながらゆっくりと煙草を吹かす。外が暗くなるに従って、窓には室内の光が反射して、外の光景はだんだんと見え辛くなる。
  しばらくすると、柳原は一通りの作業を終った様子で、両手を頭のうしろに組み、背筋を伸ばして天井を見上げる。それを見た近藤は、柳原に作業の進行状況を尋ねる。柳原はこれに応えて言う。
  「割合ちゃんとやっていますね。報告されているセキュリティホールはちゃんと潰しているし、バックアップもきちんと取っている。だけど、ユーザのパスワードはざるです。クラッキングソフトで、ぞろぞろ解読されちゃいます。流石に、管理者のパスワードには、クラッキングソフトじゃあ歯が立ちませんけど」
  「どこだってそんなもんだろう。どうやって鍵を開けたか、だれがやったか、わかりそうか?」
  「ロックのプログラム、実行形式ですけどダンプしました。これ、ちゃんとした解読は今晩やりますけど、ロック解除のコードもわかりました。鍵を開けるプログラムは、簡単にできますよ」
  「君と同じ解析を、社員のだれかが、やったんじゃないかな。だれかのディレクトリに、それに似たファイルがあったら、そいつが怪しい」
  「そうですね。今晩、ロック解除コードのパターンサーチをかけときます。現在の全ファイルシステムと、十一日のバックアップ全てをサーチしますから、相当に時間がかりますけど、明日の朝には終ってると思いますよ」
  「セキュリティシステムへのアクセスチェックはどうなったかな」
  「全監視モードの奴ですね。セット完了です」
  「あとは、宿のほうからでも操作できるかな」
  「インターネット経由の遠隔操作(リモートログイン)ができると嬉しかったんだけど、この施設の外部とやり取りできるのは、メイルだけですね。ウエブにもアクセスできないけど、不便じゃないかなあ」
  「メイルで操作できるよう、設定するんだね」
  「当然です。だけど遅いんですよね、これって」
  「セキュリティと便利さって、トレードオフの関係だからね。この施設がセキュリティを重視するのは、まあ、妥当なところだと思うよ」
  「確かに。会社の外から侵入するのは至難の業ですね。それだけは、認めてあげるわ」
  柳原は、様々な設定を済ませ、重要ないくつかのファイルをメモリーカードに転送すると、キーボードをロックして言う。
  「終りました。あとは、獲物が引っかかるのを待つばかり」
  近藤が時計をみると、六時半を五分ほど回っている。事件当日夜にセキュリティセンターに詰めていた中島と小林の両名がそろそろ出勤しているはずだ。
  「六時半を過ぎているねえ。夜勤の連中、どうなったんだろう」
  「セキュリティセンターに電話してみたらどうですか? 番号わかりますよ」柳原は、ノートパソコンにアイソトラック社内電話表を表示する。
  近藤が、ディスプレーを見て、電話をダイヤルし始めたとき、ドアにノックの音がして、山崎ともう一人の男が顔を出す。
  「いやいや、いまお電話差し上げようとしてたところです」近藤は笑い顔で言う。
  「小林です」山崎は、連れの男を近藤たちに紹介する。「十一日の夜に勤務しておりました、ふたりの内の一人です。もう一人の中島も既に出社しておりますが、ふたり同時に持ち場を離れるわけにもいきませんので、後ほど交替で寄越します」
  「お忙しいところ、どうも済みませんなあ」近藤は山崎に頭を下げる。「おひとかたづつお話をうかがうほうが好都合です。それで、小林さん、私ども、十一日夜の盗難事件の調査を致しておるんですが、その晩のセキュリティセンタの状況につきお話いただけませんでしょうか」
  「特に変わったこともありませんでしたが……」
  「いや、普通のことでも結構ですから、当日の夜の状況を、順を追ってお話いただけませんでしょうか」
  「そうですか。十一日の夜は、私は六時半過ぎに出社致しました。当日夜の相棒になります中島は、私よりも少し早く来ておりましたので、私が出社すると。すぐに日勤のものから引継ぎを致しまして、六時四十分頃から勤務についております。この日、私は、前半に一階の受付を担当することと致しまして、後半、つまり朝の二時から二階を担当致しました。二階は装置に異常がなければ仮眠が取れまして、後半に二階を担当するほうが、体のリズムに合いまして、楽な分担です。普段は、一日毎に勤務の後先を交替しておりまして、この日、私は先に二階を担当することになっていたんですが、この日は、中島が眠いから変わってくれと言い出しまして、私が先に一階を担当することに致しました。それ以外、特に変わったこともなく、一階の勤務を終え、それ以降の二階の勤務でも異常はありませんでした」
  「通常の日と異なったことは何もなかったと?」
  「そうですね、普段ですと、日勤の者からの引継ぎには山崎さんが立ち会うんですけど、この日は、外に出られていたとかで、山崎さんは立ち会われませんでした」
  「夕刻からアイソレークセキュリティセンターの連絡会と懇親会がありましたので」山崎が事情を説明する。「官公庁対応などの庶務連絡を兼ねて、毎月一回開催しております」
  「何と何を兼ねているんですか?」近藤が尋ねる。
  「あ、庶務連絡を兼ねた飲み会ですね。セキュリティセンターの連中と飲むときは、いつも午前様になります」
  「連絡会が十一日に行われることは、皆さんご存知だったのですか?」近藤は片方の眉を吊り上げて尋ねる。「つまり、あの犯行が、セキュリティ関係者の懇親会に合わせて行われた可能性もあるのではないかと思うのですが」
  「責任者が酒を飲んでいるからといって、警備が手薄になるわけではありません」山崎は応える。「が、事件が当日の夜に明るみに出た場合には、対応が遅れたかもしれませんね。そういう意味では、確かに、チャンスといえるかもしれませんねえ。それで、連絡会の日程ですが、私のスケジュール表は誰でも読める場所に置いてありますので、アイソトラック社の社員なら、誰でも知ることができます」
  「そうでしたか」これ以上、山崎の話から得るものはないと判断した近藤は、小林への質問に切り換える。「一階におられる間、来客とか、玄関ドアの人の出入りとかで、変わったことはありませんでしたか?」
  「来客はありませんでした。人の出入りは、十時過ぎまでありましたね。開発の人たちが数人、遅くまで残業しておりまして、最後の人が帰ったのが十時四十五分でした」
  「最後の人だとわかるのもですか?」
  「本人がそう言って帰りますので。最後に退勤する者は、その旨を申告するというルールになっているんです。それで、私は開発事務室の火の気と照明をチェックしまして、玄関と通路の扉をロックして、人感センサーを作動させました」
  「人感センサー?」近藤が訊き返す。
  「一階で人が動き回ると、センサーが感応します。しかけられてます場所は、開発事務所と玄関周辺でして、夜勤の者が使います作業エリアは対象外となっております」
  「ロックは、どのようにされてたんでしょうか」
  「カウンターの所でキースイッチを操作すると、玄関と、通路の扉のロックが作動し、カードキーを使わなければ扉が開かなくなります。開発事務所の最後の者が退勤してから、翌朝の八時まで、この状態に保つことになっております」
  「ロックは時間で掛けるところも多いようですけど……」柳原、どうでも良いような質問をする。
  「ここも昔は時間でロックしてたんですが、残業するものが多くて、煩わしいということで、最後の人が退出されてからロックを掛けるよう、変更致しました」
  「大体そんなところでしょうか」近藤が確認する。
  「あ、二階の人と下の人の連絡はどうなっているんですか? 警報とか、両方でわかるようになっているんでしょうか?」柳原が尋ねる。
  「セキュリティシステムの異常や、人感センサの警報は、上下両方でアラームが鳴るようになっています。セキュリティシステムに異常があった場合は、二階でブザー停止のボタンを押すまで、アラームが鳴りっ放しになりまして、さては寝込んでいるなと、下の者が起しに行くことになっております。その間、受付は無人になるわけですけど、そこの階段を上り下りするだけですから、たいした時間ではありません」
  「あの夜は、アラームは……」
  「いや、一回も鳴りませんでした」
  「中島さんと交替したのは何時ですか?」近藤がきく。
  「二時、ということになっているんですけど、時間になっても下りて来ませんで、覗きに行ったら、ぐっすり寝ていました。中島さん、体調が悪いというお話でしたんで、そのまましばらく寝かせてあげました。彼は、二時四十分頃、自分で起きて下りてきましたんで、その時点で交替しましたが、えらく恐縮しておられましたよ。その頃には、もう、お体の方もすっかり良くなったご様子で……」
  「はあ、それはようございましたな」近藤は、小林が話し始めた瞬間に、交替は二時と、最初に聞いていたことを思い出してバツの悪い思いをするが、気を取り直して柳原に向かって言う。「さて、他に聞いておくことはあるかね」
  近藤の質問に、柳原はにっこりと微笑んで満足の意を告げる。
  「お忙しい中、どうもありがとうございました」
  近藤は小林に礼を言うと、中島を呼んでもらうよう山崎に頼む。
  山崎は、席を立った小林に、中島と役目を交替して、中島を応接室に寄越すよう指示する。
 
  少し待つうちにやがて中島が入室する。中島は、山崎をみて「先ほど依頼の件、終りました」と言いながら席に着く。
  「先ほど、小林さんから十一日夜の状況を一通りお話いただいたんですが、中島さんからも、お話しいただけませんでしょうか。特に変わったことなどございましたら、詳しくお話し下さい」
  「特に変わったことはございませんでした。普通でないことといいますと、この日、私は風邪気味でして、夕食後に風邪薬を飲みましたところ、急に眠気が差してまいりまして、先に二階を担当させていただきました。その他は特段お話するようなことはございません」
  「当日夜の中島さんの行動を、時間を追ってご説明いただけませんか?」
  「出勤したのは、六時二十分頃、小林さんより少し早めでしたな。小林さんが来られて、すぐに引継ぎを行いまして、二階に上がったのが六時四十分頃。その後、システムのチェックを致しまして、異常のないことを確認してから、仮眠を取りました。七時前に、完全に熟睡致しまして、二時に小林さんに起こされるまで、一度も目を覚ましませんでした。七時間以上寝ていた計算ですな。お蔭様で、風邪のほうもすっかり良くなりました。二時をかなり過ぎてから一階受付を担当いたしましたが、こちらも格別の異常もなく、朝まで平穏無事でした」
  「はあ、普段通りで、特に異常はなかったと」近藤は気の抜けたように言う。
  「一階受付にもセキュリティセンタに繋がる端末は置いてあるんですか?」柳原が訊く。
  「ええ、もちろん置いてありますとも」中島は応える。「だけどあれは、受付の専用端末ですから、受付業務以外の作業には使えません」
  「二階にはシステムコンソールもあると思うんですけど、誰かがどこかで管理者権限で接続したら、システムコンソールでわかるんじゃないですか?」柳原は尋ねる。「実は、十一日の夜、何者かがセキュリティシステムに侵入して、管理者の権限でファイルをいじったらしいんですよ」
  「どこかで誰かが管理者権限を取得すると、システムコンソールには赤い字で表示が出ます」中島が応える。「ただ、私は寝ていましたし、ディスプレーの電源も落としてしまいましたんで、そういうことが行われたかどうか、わかりませんでした。あ、コンソールへの表示は、全てログファイルに残っていますよ」
  近藤は、しめたとばかりに目を吊り上げるが、柳原は冷静に言う。
  「ログ、一応みせてください。だけど、管理者権限で接続した人は、ログを書き替えることだってできるんですよね」
  「ええ、もちろん。管理者の権限があれば、なんでもできます」
  「ま、書き替えていないかもしれないからね」近藤は幸運を期待して言う。
  「システムに侵入した場合、ログを書き替えるのは、定石ですけどね。もちろん、チェックはする必要がありますけど、あんまり期待しちゃあいけません。えーと、私のほうは、そんなところですけど、他に何かありますか?」
  「いや、どうもありがとうございました」
  「それでしたら、システムコンソールのログ、柳原さんの臨時アカウントにメイルしておきましょう」
  そう言い残すと、中島は応接室を出て、セキュリティルームの勤務に戻る。
  近藤が、本日の作業が終了した旨を山崎に伝えると、山崎は仲根に連絡すると言って応接室をあとにする。
  近藤が書類を鞄にしまい込むと、すぐに帰り支度は完了する。仲根を待つ間、近藤と柳原はまたも窓の前に立って外の景色を眺める。日が延びたとはいえ、七時を過ぎると、さすがに外は薄暗く、霧も先程よりは相当に濃くなっている。湖は全く見えず、道端の水銀灯が点々と続くのが見えるのみである。
  間もなく、仲根が一枚の白い紙を持って現れる。
  「これが宿の案内図なんですけど、おわかりになりますでしょうか」
  「湖畔に公園のようなものがありましたけど、あそこの交差点を左に入ればいいんですな。わかると思いますよ。霧がちょっと心配ですけど」近藤は、鞄を抱えて、立ちあがりながら言う。
  「本日は、私がご案内致します。お食事もご一緒にどうですか?」仲根はそう言うと、応接室のドアを開けて近藤たちを招く。
  「ご案内いただければありがたいですなあ。そのほうが安心です」近藤は応接室を出ながら、扉を押さえる仲根に言う。
  「明日もございますんで、近藤様の御車で行っていただけますでしょうか。私が助手席でガイド致しますんで」仲根は、応接のロックを確認すると、近藤のあとを追いながら言う。
  「帰りはどうされるんですか?」
  「宿の者に送らせます。毎度のことですから」仲根はそう言うと、受付に座る小林に一声掛けて別れを告げ、玄関の扉を開ける。
 
  近藤は慎重に車を出す。霧は、室内から見て感じたほど濃くはなく、対向車も、先を走る車も識別することができる。
  「風のない夜は、いつもこうなんですよ。ひどいときには、鼻の頭も見えなくなります」助手席で、仲根が説明する。
  (鼻の頭なんて、普通、見えるかなあ)柳原は、後部座席で寄り目をして確かめる。
  「発電所の温排水ですな」近藤は、霧の原因を指摘する。
  「そうです。霧が濃くなり過ぎないように、発電所のほうで管理しているんですけどね。風とか気温とかも関係しますんで、思うようには、コントロールできないんだそうです」
  「この霧、発電所のせいだったんですか?」柳原は聞き返す。
  「霧ってのは、暖かい水と冷たい空気が接触してできる場合が多いんだ。火力や原子力の発電所はタービンを回した水蒸気を水に戻すために冷却水を使っているんだけど、ここの発電所は湖の水を冷却水に使ってるはずで、暖かくなった使用済みの冷却水、つまり温排水を湖に戻しているんだと思うよ。そうすると、湖の水温が上がって、気温の下がる夜間には、冷たい空気に触れて霧を作るってわけだ」
  「発電所は、冷水塔も使っているんですが、湖の水で冷やしたほうが効率が良いんだそうです。だけど、温排水は、悪いことばかりじゃないんですよ。この湖、こんな山の中にあるのに、結構水温が高くて、春先から泳げるんですよ。この先の公園に、人工の浜がありましてね……」
  「こんなとこで泳いで、放射能とか、大丈夫なんですか?」柳原の不用意な発言に、近藤は空咳をして注意を促すが、仲根はあまり気にしないようだ。
  「普通の海水浴場より、よほど安全ですよ。放射線はリアルタイムでモニターしていますし、化学分析と雑菌の検査も毎日やってます。湖水はオゾン殺菌をしているんですよ」
  「あ、盗難のあった晩の霧はどうだったでしょうか?」近藤が、話題を変えるように尋ねる。
  「今日と同じ位ですかね。夜半には、霧はかなり濃くなりますよ」
  「それで、尾根の監視はできるんでしょうか。霧に隠れて尾根を超えれば、トリウムも外部に持ち出せるんじゃないですか? この程度の霧でも、監視所からの見通しは相当に悪いんじゃないかと思いますが」
  「あ、それなら大丈夫です。霧は、湖に近い低地部分に滞留しておりまして、尾根のあたりには全然かかりません。それに、監視はセンサーが主体でして、肉眼での監視には、大した重きは置いておりません。尾根に近い斜面にセンサーが多数設置してありますんで、入ってくる者も、出ていく者も、見逃すことはありません。尾根に監視所を置いてある理由は、いざというときに、すぐに警備員が駆け付けられるようにということなんです。麓から上っていくんじゃあ大変ですからね。何もないとき、遊ばしとくわけにもいきませんから、監視をさせたり、尾根のパトロールをさせたりしておるんです。悪いことはできんぞーと、アピールしているわけですね」
 
  アイソレーク山荘は、湖畔の公園の前を左に折れて、アイソレークを取り囲む山を半分ほど登ったところにある。
  このあたりまで登ると、霧はすっかり晴れている。
  空は山の端の茜色から天頂の濃紺まで色調を変え、そこにいくつかの星が瞬いている。
  周囲の山の尾根に、小さな光の点が一列に並んで見えるが、あれは恐らく監視用の照明であろう。
  駐車場の端の手すりから下を眺めると、霧が、まるで容器に入れられた液体のように、高さをそろえて溜まっている。霧の境界は、ぼやけて判然とせず、膨張しているようにも、揺れているようにも見える。
  下方のあやふやに揺れる霧と、上方の明るみを残した濃紺の空に輝く星、その間を区切る黒い尾根に輝く金のリング、これらはとても現実の光景とも思われず、夢を見ているような錯覚に囚われる。
  「明るいときに見ると、見事なもんですよ」仲根が言う。「朝は霧が見事だし、霧が晴れれば湖が綺麗に見えます。さて、フロントのほうに参りましょうか」
  仲根がチェックインのカウンターの係員に何か言うと、何の手続きもなく鍵が渡される。仲根は鍵を近藤たちに渡しながら言う。
  「手続きは全て完了していますから。えーと、どうされますか? すぐにレストランのほう、ご案内してよろしいでしょうか」
  「そうですね、じゃあ、荷物だけ部屋に置いて……」
  近藤たちは、部屋に荷物を置くと、すぐにロビーに下りる。仲根は隣のステーキハウスにふたりを案内する。
 
  仲根の選んだステーキディナーコースは、口の肥えた近藤にも満足のいくもので、普段ろくなものを口にしていない柳原にとっては驚嘆モノであった。柳原は食事に夢中で、仲根の話を半分も聞いていない。柳原が、やっと正常な会話ができるようになったのは、コーヒーのお代わりをした頃である。
  柳原と仲根の技術的な議論を横目に、近藤はワインを手酌で飲み続ける。柳原も仲根も、まだ仕事が残っていると言って、ほとんどワインを飲んでいない。このため、横に置かれたワインクーラーの赤白二本のワインは、まだたっぷりと残っている。仲根は気を利かせて、近藤のためにチーズの盛り合わせを注文する。
  「仲根さんにはお断りしておかなければいけないと思いますけど、管理者のパスワード、わかりましたんで、使わせていただいてます」
  「それは構いませんけど、どうしてそんなことができたんですか?」
  「イーサネットっていうのは、沢山の機器を一本の線に繋いで、共同で利用するシステムなんです。通信はパケットっていう単位で行われていまして、それぞれのパケットには宛先が付いてて、普通は自分に宛てたパケットだけを受信するようにしてます。でも、全受信モードっていうのがありまして、これを使うとケーブルを流れる全てのパケットを受信することができます。だから、同じケーブル上でだれかが管理者でログインすると、そのパケットは同じケーブルに繋がっている全ての計算機で受信することができて、パスワードだって読み取ることができるんです」
  「それは、防ぐことはできないんですか?」
  「一本のケーブルに沢山の機械を接続してますと、本質的に、こうなってしまうんですよ。だから、これを防ぎたければ、ネットワークを細分化して、大事なパケットは限られた範囲にしか流さないこと、もっと安全にやりたければ、ネットワークを使わずに、マシン本体のコンソールでオペレーションすることですね。マシン本体に付いているキーボードは、イーサネットを経由してませんから、入力した情報が外部に流れる心配はありません」
  「それで、これからどうされますか?」
  「今、全受信モードを使った監視ソフトを走らせているんです。セキュリティシステムへのアクセスがあったら、だれがどこから何をしたか、全て記録が残ります。これを明日みていただいて、不正なアクセスがあったかどうか、判断していただきたいと思います」
  「そういった記録は、セキュリティシステムのほうでも取っていたと思いますが」仲根が言う。
  「不法侵入者が管理者権限を奪い取った場合、システムのログは、改竄されてしまうケースが多いんですよ。でも、パソコンのモニター記録まで消すことは、それほど簡単ではありません。第一、モニターしているなんて、わからないでしょう」
  「なるほどねえ。罠をしかけたわけですね。しかし、RIを盗んだ連中が、これから不正アクセスしてくれればありがたいんですが、どうでしょうかね。連中、当分おとなしくしているんじゃないでしょうかね。そうなった場合は、打つ手はありませんか?」
  「ドアロックの制御ルーチンを解読して、任意のドアを、記録を残さず開け閉めできるようなソフトを作ろうと思います。これで、そのような犯行が可能であったことを実証するつもりです。もう一つは、そのようなプログラムに特徴的なコードパターンをサーチして、そういうプログラムを持っている人を探し出すことです。管理者の権限があれば、だれのファイルでも、自由にみることができますからね」
  「犯人だって馬鹿じゃないから、そんなプログラムは自分のファイルシステムから削除してしまうんじゃないですか?」
  「普通の人には消せない記録が残っているんですよ。バックアップテープですね。これ、一週間分の、その日その日のファイルがセーブされてますから、十一日の深夜の状況は、まだ再現できるんです」
  「先ほど依頼されたのがそれですね。バックアップテープの内容をディスクに戻したのは、ロック解除コードを探すためだったんですね。しかし、ディスクのファイルだったら、犯人に消されてしまうんじゃないですか?」
  「その場合は、私のパソコンに全監視モードのモニター記録が残ります。ディスクのファイルが消されても、テープが残っている限り何度でも復旧できますから、私は全然困りません。彼等に逃げ道は、ないんじゃないかしら」
  「それを全部、明日までにやってしまうということですか。しかし、ウチのセキュリティシステムは、そんなに簡単に破れるものだったんですか?」
  「まあ、やってみなければわかりませんけどね、たいていのシステムは、内部からでしたら、簡単に破れます。その痕跡さえみつけ出すことができれば、手口もわかるし、犯人の目星も付くと思いますよ」
 
  食事を終えてホテルに帰ったのは、まだ九時前だ。
  「本来なら、バーでもう少しお話したいところですが、社のほうに雑用が残っておりますので、私はこれで失礼します。その代りといっては何ですが、部屋のほうにお飲み物を各種用意させましたので、ご自由にお使いください。明日は九時ごろでどうでしょうか。また、受付に言っていただければお迎えに上がります」仲根はそう言い残すと、アイソトラック社に引き上げていった。
  近藤と柳原はそれぞれ部屋に引き上げる。
  「柳原君、今日はこれで失礼するよ。草臥れた」
  「私はプログラムみておきますけど、明日はどうされますか? えーと、九時に行くってことは、八時半頃に出ればいいかしら。八時半にロビー待ち合わる、ってことでよろしいでしょうか?」
  「うん、朝御飯は別々がいいね。起きないかもしれないし。あと、荷物をもってくるのを忘れないこと。チェックアウトして、八時半ってことで。それじゃあお休み」
 

 

第2章 クラッカー

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  翌朝、近藤が目を覚ましたのは、まだ六時前だ。約束の時間まで二時間以上ある。グリルも七時開業のはずで、まだ大分間がある。
  「昨日はエライ早く寝ちまったからなあ」
  近藤は、ベッドから出て、腰を左右に曲げて筋肉を延ばすと、天候の具合を調べるため、カーテンを開ける。
  窓の外を見た近藤は、思わず驚嘆の声を上げる。
  「うわっ、これは凄い」
  よく晴れた青空の下、灰色の山々に囲まれて、雲が溜まっているのが眼下に見える。湖のあたりでは、これは霧ということになるのだろうが、そのはっきりとした輪郭は、空に浮かぶ雲と何ら変わるところはない。
  雲はゆっくりと波打っている。うしろから吹く風に煽られて、波は向う側、東の方向に進んでいく。
  アイソレークの一帯は、ほぼ円形の盆地であるが、周囲の山は、アイソレーク山荘のある西側で高く、東側ではその半分くらいの高さである。特に、トンネルのある北東側が一段と低くなっている。
  雲はその東の山脈に打ち寄せ、北東の切れ込み部分から外に流れ出していく。
  ときに強い風が吹くと、風の塊が雲の上に作る大きな窪みが、相当なスピードで向うへと進んでいく。それが山塊に当ると、岩に砕ける波のように、雲を空中に吹き上げる。吹き上げられた雲は、空中で淡く消えていく。
  近藤は、柳原に電話して、このすばらしい光景を教えようかと考える。しかし、彼女は昨日、遅くまでプログラムと格闘していたはずだ。
  (残念だが、彼女は寝かしておいてやったほうがいい)
  近藤はそう考えると、景色がもっとよく見える屋外に出ようと身支度を始める。
 
  ホテルの前の道を少し登った先の方に、『展望台入口』と書かれた標識のある石段が小さく見える。それがこの光景を眺めるのに最適な場所であることは、まず間違いない。雲のあるうちに行かねばと、近藤は足を速める。
  道の左右の建物はすぐになくなり、左手のなだらかな斜面の下に雲の光景が広がる。右手は傾斜のきつい上り斜面で、ごつごつした灰色の岩に潅木が張り付いている。このあたりは、植物の生育にはあまり適さない地帯のようだ。
  車道は、石段の手前で右に大きくカーブし、さらに上へと続いている。しかし、車道を上がった先は、金網の張られたゲートが道を塞いでいる。これより上は、アイソレークへの出入りを防ぐための警戒地帯なのだろう。
  近藤は石段を登り始める。五分も登って、足に痛みを覚えた頃、道は平坦になり、やがて開けた場所に出る。展望台だ。
  展望台は、山から湖側に突き出した大きな岩の上に造られていて、ほぼ半円形に設けられた鉄製の手摺の下は断崖絶壁だ。つまり、湖を中心とするアイソレーク一帯の光景が、何物にも遮られずに、よく見えるわけだ。
  展望台には先客がいた。手摺にもたれて下を眺めていた老人が、近藤をみて、挨拶の言葉をかけてくる。
  近藤、これに応えて言う。
  「凄い光景ですなあ。大自然の妙といいますか……」
  老人は笑って言う。
  「私は毎朝見てますが、その度に感動しますね。しかしこれは、自然じゃあありません。原子力発電所のなせる業でして……。あれができる前は、多少霧のかかることはあっても、こんなにはなりませんでした」
  「原発のできる前から、ここにおられたんですか?」
  「私はここで山小屋の管理人をやっておりました。訪れる人も少なく、商売にはなりませんでしたけど、まあ、好きでやってたわけでして」
  「この湖も、昔からあったんでしょうか?」
  「あったというか、なかったというか。幻の湖だったんです」
  「幻の湖?」
  「春先になりますと雪解け水が溜まって大きな湖ができます。この水は夏にどんどん蒸発して、秋口には湖は消え去るという特殊な場所でして、初夏になりますと、高山植物の群落が、それはそれは綺麗でして……」
  「珍しい植物もあったんでしょうな」
  「ええ、多分。まあ、私も専門家じゃありませんので、よくわかりませんが」
  「それで、どうしてこんな大きな湖ができたんですか?」
  「そりゃもう、原子力発電所ですよ。工業用水を下の川からポンプアップしまして、排水を溜め込んだんです。最初は、非常の際の冷却水を確保しようという話で、これほど大きな湖になる予定ではなかったんですけど、湖水は、こうして霧を出しますと冷えまして、それを冷却水に使うほうが、冷水塔で冷却水を作るよりも熱効率が高いということで、湖が拡張されたんです。お花畑は湖の下に沈みましたが、発電所の利益には相当に貢献しているはずです」
  「そりゃあまた乱暴なことをしたもんですね。反対運動とかは、なかったんでしょうか?」
  「毎年登ってくるお客さんは、計画が発表されて、憤慨していましたよ。反対運動をしようという連中もいたんですが、私が止めました」
  「どうしてですか?」補償金でも出たのか、と近藤は考える。
  「まあ、山小屋には私の権利がありましたんで、お金になるってこともあったんですが、お花畑を楽しんでいたのは、ほんの一握りの人たちで、この施設ができて助かった人の数とは比較になりません。大きなことをいえば、地球温暖化を先延ばしする役にも立っているはずですね。そういう場所を独占していた我々は、実に贅沢な生活をしていたわけです。私のことを裏切り者だなんて言う連中もいますけど、原発をこういう山の中に造るってのはいい考えだと、私は思いますよ」
  「この上のほうはどうなっているんですか?」近藤、展望台の上のほうに話題を振る。
  「この上はもうセキュリティ地帯でして、立入禁止です」
  「あの棒のようなもので監視してるんでしょうかね」
  近藤が指差したのは、鉄条網の向う側一帯に、数十メートルの間隔を隔てて無数に立てられた、高さ一メートルほどの柱である。
  「あ、そうらしいです。あの上の膨らんだところにセンサーだかテレビカメラだかが入っていて、だれかが斜面を登り出すと警報を発します。あれにはスピーカーも入っておりましで、警告をするんですよ。それを無視して進むと、今度は警備員がすっ飛んでくるって寸法です」
  「しかし、この山全部ですか。またよくやったもんですね」
  「プルトニウムが原爆の材料になるとか、テロリストが狙うんじゃないかとか、いろいろ心配がありまして、ガードを固めているんだそうです。まあそれも道理ですけど、収容所の中みたいで、私は好きになれませんね」
  「そうそう、ここで山小屋の管理をされていたんですね。ひょっとして、こういったセキュリティシステムに引っかからずにこの地帯から出入りする方法を、ご存知ではありませんか」
  「まあ、普通に山道を通ったんでは、難しいでしょうなあ」老人は、遠くを見る目つきで応える。
  (『普通の山道では』難しい、か)近藤は、老人の言葉の意味を考え、推理を巡らす。(普通じゃない道なら、できるってことか? だれにも知られていない洞窟でもあるんだろうか? ひょっとして、この爺さんがそれを知っていたとしたらどうするだろう。はたして、爺さんはそれを他人に話すだろうか。その所在が知れ渡れば、セキュリティの連中が放ってはおくまい。多分、コンクリートか何かで、洞窟を塞いでしまうだろう。この爺さんがそう思っているとしたら、仮に洞窟の存在を知っていたとしても、けして喋ったりはしないはずだ。しかし……)
  一応、訊いておくのも無駄ではあるまい、と考えた近藤は老人に尋ねる。
  「だれも知らない洞窟のような、隠された道でもあるんですか?」
  「さあて、私は知りませんよ。だけど、私が知らないことも、世の中には、沢山ありますからな。まあ、洞窟をお探しになるのも、また一興でございますなあ」老人は謎の微笑を浮かべて応える。
  そのとき、大きな声が聞こえて、近藤は会話を中断する。
  「なーんだ、ここにいたんですか」展望台の入口で大声を出したのは柳原だ。「凄い景色ですねえ」
  柳原は足早に展望台を一周して言う。
  「ここから先は行けないみたいですね。そろそろ帰りましょうよ。レストランが開くみたいですよ」
  近藤、老人に別れを告げ、柳原とホテルに戻る。
 
  ホテルに戻った近藤たちは、グリルを覗いてみる。席は相当に埋まっており、部屋に戻っていると満席になってしまうかもしれない。
  「先に食べちゃいましょうよ」柳原の提案に近藤も頷く。
  朝食はバイキングで、洋食も和食も自由に取れる。近藤は胃の調子が勝れず、脂分の少ないものを少しずつ皿に盛って食べているが、柳原は全ての料理を皿二つに山のように取り、どんどんと口に運んでいる。
  「しっかし、ここメシいいですね。ここの監査の仕事が取れたら、私を担当にしてください」
  「昨日はどこまでいったの?」
  近藤の質問に応えて、柳原は早口でまくし立てる。
  「あ、鍵は開けられます。パターンサーチの結果は、まだ見てません。セキュリティシステムへのアクセス記録は、定期的にメイルで貰うようにしたんですが、夕べの私のユーザ登録からこっち、管理者権限でのアクセスは発生していません。システムコンソールのログはいじられてますね。メイルで貰ったほうのログも、バックアップテープからリストアしたほうのログも、それだけみれば、何も異常はないんですけど、両方を比較すると、明らかに異なっています。もちろん、バックアップされたログには、バックアップした瞬間までの記録しかないんですけど、それ以前のレコードでも、メイルで貰ったログだけにあるのやら、バックアップにだけあるのやらがありまして、明らかに誰かがいじったとしか考えられません。ですから、あの夜、何者かがセキュリティシステムに侵入したことは間違いありません。それから、応接室の予約表と鍵の記録ですけど、怪しいのはみつかりませんでした。イーサケーブルにも異常がなかったし、全監視モードは、使われていないかも」
 
  湖畔の霧は嘘のように晴れあがり、霧による徐行運転を予想して早めにホテルを出た近藤たちは、八時五十分、予定より十分も早くアイソトラック社の前に着いてしまう。
  「また、昨日のところで待っていようや」
  近藤はアイソトラック社正門の向かい側の湖畔に車を止めると、外に出て、煙草を吹かす。
  湖畔の光景は昨日とは随分と違う印象を与える。昨日は夕方だったし、曇っていたのか、霧が出ていたのかよくわからないが、空は青くなかった。今、見上げれば水色の空が広がっている。太陽は前方の山の稜線に顔を出し、湖面の細波に反射して光り輝く帯を描く。後方の山の尾根は朝日を受けてきらきらと輝き、あたりの緑も一段と輝きを増す。
  「いい景色ですねえ」
  「天気が良くなったからな。しかし、浜辺のゴミは、昨日と同じだ」
  「ここは泳ぐ場所でもないから掃除もしないんでしょうね。公園のところは泳げると言ってたから、きっと綺麗になってますよ」
  柳原は、焚き火跡の短い材木の燃え滓と浜に打ち捨てられた木造のボートを眺めて言う。近藤は、その材木に残る黒い塗料で書かれた文字に見覚えがあるような気がして、(なんだったろう)と考えるが、昨日もこの場所で焚き火の跡を眺めて煙草を吸ったことに思い当たる。近藤は苦笑いをすると、その焚き火跡に二本目の煙草の燃えさしを投げ捨て、柳原に言う。
  「そろそろ行こうや」
 
  仲根に鍵を開けてもらって、近藤と柳原は、昨日と同じ応接室に入る。仲根は、一旦、事務所に戻る。山崎を呼びに行ったようだ。
  柳原は、早速、昨日から動かしていたパソコンの画面を表示させ、キーを押して、画面をスクロールする。そこには、一行だけ、赤い文字の表示が現れる。
  瞬時にこれをみつけた柳原、顔を輝かせて叫ぶ。
  「ビンゴ!」
  「何があった」
  柳原、画面を覗き込んで言う。
  「鍵を開けるプログラム、ありました。十一日のバックアップですね。思った通りだわ、ばーか。自分のディレクトリのファイルは消したんだけど、消す前に、バックアップされちゃったのね。おっ気の毒〜。えーと、ファイルの持ち主は、吉田さん。だけど、彼がやったということにもならないわ。だれかが彼のディレクトリに侵入したのかもしれませんからね」
  「どうすれば、犯人、わかるかな?」
  「まず、吉田さんの勤務記録を調べる必要があります。このファイルが置かれた時間帯に、吉田さんが計算機にアクセスできない状況だったとしたら、百パーセント、だれかが侵入したってことです。だけど、吉田さんが十一日の夜遅くに計算機を使っていたとしたら、吉田さんがやった可能性が高いです。だれかが使用中の計算機に侵入するって、ばれる可能性が高いですから。えーっと、吉田さんのパスワードはっと、クラックできなかった奴ですね。吉田さんがやったのかもしれないなあ。まあ、時間かければクラックできるかもしれませんから、本人に聞いてみるのが早いわね」
  柳原が興奮して早口で話しているところに、仲根と山崎が入ってくる。ノックの音を聞き逃したのかもしれない。彼等に続いて、女性事務員がコーヒーを持ってくる。
  「その後、進展はありましたでしょうか?」仲根が聞く。
  「鍵を開けるプログラム、吉田さんというかたのディレクトリにありました。吉田さんの十一日から十二日にかけての勤務記録、特に計算機にアクセスできたかどうかを大至急調べてください」柳原、一気に言う。
  「わかりました。吉田ですね」山崎、事情を理解して部屋を飛び出す。
  あとに残された仲根、気が抜けたように言う。
  「えー、本日は、山崎の調査結果をご紹介して、石井の容疑を判断することを第一に考えておりましたが、肝心の山崎が出ていってしまいましたので、さて、どう致しまょう」
  「鍵を開けるプログラム、一応作ったんですけど、実証とか、したほうがいいんじゃないですか?」
  「本当にそんなことができるんですか? 確かに、みせていただくのが良いでしょうね」
  「どこでやりましょう。この部屋の鍵も開くはずですけど」
  仲根、立ちあがって、ドアがロックされていることを確認すると、柳原に言う。
  「どうぞ。ドアはロックされています。開きますかな」
  「ここって、第二応接室ですよね」キーボードを操作しながら柳原が確認する。
  「はい」
  仲根がそう応えた直後、柳原がキーを押すと、ドアのロックがかちゃりと音を立てる。
  「開いているはずです」
  柳原の言葉に、仲根がノブを回すと、確かに扉が開く。このロック、内側からでも、カードキーを入れないと開かない構造だ。仲根、外でだれかがキーを差し込んだのではないかと、廊下の左右を見渡すが、だれもいない。
  「確かに開きましたねえ。で、今のは記録には残らないんですか?」ドアをうしろ手に閉めて、仲根が尋ねる。
  「記録も消去します。いま、お開けになった記録も、残っていないはずです。確認していただければわかります」柳原、ノートパソコンを操作しながら言う。
  仲根、腕時計を見て時刻を確認すると、応接室の電話でセキュリティコントロールルームを呼び出す。二言、三言話したのち、受話器を置いて、柳原に向かう。
  「確かに。記録もされていないようです。どうしてこんなことができたのか、ご説明いただけませんでしょうか」
  近藤は、柳原の説明が長くなりそうだと見極め、事務員の持ってきた灰皿を窓枠に置いて煙草に火を付ける。
  「ここのロックシステム、全てを中央の計算機で処理しています。それがまずいんです。少なくともロックの解除は、ローカルで処理しなくては駄目です」
  「すいません、順を追ってご説明を……」
  「つまり、ドアのところで挿されたカードキーの情報は、一旦中央の計算機に行って、中央の計算機でカードキーの正当性を判断してロック解除の信号をドアのロックに送る、ってのがここのシステムです。これじゃあ、だれかが別のところから、ロック解除の信号を送ってやれば、ロックは開いてしまいます。もちろん、ロックは送信者をチェックしているんでしょうけど、他人になりすますっていいますか、要はセキュリティシステムになりすましてパケットを送信することができまして、それをやられると、ロック側では正しいパケットと区別がつきません。つまり、騙されるってわけです」
  「それじゃあ、どうすればよろしいんでしょうか、騙されないようにするには」
  「ローカルで処理するしかないでしょうね。コストは高くなりますけど」
  「えー、具体的には?」
  「つまり、ロック毎にキーの判別機能を持たせて、ロック自身がロック解除信号を出すようにするんです。もちろん、この部分、いじられないように、物理的な保護をしておかなければいけませんけど。つまり、キーを判別する装置を鍵のかかったケースに入れとくとかですね……」
  そのとき、山崎が息を切らして応接室に入ってくる。
  「仲根さん、吉田に間違いない、行方不明です。あいつの部屋を捜査するよう、警備本部に依頼しました。盗まれたRIが隠してあるかもしれませんので、カウンター部隊も奴の寮に向かわせています」
  「吉田さんは、十一日と十二日は、どうされていたんですか?」柳原が訊く。
  「彼は被害者、ってこともあり得ますからね」近藤が横から口を出す。
  「吉田は、十一日は遅くまで残業していました。少なくとも十時過ぎまで事務所にいたことを、同僚が確認しております。バックアップを取ったのが、十一日の夜十時ですから、吉田が計算機を扱っているときに、その計算機にあのプログラムがあったことは確かです」
  「それで、その後の吉田の足取りは?」仲根が尋ねる。
  山崎は興奮気味に、早口でまくし立てる。
  「吉田は、十二日は午後から学会に出席することになっておりまして、早朝六時に車で出発しています。これは、ゲートでも確認されておりますが、もちろん、放射性物質を持ち出した形跡はありません。十二日の午後と十三日の午前が学会で、その日の夜には戻って、本日出社の予定だったのですが、まだ出社しておりません。吉田の自宅と携帯にも電話を入れましたが、応答はありません。学会の幹事の先生が運良く捕まりましたので、調べていただいたところ、十二日も十三日も、吉田は学会に出ておりません。あいつ、自分の発表をすっぽかしたんですな。それで、以上を総合致しますと、吉田は、十一日の夜十時以降十二日の朝六時までの間にRIを盗み出してどこかに隠し、十二日午前六時以降は逃亡しているという可能性が濃厚です。警察に手配してもらったほうがいいんじゃないでしょうか」
  「まあ待ちたまえ。彼は今、通勤途中で、ひょっこりでてくるかもしれない。学会は、単にサボっただけで、彼のディレクトリを他人が使って悪さをしたのかもしれない。逃亡したとしても二日も前のことで、いまさら一刻を争うようなこともあるまい。もう少し様子をみて、彼の実家にも内々に問い合わせて、どうしてもみつからないとなった段階で手配を依頼したらいいんじゃないかね」
  「吉田は、ゲートを出たのち、入ってきた記録がありませんので、アイソレークの外部にいることは間違いありません」
  「本件の届け出では、本社マターだ。こちらサイドでは、実家、友人などから、まずは内々に調べてくれないかね。それから、石井の調査結果は……」
  「あ、そっちもおかしい点がありまして、ちょっと待ってください」
  山崎、電話をかけて、吉田の行方の調査を指示すると、ファイルを広げて、石井の調査結果について説明を始める。
  「まず、当日のパッケージングを担当しておりました日勤作業員の証言ですが、作業場の掃除をして、ゴミ袋三袋を石井に渡したことは間違いありません。どの袋も、半分程度ゴミが詰まっていたそうです。空気で膨らましていたという仮説は否定されました」
  「半分? それじゃあ二袋で足りるじゃないか。なんで三袋も使ったんだね」仲根が質問する。
  「三箇所に分かれて掃除をしておりまして、それぞれのところでゴミを袋に詰めたんだそうです。二つにまとめることもできたんでしょうけど、手間を省いたわけですな」
  「それじゃあ、二つの袋のゴミの一部を、もう一つの袋に移せば、二つの袋はカモフラージュに使えるじゃないか。空気で膨らましていたかどうかは大きな問題ではない」
  「あ、そうした可能性もありますね。しかし、ここでは、事実関係のみをご説明致します」山崎は説明を続ける。「えー、次は退勤のため保管庫前を通った夜勤の者たちの証言ですが、保管庫前には常にだれかがおったようです。彼等の話を総合致しますと、石井が、九時十分頃に通路に現れて保管庫の扉を開けたことと、そのあと保管庫の扉が半開きの状態であったことも確認されていますし、それが、箒の柄が挟まったためであることも目撃されています。ここまでは、石井の供述は、退勤者の証言で裏付けされますた。しかし、台車が保管庫前に置かれていたかどうか、この点がつまびらかではありません。実は、石井が台車を置いたと主張する場所は、退勤者の進む方向からですと、壁の影になり、死角となります。また、石井が台車を保管庫に出し入れしているところは、だれにも目撃されておりません。したがいまして、石井が供述通り、台車を保管庫の外においておったのか、それとも保管庫内に持ち込んだのかは、退勤者の証言からは判断できません」
  「そうか。仕方がないなあ」仲根は残念そうに言う。
  「そののち、箒を持った石井が作業場に走っていく姿は目撃されておりまして、再び戻った石井が、ごみを載せた台車を外に出すところも目撃されております。ここまでは、石井の供述通りの結果です。確認の取れていない点は、石井が保管庫に入っている間、台車がどこに置いてあったかという点だけです」
  「それが一番大事なところなんだが、結局わからなかったか。で、なにか不審な点があるのかね」
  「石井は、台車を従業員出入り口から外に出したのですが、その直後に戻り、以後、保管庫の前にずっと待機していたとのことです」
  「直後というのはどのくらいの時間かね?」
  「目撃者の証言では、出たと思ったら、すぐに入ってきたということです。石井が屋外に出ていた時間は、およそ十秒から十五秒で、三十秒以上ということないと断言しております。石井には、ゴミ置き場までゴミ袋を運ぶことは不可能です」
  「つまり、彼はだれかに台車を渡したということかね」
  「そうです。石井以外の何者かがゴミ袋の処理をしたことは、間違いありません。誰がそれをしたかという目撃証言は得られませんでしたが、時間的に、それ以外に考えられません」
  「そうするとだ、彼がこの犯行をしでかした場合、木箱を載せた台車を共犯者に渡したというわけだ。ゴミ袋に隠された木箱を車に移し替える作業も、ゴミ袋をゴミ置き場に運ぶ作業も、全部共犯者がやったわけだな。時間的な制約は全然ないじゃないか。台車をどうやって返したかは疑問だが、石井が共犯だとすれば、台車は出入り口の外にでも置いておいて、あとで石井が返したっていいわけだ。吉田が大いに怪しいことに変わりはないが、石井にも犯行可能で、特に、事実と異なる供述をした点が疑わしいな」
  「どうしましょうかね」
  「石井を呼んで、事情を聞くのが早いだろう。逃げたりするとまずいから、君が直接行って、呼んできてもらえないかな」
  山崎が石井を呼びに行っている間、仲根は近藤の意見を聞く。
  「近藤さんは、どう思われますか? 今の話」
  「石井さんが第三者にゴミ袋の処理を頼んだ点は、昨日の彼の話と異なるようですが、直接聞けばすぐにわかるでしょう。私は、彼には、犯行は困難であったと思いますよ。台車の置いてあった場所は死角であったかもしれませんが、保管庫の扉は帰宅する作業員から良く見える場所にあったわけでして、だれにも見られずに台車を保管庫に出し入れすることは難しかったのではないでしょうか。何かをしたという目撃証言は容易に得られますが、何かをしなかった、ということを目撃証言から見極めることは難しいんですなあ」
  「確かに……」
 
  やがて山崎が石井を連れて戻ってくる。山崎は、石井に椅子を勧めると、早速疑問点を問う。
  「石井さん、一つおうかがいしたいんですが、十二日の朝、RIの紛失が判明した朝ですが、台車に載せたゴミ袋は、ご自身でゴミ置き場まで運ばれたんでしょうか」
  「あ、その件ですか。ゴミ袋は、帰宅中の夜勤の男を捕まえて、ゴミ置き場に持っていくように頼みました。通常ですと、ゴミ捨ては私自身が行っておりますけど、あの日は、仲根さんたちをお呼びしておりましたんで、保管庫の前を動かないほうが良いと考えまして」そう言うと、石井は少し考えたあとに付け加える。「そう、山田主任でしたね。持ってってくれたのは」
  「昨日のお話と少し違うようですが、昨日のお話は、正確ではなかったということですか」
  「あれ、そうでしたか? ゴミをどう処理したかは、あまり大きな問題ではないと思いましたんで、私もあまり気を付けずに、不正確な話し方をしてしまったかもしれません。しかし、あの日の朝、ゴミ袋を処理したのは山田主任ですよ。これは、間違いありません。山田主任に聞いていただければ、すぐにわかると思います」石井は不機嫌そうに応える。
  一同顔を見合わせるが、これ以上石井に聞いても仕方がない、という顔だ。そのとき、近藤が思い出したように口を開く。
  「石井さん、つかぬことをおうかがいしますが、あの花瓶を載せてあった棚、あの中に新しい雑巾が何枚か入っていましたが、枚数が足りなくなっていた、なんてことはありませんでしたか?」
  「さあて、私、雑巾の数は把握しておりませんので」
  石井は、一瞬考えたのち、そう答える。
  花瓶の花が枯れたとの石井の話は捜査撹乱を狙ってのことである、との説を確認しようと考えての近藤の質問であったが、石井に否定されたことで、この企ては空振りに終る。つまり、近藤がこの質問をしたことで、石井は、近藤が花瓶の水を気にかけていることを知り、雑巾の話を持ち出す必要がないと判断できるわけだ。
  近藤は、もう一つの質問をする。
  「えー、参考までにおうかがいしたいんですが、今回の盗難事件に関しまして、犯行手口ですとか、犯人の心当りですとか、石井さんに何かご意見はございませんか? 昨日お話を聞かせていただいたとき、いろいろご推理がおありのご様子でしたが」
  石井は、答えたい様子もあるのだが、躊躇して、何も語らない。
  そのとき、山崎の携帯電話が鳴り、あとを仲根に任せて部屋を出ていく。石井は、山崎が応接室から出るまで、その後姿を見送ったのちに、小声で話し始める。
  「えー、こんなことを私が申し上げるのもどうかと思うんですが、捜査のお役に立てるかもしれませんので、ご質問にお答えします。ただ、間違っているかもしれませんし、いろいろと差し障りがあると困りますので、ここだけの話にしていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
  「もちろん、石井さんのお話に関しては秘密を厳守致します。だれにも遠慮なさらず、忌憚のないご意見をお聞かせください」近藤が応える。
  「皆さんは私をお疑いになっているご様子ですが、むろん私はRIなど盗み出してはおりません。これが危険なものであることは重々承知致しておりまして、仕事でなければ、こんなものを触りたくもありません」
  「いや、我々は、石井さんを犯人と考えているわけではありません。いろいろとおうかがいしてますのは、そのときの状況を把握したいと考えておるからでして、石井さんは第一発見者ですので、特に念入りにお話をうかがっている次第です。これは、犯罪捜査の定石でございまして、石井さんのご協力には感謝致しております」
  「いや、その事情もよく理解しておりますので、いろいろお尋ねになるのは当然だと思っておりますし、なるべくご協力もしたいと考えております。ただ、私はRIなど盗み出していないという点だけは、ご理解いただきたいと申し上げている次第です。それで、私の考えを話すようにとのご質問ですが、えー、大変申し上げ難いことなんですが、私は、山崎さん、あるいはその部下のかたがたが最も怪しいと考えております」
  「山崎が?」
  仲根が思わず洩らした声に、石井は言葉を飲み込み、不安そうに近藤たちの顔を眺めるが、先を促す近藤の表情に励まされたか、心を決めたように、話を続ける。
  「今回の窃盗は、普通の者にできることではありません。保管庫を十一日に最後に閉めたときも、十二日に最初に開けたときも、私が立ち会っておりまして、その間、つまり十一日の夜から十二日の朝の間に、誰かがドアを開けてRIを盗み出したに違いないということは、私が一番良く知っております。その間、ドアの開閉記録がないということになりますと、これは、セキュリティシステムに何らかの細工が加えられたことは明白です。しかも、これができるのは、山崎さん以下の、セキュリティシステムを担当されている方々だけです。つまり、この人たちが、何らかの形で犯行に関与したことは、火をみるよりも明らかです。警察官の犯罪というのも、昨今では、珍しいことではございません。セキュリティ担当者を社内で調査することは難しいと思いますが、幸い社外の探偵さんにもご協力いただいているようでございますので、こちらの方面も、是非、ご調査されるよう、お願いします」
  「山崎、ですか」仲根は、一時、声を失うが、すぐに気を取り直して言う。「わかりました。この点につきましても、充分に検討致します。その他、なにかありますか?」
  仲根の最後の質問は、石井だけでなく、近藤にも向けたものだが、どちらも、これ以上話したいことはないようだ。
  「石井さん、どうもありがとうございました。お時間取らせて申し訳ありません。お仕事に戻ってください」仲根、石井を帰す。
  「山崎犯行説ですか」仲根は天を仰いで言う。「こいつは困りましたな。そりゃあ、彼ならセキュリティシステムを知り尽くしているし、自由にいじれもしますよ」
  「山崎さんか、その部下ですね。石井さんの説は」近藤が訂正する。「えー、部下ということになりますと、あの晩夜勤をされていた、小林さんと中島さんのどちらか、ということになりますが」
  「確かに、システムの完全性を仮定すれば、犯行が可能な者は石井さんかセキュリティ関係者、ということになりますね」柳原が言う。「でも、システムは、まず間違いなく破ることができますから、セキュリティ関係者も、その他の社員も、同等に扱って構わないと思いますよ。なにしろ、吉田さんのディレクトリに、ロックを解除するプログラムがあったんですから」
  「ゴミ処理の件に関しては山田主任に確認いたしますが、石井は白の気配濃厚ですね。そうなると、やはり、セキュリティ関係者を洗う必要がありますか」仲根は憂鬱そうに言う。石井の爆弾発言に頭が混乱して、柳原の話を理解できていないようだ。
  「いやいや、当面、犯人は吉田であることを前提に調査を進めればいいんじゃないでしょうか」近藤は言う。「そりゃあ、犯人が他にいる可能性だって、ないわけじゃない。セキュリティ関係者だって、白だと断言はできません。しかし、彼等を調べることに、私は、反対はしませんが、彼らの志気にも関わりますから、充分お気を付けてされたほうがよろしいでしょうなあ」
  「いずれにせよ、この件は近藤さんにお願いするわけには参りませんなあ。これにつきましては、私のほうで、極秘に対処致します。しかし、メインは吉田でいいと?」
  「吉田さんがあの時間に計算機を使っていたということは、吉田さんが犯人である可能性が高いと思います」柳原は、そう言って近藤の主張を支持したあとで、先ほどの説明をもう一度繰返す。「コンソールのログに改竄された形跡がありましたから、何者かが計算機システムに侵入して、管理者権限を得たものと思われます。そうだとすると、セキュリティ関係者の疑わしさのレベルは、計算機にアクセスできた、他の全ての社員と同等ということになります。今の段階で、特に彼等に絞って調査する必要はないと思いますよ」
  「一刻も早く警察に連絡して、吉田を確保していただくのがベストでしょう」近藤は言う。「とにかく、行方不明になっていることは事実なんですから、それを探すのに躊躇は要りません。それに、彼の失踪が盗難事件と時を同じくしていること、彼のディレクトリにロック解除のプログラムがあったこと、これらが偶然の一致だとは到底思えません。彼が犯人でないにしろ、何らかの形で事件に関わっているとみて、間違いないでしょう。吉田さんのお話が聞ければ、この事件の真相は相当な部分まで明らかになると思いますよ」
  「吉田に関しては、社内でもう少し確認作業を致しますが、いずれにせよ、本日中には警察に手配致します」仲根が言う。
  「あとは、奪われた木箱が、どこに隠されているのか、それとも既に持ち出されているかですなあ」
  「持ち出された可能性はありません。これをみつけていただければ、事件は全て解決です」
  「まあ、これについては、のちほど検討してみましょう。何かみつかるかもしれないし、外部に持ち出す手口がみつかるかもしれない」
  「さて、それではちょっとおさらいをしておきたいと思います」仲根はノートを開いて言う。「吉田が犯人だとして、事件はどのように進行したんでしょうか」
  「これはもう、大体のところが明らかですな」近藤が解説する。「吉田は、ロック解除のプログラムを作成し、自分のディレクトリに準備します。彼は、十一日午後十時過ぎ、残業を終えると、自分の車を保管庫の非常口近くに停めまして、予めセットしたタイマー、あるいは携帯電話からメイルを送るなどの遠隔操作により、非常口のロックを解除します。ロックを解除した直後にドアノブを操作しないといけませんので、このタイミングをどう取ったかが一つのポイントですね。もしかすると、吉田は自分の計算機の前にいて、共犯者が、保管庫の非常口の前に待機していたのかもしれません。犯行完了後、ドアの開閉記録を消去し、犯行に使用したプログラムを吉田のディレクトリから削除します。これは、吉田が自分で計算機を操作してもできるし、タイマーで自動的に行うよう、プログラムを組むこともできます。しかし、吉田にとって不幸なことに、ファイルを消去する直前にバックアップが行われ、消したつもりのロック解除プログラムがバックアップテープに記録されてしまったってわけです」
  「吉田さんのプログラムが何をどうしたか、ってことはあとで詳しく解析します」柳原が追加する。
  「保管庫の非常口は建物の影になっておりますので、他の者に見られる気遣いはありません。吉田、もしくは共犯者は、何かで固定して非常口を開け放つと、木箱二十箱を車に移し替えます。作業中に、花瓶の水をこぼしますが、こぼれた水は拭き取って、手持ちの水を花瓶に入れておきます。ウインドウオッシャの液かなんかを使ったんでしょうな」
  「スポーツ飲料」仲根が言う。「吉田は、いつも腰にスポーツ飲料のペットボトルをぶら下げていました。あれ、ちょっと濁っていますし、塩分が入っていますから、多分、花は枯れるんじゃないかな」
  「その後、吉田ないし共犯者は、どこかに木箱もしくは木箱から取り出した遮蔽容器を隠す。アイソレークを出たのが午前六時ですから、時間的余裕はたっぷりあります。相当に探し難い場所に隠したことは充分考えられますね」
  「どこに隠したんでしょうね。あとで、アイソレーク一帯をご案内致しますので、何かお気付きになりましたらお知らせください」
  「えーと、問題はもう一つありますよ」柳原が言う。「吉田さんはどうやって管理者のパスワードを調べたかってことです。管理者でアクセスできないと、多分、鍵は開けられないはずです」
  「と、いいますと?」
  「管理者のパスワードを調べる方法はいくつもあります。昨日私たちがやったみたいに、イーサケーブル上の信号をモニターしてもいいし、総当り的に調べる方法もあるし、トロイの木馬を使ってもいいし、管理者の使っているパソコンに侵入できれば、キーストローク・ロガーをしかける手もあります」
柳原は一気に説明するが、仲根が目を丸くしているのを見て、状況を判りやすく説明しなおす。
「あ、でもですね、昨日調べた限りでは、イーサケーブルに何かを取り付けてパケットの監視が行われた形跡はありませんでしたし、イーサコネクタがある応接室の使用記録にも不審な点はありませんでした。それから、総当りというやりかたは、非効率的でして、時間がかかるし発見される可能性も高いので、多分使わなかったと思います。そうすると、トロイの木馬をしかけられたか、管理者のパソコンに侵入された可能性が高いと思います。それで、こういうのがそのまま残っていると、セキュリティホールになります」
  「トロイの木馬は、管理者が使いそうな偽のプログラムをどこかにしかけておいて、それを管理者が使うと、偽のプログラムが管理者権限で走るようになるって奴ですよね」
  「そうです。コマンドパスがきちんと切ってあれば、そうそう引っかかるものじゃあないんですけどね。結構有名なクラック方法ですから、ここの管理をされているかたも、対処法を良くご存知だと思いますよ。いずれにせよ、ディスクをフォーマットし直して、OSも新規にインストールし直すことをお奨めします。既に管理者権限を奪われしまった可能性が高いですから、正規のコマンドパスに偽のプログラムが置かれているかもしれませんし、カーネルをいじられているかもしれません。もう一つの可能性は、パソコンのキーをモニターするソフトをしかけられた可能性ですけど……」
  「たしかに共用のパソコンなどを使っていますと、じかに細工することができますね。そういう事件があったことは存知あげています。ですからこの事業所では、各自が専用のパソコンを使用しておりますし、パソコンファイルの共有は禁止、ログインはパスワードを入れて行うよう徹底しています。それでは不足でしょうか?」
「パソコンが安全なら、ウイルスの心配など要らないはずですよ。感染しないウイルス、といいますか、特定のパソコンに裏口を作るだけなら、発覚する恐れはほとんどありません。社内では文書をやり取りしていると思いますけど、そのどれかにマクロウイルスを仕込めば良いわけですね。その他、ポートを攻めるとか、侵入する手は山ほどあります」
「これは、しかし、どうやって調べれば良いのでしょうか」
  「キーストロークロガーは、OSにしかけるか、ターミナルエミュレータにしかけるかします。だから、OSとエミュレータのコードが正規のものと一致しているかどうかチェックすればわかります」
「ちょっとそれ、手配しておきましょう」仲根はそう言い残すと部屋を出ていく。

仲根の出ていった応接室で、柳原は、素早くキーを操作して計算機を操る。
  「山崎さんのパソコンにキーストロークロガーがしかけてありますね。端末ソフトをそっくり入れ替えたのね。ファイルサイズが違うから、コンペアしなくてもわかります。えらく幼稚な手口ですねえ。だれが入れたかはちょっとわかりませんけど。それから、彼のパソコンのパスワードは、クラックソフトであっさり破れますねえ。セキュリティの主任のくせに、なにやってんのかしら」
  「そう、あとで教えてあげよう。しかし、石井さんの山崎主犯説が正しくて、山崎氏が偽装のために自分の計算機にキーストロークロガーをしかけていた、ってことはないかな?」
  「そこまでやっていたとしたら、山崎さんは大したもんですね。しかし、現時点では、吉田さんが最も怪しくて、彼が管理者用パスワードを盗み出すために山崎さんの計算機にキーストロークロガーをしかけた可能性が高いと思いますよ。山崎さんやセキュリティ担当者は、管理者としてログインする可能性が高いですから、ロガーをしかけるとすれば、この人達の計算機に限ります。中でも山崎さんは自分のデスクからセキュリティシステムを操作することが多かったそうですから、しかけるんだったら、山崎さんの計算機がベストです。まあ、他の人の端末も、一応、チェックはしときますけど」
  柳原がノートパソコンと格闘している間、近藤は、湖の光景を眺めながら煙草を吸っている。
  近藤は一見したところ、ぼおっとしているように見えるが、頭の中では、今後の方針を必死に考えている。
  近藤の考えでは、犯人は吉田で決まりだ。
  問題は、トリウムがどこに行ってしまったか、ということだ。
  仲根が信じているように、これがアイソレークのどこかに隠してあるならまだ良いが、もし、それが既に持ち出されてしまっているなら、いかにして持ち出されたかを突き止め、どこに運ばれたかを調べ上げなければいけない。
  トリウム228は、個人が使ったり売り捌いたりできるようなものではなく、吉田の犯行の裏には、何らかの組織が関与している可能性が高い。もし、アイソレーク一帯にトリウムが隠されているとすれば、その組織の別のメンバーがそれを取りにくるのだろう。既に外部に持ち出されているとすれば、トリウムは、既にその組織の手元にあるはずだ。
  吉田の背後にある組織の割り出しが、今回の事件を解決するための本筋だろう。そのために取り得る手段は、吉田の身辺を洗うことが第一だ。これには、相当な時間と労力が必要になるはずで、調査員が三人しかいない上に他の仕事も抱えているコンドーの手には負えない。また、アイソレーク以外での調査も必要になるはずで、私企業の一部門であるアイソトラック社の警備係の手に負える仕事でもない。結局のところ、その捜査は、警察の手に委ねるしかあるまい。
  今回の事件は、犯人の逮捕も、むろん重要ではあるが、それに劣らず重要な点は、トリウムを無事に回収することだ。社会的影響を考えれば、犯人逮捕より、トリウム回収のほうが重要かもしれない。
  仲根は、放射性物質を不正にアイソレークから持ち出すことは不可能であると言い、山崎もそれを前提にして、アイソレーク一帯の放射能探査を行っているが、近藤には、トリウムは既に持ち出されてしまったようにしか思えない。
  今回の犯行は、明らかに、綿密に計画されたものであり、もし、トリウムがまだ持ち出されていないとしても、犯人一味は持ち出す手段を事前に考えていたはずである。もし、持ち出す手段があるなら、それは、十一日の犯行時に使われても良いはずである。
  アイソレークからの放射性物質の不正持ち出しは厳重に警戒されているが、それでも、犯行が明るみに出た十二日以降に持ち出すよりも、十一日深夜から十二日早朝の間に持ち出すほうが容易だったはずだ。
  既にトリウムが外部に持ち出されているとすると、これがいつ使われるかもわからない。これがテロその他の重大犯罪に使用された場合、アイソトラック社は激しい社会的批判に晒されるだろう。
  アイソレークのセキュリティシステムに絶大な信頼を寄せるアイソトラック社は、今回の盗難を、まだ、警察に届けていない様子だ。しかし、これは法律違反もはなはだしい。
  コンドーとしても、下手にこれに関与すると、社会的制裁を受ける可能性がある。アイソトラック社との関係は、ある程度の距離をおき,特に、トリウム探しの業務などは引き受けるべきではないだろう。
  コンドーにとっても、アイソトラック社にとっても最も良い選択は、一刻も早く、今回の盗難事件を当局に届け出で、捜査は全面的に警察に任せることだろう。
  アイソトラック社がそうしない理由は、アイソレークのセキュリティシステムを過信していることによる。
  これは、コンドーにとってもアイソトラック社にとっても、非常にまずい状況だ。しかし、自分たちがこのセキュリティシステムを破ってみせれば、彼らも考えを変えるかもしれない。
  そこまで考えた近藤は、柳原に話しかける。
  「アイソレークのセキュリティシステムの裏をかいて、放射性物質を外部に持ち出すことってできるかね」
  「そりゃあ、簡単ですよ」柳原はこともなげに応える。
  「ちょっと、連中にそれをやってみせるわけにはいかないかね」
  「いいですよ。一番簡単な方法は、受注伝票を偽造することです。今や、アイソトラック社の全てのファイルは、自由に書き替えできますから、偽の受注データを一つ紛れ込ませることぐらい、お茶の子さいさいです」
  「それじゃあ、保管庫に侵入して盗み出す必要もない」
  「そうなんですよ。今回の泥棒も、あまり賢くはありません」
  「それほど高度な技を使わずに持ち出すとしたら、どうするかね」
  「あのトンネルを通るとしたら、伝票を操作して、放射能が検出されても通してもらうようにするか、計測器を操作して、放射能が出ていても検出されないようにするか、遮蔽をもっと厚くするなどして、検出されるような放射能が出ないようにするか、そもそも警備員に検査をさせないようにするか、の何れかですね。トンネル以外のところから出すとすると、周囲を取り巻く山の上を超えたか、山の中の別のトンネルを使って運び出したかのいずれかということになります」
  「別のトンネルなんてあるのか? トンネルはあれ一つ、ということになっていたはずだが」
  「こっそり掘るってのは大変だけど、だれにも知られていない、自然のトンネルだってあるかもしれません。アイソレークって、大昔の火山の噴火でできたって書いてありましたけど、そういう山って、溶岩の抜けた、風穴とかあるじゃないですか。鍾乳洞とかも、あるかもしれないし……」
  「もしそんなのがあるなら、あの爺さんが知っていそうだな」近藤は、今朝、展望台で出会った、昔、このあたりで山小屋の管理人をしていたという老人を思い出す。「確かに、何かを知っていそうな雰囲気ではあった。しかし、教えちゃくれまいなあ」
  「爺さん?」柳原は、展望台にいた老人を見てはいるが、正体は知らない。「それだれです?」
  「展望台にいた爺さんだけど、ま、それはこっちに置くとして、簡単にやってみせられそうなのは、伝票を操作することかね。しかしこれができるんなら、最初から盗んだりしなくてもいいわけだろ?」
  「持ち出し許可書、ってのもありますね。受注伝票を操作した場合、その後の発送作業に人手が関与しますから、怪しまれる危険も沢山あります。それに、受注伝票を偽造した場合は、輸送には正規の運送業者が使われることになりますから、届け先から足が付く危険もあります。ゲートを通れるように、持ち出し許可書を偽造するだけなら、自分たちの車で運べるし、許可書を見るのはゲートの警備員だけですから、ばれる可能性は相当に低いと思いますよ。やってみますか?」
  「一応準備だけしておいて。口で言ってわからなければ、実演してやろう」
  「その他の方法でやったとすると、準備が要りますね。でも、前々から計画していたんなら、そのぐらいの準備は、充分にできるわよね」
 
  しばらくすると、山崎が応接室に来て言う。
  「ご案内の準備ができました。どこから参りましょうか?」
  「盗まれたトリウムが、アイソレーク一帯にまだ隠してあるのか、それとも既に持ち出されてしまったかはわかりませんが、これを盗んだ犯人は、おそらく、外部に持ち出す計画を立てていたはずです。犯人がどのようにしてトリウムを持ち出そうとしていたのかを探ることは、今回の事件の全体像を描く、一つのヒントになるんじゃないでしょうか。そのためには、アイソレーク一帯からの放射性物質持ち出しを防ぐ、セキュリティ体制についてお教えいただけると助かります」
  「なるほど、わかりました。放射性物質の持ち出しに対するガードは、大きく分けて二つありまして、一つはトンネルの両サイドのゲート、もう一つは周囲の山の尾根一帯のセキュリティゾーンと監視所です。モノを見ていただくのが一番だと思いますので、現地でご説明致します。車でご案内致しましょう」
  山崎に率いられて近藤たちは玄関を出て、駐車場に向かう。
  「山に登りますから」山崎はそう言って、近藤たちを、駐車場の一角に停めてあったジープに案内する。
 
  やがてジープはトンネルの内側のゲートに到着する。
  来るときはよく見なかったが、ゲートの横の監視所は、二階建てのビルの一部である。そのビルの玄関前に、山崎はジープを停める。
  「これがアイソレークセキュリティセンターです。アイソレーク一帯の企業の共同運用になっています」
  玄関を入った右側は、カウンターで仕切られて大部屋の事務所となっている。そこから一人の男が挨拶をしながら近付いてくる。
  「見学されたいと言われたのは、こちらさんですか?」
  「ええ、セキュリティのコンサルタントをされている、近藤さんと、柳原さんです。ウチの仕事をお願いしようと考えておりまして、本日はセキュリティシステム全般についてご説明しているところです」
  「それはそれは、ご苦労様です」男は近藤たちに挨拶をする。
  「お忙しいところ済みませんが、手短に、ご説明いただけませんか」
  山崎の依頼に応えて、男は説明を始める。
  「えー、ここは事務所でして、面白いものはありません。向うの端がゲートの守衛所になっているぐらいですかね。一階は、あとはトイレと倉庫ぐらいですから、二階のほう、ご案内します」
  二階への階段は、建物の中央部にあり、玄関の奥から大部屋の事務所の方向に向かって一直線に上がっている。その階段を昇り切ると、いきなりコントロールルームの中央部に出る。
  コントロールルームは、窓のない部屋で、四方の壁全てを使って、アイソレークを取り巻く山の地図が描かれている。地図上の至るところに緑色のランプが灯り、多数のモニター画面が荒涼とした山の光景を映し出している。部屋の中央部には、細長い机があり、その前にもいくつかのディスプレーが造り付けになっている。室内には他にふたりの男がおり、一人は中央の机でスイッチ類を操作し、もう一人はパネルの前で、手に持ったクリップボードの紙に何かを書き込んでいる。
  「えー、御覧いただけます緑のランプが近接センサーでして、尾根一帯に五千ほど設置されております。赤外と超音波のセンサーが周囲をスキャンしておりまして、侵入者を発見すると警報を出します。ランプの色が赤に変わるわけですな。鳥等の動物と判別するため、AI機能が組み込まれています。センサーは五列に配置されておりますので、見逃す可能性はまずありません。稜線には三ヵ所に監視所がございまして、侵入者を発見した場合は、ここから監視員が急行致します」
  「監視所のほうも、のちほど見学致したいと思いますので、よろしくお願いします」
  「あ、左様でございますか。あちらに行かれます際には、道沿いに設置してありますセンサーも御覧になってください。あと、リモコン式のテレビカメラも各所に設置しておりまして、その映像もここで見ることができます。」
  「AI機能って、どこに組み込んであるんですか? セキュリティセンターの計算機で処理しているんでしょうか?」柳原が尋ねる。
  「いいえ、五千本のポールのそれぞれにマイクロプロセッサが組み込んでありまして、その中で、全ての処理を行っています。こちらに来るのは、警報だけです」
  「プログラムはここで開発されたんですか? プログラムを変更することはできませんか?」
  「いえいえ、このポール、市販品でして、プログラムも出来合いのものです。プログラムの変更といいますと……あ、そうそう、以前、ここができてすぐの頃ですけど、プログラムにバグがあったとかで、修正したことがあります。そのときは、メーカーの技術者がICチップを持ってきて、全部入れ換えました。なにしろ五千本ですから、大変な作業でしたよ。ポールは山中に植えてありましたから。プログラムを変更したのは、あとにも先にも、その一回だけです」
  「警報の信号は、セキュリティセンターの計算機で受けているんですよね。その計算機は、どのように管理されていますか?」
  「セキュリティセンターには、二系統の計算機がございまして、ポール関係の信号を処理していますのは、スタンドアローンの計算機です。つまり、こちらの計算機は、セキュリティシステムで閉じていまして、どことも接続されていません。業務の効率化という点では、この計算機もネットワークに繋いでしまった方が良いんですけど、この計算機は、ポールを作ったところから一括で購入したものでして、連中のリコメンド通り、スタンドアロンで使うようにしております。もう一系統は、ゲートと各社との情報のやり取りを行う計算機でして、メイルをやり取りする都合上、インターネットに接続しています。こちらでは、出入りの記録なども取りまして、各社に月次記録をお配りしています」
  「ポール関係は、完璧ですね。ゲートの計算機には、偽の情報が送られるかもしれませんけど」
  「こちらに送られた全ての情報は、毎月まとめまして、各社にお送りしておりますので、仮に偽の情報が送られたところで、月末には、各社の担当者がチェックして、異常の有無を判断できます」
  「でも、その連絡は各社の計算機を経由して送られるんですよね。どこかの会社の計算機がクラックされて、そこから偽の情報を送ってきたんだったら、その計算機に送った月末の報告も、改竄されてしまうかもしれませんね」
  「まあ、そこまでやられれば、確かにお手上げですな」
  柳原とセキュリティセンタの男の会話が途切れたのをみて、近藤が尋ねる。
  「このポール、放射線はチェックしていないのですか?」
  「あ、当然測定しております。但し、線量計の間隔が開いておりますので、きちんとした容器に入れて持ち出されたら、検出できません。これに取り付けてあります線量計は、アイソレークの施設からの放射能漏れを検出するのが主な役割でして、放射性物質の不正持ち出しに関しましては、人の出入りで押さえるというのが基本です」
  「二重の遮蔽容器に入れた場合は、線量計の入ったポールによほど近付かないと反応しないんですけど、内側の遮蔽容器だけでしたら、この線量計でも検出できるはずです」山崎が補足する。
  「ゲートのチェックはどのようにされているんですか?」
  「全ての物をカウンターでチェック致します。ゲートを通過する全ての物に対して、必ず一メートル以内にサーベイメータを近づけるようにしています」
  「二重の容器に入っていても、十メートル以内で検出できますから、少々遮蔽を強化したぐらいでは、隠すことはできません」山崎が補足する。
  「放射性物質を出し入れする場合はどうなるんですか?」
  「その場合は、搬出許可証と、事業所のほうからオンラインで流れてくるデータを確認致しまして、線量検査の結果と矛盾がないことを確認します」
  「搬出許可書が偽造されて、しかも計算機に外部から侵入されて偽のオンラインデータが流された場合は、不正持ち出しもできるんじゃないですか?」
  「放射性物質を持ち出す車両と運転手は登録されておりまして、それもチェック致します。まあ、車が盗まれて、運転免許も偽造されれば、そういう可能性がないとは言えません。しかし、車が盗難にあった場合は、すぐにこちらに連絡がきて、即時、登録を抹消することとなっておりますんで、まず大丈夫だろうと考えとります」
  「最近、何か異常なことは起こりましたか?」
  「いいえ、お蔭様で、このところ平穏無事です」
 
  近藤たちは男に礼を述べてセキュリティセンターを辞す。
  近藤は小声で柳原に言う。
  「搬出許可書の偽造だけで持ち出すことは難しそうだな」
  「そうですねえ。受注データを偽造すれば持ち出しは問題ないんだけど、今度は、ばれる可能性があると」
  「その線は、なしだ。だれかが保管庫から木箱を盗み出した以上、受注データを偽造したケースはない」
  「搬出車輛とその運転手の登録も偽造しよっか」柳原は考えをまとめたようだ。「登録変更依頼を出せば良いわけだから……」
 
  ジープは、昨夜近藤たちの泊まったアイソレーク山荘に続く道を登る。
  展望台に続く石段の前のカーブを曲がると、その先にあったゲートが開いて、一台のジープが止まっているのが見える。山崎はそのジープの横に、自分のジープを停め、車を降りて、監視員に挨拶する。
  「どうも済みません。お忙しいところを」
  「いえいえ、どうせパトロールですから。監視所にご案内致しますので、あとを付いてきてください」
  監視員は、ゲートを閉め、鍵をかけると、ジープを発進させる。山崎も、これに続いて車を出す。
  「このゲートが第一の柵です。同じものが、あと四つあります」
  山崎は外を指差して近藤たちに説明する。ゲートの両側には、十メートルほどの間隔でセンサーつきのポールが並び、その間に有刺鉄線が張り巡らされている。ポールと有刺鉄線の間に碍子が使われているのを見て、柳原が質問する。
  「あのバラ線、高圧電流をかけているんですか?」
  「そこまではやりません。断線と接地を検出しているだけです」
  「断線ってのは、だれかがバラ線を切ったってことでしょうが、接地ってのは何でしょうか?」近藤が質問する。
  「だれかが有刺鉄線に触りますと、その人間の体を通って、有刺鉄線から地面へと微弱な電流が流れます。これを検出致しまして、柵を乗り越えようとする者をみつけ出すという仕組です」
  「なかなか、考えておられますなあ」近藤は感心する。
  「断線検出は、クリップつきのケーブルでバイパスしてから切断すれば騙せるし、接地の検出は、絶縁板の上で作業すれば騙せますよ」柳原は冷静に分析する。「でも、センサーとテレビカメラは難物ですね。人間がここを超えることは難しそうですねえ。動物でも使うかなあ……」
  セキュリティゾーンを通り抜けるまでに、全部で五ヵ所のゲートを通る。そのたびに監視員がゲートを開け、山崎がジープを中に進めると、再びゲートを閉じる。最後のゲートを通りぬけた先には、尾根を一周する道路がある。これを少し進んだところに第一の監視所がある。下界の景色から考えて、この場所は、ほぼトンネルの真上にあたるようだ。
  「第一監視所です」山崎が説明する。「ここは、一番低いところにありまして、セキュリティセンタに最も近い、メインの監視所です。監視所は、あと二箇所ありますが、大体、ここと同じです」
  監視員は監視所の中に近藤たちを案内する。監視所は八角形をした二階建てで、一階は監視員たちの宿舎、二階が監視所になっている。
  監視所の室内には大きなテレビスクリーンがあり、尾根から下の光景を、左に右に、パンしながら映し出している。この映像は、監視所の屋根の上に設けられたテレビカメラからのもので、同じ映像はセキュリティセンターにも送られているという。
  監視所周囲の八つの壁は、テレビスクリーンの設置された山側を除き、七面に大きな窓が設けられている。窓の下には狭い机がぐるりと設けてあり、その上にはディスプレーが造り付けになっている。ディスプレーには、近藤たちが先ほどアイソレークセキュリティセンターで見たパネルと同様の、尾根一帯のセンサーの作動状況と、監視カメラの映像が表示されている。
  「これは、セキュリティセンターのパネルと同じですね」近藤が確認する。
  「はい、そうです。何者かが尾根を超えようとすると、センサーが感知して、緑の表示が赤く変わります。その場合、こちらから双眼鏡で現場の確認を行いまして、それが人間であった場合は、まず音声による退去勧告を行い、それが聞き入れられない場合は監視員が急行して、排除致します」
  二階の監視所の周囲はテラスになっており、ここからの眺めはすばらしい。
  「ここから、セキュリティゾーンが全て見渡せます。地面の凹凸で死角になる部分もありますけど、三箇所から見ておりますので、まず、我々にみつからずにアイソレークのエリアに出入りすることは不可能であるはずです」
  テラスには、高倍率の双眼鏡が設置されている。近藤は、山崎に勧められるまま、双眼鏡であちこちを観察する。
  最初、近藤は洞窟を探そうと山肌にレンズを向けるが、むろん、ここから洞窟がみつかるわけがない。
  監視所からは、セキュリティゾーンだけでなく、湖の光景も一望のもとに見渡せる。
  湖には、数艘の船が浮かんでいるのが見える。その一つに双眼鏡を向けた近藤は、その船の乗員が長い竿を湖底に入れて何か調べていることに気付く。
  「あの船は何をしているんですか?」
  「湖に木箱を沈めた可能性がありますんで、カウンターを入れて調べているんです」
  「木箱か」近藤はそう呟いて、漠然と考える。(木は、水には沈まない……)
 
  時刻は既に昼を回り、近藤たちはアイソトラック社に引き上げることにする。
  道すがら、近藤は気になっていた点を口にする。
  「確かに、これだけのセキュリティシステムがあると、盗み出したトリウムを、尾根を超えて外部に持ち出すことは相当に難しそうですなあ。トンネルを通って持ち出す可能性については、追々検討することと致しますが、もう一つは、このエリアの内部で探し出すということですな。その場合、外形を頼りに木箱をみつけるというのも一つの手ではないかと考えておるんですが、どうでしょうか。中にトリウムが入っていれば良し、入っていなければ、今度は探すべきは裸の遮蔽容器ということになりますからな」
  近藤は、非常に気になることがあるのだが、それが何であるのか自分でもわからず、はがゆい気分だ。
  「どちらにしても、トリウム228は、カウンタで検出できますよ」山崎はあっさり言う。「木箱に入っているかどうかは、大した問題ではありません」
  「中身を出したとすれば、木箱なんて、処分されちゃってるんじゃないかなあ。燃やしちゃってもいいし」
  柳原の言葉に、近藤、何か引っかかるものを感じるが、それが何であるか、思い浮かばない。
  「もう、お昼を回りましたので、お食事でもしながら、まとめをいたしませんか?」
  山崎の提案に、近藤と柳原は頷く。
 
  アイソトラック社に帰ると、山崎は仲根を呼ぶ。仲根は、近藤たちをアイソトラック社のカフェテリアに案内する。
  カフェテリアは、玄関ロビーの反対側の位置で開発棟と製造棟を繋いでいる。
  陽光の射し込む明るい室内に、座席の数は百以上ありそうだ。今は、午後一時を回ったところで、昼休みが終ったか、数名の技術者風の男が食事をしているだけである。
  「今回は、お忙しいなか、捜査にご協力いただきましてありがとうございます」仲根は、今回の近藤たちの現地調査終了に際しての礼を述べたのち、近藤を大いに持ち上げる。「しかし流石ですなあ。鍵があんな風に開けられるとは、私ども、全く気がつきませんでした。山田主任の確認も取れましたんで、石井は完全に白です。吉田がやったとみて間違いないでしょう」
  「吉田は、セキュリティ関係者と、いろいろとトラブルを起こしていました。彼は、ハッカーといいますか、計算機に詳しいのはいいんですが、計算機システムの利用に関して、ルール違反をしょっちゅう起こしておりまして、社内でも有数のトラブルメーカーでした」山崎が補足する。「彼が悪さをしたんじゃないかという話を、セキュリティの連中にもしたんですが、だれも驚かなかったですよ」
  「吉田さんは、計算機を扱う技術力が高かった、ってことですね」柳原が確認する。「だから、キーストロークロガーをしかけて管理者のパスワードを盗むこともできたし、セキュリティシステムの実行形式ファイルを読んで、鍵を開けるプログラムを作ることだってできたわけですね」
  「まあ、計算機を良く知っていたことは確かですね。その位のクラッキングはやりかねない、ってのが、セキュリティ担当者の一致した意見です」
  「先生がたがご見学されている間に、吉田の手配を警察に依頼しておきましたので、いずれ事件は解決です」仲根は言う。「紛失したRIも、外部に持ち出された形跡はありませんので、いずれみつかるでしょう。まあ、御覧の通り、人手が充分ではございませんで、アイソレーク一帯の探索を終えるまでは、まだ少しかりますが、月末まではまだ二週間たっぷりありますんで」
  「月末?」
  「あ、いや、月末には監査があるんです。そのときには、放射性物質は、台帳通りちゃんと揃っていないとまずいんです」
  「しかし、放射性物質が行方不明になっていることは、月末以前でも、届け出ないといけないんじゃないんでしょうか?」
  「普通のところでは確かにおっしゃる通りです。しかし、アイソレークは、外界と遮断されておりますからね。この一帯には、関係各社の従業員しかおりませんし、人の通りそうなところは、全てカウンターでチェック致しましたので、安全性にも問題ありません」
  「アイソレークに対する特例措置が制定されておるんでしょうか?」
  「いえ、そんなものはありませんけど、運用ということで」
  「そりゃあまずいですなあ。法律上は『盗取、所在不明その他の事故が生じたときは、遅滞なく、その旨を警察官又は海上保安官に届け出でなくてはならない』となっていますから、当局に知らせずに探索するのは、違法行為ということになりますよ。万に一つ、みつからなかった場合、届け出が遅れたということで大問題になるかもしれません。ウチも、そんなことに関わると、業務にいろいろと支障をきたします。御社だって同じでしょう」
  「探索に関しては、弊社が全責任を負ってやりますんで、コンドーさんにはご迷惑をおかけしません。探索は、メッシュを切ってやっていますけど、これまでの調子で進めば、もう一週間ほどで、アイソレーク全域の探索が完了します。もちろん、それ以前にみつかる公算が大ですな。怪しいところから探していきますんで」
  「いや、私どもが心配しているのは、トリウムが外部に持ち出されるケースです。既に持ち出されているかもしれない。二千本ものトリウムですよ。非常に危険な物質だといわれていましたね。テロ活動にだって使われかねないんじゃあないですか」
  「トリウム228は、そのもの自体は遮蔽しやすいアルファ線を出すだけなんですが、崩壊生成物のテルル208が、非常に高いエネルギーのガンマ線を発生致します。そのエネルギーたるや、よく使われるコバルト60よりもはるかに高く、貫通力が非常に高くて、生体への影響も非常に強く出ます。もちろん、それだけ、強力な遮蔽がしてあるんですが、人の集まるところで遮蔽容器から出したりすると、相当に深刻な被爆事故が発生するでしょうな」山崎は率直に言う。
  「外部に持ち出されるケースはあり得ません」仲根は不機嫌そうに言う。「アイソレークのセキュリティは完璧です。ここのセキュリティシステムは、そもそも、こういうケースを想定して設計されているんですよ。最重要課題は、プルトニウムの不法持ち出しの阻止なんですが、トリウム228だって、プルトニウムに負けず劣らずガンマ線を放出しますから、大丈夫ですよ」
  「破れないセキュリティシステムはない、ってのがこの業界の鉄則なんですけど」柳原が口を出す。
  「例外のない規則はない、ってのもありますよ。アイソレークは、その、例外です」
  「いずれにしても、トリウムの行方にまで、我々は責任は持てません」
  「ああ、もちろん結構ですとも」仲根は鷹揚に構えて言う。「先生がたには、既に充分にお働きいただきまして、我々は大変満足致しております。たったの二日で、盗難の手口を解明し、犯人を突き止めたことは、我々が当初期待した以上の成果でございます。盗品がどこに行っちまったかなんて問題は、これに比べれば軽微な問題でございまして、あまりお気になさる必要はございません。お礼のほうも充分にさせていただきますので」
  そうまで言われると、近藤としては、これ以上言いようがない。
  近藤の沈黙に割り込むように、柳原が発言する。
  「鍵は、ちゃんとしたものに入れ換えといたほうがいいですね」
  「あ、左様でございましたね。これにつきましては、何らかのご助言をいただけませんでしょうか。できましたら、報告書の形で」
  「ええーっ、レポート書くんですかぁ」柳原、またつまらん仕事を、と言いかけて口を塞ぐ。
  「柳原君、再発の防止も大事な仕事だよ。今回の手口と予防方法について、レポートを書きたまえ。君はどうせ暇だろ。一週間もあれば書けるだろう」
  「んなもん、鍵屋を呼んで直させればすぐなんですけどね」
  「ぐずぐず言わんと書く。それが我々の仕事だよ」
 
  食後のコーヒーを終える頃、小太りの男が近藤たちのテーブルに近付いてくる。仲根は彼を、アイソトラック社副社長の田辺、と紹介する。
  「このたびは事件解決に並々ならぬご協力をいただきましてどうもありがとうございました」田辺副社長は、近藤に深々と頭を下げる。「今回の件は、信用の問題もございますので、なにとぞ御内密に、どうかよろしくお願いいたします」
  近藤は、良い機会とばかりに、田辺副社長に言う。
  「例のトリウムですが、我々、持ち出された可能性を、どうしても否定できません。テロ活動などに使われると大きな問題になりますんで、可及的早急に、当局に届け出で、捜査を警察の手に委ねるのがよろしいのではないでしょうか」
  「その点に関しましては、アイソレークのセキュリティシステムは完璧でございまして、どうかご安心いただきますようお願い致します。けして近藤様にご迷惑をおかけすることはございませんから」田辺副社長はにこにこしながら言う。
  近藤は言葉に詰まるが、突然、柳原が思いがけない提案をする。
  「えーと、ラジオアイソトープ、一つ貸していただけませんか。帰りの車に積んで、ゲートを通ってみたいと思いますんで。もちろん、持ち出し許可は要りません。どなたかにあとを付いてきていただければ、ゲートを出たところでラジオアイソトープはお返し致します」
  仲根は不愉快そうに言う。
  「そんなこと、できるわけがありませんけどね。まあ、それをご理解いただくためにも、おっしゃる通り、やってみましょうか」
  「トリウムは危なそうですから、コバルト60でお願いします」柳原は注文をつける。
  「仲根君、一つ勝負してみたまえ」田辺副社長も面白そうに言う。「結果の報告を楽しみにしてるよ」
 
  アイソトラック社の玄関前に、近藤は車を回す。近藤が車を降り柳原と並ぶ。これに向かって、仲根、山崎と田辺副社長が並び、深々と礼をする。
  「それでは、これまでのところ、どうもありがとうございました」
  普通であれば、このまま近藤たちは車に乗り込み帰路につくところであるが、柳原の提案による勝負が残っている。
  玄関の扉を開けて、石井が現れる。手には、紙に包んだ箱を持っている。
  「コバルト60を一本、お持ちしました」
  石井、その場に居並ぶ人々の顔を見渡し、仲根の身振りに従って、近藤に紙包みを渡す。近藤は、それを車のトランクに積み込む。
  「持ち出し許可、本当に要らないんでしょうか?」石井は不審そうに尋ねる。
  「要らない」仲根は不機嫌そうに応える。
  近藤、仲根たちに言う。
  「ゲートのところでは、少し離れて付いてきていただいたほうがいいですね」近藤が言う。「皆さんがおられると、それだけで通れてしまうかもしれない」
  「いいですよ。フェアにやりましょう。我々も、近藤さんが不法持ち出しを企んでるなんて、告げ口しませんから」
  「ご配慮、痛み入ります」近藤の応えには、多少皮肉が込められているようだ。
  近藤は田辺副社長に別れの挨拶をして車を出す。少し離れて、仲根と山崎の乗った車も発進する。
  少しのドライブののち、近藤の車はゲートに到着する。
  近藤は、ゲートの警備員に柳原と自分の身分証明書を渡しながら言う。
  「コバルト60を搬出します」
  「免許証と持ち出し許可書をお願いします」警備員が言う。
  近藤は一瞬慌てるが、柳原は鞄より持ち出し許可書を出して近藤に渡す。近藤は、これを自分の免許証と共に警備員に渡す。
  「トランクを開けてください」警備員はそう言うと、カウンタを手に、近藤の車のうしろに回る。
  「許可書、どうやって作ったの?」近藤は柳原に小声で尋ねる。
  「標準フォーマットは、だれでも読めるディレクトリにおいてあります。手書きの書類をスキャナで取り込んだファイルがありましたので、筆跡と印影は、そこからいただきました。あとは、カットアンドペーストで……」
  「はい、OKです」
  警備員の言葉と同時にゲートが開く。近藤は車を発進させ、トンネルに向かう。
  トンネルの向う側でも同じやり取りがなされ、近藤はゲートの外に出る。
  ゲートの外で、近藤は仲根たちを待つ。
  「どうやったんです!」近藤の車のすぐうしろに停めた車から出てきた、仲根と山崎は、口をそろえて叫ぶ。
  「許可書はスキャナとプリンタで偽造しました。紙幣だって偽造しよう、って人がいるんですから、許可書ぐらいわけないです。登録データの書き替えも、ゲートへの持ち出しの連絡も、管理者モードで計算機使える人なら、簡単にできます。これは、吉田さんにもできたはずです」
  「つまり、吉田は、盗み出したRIを、既に、外部に持ち出した可能性が高いと……」山崎は打ちひしがれたように言う。
  「いやあ、これは可能であるというだけであって、彼がこういうことを実行したかどうかはわかりません。搬出許可書の控えを調べてみたらわかるんじゃないですか」近藤は慰めるように言う。
  「これ以外にだって、いろいろ方法はありますから、搬出許可の控がないからといって、安心してはいけませんよ」柳原は厳しい。
  「他にはどういう方法がありますかね」仲根が尋ねる。
  「搬出許可なしにこのトンネルを通るとすると、遮蔽を強化して、放射線が出ないようにするか、ゲートで使っている計器を狂わせて、放射線が検出できないようにするって方法が考えられます。このトンネルを通らずに運び出す方法としては、回りの山の上を、何らかの方法で飛ばすとか、訓練した動物を使うとかして、監視に気付かれずに越えることだってできそうだし、秘密のトンネルが別にあるかもしれません」
  「秘密のトンネル? そんなものがあり得ますか?」仲根は驚いたように言う。
  「あー、これは可能性ということでご理解いただきたいんですが、鍾乳洞のような洞窟がどこかにある可能性は否定できませんし、それが外部につながっていることも、あながちないとはいい切れません」近藤が補足する。「トリウムを探索する際、どこかに穴が開いていましたら、その先がどうなっているか、お調べになるのが良いかと思います。その穴は、陸上にあるかもしれませんけど、ひょっとすると、湖の中に入り口があるかもしれません。それから、どうも、洞窟について知っていそうな老人が一人おるんですが、そちらもご調査されたら良いのではないでしょうか」
  「老人? 心当りがあれば調べておきますが」
  「えー、以前、このあたりで山小屋を経営していたという老人です。早朝に、アイソレーク山荘の上にあります展望台のところに行かれれば、お会いになれるかと思います。まあ、きいても、喋っちゃくれんでしょうが」
  「ああ、そのかたでしたら、私もよく存じ上げております」仲根は言う。「岩井さんとおっしゃるかたです。わかりました、洞窟の件は、よく調べることに致します。外界に通じていなくても、盗み出したRIがその中に隠されている可能性もありますから、そんなものがあるんでしたら、徹底的に調べなくてはいけません。いずれにしても、持ち出しが可能であるとわかった以上、届け出では早くすべきだと、私も思います。本社の連中にはもう一度進言しておきますんで。近藤さん、どうもありがとうございました。鍵に関するご助言に追加して、RIを不正に外界に持ち出す方法の解説につきましても、報告書をいただけませんでしょうか。もちろん、その分の料金は、別途、お支払い致しますんで」
  「お安いご用です。鍵の件と持ち出し方法については、早急にレポートをお出しします」近藤は仲根にそう言うと、柳原に小声で言う。「わかっているな。レポートは、早く書くんだぞ。書き終わったら、エミちゃんにきちんと報告すること。忘れるなよ」
 
  近藤の車が去ったあとで、仲根と山崎は警備員を交えて議論する。
  「いずれにせよ、不正持ち出しが可能であることが証明されたわけで、何らかの対策を取る必要はありますね」山崎は言う。
  「搬出許可の控とか、近藤さんは言っておられたが、十一日以降の許可書はどうなっていますか?」仲根が警備員に尋ねる。
  「許可書はありません。ここしばらく、放射性物質の搬出は受け付けておりませんので」警備員は、そう言いながらも、許可書の束を調べる。「えー、十日に出たのが最後ですね」
  「と、いうことは、この手口、今回の事件とは関係ないということだな」仲根は言う。
  「いや、そうとも限りません」山崎は慎重だ。「犯人は、この方法でRIを持ち出す計画だが、まだ、実行されていないということもあり得ます。その場合、盗まれたRIはアイソレーク一帯のどこかに隠されているということになります」
  「なるほど。その可能性が高いな」仲根は言う。「で、あるならばだ、捜索はこれまで通り実施し、今やられたようなことができないように、ゲートの監視体制を見直す、そういったところでどうだろう」
  「そうですね」山崎は具体的対策を考える。「許可車輛と運転手のリストを洗っておきましょう。今後は、許可車輛と運転手のリストは紙ベースを正とし、変更の際は、計算機を信用せずに、電話で責任者に確認する。搬出の際にも、一々、搬出承認者に電話で確認する。そんなところでしょうかね」
  「そう、電話が一番だな」仲根は頷いて言う。「書類も偽造の可能性があるから、信用すべきではないね。つまり、電話を掛ける際も、書類に書かれた番号は信用せず、こちらの電話帳で調べなくてはいけない。面倒だろうけど、しかたない」
  「アイソレークの全事業所について、そうする必要がありますね。よその許可書で持ち出すかもしれませんから。こりゃあおおごとだ」と警備員。
  「しかし、穴があるとわかった以上、やらねばなるまい」山崎は、そう呟くと、小声で仲根に言う。「届け出では、こちらの捜査が完了するまで保留ということでよろしいですね。指摘された洞窟につきましても、注意して調べさせるように致しますから」
  「本社には、一応おうかがいを立てるが、月末までは、まだ間があるからな」仲根はだれにともなく言う。「コンドーの連中にも口を塞いでおいてもらわないとまずい。文句が出ないように、調査料は奮発してやるか……」
 


 

第3章 洞窟

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  四月十六日午前十時、株式会社コンドーの事務所でパソコンに向かう近藤に、エミちゃんが声をかける。
  「柳原さんから、報告書作製一晩、ってアイソトラック宛ての請求書が出ているんですけど、『一晩』っていくらで請求すればいいんですか?」
  「ないない、そんな請求のしかた」近藤が応える。「請求は半日単位だよ。深夜勤務ってのもあるけど、これは、尾行とか張り込みの場合で、報告書作製業務には、普通、使わない」
  「それじゃあ、どういう風に書きましょうか、請求書」
  「彼女のレポート、今、みているんだけど、随分立派なレポートだねえ。これなら、五日ってことで通りそうだ。一週間分で請求しよう。報告書は表現を直してるから、朱を入れたところをインプットし直して、修正版を送っといてください。もうちょっと、分量、増やしてね。あ、送るのは、当然、来週になってからだよ。報告書と請求書を、一緒にね」
  「はい」エミちゃんは、含み笑いをして応える。
  そのとき、電話が鳴る。エミちゃんは、笑いながら受話器を近藤に渡す
  「アイソトラックの仲根さんですよ」
  「お電話代わりました。近藤です。えっ、洞窟があった? どこにありました?」
  「湖畔の道路を、アイソトラックを超えて更に回ったところに、山が湖に迫り出して、道がトンネルになっているところがあるんですけど、その手前の脇をちょっと登ったところに入口がありました。入口は、非常に狭く、外見は動物の巣穴のようでしたが、中に入るとすぐに広がっています。例の老人をその付近でみつけまして、近くを探したところ、近藤さんのご指摘の通り、洞窟がありました」
  「それで、その洞窟、外界まで続いているんでしょうか?」
  「それにつきましては、ただいま調査中です。なにぶん入り組んでおりまして、どこかに盗み出されたRIが隠されている可能性もありますので、ただいま探索チームの主力を投入して調査を進めています」
  「それはそれは。重大な手掛りになるかもしれませんなあ。いずれにせよ、洞窟の調査は我々の専門ではありませんので、結果がわかりましたところで、ご連絡いただければと思いますが」
  「いえいえ、近藤さんには、早急にこちらにお越しいただきますよう、お願い致します。実は、もう一件ありまして、石井と山田が本日付で退社致しました。もう、会社を引き上げて、引越しの準備を始めています。一方で、本命の吉田は、預金口座に多額の残高を残しておりまして、計画的に失踪した様子ではありません。どうやら、石井たちの犯行という疑いが濃厚になってまいりました」
  近藤は眉をしかめ、受話器の口を押さえてエミちゃんに尋ねる。
  「柳原君、今日の予定はどうなっているかな?」
  「柳原さんは、連勤ってことで、今日は一日、お休みするとのことです。次の出勤は明日の午後一時って言ってました。私が朝来たとき、まだやっていたんですよ。でも、何かあったら叩き起してくれ、って言って帰ったんですよ。叩き起しますか?」
  「お願い。大至急。蕎麦に海老天付けたのご馳走する、って言っといて」そう言うと、近藤は電話に応える。「わかりました、できるだけ早くおうかがいいたします。それで、どうして急に、そんなことになったんですか?」
  「理由はよく理解できないんですが、双方とも退社の意志が硬く、説得は不調に終りました。まだ事件が解決しておらず、このふたりには今後とも話を聞くことがあろうからと、強く引止めは致したんですが」
  「しかし、石井さんたちは、今回の犯行とは無関係でしょう。このふたりが組んだとしても、トリウムを持ち出すことは相当に難しかったはずですが。それに、吉田さんのディレクトリにあったロック解除のプログラム、ありゃいったい何だったんでしょうか」
  「吉田の部屋を調査したんですが、短期の出張に出かけた形跡があるだけで、計画的に失踪したというような痕跡は見出されませんでした。特に、吉田の預金口座には、かなりの額の残高があるのですが、これに手をつけられた形跡もありません。吉田が、もしも、RIを盗み出した犯人で、計画的に姿を消したのだとすれば、彼は自分が疑われることは覚悟していたはずで、預金口座が封鎖されることも予想したはずです。ですから、吉田が犯人であれば、早い段階で預金を引き出すのが自然ではないかと思います。口座の残高がそのまま残っているということは、吉田は、今回の犯行を行ったために失踪したのではなく、なんらかの事故に遭遇した結果、帰社できなくなった可能性が高いと思われます」
  「つまり、吉田の犯行であった可能性は低くなったと。逆に、石井たちが犯人である可能性が高まったと……」
  「そうですよ。石井が白であると考えたのは山田証言があってのことで、石井が山田と組んでいたのであれば、十二日の朝にRIを盗み出すことは充分に可能でした。ふたりが時を同じくして退社したということは、このふたりの間に、何らかの関係があったと考えざるを得ません」
  「しかし、その仮説にも無理がありますな。あの朝の保管庫前は大勢の従業員がおられたわけで、彼等に目撃されずに保管庫に台車を入れることは、相当に難しかったはずです。また、吉田が事件に関係ないとしたら、なぜ事件当日の朝に失踪したんでしょうか。予期せぬアクシデントがあったとしても、それは、今回の事件に関連しているんじゃないでしょうか。彼のディレクトリに鍵を解除するプログラムが置かれていたという事実もありますし、彼が何らかの形で事件に関与していた疑いは濃厚だと思うんですが」
  「ええ、そのあたり、依然、謎が残っております。そこで、近藤先生に改めてご調査いただきたいと考えておる次第です。石井、山田の両名は、まだアイソレークにおりますが、遠からずここを出て行くはずですので、一刻の猶予もなりません」
  「かしこまりました。これから準備を致しますので、そちらに到着するのは、三時近くになるかとは思いますが、とにかく急いでおうかがいするように致します」
  電話を切った近藤はエミちゃんに尋ねる。
  「柳原君、どうだった?」
  「出張、アイソトラックなら行ってもいいと言ってました。車の中で寝るから、って」
  「今すぐでいいかな?」
  「顔を洗ったら事務所に来るって言ってましたけど、もう一回確認しましょうか?」
  「彼女のアパートに拾いにいくと、言っといて」
 
  近藤はアイソレークに向かって車を飛ばす。
  助手席では柳原が熟睡している。
  やがて、車がアイソレークに向かう支線に入った頃、柳原は目を覚ます。
  「ああ、もう二時ですか」
  「どこか、適当なところで蕎麦でも食おうかね」
  「こんなところに蕎麦屋があるんですか?」
  「前に来たとき、吊橋が見えただろ。あの手前に一軒あるそうだ。このあたりでは有名らしいよ」
 
  道が川の流れに沿って大きく右にカーブするところで、川の上流遥か先に吊橋の懸かっているのが見える。その吊橋の近くに、大規模な養魚場があって、その向かいに蕎麦屋があるという話だ。
  近藤は、魚の形をした小さな養魚場の看板を手掛りに、アイソレークに向かう舗装道路から右折して、脇道に入る。この道路、砂利が敷かれているのだが、轍の部分は溝状に窪み、道の両端と中央部のみに砂利が残っている。近藤は車体を砂利にこすらないよう、スピードを抑えて車を進める。
  やがて、右手には養魚場の生簀を取り囲む金網のフェンスが続く。しばらく進むと、左手に小さな蕎麦屋が見える。
  店内は、風情があるといえば風情があるのだが、都会の蕎麦屋と比較すると、大雑把で、なんとなく汚い感じがする。しかし、柳原は店内の造作に感心して言う。
  「こういうところのお蕎麦って、きっと美味しいですよ」
  近藤はとろろ蕎麦を、柳原は天せいろを注文する。
  料理が運ばれてくる間、近藤は柳原に、今回の事件の犯人と目された人物が、吉田から、石井と山田にシフトした経緯を話す。
  「普通に考えれば、犯人は吉田さんなんですよ。だって、ロックを解除するプログラムが吉田さんの計算機に置かれていたとき、吉田さん自身が計算機を使っていたんですよ」
  「でも、逃げ出すつもりなら貯金ぐらい下ろすだろ」
  「うーん。それじゃあ、こんな可能性はどうかしら。保管庫の鍵は吉田さんが開けました。だけど、彼は逃げ出すつもりはなかった。彼は、鍵を開けたあと、すぐにファイルを消去したから、絶対にばれないという自信があったのね。バックアップテープにファイルがコピーされてたことに、気付いていなかったわけ。しかし、アイソレークを出てから学会に出席するまでの間に、何か突発的事態が起こって帰れなくなってしまった、っていうのはどうですか?」
  「話は合うねえ。突発事態っていうと、仲間割れをして殺されてしまったとか、ばれるはずはないと考えていて帰るつもりだったが、証拠を残していたことに気付いたとか、ま、確かにいろいろあるね」
  「吉田さんのディレクトリが十時ジャストにバックアップされていたことに、出かけたあとで気付いたら、びびって逃げてしまうかもしれないわね」
  「犯人が吉田だとして、なぜ石井さんたちは急に会社を辞めたんだろう」
  「石井さんにも、犯行は可能だったんですよねえ」
  「石井さんは、計算機に細工が加えられていない場合の、唯一の犯行可能な人間なんだね。しかし、ロック解除プログラムが発見された今となっては、石井さんを特に疑わなければならない理由はない」
  「山田さんと石井さんが共犯なら、わりと簡単に木箱二十箱、持ち出せたんじゃないですか? つまり、石井さんが保管庫に台車を持ち込んで、棚の木箱を台車に載せて、その上からゴミ袋を被せて隠し、それから台車を一旦保管庫の前に置いて、仲根さんたちに電話してから、台車を山田さんに渡します。山田さんは木箱を自分の車に積んで、ゴミ袋をゴミ捨て場に運んでから、台車を出入り口の前に置きます。あとは、適当なときに、石井さんが台車を返せばいいですね。吉田さんのディレクトリにおいてあったロック解除のプログラムとか、山崎さんの計算機にしかけてあったキーストロークロガーは、フェイクってことですね。そうそう、花瓶の水もフェイクだわね」
  「その仮説には、二つ弱点がある。第一の弱点は、あの朝、保管庫の前には常にだれかがいたんだけど、だれ一人として、石井さんが保管庫に台車を入れたところを見ていないし、石井さんが台車を保管庫から出したところも見ていないんだ。石井さんが、だれにも見られずに、保管庫から台車を出し入れできたとは、ちょっと考えられない」
  「第二の弱点は、吉田さんが使用中の計算機に、ロック解除のプログラムを置いた、ってことですね」
  「そう。フェイクにしても、ちょっと危険過ぎる。それに、吉田さんに罪を着せる気なら、ファイルをそのまま計算機に残しておいたって良かったはずだ。バックアップテープにファイルを置いたって、気付いてもらえるかどうか、わからんだろう。第一、石井さんはバックアップの時間を正確に知っていたんだろうか。バックアップテープだけに証拠を残すなんて器用な真似は、彼等には難しいんじゃないかね」
  「もし、石井さんたちが犯人でないとすると、なぜ、今になって急に会社を辞めたのか、その説明が要るわね……あれ、どうしたんですか?」
  柳原、近藤が急に口をあんぐりさせたのを見て、話を中断して、尋ねる。
  「うしろ。その石井さんたちが来たよ。噂をすれば影、だね」
  近藤は、柳原に顔を近づけて、小さな声で応える。柳原がうしろを振り返ると、石井と山田が、蕎麦屋の店内に入ろうとしているところだ。
  「ああ、これは近藤さん」石井も近藤たちに気付いて言う。
  「石井さんじゃないですか。どうされたんですか?」
  「ここの蕎麦、なかなかいけるでしょう。最後にもう一度、食っとこうかと思いまして」
  「お辞めになるんですか、アイソトラック」
  「ええ、あんなところには、もうおられません」石井、怒りを押さるように言う。
  「何かあったんですか?」
  「まあ、大したことじゃないんですけどね。元々ここは、給料がいいからいたってだけで、それほど長く勤める気もありませんでしたから。楽しみがない代わりに放射能がありまして、あまり良い職場とはいえません。もう、老後の資金は貯まりましたから、いい機会ですし、辞めさせていただくことにしました」
  「いい機会って、今回の盗難がですか? 辞める理由にはならないと思いますが」
  「いやいや、アイソトラックの連中、私を疑っているんですよ。トリウム228を盗んだんじゃないかってね。大体、あんなもの、だれが欲しがると思いますか。大体、一番怪しいのが、山崎以下のセキュリティの連中です。そもそも常識的に考えて、彼等が何かしなければ、あの警備厳重な保管庫から木箱二十箱も盗めるわけがない。セキュリティの連中が信用ならんとなると、この職場の安全は全く保障されません。なにしろ、カウンター類も鍵も、全部連中が管理しているんですから。君子危うきに近寄らず、三十六計逃げるにしかず、ですよ」
  「なるほど、そういう解釈もできますなあ」近藤は話を合わせる。
  「そういう解釈って、それしかないでしょう」石井はむきになって言う。「計算機の記録を改変できるのは、セキュリティの連中だけです」
  「いやいや、セキュリティシステムというのは、大抵、破ることができるんです。それがあるからこそ、我々の仕事が成り立つんですなあ。まあ、山崎さんも、犯行可能な人物の一人ですが、そういう意味では、石井さんも同じですよ」
  「何故ですか?」
  「つまり、アイソトラックのネットワークに接続されている計算機を扱えた人間なら、だれでも、システムを破るチャンスがあったんです。もちろんそれには技術が必要ですが、だれが技術を持っているかなんて、我々、第三者にはわかりませんからね」
  「なんか一人、行方不明になっているスタッフがいるようですけど、その男が怪しいんでしょうか?」石井が尋ねる。「その男も、セキュリティの連中とは、いろいろトラブルを起こしていたとか聞きましたけど」
  「まだ、手掛りは全然つかめておりません。失踪したのは、怪しいといえば怪しいんですけど、他に理由があるのかもしれません。私も以前は、家出人探しの仕事を随分と引き受けましたけど、失踪する人って、普通の人が思っている以上に多いんですよ。それに、失踪したから怪しいなんて言い出したら、石井さんたちも出ていかれるわけで、それをもって怪しいと言わねばなりません」
  「まあ、怪しまれても仕方ないでしょうなあ。こんな時に会社を辞めちゃあね。しかし、顔を見ることもない人間が何と言おうと、私は気にしません」
  「これからどちらに行かれるんですか? ご実家のほうですか?」
  「我々、この近くの出なんですよ。そこの吊橋の先に部落があるんですが、このあたりは貧しい山村でしてね。材木もさっぱりで、椎茸を作ってみたり、山芋を掘ったり、小さな畑を耕してこういう蕎麦を作ったりして、細々とやっていたんです。アイソレークができてから、勤め口もできましたし、あそこの連中の落とす金で、このあたりも以前よりは随分楽になりました。しかし、田舎には違いありませんやね。幸い、小金も貯まりましたんで、冥土の土産に、都会に出て何かをやろうと考えているんです。まだ、何をやるかは決めていませんけど、とりあえずは行ってみて、失業保険で食いつないでいる間に職を探そうと考えています」
  「落ち着き先が決まったら、私のほうに一報入れていただけませんか」近藤はふたりに名刺を渡す。「東京におりますし、まだ、何かおうかがいすることがあるかもしれませんので」
 
  近藤と柳原は、食事を終え、勘定を済ませて、石井たちに別れを告げて店を出る。
  車を出すと、近藤は仲根に電話をかける。
  「近藤です。もう近くまで来ているんですけど、石井さんたちと養魚場の前の蕎麦屋で遭いましたよ。都会に行かれるようですけど、どうしましょうか。尾行致しますか?」
  「尾行は、既にこちらでしています。近藤さんたちは、何食わぬ顔で、こちらにおいでください」
  近藤が車を進めると、道が湾曲した先で二台の車が路肩に停まり、茂みに隠れるようにふたりの男が蕎麦屋への分かれ道を見張っている。
  「なるほどね」近藤は柳原に言う。「アイソトラックも抜かりはないや。それで、石井さんたちがアイソトラックを辞めた理由は、因って件の如しだ。納得したかね」
  「一応の理由には、なっているわね。それでこれからどうするのかしら。警察に任せるのが一番だと思いますけど」
  「前回、君の実演した手口で持ち出したとすると、ゲートのところに、持ち出し許可書が残るはずなんだけど、十一日以降は、一枚も持ち出し許可書がないそうだ。それがなかったってことで、連中、まだ、アイソレーク一帯に隠されていると信じているよ。届もまだ出していないみたいだ。だから、吉田の手配も、あくまで失踪人の手配で、窃盗犯の手配ではない。警察の協力も、あまり期待はできないよ」
  「伝票を残さずにトンネルを通って持ち出すのは、難しいかもしれませんね。でも、山を越えて持ち出す手だってありますよ」
  「例えばどんな?」
  「センサーに感じない、小さなラジコンカーに載せて山を越えさせるとか、訓練した動物に運ばせるとか、人間大砲みたいな道具で打ち出すとか……」
  「なんか、漫画的だなあ」
  「あと、強力な遮蔽ケースに入れて持ち出せば、カウンター当てられても放射線は検出できないんじゃないかと思うんですけど、そっちのほう、知識ありませんから……」
  「遮蔽ってのは、外に追加するとものすごい重量になるんだ。元が八百キロだから、放射線が洩れないようにするには、おそらく、何トンもの遮蔽が必要だよ。あそこ、持ち出す荷物をチェックしていただろ。それを掻い潜って、何トンもの物を不正に持ち出すことは難しいんじゃないかな」
  「毎日一本づつ持ち出すとかね」
  「五年かけてか? 二千本だぜ」
  「一日十本なら二百日でいいわけね。それなら、元は四キロだから、遮蔽も大した重さにはならないはずよ。牛乳屋さんとか、新聞を届ける人とか、アイソレークに毎日出入りしている人だっているんでしょ」
  「そいつは、仲根さんに相談しておきましょう。きちんと遮蔽を計算すれば、チェックすべきものが大体わかるはずだ。何回にも分けて持ち出すなら、みつけ出すチャンスも相当に高そうだね」
  「あとは、第二のトンネルがある可能性ですね」
  「洞窟はみつかったそうだ。但し、外界に通じているかどうか、まだわかっていない」
  「まあ。そういえば、洞窟を知っているかもしれない爺さん、ってだれだったんですか?」
  「あの日の朝、展望台のところで話をした老人だよ。君も会っただろ。岩井さんってかたで、昔、このあたりで山小屋の管理人をやってたんだってさ」
  「ああ、あの人ですか」
  「センサーに引っかからずに山を越えるのは難しいといっていたが、なんとなく、それ以外の超えかたがあるような口ぶりだった。洞窟について、カマかけてみたんだが、『お探しになるのも一興ですね』ときやがった。で、仲根さんたちに調べてもらったら、あの老人がうろついていたあたりで、洞窟がみつかったってわけだ。今回の目的は、吉田犯行説と石井犯行説の比較検討、それから、洞窟の調査だよ。洞窟が外に通じているものなら、洞窟の存在を知っていた人間には、トリウムを外部に持ち出すことができたってわけだ。この事件の犯人は、トリウムを外部に持ち出す方法を考えていたはずで、そういう意味では、あの老人も、怪しい人間の一人なんだよ」
 
  近藤がアイソトラック社に到着すると、仲根が玄関前で待ち構えている。
  「いやー、もう来られる頃とうかがいまして、お待ちしておりました。お電話でご連絡致しました洞窟ですが、かなり奥が深いということがわかりまして、本格調査の体制を立て直しておりました。間もなく調査を再開致しますので、ご一緒にお越し願えませんか」
  「もちろんご同行致しますよ」
  近藤は興味深々である。朝がたの電話で、洞窟調査はコンドーの専門外だ、などと言ったことを、完全に忘れている。
  「三時開始の予定でしたんで、間もなく始まると思います。他の者は、入口で準備を進めておりますのでお急ぎください」
  近藤は中根の車に続いてアイソトラック社を出て、湖畔の道をトンネルとは逆方向に進む。
  少し進むと、山が湖に迫り出し、道路を除いて平坦な部分はなくなる。更に進むと、山は湖の中にまで迫り出しており、道はその山に穿たれた短いトンネルへと続いている。
  トンネルの手前に、多くの車輛が停車し、右手、山の斜面に何人もの人達が集まっている。
  近藤は仲根のあとに車を停め、仲根に続いて斜面を登る。
  斜面の集団の中にいた山崎が近藤をみつけて言う。
  「たびたび申し訳ありません。近藤さんのご助言で洞窟を発見することができましたが、これがどこに続いているか、これまでの調査では判然と致しませんので、これより、人員機材とも取り揃えまして、本格調査を開始するところです」
  仲根は、アイソレークセキュリティセンターの主任、大林に近藤を紹介する。大林は、洞窟の調査は、アイソレーク全体のセキュリティ維持活動として行うと言う。
  「このたびは貴重なご助言、ありがとうございました。こんなところから出入りできるとなりますと、アイソレークの監視システムは、意味をなしませんからな」大林はそう言って近藤に一礼すると、一隊の前方に進む。
  山崎が調査活動について近藤に説明する。
  「我々は、本隊と行動を共にします。本隊の任務は、外界との通行可能性を調査することでして、最も有望なルートを測量しながら進みます。その他に、支線を調べるチームが何チームかありまして、ウチの者がそれぞれのチームに加わります。このチームは、放射線検出器(サーベイメータ)を用いまして、洞窟の内部にRIが隠されていないかを調査することを重要な任務としております。それから、このチームは、全ての支線を調べることになっておりまして、支線の状況は、逐一本隊に連絡して、適宜、本隊の探索ルートを再検討することと致しております」
  「酸欠とか、ガスとかは大丈夫ですか?」柳原が尋ねる。
  「それぞれのチームは、アラーム付きの酸素濃度計を持参しておりますので、酸欠のほうは問題ありません。それから、可燃性ガスは、この手の洞窟には普通はないのですが、念のため、安全灯を持参するように致しました。照明にもなりますんでね。なお、本隊は地図を作成しながら進みますんで、迷子になる心配もありません」
  山崎が説明しているうちに、前方の人達が動き出す。近藤たちも、懐中電灯を手渡され、洞窟の入り口に進む。
  洞窟の入り口は、一メートル角ほどの穴だ。穴の周囲に、土が盛られ、切られた枝が束ねられているところをみると、以前は茂みに隠されていた小さな穴を、洞窟調査隊の人たちが広げたようだ。それでも、洞窟の入口付近は天井が低く、頭を下げて膝も曲げて歩かなければならない。
  穴は急な斜面で下へと続く。少し進むと、天井は高くなり、傾斜も緩くなる。
  近藤たちの前には、三十人ほどの人達が一列になって歩いている。その人達の懐中電灯のビームが、洞窟の壁面や天井を照らしている。
  ところどころに、赤い光が点滅する、小さなブロックが置かれている。
  「これは何ですか?」柳原が、前を歩く山崎に尋ねる。
  「これは測量用のマーカーですんで、触らないでください。見通せる位置関係で置かれていますので、メインのルートにいる限り、必ず一つ以上のマーカーが見えるはずです。迷子になっても、これを辿れば、入口まで帰れます」
  分かれ道に差し掛かる毎に、支線探索チームが本隊から離れていく。
  洞窟の傾斜は、少し入ったところから、ほぼ水平となる。
  最初乾いていた洞窟は、徐々に湿り気を増し、奥に進むにつれて、水の量が多くなる。凹凸の激しい地面は滑りやすく、歩行には細心の注意が必要だ。三十分も暗闇の中を進んだ頃、近藤は、気楽に洞窟に入ったことを後悔し始める。
  足元ばかりを見て進む近藤に、仲根が天井を見るように言う。仲根の懐中電灯が照らす洞窟の天井からは、小さな鍾乳石が無数に垂れ下がっている。
  「はあ、鍾乳石ですか」近藤は感心して言う。「大したもんですなあ」
  「でも、何か汚いですね。鍾乳石って、普通は白なんじゃないですか?」
  柳原が言うように、天井から下がる鍾乳石は、形こそ鍾乳石だが、色は黒っぽい黄土色で、普通の岩と似た色をしている。
  「石灰の純度が低いんでしょうかね」仲根はつまらなそうに言う。
  支線探索チームは、遂に最後の一隊が本体より離れ、本隊一行は、近藤たちを入れても六名となる。
  やがて洞窟の幅が広がり、大広間といった雰囲気の場所に出る。床面は、ほぼ水平の、丸みを帯びた平たい岩が積み重なった形をしている。水は大広間の右側に集まって、池のようになっている。
  大林は、立ち止まって言う。
  「ここで小休止します。支線探索チームを待ちますので」
  「柳原君、君、大丈夫かね。かなりハードな行軍だが」
  「このぐらい平気ですよ」
  近藤、柳原を見れば、ジーパンにズックという動きやすいスタイルだ。それにひきかえ、近藤は背広に革靴で、洞窟探検にふさわしい装備とはいえない。ズボンは膝の下まで捲り上げたから無事だが、靴下には水が沁み込んでいて、気持ちが悪い。
  同じスタイルの仲根が近藤に言う。
  「いやあ、失敗しましたね。こんな本格的な探検になるとは、思ってもいませんでした。もっと動きやすい格好で来れば良かった」
  近藤たちが岩に座って休んでいる間も、大林と測量を担当していた隊員は洞窟のあちこちを調べている。彼らの懐中電灯のビームを追うと、壁の高い部分にいくつかの洞窟が黒い口を開いているのが見える。この先、その何れの洞窟を進むか、彼等は検討しているのだろう。
  岩の上にへたり込む近藤たちを尻目に、柳原は大広間のあちこちを歩き回る。
  「ああ、これ!」
  柳原の驚き声に、近藤たちは、柳原が懐中電灯で照らした先を見る。
  「この、下から生えている奴も鍾乳石ですよね。石筍、でしたっけ。こっちの鍾乳石は、白くて綺麗だわ」
  近藤たちも腰を上げて、柳原のところに近付く。近藤たちが座っていたのは、大広間の入口に近いところで、鍾乳石はなかったが、大広間の奥のほうでは、鍾乳石は数も大きさも増して、見事な光景を見せている。あちこちに、つららのような鍾乳石が垂れ下がり、筍のような鍾乳石が床からも生えている。あるところでは、天井から床まで繋がった鍾乳石が柱のように連なっている。近藤たちは、時を忘れて、懐中電灯であちこちを照らして歓声を上げる。
  しばらく待つと、脇道を探索していたチームが、一つ、また一つと本体に合流する。
  大林達も調査を終えて大広間の入り口近くまで戻ってくる。
  測量担当者の広げた紙を前に、大林が説明する。
  「この広間からの分かれ道は全部で七本あります。内五本は天井近くにあり、我々の現在の装備では探索は難しいでしょう。あとの二本は探索できます。現在我々がいるポイントは、アイソレーク南側の山腹を、外界側にかなり寄ったところですんで、外界に抜けるルートがあるとすれば、南側に少し登る方向です。二つの探査可能なルートは、何れもこの方向で、これに優劣を付けることは困難です。いま、ここには本隊の他に、支線探索チームが三チームありますから、二チームづつを二つのルートに分けて探索したいと思います。既に、探検開始後一時間経過しておりますので、本日は間もなく撤退を開始しないといけません。三十分後にこの場所に再集合することとして、先に進みましょう」
  大林の指示に従い、二隊に分かれて洞窟を進む。近藤たちは、大林の指揮する本隊と行動を共にする。
  洞窟は緩い上り坂だ。道は平坦ではなく、アップダウンが激しいが、こちらの洞窟は乾いていて歩きやすい。その代り、鍾乳石は全くない。自然の洞窟のためか、壁にも床にも複雑な凹凸があるが、分かれ道はなく、全員が一体となって先に進む。
  やがて、洞窟は行き止まりとなっている。大広間を出発してから、まだ十五分も経過していない。
  近藤は地面に落ちているタバコの吸殻に気付き、全員に尋ねる。
  「だれか、煙草を吸いましたか?」
  しかし、だれも吸ってはいないようだ。近藤、吸殻を念入りに調べ、それが相当に古いものであることに気付く。
  「これは、あの爺さんかな。それとも……」
  近藤が考えたのは、この吸殻が外界から投げ込まれた可能性である。岩井老は、確か、煙草は吸っていなかった。この付近に、かつて外界に通じる口が開いていたとすれば、だれかが外から吸殻を投げ込んだとしても不思議はない。
  近藤は洞窟の壁のあちこちを懐中電灯で照らす。柳原も近藤の意図を見抜き、同様に懐中電灯で照らす。
  「あ、あそこですな」
  近藤が懐中電灯のビームを向けた先は、行き止まりになった洞窟の右端の天井付近だ。
  その部分、狭い洞窟がわずかに続き、その先が異様にごつごつしている。
  「岩を詰めて塞いであります。あの岩をどければ、外界に出られるんじゃないでしょうか」
  近藤の指摘を受けて、山崎は慎重に岩壁を登り、前方に積まれた岩を一つずつ取り除く。二つ三つの岩を取り除くと、突然土がくずれ、洞窟の内部を明るい光が照らす。明らかに外界だ。
  「ちょっと待ってください」人間が通れる大きさに穴を広げようと、次の岩に手をかけた山崎に向かって近藤が叫ぶ。「この穴、いつ頃塞がれたものか、調べる必要があります」
  「ゲートの職員にチェックさせよう」
  大林はそう言うと、携帯電話をダイヤルする。暗闇に、液晶のバックライトが異様に明るい。
  「圏外だ、そこで電話してもらえませんか」大林はそう言うと、岩壁に貼り付いている山崎に、携帯電話を投げ上げる。「セキュリティセンターのだれかをこの外まで寄越すように連絡してください。カメラを忘れないように」
 
  セキュリティセンターからの職員が到着するには、まだ相当に時間がかかりそうだという。大林は、三人の隊員を集合場所に向かわせ、他のルートを探索していた隊員たちをこの場所に集合させるよう連絡させる。
  三人が出発すると、残されたものは六人、近藤、柳原、仲根、山崎の他は、大林と測量係の男だけである。
  大林は山崎に尋ねる。
  「そこから何か見えないかね?」
  「茂みしか見えませんが、ちょっと待ってください」山崎はそう言うと、外がよく見えるように姿勢を変える。「ああ、これは道路端ですね。草が茂っていますが、その間からわずかに道路が見えます」
  「車に何か合図できないかな。発煙筒でもあれば良かったが」
  思案顔で呟く大林に、近藤が言う。
  「測量用のポールがありますね。これに布切れでも付けて出しておけばいいんじゃないでしょうか」
  「救急箱に包帯があります」測量係の男はそう言うと、救急箱から包帯を出し、二メートルほどの長さに切って、ポールに結び付ける。
  「遠くにエンジン音。早くお願いします」壁に貼りついている山崎が叫ぶ。
  大林は測量係を急がせてポール受け取ると、山崎に差し出す。
  山崎はそれを穴から突き出して振りながら、大声で「おーい」と叫ぶ。
  やがて外側に人の声がし、山崎と何かを話し始める。
  山崎は大林に向かって言う。
  「外側、相当の間、穴が開けられた様子はないそうです。写真も撮りました。穴を崩していいでしょうか?」
  「了解。穴を、人が通れるようにしてください」
  山崎は、しばし外と話したかと思うと、穴を離れ、岩壁から飛び降りる。
  「外から掘ります。岩が落ちてくるかもしれませんから、離れていてください」
  近藤たちが遠巻きに見守る中、見る見る穴は広くなる。それに伴って、洞窟の中は明るくなってくる。いくつかの岩が穴から落下して、洞窟の中を転がる。山崎はそれを足の裏で止め、洞窟の奥に転がっていくのを防ぐ。やがて、作業は終了した様子で、広がった穴に、洞窟内部を覗く人影が見える。人影は逆光で、表情を窺うことはできないが、心配そうな口調で呼びかけてくる。
  「大丈夫ですか? いま、梯子を下ろしますんで、少々お待ちください」
  上から降りてきたのは、アルミの伸縮式の梯子だ。上の男は、ロープを持ってゆっくりと梯子を下ろす。梯子の足が、洞窟の床に届くと、上からロープが投げ下ろされる。
  「すいませんけど、これを梯子段に縛ってくれませんか」
  「はいよー」大林はそう言うと、慣れた手つきでロープをピンと張ると、梯子の段に縛り付ける。
  大林は近藤たちの顔を見回して言う。
  「さて、どなたから登られますかな?」
  譲り合う近藤たちをみかねて大林は言う。
  「レディーファーストといいますから、柳原さんからどうですか」
  「いいんですか?」
  柳原は周囲の男たちがうなずくのをみて、梯子を上り始める。大林は、梯子の下を押さえて、揺れを止める。
  柳原に続いて近藤が梯子を上る。
  近藤が梯子を上り終える頃、洞窟の奥からにぎやかな声が聞こえる。他のルートを探索していた隊員達も、この場所にやってきたようだ。
  「みんな嬉しそうですね」上で近藤を待っていた柳原が言う。
  「そりゃあそうだろう。あんな足場の悪いところを、延々と歩かなくても済むんだからな」近藤、そう応えながら、柳原と洞窟の出口を離れる。
  「ここ、お蕎麦屋さんに曲がったとこですねえ」
  「ははあ、こんなところに出たのか」
  近藤は、改めて周囲を見渡す。近藤が立っているところは、アイソレークのトンネルに向かう道端で、すぐ左側には、近藤たちが昼食を取った蕎麦屋に向かう砂利道のT字路がある。
  洞窟が口を開いたあたりは、道の路肩を広げて砂利が敷いてあり、駐車場か資材置き場のようだ。そこに、洞窟から這い出してきた調査隊員達が、三々五々と立つ。
  やがて、セキュリティセンターからの、数台の応援車輛が到着し、調査隊員たちを収容する。近藤と柳原はジープに招き入れられ、セキュリティセンターに向かう。
 
  アイソレークセキュリティセンターの一階事務所の端には、衝立で仕切られた簡単な会議コーナーがある。いま会議机の周りに座っているのは、近藤、柳原、仲根、山崎の他、洞窟調査隊のリーダー大林、測量係と支線探索班の代表、それに、セキュリティセンターの職員数名だ。うしろの方には、予備の椅子が運び込まれているが、それでも足らず、何人かの隊員たちは、立って参加している。
  みな、配られたお茶を飲んで、ほっと一息付いている。
  近藤と仲根は、靴を脱ぎ、靴下で古新聞を踏みしめて、少しでも靴下の水分を減らそうとしている。
  セキュリティセンターの責任者が、一同を眺め回して、口を開く。
  「えー、本日は洞窟の探査、ご苦労様でした。全員ご無事に帰還されて何よりです。お疲れのところ申し訳ありませんが、本日ここで、これまでに得た情報につきまして整理させていただき、明日以降の探査方針を決めさせていただきたいと思います。一つよろしくお願い致します」
  大林が口を開く。
  「メインのルートにつきましては、測量を致しておりまして、明日にも地図を作成致します。概要につきましては、ただいま黒板でご説明致します」
  大林はホワイトボードに洞窟の概略図を描く。
  「入口から先、大広間に至る間は、かなり足場が悪く、恐らく二キロほどの行程ですが、一時間ほど掛りました。今後の事を考えますと、この間に踏み板などを設置するのがよろしいかと思います。下には水も溜まっておりましたので。この間、十ほどの脇道があり、これらは支線探索班が調査致しました。全て、行き止まりです」
  大林に続いて、それぞれの支線探索班が前に立ち、ホワイトボードの地図に、自分たちの探索結果を付け加える。大広間に至る間の全ての支線は、いくつかの枝分かれした部分を含めて、完全に探査が終了したようだ。支線は、皆、斜め上に伸びており、先に行くほど細くなっていたという。
  「大広間からの道は八本、内一本は我々が入った口で、その他の二本は探索済みです」大林は続ける。「これらの道は、何れも乾いておりまして、アップダウンはありますが、歩き易い道です。探索未了の五本の脇道は、何れも天井付近に開口しておりまして、ここに入るためには、梯子やロープなどの装備が必要です。これらの調査は、明日以降の課題です」
  大林と脇道探索班の男は、それぞれの脇道を地図に付け加える。
  セキュリティセンターの責任者が言う。
  「洞窟の調査は、明日以降も続行致します。洞窟の管理および利用につきましては、これらが修了した段階で検討致します。それまでの間、事故などが起こらぬよう、双方の入口は封鎖致します。現在この作業を行っておりますが、まもなく完了する見込みです。その他何かございませんでしょうか?」
  「はい」近藤は、手を上げて発言を求めてから言う。「えー、一つの大きな問題は、この洞窟が、トリウムの持ち出しに使われたか否かという点だと思うのですが、これに付いて、ご調査お願いできませんでしょうか」
  「あの出口、しばらく使われていないというのは、確認したじゃないですか」仲根が言う。
  「あの出口は使われていないようです。しかし、他に出口がある可能性はあります。大広間からの、残り五本の支線ですな。これが外に通じていないことは確認しないといけません」
  「ここを通って出入りすることは、相当に難しいと思いますが……」
  「犯人が洞窟を熟知していて、準備の時間も充分にあったとすれば、長い梯子を用意してもいいですし、ふたりの男がアイソレークの内と外から洞窟に入り、大広間の天井付近の支線入り口からロープでも垂らして、それに結び付けてトリウムを外に持ち出すことだってできたでしょう」
  「これに付いては、明日以降、徹底的に捜索致します。いずれにせよ、アイソレークに出入りする道があるとなると、大問題ですから」セキュリティセンターの責任者は言う。
  「皆さんが探査される前に、この洞窟をだれかが通った形跡はあったでしょうか?」
  「あの老人、岩井さんとおっしゃるそうですが、そのかたが何度も出入りしていまして、その他の人間が出入りしたかどうか、判然としません」
  「あと、もう一つの疑問は、この洞窟の存在をだれが知っていたかです」
  「それは、あの老人ぐらいじゃないかね。山小屋の管理人だったとかいう」
  「洞窟の出口は、人為的に塞がれていました」近藤が指摘する。「つまり、それを塞いだ人間は、この洞窟の存在を知っていたということです。その人たちは、他の入口を知っているかもしれない」
  「わかりました。ご指摘の点に付いては、在の者にあたっておきましょう」セキュリティセンターの責任者は言う。「その他、何かございませんでしょうか?」
  仲根は、アイソレークセキュリティセンターの職員に依頼して、近藤たちと自分を洞窟の入り口まで送るよう手配する。近藤の車も仲根の車も、洞窟の入り口に停めたままだ。

車を取り戻した近藤に仲根が言う。
  「えー、まだちょっと早いんですが、本日はお席を設けておりますので、作業はこれで終りということに致しまして、ホテルのほうにお荷物をお運びください。ホテルの方に、ご案内の車を回しますので」
  近藤は時計を見る。時刻は五時を少し回ったところだ。あたりも、まだ、昼の明るさだ。しかし、濡れた靴下が気になっていた近藤は、これ幸いと、仲根の提案に乗る。
  ホテルには、仲根たちが同行し、近藤のチェックインを手伝う。
  近藤は、一旦部屋に入ると、手早くシャワーを浴びて、下着と靴下を取り替える。
  近藤たちがロビーに戻ると、待ち構えていた仲根は、近藤たちを玄関前に停められたマイクロバスに案内する。
  『川魚割烹相川端』と書かれたそのバスには、アイソトラック社の田辺副社長が乗っている。近藤は田辺副社長に挨拶してマイクロバスに乗り込む。
  マイクロバスは十数人が乗れそうだが、田辺副社長と仲根と山崎、そして、近藤と柳原の五名だけを乗せて、アイソレークの外へと向かう。
 
  川魚割烹相川端は、アイソレークの外部、養魚場の向う側にある質素な料理屋だ。部屋の窓からは、木々の隙間に川が望まれ、川音が室内に響いている。
  「本日は、これまでの先生がたのご協力に感謝の意を込めまして、ささやかではございますが、一席設けさせていただきました」副社長は言う。「本日は洞窟探検にまで駆り出してしまったそうで、お疲れとは思いますが、どうぞごゆっくり、料理のほうを御堪能ください」
  「いやあ、大したことも致しておりませんのに、申し訳ありませんなあ」近藤は嬉しそうに言う。
  「魚ばかりですが、お口に合いますでしょうか。ここで取れたものですから、鮮度だけは保証致します」
  「こんな山の中に、大したもんですなあ」
  近藤は店内を見渡して言う。黒光りした太い梁や柱が剥き出しの内装に、古い木造の農具や民具が飾られて、田舎風の雰囲気を醸し出している。
  「送迎バスが命綱ですな。まあ御一献」
  田辺副社長はテーブルに運ばれてきた大きな土器を手に取ると、近藤と柳原のぐい飲みに冷酒を注ぐ。土器は、氷を盛った皿に置かれ、氷には椿の花が一輪飾られている。
  「何とも風雅なもんですなあ」
  田辺副社長は、仲根と山崎の杯にも冷酒を注ぎ、ふたりの労をねぎらう。
  乾杯ののち、しばし料理を突つきながら、他愛のない雑談が進む。
  やがて、近藤の目の下に、ほんのりと赤みが差した頃、副社長が近藤に頭を下げて言う。
  「実は、近藤さんにお願いしたいことが一つございまして、無理なお願いだとは重々承知致しておるんですが、一つ聞いていただくわけには参りませんでしょうか」
  「さて、どのようなお話でしょうか?」
  ふたりのやり取りを聞いて、仲根と山崎も、緊張した面持ちで箸を止める。
  「本件の公式的な処置につきまして、私どもに一切をお任せいただくわけには参りませんでしょうか?」田辺は、こう切り出す。
  「それは当然のお話だと思いますが?」近藤には、田辺の発言の趣旨が掴めない。
  「昨日、近藤さんに頂いた貴重なご助言を無視するようで、大変に心苦しいんですが、我々、今回の一件を、当局にはまだ届け出でておりません。本件に関して、警察等からの問い合わせが近藤様のほうに参りました際も、近藤様からは、一切の情報を出さないよう、お願い致したいんですが」
  「もちろん、それは構いません。我々、いつもそのように致しておりますので。但し、我々自身が違法な行為に手を貸すわけには参りませんので、それだけはご理解ください」
  「もちろん、近藤様のお立場を悪くするようなことは、一切致しません」
  「私ども、御依頼主様に、いろいろご助言致すことも業務の内と心得ておりまして、お気を悪くせずに聞いていただきたいんですが、放射性物質の所在が不明になった際は、遅滞なくその旨を警察官等に届け出るよう、法律で定められております。放射性物質取り扱いの免許が取り消されたり致しますと、御社もご商売にも差し支えが生じると思います。できるだけ早く届け出でをされるのがよろしいかと、かように考えて、前回もご助言致した次第です」
  「お言葉、痛み入ります。私も、そう致したいとは考えておるんですが、企業というものは組織で動いておりまして、私の一存では、届け出ることができません。本件、本社の危機管理委員会の所管ということになっておるんですが、事件発生以来三日経っても、まだ、結論が出ません。近藤様のご意見は、委員会のほうにも伝達致しておきますので、今しばらくお待ちください」
  「私のほうは別に構いませんが、御社も大変ですなあ」
  「何分、危険なものを扱っておりますだけに、神経を使います」田辺副社長は、話題を転じて言う。「ところで、今回の事件に関しまして、おおよその目星はつきましたでしょうか?」
  「まだ、犯人は絞られておりません。最も怪しいのが、事件発生以来、行方を晦ましております御社の社員、吉田さんでございまして、バックアップテープの記録から、盗難のあったと思しき時間帯に、吉田さんの計算機にロックを解除するプログラムが置かれていたことが判明しております」
  「えー、吉田は確かに失踪したんですが、預金がそのまま残されておりまして、計画的に逃亡したようにはみえません」仲根が補足する。
  「ええ、その点が謎なんですが、もし吉田さんが犯人であると致しましても、彼の失踪は、彼が当初から計画したものではないと思われます。仲間割れをして消されてしまったとか、姿を隠さざるを得ない突発的事態が発生したとかですね」
  「石井と山田はどうでしょうか? ふたりとも、本日突然退社致しまして」田辺副社長が尋ねる。
  「このおふたかたが共犯であると致しますと、計算機に手を加えられていない場合でも、十二日の朝に保管庫からトリウムを盗み出すチャンスがありました。しかし、これには石井さんが台車を保管庫の中に運び込むことが必須になるんですが、大勢の退勤者がいたにもかかわらず、だれも、石井さんが台車を保管庫に運び入れたところを目撃しておりません。このふたりが盗み出すことは、相当に困難であったと言わざるを得ません」
  「私はこのふたりが怪しいと思いますけどね」仲根は言う。「このふたりは、本日、アイソトラックを突然退社致しまして、昼過ぎにはアイソレークを出ました。彼等には、我々、尾行を付けたんですが、先ほど入った連絡では、都内に入ったところで撒かれてしまったとのことです。尾行をした連中も素人ではありませんから、あのふたりが意図的に尾行を撒いたとしか考えられません。何か、後ろめたいところがあることに、間違いありません」
  「石井さんと山田さんは、冥土の土産に、都会で生活するんだなんて言っていましたね」近藤は言う。「なんか、焼き芋屋か屋台のラーメンでも始めそうな雰囲気でしたけど」
  アユの塩焼きを運んできたのは、川魚割烹相川端の主、相川氏だ。相川は、相当な高齢とみえるが、料理の説明をしながら、てきぱきと客人の前に皿を並べ、こう付け加える。
  「石井、山田が辞めてしまったそうで、申し訳ありません」
  「いやいや、ご亭主がお謝りになる理由はありません」田辺副社長は言う。
  「いいえ、あのふたりはこの在の者で、こういう無責任なことをされると、我々も責任を感じます」
  「アイソレークは、従業員の出入りが激しいところで、石井さんたちが特に早く辞めたというわけでもございません」田辺副社長は石井たちをかばう。
  「ご主人は、ここには長くおられるんですか?」近藤が尋ねる。
  「ええ、生まれたときからですから、七十年と少々になります」
  「ここに入ってくるT字路の横に、洞窟の入り口がありましたね。あの洞窟、今日、我々、探検したんですけど、こちら側の出口が塞がれておりました。あれがどのように塞がれたか、ご存知じゃありませんか?」
  「ああ、あれですか。あれは、私どもが塞いだんですよ。もう四十年ほど前になりますかね。子どもが中で怪我をしましてね。子どもはああいうところが大好きでして。そうそう、洞窟で遊んでいた連中のリーダー格が山田でしたね。いわゆる、ガキ大将です」
  「ははあ、山田さんは、あの洞窟を良くご存知だったと」
  「子どもの頃の話ですから、もう忘れているかもしれませんよ。山田が大将で、石井は参謀といった役どころでしたなあ。悪いことを考えるのは、大体、石井と相場が決まっておりました。で、率先してやるのが山田。もちろん、子どものしたことで、罪もない悪戯なんですけどね。あ、養魚場の魚も、よく釣られたもんです。これには相当怒りましたよ」
  「あの洞窟、こちら側の出口は、道路脇の一箇所だったんですか?」
  「他の入口は知りませんでしたなあ。あるいは、子どもたちは知っておって、大人には秘密にしていたかもしれませんが、少なくとも、塞いだのは道路脇の入り口、一つだけです」相川は、そう言うと台所に引き上げていく。
  「石井と山田が洞窟を知っていたと」仲根は溜息混じりに言う。「あのふたりが犯人だったとすると、これは、大問題になるかもしれない」
  「まだ、洞窟が外に通じているという確認は得られていません」山崎が、仲根を安心させるように言う。
  「RIを盗んでも、外に持ち出せないなら、盗んでもしょうがないだろう」仲根は言う。「犯人は、RIを外部に持ち出す方法を知っていたはずで、あのふたりがそれを知っていたとすると、犯人である可能性は高いといえる」
  「洞窟を知っていそうな人物はもう一人おりますな」近藤が言う。
  「ああ、昔、山小屋の管理人をしておられたご老人、岩井さんですね。しかし、彼は非常に協力的でして……」
  山崎の話を遮り、近藤は言う。
  「私も、岩井さんとはお話をする機会があったんですが、アイソレークの開発に賛成している一方で、自然が失われたことを悲しんでいるとの印象を受けましたな。そういえば、この洞窟、塞いだりせずに保存するってことは、できないもんでしょうかな」
  「そういう条件で、ご老人と交渉成立です」
  仲根の思わぬ言葉に、近藤は聞き返す。
  「交渉?」
  「あのご老人、洞窟の入口周辺の土地の払い下げを受けておりまして、地主なんですよ」仲根は苦々しげに言う。「我々、岩井氏に無断で洞窟に手を付けることができませんでした。それ以外にも、彼は、以前から探検を繰返していたようで、内部の構造に関して相当な情報を持っておられました。それで、当方の事情を理解していただいて、外部へのルート探索にご協力していただくことにしたんですよ。本日の調査も、ご老人の情報に基づいて計画を立てたものです。ただ、この洞窟が外部に通じているかどうかは、あのご老人も知りませんでした。老人が歩き回ったのは入り口に近い部分だけでして、大広間にも行ったことはないそうです。それから、今後の洞窟の処置に付いては、まずは調査を行って、そのあとは、きちんとした管理下に置いて、活用する方針です。この洞窟、アイソレークで働く人達の楽しみにもなるだろうし、緊急の際の避難路に使えるのではないかとも考えております。老人と交わした条件は、洞窟をきちんとした管理の元で一般開放すること、あのご老人を案内役に採用すること、そして、洞窟の破損は必要最小限とすることの三点なんです」
  「それはようございました。この洞窟がトリウムの持ち出しに使われたかどうか、まだわかりませんが、今の段階では、あらゆる可能性を追求しておく必要があるでしょうな」
  「洞窟の調査は、今回の事件で使われたかどうかに関わらず、アイソレーク全体のセキュリティを維持する上でも、絶対に必要です。トンネル以外に、抜け道なんかあっちゃ困りますからね。調査はアイソレークセキュリティセンター主体で行うことになっております。もちろん、今回の犯行に利用されたかどうかという点につきましても、調査致しますけどね。そうそう、そういえば、この洞窟の発見も、近藤さんのご指摘が糸口でしたねえ。これは、大ヒットでしたなあ。アイソレークセキュリティセンターも、洞窟発見のニュースには驚いておりましたよ」仲根は近藤を大いに持ち上げる。
  「それはそれは。お役に立てたようで何よりです」
  「それで、近藤さんはあのご老人をお疑いですか?」
  「彼がやったとは言いません。しかし、犯人が特定されるまでは、あらゆる可能性を検討しておく必要があります。岩井さんは、洞窟を通ってトリウムを外部に持ち出す道を知っていたかもしれません。先ほど仲根さんが言われましたように、犯人は盗んだトリウムを外部に持ち出す方法を知っていた者ということになりますと、岩井さんも、疑わしい人間の一人ということになります」
  「しかし、岩井老は、社内のネットにアクセスできないでしょう」
  「社内のだれかを巻き込むんですな。昔の山仲間と共謀したのかもしれません」
  「それで、動機は何でしょうか。金ですか? あのご老人に、RIが売りさばけるようには思えませんがね」
  「もし、岩井さんが犯行に関与しているとすれば、動機は政治的な理由、かもしれませんね。岩井さんと山仲間が、アイソレークの工業団地に対する恨みという、共通の動機で結ばれたのであるとすれば、この地域の企業群に打撃を与えることが、今回の犯行の目的ということもあり得ます。もし連中が過激な行為を厭わない場合、盗まれたトリウムは相当に危険な使われかたをするかもしれません」
  「山仲間というと、山崎さんもそうですね」田辺副社長が言う。
  「よしてくださいよ。私はそんなことしていません。もちろん私は岩井さんを良く存じ上げています。しかし、彼は、工場誘致派ですよ。山仲間が反対運動しようと言い出したとき、それを止めたのは彼でした。工場を恨んで、RIを盗み出すなんて行為、およそあの老人に似つかわしくありません。洞窟の探査にしたって、岩井氏は極めて協力的ですよ。もちろん、私だって、さっさとここに就職したわけでして、開発万歳人間なんですよ」
  「まあまあ、別に山崎さんや岩井さんを疑っているわけではありませんから」田辺副社長は、とりなすように言う。「いまのところ、容疑者は二組もおりますから。近藤説では吉田、仲根説では石井と山田ですな。どちらも姿を消していますから、これほど怪しい者はおりません」
  事件の推理を語ると場が刺々しくなることをそれぞれが察し、その後は他愛のない会話に終始する。
 
  翌十七日、近藤は六時に起床する。
  前日は遅くまで仲根たちと飲んでおり、もう少し寝ていたいところだが、近藤は目覚し時計とモーニングコールを頼み、無理やり六時に起床した。
  近藤は窓の外の景色を見る。
  窓から見下ろすアイソレーク一帯の光景は、以前に見たのと同様、周囲をの山々に囲まれて、白い雲が眼下に漂っている。
  近藤は、手早く着替えを済ますと、展望台に向かう。
  展望台には、あの老人がベンチに腰かけ、湖を覆う雲の動きを眺めている。
  「やあ、またお会いしましたな」老人は近藤をみつけて話しかける。
  「やあ、おはようございます。洞窟の件、お話をうかがいましたよ」
  「もしかすると、近藤さんとおっしゃるのかな?」
  「ええ、そうですが?」
  「いやいや、名探偵とも知らずに、つまらぬお喋りをしてしまいました。私、岩井と申します」
  「結局、これで良かったんじゃないですか?」
  「そうですね。あの洞窟に関しては、独り占めする贅沢なんて、大した意味もありませんからね。一人で中に入るのは、危険ということもありますし、きちんとした形で公開していただくのは、私も大賛成です。それにしても、近藤さんが洞窟についてご質問されたとき、最初から背景をお話しくだされば、私も全てをお話したんですけどね。まあ、結局、全てをお話ししたのと同じ結果になりましたが……」
  (この男は、やっていない)
  近藤の直感は、そう教える。しかし、それを裏付ける証拠は、何もない。
 
  アイソレーク山荘に戻った近藤は、部屋に戻る前に朝食を食べようかとグリルを覗く。グリルの入口には、既に数人の列ができているが、もしやと中を見ると、案の定、柳原が食べ物を山と盛った皿と格闘している。近藤は、柳原の前に座ると、ウエイトレスを呼んで、ここで食べる旨を伝える。
  近藤の胃は、依然、調子が悪い。消化の良さそうなものを少しずつ取った皿は、あっという間に片付き、コーヒーを飲みながら煙草でも吸おうかと考える。しかし、柳原の選んだ席は禁煙席だ。近藤は一瞬、外に出てタバコを吸ってこようかとも考えるが、柳原の席にあとから入って先に出ていくのもどうかと考え、ジュースとコーヒーを追加して、再び席につく。柳原も、デザートからコーヒーへと進み、少しは人心地がついた様子である。
  「まだ時間があるから、アイソトラックさんに行く前に、ちょっと整理しておこうかね」
  「犯人は吉田さんで決まりですよ。だって、あの人が使っている計算機に、正に使っているその時に、ロック解除のプログラムがあったんですから。それに、ちょうどその日に失踪したんだって、普通じゃありませんよね」
  「仲根さんたちは、残された室内の様子や、多額の預金をそのまま残していることなどから、吉田の失踪は計画的ではない、よって彼は犯人ではないと考えているようだ」
  「だから、それは、吉田さんは失踪する予定ではなかったんですけど、犯人一味によって自由を奪われたか、アイソレークを出たあとで、大失敗をしたことに気付いて姿を隠したってことでしょ」
  「ま、その線が、おそらく正解だろうね。しかし、石井、山田共犯説はどうだろう」
  「石井さんと山田さんは、十二日の朝に盗み出すチャンスがありました。洞窟もよく知っているみたいですから、盗んだトリウムを外に持ち出すことも、多分、できるんでしょうね。それに、ふたりそろって会社を辞めちゃったのは、いかにも怪しいですね」
  「しかし、大勢の退勤者が通る中、だれの目にも触れずに台車を保管庫に出し入れすることがはたして可能だったんだろうか」
  「難しいと思いますけどね。しかし、なんで山崎さんは、石井さんたちをそんなに疑うのかしら」
  「別に証拠があるわけでも、確固とした推理の結果でもなく、ただただ石井と山田が怪しいと考えているみたいだね。だけど、山崎さんは石井さんと長年の付き合いがあるわけで、そういう人の直感って、意外とあてになるもんだよ」
  「この人達の犯行だとすると、トリウムは既に持ち出された可能性があるというわけね。でも、まだ届け出していないんでしょう?」
  「その点は大問題だ。しかし、石井、山田の両名が子どもの頃に洞窟で遊んだことがある、なんてことがわかったの、昨日の夜だからね。今ごろ大慌てしていると思うよ」
  「これまでの調子だと、あまり変わりそうもありませんね。昨日みつかった洞窟の出口は塞がれていて、犯人たちが出入りした形跡はなかったし、それ以外の出口があったかどうか、まだわかってませんよね。多分、出口が他にあるかどうか、その結論が出るまでは、届出するかどうか、決められないんじゃないかしら」
  「ま、しかし、石井犯行説は、可能性としては低いだろうね」
  「はい。犯人は吉田さんで決まりだと思いますよ」
  「岩井、山崎の共犯という第三の可能性は、どうだろう」
  「これは、おもしろいですよ。山崎さんは管理者のパスワードを知ってるし、ロックのメカニズムも熟知してますからね」
  「彼は、バックアップの時刻も知っているから、ちょうどバックアップされる時刻に、吉田のディレクトリに、ロック解除のプログラムを置くこともできたはずだね。バックアップが終ったら、すぐに消してしまえば、吉田に気付かれる危険も少ない」
  「あ、彼が犯人なら、吉田さんのディレクトリにロック解除のプログラムを置く必要もありませんね。だから、吉田さんが使っていた計算機には、ロック解除のプログラムはなかったのかもしれないわ」
  「え? それはどういうことかな?」
  「つまり、バックアップテープに細工をして、吉田さんのディレクトリにロック解除のプログラムがあったようにみせかけることもできたはずです。あのファイル、吉田さんのディレクトリをバックアップしたテープに入っていたから、吉田さんのディレクトリにあったんだろうなんていってるけど、わかっているのは、バックアップテープにあったってことだけですからね。それすらも、本当かどうかわからない。バックアップテープのリストアは山崎さんに頼んでやってもらったわけで、テープから戻した吉田さんのディレクトリに、フロッピーか何かに取っておいたロック解除のプログラムを紛れ込ませたかもしれないわ」
  「つまり、山崎が噛んでいるとすると、吉田のディレクトリには、最初から、ロック解除のプログラムなんて、なかったかもしれないと……で、テープも細工されているかもしれないと?」
  「そう、バックアップテープからリストアしたディスクの中で、吉田さんのディレクトリにロック解除のプログラムを紛れ込ませたとすると、そこからバックアップし直せば、テープも偽造できますよ」
  「吉田とセキュリティ関係者との間にはトラブルがあったっていうから、山崎氏が吉田を憎んで、犯人に仕立て上げたのかもしれないねえ。この男が絡んでいるとなると、犯行は極めて簡単だな」
  「そう。山崎さんは、セキュリティシステムがどうなっていたのかも知っているし、ログファイルを読むことも書き替えることもできます。ロック解除のプログラムだって、簡単に作れたはずです。あの人は、十一日の夜、どうしていたのかしら?」
  「そいつは調べなくちゃいかんな」
  「で、動機は自然保護ですか。何か矛盾してるわよね」
  「政治ってのはそういうもんだ。最初は、進出企業による自然破壊を止めさせることが目的だったのかもしれないけど、そのうちに、敵に打撃を与えれば良いってことになってしまう。その結果、放射能汚染が起ころうと構わないってわけだ」
  「しかし、岩井さんは工場誘致派で、山崎さんも盗難によって責任を問われる立場でしょ。そう易々と悪事に荷担するようには思えませんけど」
  「それがあらかじめ計画的に行われた偽装である、という可能性も否定できない」
  「そうだとすると、大変ですね。岩井さんは洞窟をよく知ってるわけですから、ひょっとするとトリウムを洞窟を通って外に持ち出せたかもしれません」
  「ま、一応、洞窟の出口には、人が通った跡はなかったから……」
  「だけど、それを調べる前に、小さな穴を開けてしまったですよね。トリウムを外部に出すだけなら、小さな穴でも充分にできたんじゃないですか?」
  「ああ、外に共犯者がいれば、小さな穴でも、それを通してトリウムを渡すことができるな。だいたい、調べる前に穴を開けてしまったのは、山崎だなあ。しかし、そうさせたのは、俺だともいえる」
  「あの時点では、山崎犯人説なんてありませんでしたからね。そんなことを言っていたのは石井さんくらいだけど、それは頓珍漢な話でした」
  「うーん、もしもこのふたりが、開発反対を訴える過激派メンバーだったりすると、盗まれたトリウムは、テロ活動みたいな、危険な活動に使われるかもしれない」
  「しかしですよ、山崎さんのパソコンには、キーストロークロガーがしかけてあったし、パスワードだって簡単に破れてしまうし、どっちかというと、セキュリティ担当者としての自覚に欠けているような感じですけど。あの人がそんな計画的な犯行ができるような人にはみえないんですよ」
  「フェイクかもしれないよ。無能を装うのも、偽装という可能性はある」
  「それは考え過ぎですよ。犯人は、吉田さんで決まりでしょう。最初からそれしかない」柳原の考えることは単純だ。「多分、仲間割れでもしたんでしょう」
  「まあ、吉田がやった可能性が高いとは、俺も思っている。しかし、山崎、岩井の共犯説も否定できない。大昔の共産党の山村工作隊とか、パルチザンとか、山を拠点にするのはゲリラの定石だ。このふたりが過激派のメンバーだったとすると、岩井老の山小屋が、最初からゲリラ活動の拠点だったという可能性もないわけではない。山崎がアイソトラックに入社したんだって、内部告発や破壊活動を目的としていたのかもしれない。セキュリティ担当者という立場は、こういう目的には、理想的だな」
  「いまの日本に、ゲリラ組織なんてあるんですか? そりゃあ昔は赤軍とかありましたけど」
  「いまどきの日本でゲリラ事件が起こるとは、俺だって、とても思えないが、否定することもできない。あらゆる可能性を考えておくことは、犯罪捜査のイロハだよ」
  「あらゆる可能性ってことになりますと、アイソトラックのネットワークにアクセスできた、その他の人たちも、みんな犯人の可能性があるってことになりますけど」
  「もちろん、そうだ。事件以降、アイソトラックからいなくなったのは、吉田、石井、山田の三名だから、その他の連中の仕業だとすると、犯人はまだアイソトラック社で働いているということになる。彼等の中に犯人がいる可能性だって、考えておかねばならんね」
 
  四月十七日、近藤と柳原は、九時ちょうどにアイソトラック社に到着する。
  柳原はまず、従業員のディレクトリ、特に、吉田と山崎の計算機は徹底的に調査をする。しかし、このふたりの計算機からは、事件につながるような証拠は何も見出されない。
  この朝、柳原の得た収穫は、四月十一日のバックアップテープにあった。バックアップテープから復旧(リストア)した扉の開閉記録に、保管庫非常口のロックが九時五十八分に解除されたことと、その直後に扉が開かれていることが記録されていたのだ。
  正規の開閉記録には、このレコードはなく、何者かが非常口の開閉を記録したレコードを削除したことは明白だ。
  残念ながら、バックアップは夜の十時ちょうどに行われており、そのあとの記録は残されていない。
  柳原は、保管庫非常口の開閉記録をフロッピーディスクにセーブすると、それを持って応接室に戻る。
 
  十時半、仲根が応接室に顔を出す。例によって、コーヒーも運ばれてくる。
  「どうもすみません。いろいろとバタバタしておりまして、お相手できませんで」
  「なに、我々も独自に調査しておりましたんで、全然構いません」
  「洞窟の調査は、本日も朝から始めております。こちらのほう、新事実はなにも出ておりませんが、近藤さんのほうは何か掴めましたでしょうか?」
  「保管庫の非常口、十時ちょっと前に開けられていますね」柳原は、ドアの開閉記録のバックアップデータが表示されたパソコン画面を指して言う。
  「確かに」仲根、画面を見て感心する。「しかし、ドアは確かに開いたことになっていますけど、どうして非常ベルも鳴らなければ、非常放送も流れなかったんでしょう」
  「非常ベルって、非常ボタンに直結してたんじゃないですか? もしそうだったら、非常ボタンは押されていないんですから、ベルが鳴らなくても不思議じゃないですよ。それから、非常放送は、計算機が直接制御して流していますから、ロック解除の信号を送っただけでは、非常放送は流れません」
  「これは相当に脆弱なシステムでしたね。いずれにせよ、扉のロックシステムに付きましては、ご助言を参考に、全面的に入れ換えることにします」
  「ロックの解除と扉開閉記録の削除が行われたのが、吉田さんが事務所におられた十時前後だったということは、吉田さんがこれを行った可能性が極めて高いですね」
  「しかし、ロックが解除されたとき吉田が事務所にいたということは、彼にはRIを盗み出すことはできなかったということではありませんか?」仲根が指摘する。
  「もちろん、共犯者がいたんでしょう」近藤が言う。「あれだけの重量のものを一人で持ち出すのは、大変ですからな。共犯者が、保管庫の非常口前に車を停めて、ロックが解除されるのを待っていたんですよ。吉田がしなくちゃいけないことは、ロックを解除することと、扉の開閉記録を削除すること、それから、証拠になりそうなファイルを全て削除することです。共犯者と連絡を取り合っていれば、実に簡単な作業です」
  「吉田さんのディレクトリにあった、ロック解除のプログラム、コードを追ってみたんですけど、タイマー作動とか、自動削除にはなっていませんでした」柳原が指摘する。「タイマー動作をさせる標準コマンドもあるんですけど、その予約はファイルに書くようになっていまして、バックアップテープに記録されます。それを調べましたけど、ロック解除のプログラムやファイルの削除コマンドをタイマー動作させた形跡はありませんでした。他にそれらしいプログラムもなかったし、吉田さんは、多分、キーボードからコマンドを打ち込んで、ロックを解除したり、扉の開閉記録を削除したりしたんだと思います」
  「つまり、彼は残業を装って、夜の十時にそんなことをしていたというわけか」仲根は憤慨して言う。
  「吉田さんは、ロックを解除したあとで、ロック解除のプログラムを自分の計算機から削除して、これでばれるはずはないと考えたんですけど、あらえっさっさ、吉田さんのディレクトリは、運悪く、削除する前にバックアップされてしまったんですね」柳原は補足する。
  「吉田は、自分が疑われるなんて全く考えずに、学会に向けて出発したんですが、何らかのトラブルに巻き込まれて、帰ってこれなくなったわけですな」近藤は続ける。「どのようなトラブルが生じたのかは、想像するしかありませんが、放射性物質を盗み出そうという連中ですから、相当手荒なこともやりかねません。分け前を巡っての仲間割れがあったのかもしれませんし、吉田は単なる将棋の駒で、連中、最初から吉田を消す計画だったのかもしれません」
  「話は全て合いますね」仲根は感心して言う。「それで、盗み出したRIはどうなったんでしょうか」
  「アイソレーク一帯のどこかに隠されてる、ってことだってあるかもしれませんけど、持ち出す方法だって、ないわけじゃありません」
  「あの洞窟につきましては、大至急、徹底的に調査致します」
  「外部に持ち出す手はそれ以外にだって沢山あります。山を越えて持ち出す方法だっていろいろあるし、正規のトンネルを、検査に引っかからずに持ち出す方法だっていろいろあります」
  「遮蔽を強化して線量計にかからないようにするという可能性については、昨日ご指摘いただきまして、特に頻繁に出入りする車輛、人物について、検査を強化するよう手配致しました。それ以外にも、何か考えられますでしょうか」
  「検査をせずに通す車両ってないんですか? 例えば、緊急車輛とか、セキュリティセンターの関係者とか」
  「救急車や警察の車輛は、確かに検査しませんね。セキュリティセンターの職員は、多分フリーパスに近いでしょうなあ。山崎の車で出入りするときも、フリーパスに近いですからね」
  「山崎さんもフリーパスですか。また何で?」
  「セキュリティ関係者は、頻繁に顔を会わせておりまして、互いに信頼関係があるんです。もちろん、決まりがありますんで、トランクを開けてサーベイメータを近付ける程度のことはしておりましたが、一々包みを開けるといったチェックはしておりません。ですから、遮蔽ケースに入れでもしたら、山崎なら持ち出しは可能ですね。まあ、一度に全部ってわけにもまいりませんでしょうけど」
  「山崎さんは、頻繁にアイソレークの外に出られているんでしょうか?」
  「休みの日には、ほとんど外に行っているようですね。彼、山歩きが趣味なんですけど、アイソレークでは山に登れませんので」
  「そりゃあまずいなあ。山崎さんも、一応、容疑者の一人なんですよ。特別な遮蔽ケースに収めたトリウムを、休みの度に、少しずつ持ち出すのかもしれない」
  「わかりました。セキュリティセンターのほうには、顔見知りの者も、きちんと検査をするように厳命しておきましょう。しかし、緊急車輛まで調べることは難しいですなあ」
  「尾行して、密かに監視したらどうでしょう」近藤が助言する。「例えば、アイソレークの救急車の運転手が犯人の一味だったとしますね。彼は、外部への出動命令を受けた際、隠しておいたトリウムを救急車に積み込めば、ゲートをノーチェックで通過できるわけです。外部の病院に着いて同乗の救急士が病人の乗せ降ろしに気を取られている時など、隠し持っていたトリウムを病院前で待機していた共犯者に手渡す機会もあるでしょう。一度に二千本も持ち出すことは難しいでしょうが、何回かに分けて持ち出せば、不可能ではない」
  「なるほど、運転手がだれかにコンタクトしたら、怪しいというわけですな」
  「決められた場所に置く、ってやりかたもありますね」柳原が指摘する。「ゴミ箱に、トリウムを隠した煙草の空箱を捨てる、っていうようなやりかたかもしれないですよ。でも、尾行する人が線量計を持っていれば、運転手が何かを置いたり捨てたりする度に、簡単にチェックできますね」
  「わかりました。それも早速チェック致しましょう。尾行要員をゲートのところに待機させます。他には何かありますか?」
  「線量計が正しく検出できることは、チェックされてますか?」柳原が尋ねる。
  「これは定期的に検定をしてますので、間違いはないはずです」
  「検定を、マニュアルで、しかもいろいろな人がやっているんなら、多分大丈夫だと思うんですけど、特定の人が検定するんだと、その人が犯人の一味だった場合、トリウム228には感じないように設定されてしまうかもしれません。自動検定機を使っていて、しかもそれが計算機につながっていたりすると、計算機経由で検定機をいじられる可能性もあります。対策は簡単で、トリウム228を一本用意しておいて、検出器がそれに正しく反応することを、ちょくちょくチェックすることです」
  「検定をどうしていたか、私は知りませんが、これも調べて対応するようにします。大体そんなところですか?」
  「あとは、山を超えた可能性なんですが、これをやられていると、もう手遅れだと思いますよ」
  「どんな方法がありますかね」
  「訓練した動物、例えば伝書鳩に運ばせるとか、弓矢かなにかで飛ばすとか、ラジコンの模型、例えば飛行機だとか戦車とかの模型に載せて、山を越えさせるとか、いろいろあると思います」
  「なるほど。これは、監視を強化すればわかりそうですな。飛ばすにしたって、一度に二千本も飛ばせないでしょう。一日百個飛ばしたって、二十日もかかる計算です。まだ間に合うかもしれませんね」
  「確かに、おっしゃる通りですなあ」近藤は仲根を見直して言う。「山の上の監視所のほうに、一つ、気合を入れて見張るよう頼んでいただけますか」
  「もちろんです。できることは何でもやりましょう」
  仲根はそう言うと、種々の手配をするために、応接室を出ていく。
 
  「念のために、もう一つの可能性も検討しておこう」近藤は言う。「石井がやったとしたら、どういう事になるかな」
  「石井さんって、それほど計算機に詳しいようには見えないんですけど、物理的には不可能じゃありませんね。つまり、まず、クラッキングソフトで山崎さんのパスワードを解析し、山崎さんのパソコンにキーストロークロガーをしかけます。山崎さんが管理者パスワードでログインすれば、石井さんは管理者のパスワードを知ることができます。そうすれば、鍵を管理しているソフトを読むことができ、どうすれば鍵が開けられるかを知ることができます。鍵を開けるプログラムができたら、それを吉田さんのディレクトリにコピーし、翌朝それを消すこともできます」
  「石井は、確かに計算機の扱いに長けているという感じはしなかったが、技術的に難しい部分は外部の共犯者がやってもいいわけだ。石井は、そいつに言われるままに、渡されたフロッピーに入ったプログラムを、アイソトラックの社内ネットに接続された計算機で走らせたってわけだ。この程度のことだったら、だれでもできる。それで集めたデータやファイルは、フロッピーに書き込まれるようにしてあって、そのフロッピーを外部の共犯者に渡すって寸法だ」
  「トリウムを盗むほうは、石井さんと山田さんが共犯なら、前に議論したように、朝、持ち出すこともできるし、鍵を開けるプログラムで非常口を開けて、十一日の深夜に盗むこともできます」
  「非常口が開いたことは確かなんだから、犯行時刻は前日の午後十時頃だろう」
  「ああ、そうでした。でも、そうなるとちょっとおかしいですね。あのふたりが共犯なら朝に盗み出せた、ってことで、同時に辞めたから怪しい、ってことになっているんですよね。でも、夜に非常口から盗んだんなら、あのふたりが組む必要はないのよね。アイソトラック社のネットワークにアクセスできる人なら、だれにでも犯行は可能だったわけで。そう、専門知識さえも要らないわけだから、犯行が可能なのは、計算機に触る機会がある従業員全員、ってことになりますね。なぜ、石井さんたちを特別に疑わなければいけないんでしょうか」
  「そりゃあ、急に辞めたからだろうが、その理由に関しちゃあ、別にトリウムを盗んでいなくても、他にもいろいろあり得るね。そうなると。犯人の目鼻は、皆目見当が付かないということか」
  「吉田さんじゃないなら、そういうことになりますね。他に犯人がいる可能性に備えて、クラッカー・トラップでもしかけておきましょうか」
  「それ、どういうの?」
  「セキュリティの計算機に繋がっているイーサケーブルを全監視する奴です。前に一晩モニターして、あのときは何もありませんでしたけど、ずっと監視しつづければ、そのうちにだれかが悪さをするかもしれません」
  「そうねえ。なにぶん手掛りがまるっきりないから、山崎さんに頼んで、それ、しかけさせてもらおうかね。でも、石井がやったんなら、もう、アクセスはないな」
  「石井さんは、保管庫の管理者だから、トリウムが盗まれて、一番怪しまれる人なんですよね。何でわざわざそんな人が、クラッキングに手を貸さなければいけないでしょうか。私がやるんだったら、保管庫とは縁もゆかりもない人を共犯に引き込みますけどね」
  「石井氏、台車の話をしたときは、確かに素振りがおかしかった。彼、何か別のことをやっていたかもしれないね。出会い頭の衝突というか……」
 
  「もうお昼過ぎてますけど、お昼御飯はどうしましょうか?」
  柳原が近藤にそう呟いたとき、仲根が応接室に顔を出して近藤に尋ねる。
  「先生方は、お昼は中華の弁当でも宜しいでしょうか? ここで食事をしながら、最後のまとめをさせて頂くということに致したいと思いますが……」
  「もちろん構いませんとも。柳原君もそれで良いね」
  「ええ、もう全然」
  仲根は、弁当の手配のために応接室を出ていく。その後姿を眺めて、柳原は口にわいた涎を飲み込む。
  窓枠に置いた灰皿に向かった近藤が、窓の外を指差して言う。
  「あれだね。弁当はすぐに来るよ」
  柳原が窓の外を見ると、玄関のすぐ外に、赤や緑のけばけばしい塗装を施した箱型のトラックが停まり、中華風のメロディーを奏でている。このメロディー、少し前から聞こえており、近藤たちは何だろうかと疑問に思っていたものだ。
  トラックの後部の扉は開かれており、その前に、アイソトラック社の従業員が何人も集まって、弁当や飲み物を手に、玄関へと戻ってくる。
  やがて応接室のドアが開く。仲根が押さえたドアを通って、女子従業員が弁当とペットボトルを載せたトレーを持って入ってくる。
  「松にしました。結構いけますよ」仲根は言う。「どうぞ召し上がってください」
  柳原はわくわくしながら弁当の蓋を開ける。
  「お食事しながらで結構ですから、これまでのまとめをさせて下さい」仲根は、そう言って、ウーロン茶を一口飲む。
  「そうですな、先ず、容疑者から参りましょうか」近藤は弁当の蓋を取りながら言う。「先ず、一番疑わしいのが吉田さんですな」
  「そうですね、我々もこれには異存ありません」仲根は言う。「ロック解除のプログラムが彼のディレクトリにありましたし、事件当日に突然失踪したことは、いかにも不自然です。彼の部屋の様子や預金がそのまま口座に残されていることなどから、失踪は予め計画されたものではなく、何らかの突発的な原因によるものと思われますが、これも事件と関係したものである公算が大です。吉田に関しましては、既に、警察の方に手配して、行方を捜していただいております」
  「次に可能性があるのが、山崎さん以下のセキュリティ担当者です」近藤は炒飯をウーロン茶で飲み下して言う。「吉田さんのディレクトリにあったとされるロック解除のプログラムは、バックアップテープの記録からそう推定されているのであって、セキュリティ関係者ならバックアップテープに細工して、偽装することができました」
  「セキュリティ関係者に付いては、別途調査を行います」仲根は言う。「しかし、山崎は、そんなことをするような人間には、とても思えませんが。十一日の夜も、アイソレークのセキュリティ関係者と飲んでおりまして、アリバイがあります」
  「ロックの解除プログラムは、設定次第で、メイルを受け取ると自動的に起動させることもできます」柳原は、紙ナプキンで口を拭きながら言う。「メイルは携帯電話からでも送れますし、アリバイは、あまり意味がありません」
  「まあ、我々も、山崎さんが犯人だと考えているわけではありません。最も疑わしいのが吉田さんであることには変わりはありません。しかし、山崎さんが犯人であった場合、事実上ゲートをフリーパスで通れたこと、洞窟の存在を知っていた岩井氏と組んでいる可能性もあるということで、トリウムを外部に持ち出せた可能性があります。このような可能性を無視するわけにはいかんでしょう」近藤が指摘する。
  「しかし、洞窟には、外部に人が出入りした形跡はなかったでしょう」仲根は言う。
  「我々が見つけた出口以外に、別の出口があるかも知れません。ここで山小屋を経営していた岩井氏が共犯であれば、別の出口の存在を知っていたかもしれません。もう一つの可能性は、トリウムを外部に出すだけなら、小さな穴で充分だという点です。我々が出口を見つけたとき、人が通った形跡をチェックする前に、小さな穴を開けてしまったんですな。それも、やったのは山崎さんだ。山崎さんが穴を開けた場所は、最近塞いだ部分であったかもしれない」
  「ああ」仲根は天を仰ぐ。「これは大失敗を致しました」
  「いえいえ、これはやむを得ないことだったと思いますよ」近藤は仲根を慰めるように言う。「小さな穴をあけないと、どこに出口があるのか、外部からではわからなかったでしょう」
  「山崎と岩井が犯人であるというケースは、非常に危険な状況だと思いますが、近藤さんのお考えでは、その可能性はどの程度あるものでしょうか」
  「岩井さんとは二度ほどお話をしましたけれど、今回の犯行には無関係という印象を受けましたなあ。山崎さんに関しては、私などより、中根さんのほうが良くご存知でしょう」
  「山崎も、悪いことをするような男にはみえませんけどねえ。ただ、少し間が抜けているところがあるんですよ。根は良い男なんですけどね。その他のセキュリティ関係者は、山崎がきちんと管理していれば、悪さはできないはずなんですけどねえ。ま、いずれにしても、彼等に関しては別途調べることに致しますのでご安心下さい。印象といえば、石井と山田に対する私どもの印象は、極めて悪いんですよ。彼等なら何をやったって不思議ではない。彼等が犯行に関与した可能性は、吉田の次ぐらいに高いんじゃないでしょうか。彼等が最近姿を消したことも、いかにも疑わしいですし、石井たちは、洞窟の存在を知っていたようで、外部にRIを持ち出した可能性もあります。そもそも石井は、山田と組めば、RIの窃盗も容易だったのではなかったでしょうか」
  「石井と山田が組んで犯行に及ぶという可能性は、確かに以前議論しましたが、これは、十二日の朝九時ごろに犯行が行われるケースです。しかし、扉の開閉記録のバックアップファイルから、十一日の十時少し前に保管庫の非常口が開いたというレコードがみつかっておりまして、これが犯行時刻であることは、まず間違いありません。そうすると、石井と山田が組む必然性はありません。犯行が可能な者は、計算機に触ることができる従業員、全員です」
  「しかし、あのふたり、姿を晦ましているんですよ。白だったら、そんなことをする必要がありません」
  「いま、柳原とも話していたんですが、ロックのクラッキングはだれでもできます。ならば、トリウムが奪われたとき、第一に疑われそうな保管庫の管理人を、なぜ、わざわざ共犯者に選ばなければいけないんでしょうか」
  「そりゃあそうですが、姿を晦ますには、それ相応の理由があるはずです」
  「彼等が言う、元々辞める予定であったのが、事件が起こって怖くなった、疑われたようで不愉快だった、という理由は、確かに不自然です」近藤は、推理を披露する。「特に、倉庫の管理責任者である石井さんが、トリウムが盗まれるという危機的状況下で、しかも自分が第一発見者でありながら、さっさと辞めてしまうというのは、職業人としてあまりにも無責任です。別の就職が決まっていたというなら、少々の不義理には目をつぶるかもしれませんが、私達が当人から直接聞いた話でも、彼等は当分、定職に付く予定はないということです。結局のところ、彼等にそうさせる合理的な理由として、やはり、石井さんたちが、何らかの犯罪行為に関与していたのでは、という疑いは否定し切れません」
  「そうでしょう」仲根は我が意を得たりとばかりに頷く。「あのふたりは、どうみても怪しい」
  「しかし、彼等がトリウムを盗み出した犯人かといえば、それもまた不自然な話です」近藤は話を続ける。「これらを所与とすれば、導き出される結論はただ一つ。あのふたり、何か別のものを盗み出したのではないか、ということになります。十二日の午前九時にね」
  近藤の話に、仲根は目を丸くする。近藤はそれに構わず話を続ける。
  「手口は、以前議論した方法と同じですが、盗んだものはトリウムではなく、他の金目のものだと思います。石井さんがそれをゴミ袋に隠して持ち出そうとしたとき、トリウムの盗難が偶々発生した。石井さんは驚いたでしょうけど、既に、自分たちの盗んだものを台車に乗せて保管庫前まで来てしまっていますので、いまさら中止もできない。石井さんはやむを得ず、予定通りに山田さんに台車を渡して外部に持ち出した、というわけです」
  「ははあ、確かにそうだとすると、話は合いますね。しかし、もし、言われることが事実だとすると、連中、慌てたでしょうなあ」仲根は面白そうに言う。「つまらぬ泥棒が、思いもかけず、重大犯罪を犯した疑いをかけられることになったわけですから」
  「ただいまの推理が正しいかどうかは、調べて頂ければ、すぐにわかるでしょう」
  「かしこまりました。石井たちの行動範囲で、何かなくなっているものがないかどうか、今日明日にも、徹底的に調べることにしましょう。近藤さんのお話が正しければ、我々には好都合です。警察に届けるにも、本社の了解を得やすいですからね」
  「そうであっても、肝心のトリウム窃盗犯には繋がりませんなあ」近藤は溜息混じりに言う。「さて、こんなところでしょうかね。レポートは後日お届け致しますが」
  「はい、どうもご苦労様でした。今回はご無理を言って申し訳ありませんでした。例の、鍵に関するアドバイスと、RI持ち出し方法に関するレポートの方もよろしくお願い致します」
  「ええ、もうそれは、すぐにでも、お届けできると思いますよ」
  そう言う柳原を近藤は横目で睨み付け、仲根に別れを告げる。
 
  四月十八日午前九時半、株式会社コンドーの応接室で煙草を吸いながら新聞を読む近藤にエミちゃんが声をかける。
  「所長、お電話です。アイソトラックの仲根さん」
  「またかね」近藤はそう言うと、事務所の電話に向かう。
 
  「近藤さんのおっしゃる通りでした」受話器の向うで仲根が言う。「石井がチェックしている貴金属製品の在庫調査記録なんですが、現況との大幅な食い違いがございました。石井は相当量の白金を盗み出した疑いが濃厚でございまして、これを警察に通報致しまして、警察のほうから、石井を窃盗の重要参考人として全国に手配することとなりました」
  「洞窟の調査はどうなりましたでしょうか」
  「外部への通り抜けはできないとの結論です。それから、吉田の行方はまだつかめておりません。盗まれたRIも、まだ一つもみつかりません」
  「そうそう、山崎さんのご調査はされたんですか? 特に、四月十一日の夜の、彼の行動は確認されましたか?」
  「調査につきましては、別途、手配致します。それから、彼の十一日夜の行動ですけど、この日、アイソレーク一帯の警備担当者の懇談会がございまして、かなり遅くまで飲んでいたようです。これは、相当数の証人がおりまして、間違いはございません。その他のセキュリティ関係者につきましても調査致しておりますが、特に不審な点はみつかっておりません。これを含めて、何か進捗がありましたらご連絡します」
  「結局のところ、犯人は吉田さん一人に、ほぼ絞られたってことですな」
  「そういうことでございます。本件、あとの処理はこちらで致す所存でございますが、今後ともご協力のほう、一つよろしくお願いします」
  「こちらこそよろしくお願いします。これを機に、御贔屓にしていただけるとありがたいですなあ」
 
  近藤が電話を終えるのを待って、エミちゃんが尋ねる。
  「アイソトラックさんの請求、倍額でするんだって本当ですか?」
  「今回のは、そうだ。向うからそう言ってきた。ふたりで二日、出張で、単価を二倍にして請求しておいて。それからこれ、領収書、請求に含めて」
  近藤は、札入れから有料道路の領収書を出してエミちゃんに渡す。札入れには蕎麦屋の領収書も入っており、近藤はそれを眺めてしばし考えるが、アイソトラックに請求することは諦めて、エミちゃんにそれを渡して言う。
  「これは、ウチの会議費で落としておいて」
  「大分前にできている柳原さんのレポートとその請求書、まだ出していないんですけど、どうしましょうか?」
  「今度の水曜日に、両方、提出して。そっちは一晩を一週間に水増しするけど、単価は通常通りだ」
  アイソレークの事件は解決していない。しかし、コンドーの経営上は、本件、水曜日のレポートと請求書の送付で業務完了だ。
  「こんなに儲かっているんだから、あんまりせこいこと、しないほうがいいんじゃないですか」
  言い難そうに言うエミちゃんに、近藤はきっぱりと応える。
  「儲かるときに儲けておけ。これは、わが社のモットーだよ」
 


 

第4章 バルネット

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  「海賊風船?」
  素っ頓狂な声を上げたのは近藤夏樹、探偵だ。夏樹という名前は、よく女性と間違えられるが、近藤は男性であり、しかも柔道で鍛え上げた大男である。
  「お話が良く解りませんなあ。技術に明るい者を連れて、三時頃におうかがい致しますので、」
  先方の話では、バルネット社は、近藤のオフィスからは二時閑弱のドライブという。近藤が三時に訪問すると言ったのは、唯一スケジュールが開いている調査員の柳原が、恐らく午後一時には出社するだろうと期待してのことだ。
  時刻は既に十一時、出発まで、あまり時間がない。
  「エミちゃん、柳原(やないばら)君、どうせ暇だよね。一時に来るよね」
  近藤にエミちゃんと呼ばれた若い女子事務員は、ホワイトボードに書かれたスケジュールを指差して言う。
  「大丈夫です。午後一の出社と言ってました」
  スケジュール表には、近藤と柳原の他に、ふたりの調査員の欄がある。近藤と柳原の欄は、ずっと空白が続いているが、他のふたりの調査員の欄には、出張中と書かれた線がずっと引かれている。
  「柳原君に、一時には間違いなく来るように確認しといて」
  近藤は一番の心配事をエミちゃんに委ねると、計算機に向かい、バルネット社に関する予備知識を収集する。バルネット社は、新興の通信企業で、風船を使った無線ネットワークで急速に業績を伸ばしていると書かれているが、近藤にはイメージが掴めない。
  「ま、行って話をきけばわかるだろう。柳原君が知っているかもしれないし……」
 
  近藤の車は快調に国道を飛ばす。
  助手席に座るのは柳原、きちんとスーツを着込んだ近藤と対称的に、枯草色のぼさぼさ頭につなぎのジーパンというラフなスタイルだ。
  外見からは想像もつかないが、柳原は、元クラッカーであり、現在は計算機犯罪を扱う調査事務所『コンドー』の腕利き調査員である。
  午後一時、近藤は、眠そうな顔で出社した柳原を捕まえると、彼女を愛車の助手席に放り込むように乗せ、バルネット社に向けて出発したのだ。
 
  「いいところですねえ」助手席の柳原が近藤に言う。
  バルネット社は、東に向かって突き出した岬の先端部に立地する。
  岬の中央を走る道路は、二車線しかないが、路肩はゆったりとしており、南国風の並木が続く景色はすばらしい。道の両側には、観光客目当ての洒落た店が並び、その奥にはホテルや豪勢な別荘風の建物が散見される。
  行き交う車もあまりなく、近藤は快調に車を飛ばす。
  岬の先端に近付くと、ときどき視界が開け、両側に広がる真っ青な海が見える。
  「リゾート地帯ですね」柳原は、半分レジャー気分だ。
  「この前は山の湖に行ったね。で、今週は海だ。結構なご身分じゃないか」
  「ちゃんと仕事してますって。アイソレークの盗難事件は、真相も解明したし、レポートだってちゃんと書きましたよ」
  「犯人は捕まっていない。盗まれたトリウムも、まだみつかっていない。事件は未解決だよ」
  「所長らしくもない。要は金だってのが口癖じゃないですか。あのレポートだって、金取るんでしょ」
  「そう、一週間分」
  「そりゃ詐欺ですぅ。一晩で仕上げましたよ」
  「しかしこの一週間、君は他に仕事をしていない」
  「そんなあ。アイソトラックに二度も行ったじゃないですか。システム監査も三件、やりましたよう」
  「システム監査? そんなこともしてたのか。でも、そういうのは、報告書をエミちゃんに入れること。そうしないと請求書が出せないでしょ」
  「お客さんにはちゃんと解って貰えてるんですけどね。まあ、エミちゃんへの報告書は、あとでまとめて出しときますけど……」
  「しかし、アイソトラックさんはいいなあ。また仕事貰えんかなあ。最初の出張は、ふたりの二日で請求したら、五割増にしますと、向うから言ってきたし、おとといから昨日の出張は、最初から倍額だ」
  「システム監査を貰えるといいですねえ。泊まり込みでやっちゃいますよ。メシも良かったし」
  「俺の予感では、もう一〜二週間したところで、トリウムがみつからん、と騒ぎ出すんじゃないかな。あの鍾乳洞、結局、外部に出る口はなかったってことで、連中、まだ届け出でをしていないようなんだよ。そんなことは、全然、本質的じゃないんだけどね」
  「全く、あの仲根って奴は、馬鹿なくせに自信過剰なんですよ。『アイソレークのセキュリティは完璧です』なんて、よく恥ずかし気もなく言えたもんだわ。簡単に破れたじゃないですか」
  「お客様を馬鹿にしちゃあいかんよ。彼等はそれほど有能でないと、そりゃあ俺だってそう思うけど、そういう人達が多いから我々の商売が成り立つんだよ。馬鹿、無能ってのは、相対的なもんだから、彼等が馬鹿なんじゃなくて、我々が有能なんだ、って考えたらいいんじゃないかな」
  「言ってることに、大して変わり、ないみたいですけど」
 
  岬を貫くように続いていた道は、ロータリーにぶつかって、行き止まりになる。
  ロータリーの一番奥には、白い二階建ての、頑丈そうなコンクリートの建物がある。建物のロータリーに面した側の中央部に、入口がある。
  近藤は、入り口の近くに車を止め、建物のドアを開けて中に入る。
  入ったところは、狭い部屋で、案内の者はだれもいない。ただ、小さな造り付けのカウンターに電話機が一つ置かれ、『御用の方は担当者に御連絡下さい』と書かれた紙と、電話番号表が前の壁に貼られている。
  近藤は手帳を広げてバルネット社の担当者の名前を確認すると、電話番号表を眺め回し、番号をみつけてダイヤルする。
  「あ、どうもご苦労様です。すぐそちらにうかがいますから」杉山工務課長が受話器の向うで応答する。
 
  近藤たちは数名用の小さな会議室に案内される。
  会議室の大きな窓は開け放たれ、心地よい風が潮の香りと共に吹き込んでくる。
  窓の外には、南国風の椰子のような木が並び、音を立てて風に揺れている。その音に被さって、鴎の鳴き声が尾を引いて流れる。
  杉山工務課長と共に、紺色の半袖の作業服を着た女性事務員が応接室に入り、パイナップルジュースを三人の前に運ぶ。その甘さに、柳原の目は潤みがちだ。
  「こういうところで仕事をしておりますと、十年一日の如しといいますか、何十年もこうしていたような気が致します」杉山は言う。「しかし、私どもがこの事業を始めまして、まだ一年少々なんです。信じられませんなあ」
  「お電話でうかがいました、海賊風船というのは……」近藤はせっかちだ。
  「あ、その件でしたな。これについてご説明する前に、まず我々のビジネスについてご理解いただきませんと」近藤は説明を始める。「バルネットは、海底ケーブルや通信衛星の代わりに風船を使う通信会社でございまして、ドクターヨダの発明を弊社で実用化致したものです。風船はここで製作しておりまして、ここから飛ばします。風船には通信機を積んでおりまして、微弱な電波で相互に通信しております。これを利用致しまして、遠く離れたところにお客様のメッセージを送る仕組みです」
  「はあ?」近藤は、杉山の話している言葉の一つ一つは理解できるが、バルネット社が何をしているのかイメージが掴めない。
  「まあ、口で説明するよりも、現物を見ていただくのが速いと思いますよ。よろしければ工場のほう、ご案内致します」
 
  この建物、手前は二階建てだが、奥の大部分のスペースは吹き抜けになっている。室内には大きなプレス機のような機械が何台も並び、プシューと言う空気の排出される音と共に、太いシリンダーが上下して、ゴトンゴトンと音を立てている。
  杉山は、近藤たちを工場の中に案内すると、機械の間を歩き、樹脂フイルムの大きなロールが付いた機械を示して言う。
  「これが風船の元になります樹脂シートです。多層シートでして、アルミのレイヤがガスの透過を防いでいます。食品包装にも似たようなシートが使われとりますので、御覧になったこともあるかと思います」
  次の機械はプレス機で、樹脂シートを同心円状に打ちぬいていく。打ちぬかれたシートはコンベアで次のステージに運ばれ、別の形をしたプレス機で処理される。
  「これは溶着機です。打ちぬきましたシートを貼り合わせて風船の形にします。プレスの抜き方と溶着の順序に秘密がございまして、無駄がなく、かつ、うまい形ができるように搬送系が設けてあります。ほとんどパズルですな」
  杉山の言葉通り、いくつものプレス機の間をコンベアが複雑に結び、打ちぬかれた部品があちこちに移動している。
  プレスの工程の端からは、銀色をした円盤状のものが出てくる。これを指して杉山は言う。
  「これが風船です」
  近藤には、この円盤が風船のようには見えない。それに構わず、杉山は次の工程を示す。
  「ここで膨らませて、ガス漏れをチェックします」
  この工程は、近藤にも容易に理解できる。円盤が機械に入ると、プシューという音と共にガスが供給され、円盤は球状に膨らむ。
  「大きなちょうちんみたいだな」近藤は風船から受けた印象を口にする。
  「あの周囲をぐるっと回っておりますアームにセンサーが付いておりまして、ヘリウムガスの漏れをチェックしています」杉山が説明する。
  「ガス漏れって、どうやって検出するんですか?」柳原が尋ねる。
  「ヘリウム・リーク・ディテクターを使ってます」杉山が応える。
  (マンマじゃねーか)近藤、腹の中で悪態をつく。
  杉山は近藤たちを次の工程に案内する。
  「ここで、通信機を取り付けます。これも溶着機です」
  杉山の言葉通り、風船の下に銀色の円筒を置いてプレス機を通すと、取り付けが完了する。
  「いよいよ最終工程です」
  杉山工務課長は螺旋階段を上りながら言う。螺旋階段の中央には、直径一メートルほどの透明な樹脂のパイプが垂直に立ち、その中で、できたばかりの風船が少しずつ上に向かって動いている。
  建物にして三階分ほどであろうか、かなりの間上りつづけ、足がそろそろきつくなってきた頃に、階段は終っている。透明パイプの上につけられた複雑な機械が風船を一つずつコンベアに運ぶ。
  「このコンベア、上下逆ですね」柳原は、天井近くに設けられたコンベアを眺めて、感心したように言う。
  「ええ、風船ですから、手を離すと、上にいくんですなあ」杉山は面白そうに応える。(来る客、来る客、皆同じところで同じことを言うなあ)
  コンベアは風船を階段室の外に運ぶ。近藤たちも、杉山が開けた鉄の扉を通って外に出る。
  「うわ―っ」外を見た柳原が驚嘆の声を上げる。
  「こりゃあ凄いですな」近藤も感心して言う。
  目の前には、ぐるりと海が広がっている。階段を上ったのは十メートルほどだが、この建物自体がその数倍の高さの崖の上に建てられている。これだけの高さから見ると、海もそれだけ広く見える。はるか彼方の水平線で切り分けらた空は、水平線近くの白色から、天頂の深い青まで見事なグラデーションを見せている。その、空と海との間のはるか彼方まで、銀色に輝く風船が、一列に、点々と連なって飛んでいく。
  「ここは昔、灯台だったんですよ」と杉山が言う。「衛星の利用が普及してお役御免になった灯台を、風船発射塔に転用したんです。低いところから飛ばすと、地上の建造物や、船のマストに引っかかりますんでね」
  「それにしても凄いですなあ」近藤、適当な形容詞がみつからない。
  「風向きが逆のときはどうするんですか?」柳原、やっと技術屋の本領を発揮して聞く。
  「完全に逆の場合は飛ばしません。あと、嵐のときもね」杉山にしてみれば、この質問もよくあるものだ。「だけど、このあたりは、大体は西風が吹くんですよ。朝夕は南北に振れますが、ここ、岬の先ですんで、少々南北にずれても大丈夫なんです。こういう場所をみつけるのが、このビジネスの鍵ですね。地形と、風向き、そして、航空機との関係……」
  真下を見ると、そこは一般の人の立入も許された展望台になっている。数名の観光客が、銀色のステンレス製の手すりに凭れ、去り行く風船の列を見上げている。
  「灯台も観光資源でしたけど、風船放出塔は、はるかに人気があるようです」杉山は、誇らしげに言う。「ロマンがありますでしょ」
  「さて、風船のほうは大体わかりました。そこで、海賊風船の件なんですが、具体的にはどのようなことがなされているんですか?」近藤、風船発射塔の手摺を背に、本題を質問する。
  杉山は、話し辛そうだ。
  「要は、このような風船を使いまして、我々、通信業務を致しておるんですが、偽の風船を飛ばす奴がおりまして、頭を痛めております。今のところ判明している被害は、我々の通信資源を無断で使用することです。電話のただかけと同類の、不正アクセスですな。通信量と課金のトータルが合わないんですよ。これだけなら大したことではないんですが、技術的には盗聴やメッセージの細工などもできるはずだ、といわれておりまして、こういったところまで被害が拡大致しますと、我々の信用問題にもなりかねないと、危惧致しておる次第です」
  「ああ、なるほど。それは問題ですなあ。それでその、偽風船はどのようなもので、どうやって作って、どこで飛ばしているか、といったことはわかりませんでしょうか?」
  「偽風船は、我々のものとほぼ同様です。連中、溶着の技術がないようで、風船の組み立ては接着でやっとりますな。ですから、我々の風船が五年以上飛んでいるのに対し、連中の風船の寿命は、いいとこ一年といわれています。それから、どこから飛ばしているかは、わかりません。それがわかっていれば、踏み込んでいって、止めさせるんですけどね」
  「偽風船の実物を手に入れらているんですか?」
  「はい、今、技術陣が分析しとります」
  「その技術のかたとお話できませんでしょうか?」
  「こことコンタクトしていただけますか」杉山は、近藤に一枚の名刺を差し出す。名刺には依田教授の名前とU大の連絡先が印刷されている。
 
  杉山工務課長に別れを告げてバルネット社を辞した近藤たちは、U大依田研究室に向かって車を飛ばす。U大のキャンバスは、バルネット社からそれほど遠くない。杉山は、近藤の求めに応じてU大の依田教授に連絡を入れ、歓迎するとの応答を得ている。
  「あの工務課長、あまり技術を知らないようだね」
  「ここでは風船を作って飛ばしているだけですからね」柳原は応える。「風船の膨らませかたはよく知っているんでしょうけど。風船の心臓部は、あの円筒形の部分で、それはよそから出来合いのものを持ってきてますからね」
  「ああ、それをどこで作っているか、聞くのを忘れたな」
  「多分、作っている連中は、言われた通りの物をこさえているだけで、偽風船の作りかたなんかわからないと思いますよ。その依田先生が全てをご存知なんじゃあないかしら。先生のお話しをうかがうのがベストでしょうね。必要なら、そこで製造元、紹介してもらったら良いんじゃないですか?」
 
  U大は海の近くに、豊かな自然に囲まれて立地している。言葉を換えれば、不便な場所である。地価も安かったのだろうか、広いキャンバスには、近代的な白い建物が点在し、その間を埋めるよく手入れされた芝生と花壇が、穏やかな陽光に輝いている。芝生の間の石畳の道を、カラフルな衣装の学生たちが、三々五々、歩いている。
 
  近藤は、依田研究室の所在を守衛所で尋ね、教えられた建物の前に車を停める。
  その建物は、外から見たところでは、真新しい、機能的な建物だが、一歩中に入ると、廊下のそこここに、古い実験器具や、書棚やソファーなどの調度品が乱雑に置かれている。
  「なんか汚いですね」柳原は気持ち悪そうに言う。
  「大学なんてこんなもんさ」近藤は言う。
  『依田教授室』というプレートの掲げられたドアをノックすると、ドアが開き、依田本人が出てくる。
  近藤たちは、教授室に通されると思って前に進みかけるが、依田教授にぶつかりそうになって止まる。依田は客人を部屋に入れたがらないようだ。依田は、挨拶もそこそこに、うしろ手でドアを閉めると、近藤たちを実験室に案内する。
 
  実験室は三方に窓のある大きな部屋だ。部屋の中央には、大型の実験台がいくつも並び、その上に、風船が数個、糸で固定されて浮かんでいる。その下には、値の張りそうな電子計測器が、ケーブルで繋がれて、いくつも並んでいる。
  実験室の周囲、窓際には、パソコンの置かれたデスクと、はんだ付けの道具等が置かれた作業台が点在し、三人の学生が作業をしている。
  依田は、入口に近い風船の前に近藤たちを案内すると、風船を指差して言う。
  「これが風船です。ま、見ればわかるなんておっしゃらずに。この風船、高度な技術を集積したものでして、素材は、耐環境性とガスバリア性に優れた七層構造の特殊樹脂フィルムでして、気密性の高い特殊な溶着技術により風船の形に組み立てています。風船の一番上の丸い板は太陽電池でして、薄いステンレス箔にポリシリコン層を形成することで軽量化しています。この太陽電池が一番値の張る部品です。大きいですからね。その次に高価なのが、リチウムの二次電池です。さて、この下の円筒ですが……」
  依田教授が円筒を突つくと、風船がゆっくり揺れる。依田は、大げさに驚いた身振りをして、手で風船を押さえて揺れを止める。依田は、机の上の、分解した別の円筒を指し示す。
  「こちらにあるのが、蓋を開けたものですが、二次電池の他に、水素セル、通信制御ユニット、センサー類が搭載されています」依田は、円筒内部の部品を指差しながら言う。
  「水素セルって、燃料電池ですか?」柳原が尋ねる。
  「電源は全て、太陽電池で賄います。水素セルは、風船のできがいくら良くてもガスが徐々に抜けていきますので、これを補充するための水素を発生します。仕組みは簡単でして、リチウム塩を含む吸湿性のシートの両側に電極が設けてありまして、この間に電圧をかけることで、水を電気分解して、水素ガスを発生させます。シートは、空気中の水分を吸収しますんで、水は自動的に補充されます。風船は、最初、ヘリウムで膨らまして飛ばすんですが、飛んでるうちに、徐々に水素に置き換わります」
  「通信制御ユニットってのが、この風船の仕事、つまり、通信をする部分だと思いますけど、センサー類ってなんですか?」柳原は尋ねる。
  「この風船、通信業務の他に、気象観測の機能もありまして、気圧、気温、湿度を測るセンサーが内蔵されておりまして、円筒の下の固体カメラで雲の状態も観測します。気象情報は、風船をコントロールするためにも使われております。気圧や気温は浮力に影響しますし、湿度は水素セルの吸湿量に影響します。風船の位置は、GPSで常に把握されておりまして、風船の動きを追うことで、風の向きと強さもわかります。風船は、水素の発生量を調整して上下に移動する機能しか持っていないんですが、適当な風向きを選びますと、好きな方向に移動することもできます。もっとも、その方向の風がなければ駄目ですけど」
  「これは、飛行機にぶつかったりはしないものですかな?」近藤も訊く。
  「航空機の巡航高度は避けて飛ばしていますので、まず大丈夫です。つまり、風船は高度八キロほどの対流圏を漂うよう制御しておりまして、航空機に衝突する可能性があるのは、航空機が高度八キロを通過する離着陸前後だけです。この位置は、空港との関係で決まっておりますので、ここを避けるように、風船を制御するわけです。もちろん、風船放出塔も航空路から外れるように設置しております。それから、仮に航空機に衝突しても、風船は、大抵の場合弾き飛ばされるはずでして、航空機側には、鳥と衝突するより問題は少ないという実験結果も得られております。とはいいましても、風船を壊される危険性がございまして、我々はそちらを嫌っているんです。航空機に関しては、風船の高度を二倍ぐらいに上げて、成層圏に飛ばすことができれば、全く問題がなくなるんですが、水素セルの機能に問題がありまして、やむを得ず現在の八キロという高度に落ち着いています」
  「柳原君、通信のほうは君の専門だと思うけど、わかるかね?」
  「ええ、リピーターとセルラーフォンを兼ねたような仕組みですね、インターネットのバケツリレー的アルゴリズムも使って。風船の位置は、常に変化しますから、通信経路の制御が大変そうですけど、全ての風船の配置わかっていれば、最適な伝送経路も、刻々と計算できるわね」
  「そうです。衛星からの電波で、風船は自分の位置を常に把握しています。それを互いに連絡し合って、最適通信経路を求めています。このアルゴリズムは、ウチの浅田助教授が担当しております。ご興味があるようでしたら、直接お聞きになったらいいでしょう」
  「どうもありがとうございます。風船の仕組みのほうはよくわかりました。柳原が、ですけど。それで、海賊風船がこちらにあるとうかがいましたが……」近藤は本題に入る。
  「あ、杉山氏が寄越した奴ですね。全くとんでもないもので、安全なところに移動しました。学生が被爆したんですよ。最初、わからずに触ってしまいましたんで」
  「被爆? 放射能があるんですか?」
  「原子力電池を使っておりましてね。原子力と言いましても、原子力発電所とは全然違う、ラジオアイソトープと発電素子を組み合わせたものでして、太陽電池の太陽の代わりに放射線源を使うようなものです。この原子力電池、容量は太陽電池の数倍ありまして、風船がボロな分、大量の水素を補充しようと考えたんでしょうな、水素セルも大型のものを使っています。原子力電池を用いますと、太陽電池も、リチウム二次電池も不要になりますから、軽量化できますし、多分、コストも下がるはずです。ラジオアイソトープの値段次第ですけど。まあ、とにかく現物をお見せしましょう」
  歩き出した依田教授を追いながら、近藤が呟く。
  「ラジオアイソトープって、まさか……」
  「それって、盗まれたものじゃないんですか?」
  「そいつは極秘だ。もう少し様子を見よう」
  「だけど、風船ですよ。山を越えられるじゃないですか」
  近藤、柳原の言葉に顔色を変え、依田を追いかけながら聞く。
  「ああ、すみません、依田先生。この風船、どのくらいの重量のものを持ち上げられるんでしょうか?」
  「公称浮力は五百グラムですが、地上付近なら一キログラム位まで持ち上げられます」
  「海賊風船も同じですか?」
  「ええ、ほとんど同じでしょう。風船の大きさは、ほぼ同じで、吊り下げているユニットも、似たような重量ですから」
  近藤と柳原、早足で進む依田のあとを、息を切らせて追いながら議論する。
  「えーと、一キロ持ちあがると、あれは四百グラムだから、二千本で八百キロ、風船を八百個も飛ばしたのか?」
  「四百グラムは二重の遮蔽容器に入れたときの重さでしょ。真中の容器一重だけなら十グラムほどだと言ってましたよ。短時間なら、一重容器でも、人間に害は与えないって言ってましたわ」
  「十グラムなら、一つの風船で百の容器を持ち上げられるから、二十個か、一つ五分で飛ばすとして百分、十一日の夜でも楽々飛ばせるな」
  「トリウムだけ飛ばすってわけにもいきませんよ。でも、五百グラムの制御装置を付けても、風船四十個でいいわけですね。一つ五分で飛ばすんなら、三〜四時間ってとこかしら」
  「こいつが盗まれた奴かどうか、わからないかなあ」
  「ガンマ線のエネルギースペクトルがどうのこうのといってましたけど、あれが指紋みたいなものだったら、わかるんじゃないですか?」
  「エネルギースペクトルでは、ラジオアイソトープの種類がわかるだけだ。だけど、製造後の時間で組成が変化するとか言っていたな。スペクトルでわかるかもしれないなあ」
 
  依田教授のあとを追って、近藤たちは二つほど離れた建物に早足で向かう。その建物の入り口には、『U大学同位体研究施設』と書かれた大きな木の表札が下げられている。
  「ここで扱ってるのは、主に、放射能を持つラジオアイソトープなんですよ。でも、それを表に掲げると、いろいろと神経を逆撫でするようなこともあろうということで、『同位体』と、マイルドに表現したんですね。素人には、わからんでしょう。この施設は、他の研究室とは独立した管理下に置かれてまして、風船は、米田先生にお願いしてます」
  依田はそう言うと、関係者以外立入禁止の札に気遣う気配もなく、同位体研究施設の玄関にすたすたと入っていく。そのあとを近藤たちが追いかける。
  この建物は、比較的古く建てられたようで、壁の漆喰も黒ずんでいて薄暗い印象を受ける。しかし、整理は行き届いていて、通路に置いてあるのはゴミ箱ぐらいだ。
  玄関を入ったところで、血色の良い、丸顔の男が手を拭きながらトイレから出てくる。依田は、大げさに驚いて、その男に呼びかける。
  「米田先生! 米田先生じゃないですか。ちょうど良かった。ちょっとお時間よろしいでしょうか。こちら、海賊風船を調査頂いてます近藤さんです」
  「ああ、依田先生、いいところに来られました。お呼びしようかと思っていたんですよ。例の風船の件ですから、ちょうど良かった。近藤さん、ですね、風船の件、大問題ですから、気合を入れてご調査ください」
  「何かわかりましたか?」
  「ラジオアイソトープ、取り外しました。風船本体、持っていかれても大丈夫ですよ」
  「その、ラジオアイソトープ、どういうものだかわかりませんか? エネルギースペクトルを調べるとかしましてですね」近藤が尋ねる。
  「そんなものみないでも、百パーセントわかります。アイソトラック社製のトリウム228が十本使われています。これ、短い注射針のような形をしているんですけど、一つ一つ識別符号が打ってありまして、メーカーもわかります。トリウム228は、半減期が二年と中途半端な上、ガンマ線も強すぎて、あまり使い易いものではないんですけど、風船にはちょうどいいですね。重さの割には出力が取れますし、半減期もちょうどいい。が、全く誉められるものじゃありません。一応、遮蔽はしてありますけど、近くにいられるのは数分です。風船はいずれ寿命が尽きて落下しますけど、誰かが拾いでもしたら、放射線障害を受ける危険性が多分にあります。そもそも、この手の放射性物質は厳重に管理すべき品物で、風船に載せて飛ばすなんて無責任な使い方は許されるはずがありません。アイソトラックさんに問い合わせて、どういうところに販売したか、調べないといけません。それで、すぐに出荷を停止しないとね。アイソトラックにだって、販売先には注意する義務があったはずですよ」米田教授、言葉は丁寧だが、相当に怒っているようだ。
  米田は三人を実験室に案内する。実験室の一方の壁は分厚いガラス窓が嵌っており、マジックハンドが天井から下がっている。
  米田は三人をガラス窓の前に案内すると、中を見るように手招きする。ガラス窓の向うには、黒い破れた風船がフックにかけられて下がっており、その下に、いくつかの部品が散乱している。
  「なるべく壊さないようにしようと思ったんだけど、蓋と固定金具は外すしかないからね。トリウム228は、保安容器に入れときました」
  「米田先生にはどうもお手数をおかけ致しました。蓋はどうでも構いません。本体のほう、いただけますか?」
  「お安いご用です」
  米田はそう言うと、マジックハンドを操作してフックにかけられていた風船を手前の箱に入れ、はみ出した部分をマジックハンドで箱に押し込んで、壁のボタンを押す。鈍く機械の作動する音がして箱が手前に動き、やがて壁のこちら側に箱がせり出してくる。
  依田は箱に手を入れて風船を引き出す。それを近藤たちに見せて言う。
  「これが海賊風船です。なんでも、漁船のマストに引っかかったものを、船主がバルネット社のほうに届けてくれたそうです。海賊風船は、御覧の通り、バルネット社の風船に比べると、相当にレベルが下です。風船の素材は、メタルレイヤが入っていませんので、ガスバリア性も低いし、耐候性も相当に劣ります。この黒い色はカーボンでして、こうすると、耐候性が多少良くなるんですが、メタルレイヤほどの寿命は期待できません。まあ、一年の寿命と、私どもは見積もっております。そうそう、組み立ては接着剤を使っておりまして、これも、溶着に比べると、持ちも悪いし、ガスも抜けます。その分、原子力電池でパワーを稼いで、大量の水素を補充しているんですね」依田は得意そうに解説する。
  「その原子力電池だけど、全く、非常識極まりない。風船に付けて飛ばすなんて、許されるわけがない。落ちた風船を子どもが拾いでもしたら、どうなると思ってるんだ。知らないで分解などしたら、重度の放射線障害を受けますよ。なにしろ、トリウム228ですからね。放射性物質の管理に関わるルールを、この連中は完全に無視している。それにこいつら、ネットワークの不正使用もしてるそうだから、完全に、警察沙汰ですね。私が通報したっていいですよ」米田は再び怒り出し、今にも警察に電話しそうな勢いだ。
  「ちょっと待ってください。バルネット社のほうにも事情があるようで、秘密裏の捜査を近藤さんにお願いしたと聞いてます」依田は困惑気味だ。
  「しかし事故が起こっては遅い。少なくともアイソトラックには教えないとまずいし、事情を聞いておくべきだよ」
  「私、アイソトラック社の担当者を存じ上げておりますので、ちょっと問い合わせてみましょうか?」
  近藤の提案に、依田、米田の両教授は賛成する。
  アイソトラック社の仲根は、すぐに近藤の電話に出る。
  近藤が事情を話し、刻印番号を伝えると、仲根は言葉を失う。しかしすぐに気を取り直して近藤に頼む。
  「最初に私どもにご連絡いただきましたご配慮、痛み入ります。モノが外部に出たということになりますと、当局に届け出でをして、警察の捜査に委ねる必要があると、私どもも思います。しかし、これまでの経緯もございますので、関係者協議の上、整理した形で届け出でさせていただけないかと考えておるのですが、どうでございましょうか。もしまだお時間がよろしいようでしたら、ただちに私どもがそちらにおうかがい致しますので、ご相談させていただけませんでしょうか。三時間ほどで行けると思いますが……」
  近藤、仲根の申し出でをふたりの教授に伝えると、ふたりとも、仲根を待とうと言う。現在午後四時半を過ぎたところであり、仲根たちが到着するのは八時近くになりそうだ。
  「杉山氏も呼んでおこう」依田はそう言うと、別の電話に向かう。
  「仲根さん、こちらOKしていただけました。警察は二十四時間受け付けておりますんで、届け出でに必要な資料などもお持ちいただけると助かりますが。ええ、U大の十二号館、一二二五室でお待ちしております」近藤は仲根にそう伝えると電話を切る。
  「さて、今日は遅くなりそうですんで、アイソトラックのかたがみえられる前に、飯を食っときませんか」依田はのんびりと言う。「海の見える、いいイタリアンレストランがあるんですよ」
  「依田さん、勘定のほうは私にお任せください。調査費用としてバルネットさんにご請求致しますから。米田先生もご一緒にいかがですか?」
  「いいねえ。しかしまだ五時前じゃないか。アイソトラックさんは三時間かるとか言ってたから、小一時間もしてから出かけたらいいんじゃないかな」そう、米田は提案する。
  「ああ、確かにそうですなあ。それでは六時にお迎えに上がります」
  「その前に、海賊風船の中身をちょっと調べておきましょう」
  依田は海賊風船を小脇に抱えると、自分の実験室に戻る。
 
  実験室に戻った依田教授は、手近な実験台の空きスペースに海賊風船を置き,機械部分を注意深く分解し始める。柳原は、依田の向かい側に座り、分解される装置を興味深げに眺めている。
  手持無沙汰な近藤は、ぶらぶらと、実験室の様々な機器を見て歩く。実験室はL字型をしており、入り口から見えない奥のほうは会議テーブルが置かれている。窓にはブラインドが下り、照明はこの部分だけ消されて、液晶プロジェクタで学生風の男が説明している。スクリーンの真ん前に、一人の小太りの男が座り、学生の説明に対して、評論を加えている。
  白いブレザーを着て、髪をきっちり左右に分けた、三十代の中頃と思しきおしゃれな風体のその男は、近藤の姿を見て尋ねる。
  「えー、どちら様でしょうか」
  「近藤と申します。このたび、海賊風船の調査を依頼されまして……」
  「ああ、それはご苦労様です。私は依田先生の元で、助教授をしております、浅田、と申します」
  「これは初めまして。勝手に覗いて失礼を致しました。どうぞ、学生さんのご指導をお続けください」
  「ああ、いや、もう終りですから」浅田は、そう言うと、学生に短く言う。「というわけだから、さっき注意したこと、明日までに検討しておいて」
  「なんかお邪魔をしたようで、申し訳ありませんなあ」近藤、学生と浅田に謝ると、浅田に向かって尋ねる。「やはり風船がご専門ですか?」
  「風船のほうは、依田教授が担当しておりまして、私は制御システムとネットワークの管理のほうを担当しています」
  「依田先生と、同位体研究施設の米田教授をお食事にお誘いしているのですが、ご一緒にいかがですか?」
  「私は弁当を持ってきてます……が、これは夜食ということにして、お付合い致しましょう」
  浅田は、実験室を横切り、海賊風船を分解している依田に近寄って言う。
  「放射能、除去できましたか。中身はどうですか?」
  「通信制御装置は、浅田先生がみてください。その他のところでは、風船はボロ、水素セルは三倍くらいの大きさだ。よくわからないのがこいつ、リチウム二次電池の代わりに入っているんだが、液体の入ったタンクと、ピストンとノズルが配管で繋がっている。水鉄砲みたいだ」
  「我々の風船を攻撃する装置でしょうかね」浅田は、笑い顔で言う。「その液体を我々の風船にかけてみたらどうですか。ただの水ならなにも起こらないはずですが」
  依田は、近くの実験台に置いてあった風船を海賊風船の近くに置き、海賊風船のノズルを向けると、ピストンを手で押して、液体を噴射させる。風船に付いた液体は下方に垂れ、しばらくは何事もないようにみえたが、やがて風船表面の樹脂シートの液滴の付いた部分に皺が寄り、小さな穴が開いたかと思うと、その穴が急速に広がり、風船は萎んでしまう。
  「水じゃあないね、これは。明日にも分析させよう」依田は驚いた素振りをして言う。「危ないから、この液には触らないでください」
  「これは、攻撃装置に間違いありませんなあ。本物の海賊だ」近藤は感心したように言う。
  「いや、海賊というのはですね、権利者に無断で出版する本やレコードを『海賊版』というじゃないですか。それに倣って、通信会社に無断で通信回線を使う行為をそう呼んでまして、最初からこの風船は海賊なんです」浅田は諭すように言う。
  「ああ、そういうことでしたか。それで、どの風船が海賊か、調べることはできませんか?」
  「色が黒いから、見ればすぐにわかる。風船のカメラでもわかりますね」依田は言う。
  「いま、幾つぐらいの海賊風船が飛んでいて、そいつらがどこにいるのかわかりませんでしょうか。特に、新しい海賊風船が加わったときに、それがどこから飛ばされたものかがわかれば、犯人を捕まえる有力な情報になると思うんですが」
  「風船の位置は全て押さえています。だけどあんた、バルネット社が幾つ風船を飛ばしているかご存知ですか。百万個以上ですよ。それのどれが海賊で、どれが正規のものかを判断するのは、これは至難の業です」依田は当惑気味に応える。
  そのとき横から柳原が口を出す。
  「その制御は、全部計算機でやっているんですよね。だったら、プログラムを組んで、自動的に調べるようにすればいいじゃないですか。色をチェックするのは大変かもしれないけど、他にも、見分ける方法があるんじゃないですか? 診断コマンドみたいな」
  浅田、柳原をしげしげと眺めて言う。
  「いや、これは驚きました。なかなか切れるかただ。そう、診断コマンド、確かにあります。どうすれば海賊を見分けられるかは、ちょっと考えてみなくちゃなりませんが、何か方法はあるでしょうね。うーん……」
  「あ、そろそろ六時ですから、お食事をしながら議論致しませんか?」
  近藤の提案に、反対する者はいない。
 
   依田教授の推薦するイタリアンレストランは、海に面した崖の上に建つ。駐車場には、バルネット社の杉山が待ち構えており、依田教授と近藤に挨拶する。
  店内はそれほど混んではおらず、店員が急遽こしらえた八人席に、依田、米田、浅田、杉山、近藤、柳原の六人が座る。
  席に座るや否や、柳原は向かい側に座った浅田助教授に言う。
  「風船は、コマンドを送って、高度をコントロールできるんですよね。だったら、海賊風船がどれだかわかったら、コマンドを送って適当なところに着陸させて、回収してしまったらいいじゃないですか」
  「そりゃそうだ。しかし、回収しようとしたら、逃げ出すんじゃないだろうか」近藤は懐疑的だ。「海賊の風船が、そうそう素直にいうことを聞くとも思えんなあ。あ、皆さん、このBコースでよろしいでしょうか。ワインのお奨めはありますか?」
  「Bはいい選択です。ワインはハウスワインの白がなかなかよろしいようで」依田が応える。
  「いや、そこまでの高度な判断は、風船には無理だと思うよ」浅田が近藤の危惧を否定すると、依田は、ワインの選択に異を唱えられたかと、びくっとする。「柳原さんは、私の助手にいただきたいなあ」
  「よしてくださいよ。彼女はウチの優秀な調査員です」近藤は、浅田にそう言うと、ウエイトレスに向かって言う。「それじゃあBを六つ、白のハウスワインを大きなデカンターで」
  「診断コマンドで使えそうなものはありますか?」柳原は、浅田と近藤とウエイトレスの、三つ巴のやり取りを無視して尋ねる。
  「海賊風船の構造は、我々のものとそっくりだ。多分、我々の風船をどこかで手に入れて、解析したんだね。だから、大抵の診断コマンドにも、本物そっくりの応答をするはずだよ。しかし、二つだけ、我々の風船に付いていて、海賊風船には付いていないものがある」
  「それは何ですか?」柳原、目を輝かせて浅田に尋ねる。
  「太陽電池とリチウム二次電池」依田が横から応える。「えーと、乾杯を致しましょうか。よろしいですか。それじゃあ海賊退治を期して、乾杯!」
  「そう。だから、診断コマンドで太陽電池の状況を問い合わせればわかるはずだね」浅田は、依田の音頭にワイングラスを差し上げながら、柳原に応える。
  「でも、それらしい応答だってできるんじゃないですか。だって、近くの風船にも聞くわけですよね。その応答は海賊風船にも伝わってしまいますから、自分が聞かれたときも、同じように応答すればいいわけで……」
  「そこまでの高度な機能は、多分、ないと思うよ。海賊風船が地上からコントロールされているなら、それも可能だけど、そのためには別の通信路を準備しないといけない。風船経由で制御しようとすれば、我々に傍受されてしまう。だから、海賊風船は、自分自身で我々の攻撃に対処せざるを得ない。限られたROMの中でね」
  「そうすると、どうすればいいのでしょうか?」近藤は結論が聞きたい。
  「ここのシェフ、イタリアで修行したんだそうですよ」依田は近藤に言う。「このオードブルも、なかなか洒落てますでしょ」
  「まったくですなあ」近藤は応える。(えーと、何の話だったっけ?)
  「柳原さん、お答えをどうぞ」浅田、学生を指導するように言う。
  「太陽電池の発電量」柳原、口をナプキンで拭いて、浅田の出した問題に答える。「全ての風船に問い合わせて、おかしい発電量を返してきたのが海賊風船ですね。これを何回か繰返せば、海賊はことごとく把握することができます」
  「なぜ一回じゃあいけないんでしょうか?」杉山が尋ねる。
  「一回だと、たまたま正しい発電量を報告するかもしれないからです」
  「正解です」浅田は言う。「海賊風船には、リチウム二次電池も積んでいないんですが、その状態は、こちらで予測することができませんからね。太陽電池なら、風船上空の雲の状態などから、正常な風船が返すであろう応答を我々は予測することができます。海賊風船には下向きのカメラしかありませんから、雲が上にあると、正しい応答はできません。快晴なら、時刻と現在位置から、それらしい応答ができるんですけどね。太陽光が雲にさえぎられているのに、快晴時の発電量を応答してくるのが、多分、海賊風船でしょう。海賊発見プログラム、大学に帰ったら、早速作りましょう。柳原さん、手伝ってくれますね」
  「もちろんです」
  「近藤さん、柳原さんをお借りして、よろしいですね」浅田は近藤の了承を求める。
  「海賊風船問題を解決することを、我々、依頼されておりますからなあ」近藤には、反対する理由が見出せない。「この目的でしたら、柳原をご自由に使っていただいて構いません」
  「それで、どれが海賊風船か判明したら、ガス放出コマンドを送って、墜落させてしまうんですな」杉山は、スパゲッティをフォークに巻きつけながら言う。
  「いや、トリウム228は、全て回収しないといけませんから、このあたりまで持ってきて、我々の近くに着陸させる必要があります」米田は、マッシュルームの刺さったフォークを立てて、心配そうに言う。「そんな器用なことができるかどうか……」
  「いやあ、風船の制御は、かなり精密にできますよ」依田は嬉しそうに言う。「そのあたりのことは、私にお任せください。浅田さんにプログラムを一つ書いていただきましょう」
  「もう一つ、犯人を捕まえるということもお忘れにならないようお願いします」近藤は念を押す。「これには、海賊風船の放出点を押さえることが肝要かと思います。放出点には、犯人がいるはずですからな」
  「でも、放出点では、海賊風船は送信機能を殺しているんじゃないかしら」柳原は三つ目のパンを取りながら言う。「変な液体を噴射して、バルネットの風船を墜落させたあとで、その風船になりすますんですよね」
  「連中が用心深ければ、地球を何周もしてから、乗っ取りを始めるだろうね」浅田は上を向いて言う。「しかし、せっかちな奴なら、放出後ただちに乗っ取りを始めるはずで、乗っ取り地点の分布から放出点がわかるよ」
  「ああ、拡散状態を調べればいいんですね」柳原、浅田に尊敬の眼差を向けて言う。
  「拡散? なんだそりゃあ?」近藤には、柳原と浅田の会話が理解できていない。
  「つまり、放出点から離れるに従って、風船はランダムに広がっていきますから、乗っ取りが行われた位置を地図に書くと、扇形にこう、広がった図形が書かれるはずです。それで、扇の釘が打ってあるところが放出点です」
  「『扇の要』、一点減点だよ」浅田は、にこにこしながら柳原に言う。
 
  やがてコーヒーが配られる頃、近藤と依田は連れ立ってテラスに出て、煙草に火を着ける。
  「なかなか優秀な調査員ですな」と依田。「ウチでドクターでも取らせたらどうですか?」
  「ええ、計算機に関しては、超一流です。だけど彼女、大学も中退なんですよ」
  「なに、卒業は必須じゃありません。『同等の学力を有すると本学が認める者』ならOKです。学力を判定するのは私ですから、何も問題ありません」
  依田の言葉に、近藤の心中は穏やかではない。
  先ほどからの様子をみる限り、柳原は浅田助教授に心を引かれているようだし、浅田助教授も柳原を大いに気に入っている様子だ。柳原の業務成績は、それほど優秀というわけでもないが、アイソトラック社という金払いの良い顧客を捕まえて、これから稼ごうというときに辞められるのは非常に困る。
  近藤は、渋い顔をして、テラスの角にある灰皿に煙草を捨てる。
  テラスはL字型をしており、奥のほうにはいくつかのテーブルがあって、蝋燭の明かりを頼りに食事をしている客が見える。その一人が、立ち上がり、近藤に向かって叫ぶ。
  「先生じゃありませんか。こんなところにおられましたか」
  暗くて顔はよく見えないが、その声は仲根だ。
  「いやあ、お時間がかかるといわれましたので、バルネット社の関係者と飯を食っておりました」
  「バルネット社のかたもおいででしたか。それは、是非ご挨拶させてください」
  仲根と食事をしていたもう一人の客も近藤に近付いて頭を下げる。山崎だ。
  「たびたびご迷惑をおかけして申し訳ありません」山崎は神妙に言う。
  近藤は、店内に仲根と山崎を案内し、依田教授らにふたりを紹介する。
  名刺交換ののち、議論は大学でと、全員が店を出る。席を立つとき、近藤が伝票を取ろうとすると、仲根がそれを制して言う。
  「これは私どもが」
  「いや、こちらでご馳走するということで来ましたんで」
  「いやいや、今回の経費は全て私どもにご請求ください」
  「そう言われましても、この仕事、バルネットさんから請負っておりまして」
  「私どもからも、改めて調査をご依頼致します。本日朝からで結構ですから。コンドーさんは、本件、両社の問題を解決されるわけですから、両方にご請求されればいいじゃありませんか。領収書は適当に分けて。バルネットさんにもご迷惑にはならないと思いますよ」
  「そりゃあ、確かにそうですが……。それではお言葉に甘えて、そうさせていただきますか」
  近藤、こうなることを薄々予感してはいたものの、現実にその通りことが進んで、内心、大喜びだ。
 
   大学に戻った八人は、実験室の奥の会議室に集まる。
  近藤は、仲根と杉山の了解を得て、アイソレークの盗難事件と、バルネット社の海賊風船事件に付いて、あらましを報告する。
  「私ども、当局への届出もやむなしということで、トップの決済もいただいておりますが、どう致しましょうか」仲根は杉山に尋ねる。
  「海賊風船に関しましては、バルネット社の信用にも関わりますので、極秘に処理せよというのがボードの命令です」杉山は言う。「しかし、放射性物質が使われていて、市民に被害が発生する可能性があるということになりますと、当局に届け出でをしないわけにもいかんでしょうなあ。本件、早急にボードの決済を求めますから、近藤さんの先ほどのお話、至急、報告書にまとめていただけませんでしょうか」
  「わかりました。今晩中に作製致します」
  「その報告書、私どもにもいただけませんでしょうか」仲根が言う。「ウチの上層部も、トリウム228の行方に関しましては、非常な関心を持っておりまして」
  「そりゃあ当然でしょうなあ。本件、両社協力して取り進めませんか? つまり、アイソトラック社とバルネット社で情報は共有する、外部への発表や当局への届け出では双方合意のもと、ということに致しませんか」と、杉山が提案する。
  「そうしていただけると、私どもも非常に助かります」仲根は、ほっとしたように言う。
  「えー、政治的なお話しは、そんなところでよろしいでしょうか」依田が言う。「我々の最大の使命は、海賊退治ですから。浅田先生、案をご説明いただけませんか」
  「柳原君、君から説明して」
  浅田は、柳原を助手として使うことについての近藤の了承を先ほどのレストランで得た、と認識している。
  近藤は、そんな浅田の態度を苦々しく見ている。
  柳原は、嬉々として説明する。
  「えー、まずどの風船が海賊であるかを識別します。これには、診断(ダイアグ)コマンドを用いて、太陽電池の状態をチェックします。海賊風船には、太陽電池は積まれていませんので、そこから帰ってくる情報は、ある確率で異常を示します。これを数回繰返すことで、全ての海賊風船の識別コードと、位置を把握します」
  「プログラムは今晩中に作ります」浅田が補足する。「全ての風船をチェックするには十時間以上かかると予想してます。夜の時間帯、太陽電池の出力はありませんので、海賊風船に発電量ゼロを返されたら、判別できませんから。先、お願い」
  「風船は、ガスの量を調整することで高度を変更する機能がありまして、高さ方向の風向きの違いを利用して、移動方向も、ある程度コントロールすることができます。この運動機能を利用して、海賊風船を、この近くに着陸させ、回収します。このコントロールは依田先生にやっていただく、ということでいいんですね?」
  「お任せください」依田は嬉しそうに言う。「浅田さんには、風船の軌道制御プログラムを少し改造していただきたいと思いますが」
  「それ、柳原さんのご協力がいただければ、今晩中になんとかします」
  「三番目の問題は、犯人を捕まえること、そのために、海賊風船の放出地点を押さえる必要があります。これには、海賊風船の識別を常時行って、新しい海賊風船が最初に確認される地点を把握します。海賊風船は、放出後しばらくの間は鳴りをひそめ、正規の風船を攻撃して機能を停止させたのちに、これになりすますものと思われます。従って、海賊風船が最初に確認される地点は、放出場所から離れたところにあると考えられます。しかし、放出場所が一点であっても、距離を離れるにしたがって、風船は拡散しますから、海賊風船の最初の確認地点は扇形に分布すると予想されます。その扇の要に相当する地点が、すなわち、放出点となります」
  浅田、立ちあがって拍手をする。
  「完璧。満点の解答です」
  「今のお話も、レポートに入れておいてください」仲根、近藤に依頼する。
  「ウチにも同じモノを」杉山も依頼する。「これで、ウチのボードも一安心だ。問題を報告するときには、解決策(ソリューション)も同時に示せと言われておりましてね」
  「かしこまりました。報告書は今晩中に作成し、明朝にはお届け致します。しかし、せっかくお喜びのところ申し訳ありませんが、これで問題が解決されるという保証はございませんので、その点お含みおきください」近藤、言い難そうに言う。「放出地点の確認には、風船の数、活動開始までの休眠期間など、いろいろと条件がございますし、放出地点を確認致しましても、犯人を捕らえて盗品を回収するには相当な困難が予想されます。おそらく、明日にも、当局には届出が必要でしょうなあ」
  「止むを得ませんなあ」杉山も、仲根も、届出に関しては、既に覚悟ができている。
  「ところで、海賊風船はいつ頃から出没するようになったんですか?」近藤が杉山に尋ねる。「トリウムが奪われたのが四月十一日の夜ですが、それ以後でしょうか、海賊が現れたのは」
  「課金データの異常が発見されたのが十六日の朝ですが、海賊風船は十五日の昼頃から活動していたようです」杉山が答える。「十六日の夕刻には、海賊風船の現物も入手しました。漁船のマストに引っかかったのを、船主さんが私どもに届けてくださったものです。十七日に対策会議が開かれまして、近藤さんに調査をお願いしたのが本日十八日というわけです。今月十四日以前に海賊風船が活動していた様子はありません。もちろん、それ以前でも、海賊風船が飛んでいた可能性はありますよ。風船の存在は、電波を発射しなければわかりませんので」
  「最初の放出は、遅くても十五日の午前、ということですな」
  「漁船のマストに引っかかったのが十五日の正午頃といいますから、そうなりますね」杉山が応える。「放出直後の風船は低空を飛行しておりますから、いろいろなものに引っかかり易いんです」
  「風船の組み立ては十二日の朝から十五日の朝にかけてということになりますね」山崎が言う。「三日で、風船の組み立ては可能なもんでしょうか?」
  「予め組み立てておいた風船にトリウム228を入れるだけなら、数分で作業は終ります。風船を膨らますにも五分とかかりませんから、三日は、長すぎるぐらいです」
  「海賊風船の数はわかりませんでしょうか」近藤はもう一つ質問する。「最初に確認されてから、数は変化しておるものでしょうか」
  「正確な数はわかりませんが、通信量と被害発生場所から考えて、一つということはありませんね。数十個ではないでしょうか」杉山が答える。「増減につきましても、正確なところはわかりませんが、不正な通信量は、十五日に一気に増えて、そのあとはランダムに増減しておりますんで、十五日の朝、五十前後の海賊風船が一気に放出された可能性が高いと考えております」
  「盗まれたRIは二千本ですから、一つに十本使うとして、海賊風船の総数は二百ということになります」山崎が言う。「そうしますと、あと三回ほど、このタイプの海賊風船放出が行われることになりますね。放出現場を押さえるチャンスも、あと三回あるということだ」
  「まあ、警察に届け出れば、吉田の交友関係などからも捜査が進むでしょうから、そちらで解決する可能性も大であると思いますよ」近藤は皆を安心させるように言う。
  「風船はいずれ寿命がきますから、地上に落ちることもある。知らない人が触ると大変危険です」米田が指摘する。「ここはきちんと広報して、落ちた風船には手を触れずに届け出るように、徹底するべきでしょう」
  「いくらボロい海賊風船といえども、まだ墜落はしないでしょう」依田は言う。
  「しかし、ここに一つあるということは、墜落した海賊風船が、少なくとも一つはあったということですな」近藤が指摘する。
  「海賊風船の追跡は、危険防止の観点からも、至急、始めないといけませんね」浅田は言う。「万が一、海賊風船の墜落が確認された場合は、現場に飛んでいって、回収しないといけませんね。世界のどこに落ちるかわかりませんから、かなり費用がかかりますよ。簡単に行けるところばかりじゃありませんからね」
  「これにつきましては、我々が責任を持って回収致します」仲根は言う。「探索チームは既にアイソレークで活動しておりますから、これをその任務に回します」
  「しかし、海賊どもも、余計なことをしてくれますな。風船通信全体の信用にも関わりますから、よほど注意して対処せにゃあなりません」依田は思案顔で言う。
 
  近藤と仲根は、U大十二号館のソファーでウイスキーを飲んでいる。
  近藤は、依頼された報告書を一時間ほどで書き上げてしまい、仲根も、電話をいくつかかけて種々の手配を終えてしまったあとはすることがない。浅田と柳原は、実験室で海賊風船を探し出すプログラム作りに懸命で、こちらはまだ当分かかりそうである。
  帰るわけにもいかず、うろうろしている近藤たちを見て、依田は、教授室からウイスキーがたっぷりと残ったボトルと、氷とグラスを持ち出してきた。手持ち無沙汰の近藤と仲根は、依田に奨められるままに、水割りをちびちびと飲んでいる。
  米田と杉山は、既に帰宅している。山崎は、米田から受け取ったトリウム228を分析するため、アイソレークに持ち帰っている。依田は、アタリメを焼くといって、教授室に篭っている。
  近藤と仲根は、ぽつりぽつりと話をしている。
  「週末にもお仕事をさせてしまいまして、申し訳ありません」仲根は近藤に謝る。今日は金曜日だ。
  「いやあ、我々の仕事に曜日は関係ありません」
  「それにしても、依田先生のお部屋は、一体どうなっているんでしょうね」
  「私が来たときも、中に入れては貰えませんでしたなあ。まあ、スナックの台所みたいな機能は、当然あるはずですなあ」
  「こうしてご馳走になっているわけですから、悪くも言えませんが……」
  その後、アタリメを持ってきた依田が加わり、一しきり場は盛り上るが、近藤と仲根は睡魔に襲われソファーに寝込んでしまう。
 
   「おはようございまーす」柳原の声に近藤は目を覚ます。
   近藤は、一瞬、どこで寝ていたか思い出せずあたりを見まわす。U大十二号館の廊下に置かれたソファーである。外の明るさに驚いて時計を見ると、もう九時に近い。隣のソファーで休んでいた仲根も目を覚ましたようだ。
   「どうなった」近藤は、ここで寝るに至った事情を思い出して、柳原に尋ねる。
  「海賊の位置、大体掴めました。会議室のディスプレーに出してあります。これまでに確認されたのは全部で三十九個、先ほどから依田先生が強制着陸をさせようと、準備を進めています」
  近藤と仲根は実験室奥の会議コーナーに向かう。スクリーンには世界地図が投影され、赤い点がぱらぱらと表示されている。
  「ああ、おはようございます」浅田があくびを殺しながら近藤たちに挨拶する。「私、そろそろ寝ますんで、あとはよろしくお願いします。柳原君、君はどうするね。今日は土曜日、大学は定休日だよ」
  「私はまだ大丈夫ですから」柳原はそう言うと、近藤たちに説明を始める。
  「この地図、ダブルクリックすると拡大します。今、依田先生がコントロールしようとしているのが、このあたりの……」
  柳原が日本上空の赤い点をダブルクリックすると、そのたびに地図の倍率が下がり、細かい地形が見えてくる。
  「えーと、風船は、大体東に向かって地球を回っているんですけど、昨日の深夜から、海賊風船を、ちょうどこの真上を通る軌道に乗せるように制御しています。だから、この赤い点、大体、一列に並んでますでしょ。依田先生がやっているのは、これを更に精密に制御して、この大学の真上を通る軌道に乗せることと、この先の海岸に着陸させることです」
  「依田先生にお話をうかがうわけにはいかないかな?」
  近藤の希望はあっさり否定される。
  「依田先生の教授室には、なんびとたりといえども、立ち入ることは許されていません」浅田が言う。「だけど、このスクリーンに先生の制御画面を呼び出すことはできますよ。柳原君、お願い」
  柳原がキーを操作すると、更に詳細な地図が示され、その上に数本の白い曲線が描かれ、、刻々と変化している。
  「これは、海賊風船の予想軌道です。大体、この先の海岸で交わっているでしょ。この小さい数字が予定着陸時刻。最初のは、もう一時間もすると着陸しますね」
  「それは大変だ。回収の準備をしましょう」仲根が言う
  「準備?」
  「放射線防護服と遮蔽ケースが要ります。まあ、十分以内なら接近できるということでしたから、防護服なしでも、なんとかできると思いますけど、規定上そうなっておりまして、今回は、間違いなく立入検査が入りますから、規定通りの手順でやらなければいけません。海に落ちた場合に備え、ボートの準備もしておいたほうがいい」
  「そういうもんでしたら、米田先生んところにありますよ。先生、もうそろそろ来られる頃だから、お願いにいったらいいんじゃないでしょうか。さて、プログラムは全て柳原さんがご存知です。私はそろそろ休ませていただきますんで、あとは柳原さんにお願いします」浅田、そう言い残して、自宅に引き上げていく。
 
   U大から浜辺までは大した距離ではないが、荷物もあることから、近藤は車を使って移動することにする。
  仲根は車から降りると、米田から渡された放射線防護服を着込む。仲根は経験があるとのことで、馴れた手つきで防護服を着ける。米田が、それをチェックして、OKを出す。車に積んだトランシーバーから依田の声が響く。
  「もう十分ほどで、第一号が到着します。西側から接近しますので、目視観測をお願いします」
  「了解です」米田がマイクに叫ぶ。
  「回収エリアに到達したらお知らせください。ガスを一気に抜きます」
  米田は双眼鏡で西の空を見上げる。風船はみつからない。
  「第一号の現在位置はどの辺ですか?」米田、トランシーバを操作して、依田に尋ねる。
  「高度三百メートル、距離は一千、真西です」
  「どこだ?」米田はまだきょろきょろしている。
  「高度二百に下がりました。距離は七百。そろそろ見えないとおかしい」スピーカーから依田の割れた声が響く。
  「あ、あれかな? あ、あれです。見えました見えました」米田、マイクに向かって叫ぶ。「まっすぐこちらに向かっています。もう少し高度下げても大丈夫です」
  「高度百五十、距離五百」
  「もう邪魔物はありません。高度五十もあれば充分です」
  「ガスをもう一段抜きます。高度が急速に下がると思いますので注意していてください」
  「了解……。ああ、下がり始めました、どんどん下がりますけど、大丈夫ですか?」
  「大丈夫。砂浜の上空三十メートルほどを通過するはずだ。砂浜に入ったら、ガスを全部抜くから、連絡願います。現在、距離二百、高度七十」
  風船のコースは、近藤たちの位置から数十メートル北に寄ったところに向かっている。防護服を着た仲根、風船の通過地点に必死に走る。米田、双眼鏡で上を見ながらマイクに向かう。
  「あと百メートルほどで砂浜……あと三十……入りました!」
  「ガス、全量放出!」トランシーバーから流れる依田の声が終らないうちに、風船は急速に高度を下げ、砂浜のほぼ中央に落下する。
  「タッチダウン!」依田の叫び声がトランシーバーから聞こえる。
  落下地点の近くまでたどり着いた仲根、竿の先に風船を絡めると、それを高く持ち上げて、近藤たちのほうに戻る。
  「大丈夫ですか?」近藤、腰が引けている。
  米田は、ガイガーカウンターのスイッチを入れ、近藤に渡す。
  「これが、ガーガー鳴ったら逃げましょう。多分大丈夫だと思いますが」
  米田は、車のトランクから遮蔽容器を一つ取り出し、仲根と近藤との中間地点までそれを運ぶと、蓋を開けて、砂の上に置く。
  「仲根さーん、これに入れて蓋を閉めてください」
  仲根は、風船から円筒形の本体を切り離すと、遮蔽容器にそれを入れ、蓋を閉める。
  米田、仲根にOKのサインを送ると、トランシーバーに向かう。
  「依田さん、一号の回収、完了しました」
  「二号も接近中、高度百七十、距離三百。コースは先ほどと同じ。急速低下を試みますので、目視観測をお願いします」
  米田は慌てて双眼鏡を掴み、上空を見上げる。二つ目の風船はすぐ傍まで来ている。仲根は再び予想落下地点に向かって走り出す。
 
  二つ目の風船を回収したところで、全員車の傍に集まる。次の風船の飛来までは、あと一時間ほどあるとの依田の言葉を聞き、仲根も防護服を脱ぐ。
  「いやー、これ、ずっとやっているわけにもいきませんから、作業体制を考えませんか」仲根、汗を拭きながら言う。「とにかく、アイソレークに待機している回収チームを、ここに呼ぼう」
  「回収した風船も、安全なところに持っていきませんと」と米田が言う。「チャンバーの中で、RIを遮蔽容器に移さなくては……」
  「一旦、U大に引き上げて、今後の体制を議論致しませんか」
  近藤の提案にみな賛成し、車に乗り込む。
 
  風船の機械部を隔離室に持っていった米田と別れ、後部座席で熟睡している柳原を車に残し、仲根と近藤は実験室に戻り、打ち合わせコーナーの椅子に座る。ディスプレーには、次に飛来する風船の軌道が表示されている。依田教授の言葉通り、もう一時間少々で到着する予定だ。
  依田も教授室から出て、にこにこしながら打ち合わせコーナーに来る。
  近藤は提案する。
  「えー、先生がたのご努力のおかげで、風船二つは無事回収致しました。あと三十七の風船を回収する必要があるわけですが、まだ相当に時間がかかりそうでございますので、作業体制を固めるのが良いと考えるのですが、どうでしょうか」
  「回収チームは、アイソレークから二チーム寄越すよう、依頼致しました」仲根が報告する。「三時間ほどで到着するはずですので、今日の午後からは、彼等に回収作業を任せることができます。防護服や遮蔽ケース等の必要な機材も持ってきますので、米田先生にこれ以上のご迷惑をおかけすることもなくなります」
  「私は、次の風船を処理したら寝かせていただきます」依田は言う。「そのあとの処理は、学生に引き継ぎます。風船のコースは二十四時間体制で制御しないといけませんので、私が夜を担当して、昼間は学生にやらせようと思います。浅田先生に、もう少し精密なプログラムを書いていただければ、夜の作業は不要になるんですけど。えー、それから、学生はアルバイトということでよろしいかな」
  「もちろん構いません。調査費用に付けておきます。それで、全部回収するには、あとどのくらいかかるでしょうか?」近藤が尋ねる。
  「今日ここを通過するのは、あと四つ、二つが一時間後にほぼ同時に到着します。もう二つは、午後三時ごろと四時ごろに通過します。このあとも、大体一日数個の回収となりまして、ミスがなければ、一週間ほどで全部回収できるはずです」
  「ミスというのは?」近藤が尋ねる。
  「風船の制御に失敗して、ここの上空を通る軌道から外してしまう可能性があります。そうすると、もう一周、風船が地球を回ってくる間、待つ必要が生じます。まあ、一週間も待っていれば充分ですな。風は、こちらの思ったように吹いてくれないこともありますんで、全部うまくコントロールできるか自信がないんですよ」
  「午後の二つで、アイソレークの回収部隊のトレーニングができるな」仲根が言う。
  「午後の部は、風船の制御を学生に任せます」依田は眠そうに言う。「次の回収のときに、実習させますけど、腕が少々落ちますので、海に落ちるかもしれない。ボートの準備も、しておいたほうがいいでしょう」
  「回収部隊にはゴムボートも持ってくるよう言っておきました」
 
  十一時半、三号、四号の海賊風船が、ほぼ並んで入ってくる。U大に引き上げた米田に代わり、近藤が連絡と双眼鏡による監視役を担当する。仲根は、防護服を着て、先ほどと同じように回収にあたる。一つの風船は、無事砂浜で回収できたが、もう一つは波打ち際から少し海に入ったところに落下する。仲根は、防護服のまま、ざばざばと海に入り、双方の風船を無事に回収する。先ほどの経験もあり、仲根は慣れた手つきで風船の機械部分を遮蔽容器に格納する。
  回収作業も無事終り、近藤と仲根が後片付けをしているとき、山崎率いる回収チームが海岸に到着する。一行は、ジープ三台、乗用車一台、ほろ付きトラック一台、小型のバス一台からなる大部隊だ。
  乗用車から、山崎が降り、防護服を脱いで汗を拭いている仲根に近付いて言う。
  「どうも済みません。こんなことまでさせてしまって」
  「四個回収した。いい仕事をしてるだろ」仲根は愉快そうに山崎に言う。「あとは、午後の三時と四時ごろに来るっていうから、そっちは回収部隊に任せよう。それまでに、段取りを打ち合わせないといけないな」
  山崎と仲根が話している間に、回収部隊のメンバーが仲根の前に二列横隊に整列する。山崎は、直立不動の姿勢をとると、敬礼して仲根に報告する。
  「第一、第二回収チーム各五名、、水中部隊五名、現地司令部付き三名、全十八名揃いました」
  「ご苦労。各班長と司令部付き、それと山崎は私に同行、その他は解散」そう命令すると、仲根は近藤に向かって言う。「さて、依田先生のところに行って、今後の段取りを打ち合わせ致しましょう」
  「了解しました」近藤は、山崎たちの雰囲気に押されてそう言うと、トランシーバーに向かう。「依田先生、こちら回収作業終了しました。応援部隊も到着しましたので、これからそちらにうかがいます」
  「ご苦労様。次の風船到着予定時刻は午後三時と四時で、変更はありません」
  近藤、空を見上げて呟く。
  「ちょっと風が出てきたな」
  山崎は仲根に近づき小声で言う。
  「弁護士のかたも同行しています。届け出でのほう、どう致しますか?」
  「杉山氏と私とで今日の午後、届け出ることにしているけど。午後一時に依田先生のところで落ち合って、最終的に話をすり合わせることに……」
  「それじゃあ、先生にはお食事でもしておいていただきましょう。」
  「私も先生におつきあいしますんで、こっちのほう、山崎さんお願いします」仲根はそう言うと、弁護士の乗る車に向かう。
 
  近藤が車に乗り込むと、柳原が目を覚ます。
  「どうなりましたか? 海賊の風船」
  「四個回収した。応援部隊も来た。今日の午後、応援部隊への引継ぎが無事終ったら、我々は一旦帰るとしよう。そもそも泊まる予定じゃなかったしな」
  「いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありません。あとの回収作業は当方で致しますから」山崎は言う。
  「仲根さんも、こういうお仕事は専門外でしょう」
  「実はそうです。我々がもっと早く来るべきでしたね。こんなに早く回収が始められるとは、思ってもいませんでした」
  「ところで、アイソレークのほうの調査、なにか進展はありましたか?」
  「吉田の行方は、依然、不明です。アイソレーク一帯のRIの探査は、昨日で打ち切りました。もはや、RIが外部に持ち出されたことは明白ですから」
 
  U大一二二五室の会議コーナーに、関係者が集まる。依田教授も学生ふたりを伴って現れる。
  「風船の制御ですが、彼らの腕も充分に使えます。先ほどの二つは、学生がコントロールしましたが、ほぼピンポイントに着陸できましたでしょう」
  「こちらも回収部隊の準備ができました」山崎は報告する。
  「どのような配置に致しますか?」近藤が尋ねる。
  「えー、指令車をお持ちしましたんで、風船の軌道情報をそちらに入れていただければ、指示はそこから出せます」
  「それは、インターネットに繋がっているんですね。もしそうなら、風船の制御も、そこからさせていただけると助かるんだが」
  依田教授、どうやら教授室に学生たちを入れて、風船の操作をさせていたようだ。
  「私どもと致しましても、指令車から操作していただけると助かります」山崎は頭を下げて言う。「回収部隊は、二チームありますが、一チームは砂浜で待機、もう一チームはジープで待機し、風船が離れた位置に落下する事態に備えます。回収部隊は五人編成で、一人が監視・連絡役、一人が回収役を務めるほか、残りの三人は民間人の回収地点への立入を防ぎます。フロッグメンのチームは、エンジン付きのゴムボートを波打ち際で待機させ、風船が海上に落下する事態に備えます。水中作業班の内三名は、アクアラングを装備し、海中からの回収もできるように準備致します」
  「仲根さんはどうされましたかな?」依田が尋ねる。
  「仲根は弊社の弁護士と打ち合わせをしております。午後一時に、杉山さんとここで落ち合い、今回の件を当局に届出致す予定です」
  「ははあ、それでしたら私も杉山さんがこられるまではお待ちしましょう。指令車の準備でもしながら」
  「他にご質問は? ないようでしたら、早速準備にかかります」
  「あー、学生たちを指令車に連れてってください」依田は山崎にそう頼むと、学生に指示する。「私はこっちを設定するから、君たちは向こうの設定をして」
  「私、プログラムの続きをやりますので、この部屋にいさせてください」
  そう言って端末に向かう柳原と教授室に引き上げる依田教授を残し、その他は全員、浜に向かう。
 
  砂浜では既に準備が進められている。波打ち際では、大きな黄色いゴムボートが膨らんで、打ち寄せる波に揺れている。駐車場には種々の道具が並べられ、様々なチェックがなされ、隊員たちに配られている。
  U大から戻った班長たちは、自分が指揮する班員を集めて、今後の段取りを説明する。指令車付きの隊員と学生たちは指令車に乗り込み、依田と連絡をとりつつ、風船を制御するための設定を始める。
  山崎と近藤は、砂浜と道路脇の駐車場の間に並んで立ち、この光景を眺めている。
  近藤たちのうしろに、二台の車が止まり、一方から杉山が、他方からは仲根が降りてくる。
  「大分進んでおりますな。ご苦労様です」杉山は、仲根にお辞儀をすると指令車を指差してが言う。「あれは、風船を制御できるんですか?」
  「ええ、その予定です。こちらこそ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」仲根が言う。「指令車、ちょっと覗いていかれますか?」
  仲根は杉山を案内して指令車に向かう。近藤もそのあとを行く。
  指令車ではディーゼルエンジンが騒音と振動を発して回り、あたりに排気ガスが漂っている。
  近藤は指令車入口の急な段を上って、内部を見る。車内の前方、運転席のうしろには、大きなスクリーンがあり、会議室と同じ、風船の軌道を示す画面が既に表示されている。左右の窓側には長細い机が設えられ、フラットディスプレーとキーボードが並んでいる。その一角に、学生たちが張りつき、トランシーバーで依田教授と連絡を取り合いながら、設定を行っている。そのうしろに山崎が仁王立ちに立ち、作業の進行をみつめている。
  仲根は山崎に言う。
  「これから我々、届出をしてきますが、その前に、簡単に打ち合わせを致したいと思います。近藤さんもご同伴、お願いできますか」
  「構いませんよ」近藤はそう言うと、仲根たちに付いて、U大に戻る。
 
  U大一二二五室の会議コーナーには、今度は、仲根と杉山、アイソトラック社の顧問弁護士、そして、近藤と依田教授が座っている。顧問弁護士が口を開く。
  「まず、最初にご注意しておきますが、今回の一件では、アイソトラック社は微妙な立場にあるということをご理解ください。近藤さんの書かれたレポートを読ませていただきましたが、先週の十二日にはトリウム228の紛失を確認していながら、届け出では本日までなされず、その間に放射性物質を積んだ風船が放出されてしまったというのは、大失態でございまして、弁護の余地はございません」
  「これに付きましては、私が平身低頭、謝るしかございません」仲根が神妙に言う。
  「まあ、警察官の心証を良くする上で、仲根さんには誠心誠意、謝っていただく必要がございます」顧問弁護士は続ける。「しかし、これは仲根さんの責任に帰す問題ではありません。今月十二日の時点で、本件の処理はアイソトラック本社の危機管理委員会の采配となっておりまして、届出に及ばずとの判断は危機管理委員会が下したものでございます。この点につきましては、危機管理委員長を務めるアイソトラック社の社長が、文部科学省などの、しかるべき官公庁に出向いて陳謝することとなっております。正式な届け出でも、危機管理委員会から行いますので、仲根さんには、責任問題を離れて、事件の解決に向けて全力を尽くしていただくよう、お願い致します。なお、仲根さんと杉山さんに本日御出頭いただくのは、本件の捜査に当たります警察署ということになります」
  「バルネット社のほうには、法的問題は発生しませんか?」杉山、心配そうに聞く。
  「御社は、法律的には問題ありません。但し、ネットワーク犯罪に関するガイドラインに違反しておりますので、監督官庁から何らかの勧告がなされる可能性はあります」
  「警察署で話す内容は、いかが致しましょうか」仲根は顧問弁護士に尋ねる。
  「これはもう、正直に、包み隠さず話していただくしかありません」弁護士は応える。「一般に、隠し事は、企業の危機に際して、問題をこじらせる最大の要因です。今回は、近藤さんの書かれた簡潔明瞭な報告書がございますので、これを中心にご説明していただき、その後、先方の質問に洗い浚い答える、という方向で取り進めるのがよろしいかと存じます」
  「えー、私も警察に出頭する必要がございますでしょうか?」近藤は尋ねる。
  「近藤さんは、御出頭いただく必要はございません。盗難現場で調査されましたので、のちほど、警察から問い合わせがあるかと思いますが、現時点では、これにお答えになる必要もございません。探偵事務所には、顧客情報に関する守秘義務がございますので。なお、アイソトラック社に、警察から、近藤さんのお話を聞かせて欲しいとの依頼があった場合は、原則として、アイソトラック社はこれを了承することと致しております。その際には、アイソトラック社から近藤さんにご連絡を差し上げますので、これが参りましたら、警察の取調べに、正直に、包み隠さず御答えください」
  「マスコミ関係への対応はいかが致しましょうか」仲根は尋ねる。「ここにも、大挙して押し寄せてくると思いますが」
  「マスコミには、本日午後三時、アイソトラック社とバルネット社が合同で記者会見を行い、発表致します。内容は、今回の事件の経緯と、海賊風船に対する市民の注意喚起でして、近藤さんのレポートの抜粋を配布致します。現地でのマスコミ対応につきましては、回収作業を優先し、市民及びマスコミ関係者への危険防止を第一としつつ、ソフトな対応に徹し、企業イメージを損ねることのなきようご配慮ください。なお、近藤レポートの内容につきましては、近藤さんの推理の部分と固有名詞を除いて、お話していただいて差し支えありません。また、回収作業の内容につきましても、ご説明いただいて構いません。但し、回収の完了時期など、将来の予測につきましては、情報の錯綜を防ぐため、危機管理委員会で一元管理致しますので、そのような質問が御座いました際は、こちらにお問い合わせいただくようお答えください」
  「皆さん、よろしいでしょうか」仲根は出席者を見渡して尋ねる。「それじゃあ、参りましょうか」
 
  二時半、指令車で風船の軌道を眺めていた山崎と近藤は、多数のサイレンの音を聞き付けて、指令車から駐車場に降り立つ。
  サイレンは、浜沿いの道路をこちらに向かう、多数の警察車両のものだ。警察車輛は見る見る近づき、指令車の停まっている駐車場と付近一帯の路肩を埋め尽くす。
  一台のパトロールカーを降りた一人の初老の警察官が指令車に近づき、近藤に尋ねる。
  「責任者のかた、おられますでしょうか」
  「私です」山崎が応える。
  警察官は山崎を連れて、警察のマイクロバスに引き上げていく。一人残された近藤は、指令車の中に引き上げる。
  「海賊風船接近。あと十五分ほどで到着します」風船の制御役を仰せ付かった学生が叫ぶ。「コースは正常。予想される誤差はゼロです」
  「コントロールより回収班に連絡。海賊風船五号は十五分後に到着の予定。到着予定地点は指令車前の砂浜。繰返す……」司令部付きの男がトランシーバーに向かって叫ぶ。
  「五号は、高度二百五十、距離八百、方位真西。そろそろ見えるはずです」学生の小さな声を、司令部付きの男がトランシーバーのマイクに大声で繰返す。
  「回収班、五号を視認致しました。全員回収準備完了。この場でスタンバイします」
  「高度百五十、距離五百」学生は緊張した声で言う。「ガスを少し抜きます。高度低下に注意してください」
  「こちら回収班。五号、順調に接近中。ただいま警察が浜辺の市民を排除致しました」
  「砂浜まであと百メートル……あと三十……入りました。ガス抜きます」
  「こちら回収班。五号風船は予定地点に落下、回収作業を開始……回収完了致しました」
  回収作業は数秒で終了する。
  安堵の空気が流れる指令車に、山崎が戻ってくる。
  「五号、無事回収できたみたいだね。お見事」山崎は学生たちをねぎらう。
  「しばらく風船のほう、大丈夫ですね」司令部付きの男が言う。「記者会見の放送が始まりましたので、メインスクリーンにテレビ映像を入れます」
  メインスクリーンに映し出された映像は、アイソトラック社とバルネット社の両社社長が記者を招いての記者会見場である。既に記者会見は大分進んでいる。事の重大さに気付いたテレビ局が、途中から臨時に生中継を入れたようだ。
  「記者会見はまだ続いておりますが、ここで要点を取りまとめてご説明します」放送記者が、記者会見場をバックに小声でマイクに話す。「今月十一日深夜から十二日未明にかけ、アイソレークにありますアイソトラック社から、二千個もの放射性物質トリウム228が盗まれるという事件が発生しました。盗まれたトリウム228は、バルネット社が全地球規模で展開しております風船通信ネットワークに不正に混入された偽の風船に、動力源として利用されたとのことです。風船はいずれ寿命が尽きて落下致しますが、放射性物質が使用されておりますため、墜落した偽風船の近くにおりますと、放射線障害を受ける可能性があり、特に、分解などを致しますと、非常に危険であるとのことです。落下した風船を発見した場合は、けして触らずに、警察に届け出るよう、両社長は呼びかけております」
  「この、トリウム228というのは、どのようなものなんでしょうか?」スタジオのニュースキャスターが尋ねる。
  「トリウム228といいますのは、ラジオアイソトープの一種で、非常に強いガンマ線を出すそうです。つまり、強い放射能を持っており、剥き出しの状態のトリウム228に身体を近づけると、急性の放射線障害を起こすとのことです。盗まれましたのは、粉末状の酸化物で、直径一ミリ、長さ一センチという、非常に小さいステンレスのパイプに封じ込んだもので、風船には、これを十本、発電素子と共に遮蔽容器に格納して積んであったとのことです。この状態であれば、短時間、十分程度でしたら付近にいても大丈夫だとのことです」
  「二千もの放射能を持つ風船が空を飛んでいるということでしょうか? これの回収作業といったことは、計画されていないんでしょうか?」
  「あ、現在確認されておりますのは、三十九の偽風船が放出され、内四つの風船は無事回収されたとのことです。したがいまして、現在三十五の偽風船が空を飛んでいるわけでして、その全てに放射性物質が積まれているものと、バルネット社では推測しております。風船一つあたり十本、合計三百五十のトリウム228が、現在我々の頭上を飛んでいるわけです。また、現在飛行中の偽風船の位置は、全て把握されておりまして、現在、アイソトラック社とバルネット社が共同で回収作業にあたっているとのことです。あ、五つ目の偽風船も、先ほど回収されたとのことです。えー、現在空を飛んでおります、放射性物質を積んだ偽風船は三十四個ということになります」
  「回収作業のほう、順調に進みますことを私共も期待したいと思います。ところで、十二日に盗難があったということですが、公表までに随分と時間がかかったんじゃありませんか?」スタジオのニュースキャスターが質問する。
  「ええ、会見の席でも、その点に質問が集中しております」放送記者が小声で応える。「アイソトラック社社長の説明によりますと、アイソレークは放射性物質を取り扱う企業がまとまっている地帯で、ここからの放射性物質の持ち出しは事実上不可能という厳重な監視体制が敷かれているとのことです。盗まれたトリウム228はアイソレーク一帯に隠されていると考えたアイソトラック社が内部調査を進めている間に、賊はこの監視体制を掻い潜り、外部に持ち出した模様であります。これら一連の不手際に関しましては、同社長も深くお詫びすると言っておりましたが、同社の放射性物質の管理体制と、盗難時の通報に不備があった疑いが指摘されており、今後の論議を呼ぶものと思われます。以上、記者会見場からでした」
  「続きまして、偽風船の回収作業が行われております現場から中継でお伝えします」
 
  U大の一二二五実験室では、出勤してきた浅田が、嬉しそうに柳原に言う。
  「なんか海のほう、凄いことになっているねえ」
  「仲根さんたち、警察に届けたんですね」
  「それで、風船は? 昨日のプログラム、うまくいってる?」
  「もう五個回収して、今六個目です。浜の駐車場にアイソトラック社の指令車が停まってまして、そこで制御しているんです」
  「ははあ、御大、教授室から学生を追い払ったな」
  「放出点の自動検出もできるようにしてあるんですけど、まだ、新しい海賊風船は現れていないようです。それから、おまけのプログラムも作りましたよ。御覧になりますか」
  そこに米田教授が現れて言う。
  「依田先生は? もう帰った? そうか。君たちテレビ見た? 今、凄いのやっているよ」
  浅田、キーボードを操作して、スクリーンにテレビ放送が映るようにする。画面上には、海岸の指令車が大写しになり、そこからパンして、警察が野次馬を作業区域に入らないように押し止めている映像が映る。柳原、アップで移った指令車の天窓から近藤が上半身を出しているのをみつけ、手で押さえた口に驚きの声を発する。
  「御覧のように、この海岸で、偽風船を回収しようと、アイソトラック社の回収チームが待機しています」中継アナウンサーが言う。「危険な放射性物質を積んだ風船が降りてくるということで、警察関係者が現場から群集を排除しています……えー、ただいま入りました情報によりますと、間もなく六番目の風船回収作業が始まるということです。既に偽風船五個を回収し、六個目の回収作業をまもなく開始するとの情報です」
  浅田、再びキーを操作して、テレビ画面のサイズを縮小し、風船軌道の画像をメインに出す。六番目の海賊風船は、すぐ近くまで接近している。
  「さっき言った、おまけ映像も出しましょうか」柳原がそう言いながらキーを操作すると、画面の一部に、風船から見た地上の画像が表示される。
  「これは?」
  「今捕まえようとしている六番目の海賊風船の下方カメラの映像です。回収部隊の声も出しましょう」
  柳原がキーを操作すると、スピーカーからは浜の回収部隊と指令車の間の、緊迫した交信が流れてくる。
  「六号、高度百八十、距離二百八十。コースは真西からジャスト回収ポイントに向かって接近中。これより、急速低下を試みる」
  「こちら回収班。風船を確認。まっすぐ接近中です。地上、南風がかなり強くなってきましたが大丈夫でしょうか」
  「六号、高度百十、距離二百。ここまで来ると横方向の制御はできないと。風船のコースには今のところ風の影響はない。距離百三十、高度七十。砂浜上空に達したら連絡願う」
  スクリーンには大学構内の建物が流れ、やがて、砂浜との間の道路が見えてくる。
  「回収班、了解しました。距離あと五十。あ……。緊急事態。緊急事態。風船北へ流されています。回収エリアを外れ、野次馬の上空に向かっています」
  「こちらコントロール、浮力回復は困難と。この付近に落下する公算……」
  「こちら山崎、海上に落としてください。現在の砂浜、野次馬が多く危険。水中作業班、出動願います」
  スクリーンには、上を向いた野次馬たちの顔が中央を流れていく。警察が野次馬を砂浜から排除しようとする一方で、一部の野次馬はてんでんばらばらに逃げ始める。
  「危険です、下がってください」警察官が声を嗄らして叫ぶ。
  野次馬たちの間に怒号と悲鳴が飛び交う。
  「押さないでください。うしろのかたから整然と避難してください。まだ大丈夫です」
  上空からの映像では、群集の中に亀裂が走り、塊が崩れていくようにみえる。その中に、黄色い防護服を着た砂浜の地上回収班が、割り込むように走り込んでくる。
  「距離マイナス三十。風船は海上。高度は三十を維持」
  「こちら水中作業班、風船の真下にいます。落としてください」
  「コントロール了解。ガス、放出全開」
  スクリーンには落下地点に向かうゴムボートが見える。それがどんどん大きくなり、やがてゴムボートが画面を外れると、カメラは海中の映像を短時間映したのち画面が乱れ、映像が途絶える。
  「タッチダウン」学生が小声で言う。
  「着水。六号は着水した」
  「水中作業班、風船の着水を確認……いま、回収しました」
 
  浜では、竿の先に付けた風船を高々と掲げるゴムボートの回収班員に、浜の野次馬たちが拍手をしている。それをテレビの中継車が撮影している。
  指令車の中で、近藤が山崎に言う。
  「いやあ、良かったですね。一時はどうなるかと思いました」
  「全くです。神経、参りますなあ。これで事故でも起こしたら、何を言われるか」
  「今日の分の回収はこれで終りですね。我々も、このあたりで失礼致します。U大の柳原を拾って帰りますから」
  「どうも、お疲れ様でした。本日は本当にありがとうございました」
 
  六時過ぎ、事務所に戻った近藤をエミちゃんが待ち構えている。
  「あれ、君、出勤してくれたの? 待っていなくても良かったのに」
  「テレビ見ましたよー。凄かったですねえ」エミちゃんはお茶を淹れながら言う。
  「あれ? ウチが扱っている事件だって、わかっちゃった?」
  「そりゃ、アイソトラックにバルネットだもん。わからないわけないでしょ。所長が装甲車みたいな車の天窓から顔を出したところも、テレビにばっちり写ってましたよ」
  「あちゃー。探偵は面が割れるようじゃあ勤まらないんだが。風船が風に流されたってんで、驚いて顔を出したのが失敗だったね」
  「いえいえ、六個目の風船が来るっていう少し前。余裕で見物してたでしょう」
  「ああ、あれ、回収部隊の様子を見てくれといわれたもんだから……」
  「昨日と今日の請求、どっちにすればいいんですか?」
  「あ、それ両方でいいって。出張をふたりで二日分、両方に請求。一人分は、深夜勤務も八時間、付けといて」
  「そんなのありですか。その他の経費、領収書ありますか?」
  「ない。みんな向う持ちだった」
  「みんな、景気がいいんですねえ。ウチも、大きなヤマにぶち当たってラッキーですね」
  「そういう言い方をしちゃあいかんよ。しかし、このヤマ、まだまだこんなもんじゃ済みそうにない。売上も、当分は記録更新だな」
 

 

第5章 チェイス

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  四月二十一日の午後、近藤は朝からワープロで報告書を作製している。柳原も午後から出社して、パソコンをいじっている。
  昨日の日曜日、近藤は休ませてもらったが、風船の回収作業は引き続き行われ、昨日中に五つの風船が回収されている。
  今回の一連の事件は、マスコミでも大きく扱われ、回収作業の映像は繰り返し放映されていている。
  土曜日の混乱を教訓に、砂浜は広い範囲で立入禁止の処置が取られている。浜沿いの道路は、駐停車禁止の処置が取られているが、車輛の通行は認められており、見物渋滞が発生している。
  近藤は、長時間のワープロ作業で腰が痛くなり、少し表を歩いてくるかと席から立ちあがるが、仲根たちが今日の午後に訪れるという連絡があったことを思い出す。
  「エミちゃん、何時って言ってたっけ? 仲根さんたち来るの」近藤は、時計を眺めながら聞く。
  「午後っていわれただけで、時間は聞きませんでした」
  「そういうときは、ちゃんと時刻も訊いといてくれないかなあ。ずっと待ってなくちゃ、いけないじゃないか」
  「すいませーん」
   エミちゃんがそう言った丁度そのとき、ドアが開いて、仲根と山崎が現れる。
   エミちゃんが声を飲んで身を引いたのは、仲根たちのあまりにひどい姿に気付いたからだ。仲根も山崎も、スーツを着てネクタイをきちんと締めてはいるが、ワイシャツの襟は汗と垢が染み込んでよれよれだ。近付けば臭いもしそうである。
   「大丈夫ですか? 大分お疲れのようですが」近藤が怖々尋ねる。
   「えー、応接のほうへどうぞ。その左手のドアですから」汚いものを遠ざけようという本心も見え見えに、エミちゃんが言う。「お茶をお持ちします」
   「濃いコーヒーをいただけると嬉しいんですが」仲根、弱々しく言う。
 
  近藤は、仲根と山崎を応接室に案内すると、ソファーに座らせ、その向かい側に自分も座って言う。
  「どうされましたか」
  「いやあもう、連続で往復ビンタを食らってるようなもんです」仲根は泣き言を並べる。「警察には締め上げられ、本社からは叱責され、マスコミにはねちねちと迫られて、浜じゃあ風船と追いかけっこですから」
  「それはご愁傷様ですなあ。それで、本日はどのようなご用向きでしょうか。報告書のほうは、朝から作製しておりますが、まだできあがっておりません。大至急作製致しますので、今しばらくお待ちいただけませんでしょうか」
  「報告書はいつでも結構です。それより、吉田ですよ。それと、残り千六百本のRI。ご協力していただくわけには参りませんでしょうか。本社のほうからも、先生がたを当分の間、百パーセント押さえておけと強く依頼されておりまして」
  「百パーセントといわれましても、我々、他の仕事も抱えておりますからなあ」
  「アイソレークでの勤務は、危険手当ということで五割増の支払いが内規で定められておりますが、今回、ご無理を願うわけですから、調査料を倍払いさせていただくということでどうでしょうか。百パーセントといいましても、少しの間でしたら、他の作業に時間を割かれても、我々、目を瞑りますので」
  「しかし、バルネットさんの仕事も、まだ終っておりませんから」
  「海賊風船の事件に関しては、大いに調査していただいて構いません。この風船を飛ばした連中を捕まえれば、盗難事件も解決しますから。近藤さんがバルネットさんの仕事を引き受けてくだされば、バルネットさんのご協力も得られますから、大助かりです」
  「わかりました。少々お待ちください。こちらの者の予定を調べてみますんで」
  近藤は事務所に戻り、柳原の予定を調べる。柳原には、毎週二つ三つのシステム監査が予定されているが、いずれの監査もネットワーク経由で行うもので、半日も充てれば片付きそうだ。
  近藤は、柳原を連れて応接に戻ろうとする。その柳原をエミちゃんが捕まえて、コーヒーの載ったトレーを持たせる。
  応接でコーヒーをサービスする柳原を指して、近藤は言う。
  「彼女も、二〜三、監査の仕事が入っておりますが、それほど時間を食うものでもありませんので、その点ご了承いただいた上で、ご依頼の件、お引き受けすることに致します。それから、バルネットさんのほうにも、ちょくちょく顔を出すことになると思いますけど、その点も宜しいですな」
  「まことにありがとうございます」仲根、応接テーブルに両手をつき、大げさに礼を言う。
  「さて、それで、調査のほうはどのように致しましょうか」
  「我々、これからアイソレークに引き上げようと考えておりますが、ご同行いただけませんでしょうか」
  「今日、これからですか」近藤は、柳原に尋ねる。「君は大丈夫かね?」
  「いいですよ」柳原は嬉しそうに言う。
  「わかりました。ご同行致しましょう」近藤は言う。「それで、アイソレークで調査する内容と致しましては、盗品の持ち出しに風船が使われたかどうかの検証ですな。その他、なにかありましたでしょうか?」
  「アイソトラック社のアイソレーク事業所には、昨日から警察が入りました」仲根が応える。「吉田につきましては、以前より警察に捜索をお願いしておりましたが、証拠が固まり次第、RI窃盗事件の重要参考人ということで、全国にも指名手配するとのことです。警察は、吉田さんのディレクトリからロック解除のプログラムを発見したときのいきさつを、柳原さんのお口から、直接聞かせて欲しいと申しておりました。あの土地の警察とは緊密な協力関係がございまして、近藤先生がご調査されるなら、警察も全面的に協力するといっております」
  「吉田さんの手配は、昨日までは、どのように行っていたんですか?」近藤が尋ねる。
  「失踪ということで、警察に捜索をお願いしました。寮の彼の部屋につきましては、アイソトラック社の自主的判断で捜査致しました」
  「そうしますと、吉田さんに対する警察の本格的な捜索は、昨日からということですな」近藤は複雑な表情だ。
  「バックアップテープとメイルのログは残されていますか?」柳原が尋ねる。
  「はい、重要な証拠ですので、消さないよう、手配しております」山崎が応える。
  「アイソレークセキュリティセンターの記録も大丈夫ですね」
  「もちろんです。事件発生以来、全ての記録は保存するようにしています」
  「それでは、まず最初に、セキュリティセンターの記録を調べさせてください」柳原は言う。「監視カメラの映像記録に、きっと、風船の飛んでいるところが写ってるわ」
 
  近藤たちがアイソレークに到着したのは、午後五時過ぎである。
  仲根と山崎は、セキュリティセンターに寄って、近藤と柳原を警備員に委ねると、一旦自宅に引き上げる。
  「申し訳ありませんが、我々、シャワーを浴びて、着替えをしてまいります」
  柳原は警備員に尋ねる。
  「十一日の夜の、監視カメラの映像をチェックしたいんですけど、できますでしょうか?」
  「あの晩のビデオデータは、全て消さずに残しております。二階のモニターで、好きな映像を御覧になってください」
  警備員の言葉に、近藤たちは二階コントロールルームの一角に陣取る。
  ビデオ端末の操作方法マスターした柳原は、様々な映像をモニターに映し出す。
  「監視所から、湖の上空を望む映像がいいだろうね」近藤は柳原に助言する。
  柳原は、画像ファイルを次々とディスプレーに映し出す。これらのほとんどは、荒涼とした岩肌を、延々と映したものだ。そのうちに、柳原は映像ファイルに付けられた符号の規則性に気付く。
  「Pに数字が付いているのは、柵のところの奴らしいわね。ポール、かな? NとかSとか付いているのが監視所ですね。えーと、十一日の夜十時から次の日の朝九時までの北監視所映像を早回しで出します」
  監視所の屋上に設けられた監視カメラは、ゆっくりと往復回転運動を繰返し、尾根付近の映像を左右にパンし続ける。これを早回しで観るのは、なかなか神経が疲れる。
   「あ、ちょっとストップ」
  近藤の声に、柳原は再生にポーズをかける。モニター画面には、湖の上空を覆う雲の上に、黒い小さな点が連なっている映像が表示されている。
  黒い点は夜の暗さに判別し難いが、湖上の霧から現れて、東側の尾根の上の闇に消えている。
  柳原は、ゆっくりと映像を戻し、黒い点が湖上の霧から最初に現れる瞬間でポーズをかける。
  「十二日午前一時十七分ですね」柳原は、画面下の数字を読んで言う。「霧の中を抜ける時間がありますから、飛ばし始めたのはもう少し前だと思いますけど、十時頃に盗んだんなら、風船を膨らます時間を考えても、充分過ぎる時間がありますね」
  「いろいろとセットが必要だからな。次、飛ばし終わった時間は?」
  近藤の要求に従い、柳原は、今度は映像を早送りして、最後の風船が霧から現れる時間を読む。
  「午前四時十二分です。およそ三時間かかっています」
  「飛ばされた風船の数は読めないかなあ」
  「それは大変です。カメラが左右に振れている上に、風船はみんな同じですから、数えるのは簡単じゃないですよ」
  「風船の現れる時間間隔を測れば、大体、計算できるだろう」
  柳原、映像を標準速で送ると、腕時計をストップウオッチに切り替え、風船の現れる時間間隔を測定する。
  柳原が時間を測っているとき、仲根と山崎がコントロールルームに現れる。仲根は、柳原の邪魔にならないよう、そっと近藤の肩を叩く。
  「RI持ち出しの現場ですか」仲根は小声で言う。「よくみつけましたねえ」
  風船が現れる時間間隔をいくつか測定し終わった柳原、近藤たちを振り向いて言う。
  「大体、四分から五分で、風船が一つ出てきますね。えー、そうすると、四分半として、三時間ってことは、さぶろく百八十、九で割って二十だから、四十個。あ、この間の計算とぴったり一致しますね」
  「その前提は、木箱はおろか、外側の遮蔽容器も捨てたってことだな。そいつは、どこか、この辺りに捨ててあるはずだ」
  「雲の上に風船が現れてるのが、大体、湖の真中ぐらいで、風船は東に向かって進んでますから、風船が飛ばされた地点は湖の西側ということになりますね」柳原が指摘する。
  「湖の西側か。アイソトラック社の近くですな」
  「ウチの近くは、寂れていますからね」
  「御社の近くで風船を膨らまして、それにトリウムを付けて飛ばしたってわけですな。そんな作業ができそうなところは、御社の近くにありませんかな」
  「湖の浜辺でしょうかねえ。山側には木が茂っていますから、風船を飛ばすのには、あまり良い場所とは思えません。あとは展望台のあたりか……」
  「展望台は、霧の上じゃないですか。風船は霧の中から現れていますから、展望台じゃあありませんな」
  「ガスはどうしたのかしら。ガスボンベも、どこかに捨ててあるんじゃないですか?」
  「そうだ。ガスボンベには刻印があるから、流通経路が追えるぞ」
  近藤と柳原のやり取りを黙って聞いていた山崎、これを聞くと、顔を輝かせて言う。
  「近藤さん。流石です。犯行に使われたガスボンベと遮蔽容器外筒を、全力で探し出しましょう。御説の通り、ガスボンベがみつかれば、メーカーの台帳から販売先がわかります。まさか吉田が個人で買ったわけもないでしょうから、背後の組織が割り出せる可能性があります。外筒には、吉田と、多分共犯者の指紋が付いている可能性があります。いずれにせよ、有力な証拠になります」
  「簡単に隠せるところというと、湖に沈めちゃったんじゃないかしら」
  「あと、木箱もどこかに捨てたはずですな」近藤が指摘する。「こいつは大きいし、湖に沈めることもできませんから、みつけやすいんじゃないでしょうか」
  「木箱は、燃やされてしまったかも」柳原が水を差す。
  「燃やしたって、炭ぐらい残るだろう」近藤はそう言うが、なにかが引っかかるのを感じる。「炭、燃え滓……。ああー、それ、ありましたな。御社のすぐ前の浜に。大きさも木箱ぐらいだったし、盗まれた木箱とよく似た番号が書かれてましたよ」
  「ああ、あの焚き火の跡」柳原も、焚き火の跡の光景を思い出す。
  「すぐに行ってみましょう」
  近藤はコントロールルームを飛び出し、車を走らせる。仲根たちも、そのあとを追う。
 
  アイソトラック社正門前に到着した近藤は、口をあんぐりとさせる。
  浜は綺麗に清掃されており、焚き火の跡はおろか、その横にあった朽ちた木造船の残骸も消え失せている。波打ち際のゴミも、水草も綺麗に取り除かれ、美しい砂浜に小さく波が打ち寄せている。
  「これは、一体、どうしてしまったんでしょうか」
  仲根は、携帯電話でアイソトラック社の総務に問い合わせ、近藤に申し訳なさそうに言う。
  「掃除したんだそうですよ。マスコミが押し寄せるといわれて。回収したゴミは、既に焼却場に運んでしまったそうです」
  「うわー、えらいことをしましたなあ。私、あの焚き火跡に二度ほど煙草の吸殻を捨てたんですが、そのとき確かに、燃えさしに番号が打ってあったのを見たんですよ。今にして思えば、その番号、トリウムの木箱に打ってあったものと良く似ていました。材木の大きさも、丁度盗まれた木箱ぐらいでして……」
  「それ、写真があります。車のバッグに入ってますよ」
  柳原の言葉に、全員車に戻り、柳原が鞄から取り出したデジタルカメラのモニターをみつめる。
  「大きさは確かにあの木箱ですね。うまい具合に、近藤さんの吸殻が、スケール代わりになります。しかし、番号は……うーん、小さくて、判読できませんなあ」
  「こいつを使ってください。私も探偵のはしくれですから」
  近藤が胸ポケットから取り出したのは、大きな虫眼鏡だ。それを手に、山崎はモニターを食い入るように見詰る。
  「あ、番号読めます。えー、ちょっと待ってください」山崎はそう言うと、手帳を取り出して、頁をぱらぱらと捲る。「あ、間違いありません。これは盗まれた木箱です」
  「そうか」仲根は感慨深げに言う。アイソレーク一帯で、はじめてみつかった物証だ。
  「ここに木箱があったということは、この近くから風船を飛ばした可能性が高いですな」近藤は言う。「しかし、この浜はあまりにも開けすぎている。通る車もあるでしょうし、アイソトラック社には夜勤のかたもおられますから、だれかに見られる危険性があります。いくら霧がかかっていたといっても、ここからは飛ばせんでしょう」
  「そこの岬かもしれない」
  山崎はそう言うと仲根を車に乗せ、浜の左手すぐ近くで湖に突き出した小さな半島に向かう。近藤たちもそのあとを追う。
  岬は、アイソトラック社からトンネルのほうに、少し戻ったところにある。岬に入る道は、細い未舗装の道路で、左右の茂みから垂れた枝が、近藤たちの車のボディーをこする。
  道はやがて開けた場所に出る。前方には夕闇の迫る湖の光景が広がっている。
  「ここから風船を飛ばした可能性が高いですなあ」近藤が言う。「使った道具は、湖に沈めてしまったんじゃないでしょうか。明日にでも、湖底を浚ってみてはどうでしょうか」
  「いや、ただちに捜索致しましょう」山崎はそう言うと、携帯電話で探索チームに指示を飛ばす。
  近藤は車から懐中電灯を持ってくると、あたりの地面を調べる。
  「これは、明るいところで、改めて調べる必要がありますなあ」近藤は、夕闇迫る今、地面の証拠調べが相当に困難であることを自覚して言う。「それまでは、このあたり、あまり荒らさないほうがいいでしょう」
 
  やがて岬の沖合いに何艘もの船が集まる。そのうちの何艘かは、強力な照明で湖面や岬を照らす。数艘のゴムボートが岬を取り巻き、アクアラングを付けたダイバーが、次々と湖に飛び込む。
  やがて、湖面から顔を出した一人のダイバーが何かを叫ぶと、湖上は急にあわただしくなる。
  小さなクレーンを装備した作業船が近づき、フックを水中に降ろす。照明もそこに集中し、他の場所で作業していたダイバーとゴムボートも集まってくる。ダイバーは湖底から何かを拾い上げているようだ。
  しばらくすると、クレーンのワイヤーに吊り下げられて、二本のガスボンベが水面上に現れる。ガスボンベを船上に下ろしたのち、クレーンのワイヤーは再び水中に下ろされる。近藤たちが見ている間に、もう二本、合計四本のガスボンベが引き上げられる。
  「そろそろ引き上げましょう」仲根は、引上げ作業を眺めている近藤たちにそう言うと、山崎と車に乗り込み、アイソトラック社へと向かう。岬への入り口は警察の手により立入禁止の処置がとられている。近藤たちが近付くと、警察官が道を開け、敬礼をする。
 
  アイソトラック社の応接室で、近藤と柳原はコーヒーを飲んで、仲根を待っている。
  仲根は、近藤たちを応接室に案内したのち、事務所のほうに用があるといって出ていったきり帰ってこない。
  「仲根さん達が忙しいのは当然だから、まあ、気長に待つことにしよう」
  近藤はそう言いながら煙草に火をつける。だれが気を利かせたのか、今回は、応接テーブルに最初から灰皿が置いてある。
 
  「お待たせして済みません」
  仲根は、そう言いながら、アイソトラック社の応接室に入ってくる。
  「いやいや、仲根さんがお忙しいことはよく存じ上げておりますので」近藤は、手に持っていたコーヒーカップを応接テーブルに置いて言う。
  「えー、本日の捜索も含め、先生がたが帰られてからの状況につき、一通りお話致します」仲根はそう言うと、長い説明を始める。
  「まず、本日アイソレークから回収されたものですが、ヘリウムガスボンベ七本と、数百個のトリウム228の遮蔽容器です。ヘリウムガスボンベは、ほぼ一箇所にまとまって沈んでいたんですが、遮蔽容器は広い範囲の湖底に散乱しておりまして、一つずつ、湖に投げ込んだようです。ヘリウムガスボンベは七立米(りゅうべ)のもので、刻印から、現在流通経路を調査しております。遮蔽容器は、刻印から、盗まれたものであることが確認されました。これは、二重になっている遮蔽容器の外側の部分です。トリウム228の放射線は、内側の蔽容器に入れておくだけでも安全に取り扱うことができまして、一日以下でしたら、近くで作業しても被爆量は許容値以下に収まります」
  「十グラムの一重の遮蔽容器に納めたトリウム五十個ずつを四十の風船に付けて飛ばした、という予想と完全に符合しますな」近藤は言う。
 
  そのとき、山崎が入ってくる。
  「仲根さん。ヘリウムの卸先わかりました。ウチです」
  「ウチ?」仲根は聞き返す。
  「なるほど。確かに、一番近くて運びやすい」近藤は、一人納得して言う。「賊はここに来たわけですから、ヘリウムもここで調達するのは合理的ですね。社内に共犯がいたなら、ヘリウムボンベの置き場も知っていたはずですし」
  「ヘリウムボンベの在庫、至急調べてください」仲根は言う。
  「台帳では、保管庫裏のボンベ置き場にあることになっています」山崎は言う。「これから調べにいきますが、ご一緒にどうですか?」
  仲根、腰を上げると、山崎に付いて外に出ていく。近藤と柳原も、そのあとを追う。
 
  ボンベ置き場は、保管庫の非常口の横にある。非常口の横には非常階段の登り口があり、その裏側、踊り場の下の鉄製の鎧戸で囲まれた、高さの低い倉庫がボンベ置き場となっている。
  山崎が鎧戸に手をかけると、鎧戸は簡単に開く。
  「これ、鍵をかけることになっているんですけど、開いてますね」山崎は首をかしげる。
  「その鍵はどこに保管してあるんですか?」近藤が尋ねる。
  「作業員出入口の横の壁にかけてあります」と山崎。
  「つまり、従業員ならだれでも鍵を開けられたわけですな」近藤が言う。「で、ボンベはどうでしょうか」
  「八本足りません。ここから盗まれたものに間違いありません」台帳と比べながら、山崎が答える。
  「回収されたのは七本だから、まだ一本足りませんね。湖の底に、まだ沈んでいるんでしょうか」
  「遮蔽容器も、まだ半分ほどしか回収されておりませんので、もう一本、ボンベが沈んでいる可能性は多分にあります。明日も引き続き捜索させます」
 
  四人は応接室に戻り、これまでの情報をまとめる。
  「えー、まず、犯人ですが、現在のところ、不明、ということでよろしいですな」近藤が確認する。「吉田さんのディレクトリに、ロック解除のプログラムがあったことがバックアップテープより確認されており、吉田さんが使用中の計算機にこのようなファイルがあったことは、吉田さん自身が置いたという可能性が高いものと思われるのですが、犯人は管理者のパスワードを知っていた可能性が高く、犯人がだれであっても、吉田さんのディレクトリにファイルを置けました。吉田さんが行方不明になっている件は、彼が犯人であって逃走した可能性もあるが、犯人の手で自由を奪われている可能性もあります」
  「石井と山田も、行方を晦ましておりますが、こちらは白金を盗んだものと思われ、RI盗難事件に関係している可能性は低い」山崎が言う。「彼等につきましては、別途、警察に手配しております」
  近藤は説明を続ける。
  「トリウム窃盗犯は、十一日の午後十時頃、保管庫非常口のロックを解除してトリウムの木箱二十箱を持ち出し、同時に非常階段下のボンベ置き場からヘリウムボンベ八本を盗み出しました。犯人は恐らくこれを車に積んで、半島先端の空き地まで運びます。そこで、犯人はトリウムを外側の遮蔽容器から出して風船に取り付けると、盗み出したヘリウムで風船を膨らまし、空に放った、というわけです。この時刻は、十二日午前一時から四時までの間の三時間、飛ばした風船は概ね四十個です。えー、数字は合うかな?」
  「盗まれたトリウムの総数は二千本ですから、風船一つに五十個付けた計算です」柳原が計算する。「一重の遮蔽なら一つ十グラムだから五百グラム、風船の浮力は約一キロで、制御部分が五百グラムですから、ぴったり合います。ヘリウムは、風船一つに一立方メートルで、合計四十立方メートル必要ですが、七立米のボンベ八本で五十六立方メートルになりますから充分足ります」
  「充分というか、丁度だね。余裕もみなくちゃいけないからね」近藤が言う。「あとは、ボンベと空の遮蔽容器を湖に沈め、水に沈まない木箱は、焚き火跡があったところで燃やしてしまったわけだ」
  「どうすれば犯人が突きとめられるでしょうか? 遺留品に指紋が残っておれば、犯人が特定できますが、先程警察が調べた限りでは、指紋は検出できていません。この手の作業をするとき、手袋ぐらいするのは不思議でもないですからなあ」山崎は心配そうに尋ねる。
  「回収した風船も、有力な手掛りですね。どこかに指紋が残っている可能性もありますし、部品やフィルムの入手経路を追えば、犯人に辿り着ける可能性があります」
  「クラッカー・トラップはどうなりましたか?」柳原が尋ねる。
  「セキュリティシステムへの怪しいアクセスは発生しておりません」山崎が応える。
  「今後の捜査はどう致しましょうか」仲根は、近藤の助言を求める。「岬の遺留品捜査と湖底の調査は、もちろん続行致しますが」
  「柳原には、吉田さんのファイルを、もう少し詳しく調べてもらいます。吉田さんの行動と、風船の行方に付いては、私も調査致します。あとは、石井、山田の両氏の行方ですが、彼等がトリウムを盗み出した可能性だって、まだ、否定されたわけではありません。行方不明になっている以上、他の人よりも容疑は濃いと思います」
  「吉田も行方不明ですから、容疑濃厚ですね」山崎は言う。「預金口座の一件があるから、何ともいえませんが、彼が一番臭いことは確かですね」
  「吉田さんの行方は、いずれにせよ、重大な意味があります。彼の計算機は柳原が詳しく調べます。私は、風船回収地点をあたってみようかと考えております。これは、吉田さんが襲われたとすれば、その現場も風船回収が行われた場所に近いはずで、これらの場所から、何らかの痕跡が見出されるのではないかと期待しております」
  「風船がどこで回収されたか、わかるものでしょうか?」
  「風船の軌道は、地上から制御することもできるんですが、そうそう自由にできるものでもございませんで、ましてや四十個もの風船を同時に制御することは、相当に難しいと思われます。風船の軌道を風任せに致しますと、徐々に軌道が広がってしまいます。そうなりますと、回収が難しくなりますので、恐らく犯人たちは、ここからそう遠くない地点で風船を回収したと思われます。回収したトリウムは、内側の遮蔽容器だけでも二十キロになります。更に、証拠となります風船を持ち去ったということも考えられます。こういったものの運搬の便を考えれば、この近くの車が入れる道路沿いに、回収地点は絞られます。一方、風船の軌道は、監視所のビデオカメラに捉えられております映像から割り出すことができまして、これを延長すれば、アイソレークを出てからのおおよその軌道も推定できます。道路と、風船の軌道。この双方がクロスする点が、即ち回収地点ということになります」
  「なるほど。で、吉田が襲われたのがその近くだというのは、どうしてわかるのでしょうか」
  「風船が飛ばされたのが十二日の午前一時から四時の間で、ビデオに写っておりました風船の速度から考えて、回収されるまでに三十分以上、多分一時間程度は空中に浮いていたと考えられます。風船が地上に落ちてからの回収作業もございますので、回収作業が完了するのは、十二日午前五時よりもかなりあとの時間、ということになります。一方、吉田さんがゲートを出たのが午前六時ですから、風船を回収した人間が吉田さんを襲ったとすると、時間的にあまり余裕がありません。複数のチームが関与した可能性は、もちろんあるのですが、私がやるのでしたら、単一のチームで犯行可能なように計画致しますよ」
  「吉田が六時に出るということは、犯人は知り得たんでしょうか」
  「その辺は、仲根さんにも調査をしていただくと助かりますが、彼の計算機にスケジュールが記録されていれば、犯人がこれを読んだ可能性は高いでしょうね。これは、柳原が調べます。吉田の行方や海賊風船は、警察のほうにお任せして、何らかの手掛りが得られることに期待したいと思います」
  「もう一つの可能性は、犯人たちが風船を回収しているところに、たまたま吉田さんが出くわしてしまったってことですね」柳原が指摘する。「風船が道路のほうに流れていってしまって、道端の木にでも引っかかっていて、犯人たちがこれを取ろうとしているところに吉田さんが通りかかってしまったら、吉田さん、口を封じられてしまうんじゃないかしら。もしそうだとすると、吉田さんはトリウムの窃盗には無関係だった、ってことになりますね」
  「そういう可能性もありますな。この場合は、犯人たちは吉田さんのスケジュールを知る必要はないですな。いずれにせよ、風船回収地点の周囲は、詳しく調べる必要があります」
  「今日は、そんなところですかな。柳原さんの作業が終られましたら、お食事でもご一緒にいかがですか。今日は、大いに捜査が進展致しましたことですし、私も、残業は致しません。お酒もおつきあい致しますよ」
  「前祝といきますか」近藤は嬉しそうに言う。
 
  アイソレーク山荘のロビーで近藤と柳原は仲根を待っている。
  「吉田さんのメイル、ざっと読んだんですけど、この人、力仕事をすごく嫌っているんですよ。八百キロもの木箱を運んだり、風船を四十個も自分で膨らませて飛ばしたりするような人にはみえないんですよ」
  「力仕事が得意な共犯者がいたんだろう」
  「その人たちは、どうやってアイソレークに入ったのかしら。元々ここの住人だったのか、それとも、吉田さんが入構許可書を偽造して入れるようにしたのか」
  「入構者の記録は、全てゲートのところに残っているはずだね。そうか、十二日の早朝に出ていった奴が怪しい。吉田の記録があったんだから、共犯者の記録もあるはずだ。どうせ、連絡先はでたらめだろうから、すぐに特定できるはずだね」
  「入ったときも、同じ入構許可書で入っているはずだから、入った時刻もわかるわ」
  「お待たせしました」仲根がロビーに入ってくる。「今日は、シーフードの店に参りましょう」
  「一つ、追加でご調査をお願いできませんか」
  近藤は、入構許可書のチェックを仲根に頼む。仲根はこれをゲートに連絡する。
  「結果もわかりました」仲根は近藤に言う。「十二日の早朝五時にゲートを出た小型トラックがありました。乗員は三名でしたが、いずれも住所はでたらめです。トラックのナンバーが控えてありますんで、警察のほうに調査を依頼しました。それから、この連中がアイソレークに入ったのは、十一日の午後九時だそうです。ほとんど犯行時間に一致しますね」
  「ナンバーからホシが割れればいうことはないが、恐らく、偽造プレートか、盗難車でしょうなあ」近藤は悲観的だ。
 
  仲根が近藤たちを案内したシーフードレストランは、以前利用したステーキハウスの隣だ。広々とした店内には、鉢植えの観葉植物が沢山置かれ、テーブルが間隔を取って並べられている。
  「こんな山の中でシーフード、ってのもおかしいですが、今はトラックでどこへでも配達できますから、海の魚もいいのが置いてありますよ。だけど、お薦めは川魚です。虹鱒が絶品です」仲根の助言に従い、全員虹鱒を注文する。
  「さて、今宵は近藤探偵の名推理はございますでしょうか」
  「推理なんてとてもとても。ああでもない、こうでもないという戯言ならお話できますが」
  「またまたご謙遜を。近藤さんでしたら、戯言も大歓迎ですよ。結局のところ、どのように事件は進行したんでしょうか。吉田が犯人だと致しまして」
  「十一日の夜九時五十分、三名の共犯者が保管庫非常口の外側にトラックを停めて待機しております。共犯者と緊密な連絡を取り合った吉田は、ロックを解除するプログラムを作動させます。共犯者は保管庫非常口のドアを開け、これを何かで固定すると、トリウムとヘリウムボンベをトラックに載せ、吉田に連絡してドア開閉の記録を消去してもらいます。それから、あの小さな岬の先で、二重の遮蔽容器から一番内側の遮蔽容器に入ったトリウムを取り出し、膨らませた風船に取り付けて飛ばす。四十個の風船を飛ばし終わったら、吉田が偽造した入構許可書を使ってトンネルを出て、多分、回収部隊と合流したんですね。吉田は何食わぬ顔で帰宅し、翌朝六時に学会に向けて出発するが、共犯関係にあった回収部隊に拉致されたと、そういうわけです」
  「なるほど、確かに、無理がないし、全ての証拠と符合しますね」
 
  ウエイトレスがメインディッシュを配膳する。
  「大きな虹鱒ですね。アイソレークで捕れたものですか?」近藤が尋ねる。
  「アイソレークに魚は住んでいません」仲根は応える。「新しくできた湖ですし、放流もしておりませんから。それに、オゾン殺菌をしておりまして、魚が住むには、アイソレークはあまり良い環境ではないんですよ。で、この虹鱒、我々はレインボー、なんて洒落て呼んでいますけど、トンネルの外の道路沿いに川が流れているんですが、少し下流のところに養殖場があるんですよ」
  「ああ、このあいだ副社長さんにご馳走になったところ……」
  「そうそう、あそこです。あそこ、釣りもできるんですよ。そのうちに機会がありましたらチャレンジしませんか。なにせ養魚場ですから、いやってほどよく釣れますよ。釣った分だけ金を取られますんで、そうそう釣っておれないのが欠点ですけど」仲根はそう言うと、話題を転じる。「ところで、吉田が、今回の窃盗には関わっていないという可能性は、はたしてあるのでしょうか。つまり、吉田の失踪は、彼が犯人たちの風船回収を目撃したために連れ去られたという可能性がどれほどあるかということなんですけど」
  この質問には、柳原が応える。
  「吉田さん以外の人がロックを解除した場合、吉田さんのディレクトリにロック解除のプログラムを置くことは、その時間帯に吉田さんが計算機を使っていましたので、みつかる危険が大きいと思います。でも、ロック解除のプログラムは、吉田さんのディレクトリから発見されたんじゃありません。吉田さんのディレクトリをバックアップしたテープから発見されたんです。つまり、バックアップテープに手を加えられる人であれば、吉田さんのディレクトリには一切手を振れずに、あたかもそこにロック解除のプログラムがあったかのように見せかけることができたわけです」
  「バックアップテープに手を加えられる者といいますと、セキュリティ関係者しかいないが……」仲根は不安そうに言う。
  「多分、山崎さんか、その部下のかたたちですね」柳原はこともなげに言う。
  「しかし、山崎を疑ったのは、岩井老と組んで、洞窟を通ってRIを運び出すという可能性だったはずだが……」
  「トリウムの持ち出しには風船が使われたものと思われますから、岩井さんが共犯である必要はありませんな」近藤が指摘する。
  「仮に山崎が犯人だったとすると、普段からトラブルメーカーだった吉田に罪を着せようとして、吉田のディレクトリにファイルがあったように偽装したわけですな」
  「えーと、そういう可能性もありますけど、吉田さんをさらうか殺すかしたあとで、バックアップテープの偽装をしたんじゃないかと思います」柳原は指摘する。「十一日の夜十時にロック解除のプログラムが吉田さんのディレクトリに置かれていたというのは、その時刻にバックアップしたテープにそういう記録がされていたからそう判断したわけで、バックアップテープの記録を偽造するんなら、いつ偽造したっていいわけですから」
  「なるほど。それは筋の通った話ですね」仲根は感心して言う。「吉田も、アイソレークに出入りするために身分証明書を持っていたはずですから、彼を襲った連中がそれを見て、アイソトラック社の社員であることに気付いたら、社内の共犯者に一報したって不思議はないですね。ことによると、彼を襲った連中が、山崎に偽装工作を指示したのかもしれません」
  「ファイルを作った順番って、使われている領域から、ある程度推定できるんですけど、ロック解除のプログラムは、随分とあとで作られて、タイムスタンプを偽造しているようにみえるんですね。もちろん、使う領域を指定してファイルを書き込むことだって、やろうと思えばできるんですけど、そこまで念の入ったことは、普通、やりません」
  「しかし、山崎さんは、十一日の夜のアリバイがありますんで、ロックの解除をどうしたかという問題があります」近藤は言う。「まあ、あらかじめ時限装置か遠隔操作のしかけをすれば、山崎さんが懇談会に出席されている間でも、非常口のロックを解除することができなくはない。しかし、ここは、吉田犯人説に立って捜査を進めるのがベストじゃないでしょうか。吉田の偽装は、確かに念の入ったことではありますけど、彼がハッカーなら、何をやってもおかしくはないでしょう。まあ、山崎さんや、セキュリティのかたがたの信用調査は別途やっていただくとしてもですな」
  「そうですねえ、もう、吉田が疑わしい旨、警察に話してしまったことですし……」
  「いや、そういう理由ではなくてですね、吉田の行方を全力で突止めることは、吉田が犯人であれば当然のことですが、仮に彼が犯人ではない場合でも、彼が何らかの犯罪に出会ったことは間違いがありませんから、それをみつけ出すことは大きな意味があります。吉田がその事件に巻き込まれたのが、トリウムの奪われた十二日の朝であったということは、双方の事件に何らかの関係があった可能性が高いものと思われます。まあ、偶然の一致という可能性もゼロではありませんが」
  「いずれにせよ、警察にはきちんと話しておかなくてはいけませんね。明朝、柳原さんに、少しお時間をいただけませんでしょうか」
  「もちろん、構いませんよ」
  「偶然の一致といえば、石井達の犯行も、偶然、時を同じくしたわけですね」
  「これは、偶々だったのか……。石井さんたちは、しょっちゅうああいうことをやっていて、あの日は、偶々別の窃盗事件があった、ということかもしれませんよ」
  「確かにそうかもしれませんね。どうも、物がいろいろとなくなっているようで……」
 
  やがてディナーも終り、近藤たちは入り口近くのバーに移動する。
  仲根は、キープしたスコッチウイスキーのボトルを出してもらい、近藤は、それを薄めるためのペリエを頼む。柳原は、何やら洒落た名前のカクテルを注文する。つまみは「適当に」と仲根が注文する。バーテンは、仲根の好みをよく理解しているようだ。
  仲根はワインが大分回った様子で、眼の下をほんのり赤く染めながら近藤に話す。
  「小説にでてくる名探偵は、手掛りを掴んでいてもだれにも話さずに捜査を進め、最後に全員を集めて『さて』とか言ってから、真犯人を指名して推理を披露するんですね。だけど、近藤さんは、気が付いたらすぐにお話しになる。その御推理は外していることも多いんですけど、近藤さんたちのお力があって、今の捜査の進展があるわけですから、やはり近藤さんは名探偵だといわざるを得ません。現実の名探偵と、小説の名探偵は、どうしてこれほど違うんでしょうね」
  「我々の商売は時間との戦いですからなあ。解決に時間がかかれば、被害も拡大するだろうし、犯人に逃げられてしまうかもしれない。不確実な段階でも、可能性があれば動くこと、一刻も早く動いて、不確実なものを確実にしていくこと、これが現代の犯罪捜査には欠かせません。だから、だれかが気付いた手掛りは、それが役に立つかどうかは別として、関係者で情報を共有しなくちゃいけませんし、推理にしたところで、気が付いた点は、なるべく早い段階で話し合い、関係者全員で真偽を検討すべきだと思いますよ。小説に出てくるような名探偵は、古き良き時代の、のんびりした時代の話なんでしょうなあ」
  「推理小説って、リアリズムを追求するものじゃないですよ」柳原は、あっさりという。「パズルみたいな、知的ゲームってとこじゃないかしら。それとこれとを比べることが、そもそも、間違いだと思うけど……」
  「そんなことを言わんでくれよ。俺もいつかは、小説にでてくる名探偵みたいに、格好よく決めてみたいと思っているんだよ。だけど、現実は厳しいねえ」
  「そうですねえ。現実の犯罪捜査は泥臭いもんですからね。結局は無駄になるような捜査も、しつこくやらねばなりません」仲根は、現実に草臥れたとでも言いたげだ。「偽風船を最後の一つまで回収する必要があるのは、放射能があるから当然なんですけど、池に捨てられた遮蔽容器など、全部回収しなくても良さそうなものですよね。しかし、捜査上、全数、回収せにゃなりません」
  「全くご苦労様ですなあ。それ以外にも、書類仕事みたいな、くさくさする仕事も多いですからなあ。しかし、こういうこともきちんとしないと、探偵事務所の経営は成り立たないんですな」近藤は、仲根に同意してそう言うが、この言葉は、柳原に聞かせるためでもあるようだ。
 
  四月二十一日午前九時三十分、警察の相手を山崎と柳原に任せて、近藤と仲根はアイソレークセキュリティセンターに向かう。
  「本日は、風船の軌道を調べさせていただきたいと考えまして」
  「どうぞどうぞ。お二階のほうへ」
 
  セキュリティセンター二階のコントロールルームで、近藤と仲根は、昨日見た監視カメラからの映像を改めて分析する。
  監視カメラの映像には、時刻と視野の方位も記録されている。
  近藤は、二つの監視所からの同時刻の映像をプリントアウトする。次に、カメラの方向を示す数字と画面上の風船の座標から風船の方位を計算し、机に広げた地図に、カメラの位置から、そのカメラの捕らえた風船の方位に向かって直線を引く。二つの監視所から引かれた線の交点は、風船の水平座標だ。
  近藤と仲根は、記録されているいくつもの風船について、同じ作業を繰返す。やがて、地図上に、風船の飛行経路を示す太い線が引かれる。近藤は、定規を使ってその線アイソレークの外部まで、まっすぐに伸ばす。
  アイソレークの最も近くで風船の軌道と交差する道路は、国道からアイソレーク入口のトンネルに続く道だ。
  この道路、このあたりでは川に沿って走っており、風船の軌道と交差する付近では、川原が広がっている。
  「これ、川原でしょうかね。臭いですなあ」
  「オートキャンプ場になってます。今は営業致しておりませんが、車も入れますね」
  「最後の風船が山の端に消えたのが四時四十五分ですが、このスピードから計算すると、川原に到着するのは五時半頃になりますな」
  「吉田さんを襲うとして、時間的にはあまり余裕がありませんね」
  「とにかく現地を調べましょう」
 
  仲根は近藤を自分の車に乗せると、川原に向かう。
  先を急ぐ近藤たちの車を、ゲートの警備員は念入りに検査する。
  「しかたありませんなあ」時間のかかる検査にいらいらする近藤を見て、仲根は言う。「こうするように、厳重に指示を致しましたから」
  やがて中根の車はオートキャンプ場に着く。この施設、オープンは七月と八月の二月だけということで、いまは休業中だ。キャンプ場と思しき広場には雑草が生い茂っている。
  「最近だれかが入った跡はありますねえ」
  仲根の示す先を見ると、ところどころで雑草が踏みしだかれ、轍の跡が付いている。仲根は慎重に車を進め、轍の跡を追う。
  更に進むと、草の少ない、広い場所に出る。ここまで来ると、地面は固く、轍は不明瞭だ。仲根はその片隅に車を停める。
  車を降りた近藤、周囲を見渡して最初に気付いたのは、広い原っぱにはヒメジオンがぽつぽつと立っているが、そのうちのあるものは茎が折れていることだ。
  「ここで、だれかが走りまわったようですな」
  「風船と追いかけっこをしたわけですか」仲根にはそのシーンが見えるようで、思わず笑みを浮かべる。
  「まあ、家族連れがやってきて、子どもが走りまわったって可能性もありますが」
  「人手を集めて、警察も呼んで、この場所は徹底的に捜査しましょう。草の状態を記録したら、この草を刈り払ったほうがいいですね」
  近藤は水溜りに残るタイヤの跡をみつけ、仲根に写真を撮るように頼む。仲根が写真を取っている間、近藤は更にあちこち歩き回り、立ち木の枯れ枝からハンケチで挟んで何かを摘み取る。
  「何かみつかりましたか?」仲根が尋ねる。
  「風船のカケラかもしれません」近藤は小さな黒いビニールシートを仲根に示して言う。「これは、U大の依田先生に見ていただけば、何だかわかるでしょう。さて、ここはのちほど徹底調査をすることにして、道路のほう、少し調べてみましょう」
  近藤の提案に、仲根は車を戻し、道路に出たところで路肩に停める。
  「ありますよ、ブレーキ痕。これは、警察にみてもらったほうがいいな。吉田さんの車と一致するかどうか調べてもらいましょう」
  「あれ、ビニールのようなものがありますね」
  仲根の指すほうを見ると、白いビニール袋が数個、道端の叢の中に捨てられている。
  「口が結わえてあるところをみると使われたようですが、中には何も入っていませんね」
  「工事か何かの残材かもしれませんけど、車を止めるために使われたものかもしれませんね。それに水でも入れて、道路に並べておけば、大抵の運転手はブレーキをかけるでしょう」
  「これも、あとで警察に任せるということでよろしいですね」仲根は、袋の写真を数枚撮ると、そう言って車に戻る。
 
  アイソレーク社の応接室では、警察から解放された柳原がノートパソコンの画面を見ながらコーヒーを飲んでいる。
  「説明、終った?」近藤が尋ねる。「こっちは、風船の回収地点と思しき場所をみつけたよ。近くの道路にはブレーキ痕もあって、吉田さんが襲われたところかもしれない。このあたりの調査は、俺がやるより、警察に任せたほうが良さそうだ。連中の風船のカケラらしいビニールシートをみつけたんで、U大に調査を頼もうかと思っているんだ」
  「私も、ここでできることは完了。警察は、もう少ししたら、吉田さんを指名手配するみたいですよ。吉田さんがみつかるのも、時間の問題じゃないかしら」
  ふたりの会話を聞いて、仲根が言う。
  「こちらの調査は、当分、警察中心に致しますので、そちらの情報が上がってくるまで、近藤さんたちにはお休みいただいて構いません。U大に行かれるのはいいお考えだと思いますよ。湖の底攫いも、まだまだ時間がかかりそうですし」
  「それじゃあ、お言葉に甘えて、ひとっ走り行ってこよう。こちらには、また、明日の午後にでもおうかがい致しますので」
  「U大に行かれるのでしたら、内陸ルートで北へ回られるのが早いですよ」山崎は助言する。
 
  「この左側だよ、風船の回収場所と思われる地点は。ちょっと先には、ブレーキ痕もある。そこが吉田さんが襲われた現場かもしれない」近藤は柳原に説明しながら、車を走らせる。
 
  山崎の紹介した北回りのルートは、山間コースではあるが、道幅も広く、カーブも緩やかで運転しやすい。周囲の山々は、新緑が美しい。
  調子よく飛ばす近藤の携帯電話が鳴る。
  「もしもし、U大の依田ですが」
  「あー、依田先生、今そちらに向かうところです。午後三時にはお邪魔できるんじゃないかと思いますけど」
  「それはそれは、どうぞどうぞ。で、お電話を差し上げましたのは、今、新しい海賊風船の出現が確認されまして」
  「え、新しい海賊風船が? いくつぐらいですか?」
  「まだ続々と増えている状況でして、いくつとはいえませんが、もう、かれこれ三十個ほど現れています」
  柳原も自分の携帯をダイヤルし、浅田助教授を呼び出して、小声で話す。
  「柳原です。モバイル、接続させてください」
  「エー・シー・ケー」
  浅田の言うACKは、通信の世界で使われる略号で、アクノレッジ、承認の意味だ。
  柳原、ノートパソコンを膝の上に広げると、携帯電話と接続し、モニターソフトを立ち上げ、パソコンのマイクに言う。
  「画像でました。えー、地上映像、こちらでもチェックしましょうか?」
  「お願い、さっきからやっているんだけど、全然みつからない。放出点は海上だから、船から飛ばしているはずだよ」
  「扇の要のところですね」
  「もうそこは隈なく探したんだけど、おかしいんだよね。みつからないはずはないと思うんだけど」
  「新規の海賊風船、この赤い点ですよね。広がりかた、直線ではないみたい。えー、放物線かな? もしそうだとすると、放出点は、大分風下のほうですよ」
  「了解。捜索範囲を風下に移します」
  「先生、こっちにもいくつか画像を送ってください」
  「はい、じゃあ、十枚ほど送るね。お願いしまーす」
  柳原のディスプレーに、風船下方カメラからの映像が映し出される。ノートパソコンのディスプレーは画素が荒く、拡大しないと良く見えない。しかし、そうして見ても、船も風船も見当たらない。柳原は次の画像に移る。
  数枚目の画像を表示したところで、柳原は叫ぶ。
  「先生、ありました」
  柳原が画像の番号を伝えると、浅田も同じ画像をU大側で表示させる。
  「ああ、本当だ。柳原さん、ビンゴですね。膨らましている最中の風船も写ってる、決定的瞬間です」
  「えー、この船の現在位置はわかりませんか?」近藤が割り込む。
  「もちろん、わかりますとも」
  近藤は、浅田から聞き出した海賊風船放出船の位置を警察に連絡する。警察では、新たな風船の放出が始まったという報告も受けていないようで、すぐに係員をU大に派遣すると言う。
  近藤は、同じ情報を仲根にも連絡する。
  「近藤さん、U大は後回しで結構ですから、その連中の確保を最優先でお願いできませんか。こちらからも応援を送りますので」
  近藤、そう言われても、海に車を進めるわけにはいかない。
  「この連中、どこかの港に向かいそうかね」
  「今、陸に向かっています。U大よりは相当北側に向かっていますよ」柳原が言う。
  「浅田です。ただいま、警察から電話がありまして、こちらに警察官が来てくださるとのことです。それから、海上保安庁の高速艇が三艘、この船を追跡するということです。船の絶対座標、こちらで計算して、リアルタイムで出るようにしました。あと、依田先生が、この船の前に風船を集めまして、連続して映像が撮れるようにしています」
  「その連中が犯人であることは間違いございませんから、追跡のほう、一つよろしくお願いします」
  近藤はノートパソコンのマイクに向かって叫ぶと、近藤の携帯からは仲根の声が流れる。
  「こちら仲根です。ただいま海上保安庁から連絡がありまして、高速艇を三艘、現場に向かわせたということです。不審船は、岬に近い暗礁の多い地帯を通過中で、これを追う高速艇もスピードを落とさざるを得ないそうですが、二艘の高速艇は沖合いを先回りしており、岬を回ったあたりで挟み撃ちにできるだろうとのことです。海上保安庁と警察の要請を受け、我々も回収班を北に向かわせることに致しました」
  「浅田です。柳原さん、聞いていますか?」
  「聞いていますよ」
  「えー、ここと海上保安庁の追跡チームの間にホットラインを開設しました。音声は転送不可ということで流せないんですけど、座標データが出るようにしました。そちらの設定も、ちょっといじってもらえませんか」
  柳原が設定を調整すると、ノートパソコンのディスプレーには、岬に向かって逃走する船と、これを追う三艘の高速艇が点滅するドットで表示される。
  「浅田先生、この岬のあたりには、港とか、ありませんか?」柳原が尋ねる。
  「ああ、ありますよ。小さな漁港兼ヨットハーバーが。こいつ、そこに向かっているのかもしれませんね」浅田は暢気に応える。
  「それ、警察に言わんと。こちらから連絡致しましょうか?」近藤が割り込んで言う。
  「よろしくお願いします」
  近藤は浅田から聞き出した港の名前を警察に連絡する。
 
  浅田の予想通り、海賊風船を放出した船はヨットハーバーに接岸する。その上を低空で飛行する風船が、船から車に乗り移る男たちの鮮明な映像を送ってくる。
  「浅田さん、この映像、録画されてますか? 重要な証拠になりそうですが」
  「抜かりはありません」浅田は近藤に応えて言う。「依田先生が、風船で車も追えるよう、いま、四苦八苦しているところです。車は小さいので、低空で飛ばさないと識別できないんです。低空は気流が複雑な上に、視野が狭くなります。おまけに、車はスピードが出ると、悪条件が揃っておりまして、かなり難しい作業とのことです」
  近藤の車は、内陸部を北上する道路から右折して、不審船の接岸した港へと続く道路に入る。この道は少々狭く、カーブもきついが、一時間ほどのドライブで港に出られそうだ。
  風船の制御が難しい様子は、ディスプレーにも現れている。低空を飛ぶ風船から送られる映像は鮮明だが、視界が狭く、賊の車は、しょっちゅう視界を外れてしまう。映像は高度の高い風船からの映像と合成されており、低空を飛ぶ風船の視界から外れても、一応は車の行方を追うことができる。しかし、高高度からの映像は不鮮明であり、他の車と交錯すると、目標の区別が付け難くなる。
  「まだ、この車に間違いないと思いますけど、ひょっとして、この道は近藤さんが走っている道に続いているんじゃないですか?」浅田は近藤に尋ねる。
  「そうです。もう二十分もしたらすれ違うコースです。えーと、警察はどうしましたか? 当然、追跡しているんでしょう?」
  「はい、しかし、相当に遅れています。このあたり、山の中ですから、パトカーも配備していないそうで」
  「ちょっと待ってくださいよ」そう言うと、近藤は仲根に電話する。「そちらからの応援、今どのあたりを走ってますでしょうか。こちら、間もなく、犯人たちの乗った車とすれ違います。我々は、犯人をやり過ごしてからUターンして追いかけます。応援のかたに前方の道路を遮断していただければ、我々で取り押さえることもできそうです」
  「応援は三十分遅れで近藤さんと同じコースを進んでいます。しかし、我々に道路遮断や犯人逮捕の権限はありません。最後の詰めは警察に任せましょう。近藤さんは、犯人の行き先を突き止めてください。応援部隊にも、手出しはさせないようにします」
 
  近藤の車は長いトンネルに入る。柳原は心配そうにデイスプレーを見るが、トンネルの中でも電波は届くようで、データは正常に送られてくる。
  「依田ですけど、緊急事態です。犯人の車、もうすぐトンネルに入ります。しばらくの間、追跡が途絶えてしまいます。出口を見張りますけど、他の車も走っていますので、識別が困難になりそうです」
  「あとどのくらいでトンネルですか? こっちも、もう少しでトンネルの出口なんですが」
  「連中がトンネルに入るまで、もう三十秒ほど……二十秒……十、九、八、七……」
  「トンネル出ました。あ、こいつですか?」
  近藤の横を大型のバンがすれ違う。港で船の男たちが乗り込んだ車によく似ている。
  「たった今トンネルに入りました」依田が叫ぶ。「コンタクト、ロストです」
  「犯人の車を確認しました。これから尾行に入ります」
  近藤、犯人の車を少しやり過ごし、もう一台の車とすれ違ったのち、後輪を滑らして、反対側の車線に車を入れる。
  ディスプレーを覗き込んでいた柳原は、急激な遠心力に驚いて顔を上げるが、外の景色がぐるぐる回っているのを見て、目を回す。
  近藤、Uターンこそ派手にしてしまったが、その後はおとなしく、距離を置いて犯人の車を追跡する。
 
  トンネルを出て、ほんの数分間進んだところで、目標の車は右折する。急斜面の狭い道で、かなり草臥れたコンクリート舗装がなされている。
  「犯人右折」近藤が報告する。
  「風船でも右折を確認しました」依田が言う。
  「その道、袋小路ですよ」仲根が言う。「すれ違いができないし、応援部隊も間もなくその道に入りますから、もう、犯人は逃げようがありません」
  近藤は、距離を離して追跡を続ける。やがて、道は大きな別荘の前に続き、そこで行き止まりになっている。
  別荘が見えた瞬間、近藤はバックして、車を別荘から見えない位置まで戻す。
  「君はここで、応援部隊を待っていて」
  そう柳原に指示すると、近藤は双眼鏡を手に、右手の、潅木が茂る斜面を登り出す。
  やがて、ノートパソコンから近藤の声が響く。
  「連中、車を停めて、別荘の中に入っていく。この別荘が連中のアジトに間違いないようだ。柳原さんは、仲根さんと警察に連絡してください」
  「こちら警察の者ですが、U大依田研究室に来ておりまして、お話は聞こえています。パトカーをそちらに向かわせます」
  「パーティーラインにしたんですよ。いいでしょう」これは、浅田の声だ。
  「仲根ですけど、声聞こえてます。当社応援部隊は、間もなく現地に到着します」
  「近藤ですけど、警察のかたに言ってください。パトカーはサイレンを鳴らさないように。海賊共は、まだ我々に気付いていません。他に脱出ルートがあるかもしれませんから、周囲を固めてから一気に攻めるのがいいと思います。私は、応援が来るまで、別荘を監視しております」
  「放射性物質がありますから、下手に踏み込むと危険です。ウチの者は、防護服とカウンタを持っていますので、チームを組んで踏み込むことをお奨めします」これは仲根だ。
 
  「近藤です。別荘に動きがありました。一人、逃げ出そうとしたのがおりまして、他の男たちに捕らえられたようです……柳原君、君、車の運転できたっけ?」
  「ええ、一応。それほど上手じゃないですけど」
  「緊急事態だ。男が四人、車に向かっている。車種は黒のベンツ。えー、車に向かって歩いている男が三人、そいつ等に引きずられているのが一人。そいつらが車を出すと、柳原君のほうに来そうです。悪いけど、車を大至急バックさせて。えー、被害者が一人、車に乗せられた様子。うしろ手に縛られて、口にはガムテープのようなものが貼ってあります。助けたいけど、我々じゃあ無理だ。警察はどうなっているかな」
  「ただいまパトカーは脇道に右折したところです。もう数分で到着します」
  「柳原君、急いでバックさせて。道の途中で出会うと危ない。パトカーのところまで、バックして逃げて、頑張ってください」
  「いま、やってまーす」柳原の叫び声が小さく聞こえる。パソコンのマイクから離れたところで叫んでいるに違いない。
 
  柳原は、窓から顔を出して、必死にバックを続ける。
  道は、かなりの下り坂で左に急なカーブとなる。
  「あちゃ」柳原がそう洩らしたのは、車のうしろを藪に突っ込んだからだ。
  柳原はギアを前進に入れかえると、ゆっくりと車を前に進め、道の真中まで車を戻す。
  そのとき、前方にベンツが現れ、フォーンを鳴らす。ベンツの運転手は窓から顔を出して柳原に大声で言う。
  「おい、この道は行き止まりだよ。この先は私有地。入っちゃだめだよ、バックして。バック、バック」
  「すみませーん」柳原はそう言うと、再びバックを始める。
  柳原の、のろのろとしたバックに、ベンツの男たちは相当にいらついているようだ。路肩が多少広がったところに来ると、男たちは柳原に、車を路肩に入れるように手で合図をし、柳原がそれに従うと、その横を高速で通りぬける。
  「へたくそ」との捨て台詞が走り去る車から聞こえ、柳原は一瞬カチンとくるが、すぐに気を取り直し、近藤を迎えるために、再び車を前に進める。
  「先ほどの車、やり過ごしました。私は近藤さんのほうに向かいます」
  「こちらU大におります警察の者ですけど、ただいまの車、確保するように、パトカーに指示を出しました。この一本道に、多数の警察車輛が入っていますので、うしろのほうへは逃げられません。おそらく、一味は柳原さんの車のほうへ向かうものと思われます。柳原さんは、危険ですから、適当なところに車を置かれて、藪の中へでも避難していただけませんか」
  「柳原、了解です。元の場所に戻りました。これから、近藤さんの行ったほうに避難します」
  柳原が、近藤の消えていった藪の中に一歩入ると、すぐ先に近藤が手招きして立っている。近藤を探し出す自信のなかった柳原は、ほっと一安心して、近藤に近付く。
  そのとき、柳原が車を停めたあたりでドンという大きな鈍い音が聞こえる。近藤は恐る恐る、藪の入り口に近づき、道路の様子を探る。
  「あちゃー、やってくれたよ」
  近藤は小声で柳原に言う。近藤の車は、バックしてきたベンツにうしろから衝突され、トランクの蓋が変形している。ベンツのフロント側にはパトカーが接近して停まり、何人もの警官が走り寄ってベンツを取り囲む。
  少しの時間、警官とベンツの乗員との間でやりとりがあるが、すぐにベンツの乗員は両手を頭のうしろに組んで車を降りる。警官たちは彼等に手錠をかけ、後方に連行していく。
  別の警官たちは、ベンツの後部座席から、捕らえられていた男を救い出す。男を縛っていたロープは解かれ、口のガムテープが剥される。
  「吉田じゃないか」
  パトカーの後方から声が聞こえる。近藤がそちらを覗くと、山崎が立っている。
  山崎に警官が尋ねる。
  「この男をご存知で?」
  「ウチの社員、吉田です」
  「大丈夫ですか?」
  健康状態を確認しようとする警官の質問にも、吉田は顔を引きつらせて無言だ。吉田を被害者とみなす警官たちをみかねて、山崎は、手近の警官に小声で助言する。
  「吉田には、アイソトラック社からラジオアイソトープを盗み出した疑いがかけられています」
  「署までご同行願えますか?」
  警官の依頼に、吉田はなにも応えない。しかし、肩を押す警官に抵抗もせずに、警官に従って、後方に消えていく。
  やがて周囲には警官たちが大勢押しかけ、様々な作業を始める。
  数人の警官は、別荘を見張るため、近藤の案内で茂みに消える。
  道路の車輛は、警官たちの手で、次々と後方に移動する。衝突したベンツと近藤の車も、警官の運転で後方に運ばれる。ほとんど無傷のベンツに比べ、近藤の車は、かなりひどい破損状況にみえるが、なんとか自力で走れるようだ。
  路肩の少し広がった場所に、折畳式のアルミのテーブルが用意され、地図が広げられる。
  「車の通れる道路はこれ一本ですが、歩行可能な山道は三方に続いています」
  「茂みの中も通れますよ」別荘の監視を警官に任せた近藤は、スーツのあちこちに付いた枯葉や蜘蛛の巣を払いながら言う。
  「まずは、周囲を固めます」リーダー格の警官が言う。「そのあとの作戦は単純です。一斉に出て、あの屋敷の出入り口を押さえる。そうしておいて、どこかの入口を突破すれば、一網打尽です。突入は、もう少し人数が揃ったところで致しますので、少々お待ちください。アイソトラックのかたも、ご協力願えますね。危険物があるようですんで」
  「もちろんですとも」山崎は力強く応える。「放射性物質の取り扱いは、我々にお任せください」
  近藤たちの横には、ねずみ色をした大型の装甲車が何台も到着する。山崎を始めとするアイソトラック回収班の人たちも、機材を抱えて、バスのような装甲車に乗り込む。
  あたりには緊張した空気が漂い、誰の顔も引きつり、無口で動き回る。
  無線機からは、ひっきりなしに割れた声が流れ、別荘周囲を警察官が着々と固めている状況が報告される。
  別荘を見張っている警官たちからは、その後、別送に動きが見られないことが報告される。
  リーダー格の警官は、先ほどから無線電話で話し込んでいたが、通話を終えて、装甲車の列に小走りで向かうと、一回り小さな装甲車に乗り込む。
  近藤と柳原は、車道から排除され、道路脇の藪の中に避難させられる。
  やがて、張り詰めた緊張の中、装甲車の車列が動き出す。
 
  「それで結局どうなったんですか?」エミちゃんは、コンドーの応接室で煙草を吸う近藤に、コーヒーをサービスしながら聞く。
  「もちろん、海賊どもは、全員検挙だ」近藤は得意そうに煙を吐き出す。「あ、それ、請求書ね。判子押しますけど、随分あるね」
  「柳原さんから、いっぱい出てきましたんで」
  「彼女、こんなに仕事していたのか」
  「それで、結局だれだったんですか? 犯人」
  「まだ、吉田は否認しているそうだけど、保管庫の鍵を開けたのは吉田に間違いない。その他の連中は、全部白状したんだが、アイソトラック内部の共犯者が吉田だと、断言できるものはいないようだ。こいつら、匿名アカウントで連絡を取り合っていたんで、お互いの正体を知らなかったそうだ。だから、吉田の自白が得られるまでは、事件は解決したとは言えない。ま、時間の問題だろうけどね」
  「まあ」
  「トリウムを持ち出したり、風船に付けて飛ばしたのは海賊風船の組織の人間で、本来はアイソレークには入れないはずなんだが、吉田が計算機を操作して、自由に出入りできるようにしていたんだな。偽の入構許可書はゲートのところでみつかった。吉田は、頭脳労働者であって、肉体労働はしない、なんてメイルに書いているけど、実際、あいつのやったことは、計算機のキーボードを叩いただけだ」
  「吉田さんは、どうして逃げたりしたんでしょう。そういう人って、きっと、ばれるはずはないと、確信してたんじゃないかしら」
  「あいつは、失踪するつもりなんか、全然なかったんだが、風船を回収しにきた海賊組織の連中に無理やり連れていかれたんだ。海賊風船の連中、吉田に海賊風船を回収しているところを目撃されたんでさらったんだと。吉田が共犯者だとは知らずにね。しかし、吉田がトリウム窃盗の重要参考人ってことで全国指名手配になって、海賊どもも、自分たちの失敗に気付いたんだね。縄を解いて、大いに謝ったそうだ」
  「でも、どうして? 吉田さんは、最後も縛らてましたよね」
  「彼は、縄を解かれたところで、逃げ出そうとしたそうだ。警察に行くとか啖呵をきってね。仲間に縛られたりして、よほど頭に血が上ったんだろうね。その挙句、喧嘩になっちまって、犯人たちに危うく消されるところだったと。自分じゃ賢いつもりだろうけど、あいつは大馬鹿だ」
  「まあ。おかしな話ですねえ。で、石井さんと山田さんはどうしたんですか?」
  「あの朝消えたものは、白金が一キロほど。坩堝やら、蒸発皿やらに加工したもので、被害総額、数百万円ってとこだそうだ。但し、貴金属回収業者に売る場合は、二百万円にもならないと言ってたね」
  「なんか、職を棒に振ってまでするにしては、小さな犯罪ですね」
  「よく調べたら、以前からやっていたらしいんだ。最初は軽い気持ちでボールペンかなんかを持ち出しているうちに、だんだんと気が大きくなって、金額の張るものを盗むようになった、ってとこだね。トリウムの盗難がなければ、彼等もまだ当分、社品持ち出しを続けられたんだろうけど、運が悪かったね。それから、こういう事をしていたのは他にも大勢いたようで、ノートパソコンなんかも、随分と消え失せているらしい。それで、アイソトラックの管理体制も、随分とザルだったということがわかってしまって、ウチに監査の仕事をくれるってさ。柳原君が担当を志願したよ。ま、食い物に釣られたんじゃないかと思うけど、彼女が一番暇そうだから、お任せするに吝かではございませんな」
  「それはおめでとうございます。で、石井さんたちも捕まったんですか?」
  「いや、ふたりとも行方不明だ。この程度の窃盗事件では、警察も、そうそう動いちゃくれないから、きっと逃げおおせるんじゃないだろうかね」
  「山崎さんは、結局、なにもしていなかったんですね」
  「そう、真っ白。そもそも、十一日の夜にはアリバイがあった」
  「疑われたりして、かわいそうでしたね」
  「悪かったね。しかし、あの男もどじな奴だ。セキュリティの責任者なんだから、自分の計算機のセキュリティにも、もっと、配慮すべきだったね。疑われたのも、自業自得って部分もある。もっとも、本人は疑われたことにも気付いていていないようだけどね」
  「そういえば、十一日の夜にシステムをみていたのは、中島さん、ってかたですよね。あの人はどうなったんですか?」
  「別に? どうもなっていないけど?」
  「山崎さんにはアリバイがあったけど、中島さんは、その時、正に、セキュリティルームの計算機の前に、たった一人でいたんですよね。寝てたとか言ってたけど、本当かどうか、誰にもわかりはしないわ。中島さんだったら、ロック解除もできたはずでしょう」
  「そうだねえ。バックアップテープにも細工できたねえ」
  「ひょっとすると、バックアップテープにコピーされていたなんて、中島さんは気付いていなかったのかも。だって、バックアップって、自動で、勝手にやるじゃないですか。それで、バックアップテープをディスクにリストアするように頼まれた段階で、これはしまったって、バックアップされたロック解除のプログラムを、自分のディレクトリから、吉田さんのディレクトリに移動したのかもしれないわ。リストアしたディスクの中でね」
  「んんっ! そういえばあいつ、風邪をひいたとか、なんとか言って。それに、山崎氏にリストアを頼んだ時も、何か言ってたな」そう呟いた近藤、しばし考え込むと、おもむろに電話に向かう。「えーっと、仲根さんの番号はっと」
  エミちゃんは、アイソトラック社の電話番号を近藤に教え、ついでに尋ねる。
  「柳原さん、叩き起こしますか?」
  「うん、お願い」近藤はダイヤルしながら応える。
  「ああ、仲根さんですか。近藤ですけど、セキュリティの中島さん、今日はどういう勤務でしょうか? 日勤? それは好都合です。これからそちらにうかがいますんで、今回の事件の関係者をセキュリティルームに集めておいていただけませんでしょうか。はあ、そりゃあ、失踪しちまったもんはしょうがありませんなあ。山崎さん、中島さん、小林さん、その位ですか。寂しいですなあ。ひとつ、私の推理をご披露したいと考えておりまして、できましたら、警察のかたも。はあ、申し訳ありませんが、宜しくお願いします」
  「天婦羅蕎麦で手を打つそうです」エミちゃんは柳原の言葉を近藤に伝える。「今すぐでも出発できる、って」
  「二時過ぎに、おうかがいしますんで」
  そう言って電話を切った近藤に、エミちゃんが受話器を差し出す。
  「柳原さん、電話、代わって欲しいそうです」
  「海老天じゃあ不足か? 難しい注文は嫌だねえ」近藤はそう言いながら、エミちゃんから受話器を受け取る。
  「中島さん、でしょう。ロックを解除したの」受話器の向うで、柳原が眠そうな声で言う。
  「あれ、君にもわかっちゃったの? どうして?」
  「えへへ。そっちの声、聞こえましたからね。でも、私も、もっと早くに気付くべきでした。吉田って先入観があったの、まずかったですね」
  「中島が犯人だなんて、何かヒントがあったっけ?」
  「システムコンソールのログ、中島さんが送ってくれたやつと、十一日夜のバックアップが微妙に違ってたって言いましたよね。そういうことって、普通、起こらないんですよ」
  「えっ? どうして?」
  「システムをクラックした人間が、自分の痕跡を消すには、ログファイルの中のクラッキングに関係するレコードを削除しますよね。バックアップのレコードと、ログファイルが一致しないってことで、ログファイルをいじっている途中でバックアップされた、って考えたんですよ。でも、そうだとすると、バックアップファイルには、ログファイルにあるすべてのレコードと、バックアップされたあとでログファイルから消されたレコードが含まれているはずです。しかし実際は、バックアップファイルには存在しないのに、ログファイルには存在するレコードがあったんですよ。もちろん、バックアップが行われるより前のレコードで、ですよ。そんなことが起こり得るのは、ログファイルからのレコード削除と、バックアップファイルからのレコード削除とを、あとで、別々にやった場合だけです。これができるのは、セキュリティルームに保管されていたバックアップテープに触ることができた人間、つまりセキュリティ関係者に限定されます。そう、あのとき、ケーブル上の全てのパケットをモニターしていましたから、盗んだ管理者パスワードを使って、他の人が、リストアしたログファイルを書き替えた可能性もないんですねえ。で、ロック解除もできたセキュリティ関係者となると、十一日の夜十時にコンソールをいじることができた中島さんしか、犯人ではあり得ません。多分、私達がバックアップテープをリストアしてもらったとき、大慌てで、リストアしたログファイルから、みられてはまずいレコードを削除したんでしょうね」

 
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